ト その他

常見は居たい、断見は行きたい、正見は消滅したい

 比丘のみなさん。二種類の見解に包まれたすべての天人と人間の中の、ある人たちはそこに沈んでいて、ある人たちは突っ走り、目のある人たちは当然(真実のままに)見ます。

 比丘のみなさん。そこに沈んでいる天人と人間はどのようでしょうか。比丘のみなさん。喜びの原因である有がある人たちは、有を喜び、有に夢中になり、その天人と人間に、有の消滅のためのダンマを説く人がいると、彼らの心は走って行かず、帰依せず、傾きません。比丘のみなさん。こういうのを「其処に沈んでいる人たち」と言います。

 比丘のみなさん。突っ走る人である天人と人間はどのようでしょうか。有に悶々とし、嫌気を感じ、嫌悪し、「発展したみなさん、この自我は体が消滅して死んだ後、当然無になり、当然破滅し、死後は存在しないと聞きました。それが鎮まった状態、緻密な状態、確実に確定した状態です」と考えて、有がない状態にうっとりします。比丘のみなさん。こういうのを突っ走る人たちと言います。

 比丘のみなさん。当然真実のままに見る目のある人たちはどのようでしょうか。この場合の比丘は、生じている今あるダンマを、当然生じたダンマ今あるダンマと見、そして生じたダンマに倦怠し、欲情が緩み、消滅させるために実践をする人です。比丘のみなさん。こういうのを、当然(真実のままに)見る目がある人たちと言います。

小部イティウッタカ 25巻263頁227項

 (このブッダヴァチャナは、このような三つの理解、つまり一つはそこに沈んでいる常見の人たち、突っ走る断見の人たち、そして真実のままに見る正しい見解の人たちがいて、同じ原因でもこのように違うという理解を生じさせます)。




富める人もダンマを持つことができる(心主義と物質主義は同居できる)

 比丘のみなさん。十種類の発展で発展している聖人である弟子は、当然聖人の発展で発展していて、そして真髄と身体(物質)面の素晴らしさを掴むと言われます。十種類はどのようでしょうか。十種類とは、

 当然田と果樹園で発展し、

 当然財産と籾米(備蓄米)で発展し、

 当然子と妻で発展し、

 当然丈夫な奴隷と労働者で発展し、

 当然四足の家畜で発展し、 

 当然信仰で発展し、

 当然戒で発展し、

 当然スタ(知識を学ぶこと)で発展し、

 当然チャーガ(施捨をすること)で発展し、

 当然智慧で発展します。

 比丘のみなさん。このような十種類の発展で発展している聖なる弟子は、当然聖人の発展で発展し、そして本質と身体(物質)面の素晴らしさも掴むと言われます。

経末のガーター(詩)

  当然財産で発展し、籾米で発展し、妻子で発展し、

  そして四足の動物で発展するこの世界の人は誰でも、

  その人は当然運と名誉がある人で、

  親戚、友人、国王にさえ尊敬される


  両面の発展である信仰、戒、智慧、施捨、

  知識を学ぶことで発展するこの世界の人は誰でも、

  その人は正直者で明らかに見る智慧があり

  当然現世で、このように二面の発展をする。

増支部ダサカニバータ 24巻146頁74項

 (このブッダヴァチャナは、人は世界の面とダンマの面の両方で発展することができると説いて見せています。両面にバターを塗ったパン(二兎追う者は一兎をも得ずと同じ)と揶揄されるべきではありません。それは一方の生活しか知らない人の誤解です。

 その結果「金持ちになれば必ず不正をし、ダンマを維持できない。ダンマがあれば金持ちにはなれない」と言われます。このパーリ(ブッダの言葉である経)は、初めの五種類の発展は世俗的、物質的発展であり、後の五種類は聖果に達すまで高まって行く道のあるダンマの面、心の面、精神面の発展であると説かれています)。





苦を凡夫の利益に使うべき

 比丘のみなさん。何の利益に依存して、女性、男性、長者、あるいは出家は「私は当たり前に老いがある。老いを越えることはできない」と、このように熟慮して明らかに見るべきでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての動物にある若さへの陶酔は、不正な体、不正な言葉、不正な心の原因であり、彼が常にこの項目を明らかに見ていれば、当然その人は若さへの陶酔をすべて捨て、あるいは減らすことができます。この利益に依存して、女性、男性、長者、あるいは出家は「私は当たり前に老いがある。老いを越えることはできない」と、このように熟慮して明らかに見るべきです。

 (病気がないことへの陶酔、命への陶酔、愛する物に欲貪があること、自分の物であるカンマがあることを知らないで、三つの門で不正をすることについても、同じ教えで話されています。これは、苦を熟慮して凡夫の利益にできるということです。一方聖なる弟子がこのように熟慮すれば、当然マッガ=道が生じ、その道に励めば当然サンヨージャナ(結)を捨てることができ、随眠も無くなります)。

増支部パンチャカニバータ 22巻82頁57項





自我があるなら、心より体の方が良いと言われた

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫も、四大種の集合物である体に倦怠することや、欲情が緩むこと、手放すことはあります。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは、四大種が集合した物である体の発生も崩壊も、占領されることも、残骸の放棄も当然現れているからです。だから聞いたことがない凡夫も倦怠したり、欲情が緩んだり、その体を手放すことがあります。

 比丘のみなさん。一方の「心」「意」「識」などと呼ばれる物は、聞いたことがない凡夫が倦怠し、欲情が緩んで心を手放すことはできません。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それは心などと呼ばれる物は、聞いたことがない凡夫は欲望に覆われ、非常に永い時間「それは私の物。それは私。それは私の本質」というディッティ(見解。邪見)で執着して来たからです。だから聞いたことがない凡夫は、心などと呼ぶものに倦怠し、欲情が緩んで手放すことはできません。

 比丘のみなさん。聞いたことない凡夫は、四大種の集合物である体を自分と捉える方が良いです。心を自分と捉えるのは非常に悪いです。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それは、四大種の集合物である体は、一年、二年、三年、四年、五年、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年、百年以上維持していることもあり、比丘のみなさん。心とか意とか識と呼ばれる物は、一日一晩に幾つも生じて消滅しています。

 比丘のみなさん。サルが大きな森へ遊びに行くと、当然木の枝を掴み、木の枝を放し、他の枝を掴み、掴んでいた枝を放し、他の枝を引っ張り、休まずこのようにしているように、比丘のみなさん。心と呼ぶ物、意と呼ぶ物、識と呼ぶ物も、一日一晩で、何回も生滅を繰り返しています。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻114頁230項

 (自分があるなら、選び方としては、体を自分とする方が心を自分とするより正しい見解と熟慮して知ることは、体が本当の自分だという意味では決してありません。区別して選ぶレベルの正しい見解だけです)。




誰の物でもない体を知る

 比丘のみなさん。この体はみなさんの物ではなく、そして他の誰の物でもありません。比丘のみなさん。この古いカンマ(体)を、縁が作り上げた物、縁が感覚を生じさせた物、感情を感じることができる物と見るべきです。

 比丘のみなさん。その体の場合、聞いたことがある聖人である弟子は、当然「このような状態で、これがあるからこれがある。これが生じたからこれが生じた。これがなければこれがない。これの消滅によってこれが消滅する。これはつまり無明が縁ですべての行が生じ、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、

名形が縁で処入が生じ、処入が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲が生じ、欲が縁で取が生じ、取が縁で有(または界)が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じる。苦の山が一斉に生れるのは、当然このような状態である。

 無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで処入が消滅し、処入が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、

欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って消滅する。この苦の山の消滅は当然このような状態である」とこのように心の中を縁起で絶妙にしておきます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻77頁143項





無常を測る例え

 比丘のみなさん。すべての行は無常です。比丘のみなさん。すべての行は永遠ではありません。比丘のみなさん。すべての行は当てにできない物です。比丘のみなさん。これだけですべての行に倦怠し、欲情が緩み、(すべての行を)手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長さ八万四千ヨージャナ(1ヨージャナは16キロ米。つまり134万4千キロ米)、広さ八万四千ヨージャナ、海底の深さ八万四千ヨージャナ、海抜八万四千ヨージャナのシネル(須彌)山は、比丘のみなさん。何年、何百年、何千年、何十万年も雨が降らない時代があり、(これだけ)雨が降らなければ、すべての薬木や薬草は当然萎れ、干乾び、生きていられません。

 同じように比丘のみなさん。すべての行は永遠ではなく、すべての行は何も当てにできない物です。比丘のみなさん。これだけですべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い時間が経過すると、当然二番目の太陽が現れる時代があります。二番目の太陽が現れれば、小さな川、沼、池のすべては枯渇して無くなるように、比丘のみなさん。すべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は何も当てにできない物です。比丘のみなさん。これだけですべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い歳月が経過すると、時に当然三番目の太陽が現れる時代があります。三番目の太陽が現れれば、ガンガ(ガンジス川)、ヤムナー川、アジラヴァディー川、サラブー川、マヒー川、すべての川は枯渇して無くなります。

 同じように比丘のみなさん。すべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は何も期待できない物です。比丘のみなさん。これだけで、すべての行に倦怠するのに、欲情が緩むのに、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い歳月が経過すると、時には当然四番目の太陽が現れる時代があります。四番目の太陽が現れれば、ガンガ、ヤムナー川、アジラヴァディー川、サラブー川、マヒー川などの源流であるすべての大きな池と、すべての大きな湖は枯渇して消滅します。

 同じように比丘のみなさん。すべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は当てにならない物です。比丘のみなさん。これだけで、すべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い歳月が経過すると、時には当然五番目の太陽が現れる時代があります。五番目の太陽が現れれば、百ヨージャナの深さの大洋の水も、二、三、四、五、六、七ヨージャナの深さの大洋の水も枯渇して、残りはヤシの木の七倍のもあり、ヤシの木のたった六、五、四、三、二倍のもあり、人の背丈の七倍のもあり、

人の背丈のたった六倍、五倍、四倍、三倍、二倍のもあり、腰までしかないのもあり、膝までしかないのもあり、足首までしかないのもあり、秋節の頃大粒の雨が降り始める時は、牛の足跡にしか水がないように、残りは牛の足跡の深さしかないのもあります。

 比丘のみなさん。五番目の太陽が現れることで、大海の水が一オンクリー(長さの単位。中指の先の一関節分)もなくなります。比丘のみなさん。同じようにすべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は当てにできない物です。比丘のみなさん。これだけで、すべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い歳月が経過すると、時には当然六番目の太陽が現れる時代があります。六番目の太陽が現れるので、この大地と高峰シネル山も、陶工が火を興して煙を立ちこめさせた窯のように、もうもうと煙が立ちます。

 比丘のみなさん。同じようにすべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は当てにできない物です。比丘のみなさん。これだけですべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。長い歳月が経過すると、時には当然七番目の太陽が現れる時代があります。七番目の太陽が現れると、この大地と高峰シネル山に火が点き、炎を上げて赤々と燃え上がります。この大地と高峰シネル山がこのように燃えて焼かれれば、風で炎が梵天界まで煽ります。

 比丘のみなさん。高峰シネル山がこのように燃えて焼かれ、火の塊に覆われて破滅すれば、百ヨージャナ、二百、三百、四百、五百ヨージャナの高さのすべての山頂は崩落します。

 比丘のみなさん。この大地と高峰シネルが燃えれば、バターや油が燃えている時は灰や煤が現れないように、灰と煤は現れません。比丘のみなさん。だから(同じように)、すべての行は不変でなく、すべての行は永遠でなく、すべての行は何も期待できないものです。比丘のみなさん。これだけですべての行に倦怠し、欲情が緩み、手放すのに十分です。

 比丘のみなさん。この内容で、大地と高峰シネル山が燃え、崩壊し、消滅すると、誰が考え、誰が信じるでしょうか。意味が分かる人以外に。

増支部サッタカニバータ 23巻102頁63項





「サンガへの布施がいい」と選ぶことを知る

 「猊下。我が家は定期的に布施をしていますが、猊下、その布施は阿羅漢である方、あるいは森で阿羅漢向の実践をなさっている方、勤めとして托鉢をし、糞掃衣を守っている比丘の方々だけにしています」。

 長者さん。まだ情欲を味わっていて、子供と押し合って寝、香料やカーシー産の布を使い、花を挿し香や塗る物を使い、金銀を喜んでいる在家にとって、どの人たちが阿羅漢か、あるいは阿羅漢向の実践をしている人か知るのは難しいです。

 長者さん。勤めとして森に住む比丘でも散漫で高慢で、発言を翻し、饒舌で言うことが信頼できない人、サティを忘れ、自覚がなく、サマーディがなく、心が間違った方へ回転し、根が放置されている人なら、そのような状況によってその比丘は非難されるべきです。

 長者さん。勤めとして森に住む比丘でも散漫でなく、高慢でなく、気が変わりやすくなく、饒舌でなく、発言が信頼できる人で、安定したサティがあり、自覚があり、サマーディがあり、専心した心があり、根に集中している人なら、そのような状況によってその比丘は称賛されるべきです。

 長者さん。町の近くに住む比丘でも、勤めとして托鉢をしても、招待を受けて食べても、勤めとして糞掃衣を持しても、長者チーヴァラをまとっていても、散漫でなく、高慢でなく、気が変わりやすくなく、饒舌でなく、発言は信頼できる人で、安定したサティがあり自覚があり、サマーディがあり専心した心があり、根に集中している人なら、そのような状況によってその比丘は称賛されるべきです。

 さて長者さん。あなたはサンガ(四人以上の僧団)に布施をなさい。あなたがサンガに布施をすれば心が帰依します。あなたに帰依した心があれば、体が消滅して死んだ後、善趣、天国に至ります。

 「猊下。今日から私はサンガに布施をします」。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻436頁330項

 (このすべての文章は、サンガに献じるという決意で献じるよう忠告しています。つまりサンガダーナであり、町の僧、森の僧、托鉢僧、招かれて食事する僧、黒いチーヴァラの僧、黄色いチーヴァラの僧に献じると考えてはいけないこと、そしてどの僧が阿羅漢でどの僧が阿羅漢でないか、在家が判断することはできないので、心の中を「サンガに献じる」とするサンガダーナにする方が良いとアドバイスされています)。





無明がサンカーラを生滅させる状況

 比丘のみなさん。体(無明で義務を行う身門)があれば、カーヤサンチェッタナー(体になる意思)が原因で内面の幸福と苦が生じ、比丘のみなさん。無明で義務を行う言葉の門があれば、言葉になる意思が原因で内面の幸福と苦が生じ、比丘のみなさん。無明で義務を行う意門があれば、心になる意思が原因で内面の幸福と苦が生じます。

 比丘のみなさん。更に縁である無明があれば、人は当然自分で自分に、内面である幸福と苦を生じさせる縁であるカーヤサンカーラ(身行)を作ることもあり、あるいは別の縁が内面の幸福と苦を生じさせる身行を作ることもあり、人がそれ(徳と罪、善と悪について)を良く認識しているので、

当然内面の幸福と苦を生じさせる身行を自分で作ることもあり、その(徳と罪、善と悪)の認識がないので、当然内面の幸福と苦を生じさせる身行を自分で作ることもあります。

 比丘のみなさん。無明が縁としてあるので、人は当然自分で自分に内面の幸福と苦を生じさせる縁であるヴァチーサンカーラ(口行)を作ることもあり、別の縁が内面の幸福と苦を生じさせる口行を作ることもあり、人がそれ(徳と罪、善と悪について)を認識しているので、当然内面の幸福と苦を生じさせる口業を自分で作ることもあり、その(徳と罪、善と悪について)認識がないので、当然内面の幸福と苦を生じさせる口業を自分で作ることもあります。

 比丘のみなさん。無明が縁としてあるので、人は当然自分で自分に、内部の幸福と苦を生じさせる縁であるマノーサンカーラ(意行)を作ることもあり、別の縁が内面の幸福と苦を生じさせる意行を作ることもあり、

人がそれ(徳と罪、善と悪について)を認識しているので、当然内面の幸福と苦を生じさせる意行を自分で作ることもあり、その(徳と罪、善と悪について)認識がないので、当然内面の幸福と苦を生じさせる意行を自分で作ることもあります。

 比丘のみなさん。無明が、これらすべてのダンマ(つまり身行が四つ、口行が四つ、意行が四つで全部で十二)に介入している真犯人です。

 比丘のみなさん。無明が薄れて残らず消滅することで、無明で義務を行う身門も、内面の幸福と苦を生じさせる身行を作らせる縁としてなく、無明で義務を行う言門も、内面の幸福と苦を生じさせる口行を作らせる縁としてなく、無明で義務を行う意門も、内面の幸福と苦を生じさせる意行を作らせる縁としてなく、

場所(成長するための田んぼのようなカンマ)も内面の幸福と苦を生じさせる縁としてなく、物(成長する植物)も内面の幸福と苦を生じさせる縁としてなく、六処(発芽させる関わり)も、内面の幸福と苦を生じさせる縁としてなく、問題(発芽させるカンマ)も、内面の幸福と苦を生じさせる縁としてありません。

増支部チャッタカニバータ 21巻213頁171項





カンマに関して正しく理解すべき詳細

 比丘のみなさん。カンマは人が知るべき物で、カンマが生じる原因は人が知るべき物で、カンマの違いは人が知るべき物で、カンマの報いは人が知るべき物で、カンマの滅は人が知るべき物で、カンマの滅に至る実践項目は人が知るべき物です。このような言葉を、私は何に依存して言うのでしょうか。

 比丘のみなさん。意図は人が意図すれば、当然身業・口業・意業を作るカンマだからと言います。

 比丘のみなさん。すべてのカンマが発生する原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべてのカンマの発生の原因は触です。

 比丘のみなさん。すべてのカンマの違いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。動物に地獄を味わわせるカンマもあり、動物に蓄生の生まれの受を味わわせるカンマもあり、動物に餓鬼の境域の受を味わわせるカンマもあり、動物に人間界を味わわせるカンマもあり、動物に天人界を味わわせるカンマもあります。比丘のみなさん。私はこれを、すべてのカンマの違いと言います。

 比丘のみなさん。すべてのカンマの報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべてのカンマの報いは三種類あると言います。つまり現生の報い(つまり即刻)、その後の報い、ずっと後の報いです。比丘のみなさん。私はこれを、すべてのカンマの報いと言います。

 比丘のみなさん。カンマの滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。カンマの消滅は、当然触(註1)の消滅によってあります。

 八正道がカンマの滅に至る実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。聖なる弟子がカンマをこのように明らかに知り、カンマが生じる原因をこのように明らかに知り、カンマの違いをこのように明らかに知り、カンマの報いをこのように明らかに知り、カンマの滅をこのように明らかに知り、カンマの滅に至る実践項目をこのように明らかに知れば、その聖なる弟子は、当然この梵行は煩悩を突き刺す物であり、カンマが消滅した物と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。「カンマは人が知るべき物、カンマが生じる原因は人が知るべき物、カンマの違いは人が知るべき物、カンマの報いは人が知るべき物、カンマの滅は人が知るべき物、カンマの滅に至る実践項目は人が知るべき物です」とこのように私が述べるのは、これらの項目に依存して言います。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻458頁334項

註1:学習者は「カンマの発生源は触であり、カンマの消滅する所は触」と言われている、ここで最も重要な要旨を観察して見なければなりません。それはこの体の中で生滅を繰り返しているということです。

 だからカンマの報いは、即刻の物も、しばらく後の物も、ずっと後の物も、この体の中に繰り返しあります。三つの時限のうち後の二つは死んで棺に入った後にあると理解されがちですが、この問題の正解はどのようか、自分で熟慮判断してください)。

 (カンマの知識は正しい見解の状態があるので、ここに挿入しました)。





自然に反した見方をすれば、聖果を明らかにできない 

 比丘のみなさん。その比丘がどんな行も恒常の物と見ていれば、順にニャーナ(知ること。智)を生じさせる人になることはあり得ません。

 順にニャーナを生じさせるにふさわしくない人が、正しい決定に至ることはありません。正しい決定に至らなければ、預流果、あるいは一来果、不還果、阿羅漢果を明らかにする行動はあり得ません。


(反対の意味)

 比丘のみなさん。その比丘がすべての行を無常と見れば、順にニャーナ(智)を生じさせる人になるのはあり得ることです。

 順にニャーナを生じさせるにふさわしい人が、正しい規定に至ることはあります。正しい決定に至れば、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を明らかにする行動、それはあり得ます。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻490頁369項


 (行を幸福・苦と見、自我・無我のダンマと見る場合、次の経で言われている要旨があります。

 行を恒常の物と見、幸福であると見、自我のダンマと見ることを「自然と違って見る」と言い、反対の見方を「自然に基づいて正しく見る」と言います。

 順に生じるニャーナにふさわしいことは四聖諦を真実のままに見ることにもふさわしく、正しい決定とは、聖果への到達があるサンマッタの十項目に照らして正しいことです)。


 


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