人間の探求を知る
1.素晴らしくない探求
比丘のみなさん。素晴らしくない探求はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合のある人たちは、自分に当たり前に生があるのに、まだ当たり前に生がある物を求め、自分に当たり前に老いがあるのに、まだ当たり前に老いがある物を求め、自分に当たり前に病気があるのに、まだ当たり前に病気のある物を求め、
自分に当たり前に死があるのに、まだ当り前に死がある物を求め、自分に当たり前に悲しみがあるのに、まだ当たり前に悲しみがある物を求め、自分の四方に当たり前に憂鬱があるのに、まだ当たり前に四方に憂鬱のある物を求めます。
比丘のみなさん。何を当たり前に老いがある物と言うべきでしょうか。妻、夫、下男、下女、羊、山羊、鶏、豚、象、牛馬、ロバ、金銀は当たり前に老いがあると言うべきです。それらの当り前に老いがある物は重い物です。この世界の人はその重い物に揃って夢中になり、揃って陶酔し、揃って平れ伏しているので、自分に当たり前に老いがあるようにしながら、まだ当たり前に老いがあるものを求めています。
比丘のみなさん。何を、当たり前に病気がある物と言うべきでしょうか。妻、夫、下男、下女、羊、山羊、鶏、豚、象、牛馬、金銀は当たり前に病気があると言うべきです。それらの当り前に病気がある物は重い物です。この世界の人は、その重い物に揃って熱中し、揃って陶酔し、揃って平伏しているので、自分に当たり前に病気があるようにしながら、まだ当たり前に病気がある物を求めています。
比丘のみなさん。当たり前に死がある物は何と言うべきでしょうか。妻、夫、下男、下女、羊、山羊、鶏、豚、象、牛馬、金銀を当たり前に死があると言うべきです。それらの当り前に死がある物は重い物です。この世界の人はその重い物に揃って熱中し、揃って陶酔し、揃って平伏しているので、自分に当たり前に死があるようにしながら、まだ当たり前に死がある物を求めています。
比丘のみなさん。悲しみがあるのが当たり前の物は何と言うべきでしょうか。妻、夫、下男、下女、羊、山羊、鶏、豚、象、牛馬、金銀を当たり前に悲しみがあると言うべきです。それらの当り前に悲しみがある物は重い物です。この世界の人はその重いものに揃って夢中になり、揃って陶酔し、揃って平伏しているので、自分を当たり前に悲しみがあるようにしながら、まだ当たり前に悲しみがある物を求めています。
比丘のみなさん。四方に憂鬱があるのが当たり前の物は何と言うべきでしょうか。妻、夫、下男、下女、羊、山羊、鶏、豚、象、牛馬、金銀を当たり前に四方に憂鬱があると言うべきです。それらの当り前に四方に憂鬱がある物は重い物でです。この世界の人はその重い物に揃って夢中になり、揃って陶酔し、揃って平伏しているので、自分に当たり前に四方に憂鬱があるようにしながらが、まだ当たり前に四方に憂鬱がある物を求めています。
比丘のみなさん。これが素晴らしくない探求です。
2.素晴らしい探求
比丘のみなさん。素晴らしい探求はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、自分に当たり前に生があるので、当たり前に生があることの害を知っていて、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じたダンマ、生まれないダンマである涅槃を求めます。自分に当たり前に老いがあるので、老いが当たり前にあることの害を知っていて、それ以上の物はない素晴らしい努力から生じたダンマ、老いないダンマである涅槃を求めます。
自分に当たり前に病気があるので、病気が当たり前にあることの害を知っていて、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じたダンマ、病まないダンマである涅槃を求めます。自分に当たり前に死があるので、死が当たり前にあることの害を知っていて、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じたダンマ、死なないダンマである涅槃を求めます。
自分に当たり前に悲しみがあるので、悲しみが当たり前にあることの害を知っていて、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じたダンマ、悲しみのないダンマである涅槃を求めます。自分に、当たり前に四方に憂鬱があるので、四方に憂鬱が当たり前にあることの害を知っていて、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じたダンマ、四方に憂鬱がないダンマである涅槃を求めます。
比丘のみなさん。これが素晴らしい探求です。
欲望を終わらせる方便
「猊下。要するにどれほどの実践項目で、比丘は欲望が終り、この上ない努力から生じた究極の安全、最高の成功があり、最高に終わった梵行がある、天人とすべての人間より素晴らしい、解脱した人になるのですか」。
天人の統領である方。このダンマヴィナヤの比丘が聞いた教えは、当然「すべての物は、何も(自分、自分の物と)執着するべきではない」とこのようです。このように聞けば当然すべてのダンマを最高に良く知り、最高に良く知ればすべてのダンマを知り尽し、知り尽せば、幸福でも苦でも、あるいは苦でも幸福でもない物でも、彼は当然それらすべての感覚(受)を不変ではないと見、欲情の弛緩と見、消滅と見、返却と見ます。
それらすべての受を不確実と見れば、常に欲情の弛緩、消滅、(自分の)返却と見る(感じる)ので、心は世界の何にも執着しません。執着しなければ驚愕せず、驚愕しなければ内面で完全に消滅したと言われ、彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。
天人の統領である方。要するにこれだけの実践項目で比丘は欲望が終り、この上ない努力から生じる究極の安全、最高の成功があり、終った最高の梵行があり、すべての天人と人間より素晴らしい、解脱した人になります。
不浄か不浄でないかの感覚に関する正しさ
比丘のみなさん。
1.ふさわしい時に不浄でない物を不浄という想がある比丘は正しく、
2.ふさわしい時に不浄な物を不浄でないという想がある比丘は正しく、
3.ふさわしい時に不浄でない物も不浄な物も、不浄という想がある比丘は正しく、
4.ふさわしい時に不浄でない物も不浄な物も、不浄でないという想がある比丘は正しく、
5.ふさわしい時に不浄な物、不浄でない物という感覚がない比丘は、サティと自覚があり、然るべき時にウベカーにいる人で、正しいです。
1.比丘のみなさん。何の威力や利益に依存して、比丘は不浄でない物を不浄という想がある人になるでしょうか。「ラーガ(貪り)の基盤であるダンマに貪りが生じてはいけない」という項目の利益に依存して、比丘は不浄でない物に不浄という想がある人になります。
2.比丘のみなさん。何の利益に依存して、比丘は不浄な物を不浄でないという想がある人になるでしょうか。「ドーサ(憤怒。瞋恚)の基盤であるダンマに怒りが生じてはいけない」という項目の利益に依存して、比丘は不浄な物に不浄でないという想がある人になります。
3.比丘のみなさん。何の利益に依存して、比丘は不浄でない物と不浄な物に不浄という想がある人になるでしょうか。「貪りの基盤であるダンマに貪りが生じてはいけない。憤怒の基盤である物に憤怒が生じてはいけない」という項目の利益に依存して、比丘は不浄でない物と不浄な物に不浄という想がある人になります。
4.比丘のみなさん。何の利益に依存して、比丘は不浄でない物と不浄な物に不浄でないという想がある人になるでしょうか。「憤怒の基盤であるダンマに憤怒が生じてはいけない。貪りの基盤であるダンマに貪りが生じてはいけない」という項目の利益に依存して、比丘は不浄でない物と不浄な物に不浄でないという想がある人になります。
5.比丘のみなさん。何の利益に依存して、比丘は不浄な物、不浄でない物という感覚がなく、捨にいる人で、サティと自覚がある人になるでしょうか。比丘のみなさん。「どんな種類の、何の、どの部分の貪りの基盤であるダンマにも貪りが生じてはいけない。どんな種類の、何の、どの部分の憤怒の基盤であるダンマにも憤怒が生じてはいけない」という項目の利益に依存して、比丘は不浄な物、不浄でない物という感覚がなく、捨にいる人で、サティと自覚がある人になります。
比丘は天の形・天の声を得るために修行しない
(天の形を見、天の声を聞くためにサマーディバーヴァナー(サマーディの努力をすること)をすることに関しての、マハーリッチャヴィープッタの質問に世尊が答えられ、あらゆる角度から明らかに理解できた物となった時、マハーリッチャヴィープッタが、このダンマヴィナヤの比丘は、それらのサマーディバーヴァナーを明らかにするために梵行をするのですかと、質問しました)。
マハーリさん。すべての比丘は、そのサマーディバーヴァナーを明らかにするために私の梵行をするのではありません。マハーリさん。比丘たちがそれらのダンマを明らかにするために揃って私の梵行をしている、非常に素晴らしい、極めて緻密なダンマがあります。
「そのダンマはどのようですか。猊下」。
マハーリさん。この場合の比丘は、サンヨージャナ(動物を輪廻に結び付ける物。結)の三つが無くなって、落ちて普通になることがない涅槃が確実な人、将来確実に悟る人、預流になります。マハーリさん。これが、比丘たちが明らかにするために揃って私の梵行をする、非常に素晴らしい、極めて緻密なダンマです。
マハーリさん。まだあります。サンヨージャナの三つが無くなり、そして貪・瞋・痴が薄くなり、この世界にもう一度だけ戻ってきて苦を終わらせる人、一来になります。マハーリさん。これが、比丘たちが明らかにするために揃って私の梵行をする、非常に素晴らしい、極めて緻密なダンマです。
マハーリさん。まだあります。サンヨージャナの初等の五つが無くなって、その有で般涅槃し、当然その世界から戻って来ない人、不還になります。マハーリさん。これも比丘たちが明らかにするために揃って私の梵行をする、非常に素晴らしい、最高に緻密なダンマです。
マハーリさん。まだあります。比丘はすべての漏が終ったので、漏を探すことができない心解脱・智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そしてその感覚の中にいます。マハーリさん。これも比丘たちが明らかにするために揃って私の梵行をする、非常に素晴らしい、極めて緻密なダンマです。
マハーリさん。これが、比丘たちが明らかにするために揃って私の梵行をする、非常に素晴らしい、極めて緻密なダンマです。
(学習者は、当然天の形を見、天の声を聞くためにサマーディバーヴァナーをしない比丘が、本当のブッダの弟子であると、観察して見なければなりません)。
名誉・食べ物・愛・死体・触・取の厭わしさを見る
ナーギタさん。名誉に関わってはいけません。そうすれば名誉も私たちに関わりません。
ナーギタさん。出離の喜び、遠離の喜び、寂止の幸福、正覚の幸福を、私が簡単便利に望み通りに得たように、望み通りに簡単便利に得られない人は、ミラハスッカ(尿道に依存して生じる幸福)、ミッダスッカ(不潔な物の上に寝る人の幸福)、そして富と称賛から生じる幸福を喜びます。
ナーギタさん。便と尿は、人が食べた物、飲んだ物、噛んだ物、嘗めた物の結果で、それは、それから流れ出た結果です。
ナーギタさん。自分の悲しみ、憂い、悩みは、当然愛する物が変化したことから生じ、これはそれから流れ出た結果です。
ナーギタさん。美しいニミッタの不浄(註1)は、当然アスパニミッタ(不浄相)の努力をする人に現れます。それがそのような行為から流れ出る結果です。
ナーギタさん。触の不浄は、当然六触処の無常を見る人に現れます。それが、そのような行為の結果です。
ナーギタさん。取の不浄は、当然五取蘊の発生と衰退を見ている人に現れます。これがそのような行為から流れ出す結果です。
註1: この場合のパティクラ(不浄)とは、人語の汚物のような目で見るのではなく、知性で見なければならない嫌らしさ、厭わしさという意味です。
ローグッタラは、心を正しく据えることの結果
比丘のみなさん。間違った置き方をした小麦の粒を、手または足で踏むと、踏んでいる手または足を刺し、あるいは内出血させることはできません。なぜでしょうか。その小麦の粒の置き方が間違っているからです。
比丘のみなさん。同じように心の据え方を間違った比丘は、無明を消滅させ明を生じさせること、あるいは涅槃を明らかにする行動はあり得ません。なぜでしょうか。心の維持し方が間違っているからです。
比丘のみなさん。正しい状態に置いた小麦の粒を、手または足で踏むと、踏んでいる手または足を刺し、あるいは内出血させます。これはあり得ます。なぜでしょうか。それは小麦の粒を正しく置くからです。
比丘のみなさん。同じように心を正しく維持している比丘は、無明を消滅させ、明を生じさせ、あるいは涅槃を明らかにする行動をするのは、それはあり得ます。心の維持し方が正しいからです。
実践後の確信は、正誤を判断する道具
(コーリヤ村のパータリヤという村長が世尊に拝謁して、教祖である四人のサマナ・バラモンから聞いたことについて質問しました。
一つの集団は「与えても結果はない。祭っても結果はない。良いカンマ悪いカンマには結果がない。この世界もあの世界もない。親もいない。オッパーティカもいない。この世界と他の世界を明らかに知る正しい実践者であるサマナ・バラモンはいない」という見解で、二番目の教祖であるサマナ・バラモンは、「それらの物は全部ある」という見解で、
三番目の教祖であるサマナ・バラモンは「すべての行為は行為ではない。動物を殺して、肉を山と積むような罪も罪ではない。ガンガ(ガンジス川)の岸いっぱいの布施も徳ではない」という見解で、四番目の教祖であるサマナ・バラモンは三番目と正反対の見解、つまり「行為は行為であり、罪を行えば罪の結果があり、徳を行えば徳の結果がある」という見解です。それで世尊に次のように質問しました)。
「猊下。私に、それらのサマナ・バラモンのうち、どのサナマ・バラモンたちが本当のことを言っているのだろう、どの人たちが偽りを言っているのだろうと、疑義と疑念が生じました」。
ガーマニさん。疑義と疑念が生じるのはもっともです。疑念は生じるべくして生じました。
「猊下。私がその疑念であるダンマを捨てるために、世尊はダンマを説いてくださると、このように帰依申し上げています」。
ガーマニさん。ダンマサマーディがあります。あなたがそのダンマサマーディで(サマーディの物)チッタサマーディ(サマーディの心)を得れば、その懐疑であるダンマを捨てることができます。ガーマニさん。ダンマサマーディとはどのようでしょうか。
ガーマニさん。この場合のダンマサマーディは、聖なる弟子は殺生を避けて捨て、盗みを避けて捨て、邪淫を避けて捨て、虚言を避けて捨て、告げ口を避けて捨て、悪口、無駄口、饒舌を避けて捨て、貪りを捨てた貪りのない人で、復讐心を捨てた復讐心のない人で、邪見を捨てた正しい見解の人です。
ガーマニさん。その聖なる弟子は貪りがなく、復讐心がなく、迷いのない人で、このように自覚があり、サティがあり、上方へも下方へも、投げる方向へも、すべての方向のすべての場所に広げ、メッター(慈しみ)と並行する心で、豊かな心で、広大無量の心で、恨みがなく、復讐心がなく、終わりのある世界のすべての方向へ広げます。
(悲、喜、捨と同行する場合も、同じように話されています)。
その聖なる弟子は当然「与えても結果はない。お供えをして祭っても結果はない。動物が作った良いカンマ、悪いカンマには結果がない。この世界もあの世界もない。親もいない。オッパーティカ(突然生まれる動物)もいない。この世界と他の世界を明らかに知り、他人に開示した正しい実践者であるサマナ・バラモンもいない」と、このような見解の教祖がいて、その教祖の言葉が真実でも、私たちに誤りはない。
(このように実践する人は)驚愕する動物も、落ち着いていて驚愕しない動物も誰も侵害しない人だ。そして私たちは、この場合両方の利益を得ることができる。つまり体と言葉と心に慎みのある人で、将来、体が消滅して死んだ後、善趣、天国へ至る」と、このように熟慮して見ます。
(この後、二番目の教祖、三番目の教祖、四番目の教祖であるサマナ・バラモンの見解についても、同様に話されています。つまり、その教祖たちがどのように述べようと、この聖なる弟子はダンマサマーディを維持し、これらの見解に関してどんな誤りもなく、その上上記のようにこの世界と他の世界の両方の利益を得るという意味です。
ダンマサマーディを実践した後、その聖なる弟子は、その見解の正誤を自分で知り、その結果、自分の心に現れる結果を受け取ります。だから私は、実践の結果を受け取った後の確信は、すべての疑念の正誤を判断する物と信じます。
その後、悲と喜と捨と一緒に行く心を広げることで生じる四梵住に言及し、慈の場合と同じように話された結果、パーダリヤという村長はその説法を称賛し、仏教の清信士であることを表明しました)。
(このブッダヴァチャナの正しい見解は、非常にサンディティコー、つまり自分で見ることができる正しい見解なので、自分で正誤を判断できます)。
正しい見解の功徳のまとめ
比丘のみなさん。この正しい見解ほど、まだ生じていない善を生じさせ、あるいは当然生じている善を更に発展させる原因であるダンマは、私には他に一つも見えません。比丘のみなさん。人に正しい見解があれば、まだ生じていない善と、生じている善は、非常に発展、繁栄します。
(別の経では、正しい見解は、まだ生じていない悪を生じさせず、生じている悪を衰退させると説かれています。20巻41頁184項
別の経では、十分な行動を遵守する人は、すべて利益があり、そして望ましく満足できる身業・口業・意業、意図、パッタナー、パニディ、行があると説かれています。20巻43頁190項
別の経では、すべての苦から解脱する原因と説かれています。21巻38頁49項)
ヘ 正しい見解に欠けることの害について
発言に正しい見解がないことの害
ローヒッチャさん。「ローヒッチャバラモンがサーラヴァティカ村を治めれば、何でも利益が二倍になる。その利益はローヒッチャバラモンだけが消費するべきで、他の人たちに与えるべきではない」という人は誰でも、そのローヒッチャバラモンに依存している大衆にとって、危険な行動のある人と言います。(つまりそれらの庶民が受け取るべき、ダンマで正しい権利を消滅させる)。
危険な行動の人は、助けることで可愛がらない人と言います。支援することで可愛がらなければ、敵対心を持っていると言われ、敵対心があれば、誤った見解のある人と呼ばれます。
ローヒッチャさん。これも同じです。「この世界のサマナ・バラモンが善であるダンマに到達しても、誰も他人に何もできないのだから、他人に教えるべきではない。古い捕縛具を切った人は、新たな捕縛具を作るべきでないのと同じだ。誰も他人に何もできないのだから(貪りでお節介をして、自分に関わるという意味)、卑賎なカンマ、つまり貪りですることだと、吾輩はこのように述べる」とこのように言う人は、
如行が公開したダンマヴィナヤに依存して、このように偉大な徳を形にし、預流果を明らかにし、一来果を明らかに、不還果を明らかにし、阿羅漢果を明らかにし、天に生まれるため、すべての天の物である有に生まれるためのダンマを集める人たちまで含めた、すべての良家の子息に対して危険を成す人と言われます。
危険を成す人であれば、支援して可愛がらない人と呼ばれ、支援して可愛がらなければ、敵対心のある人と呼ばれ、敵対心があれば、誤った見解の人と呼ばれます。
ローヒッチャさん。私は二つの途の一つ、つまり地獄あるいは畜生の生まれは、誤った見解(註1)の人が行く途と言います。
註1: これは、世尊は他人に利益を与えて聖果に到達させ、天の世界に到達させることができるという意味です。それなのになぜ「誰も他人に何もできない」という誤った見解があるのでしょうか。そのように言う人は、他人に危険を成す人と呼ばれます。それを二つの趣のどちらかにふさわしい誤った見解とします。これを、発言に正しい見解がないことの害と言います。
論争の基盤である見解
「ゴータマ様。私は、すべての物は私にふさわしくないという主義主張があります」。
アッギヴェッサナさん。(それなら)「すべての物は私にふさわしくない」という見方は、それもあなたにふさわしくありません。
「ゴータマ様。私のその見解は、私の見解はこうだ(正しい)という私にふさわしいです」。
ね、アッギヴェッサナさん。そう言う人はこの世界に非常にたくさんいます。つまり私の見方はこうだ(正しい)と言い、そしてその見方を捨てず、更に違う見解を生じさせる人たちです。
ね、アッギヴェッサナさん。これはこの世界に非常に少ないです。つまり、私の見方はこうだ(正しい)と言い、その見解を捨ててしまうことができ、別の見解を生じさせない人たちです。
アッギヴェッサナさん。「すべては私にふさわしい」という見解のサマナ・バラモンもいます。「すべては私にふさわしくない」という見解のサマナ・バラモンもいます。「ある物は私にふさわしく、ある物は私にふさわしくない」という見解のサマナ・バラモンもいます。
アッギヴェッサナさん。サマナ・バラモンのこの三つのグループのうち、「すべての物は私にふさわしい」という主義のサマナ・バラモンは、欲情して心を染める方向へ偏り、(有に)自分がある方向へ偏り、(陶酔の基盤であるものに)陶酔する方向へ偏り、平伏する方向へ偏り、そして執着する方向へ偏ります。
アッギヴェッサナさん。サマナ・バラモンのこの三つのグループのうち、「すべての物は私にふさわしくない」と言う主義のサマナ・バラモンは、欲情が心を染めない方向へ偏り、(有に)自分がない方向へ偏り、(陶酔の基盤であるものに)陶酔しない方向へ偏り、平伏しない方向へ偏り、そして執着しない方向へ偏ります。
(世尊がここまで話されると、ディーカナカ修行者が「ゴータマ様が私の見方をお褒めになられた。ゴータマ様が私の見解を褒められた」と、叫びました)。
アッギヴェッサナさん。「ある物は私にふさわしく、ある物は私にふさわしくない」という見解のサマナ・バラモンの見解の、「ある物は私にふさわしい」という見解は、欲情して心を染める方へ偏り、(有に)自分がある方へ偏り、(陶酔の基盤である物に)陶酔する方へ偏り、平伏する方へ偏り、そして執着する方へ偏ります。
「ある物は私にふさわしくない」という見解は、欲情が心を染めない方へ偏り、(有に)自分がない方へ偏り、(陶酔の基盤である物に)陶酔しない方へ偏り、平伏しない方へ偏り、そして執着しない方へ偏ります。
アッギヴェッサナさん。その三つのサマナ・バラモンのグループの中に「すべては私にふさわしい」という主義のサマナ・バラモンがいます。そのサマナ・ラモンの中の識者は、当然「もし私が、すべては私にふさわしいという見解の人たちの見解を採れば、これだけが真実で、他のは違うと強く主張する。
そうすれば他の二つのサマナ・バラモンたちと一致しないので、すべては私にふさわしくないという見方の人たちと、そしてある物は私にふさわしく、ある物は私にふさわしくないという見解の人たちに反する。
それらの二つのサマナ・バラモンたちと反する主義は、このようにしてある。相反する主義がこのようにあれば、当然口論がある。口論があれば当然殺し合いもある。殺し合いがあれば、このように迫害も必ずある」と熟慮して見ます。
その識者は、反対の主義があること、自分に生じる口論、殺し合い、そして迫害をこのように見て、彼は見解を捨ててしまい、そして他の見解を持ちません。それらの見解を捨ててしまうことは、当然このような状態であります。
アッギヴェッサナさん。そのサマナ・バラモンの三つのグループの中に、「すべては私にふさわしくない」という見解のサマナ・バラモンがいます。そのサマナ・バラモンの中の識者は、当然、私に「すべては私にふさわしくない」という見解があれば、「これだけが真実で、他のは違う」と、強く主張し、他の二つの集団と相反する見解を持つことになる。
つまり「すべては私にふさわしい」という見解の集団と、「ある物は私にふさわしく、ある物は私にふさわしくない」という見解の集団と一致しない。その二つのサマナ・バラモンの集団と背反することは、このような状態である。一致しない見解があれば、当然口論があり、口論があれば、当然殺し合いがあり、殺し合いがあれば、このような状態で必ず迫害がある」と熟慮して見ます。
その識者はその見解の不一致と、自分に起こってくる口論、殺し合い、そして迫害を見て、彼はその見解を捨ててしまい、そして他の見解を持ちません。それらの見解を捨ててしまうこと、返却することは、当然このようにあります。
アッギヴェッサナさん。そのサマナ・バラモンの三つのグループの中に、「ある物は私にふさわしく、あるものは私にふさわしくない」という見解のサマナ・バラモンがいます。
そのサマナ・バラモンの中の識者は、当然私に、ある物は私にふさわしく、ある物は私にふさわしくないという見解があれば、これだけが真実で、他のは違うと強く主張し、他の二つの集団と相反する見解を持つことになる。
つまり「すべては私にふさわしい」という見解の集団と、「すべては私にふさわしくない」という見解の集団と一致しない。その二つのサマナ・バラモンの集団と背反することは、このような状態である。一致しない見解があれば当然口論になり、口論になれば当然殺し合いになり、殺し合いになれば、このような迫害がある」と熟慮して見ます。
その識者はその見解の不一致と、自分に起こってくる口論、殺し合い、迫害を見て、彼はその見解を捨ててしまい、そして他の見解を持ちません。それらの見解を捨ててしまうこと、返却することは、当然このようにあります。
識(魂)は回遊者という邪見
サーティさん。あなたは「このヴィンニャーナ(識、あるいは魂)は当然疾走して行き、当然回遊すると世尊が説かれたようにダンマを知悉している」という、下賎な見解が生じたと聞きましたが、本当ですか。
「猊下。私は当然、この識(魂)は当然突っ走って行き、当然回遊すると世尊が説かれたように、知り尽しております」。
サーティさん。識(魂)はどのようですか。
「猊下。それは、その有のすべての善いカンマ悪いカンマの報いを味わう人、話す人、感じる人である状態です」。
無益な人! 私が説いたダンマをあなたが知り尽したのは、誰に説いた時ですか。無益な人! 私は識を、縁起のダンマ(縁に依存して生じる物)として、たくさんの例えで説きました。縁がなければ識が生じることはない。このようではないですか。
無益な人! そうならあなたは当然、間違って捉えた言葉を私に擦り付け、当然自分の根を掘り、当然極めて徳でない物に遭遇すると言われます。無益な人! それは苦になり、永遠にあなたの援けになりません。
(その時、世尊はすべての比丘を呼び、そして言われました)。
比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。比丘のサーティ ケヴァッタプッタを、このダンマヴィナヤの僧と見成すことはできますか。
「どうして出来ましょう、猊下。到底できません。猊下」。
(比丘全員がこのように申し上げると、比丘のサーティケヴァッタプッタは黙り込んで恥入り、うな垂れ、うつ向いてしょんぼりし、才気がなくじっとしていました。その様子をご覧になった世尊は)、
無益な人! あなたのその下賎な見解が明白になりました。私はここで比丘のみなさんに質問します。
(そして比丘全員に質問した結果、世尊がサーティ比丘が言ったように教えていないことが明白になり、それから識の発生を、六処すべての縁起の状態で説明なさいました)。
十辺執見の害
ヴァッチャさん。「世界は不変だ」というディッティ(見解。この場合は邪見という意味)は、ディッティで執着し、デッティで困難になり、ディッティで敵になり、ディッティで揺れ、ディッティで縛られ、苦になり、困窮し、困難になり、焦燥し、倦怠、欲情の弛緩にならず、消滅、鎮静のためにならず、究極の智識、すべてを知り尽くす成行きにならず、涅槃になりません。
(これ以外のディッティの場合も、同じように話されています)。
つまり、ヴァッチャさん。「世界は不変ではない」というディッティは……
ヴァッチャさん。「世界は有限だ」というディッティは……
ヴァッチャさん。「世界は無限」というディッティは……
ヴァッチャさん。「命と体は同じだ」というディッティは……
ヴァッチャさん。「命と体は別だ」というディッティは……
ヴァッチャさん。「如行は死んだ後も存在する」というディッティは……
ヴァッチャさん。「如行は死んだ後は存在しない」というディッティは……
ヴァッチャさん。「如行が死んだ後、当然存在することもあり、存在しないこともある」というディッティは……
ヴァッチャさん。「如行が死んだ後、当然存在することもなく、存在しないこともない」というデッティは、ディッティで執着し、デッティで困難になり、ディッティで敵になり、ディッティで揺れ、ディッティで縛られ、苦になり、困窮し、困難になり、焦燥し、倦怠、欲情の弛緩にならず、消滅、鎮静のためにならず、究極の智識、すべてを知り尽くす成行きにならず、涅槃になりません。
ヴァッチャさん。私はこの害が見えるので、これらのディッティに近寄りません。
無明は八邪道の八項に導く
比丘のみなさん。無明はすべての悪が揃う前に現れるもので、不慙(罪を恥じないこと)、不愧(罪を恐れないこと)と一緒に現れます。比丘のみなさん。
誤った見解は、当然明らかな見解のない無明に達した人に目一杯あり、
誤った考えは、当然誤った見解のある人に目一杯あり
、
誤った言葉は、当然誤った考えのある人に目一杯あり、
誤った仕業は、当然誤った言葉のある人に目一杯あり、
誤った生業は、当然誤った仕業のある人に目一杯あり、
誤った努力は、当然誤った生業のある人に目一杯あり、
誤ったサティは、当然誤った努力のある人に目一杯あり、
誤ったサマーディは、当然誤ったサティのある人に目一杯あります。
(八邪道が当然全部揃うということです。別の経:24巻228頁105項ではもう二項説明されています)。
誤った見解は、当然誤ったサマーディのある人に目一杯あり、
誤った解脱は、当然誤った智のある人に目一杯あります。
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