不動有験道の正しい見解

一番目

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤで学ぶ聖なる弟子(聖人である弟子)にとって、愛欲は危険であるという項目を、聖なる弟子は当然熟慮して、「現生(この有)と未来(他の有)で経過する愛欲と愛欲想の、どちらも悪魔の頸木、悪魔の領分、悪魔の餌、悪魔の遊び場だ。貪欲や復讐心や競争心などの心の罪や悪は、当然この悪魔の首枷になる。

これらの罪や悪は、当然、このダンマヴィナヤで学ぶ聖なる弟子にとって、危険のためにある。それなら私は、偉大な心が世界を支配するよう願うべきだ。世界を支配する偉大な心があれば、貪りや復讐心や憤怒などの心の悪はない。これらの罪や悪を捨ててしまえることで、私の心は少なからず徳があり、限界がなく、よく訓練された心になる」と、このように明らかに見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践すれば、このような実践が多い人になり、心は当然アーヤタナ(註1)に帰依します。心が完全に帰依すれば、その人はその時サマーパティ(サマーディの状態)に至るか、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後あり得る立場、つまり経過する識は、不動に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを、ア-ネーニャチャサッパーヤパティパダー(不動有験道)の一番目と言います。

註1:この場合のアーヤタナ(処)は、最高のアーヤタナである涅槃を意味します。一般に知られている意味のアーヤタナは、四つの無形想の状態、つまり空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処を意味し、特に動揺しないことの基盤である形と形想がないことです。しかしまだ完璧でない、再び始める段階の不動のニャーナとする説もあります。

 完璧でないのはまだ形や形想に依存しているからで、上記のような実践はこの種の有に簡単に到達させるので不動有験道と呼ばれます。これらの実践は直接心解脱の縁であるサマタの側のものですが、それでもヴィパッサナーの縁であり、不動に至るため、あるいは智慧に傾くために、ブッダのその功徳を説かれています。

二番目

 比丘のみなさん。まだあります。聖なる弟子は当然熟慮して、「現生と来生で経過する何らかの形である、愛欲と愛欲想のすべては形にすぎず、四大種にすぎない」と、このように明らかに害を見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践すれば、このような実践の多い人になり、心は当然アーヤタナ(前項の註を参照)に帰依し、心が完全に帰依すれば、その時その人はサマーパティ(入定)に至るか、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後あり得る立場、つまり経過する識は、不動に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを不動有験道の二番目と言います。

三番目

 比丘のみなさん。まだあります。聖なる弟子は当然熟慮して「現生と来生で経過する何らかの形である、愛欲と愛欲想のすべては無常であり、無常である物は何でも、夢中になって褒めちぎり、陶酔して平伏すべきでない」と、このように明らかに害を見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践すれば、このような実践が多い人になり、心は当然アーヤタナ(二つ前の項の註を参照)に帰依します。心が完璧に帰依をすれば、その時その人はサマーパティに至るか、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後、あり得る立場である経過する識は、不動に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを不動有験道の三番目と言います。

中部ウパリバンナーサ 14巻75頁82項





空無辺処有験道の正しい見解

一番

 比丘のみなさん。まだあります。聖なる弟子は当然熟慮して、「現生と来生になる何らかの形である愛欲と愛欲想は、現世と来世で経過する形も形想も、現生と来生で経過する不動想も、すべての想はどのダンマの中でも残らず消滅する。そのダンマは静寂で、そのダンマは緻密で、つまり空無辺処だ」とこのように明らかに見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践すれば、このような実践が多い人になり、心は当然アーヤタナ(三つ前の註を参照)に帰依し、心が完璧に帰依すれば、その時その人はサマーパティに至るか、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後あり得る立場、つまり識は、空無辺処に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを、一番目の空無辺処有験道と言います。

二番目

 比丘のみなさん。聖なる弟子は森へ行っても、木の根元へ行っても、廃屋へ行っても「このアーヤタナはアッター(自分。自我)がなく、アッターニヤ(自分の物。我所有)がない」と当然熟慮して見ます。

 聖なる弟子がこのように実践すればこのような実践が多い人になり、心は当然アーヤタナに帰依し、心が完璧に帰依すれば、その時その人はサマーパティに至るか、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後あり得る立場、つまり経過する識は、空無辺処に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを、二番目の空無辺処有験道と言います。

三番目

 比丘のみなさん。聖なる弟子が森へ行っても、木の根元へ行っても、廃屋へ行っても「私である物は何もない。何かを、あるいは何かについて、それを私と心配することもない。そして私の物は何もない。何も私の物と心配することもない」と当然熟慮して見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践すれば、このような実践が多い人になり、心は当然アーヤタナに帰依し、心が完璧に帰依すれば、その時その人はサマーパティに至るか、智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後、あり得る立場は、経過する識は、空無辺処に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを、三番目の空無辺処有験道と言います。

中部ウパリバンナーサ 14巻76頁85項

 (空無辺処という言葉は曖昧な訳語で、仏教以前には涅槃の意味で使われていました。そして仏教以外、例えば(十六の問題の大元である)バーヴァリーバラモンなどは涅槃と見なし、ブッダにブッダ式の空無辺処を涅槃として説くようお願いしました。

 だから「それは自分ではない。それは自分の物ではない。それは静寂で緻密だ」など、涅槃と同じように熟慮する言葉があります。学習者は理解を明らかにして、混乱しないでください。大きな誤解になります)。





非想非非想処有験道の正しい見解

 比丘のみなさん。まだあります。その聖なる弟子は、当然熟慮して「現生と来生で経過する愛欲と愛欲想も、現生と来生で経過する形と形想も、不動想も、空無辺処想も、すべての想は残らず消滅する。どんなダンマで消滅しても、そのダンマは緻密だ。つまり非想非非想処だ」と明らかに見ます。

 その聖なる弟子がこのように実践し、このような実践が多い人になれば、心は当然アーヤタナに帰依し、心が完璧に帰依すれば、その時その人は非想非非想処(サマーパティ)に至り、あるいは智慧に傾きます。体が消滅して死んだ後あり得る立場は、経過する識は、非想非非想処に至った識になります。

 比丘のみなさん。私はこれを、非想非非想処有験道と言います。

中部ウパリバンナーサ 14巻77頁88項





オガニッタタラナに対する正しい見解

 アーナンダ。この場合の比丘は、このような(段階的に不動になる)実践者で、当然「(縁が)あったことがなければ、(結果も)私にない。(将来のための縁)が一度もなければ、(将来の結果)も私にない。ある物、あった物を、私は当然捨てることができる」とこのように熟慮して見ます。

 その比丘は当然その捨に陶酔せず、褒めちぎらず、酔って平伏しないで維持します。その比丘がその捨に陶酔せず、褒めちぎらず、酔って平伏しない状態を維持すれば、その識は欲望が依存しない識で、取がない状態です。アーナンダ。取がない比丘は、当然般涅槃します。

 「不思議です、猊下。猊下は(段階的に説かれたパティパダーに)依存されて、オガニッタラナ(オガを抜き取ること)を、弟子に教えられました」。

中部ウパリバンナーサ 14巻79頁91項

 (ここでのオガニッタラナとは、自分をオガ=煩悩と愛欲・見解・有・無明に沈んでいること=から抜き出すことで、現在の有にあり得るものです。つまりすべての執着の基盤である物に執着しません。

 執着と、そして自分のダンマの到達に執着しないことにとっても、最高の物である非想非非想処があり、執着しなければ静まって般涅槃します。これをオガニッタラナと言い、アリヤヴィモッガ=素晴らしい解脱=とも言います)。





アリヤヴィモッガ、あるいはオガニッタラナ

 「猊下。アリヤヴィモッガ(素晴らしい特別な脱出)はどのようですか」。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、当然「現在の有で経過するすべての愛欲も、先の有で経過するすべての愛欲も、現在の有で経過するどんな愛欲想も、先の有で経過するどんな愛欲想も、現在の有で経過するすべての形も、先の有で経過するすべての形も、

現在の有で経過するどんな形想も、先の有で経過するどんな形想も、どんな想も、それはすべてサッカーヤ(取で執着する基盤)にすぎない。一方不死のダンマは有身に取がない心の解脱だ」と熟慮して害を明らかに見ます。

 アーナンダ。だから私は不動有験道を説き、空無辺処有験道を説き、非想非非想処有験道を説いたことになります。そのパティパダー(道)に順に依存すればオガを越えることができます。それが私が説いたアリヤヴィモッガです。

 アーナンダ。可愛がる教祖が可愛がることに依存する利益を求めて、すべての弟子にするべきこと、そのすべてをみなさんにしました。アーナンダ。ほら、すべての木の根元。ほら、すべての廃屋。アーナンダ。みなさん誰でも、油断をしないで煩悩を焼く努力をなさい。みなさん、後で焦慮する人になってはいけません。これが、私がみなさんに繰り返し教える言葉です。

中部ウパリバンナーサ 14巻79頁90項





食べ物に関わる問題を無くす熟慮の仕方

1. 比丘のみなさん。カヴァリーカーラーハラ(ご飯。段食)を、人はどのように見るべきでしょうか。

 比丘のみなさん。夫婦がわずかな食料を携えて不毛な地へ旅をして、その夫婦には可愛い幼子が一人います。困難な地帯を旅していると、持っていたわずかな食糧が途半ばで尽きてしまい、

夫婦は「持っていたわずかな食料は尽きてしまった。まだ困難な途は残っているので、不毛な道を越えられないことになってはいけない。私たちは可愛い幼子を殺して、この子の肉を塩漬けや燻製肉にして食べ、まだ残っている困難な旅を乗り越えよう。そうしなければ、三人が確実に破滅する」と考えます。

 その時夫婦は可愛い我が子を殺し、塩漬けや燻製にしてその子の肉を食べ、残っている困難な旅を続け、「私の一人子はどこへ行った? 私の一人子はどこへ行った?」とつぶやいて、胸を叩きながら我が子の肉を食べます。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。夫婦は楽しみのため、陶酔のため、飾りのため、あるいは(体を)飾るために、食べ物である我が子の肉を食べるでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

 それならその夫婦は、困難な旅を続けるためだけに子の肉を食べるでしょうか。

 「そうです。猊下」。

 それならこれも同じです。聖なる弟子は、段食も同じように(子の肉と同じと)見なければならないと、私は言います。比丘のみなさん。聖なる弟子が段食を知れば、発生源である五欲があるラーガ(貪り)は、当然その聖なる弟子が知っているものです。

 発生源である五欲のある貪りが、その聖なる弟子が意識できる物なら、この世界に再び来る原因になるサンヨージャナ(道物を輪廻に結ぶ煩悩。結)は、当然その聖なる弟子にありません。

2. 比丘のみなさん。触食を、人はどのように見るべきでしょうか。

 比丘のみなさん。包んでいる毛皮がない牛の乳房は壁に寄りかかれば壁に棲んでいる生き物に噛まれ、水(たまり)に降りて行けば水に棲んでいる動物に噛まれ、広い所に住めば空に住んでいる動物につ突かれ、比丘のみなさん。包んでいる毛皮のない牛の乳房は、どんな場所に住んでも、休まずそこに棲んでいる動物に噛まれます。

 同じように比丘のみなさん。私は当然「聖なる弟子は触食を(包んでいる毛皮がない牛の乳房に例えられると)見なければならない」と言います。比丘のみなさん。聖なる弟子が触食を知れば、三つの受は、当然その聖なる弟子が知った物になります。三つの受が、その聖なる弟子が意識できる物になれば、私は当然「その聖なる弟子には、それ以上行動すべきことは何もない」と言います。

3.比丘のみなさん。マノーサンジェッタナーハラ(意思食)は、人がどのように見るべき物でしょうか。

 比丘のみなさん。人の背丈より深い炭の穴に炎も煙もない炭が燃え盛っていていて、その時生きていたい、死にたくない、幸福を愛し苦を厭っている人がそこへ来ると、力持ちの男二人が両側から腕を掴んで無理やりその炭の穴まで引っ張って行きます。比丘のみなさん。その時その男は、炭の穴から離れたい考え、望み、決意があります。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。その男は当然「炭の穴に落ちたら死ぬか、あるいはそれが原因で死ぬほどの苦を受け取る」と知っているからです。同じように比丘のみなさん。私は、「聖なる弟子が(炭の穴と同じと)見るべき意思食も同じ」と言います。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が意思食を知れば、三つの欲望も聖なる弟子が知ることができた物になります。三つの欲望が、聖なる弟子が意識できる物になれば、私は当然「その聖なる弟子にとって、それ以上するべきことはなにもない」と言います。

4. 比丘のみなさん。ヴィンニャーナーハーラ(識食)は人がどのように見るべき物でしょうか。

 比丘のみなさん。卑劣な強盗を捕えた役人が「王様。この者は卑劣な振る舞いの強盗です。どうぞこの者をお望みどおりに罰してください、王様」と、国王に説明すると、王は「発展した方々。みなさん、今朝この者を百本の槍で処刑しなさい」と命令し、役人たちはその朝、罪人を百丁の槍で処刑します。

 その後昼に「発展した方々。あの男はどうしましたか」と質問し、役人が「王様。あの罪人はまだ生きております」と奏上すると、王は役人に「発展した方々。みなさんこの昼に、あの男を百本の槍で処刑しなさい」と命じます。

 それらの役人は昼に百丁の槍でその罪人を処刑します。その後、夕方「発展した方々。あの男はどうしましたか」と質問し、役人が「王様。あの罪人はまだ生きております」と奏上すると、王は役人に「発展した方々。みなさん夕にあの男を百本の槍で処刑しなさい」と命じます。それらの役人は夕に百丁の槍でその罪人を処刑します。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。その罪人は一日中、役人から百本の槍で刺され、それが原因で苦だけを受け取っているのではないですか。比丘のみなさん。その罪人はたった一本の槍で処刑されるだけでも、それが原因の苦を受け取るのに、百本の槍で処刑されるのは言うまでもありません。それと同じです。

 比丘のみなさん。私は当然「聖なる弟子が(その罪人と同じと)見るべき識食も同じ」と言います。比丘のみなさん。その聖なる弟子が識食を意識できれば、名形は当然、その聖なる弟子が意識できた物であり、名形がその比丘が意識できれば、私は当然「その聖なる弟子にとって、それ以上しなければならないことは何もない」と言います。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻119頁241項

 飯塊を食べ物と言うのは体を養うからで、触を食べ物と呼ぶのは受生じさせるからで、意思を食べ物と呼ぶのはカンマを生じさせるからで、識を食べ物と呼ぶのは名形を生じさせるからです。それぞれの食べ物の害を、これらの例えのように熟慮して見れば、阿羅漢の段階まで苦を滅すことができます)。





苦を終らせるための内面の熟慮の仕方

 比丘のみなさん。みなさん、内面の熟慮のような熟慮をしていますか。

 「猊下。私は当然、内面を熟慮するような熟慮をしています。猊下」。と一人の比丘が答えました。

 比丘。あなたは当然、どのように内面を熟慮するような熟慮をしていますか。(その比丘が答えましたが、ご満足なさらないので、プラアーナンダが、「どうぞ説明なさってください。聞いた比丘は記憶します」とお願いすると、比丘たちに説いて聞かせました)。

 比丘のみなさん。この場合の比丘が熟慮すると、当然「苦は多く、様々な種類の苦、つまり老死のどれも当然世界に生じる。この苦を生じさせる原因は何だろう。老死はどうして生じるのだろう」と内面の熟慮のように熟慮します。

 比丘のみなさん。熟慮すれば当然「苦は少なくない。当然いろんな種類の苦、つまり老死のどれも世界に生じる。この苦には生じさせるウパディ(生きるのに必要な色んな物。しがらみ。依)があり、生じさせる物であるウパディがあり、生む物であるウパディがあり、ウパディが発生源だ。ウパディがあるから老死がある。ウパディがなければ老死はない」と知ります。

 その比丘は当然老死と、老死を生じさせる原因と、老死の消滅と、動物を老死の消滅にふさわしいダンマに至らせる実践項目を明らかに知り、そしてダンマにふさわしい実践をする人になります。比丘のみなさん。この比丘を、正しい滅苦のため、つまり老死の絶滅のために実践する人と呼びます。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は当然「このウパディを生じさせる原因は何で、何が生じさせる物で、何が生む物で、何が発生源だろう。何があるからウパディがあり、何がなければウパディがないのだろう」と、内面の熟慮のように熟慮します。

 その比丘は当然ウパディも、ウパディを生じさせる原因も、ウパディの消滅も、動物をウパディの消滅にふさわしいダンマに至らせる実践項目も明らかに知り、そしてダンマにふさわしい実践をする人になります。比丘のみなさん。この比丘を、正しい滅苦のため、つまりすべてのウパディの消滅のために実践する人と呼びます。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は当然「この欲望が生じる時はどこに生じるのだろう。存在する時はどこに存在するのだろう」とこのように、内面の熟慮のように熟慮します。その比丘が熟慮すると、当然「この世界の喜ばしい、愛らしい状態のある物は何でも、欲望が生じる時はそれに生じ、存在する時はそれに存在する」と、内面を熟慮するように熟慮します。

 世界の愛らしい状態、望ましい状態があるものは何でしょうか。目は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、耳は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、鼻は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、、舌は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、

体は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、心は世界の愛らしい状態、望ましい状態があり、欲望が生じる時は当然愛らしい状態、望ましい状態があるダンマに生じ、存在する時は当然愛らしい状態、望ましい状態があるダンマに存在します。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻130頁254項

 (この後、過去、未来、現在に、ピヤルーパ=喜ばしい物、サータルーパ=愛らしい物を恒常の物、幸福の物などと見て欲望を育てる人について、苦を育てるのと同じであり、苦から脱せないと話され、そして反対の側についても話されています。

 ピヤルーパ、サータルーパについて他では、大念処経の意味で十話され、合わせて六十種話されています。ここでは内処入の数に合わせて六つだけ話していますが、六十種に拡大することができます。興味のある人は大念処経を見てください)。





苦集の発生源の終りのための熟慮

 比丘のみなさん。比丘が熟慮熟考する時は、自分の識が外部に飛散せず、内部に平れ伏さない熟慮熟考をするべきです。そうすれば執着するダンマがないので驚愕しません。

 比丘のみなさん。識が外部に飛散せず、内部に平れ伏さず、執着するダンマがないので驚愕しなければ、苦の発生源であるダンマ、つまり生老死は、当然二度と生じません。

中部ウパリバンナーサ 14巻411頁639項

 (このように概要を話されると、精舎に入って行かれました。比丘はその要旨が良く理解できなかったので、プラマハーカッチャーヤナに尋ねると、プラマハーカッチャーヤナは、識が外部に飛散するとは何で、内部にひれ伏すとは何で、驚愕とは何かを説明しました。詳しくは「ブッダヴァチャナによる縁起」295頁で読むことができます)。





ホ 正しい見解の功徳について

邪見を捨てることができる類の見方

 「猊下。人がどのように知りどのように見れば、当然邪見を捨てるでしょうか、猊下」。

 比丘のみなさん。人が目を無常の物と知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨て、人がすべての形を無常の物と知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨て、人が眼識を無常の物と知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨て、

人が眼触を無常の物と知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨て、人が苦でも幸福でも、苦でも幸福でもなくても、眼識が縁で生じる受を無常の物と知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨てます。

 (あと五つの処入、つまり耳・鼻・舌・体・心の場合も、上記の内容と同じように話されています。無常と知られているダンマ、六処×五蘊、合わせて三十です)。

 比丘のみなさん。人がこのように知っていれば見ていれば、当然誤った見解を捨てます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻185頁254項





有身見を捨てられる見方

 「猊下。人がどのように知り、どの様に見れば、当然有身見を捨てるでしょうか、猊下」。

 比丘のみなさん。人が、目を苦と知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨て、人がすべての形を苦と知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨て、人が眼識を苦と知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨て、人が眼触を苦と知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨て、人が、苦でも幸福でも、苦でも幸福でもなくても、眼識が縁で生じる受を苦と知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨てます。

 (あと五つの処入、つまり耳・鼻・舌・体・心の場合も、上記の内容と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人がこのように知っていれば、見ていれば、当然有身見を捨てます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻185頁255項





我随見を捨てられる見方

 「猊下。人がどのように知り、どの様に見れば、当然アッターヌディッティ(私がいるという見解。我随見)を捨てるでしょうか、猊下」。

 比丘のみなさん。人が目を無我の物と知っていれば、見ていれば、当然「私はいる」という見解を捨て、人がすべての形を無我の物と知っていれば、見ていれば、当然「私はいる」という見解を捨て、人が眼識を無我の物と知っていれば、見ていれば、

当然「私はいる」という見解を捨て、人が眼触を無我の物と知っていれば、見ていれば、当然「私はいる」という見解を捨て、人が苦でも幸福でも、苦でも幸福でもなくても、眼識を縁に生じる受を無我の物と知っていれば、見ていれば、当然「私はいる」という見解を捨てます。

 (あと五つの処入、つまり耳・鼻・舌・体・心の場合も、上記の内容と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人がこのように知っていれば、見ていれば、当然「私はいる」という見解を捨てます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻185頁256項





自我と世界に言及する邪見を捨てる見方

 「猊下。自分と主張する主義、あるいは世界と主張する主義があるすべての見解が、世界に生じ世界にあります。猊下。心の中をどのようにすればそれらの見解を捨てることができ、それらの見解を返却できますか。猊下」。

 ジュンダさん。自分と主張する主義、あるいは世界と主張する主義があるすべての見解が世界に生じ、世界にあり、それがどんな感情の中で生まれ、どんな感情に眠っていて、どんな感情の中で要求していても、

比丘がそれらの感情を「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と正しい智慧で真実のままに見れば、生じているその見解を捨てること、生じているその見解を返却することは、当然あります。

中部ムーラバンナーサ 12巻72頁100項





三相を見ることは解脱の道 

1.アナッタラッカナ(無我相)経の例

 比丘のみなさん。過去、未来、現在の形・受・想・行・識のいずれかが、外部、あるいは内部にあっても、上等でも下等でも、遠くにあっても、近くにあっても、その形・受・想・行・識のすべてを、人は如実正智(真実のままに知る正しい智慧。ヤターブータサンマッパンニャー)で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の自我ではない」と、このように見るべきです。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子は、当然形・受・想・行・識のすべてに倦怠し、倦怠すれば欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱すれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること)があります。当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このような解脱のためにするべき仕事は他にない」と、このように明らかに知ります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻82頁127項


2.アニッチャヴァッガサラーヤタナ相応の例 

 (このブッダヴァチャナは、五蘊で熟慮する代わりに、六外処入、六内処入で説明し、熟慮する教えは無我相経と同じです。相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻1頁1項)

3.ダンマパダ・パーリの意味

 人が智慧で「すべての行は無常」と見れば、その時その人は当然自分が迷っている苦である物に倦怠します。それが清浄なダンマである涅槃への道です。

 人が智慧で「すべての行は苦」と見れば、その時その人は当然自分が迷っている苦である物に倦怠します。それが清浄なダンマである涅槃への道です。

 人が智慧で「すべてのダンマは無我」と見れば、その時その人は当然自分が迷っている苦である物に倦怠します。それが、清浄なダンマである涅槃への道です。

小部ダンマパダ 25巻51頁30項





煩悩の消滅(涅槃)にとっての快適さ

 比丘のみなさん。みなさんに涅槃に到達する快適なパティパダー(道)を説明します。みなさん心してお聞きなさい。比丘のみなさん。涅槃に到達する快適なパティパダーはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然目を無常と見、当然すべての形を無常と見、当然眼識を無常と見、当然眼触を無常と見、当然幸福でも苦でも、幸福でも苦でもなくても、眼触が縁で生じる受を無常と見ます。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これが涅槃に到達するのに快適なパティパダーです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻167頁232項





煩悩の消滅にとっての快適さ Ⅱ 

 比丘のみなさん。みなさんに涅槃に到達する快適なパティパダー(道)の説明をします。みなさん心してお聞きなさい。比丘のみなさん。涅槃に到達する快適なパティパダーはどのようでしょうか。

比丘のみなさん。この場合の比丘は当然目を苦と見、当然すべての形を苦と見、当然眼識を苦と見、当然眼触を苦と見、当然幸福でも苦でも、幸福でも苦でもなくても、眼触が縁で生じる受を苦と見ます。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これが涅槃に到達するのに快適なパティパダーです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻167頁233項





煩悩の消滅にとっての快適さ Ⅲ

 比丘のみなさん。みなさんに快適に涅槃に行くパティパダー(道)を説明します。みなさん心してお聞きなさい。比丘のみなさん。快適に涅槃に到達するパティパダーはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然目を無我と見、当然すべての形を無我と見、当然眼識を無我と見、当然眼触を無我と見、当然幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、眼触が縁で生じる受を無我と見ます。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これが快適に涅槃に到達するパティパダーです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻168頁234項





煩悩の消滅にとっての快適さ Ⅳ

 比丘のみなさん。みなさんに涅槃に到達する快適なパティパダーの説明をします。みなさん心してお聞きなさい。比丘のみなさん。涅槃に到達する快適なパティパダーはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。目は不変ですか。不変ではないですか。

 「不変ではありません、猊下」。

 不変でないものは何でも、苦ですか幸福ですか。

 「苦です、猊下」。

 無常であり苦であるものは何でも、当たり前に変化があります。それを「それは私の物。それは私。それは私の自我(私自身)」と見るべきですか。

 「そのように見るべきではありません、猊下」。

 (形、眼識、眼触、眼触受の場合も、同じように話されています。目の処入の場合が終わると、耳・鼻・舌・体・心について話されています)。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば、当然目に倦怠し、当然形に倦怠し、当然眼識に倦怠し、当然眼触に倦怠し、当然幸福でも苦でも、幸福でも苦でもないのでも、眼触が縁で生じる受に倦怠します。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩むことで当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナ(智)があり、その聖なる弟子は当然「生は終わった。している梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このように解脱を知るためにしなければならない他の仕事はない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。これが涅槃への到達にとって快適なパティパダーです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻169頁235項





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