形身の旨味と害と出る方便


形の三つのダンマ状態

 比丘のみなさん。何が形の旨味でしょうか。比丘のみなさん。年は十五か十六に見え、背は高すぎず低すぎず、痩せすぎず太りすぎず、肌は黒すぎず白すぎない王族の娘、バラモンの娘、あるいは長者の娘のようです。比丘のみなさん。その時その女性の肌のツヤは当然非常に美しいですね。

 「はい、猊下」。

 比丘のみなさん。その美しい艶の肌に依存して生じる喜びは何でも、それが形の旨味です。

比丘のみなさん。何が形の(低劣な)害でしょうか。

1.比丘のみなさん。この場合の人は、その後八十歳か九十歳になって、老い衰え、スリランカのパーンシ牛(註1)のように背中が曲がり、体はあちこちが歪み、前にある杖にすがってよろよろ震えながら歩き、丈夫な年齢を過ぎ、歯が折れ、髪は白髪になってブツブツと千切れ、皮膚はしわだらけで体中にシミがある(自分の)妹を見ることができます。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。昔あった美しい肌の色艶は消失し、明らかに害が現れたのではないですか。

 「そうです、猊下、」。

 比丘のみなさん。それが形の害です。

2.まだ他の害もあります。人は(自分の)妹が病気になって苦を受け取り、重病で誰かが抱き起したり、寝かせたりしなければならず、自分の糞尿の中を転げ回っているのを見ることができます。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。以前あった美しい肌の色ツヤは消失し、害が明らかに現れたのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。これも形の害です。

3.まだ他の害もあります。人は、今は死体捨て場に捨てられた妹が、死んで一日か、死んで二日目か、死んで三日目で腹が膨れて緑色になり、ウジが湧いている死体を見ることができます。比丘のみなさん。みなさんはこの意味をどう理解しますか。以前あった美しい肌の色ツヤは消失し、害が明らかに現れたのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。これも形の害です。

4.まだ他の害もあります。人は、その妹が、今は死体捨て場に捨てられた死骸になって、カラスの群れがつついて喰い、ハゲタカの群れがつついて喰い、ハゲコウの群れがつついて喰い、犬の群れが齧り、狐の群れが齧り、ウジ虫の群れが、中から喰っているのを見ることができます。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。かつてあった美しい肌の色ツヤは消失し、害が明らかに現れたのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。これも形の害です。

5.まだ他の害もあります。人はその妹が今は死体捨て場に捨てられた死骸になって、まだ血と肉があり、腱と繋いでいる物がある骨になり、肉がなくても、まだ繋いでいる腱がある骨になり、血と肉がない骨でも、まだ繋いでいる腱のある骨になり、繋いでいる腱のない骨、あちこちに散らばっている骨になり、

手の骨は一方に、足の骨は一方に、脛の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、腕の骨は一方に、肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、顎の骨は一方に、歯は一方に、頭蓋骨は一方に散らばっているのを見ることができます。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。かつてあった美しい肌の色ツヤは消失し、害が明らかに現れたのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。これも形の害です。

6.まだ他の害もあります。人はその妹が死体捨て場に捨てられた死骸の骨の欠片になり、ほら貝のように真っ白な骨の欠片になり、一年以上散乱した骨の山になり、崩れて粉になっている骨になるのを見ることができます。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。かつてあった美しい肌の色ツヤは消失し、害が明らかに現れたのではないですか。

「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。これも形の害です。

 比丘のみなさん。何が形から出る方便でしょうか。比丘のみなさん。どんな形の欲貪(満足して欲しがること)も出してしまえること、欲貪を捨ててしまえること、それが形から出る方便です。

 比丘のみなさん。形の味を形の味と、形の害と、形から出る方便を出る方便と、このように真実のままに明らかに知らないサマナ・バラモンは、そのサマナ・バラモンが自分で知り尽すこと、あるいは実践した人のように形を知り尽すよう他人を誘うことは、あり得ません。

 比丘のみなさん。形の味を形の味と、害を害と、出る方便を出る方便と、このように真実のままに明らかに知るサマナ・バラモンは、自分が知り尽すこと、あるいは他人に、実践した人のように形を知り尽すよう誘うことは、それはあります。

中部ムーラバンナーサ 12巻173頁201項

 (このような知識は正しい見解の助けになるので、ここに引用しました)。

註1:この言葉は垂木と訳されてきましたが、理論的に合いません。つまり曲がっていません。古代の石碑に刻まれた古代の舟形が曲がっているのはパンロム:切妻屋根の先端の「人」文字形の装飾:と呼ばれる部分だけですが、蓮の花の形に曲がっているので、何とか曲がった背中に例えることができます。

 あるいは、船の屋根のように丸形の屋根の家でなければなりません。そうすれば垂木は曲がっています。どう訳したらよいか確信がないので、元のままパーナシ牛と訳しておきます)。





受の旨味と害と出る方便 (受の三つの状態のダンマ)

 比丘のみなさん。何がすべての受のアッサダー(旨味)でしょうか。

1.比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタカとヴィチャーラ(熟考)、喜悦と幸福がある初禅に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。比丘の愛欲が静まり、すべての悪が静まり、当然ヴィタカとヴィチャーラ、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいる時はいつでも、

その人は、当然自分を困らせる方向の考えをせず、当然他人を困らせる考えもせず、当然自分と他人を困らせる考えをせず、その時当然誰も困らせない受を味わいます。比丘のみなさん。すべての受の旨味は、誰も何も困らせないと言います。

2.比丘のみなさん。まだあります。比丘はヴィタカ・ヴィチャーラが静まって、当然心の内部を明るくする物であり、一つだけの感情がある心のサマーディを生じさせ、ヴィタカとヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福がある二禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。その比丘のヴィタカ・ヴィチャーラが静まればいつでも、(略)当然二禅に到達し、その感覚の中にいます。その時その人は当然、自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えをせず、当然自分と他人を困らせる考えをせず、その時当然、誰も困らせない受を味わいます。比丘のみなさん。私は、すべての受の旨味は、誰も何も困らせないことと言います。

3.比丘のみなさん。まだあります。喜悦が静まってウペッカー(捨)にいる人になり、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わえば、当然その比丘は多くの聖人方が「この定にいる人は捨にいる人で、サティがあり正常な幸福にいる」と言われる三禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 比丘は喜悦が静まって捨にいる人になり、サティと自覚があり、名身で幸福を味わい、当然多くの聖人方が「この定にいる人は捨にいる人で、サティがあり正常な幸福にいる」と言われる三禅に到達し、そしてその感覚の中にいる時はいつでも、その時その人は、当然自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えをせず、当然自分と他人の両方を困らせる考えをしません。

 その時当然、誰も困らせない受を味わいます。比丘のみなさん。私はすべての受の旨味は、誰も何も困らせないと言います。

4.まだあります。比丘が幸福を捨てることができ、苦を捨てることがで、過去の喜びと憂いが消滅することで当然苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。比丘のみなさん。

 比丘が幸福を捨てることができ、苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いが消滅すればいつでも、彼は当然苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 その時彼は、当然自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えをせず、当然自分と他人の両方を困らせる考えをしません。その時彼は当然、誰も困らせない受を味わいます。比丘のみなさん。私はすべての受の旨味は、誰も困らせないと言います。

 比丘のみなさん。何がすべての受の(低劣な)害でしょうか。比丘のみなさん。受は無常であり、苦であり、変化があるのは当たり前で、どれでもそれはすべての受の害です。

 比丘のみなさん。何がすべての受から出る方便でしょうか。比丘のみなさん。すべての受のチャンダラーガ(喜んで欲しがること。欲貪)を出してしまえること、欲貪を捨ててしまえることはどれでも、それがすべての受から出る方便です。

 比丘のみなさん。すべての受の旨味をすべての受の旨味と、害を害と、出る方便を出る方便と、このような状態で真実のままに明らかに知らないサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンが自分ですべての受を知り尽すこと、あるいは実践した人のように、すべての受を知り尽すよう他人を誘うことは、あり得ません。

 比丘のみなさん。一方すべての受の旨味をすべての受の旨味と、害を害と、出る方便を出る方便と、このように真実のままに明らかに知るサマナ・バラモンは誰でも、それらのサマナ・バラモンが自分ですべての受を知り尽すこと、あるいは実践した人のように、すべての受を知り尽すよう他人を誘うこと、それはあります。

中部ムーラバンナーサ 12巻176頁205項





教義間に問題がある時、正しい見解を生じさせる

 (サーレッヤカのバラモンと長者と住民が、世尊は阿羅漢で世界のすべてを明らかに知り、美しく完璧なダンマを説き、純潔な梵行を公開されたという噂を聞いて、連れだって世尊に拝謁するために、滞在されている集落を訪れました。敬意を表す人たちもいれば、敬意を表さない人たちもいました。世尊はサーレッヤカの人々に言われました)。

 長者のみなさん。信仰するだけの理由があり、あなたが満足できる教祖はいますか。

 「まだおりません、猊下」。

 長者のみなさん。まだ満足する教祖がいないあなた方のために、みなさんが受け入れて実践して間違いのないダンマがあります。長者のみなさん。その間違いのないダンマをみなさんが精一杯遵守すれば、永遠にみなさんの幸福の利益になります。長者のみなさん。間違いのないダンマはどのようでしょうか。

 長者のみなさん。「与えた人は(結果が)ない。祭ることは(結果が)ない。動物がした善行、悪行の報いはない。この世界はない。他の世界もない。父もいない。母もいない。オッパーティカ(不還)もいない。正しい実践をして、正しい智慧でこの世界と他の世界を明らかにし、そして他人に公開し、行った人であるサマナ・バラモンはいない」と、このような見解や発言のあるサマナ・バラモンがいます。

 長者のみなさん。また「与えた人は(結果が)ある。祭ることは(結果が)ある。動物がした善行、悪行の報いはある。この世界はある。他の世界もある。父もいる。母もいる。オッパーティカもいる。正しい実践をし、正しい智慧でこの世界と他の世界を明らかにし、そして他人に開示した人、行った人であるサマナ・バラモンはいる」と、このように正反対の見解や発言のあるサマナ・バラモンがいます。

 長者のみなさん。これをどう理解しますか。これらのサマナ・バラモンは、正反対ではありませんか。

 「左様でございます、猊下」。

 長者のみなさん。この二つのサマナ・バラモンたちのうち、「与えた人は(結果が)ない。祭ることは(結果が)ない。(略)。正しい実践をして、正しい智慧でこの世界と他の世界を明らかにし、そして他人に開示した人、行った人であるサマナ・バラモンはいない」と、このような見解や言葉のあるサマナ・バラモンはこれを期待できます。

 それは、三つの善、つまり正しい行動、正しい言葉、正しい考えを止めてしまい、三つの悪、つまり不正な行動、不正な言葉、不正な考えを実践します。どうしてでしょうか。それは、それらの発展したサマナ・バラモンは、悪の低劣で憂鬱な害が見えず、すべての善の側の純白なダンマであるネッカンマ(出離)の功徳が見えないからです。

 その人の見解は、本当にある別の世界をないと見てしまうので、その見解は「誤った見解」であり、本当にある別の世界を「ない」と考えるので、その考えは「誤った考え」で、本当にある別の世界を「ない」と言うので、その言葉は「誤った言葉」で、本当にある別の世界をないと言うことで、別の世界を明らかに知る人である「すべての阿羅漢に敵対」する人と言われます。

 本当にある別の世界を、他の人に「ない」と理解させる彼の行動は、非正法勧奨であり、その人は非正法勧奨を自慢し、他人を貶します。このような行為で、その人はかつての正常な良い状態を捨てたと言われます。つまり誤った見解、誤った考え、誤った言葉、阿羅漢の敵、非正法勧奨、自慢と他人を貶すことです。これら様々な悪は、このように誤った見解が縁で、当然彼に生じます。

 長者のみなさん。識者はその二つの見解を当然熟考して、「もし別の世界がないなら、この発展した(別の世界はないと信じている)人は、体が壊れて死んだ後、自分を安楽にすることも事実だが、別の世界があれば、この発展した人の体が壊れて死んだ後、それが原因で苦界、悪趣、苦を受け取る場所、地獄に至ることは確実だ。

そうだ。別の世界はあってはいけないと言う、その発展した人であるサマナ・バラモンの真実の言葉は、引き合いにする必要はないということだ。しかしその発展した人は、現生で「不正な戒」「邪見」「虚無論」と、このように見識者から非難される。もし別の世界が本当に現れれば、どちらも悪(註1)を受け取る。当然その発展した人にとってある。

現生で識者に非難され、体が壊れて死んだ後は、苦界、悪趣、苦を受け取る場所、地獄に至る。これが、誰もが間違って捉えたアパナナカダンマ(間違いのないダンマ。無戯論のダンマ)は当然広まる一方で、善の根を断ち切るように維持されている」と、このように見ます。

 長者のみなさん。この二つのサマナ・バラモンの集団のうち、「与えた人は(結果が)ある。祭ることは(結果が)ある。(略) 正しい実践をして、正しい智慧でこの世界と他の世界を明らかにし、そして他人に開示した人、行った人であるサマナ・バラモンはいる」と、このように反対の見解や言葉のあるサマナ・バラモンたちは誰でも、彼らはこれが期待できます。

 それは三つの悪である不正な行動、不正な言葉、不正な考えを止めてしまうことができ、三つの善である正しい行為、正しい言葉、正しい考えを確実に遵守します。それはどうしてでしょうか。

 その発展したサマナ・バラモンたちは、悪の低劣で憂鬱な害が見え、すべての善の側の純白なダンマであるネッカンマ(出離)の功徳が見えるからです。その人は「別の世界はある」という見解があるので、その見解は「正しい見解」であり、彼の言葉は「正しい言葉」で、このように別の世界はあるという彼の発言は、別の世界を明らかに知るすべての阿羅漢の敵でないと言われます。

 別の世界は本当にあると言うのは、他の人に別の世界はあると理解させるので、その行動は正法勧奨です。

 そして彼は正法勧奨で、当然自慢をせず、他人を貶しません。このような行為は「その人はかつて普通にあった低劣な状態を捨て、美しい善の中にいる」と言われます。つまり正しい見解、正しい考え、正しい発言、聖人の敵でないこと、正法勧奨、自慢をしないこと、他人を貶さないことで、それらの善はこのような状態で、正しい見解が縁で、当然その人に生じます。

 長者のみなさん。知識者はその二つの見解を当然熟考して、「もし別の世界があるなら、この発展した人は体が壊れて死んだ後、この理由で善趣、天国に至る。さて、別の世界はあってはならないと言う、発展したサマナ・バラモンの本当の言葉は、語る必要はないということだ。それでもその発展した人は、現生で知識者に「戒のある人だ」「正しい見解だ」「アッティカヴァーダ(説有論者)」だと称賛される。

もし本当に別の世界が現れれば、当然その発展した人は、どちらの世界でも成功する。つまり現世で識者に称賛され、そして体が壊れて死んだ後は、善趣天国の世界に至る。これが、人が完璧に正しく捉えたアパンナカダンマ(間違いのないダンマ。無戯論のダンマ)で、当然双方に広がり、悪の根を断ち切るように存在している」と見ます。

中部マッジマバンナーサ 13巻101頁104項

註1: クラシーという言葉はタイ語に訳しにくい言葉で、ある種の霊から生じる悪いことを意味します。

 (この正しい見解はまだ世俗の正しい見解で、随眠があり、動物だ、人だ」という理解があり、善悪があり、地獄天国など、二つに分けられる物があります。

 見解の状態の問題が生じた時、つまりただの見方にすぎず、明らかに現れている物質的証拠がない時は、幸福だけになる見解にしなければなりません。

 たとえば世界はあるかないかというような問題が生じたら、利益だけが生じる見解にしなければなりません。ここでは別の世界の利益を追求する原因であり、そして別の世界の幸福を得られる「別の世界はある」という見解で、別の世界がなくても、何も損をしません。

 別の世界の利益のための行動は無駄になりません。つまりこの世界の識者から称賛される善で、そしてこの世界の幸福を十二分に受け取るので、「別の世界はある」という見解があることは当然利益だけと見なすことができます。つまり別の世界がなくても利益があり、別の世界があれば、更に利益があるので、この種の見解をアパンナカダンマ=間違いのないダンマと言います。

 どちらも間違いのないダンマで、このブッダの言葉のように反対の問題が生じて争う時、問題をすべて解消してしまえる正しい見解です。だから私はこの種の正しい見解は、教義間に矛盾が生じた時、悪い結果を静めることができると見なします。

中部マッジマバンナーサ 13巻105頁110項



 動物の憂鬱と純潔には原因がある、あるいはないという見解も同じ教えがあり、原因があると捉えれば、原因がないと捉えるより安全です。原因があると捉える人は当然良い原因を作り、悪い原因を避ける行動をします。仮にすべての物に原因がなくても、彼の行動は二つの善で識者が称賛し、そして彼も自分の行為から善い結果、この世界と別の世界の幸福を受け取ります。

 これも教義間に矛盾が生じた時、悪い結果を静めることができる正しい見解です。

中部マッジマバンナーサ 13巻111頁115項



 アールッパダンマ(形がない物)はあるか否かという見解は、識者は「ある」という方を選び、形のない財産を得るために実践して両方の利益を受け取ります。つまり仮にアールッパダンマがなくても、その人はその下のルッパダンマ(形がある物)の利益を受け取り、アールッパダンマが本当にあれば、目指したアールッパダンマの価値と利益を受け取ります。

 だから教義間に矛盾が生じた時にアールッパダンマがあると捉えることは、間違いのない正しい見解です。更にアッタカター風の昔式の説明をすれば、アルーパブラフマ(無形梵天)があれば無形梵天のために実践し、仮に無形梵天がなくても、その下の形梵天である結果を受け取り、無形梵天があれば、無形梵天の意味の結果を目いっぱい受け取るので、正しい見解と見なします。

 もう一つ、もし現代の教育がある人に言うなら、「ルーパダンマである状態が必要ない(つまり物質主義でないこと)価値、あるいは財産はある。それは喧嘩や仲違い、あるいは体の病気などのルーパダンマの衝撃は必要ないので、より便利で、より快適で、より幸福で、より素晴らしい結果がある」と言わなければなりません。

中部マッジマバンナーサ 13巻115頁120項


 バヴァ(有、または三界)がすべて消滅することはあるか否かという見解について、識者は有の消滅はあるという方を取り、そして有の消滅のために実践し、生きているうちに般涅槃である結果を受け取ります。有の完璧な消滅はないとする人たちは、最高の界である無形界で麻痺するので、すべての界の消滅はあると捉えることは、これも教義間に矛盾が生じた時、間違いのない正しい見解です。

中部マッジマバンナーサ 13巻117頁121項


 要するに教義の問題は、体を見ることができない、あるいは直接声を聞くことができない問題なので、私は、それはどうにもならないと言います。だから正しい見解の類の、つまり彼自身に見えない、あるいは直接声を聞くことができない物に関わる利益だけを受け取れるようにしなければならないので、述べたように正しい「間違いのないダンマ」にしなければなりません)。





解脱者レベルの体と受を見る 

 アッギヴェッサナさん。この体は形があり、四大でできていて、両親が発生源で、ご飯と果物で成長し、磨いたり揉んだりしでも、当然不変でないので崩壊して分散します。人はそれを「苦であり、病気であり、腫物の頭であり、矢であり、困難であり、病であり、他人のようで(借り物)あり、壊れた物であり、空の物であり、自分の物ではない」と見るべきです。

 人がこの体を「無常であり、苦であり、病気であり、腫物の頭であり、矢であり、困難であり、病であり、他人のようであり、壊れた物であり、空の物であり、自分の物ではない」と見ていれば、体への満足、体に心を奪われること、体の威力下に落ちることを、彼は当然捨ててしまうことができます。

 アッギヴェッサナさん。この三種類の受であるスッカヴェーダナー(幸受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、アドゥッカマスッカヴェーダナー(不苦不幸受)があります。

 アッギヴェッサナさん。人が幸受を味わっている時は、苦受も不苦不幸受も味わうことはなく、その時幸受だけを味わっています。人が苦受を味わっている時は、幸受も不苦不幸受も味わうことはなく、その時苦受だけを味わっています。人が不苦不幸受を味わっている時は、幸受も苦受も味わうことはなく、その時不苦不幸受だけを味わっています。

 アッギヴェッサナさん。幸受は無常の物で、作られた物で、互いに依存し合って生じ、当然終わりがあり、当然衰退があり、当然薄れることがあり、当然消滅があります。アッギヴェッサナさん。苦受も無常の物で、作られた物で、互いに依存し合って生じ、当然終わりがあり、当然衰退があり、当然薄れることがあり、当然消滅があります。

 アッギヴェッサナさん。不苦不幸受も無常の物で、作られた物で、互いに依存し合って生じ、当然終わりがあり、当然衰退があり、当然薄れることがあり、当然消滅があります。

 アッギヴェッサナさん。聞くことのある聖なる弟子がこのように見れば、当然幸受にも、苦受にも、不苦不幸受にも倦怠し、倦怠すれば当然愛欲が薄れ、愛欲が緩めば当然解脱し、解脱をすれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)があります。その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このような解脱のためにするべき他の仕事は他にない」と知ります。

 アッギヴェッサナさん。心がこのようの解脱した比丘は、当然おべっかを言わず、当然誰かと争うことを言わず、彼が言う世界の言い回しは言い回しとして言うだけで、どんな意味でも執着しません。

 (ブッダの言葉が終わると、後ろで扇いでいたサーリプッタが、阿羅漢果に到達しました)。

中部マッジマバンナーサ 13巻267頁272項





三つのダンマを捨てるために三つのダンマに励む正しい見解

 比丘のみなさん。この三つのダンマがあります。三つはどのようでしょうか。三つは貪り・怒り・愚かさです。比丘のみなさん。三つのダンマとは、これです。

 比丘のみなさん。この三つを捨ててしまうために、三つのダンマに励むべきです。三つはどのようでしょうか。三つとは、

 貪りを捨てるためにアスバ(不浄)に励み、

 怒りを捨てるために慈しみに励み、

 愚かさを捨てるために智慧に励みます。

 比丘のみなさん。人はその三つのダンマを捨てるために、この三つのダンマに励むべきです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻495頁378項





三つのダンマを捨てるために三つのダンマに励む正しい見解 Ⅱ

 比丘のみなさん。この三つのダンマがあります。三つは何でしょうか。三つとはカーマサンニャー(愛欲想)、ビャーパータサンニャー(瞋恚想)、ヴィヒンサーサンニャー(加害想)です。比丘のみなさん。これがその三つのダンマです。

 比丘のみなさん。この三つのダンマを捨てるために、三つのダンマに励むべきです。三つのダンマはどのようでしょうか。三つとは、

  愛欲想を捨てるために、アネッカンマサンニャー(出離想)に励み、

  瞋恚想を捨てるためにアビャーパーダサンニャー(不瞋恚想)に励み、

  加害想を捨てるためにアヴィヒンサーサンヤー(不加害想)に励みます。

 比丘のみなさん。その三つのダンマを捨てるために人はこの三つのダンマに励むべきです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻496頁381項





三つのダンマを捨てるために三つのダンマに励む正しい見解 Ⅲ

 比丘のみなさん。これら三つのダンマがあります。三つはどのようでしょうか。三つはカーマヴィタッカ、ビャーパーダヴィタッカ、ヴィヒンサーヴィタッカです。比丘のみなさん。これらが三つのダンマです。

 比丘のみなさん。これら三つのダンマを捨ててしまうために、三つのダンマに励むべきです。三つのダンマはどのようでしょうか。三つとは、

 愛欲尋を捨てるために離欲尋に励み、

 瞋恚尋を捨てるために不瞋恚想に励み、

 加害尋を捨てるために不加害尋に励みます。

 比丘のみなさん。その三つのダンマを捨てるために人はこの三つのダンマに励むべきです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻495頁380項





三つのダンマを捨てるために三つのダンマに励む正しい見解 Ⅳ

 比丘のみなさん。この三つのダンマがあります。三つとは何でしょうか。三つとはカーマダートゥ(欲界)、ビャーパータダートゥ(瞋恚界)、ヴィヒンサーダートゥ(加害界)です。比丘のみなさん。これがその三つのダンマです。

 比丘のみなさん。この三つのダンマを捨てるために、三つのダンマに励むべきです。三つのダンマはどのようでしょうか。三つとは、

 愛欲界を捨てるために、出離界に励み、

 瞋恚尋を捨てるために無瞋恚想に励み、

 加害界を捨てるために無加害界に励みます。

 比丘のみなさん。あの三つのダンマを捨てるために、人はこの三つのダンマに励むべきです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻496頁382項





五界に関した実践項目

 ラフラ。特に自分の内部である何らかの形は粗い物で、(人または動物の)取に掴まれている、固い状態があります。

 髪、爪、歯、皮膚、肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、筋膜、脾臓、肺臓、腸、直腸、胃の中の食べ物、便、あるいは他の形があっても、自分の内部の物であり、粗雑な物であり、(人または動物の)取に掴まれてい固い状態があります。ラフラ。これを土界と言います。

 内部の土界も、外部の土界もただの土界にすぎません。誰でもその土界を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と真実のままに見なければなりません。土界をこのように正しい智慧で真実のままに見れば、心は当然土界に倦怠し、当然土界への欲情が緩みます。

 ラフラ。あなたは大地(土)で心を平らにする訓練をなさい。あなたが大地で心を平らにする訓練をすれば、生じている喜ばしい触と喜ばしくない触のどちらも心を包囲しません。人が大地に清潔な物を捨て、不潔な物を捨て、糞を捨て、尿を捨て、唾を捨て、膿を捨て、血を捨てても、大地は憂鬱にならず、それらを嫌わないように、

ラフラ。あなたは大地で心を平らにする訓練をなさい。あなたが大地で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足できる触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。


 ラフラ。水界はどのようでしょうか。内部の水界も外部の水界もあります。ラフラ、自分だけの内部の水界は、取に掴まれている液体です。例えば胆汁、痰、膿、血、汗、脂、涙、リンパ液、涎、鼻汁、唾液、尿でも、あるいはこれ以外に、取が掴んでいる自分の内部にある液体。取に掴まれている水界は何でも、水界と言います。ラフラ、内部の水界も、外部の水界も、この二種類のどちらもただの水界にすぎません。

 誰でもその水界を、このように正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と真実のままに見るべきです。それらの水界をこのように正しい智慧で真実のままに見れば、心は当然水界に倦怠し、当然水界への欲情が緩みます。

 ラフラ。あなたは水で心を平らにする訓練をなさい。あなたが水で心を平らにする訓練をすれば、すべての生じている喜ばしい触と喜ばしくない触のすべては、心を包囲しません。

 人が水に清潔な物を捨て、不潔な物を捨て、糞を捨て、尿を捨て、唾を捨て、膿を捨て、血を捨てても、水は憂鬱にならず、それらを嫌わないように、ラフラ。あなたは水で心を平らにする訓練をなさい。あなたが水で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足できる触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。


 ラフラ。火界はどのようでしょうか。内部の火界と外部の火界があります。ラフラ。内部の火界はどのようでしょうか。自分だけの内部の火界は何でも、燃やし尽す物で、取に掴まれています。

 たとえば体を温める火、体を衰退させる火、体をイライラさせる火、食べたり飲んだり齧ったり嘗めたりした食べ物を燃やして正しく変化させる火も、あるいはこれ以外の自分だけの内部の物で、燃やし尽すもので、取に掴まれている火界は何でも、ラフラ。この二種類の火界を火界と言います。

 内部の火界も外部の火界も、どちらもただの火界にすぎません。誰でも、その火界を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と真実のままに見るべきです。その火界を、このように正しい智慧で真実のままに見れば、心は当然火界に倦怠し、当然火界への欲情が緩みます。

 ラフラ。あなたは火で心を平らにする訓練をなさい。あなたが火で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足すべき触と、満足できない触のすべては心を包囲しません。人が火に清潔な物を捨て、不潔な物を捨て、糞を捨て、尿を捨て、唾を捨て、膿を捨て、血を捨てても、火は憂鬱にならず、それらを嫌わないように、

ラフラ。あなたは火で心を平らにする訓練をなさい。あなたが火で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足できる触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。


 ラフラ。風界はどのようでしょうか。風界は内部の物と外部の物の両方があります。ラフラ。内部の風界はどのようでしょうか。自分だけの内部の風界は何でも吹いて流れる物で、取に掴まれています。

 たとえば上に吹く風、下に吹く風、腹の中の風、腸の中の風、大小の器官を走る風、吸う息、吐く息でも、あるいはこれ以外の自分だけの内部の物で、取に掴まれている流動する物、風界は何でも、ラフラ。この二種類の風を風界と言います。

 内部の風界も外部の風界も、それはただの風界にすぎません。誰でもその風界を正しい智慧で、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と真実のままに見るべきです。その風界を、このように正しい智慧で真実のままに見れば、心は当然風界に倦怠し、当然風界への欲情が緩みます。

 ラフラ。あなたは風で心を平らにする訓練をなさい。あなたが風で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足すべき触と、満足できない触のすべては、心を包囲しません。人が風に清潔な物を捨て、不潔な物を捨て、糞を捨て、尿を捨て、唾を捨て、膿を捨て、血を捨てても、風は憂鬱にならず、それらを嫌わないように、

ラフラ。あなたは風で心を平らにする訓練をなさい。あなたが風で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足できる触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。


 ラフラ。空界はどのようでしょうか。空界は内部の物と外部の物があります。ラフラ。内部の空界はどのようでしょうか。自分だけの内部の空界は何でも、取に掴まれている空の状態を表す物です。

 たとえば耳の穴、鼻の穴、ご飯を食べて、飲んで、噛んで、嘗めて空になった口腔、食べ物を食べて飲んで噛んで嘗めた後の食道でも、あるいはこれ以外の何でも、自分だけの内部の物で、空っぽの物で、取に掴まれている空界は何でも、ラフラ。この二種類の空界を空界と言います。

 内部の空界も外部の空界も、どちらもただの空界にすぎません。誰でもその空界を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と真実のままに見るべきです。その空界をこのように正しい智慧で真実のままに見れば、心は当然空界に倦怠し、当然空界への欲情が緩みます。

 ラフラ。あなたは空で心を平らにする訓練をなさい。あなたが空で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足すべき触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。

 ラフラ。あなたは空で心を平らにする訓練をなさい。あなたが空で心を平らにする訓練をすれば、生じている満足できる触と、満足できない触のすべては、心を包囲しないで維持します。

中部マッジマバンナーサ 13巻135頁135項





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