初梵行智慧を生じさせ、発展させる原因

 比丘のみなさん。これら八つの原因と八つの縁は、まだ得たことがない初梵行智慧(梵行の初めに必要な智慧)のためであり、既に得た初梵行智慧の更なる成長、発展、進歩、完成になります。八つとは何でしょうか。八つとは、

1.比丘のみなさん。この場合の比丘は、慚と愧と愛と尊敬の基盤である教祖、あるいは尊敬の基盤である梵行仲間の誰かに依存して、(その状態を)しっかり維持しています。比丘のみなさん。これが一つ目の原因と縁です。

2.比丘のみなさん。この場合の比丘は、慚と愧と愛と尊敬の基盤である教祖、あるいは尊敬の基盤である梵行仲間の誰かに依存した状態を安定して維持し、ふさわしい時に「発展した方。これはどのようですか。この意味はどのようですか」と問題を詳しく質問します。

 それらの発展した人は、当然まだ公開していないことを公開し、当然まだ浅くしていないことを浅くし、当然いろんな疑念の基盤であるダンマの疑念を減らします。比丘のみなさん。これが二番目の原因と縁です。

3.その比丘がそのダンマを聞くと、当然二つの回避、つまり体による回避と、心による回避を完璧にします。比丘のみなさん。これが三番目の原因と縁です。

4.比丘のみなさん。その比丘は戒がある人で、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(註1)が完璧で、たとえ小さな罪と見なされている物でも、普段からすべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守します。これが四番目の原因と縁です。

5.比丘のみなさん。その比丘はたくさんダンマを記憶していて、聞いたダンマを集めている博学者で初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しいどのダンマも、言葉も意義も完璧で純潔な梵行を説き、その人はたくさんのダンマを記憶し、言葉で流暢に言うことができ、心で見ることができ、見解で良く洞察します。比丘のみなさん。これが五番目の原因と縁です。

6.その比丘はすべての悪を捨て、すべての善を満たす努力を始めた人で、気力があり、刻苦勉励があり、すべての善の用事を投げ捨てません。比丘のみなさん。これが六番目の原因と縁です。

7.その比丘がサンガに行くと他の話をせず、畜生談をせず、自分でダンマの話をしたり、他人を招いて話してもらったり、聖人の沈黙(註2)を軽蔑しません。比丘のみなさん。これが七番目の原因と縁です。

8.その比丘は「形はこのよう、形が生じる原因はこのよう、形が維持できないことはこのよう、受はこのよう、受が生じる原因はこのよう、受が維持できないことはこのよう、想はこのよう、想が生じる原因はこのよう、想が維持できないことはこのよう、行はこのよう、行が生じる原因はこのよう、行が維持できないことはこのよう、識はこのよう、識が生じる原因はこのよう、識が維持できないことはこのよう」と、普通に五取蘊の発生と消滅が見えます。

 比丘のみなさん。これが八番目の原因と縁です。

 比丘のみなさん。まだ得たことがない初梵行である智慧(梵行の初期になければならない智慧)を得るために、これら八つの原因と八つの縁があり、得ることができた初梵行の智慧の更なる成長、発展、進歩させ、完成させます。

増支部アッダカニバータ 23巻152頁92項

註1: 好んで遊びに行く場所。原語は牛が草を食べに行く場所のこと。

註2: つまり沈黙する用意があり、沈黙を喜び、一般の人のように、それを名誉と考えて、奪って止めどなく喋らない。





智慧蘊の縁の限定的段階

 比丘のみなさん。その比丘が尊敬されず、畏敬されず、梵行仲間でやっていけない振る舞いがあればね、アビサマーチャーリカ(優れて正し行い)を完璧にすることはあり得ません(註1)。

 優れて正しい行いを完璧にすることができなければセカダンマ(更に学ぶべき高いダンマ)を完璧にすることはあり得ず、セカダンマを完璧にしなければ戒蘊を完璧にすることはあり得ず、戒を完璧にすることができなければサマーディ蘊を完璧にすることはあり得ず、サマーディを完璧にすることができなければ智慧蘊を完璧にすることはあり得ません。

 比丘のみなさん。その比丘が尊敬され、畏敬されていて、すべての梵行仲間と一緒にやっていくことができれば、優正行を完璧にすることはあり得ます。

 優れて正しい行いを完璧に満たすことができれば、セカダンマを完璧にすることはあり得、セカダンマを完璧に満たすことができれば戒蘊を完璧にすることはあり得、戒蘊を完璧にすることができればサマーディ蘊を完璧にすることはあり得、サマーディ蘊を完璧にできれば智慧蘊を完璧にすることはあり得ます。

増支部パンチャカニバータ 22巻16頁22項

註1: 学習者は、優正行とは勤めを行うこと、あるいは一般の善人が家庭内、友人間、そして一般社会で行うべき礼儀であり、これは高度なダンマに到達するためのダンマの実践において小さなことではないと観察して見なければなりません。簡単に言えば、学習者にふさわしくない行動をしないことです。初めに、自分の優正行をできるだけ善く処理してください。





正しい見解の結果が出るよう支援するもの

 比丘のみなさん。正しい見解を五つのダンマが支援すれば、当然功徳である心解脱と、功徳である智慧解脱があります。五つとはどれでしょうか。五つとは、比丘のみなさん。この場合、

1.正しい見解は戒が支援するダンマで、

2.正しい見解はスッタ(経)が支援するダンマで、

3.正しい見解はダンマの会話(註1)が支援するダンマで、

4.正しい見解はサマタが支援するダンマで、

5.正しい見解はヴィパッサナーが支援するダンマです。

 比丘のみなさん。正し見解をこれら五つのダンマが支援すれば、当然結果であり功徳である心解脱と、結果であり功徳である智慧解脱があります。

増支部パンチャカニバータ 22巻22頁25項

註1:サーカッチャーと言い、ダンマの解釈を明らかにする会話のこと。





明と解脱の原因と縁

 比丘のみなさん。

 善人との交際が完璧なら、当然サッダンマ(正法)を聞くことも完璧になり、

 サッダンマを聞くことが完璧なら、当然信仰も完璧になり、

 信仰が完璧なら、当然如理作意(理で考えること)が完璧になり、

 如理作意が完璧なら、当然サティと自覚が完璧になり、

 サティと自覚が完璧なら、当然完璧に根に注意し、

 完璧に根に注意すれば、当然三つの正しい行動も完璧になり、

 三つの正しい行動が完璧なら、当然四念処も完璧になり、

 四念処が完璧なら、当然七覚支も完璧になり、

 七覚支が完璧なら、当然明と解脱を完璧にします。

 比丘のみなさん。明と解脱の食べ物は当然このような状態で、このように完璧です。(この後、雨が高い所に降って低い所へ流れると、当然順に海まで豊かにする例え話をされています)。

増支部ダサカニバータ 24巻123頁61項





想はニャーナより先に生じる 

 「猊下。想が先に生じて、ニャーナ(知ること。智)が後から生じるのですか。それともニャーナが先に生じて、想が後から生じるのですか。あるいは想とニャーナは前後せず同時に生じるのですか」。

 ポッタパーダさん。想が先に生じて、ニャーナは後から生じます。人は「想が縁でニャーナが生じる」と感じるように、想の発生があるからニャーナが生じます。ポッタパーダさん。あなたはこれを「想が先に生じ、ニャーナは後から生じる。想の発生があるからニャーナが生じる」と、このように知りなさい。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻230頁288項

 (現代心理学の一般の自然の心理学では、誰でも想 Perception は知識 Knowledge より、あるいはニャーナ Wisdom より先に生じると見ることができます。つまり何かを良く知れば、「それにはどんな事情、状態、理由がある」という感覚が生じます。これは、私たちがそれを知ることで、それについての知識ができたと断定します。これが「想はニャーナ(知ること。智)より先に生じる」状態です。

 ダンマの面では、先ずサマーディやヴィパッサナーの感情として用いるものに良く想(認識)を作ると、それからそれに関わる知識「ニャーナ」と呼ぶ、どのように無常であり、苦であり、無我かを知ることが後から生じます。解脱の想は「このように解脱した」と、ダンマの面の最後のニャーナを生じさせるように、このように最後の想とニャーナまで、想とニャーナは段階的な対になっています)。





サマーディをするには、牝牛が丘を上るのと同じ秘訣がある

 比丘のみなさん。愚かで機知がなく方向を知らず、でこぼこしている山を歩くことに賢くない山で暮らしている牛が、「行ったことがない方向へ行けば、食べたことがない草を食べ、飲んだことがない水が飲める」と考え、前足を正しい場所に下ろさないで後ろ足を上げると(転ぶので)、その牛は行ったことがない方角へ行って食べたことがない草を食べ、飲んだことがない水を飲むことはできません。

 その上、初めにいた場所へ安全に戻ることもできません。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは、山で暮らしている牛が愚かで機知がなく、方向を良く知らず、でこぼこした山を歩くことに賢くないからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの場合の比丘は愚かで機知がなく、方向を良く知らず、愛欲を静め、悪を静めて、ヴィタカとヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達することに賢くありません。彼はそのニミッタ(註)を漏らさず味わわず、励んでたくさんせず、そのニミッタを自分の足場であるニミッタにしません。

 (註: ここでのニミッタという言葉は、それぞれの段階のサマーディを意味することを観察してください。911頁と1447頁参照)。

 彼は「何ならヴィタカとヴィチャーラが静まることで、内部の心を明るくする物であり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタカがなくヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達する」と考えますが、ヴィタカとヴィチャーラを静めて二禅に到達し、その感覚の中にいることができません。

 彼は続けて「何なら戻って愛欲を静め悪を静めてヴィタカとヴィチャーラがあり、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達する」と考えますが、愛欲を静め悪を静めて、ヴィタカとヴィチャーラがあり、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、その感覚の中にいることができません。

 比丘のみなさん。この比丘を私は、愚かで機知がなく、方向を良く知らず、でこぼこした山を歩くことに賢くない牛のように、両側が崩れ、両面が腐ったと言います。

 比丘のみなさん。賢く機知があり、方向を良く知り、でこぼこした山を歩くことに賢い山に棲んでいる牛は、「行ったことがない方向へ行って、食べたことのない草を食べ、飲んだことのない水が飲める」とこのように考え、前足を正しく置いてから後ろ足を上げるので、行ったことが無い方向へ行き、食べたことがない草を食べ、飲んだことがない水を飲むことができます。その上、初めに立って考えた場所へ安全に戻ることができます。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは山に棲んでいるその牛が賢く、機知があり、方向を良く知り、でこぼこした山を歩くことに賢いからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの場合の比丘は知識者で機知があり、方向を良く知り、愛欲を静め、悪を静めて、ヴィタカとヴィチャーラがあり、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、その感覚の中にいます。その人はそのニミッタのすべてに関わり、励んでたくさんし、維持して、良く維持しているニミッタにします。

 その人は続いて「何ならヴィタカとヴィチャーラ(熟考)が静まることで、私は、内部の心を明るくする物であり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタカがなくヴィチャーラもなく、サマーディから生じた喜悦と幸福だけがある二禅に到達し、その感覚の中にいるべきだ」と考え、そのニミッタを漏らさず味わい、励んでたくさんし、良く維持しているニミッタにします。

 その人が続けて「何なら、喜悦が薄れることで、捨になり、サティと自覚がある人になり、そして名身で幸福を味わう人になり、聖人方が『この定にいる人は、捨にいる人で、サティがあり正常な幸福だ」と言われる定である三禅に到達するべきだ」と考えます。、

 三禅に執着しなければその人は捨にいる人で、サティがあり、自覚がある人になり、そして名身で幸福を味わい、聖人方が「この定にいる人は、捨にいる人で、サティがあり正常な幸福だ」言われる定である三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。その人はそのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタを良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら、過去の喜びと憂いが消滅するので苦と楽を捨ててしまえることで、喜びと憂いが消滅することで苦も楽もない、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と考え、そのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタに到達して良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら形想をすべて越えることで、瞋恚想が消滅することで、心の中をいろんな想にしないことで心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、その感覚の中にいるべきだ」と考え、空無辺処に関わらないことで形想をすべて越えることができます。

 瞋恚想が消滅し、心の中をいろんな想にしないので、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。その人はそのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタに到達して良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら空無辺処をすべて越えることで、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいるべきだ」と考え、識無辺処に関わらないことで空無辺処をすべて越えることができ、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいます。その人はそのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタに到達して良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら識無辺処をすべて越えることで、私は心の中を「無」にする無所有処に到達し、その感覚の中にいるべきだ」と考え、無所有処に関わらないことで心の中を「何もない」にする無所有処に到達し、そしてその感覚の中にいます。その人はそのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタに到達して良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら無所有処をすべて越えることで非想非非想処に到達し、その感覚の中にいるべきだ」と考えます。非想非非想処に関わらないことで無所有処をすべて越えることができ、非想非非想処に到達し、常のその感覚の中にいます。その人はそのニミッタを洩らさず味わい、励んで増やし、そのニミッタに到達して良く維持しているニミッタにします。

 その人は続けて「何なら非想非非想処をすべて越えることで想受滅に到達し、常にその感覚の中にいるべきだ」と考え、想受滅に執着しないことで非想非非想処をすべて越えることができ、その人は想受滅に到達し、常にその感覚の中にいます。

増支部ナヴァカニバータ 23巻433頁239項

 (学習者は、賢い牛はしっかりした足場に前足を着き、それから後ろ足を上げれば転ばないと観察しなければなりません。この例えは今まで聞いたことがある物より絶妙で目新しく、興味深い物であり、完璧な正しい見解の状態があるので、ここに引用しました)。





六つの功徳を目指せば、無常想は快適

 比丘のみなさん。比丘が六つの功徳を望めば、当然すべてのサンカーラ(行)の中の無常想を無限に維持するのにふさわしいです。どの六つの功徳を望んでいるのでしょうか。六つとは、

 すべての行は盤石でない物として現れる

 (私の)心は世界のすべてを喜ばない

 (私の)心は世界のすべてから出る

 (私の)心は涅槃に傾いていく

 サンヨージャナ(結)のすべてが断ち切られ、

 最高のサマナの徳がある人になる。

 比丘のみなさん。比丘がこの六つの功徳を目指せば、当然すべての行の無限の無常想を始めるのにふさわしいです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻492頁373項





六つの功徳を目指せば、苦想は快適

 比丘のみなさん。比丘が六つの功徳を望んでいれば、当然すべてのサンカーラ(行)中の苦想を無限に維持するに本当にふさわしいです。どの六つの功徳を望んでいればでしょうか。六つとは、

 すべての行の中のニッビダーサンニャー(倦怠をもたらす想。厭離想。註1)が、目の前で死刑執行人が刀を振り上げているように現れる。

 (私の)心はすべての世界から出る。

 いつでも涅槃にサンティ(静穏。平穏)が見える人になる。

 (私の)すべての随眠が、すべて抜き取られてなくなる。

 (私は)いつでも(苦を終わらせる)仕事をする人になる。

 慈しみ(ダンマのある愛)のある勤めで教祖を喜ばす人になる。

 比丘のみなさん。比丘がこの六つの功徳を目指せば、当然すべてのサンカーラの苦想を、無限に維持するのに本当にふさわしいです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻492頁374項

註1: この言葉は、タイ版三蔵はニッバーナサンニャー(涅槃想)になっていますが、話に合わないので、ビルマ版のニッピダーサンニャー(厭離想)を採用しました。





六つの功徳に励めば、無我想は快適

 比丘のみなさん。比丘が六つの功徳を望んでいれば、当然すべてのダンマの中の無我想を、無限に維持するのに本当にふさわしいです。どの六つの功徳でしょうか。六つとは、

 (私は)すべの世界のアッタマヨー(註1)になる。

 (私の)すべてのアハンカーラ(註2)が消滅する。

 (私の)すべてのママンカーラ(註3)が消滅する。

 (私は)非凡な智識のある人になる。

 原因であるダンマは、(私が)良く見えた物になる。

 原因から生じるすべてのダンマが、(私が)良く見えた物になる。

 比丘のみなさん。比丘がこの六つの功徳を目指していれば、当然すべてのダンマの無我想を無限に維持するのに本当にふさわしいです。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻492頁375項

註1:アッタマヨーとは縁で作られない人、つまり縁が作れない、解脱した人という意味。

註2:アハンカーラとは心の中を「私」という執着にすること。我慢。

註3:ママンカーラとは心の中を「私の物」という執着にすること。我所有。アハンカーラもママンカーラも人の本性にある感覚で、随眠である煩悩です。二つが一緒に働くことを、アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤと言い、厳格に抜くことができた人は阿羅漢です。





苦の終りのために知らなければならないすべて

 比丘のみなさん。無知で博識でなく、愛欲が緩まず、すべての物を捨てなければ、苦の終りにふさわしい人ではありません。比丘のみなさん。すべての物とは何でしょうか。すべての物とは、(六内処入、六外処入、六識、六触、六受)です。

 (そのあと反対の内容を話されています。つまり苦の終りにふさわしいすべての物です。学習者は自分で比較できます)。

増支部サラーヤタナヴァッガ 18巻27頁28項

 (この後の経では、すべてのものを目・耳・鼻・舌・体・心で認識するダンマで説かれ:18巻22頁27項。また別の経では、すべての物を五蘊で説かれいます:17巻33頁56項)。





誤った見解、正しい見解の根源

1.誤った見解の

 比丘のみなさん。邪見が生じるこの二つの縁の、二つとは何でしょうか。二つとは、

 他の人たちの宣伝

 心の中を絶妙(理に適った思考。ヨーニソーマナシカーラ)にしない。

 比丘のみなさん。この二つの縁は邪見を生じさせるためです。


2.正しい見解の

 比丘のみなさん。この二つの縁は正しい見解を生じさせるためです。

  他の人たちの宣伝

  心の中を絶妙(理に適った思考)にする

 比丘のみなさん。この二つの縁は正しい見解が生じるためです。

増支部ドゥカニバータ 21巻109頁371項





ハ 正しい見解の実践規定について

消滅のために受を知る方が、欲望の縁にするために知るより良い

 比丘のみなさん。過去にあった蘊に言及したディッティ(見解)の規定でも、これからある蘊に言及したディッティの規定でも、過去と未来である蘊に言及したディッティの規定でも、サマナ・バラモンのどの集団も、すべて過去と未来の蘊に言及するディッティのある人で、彼らは過去と未来である蘊に言及し、六十二種のいろんなアディムッティバタ(動物の信仰の道。勝解処)の話を話します。

 それらすべてのサマナ・バラモンは、六触処で(感情に)触れたように、それぞれ自分のディッティで受を味わい、その受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老死があり、悲しみ嘆き、苦、憂い、すべての悩みが(そのサマナ・バラモンに)あります。

 比丘のみなさん。比丘が当然、六触処の発生と、維持できないことと、旨味と、低劣な害と、それから出る方便を真実のままに明らかに知れば、いつでもその比丘は、当然すべてのサマナ・バラモンより(その六触処について)明らかに知ったと言われます。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻57頁90項





愛欲の味と害と出る方便

愛欲の三つの状態

 比丘のみなさん。何がすべてのカーマ(愛欲)の旨味でしょうか。

 比丘のみなさん。この五つの欲があります。五つはどのようでしょうか。五つとは、望ましい物であり、満足すべき可愛らしい状態があり、欲望の住処であり愛欲の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触があります。

 比丘のみなさん。これを五欲と言います。どんな喜びや幸福もこの五欲に依存して生じ、これがすべての愛欲の旨味です。

 比丘のみなさん。何がすべての愛欲の低劣な害でしょうか。

(1) 比丘のみなさん。この世界の良家の子息は、技術、つまり手で想を使う技術、計算能力、考える能力、商売、酪農、学問を使う能力、王子の地位、あるいは何らかの技術で生活することで、寒さや暑さに遭遇しなければならず、困窮しなければならず、アブや蚊や陽射し、そしてすべての這う動物に触れ、疲れ、時間が来ても何も食べないことで飢えや渇きに遭遇します。

 比丘のみなさん。これが「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、人が自分で見ることができる、苦の山である愛欲の害です。

(2) 比丘のみなさん。良家の子息がそのように努力し、そのように努力を継続しても財産が築けないと、彼は当然悲しみ、当然困窮し、嘆き悲しみ、胸を叩いて泣き、「私の努力は無駄になってしまった。私の努力には結果がない」と取り乱します。比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(3) 比丘のみなさん。良家の子息がそのように努力し、そのように努力を継続して財産を築くことができても、「どうすれば王に財産を没収されないだろう。どうすれば強盗に奪われず、火事に遭わず、水害に遭わず、嫌いな相続者に奪われないだろう」と彼はまだ苦と憂いを味わいます。

 彼がこのように財産管理をすると、王に没収しされ、強盗に奪われ、火事に遭い、洪水に流され、嫌っている相続人に奪われて、当然彼は悲しみ、当然困窮し、嘆き悲しみ、胸を叩いて泣き、「私が持っていた物は消えてしまった」と錯乱します。比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(4) 比丘のみなさん。愛欲が原因でであり、発端に愛欲があり、愛欲が強制し、愛欲に原因がある害はまだあります。王は王と口論し、武士は武士と喧嘩をし、バラモンはバラモンと口喧嘩をし、長者は長者と口論し、母は子と口論し、子は母と口論し、父は子供と口論し、子は父と口論し、兄弟同士が喧嘩をし、姉妹同士が喧嘩をし、友達同士も口論をして、彼らは奪い合いの喧嘩に至り、素手や土塊や丸太や鋭利なもので攻撃し、死に至り、死ぬほどの苦を味わいます。

 比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(5) 比丘のみなさん。愛欲が原因であり、愛欲が切っ掛けであり、愛欲が強制し、愛欲に原因がある害はまだあります。それは全員が刀と盾を持ち、弓と矢筒を抱え、両陣が隊を組んで戦場に臨み、矢を射、槍を振り下ろし、刀を振り回し、その人たちはそこで矢に射られ、槍で突かれ、刀で頭を切られて死に至り、あるいは死ぬほどの苦を味わいます。

 比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(6) 比丘のみなさん。愛欲が原因であり、愛欲が切っ掛けであり、愛欲が強制し、愛欲に原因がある害はまだあります。それは全員が刀と盾を持ち、弓と矢筒を抱え、戦いになると上部に鋭利な物を埋め込んだ城壁に登って重い物を落とし、一度に集落全体の大勢の人を殺し、そこで刀で頭を切られて死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を受け取ります。

 比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(7) 比丘のみなさん。愛欲が原因であり、愛欲が発端であり、愛欲が強制し、愛欲に原因がある害はまだあります。ある人たちは、当然機会を狙って抜き足差し足で一軒家に忍び込み、催眠薬を使って盗み、寂しい場所で待ち伏せて悪事を働き、他人の妻を犯します。王はそれらの人を捕えて、役人に様々な方法で処刑させます。

 たとえば籐で打ち、皮の鞭で打ち、丸太で打ち下ろし、耳を削ぎ、鼻を削ぎ、耳と鼻を削ぎ、「酢を煮る鍋」と呼ばれる方法、「巻貝を結ぶ」と呼ぶ方法、「悪魔の口」と呼ぶ方法、「火の輪」と呼ぶ方法、「木の皮を着る」と言う方法、「鹿に立つ」と言う方法、「釣り針の餌を引っ掛ける」と呼ぶ方法、「硬貨」と呼ばれる方法、「沁みるブラシ」と言う方法、「回転する台」と呼ぶ方法、

「藁を立てる」と言う方法をし、熱い油を垂らし、犬を放って捨て、生きたまま木遣の上に寝かせ、刀で頭を切り、彼らは当然そこで死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を受けます。比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

(8) 比丘のみなさん。愛欲が原因の、愛欲が切っ掛けの、愛欲が強制し、愛欲に原因がある害はまだあります。すべての人が体と言葉と心で不正をし、体や言葉や心で不正をすれば、当然体が壊れて死んだ後、苦界、悪趣、苦を受け取る場所、地獄に至ります。比丘のみなさん。これも「愛欲が原因だ。発端に愛欲がある。愛欲が強制する。原因は愛欲にある」と、自分で見ることができる、愛欲の害です。

 比丘のみなさん。何がすべての愛欲から出る方便でしょうか。比丘のみなさん。すべての情欲のチャンダラーガ(満足して欲しがること。欲貪)を出してしまえること、欲貪を捨ててしまえること、それがすべての愛欲から出る方便です。

 比丘のみなさん。すべての愛欲の旨味を旨味と、危険を危険と、出る方便を出る方便と、このような状態で真実のままに知らないサマナ・バラモンの誰でも、そのサマナ・バラモンは、自分ですべての愛欲を知り尽くすこと、あるいは実践したことがある人のように、愛欲を知り尽すよう他人に勧めることはあり得ません。

 比丘のみなさん。一方すべての愛欲の旨味を旨味と、危害を危害と、出る方便を出る方便と、このように真実のままに知っているサマナ・バラモンは、そのサマナ・バラモンがすべての愛欲を自分で知り尽すこと、あるいは実践したことがある人のように、愛欲を知り尽すよう他人に勧めること、それはあり得ます。

中部ムーラバンナーサ 12巻173頁197項

 (このような知識は正しい見解の助けになるので、ここに引用しました)。

註: 上記の刑罰の詳しい説明は、解説六の「愛欲から生じる苦害」にあります。

http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/2-3-2.html





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