正しい見解は善の夜明け
比丘のみなさん。旭日が昇ってくる時、その前に現れるニミッタ(前兆)は暁です。比丘のみなさん。同じようにすべての善の前に現れる前兆は、正しい見解です。
比丘のみなさん。
正しい考えは、当然正しい見解のある人に十分あり、
正しい発言は、当然正しい考えのある人に十分あり、
正しい業は、当然正しい言葉のある人に十分あり、
正しい生活は、当然正しい業のある人に十分あり、
正しい努力は、当然正しい生活のある人に十分あり、
正しいサティは、当然正しい努力のある人に十分あり、
正しいサマーディは、当然正しいサティのある人に十分あり、
正しいニャーナは、当然正しいサマーディのある人に十分あり、
正しい解脱は、当然正しいニャーナのある人に十分あります。
正しい見解は四聖諦を知ることの夜明け
比丘のみなさん。旭日が昇ってくる時、その前に現れる前兆は暁です。同じように、比丘のみなさん。四聖諦を真実のままに完璧に知る前に現れる前兆は正しい見解です。比丘のみなさん。正しい見解のある比丘が期待できることは「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ることです。
比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「苦はこのよう。苦が生じる原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と知る道具であるヨーガカンマ(註)があるべきです。
註:ヨーガカンマとは、目的を達成するために何らかの形で厳格にする、系統的努力のこと。
正しい見解に、罪の感覚も含めるべき
「猊下。とても良い響きです。猊下。とても美しい響きです、猊下が公開されたたくさんのダンマの説明は、伏せている物を裏返したようで、閉じているものを開いたようで、迷っている人に道を教えるようで、目の良い人が形を見られるように闇の中に灯火を持って来たようです。
猊下。私を教えと比丘サンガも含めた世尊に拠り所として至らせて下さい。今日から生涯、三宝を拠り所にする清信士として、私を憶えておいてください。私は乱暴者、迷った人、悪の心の人にふさわしい罪が山のようにあり、望みのためにダンマのある父の命を奪い、ダンマの王を死なせました。猊下。今後は慎み深くするために、私の罪を受け取ってください、猊下」。
さて、大王。乱暴者で迷った人で、望みを叶えるためにダンマのある父上、ダンマの王の命を奪って死なせたほど悪の心の人にふさわしく、罪は陛下を埋もれさせるほどあります。
大王。しかし陛下が罪を罪と見てダンマで返したことで、私は陛下の罪を受け入れます。大王。罪を罪と見てダンマで返した人は、その後注意深くなります。これはその人のアリヤヴィナヤ(聖なる律。仏教という意味)での発展です。
聖諦智は素早いニャーナ
正しい身と正しい言葉
比丘のみなさん。四つがある武士は当然王にふさわしい人で、王が使うにふさわしい人で、王の体の一部と見なされます。四つは何でしょうか。四つとは、この場合の武士は立場に賢く、遠くを射る人で、素早く射る人で、そして大きな部隊を撃破できる人です。
有身を消滅させるパティパダーを使う
比丘のみなさん。四つのダンマがある比丘も同じです。つまり供養されるべき人、奉仕されるべき人、布施されるべき人、合掌されるべき人で、そしてそれ以上の徳田はない世界の徳田です。四つのダンマとは何でしょうか。この場合の比丘は立場に賢く、遠くを射る人で、素早く射る人で、大きな部隊を撃破できる人です。
比丘のみなさん。立場に賢いとはどのようでしょうか。この場合の比丘は戒のある人で、パーティモッガ(227戒)に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、どんな小さな罪でも普段から罪の危険が見える人で、すべての教条を学んで遵守します。これが立場に賢い比丘です。
比丘のみなさん。遠くを射ることができる比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は、過去、未来、現在のどんな形も、内部のも外部のも、上等でも下等でも、粗悪でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、「すべての形は私の物でなく、私でもなく、私自身ではない」と、このように、当然正しい智慧で真実のままに見ます。
(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように述べられています)。
これが遠くを射ることができる比丘です。
比丘のみなさん。素早く射ることができる比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知っています。これが素早く射ることができる比丘です。
比丘のみなさん。大軍を打ち破る比丘はどのようでしょうか。その場合の比丘は、当然大きな無明の固まりを打ち破ります。これが大軍を撃破できる比丘です。
比丘のみなさん。これらのダンマがある比丘は当然供養されるべき人で、奉仕されるべき人で、布施されるべき人で、合掌されるべき人で、そしてそれ以上の徳田はない世界の徳田です。
(ブッダは四聖諦を知ることを正しい見解としていますが、煩悩を攻撃し、涅槃に到達することにおいて他の正しい見解より素早い正しい見解なので、ここでは素早く射る類のニャーナと言います)。
捨てれば、却って利益がある
比丘のみなさん。あなたの物でない物は捨ててしまいなさい。そうすれば、あなたの利益と幸福のためになります。比丘のみなさん。あなたの物ではない物は何でしょうか。
比丘のみなさん。目はあなたの物ではないので、捨ててしまいなさい。あなたが目を捨てれば、あなたの利益と幸福になります。(耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。この辺りにある草や木の枝や木の葉など何でも、人がそれを運んで行って捨てしまい、あるいは燃やしてしまい、あるいはその人の縁に従ってしたら、みなさんは、私を運んでいく、あるいは私を燃やす、あるいは私を彼らの縁にすると感じますか。
「そうは感じません。猊下」。
どうしてですか。
「猊下。それらの物は自分、自分の物という気持ちがないからです。猊下」。
比丘のみなさん。同じように、目・耳・鼻・舌・体・心はあなたではないので、それを捨ててしまいなさい。あなたがそれを捨ててしまえば、あなたの利益と幸福のためになります。
(「自分ではない」と呼ぶ物を、他の経:18巻162頁220項では、外処入つまり目・耳・鼻・舌・体・心で、また別の経:18巻279頁287項、17巻42頁71項では、五蘊、つまり形・受・想・行・識で、別の経:18巻100頁149項では五つのアーヤタニカダンマ、つまり六内処入、六外処入、六識、六触、六受、合計30で説かれているのもあります)
人を殺さないで煩悩を殺しなさい
みなさん、木を切らないで森を切りなさい。森から危険が生じるからです。比丘のみなさん。森と森の荒廃を切ってしまい、森のない人におなりなさい。
煩悩が森の荒廃のようであり、まだ絶滅してなく、すべての女性に対する気持ちが微塵でも残っている間はいつでも、乳を飲んでいる子牛が母牛を慕うように、女性を恋慕する心があります。
みなさん。人が池の蓮を手で引き抜くように、自分の心の未練を引き抜いてしまい、平安の道を塗り固めなさい。涅槃はスガタ様が説いたものだから。
明は八つの正しい道を引き寄せる
比丘のみなさん。明はすべての善が揃う前に、慙愧(罪を恥じ、罪を恐れること)と一緒に現れます。比丘のみなさん。
正しい見解は、当然明らかな見方がある明に達した人に十分あり、
正しい考えは、当然正しい見解のある人に十分あり、
正しい発言は、当然正しい考えのある人に十分あり、
正しい業は、当然正しい言葉のある人に十分あり、
正しい生活は、当然正しい業のある人に十分あり、
正しい努力は、当然正しい生活のある人に十分あり、
正しいサティは、当然正しい努力のある人に十分あり、
正しいサマーディは、当然正しいサティのある人に十分あり、
(八正道、あるいはサンマッタは当然十分に完璧だということです。別の経:24巻228頁105項ではあと二つ話されています)。
正しいニャーナ(智)は、当然正しいサマーディのある人の十分あり、
正しい解脱は、当然正しいニャーナのある人に十分あります。
ダンマは明の部分
比丘のみなさん。この二種類のダンマは明の部分です。二種類は何があるでしょうか。サマタとヴィパッサナーです。
比丘のみなさん。サマタの訓練をするとどんな利益があるでしょうか。訓練すると心が発展します。心が発展するとどんな利益があるでしょうか。心が発展すると貪りを捨てることができます。
比丘のみなさん。ヴィパッサナーに励むとどんな利益があるでしょうか。励めば智慧が発展します。智慧が発展するとどんな利益があるでしょうか。智慧が発展すると無明を捨てることができます。
ハ 正しい見解の原因と縁
(世俗の)恐怖は正しい見解の原因
比丘のみなさん。この四種類の恐怖があります。四種類とは何でしょうか。自分で自分を非難する恐怖、他人から非難される恐怖、刑罰の恐怖、悪趣の恐怖です。
比丘のみなさん。自分で自分を非難する恐怖はどのようでしょうか。この場合の人は、当然「不正な業、不正な言葉、不正な心の振る舞いをすれば、戒によって自分で自分を非難せずにはいられない」と、このように熟慮します。
その人は自分で自分を非難する危険を恐れるので、不正な行動、不正な言葉、不正な考えを捨て、自分を純潔に管理します。比丘のみなさん。私はこれを、自分で自分を非難する恐怖と言います。
比丘のみなさん。他人から非難される恐怖はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は当然「不正な業、不正な言葉、不正な心の振る舞いをすれば、他人が戒で私を非難しないことはない」と、このように熟慮します。その人は他人に非難される危険を恐れるので、不正な行動、不正な言葉、不正な考えを捨て、自分を純潔に管理します。比丘のみなさん。私はこれを、他人に非難される恐怖と言います。
比丘のみなさん。刑罰の恐怖はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、凶悪な強盗を捕えて、藤の鞭、縄の鞭、皮の鞭による鞭打ち、丸太で叩きつけ、手を切り落とし、足を切断し、手足を切り落とし、耳を削ぎ、鼻を削ぎ、耳と鼻を削ぎ、「酢を煮る鍋」と呼ばれる方法、「巻貝を結ぶ」という方法、「悪魔の口」と呼ぶ方法、「火の輪」という方法、「木の皮を着る」と言う方法、
「鹿に立つ」という方法、「釣り針の餌を引っ掛ける」という方法、「硬貨」と言う方法、「沁みるブラシ」という方法、「回転する台」という方法、「藁を立てる」という方法をし、熱い油を垂らし、犬を放って捨て、生きたまま木遣の上に寝かせ、刀で頭を切り、いろんな方法で処刑するのを見ます。
その人は「凶悪な強盗はこのようなカンマを作ったので、国王に捕えられていろんな方法で処刑される」と熟慮します。彼は刑罰を恐れるので、他人の財産を奪う行動をしません。比丘のみなさん。私はこれを、刑罰の恐怖と言います。
比丘のみなさん。悪趣の恐怖はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は当然「凶悪で不正な業の報いが将来ある。私が体で不正な行動、言葉で不正な行動をし、心で不正な行動をすれば、体が壊れて死んだ後、苦界、地獄、悪趣に至るのは疑うまでもない」と熟慮します。
その人はこのように悪趣を恐れるので、不正な業、不正な言葉、不正な考えを捨て、正しい考えに励み、自分を純潔に維持します。比丘のみなさん。私はこれを悪趣の恐怖と言います。
比丘のみなさん。これが四種類の恐怖です。
(恐れるべき物を恐れさせる知識を、初等の正しい見解とすることができるので、ここに引用しました)。
註: 上記の刑罰の詳しい説明は、解説六の「愛欲から生じる苦害」にあります。詳しくは本書の937頁から938頁を参照してください。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/2-3-2.html
四聖諦はニッペーディカパンニャー(明達慧)の感情
(智慧があると言われる人は、当然四聖諦と加害しないことを熟慮する)
「猊下。『ダンマを維持する博学者、ダンマを維持する博学者』という言葉がありますが、どれほどの理由でなれるのですか、猊下」。
本当に善い。本当に善い、比丘。あなたの智慧は鋭い。美しい機知であり、聞いて心地よい質問です。あなたは、博学者はどれほどの理由でダンマを維持できるかという質問ですか。
「はい、猊下」。
比丘。私は経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)である、十分たくさんのダンマを説きました。比丘。たった四章のガター(詩。言葉)の要旨を知り、ダンマにふさわしいダンマを実践する人を『ダンマのある博学者』と言います。
「素晴らしいです、猊下」。
「猊下。『学問があり煩悩を突き刺す智慧がある人、学問があり煩悩を突き刺す智慧がある人』という言葉がありますが、どれほどの理由でなれるのでしょうか。猊下」。
本当に善い。本当に善い、比丘。あなたの智慧は鋭い。美しい機知であり、聞いて心地よい質問です。あなたは、博学者はどれほどの理由で、知識があり、煩悩を突き刺す智慧(ニッペーディカパンニャー。明達慧)のある人になるのかという質問ですか。
「そうです、猊下」。
比丘。この場合の比丘は、「こういうのが苦」と学習して、その真実の内容を洞察し、智慧で見えているのでも、「こういうのが苦の原因」と学習してその真実を洞察し、智慧で見えているのでも、「こういうのが苦の消滅」と学習してその真実を洞察して智慧で見えているのでも、
「こういうのが苦の消滅に至る道」と学習して、その真実を洞察し、智慧で見えているのでも、比丘。こういうのを「学習があり、煩悩を突き刺す智慧がある人」と言います。
「素晴らしいです、猊下」。
「猊下。『博学者は智慧が多い、博学者は智慧が多い』という言葉がありますが、どれほどの理由でなるのでしょうか」。
本当に善い、本当に善い比丘。あなたの智慧は鋭い。美しい機知であり、響きの良い質問です。あなたは、博学者はどれほどの理由で、智慧が多い人になるのかという質問ですか。
「そうです、猊下」。
比丘。博学者は智慧が多いという場合は、当然自分を困らせる考えをせず、他人を困らせる考えをせず、自分と他人の両方を困らせる考えをしないで、考える時は当然利益があること、自分のためになり、他人のためになり、自分と他人のためになる考え、つまり世界全体の利益になることを考えます。比丘。こういうのを博学者は智慧が多いと言います。
(ここでのニッペーディカパンニャーとは、正しい見解の代名詞なので、ここに引用しました)。
ダンマは智慧を発展させる道具
比丘のみなさん。この四つのダンマは智慧を発展させます。四つはどのようでしょうか。四つとは、
善人と付き合う
サッダンマ(正法)を聞く
心を絶妙にする(理に適った考察)
ダンマにふさわしいダンマの実践をする
比丘のみなさん。この四つのダンマは、智慧を発展させます。
(この四項は重要な教えは、「智慧を発展させるもの」以外にも、他の21の経で、次のように述べられています。
人間にとって恩恵の多いダンマ(21巻332頁249項)
涅槃の流れに至らせるもの(19巻332頁249項)
預流果を明らかにするもの(19巻506頁1634項)
一来果を明らかにするもの(19巻517頁1635項)
不還果を明らかにするもの(19巻517頁1636項)
阿羅漢果を明らかにするもの(19巻517頁1637項)
必ず智慧を得させるもの(19巻517頁1638項)
智慧を繁栄させるもの(19巻517頁1640項)
偉大な智慧を持たせるもの(19巻518頁1641項)
重厚な智慧を持たせるもの(19巻518頁1642項)
発展した智慧をもたせるもの(19巻518頁1643項)
深遠な智慧を持たせるもの(19巻518頁1644項)
無限の智慧を持たせるもの(19巻518頁1645項)
大地のような智慧をもたせるもの(19巻518頁1646項)
智慧の多い人にするもの(19巻518頁1647項)
突然智慧のある人にするもの(19巻518頁1648項)
敏捷な智慧のある人にするもの(19巻518頁1649項)
明るい智慧の人にするもの(19巻518頁1650項)
鋭い智慧のある人にするもの(19巻518頁1651項)
突き刺す物である智慧がある人にするもの(19巻518頁1653項)
涅槃を探求する理由
比丘のみなさん。この四種類の素晴らしい探求があります。四種類はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の人は、自分が当たり前に老いがある人で、当たり前にある老いの害を明らかに知り、そしてこの上なく素晴らしい努力から生じた安全なダンマであり、老いのないダンマである涅槃を探求します。
ある人は自分が当たり前に病気がある人で、当たり前にある病気の害を明らかに知り、そしてこの上なく素晴らしい努力から生じた安全なダンマであり、病気のないダンマである涅槃を探求します。
ある人は自分が当たり前に死がある人で、当たり前にある死の害を明らかに知り、そしてこの上なく素晴らしい努力から生じた安全なダンマであり、死のないダンマである涅槃を探求します。
ある人は自分が当たり前に悲しみがある人で、当たり前にある悲しみの害を明らかに知り、そしてこの上なく素晴らしい努力から生じた安全なダンマであり、悲しみのないダンマである涅槃を探求します。
比丘のみなさん。これらが四種類の素晴らしい探求です。
すべての段階のサマーディ(サマーパティ)は解脱の足場になる
(これは実践において非常に重要です。四禅に到達するだけで漏が終わると多くの長老方が言うのを聞いたことがあり、またある方は「無形禅定は漏をなくすのに使えない」と言われ、あるいは「四禅には五蘊が揃っていない」と言われますが、この経は、これらすべての疑問に答えることができるからです。
そしてサヤームラットのコンピューターでパーリ語を調べた結果、ブッダヴァチャナには形禅定、無形禅定という言葉はありませんでしたが、どのレベルのサマーディにも使えるサマーパティという言葉があります。ジャーナ(定)という言葉は形のサマーパティ(入定)には使いますが、無形のサマーパティには使いません。
だからすべてに使える呼び方には、サマーディまたはサマーパティを使うべきです。ブッダは、ルーパサンニャー(形想)とアルーパサンニャー(無形想)という言葉を、ルーパジャーナ(形禅定)、アルーパジャーナ(無形禅定)の意味で使われていました)。
比丘のみなさん。初禅に依存し、二禅に依存し、三禅に依存し、四禅に依存し、空無辺処に依存し、識無辺処に依存し、無所有処に依存し、非想非非想処に依存し、想受滅に依存する(註1)漏の終りについて話します。
比丘のみなさん。「比丘のみなさん。初禅に依存した漏の終りについて話します」と私が言うのは、何に依存して言うのでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲が静まり、悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。初禅にはダンマである(義務をしている)形・受・想・行・識があります。
その人は(無常など十一の状態がある)そのダンマが不変でない物①に、苦であるもの②に、病気③に、腫物の頭④に、矢⑤に、困難⑥に、患い⑦に、他人のよう⑧に、壊れた物⑨に、空の物⑩に、自分でない物⑪に見えます。
その人はこれらのダンマで心(つまり五蘊)を維持し、そして「それは静まった、それは緻密だ。それはすべてのサンカーラ(行)が静まった自然であり、すべてのウパティ(しがらみ。依)を返却した物であり、欲望の終わった物、薄れること、消滅、涅槃だ」と知って不死(つまり涅槃)に傾きます。
その人が足として初禅があるヴィパッサナーを維持すれば、当然漏の終りに至ります。漏の終りに至らなければ、初等のサンヨージャナ(十結)の五つがなくなって、そして(アマタダートゥ=不死を心に刻むことで生じる)ダンマラーガ、ダンマナンディの威力でその有で般涅槃する人、その世界から戻って来ない人、オッパーティカ=不還です。
比丘のみなさん。弓の名手やその弟子が、藁や土で作った人形で練習すると、後に彼は素早く射ることができ、遠くまで射ることができる名手になり、大軍を撃破できるようになります。比丘のみなさん。同じように比丘は愛欲が静まり悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。
(彼は無常など十一の状態で五蘊を認識し、そして心が不死(つまり涅槃)に傾き、足として初禅があるヴィパッサナーニャーナを維持すれば、当然漏の終りに至ります。漏の終りに至らなければ、その涅槃にダンマラーガ、ダンマナンディがあるので、その有で般涅槃する人、その世界から戻って来ない人オッパーティカ不還です)。
比丘のみなさん。私が「比丘のみなさん。初禅に依存することで漏が終わると言います」と言うのは、これに依存して言います。(二禅、三禅、四禅に依存した漏の終りについても、初禅の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。私が「空無辺処に依存して漏が終わります」と言うのは、何に依存して言うのでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は形想をすべて越えることができ、有対想が消滅し、いろんな想を気に留めないので心の中を無限の空にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
その空無辺処に(義務をしている)ダンマ(註2)つまり形・受・想・行・識があります。その人はそれらのダンマを不変でない物と見、苦であり、病気であり、腫物の頭であり、矢であり、困難であり、病であり、他人のようであり、壊れ物であり、空の物であり、自分の物ではないと見ます。
その人はこの(無常など十一の状態がある)ダンマ(四つだけの蘊。註3)で心を維持し、そして「それは静まった、それは緻密だ。それはすべての行が静まった自然、すべてのウパティを返却した物、欲望の終わり、薄れること、消滅、涅槃だ」と認識することで、心は不死(つまり涅槃)に傾きます。
その人は空無辺処が足としてあるヴィパッサナーニャーナを維持すれば、当然漏の終りに至ります。漏の終りに至らなければ、初等のサンヨージャナ(結)の五つが無くなって、そして(アマタダートゥを心で意識することで生じる)ダンマラーガ、ダンマナンディの威力で、その有で般涅槃する人、その世界から戻って来ない人オッパーティカ不還です。
比丘のみなさん。弓の名手やその弟子が、藁や土で作った人形で練習すれば、後に素早く射ることができ、遠くを射ることができる名手になり、大きな軍勢を撃退できるように、比丘のみなさん。比丘がすべての形想を通過し、パティガサンニャー(有対想)が消滅し、心の中をいろんな想にしないことで心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にます。
(その人は四つだけの蘊を意識し、無常などがある十一の状態がある五蘊を規定し、そして心を涅槃に傾け、空無辺処などがあるヴィパッサナーニャーナを維持すれば、漏の終りに至ります。そうでなければ、その涅槃の中にダンマラーガ、ダンマナンディがあるので、不還になります)。
比丘のみなさん。私が「比丘のみなさん。初禅に依存することで漏が終わると言います」と言うのは、これに依存して言っています。(識無辺処、無所有処に依存して漏を終わらせる場合も、空無辺処の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。今述べたような理由で、サンニャーサマーパティがある分だけアンニャーパティヴァーダ(註4)もあると言うことができます。
比丘のみなさん。あと二つの処、つまりそれらのサンニャーサマーパティ(七項目。註5)に依存する非想非非想処サマーパティと想受滅を、サマーパティに入ることに賢い比丘、サマーパティから出ることに賢い比丘は、サマーパティに入るにも、サマーパティから出るにも、何でも自分で正しくできると私は言います。
(「想のある定をヴィパッサナーの基礎に使うことができる」というのは、まだ想がある定は、その定に現れている蘊、たとえば無常の状態などを意識する道があり、それを規定し始めれば、当然ヴィパッサナーと呼ぶ智慧が生じるという意味です。一方想がない定、つまり非想非非想処と想受滅は想がないので、どんな状態の蘊も意識する術はありませんが、漏が残っているかいないか、定の最終結果を知ることができます)。
註1: ビルマ版三蔵で「想受滅に依存して」と言っている所が、タイ版では「非想非非想処」で止まっています。これを実践で熟慮し、そしてサーリプッタの心が、ブッダが(ブッダの言葉によるブッダの伝記343頁で)言われている想受滅サマーバティに入って出たことを考察すると、ビルマ版三蔵の記述は他の経の教えと矛盾がなく、ブッダの言葉の真偽を判断する教えであるマハーパデーサに照らして正しいと見ます。
註2: 形想のサマーディには五蘊が揃っていて、無形想のサマーディには四蘊だけ、つまり形蘊はないと観察して見なければなりません。
註3: 四つだけとは、空無辺処にある受・想・行・識のことです。
註4: 七想サマーパティとは、四形想と無形想の最初の三つを合わせた七つを、想のあるサマーパティ(サマーディである状態)なので想サマーパティと呼びます。想サマーパティが七つあるので、洞察も七つあります。つまり阿羅漢果の洞察はこの場合形想四つ、無形想三つなので、「形サマーパティの数だけ洞察もある」と言います。
これは、初めに七つのサンニャーサマーパティ(想入定)が生じて維持し、それからサンニャーが関与しないサマーパティ(入定)である、非想非非想処と想受滅が生じるという意味です。だから二つの念処は七つのサマーパティに依存すると言います。
註5: 七想サマーパティが先に生じているので、この二つの無想サマーパティである、非想非非想処と想受滅が生じることができます。だから「二つの処は七つのサマーパティに依存する」と言われました。
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