解説十四 正しい見解
(七十七話)





八正道の各項目の例示と解説

 比丘のみなさん。みなさんに八正道を分類して説明します。みなさんこれを聞いて、心の中を有益になさい。比丘のみなさん。八正道はどのようでしょうか。八正道は正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。苦の知識、苦の原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識です。比丘のみなさん。これを正しい見解と言います。

 比丘のみなさん。正しい考えは何でしょうか。愛欲から出る考え、恨まない考え、加害しない考えです。比丘のみなさん。私はこれを正しい考えと言います。

 比丘のみなさん。正しい言葉はどのようでしょうか。真実でないことを言うのを避ける意図、告げ口を言うのを避ける意図、粗暴な言葉を言うのを避ける意図、無駄話をするのを避ける意図です。比丘のみなさん。私はこれを、正しい言葉と言います。

 正しい業はどのようでしょうか。殺生を避ける意図、所有者が与えていない物を所有することを避ける意図、品行(註1)でないカンマを避ける意図です。比丘のみなさん。私はこれを正しい業と言います。

 比丘のみなさん。正しい生活はどのようでしょうか。この場合の聖人である弟子は間違った生活を避け、当然正しい生活で身を養います。比丘のみなさん。私はこれを正しい生活と呼びます。

 比丘のみなさん。正しい努力はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は満足を生じさせ、まだ生じていない罪である悪を生じさせないために当然努力し、心を支え、生じた悪を捨てるために当然努力を始め、心を支えます。

 まだ生じていない善を生じさせるために当然満足を生じさせ、当然努力し、当然心を支え、努力を始めます。生じた善を維持し、汚さず、更に成長発展させ、完成させるために当然満足を生じさせ、当然努力し、心を支え、努力を始めます。比丘のみなさん。私はこれを正しい努力と呼びます。

 比丘のみなさん。正しいサティはどのようでしょうか。この場合の比丘は、常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜いてしまうことができます。当然常にすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜いてしまえる人です。

 当然常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜いてしまえる人で、当然常にすべてのダンマの中のダンマが見える人であり、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜いてしまえる人です。比丘のみなさん。私はこれを、正しいサティと呼びます。

 比丘のみなさん。正しいサマーディはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、すべての愛欲が静まり、すべての悪が静まり、ヴィタッカ(心に掛けること。思惟)とヴィチャーラ(心に掛けていることを考えること。考察)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心の内部を明るくする物であり、一番のダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 更に喜悦が薄れて、当然捨にいる人であり、当然名身で幸福を味わい、サティがあり自覚があり、当然聖人の方々が「捨にいる人はサティがあり、正常な幸福にいる」と称賛する三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 幸福を捨ててしまい、苦を捨ててしまい、貪りと過去の憂いを捨ててしまうことで苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。私はこれを、正しいサマーディと呼びます。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻10頁33項

註1: 他の多くの所では、「すべての愛欲の間違った振る舞いを避ける」という言葉を使われています。





イ 正しい見解の総説

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識のどれも、比丘のみなさん。私はこれを正しい見解と言います。

長部マハーヴァッガ 10巻18頁299項





二種類の説明による正しい見解

ローギヤとロークッタラ

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。私は正しい見解にも二つの部分があると言います。つまりまだ漏(サーサヴァ。註1)になる正しい見解、徳の部分であり、報いとしてウパディ(体など存在の基礎であるもの。依)がある正しい見解もあり、アリヤ(聖)であり、漏がなく、ロークッタラ(出世間)の道である正しい見解もあります。

 比丘のみなさん。漏になり、徳の部分であり、報いとしてウパディがある正しい見解はどのようでしょうか。それは「与えた布施には(結果が)あり、供え物には(結果が)あり、祭祀にも(結果が)あり、善や悪を行った動物のカンマに報いがあり、この世界があり、別の世界があり、

母がいて、父がいて、オッパーティカ(突然生まれる動物。不還)もいる。正しい実践をし、正しい智慧でこの世界と他の世界を明らかにし、他の人に公開したサマナ・バラモンもいる」という見解です。比丘のみなさん。これがまだ漏になり、報いとしてウパディがあり、徳の部分である正しい見解です。

 比丘のみなさん。ロークッタラ(第一義体。世界から脱す教え)であり、アリヤであり、漏がない正しい見解はどのようでしょうか。それは、智慧、智慧根、智慧力、七覚支の択法、そして聖人の心がある人、無漏の心の人、八正道に励む人のマッガ(道)である正しい見解です。比丘のみなさん。これが漏がないロークッタラのマッガであり、アリヤである正しい見解です。

中部ウパリバンナーサ 14巻181頁256項

註1:この「サーサワ」のような深遠な規定の言葉は、ここでは今まで訳されて来たとおりの概略で訳しておきます。時には意味を明らかに訳すこともあります。関心のある人は1287頁の正しいサマーディの部の「七つの部下が関連し合う働き」で、これらの訳語を探して見ることができます。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-9-1.html

 (学習者は「同じ正しい見解という言葉も、正反対に分類することができる」と観察して見なければなりません。つまり一つは漏になり、報いであるウパディがあり、徳の部分であり、自我の状態があり、あるいは自我と関わっている正しい見解で、もう一つの正しい見解はすべてが反対で自我の状態がなく、徳と関わらず、その上ロークッタラに導きます。

 だからローギヤ(世俗)である正しい見解とロークッタラ(聖人の物)である正しい見解を区別して、一緒にするべきではありません。あるいは現状のように軽率、あるいはぞんざいに話せば、仏教のダンマが理解できなくなるので、混同して使うべきではありません。どうぞみなさん、細心の注意をお願いします)。





ロ 正しい見解の状態と同義語

正しい見解の状態

 比丘のみなさん。比丘が不変でない目を不変でないと見れば、そのような見方は、その比丘の正しい見解です。

 正しく見ている時は、当然倦怠し、

 ナンディ(喜び)が終わればラーガ(貪り)が終り、

 ラーガが終わればナンディが終り、

 ナンディとラーガが終われば、「心は良く脱した」ということができます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻179頁245項

 (残り五つの内処入である耳・鼻・舌・体・心と、六つの外処、つまり形・声・香・味・触・考えについても、目の場合と同じように話されています)。





正しい見解の状態(最高レベル)

「猊下。『正しい見解。正しい見解』という言葉は、どれほどの理由がで言うのですか、猊下」。

 カッチャーナさん。世界の動物は二極に依存しています。つまり「すべてがある」極と、「何もない」極です。カッチャーナさん。人が世界の発生源であるダンマを正しい智慧で真実のままに見れば、世界にすべての物があるという見解は当然ありません。カッチャーナさん。世界の動物のほとんどは、夢中になるウパヤーヤ(引っ張って行く欲望)があり、取があり、随眠があります。

 一方正しい見解は、心が「私の自我」と執着する基盤であり、執着が眠る場所である欲望にも取にも、当然どちらにも近づかず当然執着しません。

 「苦は、生じる時は当然生じ、苦は、消滅する時は当然消滅する」というのは、正しい見解の人は疑わない真実です。このようなニャーナ(知ること。智)は他人を信じなくても、当然この場合の人にあります。カッチャーナさん。正しい見解は、当然これだけの理由です。

 (この種の正しい見解はロークッタラレベル、つまりロークッタラになり、漏にならず、徳の部分がないので、一般人、一般の学習者の耳にあまり届きません)。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻20頁42項





いろんなロークッタラの正しい見解

(サーリプッタの言葉で)

 (サーリプッタの言葉ですが、正しい見解の学習を完璧にするために引用します)。

イ 善・悪について

 「ご年配。聖なる弟子(聖人である弟子)が悪と悪の原因、善と善の原因を明らかに知れば、それだけでその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに揺らぎない帰依があり、このサッダンマ(正法)に来ると言われますか」。

 「ご年配。悪と呼ぶ物はどのようでしょうか。ご年配。生き物の命を落とすことが悪で、所有者が与えない物を盗ることは悪で、愛欲の間違いは悪で、偽りを言うことは悪です。ご年配。世尊はこれらを悪とおっしゃいます」。

 「ご年配。悪の原因と呼ばれる物はどのようでしょうか。貪りは悪の原因で、怒りは悪の原因で、愚かさは悪の原因です。ご年配。世尊はこれらを悪の原因とおっしゃいます」。

 「ご年配。善と呼ばれる物はどのようでしょうか。ご年配。殺生を避ける意図は善で、盗みを避ける意図は善で、愛欲の間違いを避ける意図は善で、嘘を避ける意図は善で、両舌・告げ口を避ける意図は善で、悪口を避ける意図は善で、無意味な長話を避ける意図は善で、貪らないことは善で、復讐しないことは善で、正しい見解は善です。ご年配。世尊はこれらを善とおっしゃいます」。

 「ご年配。善の原因と呼ばれるものはどのうようでしょうか。貪らないことは善の原因で、怒らないことは善の原因で、迷わないことは善の原因です。ご年配。世尊はこれらを善の原因とおっしゃいます」。

 「ご年配。聖なる弟子が悪をこのように明らかに知り、悪の原因をこのように明らかに知り、善をこのように明らかに知り、善の原因をこのように明らかに知れば、その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋恚随眠を減らし、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨て明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

ご年配。これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに対して揺るがない帰依があり、このサッダンマに来るとおっしゃいます」。



ロ 四食について

 「ご年配。聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っ直ぐに進み、ダンマに対して揺るがぬ帰依を生じさせ、このサッダンマに来させる道は、他にありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が食べ物、食べ物の発生源、食べ物の消滅、食べ物の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、ご年配。それだけでその聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに対して揺るぎない帰依が生じ、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。食べ物はどのようで、食べ物の原因はどのようで、食べ物の消滅はどのようで、食べ物の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか。

 ご年配。四種類の食べ物は、当然存在する生き物を維持するため、あるいは存在するすべてのものを助けるためです。四食とは何でしょうか。一つ目は上等でも下等でも段食(ご飯)、二番目は触食、三番目は意思食、四番目は識食です。

 食べ物の発生は、欲望の発生と同時にあります。

 食べ物の消滅は、欲望の消滅と同時にあります。

 素晴らしい八正道は食べ物の消滅に至る実践規範で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです」。

 「ご年配。聖なる弟子がこのように食べ物を明らかに知り、このように食べ物の発生源を明らかに知り、このように食べ物の消滅を明らかに知り、このように食べ物の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、『自分はいる。生きている』という見と慢をすべて抜くことができ、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 ご年配。これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依が生じ、このサッダンマに来ると言われます」。



ハ 四聖諦に関して

 「ご年配。他にもその聖なる弟子が正しい見解のある人で、その人の見解が真っ直ぐに進み、ダンマに対する揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配方。聖なる弟子が苦と、苦が生じる原因と、苦の消滅と、苦の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけで、その聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。苦はどのようでしょうか。生も苦、老いも苦、死も苦、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、精神的困窮も苦で、愛さない物、満足しない物に遭遇するのも苦、愛する物、満足している物と離れるのも苦、望んで得られないのも苦、要するに五蘊の執着は苦です。ご年配。これを苦と言います。

 ご年配。苦の発生源はどのようでしょうか。陶酔の威力、愛欲の威力で新しい有を生じさせるどんな欲望も、その感情に非常に夢中にさせる物、愛欲、有欲、無有欲です。ご年配。これを苦の発生源と言います。

 ご年配。苦の消滅はどのようでしょうか。欲望が薄れて消滅すること、捨てること、返却すること、手放すこと、何らかの欲望の住処を無くすことです。ご年配。これを苦の消滅と言います。

 ご年配。苦の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか。素晴らしい八正道がそれです。つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディで、ご年配。これを苦の消滅に至る実践項目と言います。

 ご年配。聖なる弟子が苦をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、苦の消滅をこのように明らかに知り、苦の消滅に至る実践項目をこのように明らかに知れば、その時その聖なる弟子は、これだけの理由で正しい見解の人で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依が生じ、このサッダンマに来ると言われます」。



ニ 縁起の教えによる縁起に関して

ニの一 老死

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依が生じ、このサッダンマ(正法)に来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が老死と、老死が生じる原因と、老死の消滅と、老死の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、サッダンマ(正法)に至ったと言われます。

ご年配。老死はどのようで、老死の発生源はどのようで、老死の消滅はどのようで、老死の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、老死についての詳細は、「ブッダヴァチャナによる縁起」の533頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が老死をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、老死の消滅をこのように明らかに知り、老死の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨て明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由でその聖なる弟子は、正しい見解で、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの二 生について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が生と、生が生じる原因と、生の消滅と、生の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。ご年配。生はどのようで、生の発生源はどのようで、生の消滅はどのようで、生の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、生についての詳細は、縁起の本の533頁で見ることができます)。

 「ご年配方。聖なる弟子が生をこのように明らかに知り、生が生じる原因をこのように明らかに知り、生の消滅をこのように明らかに知り、生の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋恚随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由でその聖なる弟子は、正しい見解で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの三 有について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が有と、有が生じる原因と、有の消滅と、有の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。有とはどのようでしょうか。有の発生源はどのようでしょうか。有の消滅はどのようでしょうか。有の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、有についての詳細は、縁起の本の533-534頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が有をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、有の消滅をこのように明らかに知り、有の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの四 取について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依を持たせ、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が取と、取が生じる原因と、取の消滅と、取の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解の人で、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。ご年配。取はどのようでしょうか。取の発生源はどのようでしょうか。取の消滅はどのようでしょうか。取の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、取についての詳細は、縁起の本の534頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が取をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、取の消滅をこのように明らかに知り、取の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解で、彼の見解はまっすぐに進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの五 欲望について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があるようにし、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が欲望と、欲望が生じる原因と、欲望の消滅と、欲望の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。欲望とはどのようでしょうか。欲望の発生源はどのようでしょうか。欲望の消滅はどのようでしょうか。欲望の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、欲望についての詳細は、縁起の本の534頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が欲望をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、欲望の消滅をこのように明らかに知り、欲望の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの六 受について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来るようにさせる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が受と、受が生じる原因と、受の消滅と、受の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐで、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。ご年配。受とはどのようでしょうか。受の発生源はどのようでしょうか。受の消滅はどのようでしょうか。受の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、受についての詳細は、縁起の本の535頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が受をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、受の消滅をこのように明らかに知り、受の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解は真っ直ぐに進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの七 触について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解は真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が触と、触が生じる原因と、触の消滅と、触の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。触とはどのようでしょうか。触の発生源はどのようでしょうか。触の消滅はどのようでしょうか。触の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

(この後、触についての詳細は、縁起の本の535頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が触をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、触の消滅をこのように明らかに知り、触の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解は真っ直ぐで、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの八 処入について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が処入と、処入が生じる原因と、処入の消滅と、処入の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。処入とはどのようでしょうか。処入の発生源はどのようでしょうか。処入の消滅はどのようでしょうか。処入の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、処入についての詳細は、縁起の本の535頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が処入をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、処入の消滅をこのように明らかに知り、処入の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの九 名形について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が名形と、名形が生じる原因と、名形の消滅と、名形の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解は真っ直ぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。名形とはどのようでしょうか。名形の発生源はどのようでしょうか。名形の消滅はどのようでしょうか。名形の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

(この後、名形についての詳細は、縁起の本の536頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が名形をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、名形の消滅をこのように明らかに知り、名形の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの十 識について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が識と、識が生じる原因と、識の消滅と、識の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配方。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。識とはどのようでしょうか。識の発生源はどのようでしょうか。識の消滅はどのようでしょうか。識の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、識についての詳細は、縁起の本の536頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が識をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、識の消滅をこのように明らかに知り、識の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの十一 行について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子がサンカーラ(行)と、行が生じる原因と、行の消滅と、行の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は、正しい見解の人であり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。行とはどのようでしょうか。行の発生源はどのようでしょうか。行の消滅はどのようでしょうか。行の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 (この後、行についての詳細は、縁起の本の537頁で見ることができます)。

 「ご年配。聖なる弟子が行をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、行の消滅をこのように明らかに知り、行の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

 これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの十二 無明について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来させる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が無明と、無明が生じる原因と、無明の消滅と、無明の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配。無明とはどのようでしょうか。無明の発生源はどのようでしょうか。無明の消滅はどのようでしょうか。無明の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 「ご年配。無明とは苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、苦の消滅を知らないこと、苦の消滅に至る実践項目を知らないことです。ご年配方。これを無明と言います。無明の発生は、当然漏の発生によってあります。

無明の消滅は当然漏の消滅によってあります。八正道こそが、無明の消滅にいたる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです」。

 「ご年配。聖なる弟子が無明をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、無明の消滅をこのように明らかに知り、無明の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。



ニの十三 漏について

 「ご年配。他にも聖なる弟子を正しい見解の人にし、その方の見解が真っすぐ進み、ダンマに対して揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来るようにさせる道はありますか」。

 「あります、ご年配。聖なる弟子が漏と、漏が生じる原因と、漏の消滅と、漏の消滅に至る実践規範を明らかに知れば、ご年配。これだけの理由で、その聖なる弟子は正しい見解の人であり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます。

 ご年配方。漏とはどのようでしょうか。漏の発生源はどのようでしょうか。漏の消滅はどのようでしょうか。漏の消滅に至る実践項目はどのようでしょうか」。

 「ご年配。三種類の漏があります。欲漏、有漏、無明漏です。漏の発生は、当然漏の発生によってあります。漏の消滅は当然漏の消滅によってあります。八正道こそが、漏の消滅にいたる実践項目で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 ご年配。聖なる弟子が漏をこのように明らかに知り、苦が生じる原因をこのように明らかに知り、無明の消滅をこのように明らかに知り、無明の消滅に至る実践項目を明らかに知れば、その時その聖なる弟子は貪随眠を捨て、瞋随眠を軽減し、「私はいる」という見方と慢をすべて抜き取り、無明を捨てて明を生じさせ、生きているうちに苦を終わらせることができます。

これだけの理由でその聖なる弟子は正しい見解があり、彼の見解はまっすぐ進み、ダンマに揺るぎない帰依があり、このサッダンマに来ると言われます」。

中部ムーラバンナーサ 12巻87頁113項





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