付録

繰り返し話された話を引用するための索引




一 梵行集・全文

三つの蘊で説かれた梵行

 (次の内容はプラアーナンダの言葉ですが、沙門果経、アンバッタ経などで説かれたブッダバーシタ=ブッダの発言と一致するので、ブッダバーシタと同じ価値があると見なし、アーナンダの言葉の方が、引用に便利な文章の並びをしているので、引用します)。




Ⅰ.戒蘊

 「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛し、大衆が遵守して維持するよう勧められるアリヤシーラ(聖戒)蘊はどのようですか」。




如行が世界に生まれてダンマを説く

 青年。如行は知識と品行が完璧で、正しく悟り、良く行き、世界を明らかに知った阿羅漢であり、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する人であり、明るい人として生まれ、ダンマを分類して動物に教えました。

 如行は最高の智慧で、この世界と天人と悪魔と梵天と動物群、サマナ・バラモン、天人にも人間を明らかにし、他の人に教えて明らかに知らせました。如行は、初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、言葉も意味も完璧で純潔な梵行を公開なさいました。




良家の子息はダンマを聞いて出家する

 長者や長者の子息、あるいはこれからいずれかの家系に生まれて来る人でも、そのダンマを聞くと如行への信仰が生じ、信仰がある人は当然「在家は窮屈で埃の在り処。出家は極めて(すっきりする)機会。所帯を維持して、サンガのように完璧で純粋な梵行をするのは簡単ではない。それなら髪と髭を剃って袈裟をまとい、家を出て出家し、家に関わらない人になろう」と、このように熟慮して見ます。

 その後その人は大小の財産と大小の親戚を捨て、髪と髭を剃って家を出て出家し、家に関わらない人になります。




出家したての人の実践

 その良家の子息がこのように出家すると、パティモッカ(二二七戒)に細心の注意を払う慎重な人であり、行儀とゴーチャラ(よく行く場所)が完璧で、平素からどんな小さな物でも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守し、善である身業、口業があり、純潔な生業があり、戒があり、すべての根を管理する門があり、常自覚があり、サンドーサ(知足)の人です。




1.戒がある人の状態

 青年。戒がある比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は殺生を捨てた人であり、殺生を避け、丸太と武器を置いてしまい、恥があり、可愛がることと憐れみに至り、すべての動物を支援したいと望みます。これも彼の戒の一つです。

 盗みを捨てた人であり、盗みを避け、人が与えた物だけを所有し、人から与えられる物だけを望み、清潔な人で、泥棒ではありません。これも彼の戒の一つです。

 梵行でないカンマ(業)を捨てた人であり、平素から梵行の行動をし、庶民の物である性交を避け、近寄りません。これも彼の戒の一つです。

 虚言を捨てた人であり、真実だけを言い、誠実を維持し、信頼できる言葉が安定していて、世界に対してわざと間違ったことを言いません。これも彼の戒の一つです。

 仲違いさせる言葉を捨てた人で、告げ口を避け、こちらで聞いたことを、こちらを仲違いさせるために、向こう側に隠しておくこともなく、あるいは向こうで聞いたことを、向こう側を分裂させるために、こちら側に知らせないということもありません。反対に分裂した人たちを団結させ、団結している人たちを更に団結させ、一致団結を好む人で、一致団結を喜ぶ人です。これも彼の戒の一つです。

 粗暴な言葉を捨てた人で、粗暴な言葉を避け、罪のない言葉だけを言い、愛を生じさせ心が膨らむ聞きて心地良い言葉、庶民が話す丁寧な言葉、望ましく満足できる言葉を言います。これも彼の戒の一つです。

 利益をほのめかす言葉を捨てた人で、無益な長話を避け、時にふさわしいことだけを言い、真実であり、ダンマであり、ヴィナヤであることだけを言い、引用の根拠があること、根拠のあること、終わりがあり、利益があり、時にふさわしいことだけを言います。これも彼の戒の一つです。

 この場合の比丘は、場所を移しても生きている植物と、土地に定着している植物を絶やすのを避ける人で、一日に一度だけ食べる人で、夜間や決められた時間外に食べるのを避けます。

 踊る、歌う、演奏、そして善の敵である類の公演を見ることを避ける人で、装飾つまり花輪や香りの物、塗る物で身を飾ることを避ける人です。高くて広い寝台で寝ることを避け、金銀を受け取ることを避け、籾米をもらうのを避け、

生肉をもらうのを避け、女性と少女をもらうのを避け、男女の奴隷をもらうのを避け、羊、ヤギ、鶏、豚、象、牛、馬、ロバ、人と妻も含めてもらうのを避け、田んぼと庭園をもらうのを避け、(在家の)遣いでいろんな場所に行くのを避ける人です。

 売買を避け、秤でごまかすのを避け、偽物で騙すこと、計測器で騙すのを避ける人で、祈願の供え物を受け取って騙すのを避け、切ること、殺すこと、監禁、待ち伏せて乱暴をすること、奪うこと、そして恐喝を避ける人です。これも彼の戒の一つです。




2.戒のある人の状態

(植物と食べ物)

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方たちは植物、つまり根で殖える植物と、株で殖える植物と、実で殖える植物と、芽で殖える植物と、幹で殖える植物と生物を荒廃させます。この場合の比丘はそのような植物と生物を荒廃させることを避ける人です。これも彼の戒の一つです。



溜めた物を食べること

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方たちは集めた物を食べる人です。つまり米を蓄え、財産を蓄えます。この場合の比丘はそれらの蓄えた物を食べるのを避けてしまう人です。これも彼の戒の一つです。


催しを観ること

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方たちは善の敵である催し物である舞踊、歌唱、演奏、軽業、講談、手拍子、鉦、太鼓、町の装飾、下賎な芸、霊前での演じもの、闘象、闘馬、闘水牛、闘牛、闘羊、闘山羊、闘鶏、闘うずら、棒舞、拳闘、戦い、力試し、出陣式、兵隊を観る人です。この場合の比丘は今述べた善の敵である催し物を見ることを避ける人です。これも彼の戒の一つです。



賭け事

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方たちは賭け事をする人、あるいは不注意の巣である遊びをする人です。、

 つまり将棋をし、お手玉をし、女奪いをし、取る将棋、動く将棋、輪投げ賭博をし、マイフン(木の棒をパスしたり投げたり、木の実を棒で飛ばしたりして遊ぶ団体ゲーム)をし、いろんな形を投げ、サイコロを投げ、木の葉笛を吹き、とんぼ返りをし、風車で遊び、砂を計って遊び、小車で遊び、小弓で遊び、書いた文字を言い当てて遊び、心を言い当てて遊び、障害者をからかって遊びます。

 この場合の比丘はそのような賭け事、あるいは不注意の巣である遊びを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



高くて広い寝台に寝ること

 まだあります。サマナやバラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方々は高くて大きな寝床で寝る人でもあります。

 つまり脚の高い寝台、脚が虎の足の形に作られている寝台、毛足の長いヤギの毛織物の上、美しい刺繍の山羊毛の絨緞の上、白い山羊毛の敷物、花輪のような形の山羊毛の敷物、カポック入りの敷物、華麗な猛獣の姿の敷物、毛が立っている敷物、毛が寝ている敷物、

金銀を撚り込んだ絹織物の敷物、すべての絹の敷物、踊れるくらい大きな山羊毛の敷物、象の背用の敷物、馬の背用の敷物、車の敷物、獣皮でできた敷物、ジャコウネコの毛皮でできた敷物、赤い天蓋と赤い脇息のある敷物の上で寝ます。

 場合の比丘はその高くて大きな寝床に寝ることを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



装身具

 まだあります。サマナやバラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方々は体を飾る人でもあります。

 つまり香水を塗り、按摩をし、肌を美しくする物を塗り、マッサージをし、鏡に映して見、目の輝きを美しくするために目薬を差し、花で飾り、香りの良い物を塗り、白粉、口紅、腕飾り、冠、伊達杖、豪華な印籠、短剣、美しい傘、長く垂れた三尺、しごき帯を使います。この場合の比丘はそれらの装身具を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



畜生談

 まだあります。サマナやバラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方は畜生談(出家にとってダンマの道を妨害する話)をする人です。

 つまり王の話、強盗の話、役人の話、兵隊の話、怖い物の話、戦争の話、米の話、水の話、布の話、寝場所の話、花の話、香りの話、親戚の話、乗り物の話、村の話、県の話、都の話、田舎の話、女の話、男の話、勇者の話、面白い話、港の話、死んだ人の話、世界のいろんな不思議な話、海の旅の話、破滅や繁栄の話です。

 この場合の比丘は畜生談を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



反論好き

 まだあります。サマナやバラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方は反発する言葉を言う人です。

 それは「あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くしていない。私はこのダンマヴィナヤを知り尽くしている。あなたはこのダンマヴィナヤを知り尽くすことはできない。あなたの実践は間違っている。私の実践は正しい。私の言葉には利益がある。あなたの言葉には利益がない。

先に話すべきことをあなたは後に話し、後で話すべきことをあなたは先に話す。あなたが精通していたことは変化してしまった。私はあなたの言葉を否定し圧倒した。あなたは自分の言葉を撤回しなさい。それともできるなら反論しなさい」と挑発します。

 この場合の比丘は逆らう言葉を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



遣いを引き受ける

 まだあります。サマナやバラモンのあるたちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方々は、常に用事を言いつかって、いろんな場所へ遣いとして行く人です。それは「ここへ行きなさい」「そこへ行きなさい」「これを持って行きなさい」「あそこのこれを持って来なさい」と、

このように言われる王の遣い、王の家来の遣い、武士の遣い、バラモンの遣い、長者の遣い、そして子供の遣いです。この場合の比丘は用事を言いつかっていろんな場所へ行くのを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



供物のために騙す

 まだあります。サマナやバラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方はまだ騙す言葉を言います。だらだらと際限なく喋り、策略で仕向ける話し方、支援者が我武者羅に布施したくなるように煽る言い方で貰い物を求め、そして価値の高い物も価値のない使い方をします。

 この場合の比丘はこのような騙す方便で貰い物を求めるのを避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。




3.戒がある状態(大戒)

儀式をする

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方は畜生知識による生業で生活しています。

 体の特徴を占い、吉兆や凶兆を占い、落し物を占い、夢を占い、運勢を占い、ネズミがかじった布で占い、護摩を焚く儀式をし、蝋燭立ての蝋燭に点火して参列者間で手渡しして回す儀式をし、もみ殻を撒く儀式をし、糠を撒く儀式をし、米を撒く儀式をし、三神を迎える点火の儀式をし、火を焚いて祭る儀式をし、

入魂の儀式をし、血を供える儀式をし、体の器官を占い、家相を見、田んぼの相を見、入魂師になり、幽霊使いになり、まじない師になって家に護符を貼り、ヘビ使い、毒消し師、サソリ使い、ネズミが齧った跡占い、鳥やカラスの鳴き声占い、年齢占い、矢を防ぐまじない、動物の足跡占いをします。

 この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



物の状態の占い

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方は、まだ畜生知識の間違った生業によって生活しています。

 つまり宝石の状態で占い、布の状態で占い、杖の状態で占い、刃物の状態、刀の状態、矢の状態、弓の状態、女性の状態、男性の状態、奴隷の状態、象の状態、馬の状態、水牛の状態、雄牛の状態、牛の状態、羊の状態、山羊の状態、鶏の状態、鶉の状態、大トカゲの状態、カメの状態、鹿の状態などで占います。

 この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



戦う時を占う

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは、支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方はまだ、畜生知識による間違った生業で生活しています。

 つまり「この日は兵を挙げるべき。この日は兵を挙げるべきでない。中の王は攻め外の王は退く。外の王は攻め中の王は退く。中の王は勝ち外の王は負ける。外の王は勝ち中の王は負ける。この王は負けこの王は勝つ」と、国王が兵を進める吉祥時を占います。

 この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



星占い

 もう一つ、サマナ・バラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上その方はまだ畜生知識で間違った生業をすることで生活しています。つまり月食で占い、日食で占い、恒星食で占い、月、太陽、惑星がどこを進行している、変則的な進行をしていると占い、

流星や隕石、大火事、地震、雷鳴などがあると占い、(運の)上昇、下降、停滞を占い、月や太陽や星を清浄にするとこういう結果になると、このように占います。

 この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



豊作を占う

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方はまだ、畜生知識による間違った生業で生活をしています。つまり雨が降る、日照りが続く、豊作になる、不作になる、快適に暮らせる、困難になる、

病気になる、病気にならないなどと占い、サンカヤ経、詩、ローガーヤタ(順世論)などで収穫を推定し、計算します。この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



吉祥時を占う

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方は、畜生知識による間違った生業で生活しています。

 つまり嫁を迎える吉祥時を決め、花嫁が家を出る吉祥時を決め、友情を結ぶ吉祥時を決め、絶交をする吉祥時を決め、財産を蓄える吉祥時を決め、投資する吉祥時を決め、幸運不運を決め、胎児を育てる薬を与え、塞ぐ呪文、縛りつける呪文、払い落す呪文、

防音の呪文を唱え、霊媒師、山の女神を呼んで質問し、神に質問し、花と蝋燭と線香でお天道様を祭り、大梵天を祭り、火を噴く呪文、魂を招く呪文を唱えます。

 この場合の比丘は畜生知識による間違った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。



幽霊使いと薬師

 まだあります。サマナ・バラモンのある人たちは支援者が信仰で献じた食べ物を食べ、その上それらの方は、畜生知識による間違った生業で生活しています。

 つまり平和のための祭祀、安定のための祭祀、大地に関わる祭祀、拡大するための祭祀、オカマを男性にする祭祀、男をオカマにする祭祀、土地の祭祀、土地に水を撒き、聖水を振り撒き、聖水を掛け、熱くする薬を作り、吐瀉薬を作り、下剤、上体の害を下す薬、下体の害を下す薬、頭の害を下す薬、耳に垂らす薬、目に垂らす薬、吸引薬、点滴、特別な点滴、眼薬を作り、手術や小児科医や湿布をします。

 この場合の比丘はそのような畜生知識による誤った生業を避けてしまいます。これも彼の戒の一つです。

 青年。戒が完璧な比丘はこのようです。青年。これがスガタ様が称賛なさり、遵守し、常にその中にいて維持するよう大衆に勧められるアリヤシーラカンダ(聖戒蘊)です。





Ⅱ.サマーディ蘊

 「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛なさり、そして大衆に遵守させ、その中にいさせ、維持させるアリヤサマーディ蘊はどのようですか」。



根律儀

 青年。すべての根を管理している門がある比丘はどのようでしょうか。

 青年。この場合の比丘は目で形を見ると全部をまとめた形で掌握する人でなく、部分に分けて掌握する人でもありません。

 下賎な悪は、根源である根、目に注意しない人に流れて行くので、貪りと怒りのいずれも、彼は当然その根に注意するために実践をし、当然根つまり目を維持し、当然根つまり目に注意深くなることに至ります。(耳・鼻・舌・体・心である根の場合も、同じように話されています)。

 青年。すべての根を管理している門がある比丘はこのようです。



常自覚

 青年。サティサンパッチャンニャ(常自覚)のある比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は前進、後退、振り向く、視線を投じる、屈む、伸びる、大衣や中衣の持ち方、食べる、飲む、齧る、嘗める、排便、排尿を周到に自覚する人で、行く、止まる、寝る、眠る、起きる、話す、黙ることを周到に自覚する人です。青年。こういうのを、常自覚がある比丘と言います。



知足

 青年。サンドーサ(知足)である比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は当然体を維持する物であるチーヴァラ(衣)に足るを知る人で、腹を維持する食べ物に足るを知る人で、その比丘はどの方向に回避して行くにも、当然その鉢と衣をもって避けて行ける人です。

 青年。翼のある鳥は、どこへ行くにも翼だけを持って行くように、体を維持するチーヴァラに足るを知る人で、腹を維持する食べ物に足るを知る人である比丘は、チーヴァラと鉢だけを持ってどこへでも回避して行きます。

 青年。足ることを知る比丘はこのようです。




静かな住まい-蓋を捨てる

 その比丘はアリヤである戒蘊があり、アリヤである根があり、アリヤである常自覚があり、アリヤである知足があり、その人は静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山(のいずれか)に住み、食事の後、托鉢から戻ると結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え、貪りを捨て、貪りのない心があり、貪りを拭おうと待ち構えています。

 加害する復讐心を捨て、復讐心がない心があり、憐れむ人であり、すべての動物の利益を望み、加害する道具である復讐心を、心から拭おうと身構えています。眠気と寂しさを捨て、眠気と寂しさのない心があり、心の明るさだけを目指す人で、全身に行き渡るサティがあり、心からこん沈睡眠を拭おうと身構えています。

 疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべての善について(疑念で)「これは何ですか、これはどんなですか」と言う必要がなく、心から疑念を拭おうと身構えています。

 青年。借金をして始めた仕事が成功し、元金を全て返済してもまだ、妻子を養う儲けが山と残っている人は、自分の幸運を「私は以前他人から借金をして仕事をしたが、成功して元金を完済し、それでもまだ妻子を養う儲けが山と残っている」と考えます。彼は当然、そのことで歓喜して喜ぶように(これが一つ)、

 青年。重い病気で苦痛に耐え、食べ物も食べられず体力がない男も、病気が治れば食事もできるので体力が付いて、その人は「前に私は重い病気で苦痛に耐え、食べ物も食べられず体力もなかったが、今は病気が治って食事もでき、体力も回復した」と回想し、当然嬉しくて喜び、歓喜するように(これがもう一つ)、

 青年。監獄に入れられた男が、財産を失わずに無事に監獄から出ると、その人は必ず「以前私は監獄に入れられたが、今は無事に、危険がなく、財産を失わずに出ることができた」とこのように回想し、当然そのことで歓喜して喜ぶように(これがもう一つ)、

 青年。自立できないので他人の奴隷(日本で言う年季奉公)になり、他人に依存して自由に歩き回れない人が、後に彼が奴隷でなくなって自立することができれば、他人に頼る必要がなく、自由に歩き回ることができると、

 その人は必ず「以前私は奴隷で、自立することができず、他人に依存しなければならず、自由に歩き回れなかったが、今は奴隷から脱して自立できたので、他人に依存する必要はない。自由に歩き回ることができる」とこのように回想し、当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜するように(これがもう一つ)、

 青年。財産を持って危険な長旅をする人が、悪路を抜ければ便利になり、危険がなく財産を失う必要もなく、その人は必ず過去を「以前私は財産を持って悪路を旅したが、私は財産を失うことなく無事に悪路を脱した」とこのように回想し、当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜するように、(これが一つ)

 青年。比丘は自分が捨てることができない五つの障蓋を、借金をすること、病気になること、監獄に繋がれること、奴隷になること、そして財産を持って悪路を旅することのようだと熟慮して見、そして自分の五つの障害を捨てられることを、借金が無くなったこと、病気が全快すること、監獄から出ること、奴隷から脱すこと、危険から脱すことのようだと熟慮して見ます。




初禅

 その比丘が自分の中で捨てることができた五蓋を見れば、当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば当然喜悦が生じ、喜悦がある人の体は当然静まり、静まった体のある人は幸福を味わい、幸福のある人の心は当然安定してサマーディ(三昧)になります。

 その人は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィヴェカ(遠離)から生じたヴィタッカ(継続して考えること)・ヴィチャーラ(その考えを心に掛けておくこと)があり、ピーティ(歓喜)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼は全身に遠離から生じた歓喜と幸福を撒き散らして全身に沁み渡らせ、彼の体のどの部分も、遠離から生じた歓喜と幸福に触れない部分はありません。

 青年。沐浴師やその手伝いの賢い人が、青銅のタライに水浴をする時体を擦る粉を入れて、水を振り撒いて湿らせおくと、夕方には粉からヤニが出て固まって流れ落ちなくなるように、青年。遠離から生じた歓喜と幸福で全身を濡らして一回り湿らせれば、その人の全身のども部分も遠離から生じた歓喜と幸福に触れない部分はありません。これもその人のサマーディの一つです。




二禅

 青年。まだあります。ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まって、比丘は、心の内面を明るくして一つだけの感情があるサマーディ(三昧)を生じさせするものであり、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼は全身にサマーディから生じた喜悦と幸福を振り掛けて一回り濡らし、彼の全身のどの部分も、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 青年。水が渦になって吹き出していて、東にも南にも西にも北にも水口がなく、そして一年中水を増やす雨が降らない深い渕は、水源から湧き出る冷たい水が跳ね上がって撒き散らすので、その渕のどの部分も冷たい水に触れない部分はありません。

 同じように、青年。比丘はサマーディから生じた喜悦と幸福を全身に振り掛けて濡らし、全身を湿らせます。その人の体のどの部分も、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありませせん。これもその人のサマーディの一つです。




三禅

 青年。まだあります。喜悦が薄れることで、比丘は捨にいる人であり、常自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言う三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は喜悦がない幸福を全身に振り掛けて湿らせ、彼の体のどの部分も、喜悦がない幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。青蓮、紅蓮、白蓮の花がある青蓮の沼、紅蓮の沼、白蓮の沼は、水の中で生まれて水面下で成長し、まだ水から出ないで水面下に沈んでいる蓮の群れもあり、それらは先端から根まで、全部冷たい水に浸かっているので、それらの蓮のどの部分も、水に触れない部分はありません。

 同じように、青年。比丘は喜悦のない幸福で全身を湿らせ、彼の体のども部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はありません。これもその人のサマーディの一つです。




四禅

 青年。まだあります。幸福と苦を捨ててしまえることで、憂いと過去の憂いが消滅することで、苦でも幸福でもない、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は座って、明るく澄んだ純潔な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ純潔な心が触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。座って頭からすっぽり全身を白布で覆っている男の身体は、布に触れて(覆われて)いない部分がないように、青年。比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の全身のどの部分も、明るく澄んだ純粋な心に触れていない部分はありません。これもその人のサマーディの一つです。

 青年。これが、猊下が称賛なさり、大衆が遵守し、その中に入って維持するよう勧められるアリヤサマーディカンダ(聖三昧蘊)です。




Ⅲ.智慧蘊

 「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛され、そして大衆に遵守させ、維持させ、その中にいさせるアリヤパンニャー(聖智慧)蘊はどのようですか」。



智見

 その比丘は心が安定して純潔で明るく、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事に適したしなやかな自然になります。このように動揺しない状態を維持すると、彼は心をニャーナダッサナ(智見)のために引っ張って行きます。

 彼は当然「私の体は形があり、四界で作られ、両親が発生源で、ご飯と果物で育ち、常に包んで撫で回していなければならず、それでも当たり前に崩壊消滅する。しかし私の識はその体に依存し、体に関わっている」(と彼は明らかに見えます)。

 石の素性にふさわしい八角の、良く磨いて明るく澄んでいる、すべての価値が揃っている美しい猫目石は、石の中に緑や黄色や、赤や白やオレンジ色などの筋があり、目の良い男が掌の上に載せて見れば、「この宝石は石にふさわしい八角で、良く磨いてあり、明るく透明で、すべての価値が揃っている。この宝石に緑や黄色や、赤や白やオレンジ色などの筋がある」と明らかに見えるのと同じです。これも彼のサマーディの一つです。




意所成神変

 その比丘の心が安定して、純潔清浄で、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺るぎなく維持できれば、彼は心を心で作ったニラミサカーヤ(無汚染の体)のために引っ張って行きます。彼は大小の臓腑や器官があり、衰退していない根がある、心で作った形がある体以外の体を脱ぎ捨てます。

 ある人が葦の節から葦の芯を引き抜いて、「これは葦の幹、これは葦の芯。葦の幹と芯は違い、芯は葦から引き抜いた物」と意識できるのと同じです。あるいは、ある人が刀を鞘から抜いて、「これは刀、これは鞘。刀と鞘は違うが、鞘から刀を引き抜いた」と意識できるのと同じです。

 もう一つ、一人の男が、魚篭からヘビを持ち上げて「これはヘビ、これは魚篭。ヘビと魚篭は違う。魚篭からヘビを持ち上げた」と意識できるのと同じです。これも彼の智慧の一つです。



天耳

 その比丘の心が安定して、純潔清浄になり、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺るぎなく維持すると、彼は心を天耳のために引っ張って行きます。彼は普通の人の耳を越えた清浄で素晴らしい天耳があり、二種類の声、つまり天の声と人間の声、遠くの声と近くの声が(何の声かハッキリと)聞こえます。

 遠くから歩いてくる人が、(片面)太鼓の音や両面太鼓の音やホラ貝の音やでんでん太鼓の音や、縦太鼓の音を聞くと、当然「これは片面太鼓の音、両面太鼓の音、ホラ貝の音、でんでん太鼓の音、縦太鼓の音だ」と判別できるのと同じです。これも彼の智慧の一つです。



読心智

 その比丘の心が安定して純潔清浄になり、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺るぎなく維持すれば、その人は心を他人の心を認識する道具であるニャーナのために引っ張って行きます。

 彼は当然、 貪りのある心を貪りがあると、貪りがない心を貪りがないと、怒りがあれば怒りがあると、怒りがなければ怒りがないと、愚かさがあれば愚かさがあると、愚かさがなければ愚かさがないと、しょげていればしょげていると、しょげていなければしょげていないと、散漫を散漫と、散漫でなければ散漫でないと、偉大な心を偉大な心と、偉大な心でなければ偉大な心でないと、

素晴らしい心があれば素晴らしい心があると、素晴らしい心がなければ素晴らしい心がないと、安定した心を安定した心と、安定していない心を安定していないと、解脱した心を解脱したと、解脱していない心を解脱していないと、他の動物、他の人物の心を、自分の心で(ハッキリと)認識できます。

 おしゃれな若い男女が、汚れていないきれいな鏡、あるいは澄んだ水に顔を映して見て、ホクロがあればホクロがあると、ホクロがなければホクロがないと知るのと同じです。これも彼の智慧の一つです。



宿命智

 その比丘の心は安定して純潔清浄で煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺らぎなく安定すると、彼は心を宿命智のために引っ張って行き、当然過去に暮らした幾つもの蘊を思い出すことができます。

 一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの輪廻の崩壊、幾つもの輪廻の生成、幾つもの輪廻の崩壊と生成を「その生での私の名前はこう、姓はこうで、こういう身分があり、こういう食べ物があり、

このような幸福と苦を味わい、何歳で寿命が終わり、その生が終わるとどこに生まれて、どういう姓名で、どういう身分で、どういう食べ物で、どのような幸福と苦を味わい、幾つで命が終わり、その生が終わって次はどこに生まれた」と回想し、彼はこのように、過去で生きた蘊について、状態と状況を回想します。

 ある男が自宅を出てよその家へ行き、それからまた別の人の家へ行き、その家を出て自宅へ戻ると、その人は「私は自分の家を出て他人の家へ行き、その家に立って座ってこのように話し、黙り、それからまた別の人の家へ行き、その家でもこのように立って座ってこのように話し、黙り、それからその家を出て自分の家へ戻った」と思い出すのと同じです。これも彼の智慧の一つです。



天眼通

 その比丘の心は安定して純潔清浄で、煩悩がなく随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺らぎなく安定すると、彼は心を天眼通のために引っ張って行きます。彼は普通の目より純潔な天の目があり、当然行く動物、生まれる動物が見え、下賤か上品か、良い身分か悪い身分か、苦か幸福かが見えます。

 その人は「みなさん、これらの動物は不正な体、不正な言葉、不正な考えがあり、すべての聖人を非難する間違った見解があり、邪見により間違った職業を営み、体が壊れて死んだ後は、全員揃って悪諏・罰を受ける所・地獄に生まれます。

みなさんは正しい体(行為)、正しい言葉、正しい考えがあり、すべての聖人を非難しない、正しい見解です。正しい見解で正しい生活を営むこれらの動物は、体が壊れて死んだ後は、当然揃って善諏、天国界へ行きます」と、カンマで到達した生き物を明らかに知る人です。

 その人は普通の人間より純潔な天の目があり、死ぬ動物と生まれる動物、下等か上等か、良い身分か悪い身分か、苦か幸福か、カンマでこのようになった動物を明確に知ることができます。

 目のある男が都の丁字路にある城の上に立つと、家に入る人、出る人、車で道を通行する人を「この人たちは家から出た。この人たちは家へ入った。この人たちは車で道を通行している。この人たちは道の三叉路に座っている」と、明らかに見えるのと同じです。これも彼の智慧の一つです。



漏神通

 その比丘の心は安定して純潔清浄で煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になります。このように揺らぎなく安定すると、彼は心を漏神通のために引っ張って行きます。

 その人は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦が絶滅すればこのよう、苦を絶滅させる方法はこのよう」と、そして、「これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の絶滅、これがすべての漏を絶滅させるための実践」と、真実ありのままに知ります。

 その人がこのように知り、このように見えれば、欲漏、有漏、無明漏から脱し、心が解脱すれば「心が解脱した」と洞察するニャーナ(智)が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになる(解脱)ためにしなければならない仕事は、他に何もない」とこのように知ります。

 山の中腹にある澄んだ水の淵の畔に目の良い人が立って見ると、砂利や小石や止まっている魚、泳ぎ回っている魚の群れなどいろんな物が見え、その人は「この淵の水は澄んで濁っていない。貝や小石や砂利、いろんな魚の群れが、水の中で泳いでいる」と認識するのと同じです。

 比丘のみなさん。同じように比丘は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦が絶滅するとこのよう、苦を絶滅させる方法はこのよう」と、そして「これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の絶滅、これがすべての漏を絶滅させる方法」と、真実のままに明らかに知ります。これも彼の智慧の一つです。

 青年。これが、世尊が称賛され、大衆が遵守して到達し維持するよう勧められた、アリヤパンニャーカンダ(聖智慧蘊)です。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻242頁318項





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