四聖諦は智慧根の仕事であるもの

 比丘のみなさん。智慧根はどのようでしょうか。

 この場合の聖なる弟子は、アリヤであり、煩悩を解体して正しく苦の終りに至らせる物である、生滅の真実に到る智慧がある人で、その聖なる弟子は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに明らかに知っています。

 比丘のみなさん。この知ることを私は智慧根(註1)と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻263頁869項

註1:他の経:22巻12頁14項では、同じ要旨で、智慧根の代わりに智慧力と呼ばれているのもあります。

(別の経では、智慧根の状態を次のように説かれています)


 サーリプッタ。聖なる弟子は「輪廻は回遊している人が知ることができない初めがあるものだ。初めは動物には現れず、終りも妨害する物である煩悩があり、縛りつける欲望があり、今も輪廻して駆けている人には現れない。闇の固まりである無明が薄れ、消滅して絶滅することはある。

それは静寂な所、緻密な所、つまりすべてのサンカーラ(行)が静まった物であり、すべてのウパディ(依)を返却した物であり、欲望が終わった物、弛緩、消滅、涅槃だ」と明らかに知る人です。

 サーリプッタ。その明らかな知識は、当然その人の智慧根です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻300頁1020項





比丘に明示した五祝福
(庶民の四祝福のような欲望に関わらない)

 比丘のみなさん。みなさん、自分の父親の領域であるゴーチャラ(いつも行く場所)で遊びなさい。そうすれば寿命も、肌の艶も、幸福も、財産も力も発展します。比丘のみなさん。

 比丘にとって寿命とは何でしょうか。比丘のみなさん。この場比丘合は当然作る道具であるダンマがあり、主な仕事として当然チャンダに依存したサマーディがある如意足に励み、当然作る道具であるダンマがあります。

 主な仕事として当然努力に依存したサマーディがある如意足に励み、当然作る道具であるダンマがあります。主な仕事として心に依存したサマーディがある如意足に励み、当然作る道具であるダンマがあり、主な仕事として、熟慮(思惟)に依存したサマーディがある如意足に励みます。

 比丘のみなさん。この四如意足に励んでたくさんすることで、望めば一劫の間中でも、あるいは一劫以上でも維持していることができます。比丘のみなさん。これが比丘にとって寿命という意味です。(ここでの仕事とは、注意、放棄、生じさせること、維持することに関わる仕事)。

 比丘のみなさん。比丘にとってヴァンナ(肌の艶)という言葉の意味は何でしょうか。比丘のみなさん。この場合比丘は戒がある人で、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(いつも行く場所)が完璧で、平素からどんな小さな物でも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守します。比丘のみなさん。これが比丘にとって肌の艶という意味です。

 比丘のみなさん。比丘にとって幸福という言葉の意味は何でしょうか。比丘のみなさん。この場合比丘は初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これが比丘にとって幸福という意味です。

 比丘のみなさん。比丘にとって財産という言葉の意味は何でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はメッター(慈しみ)、カルナー(悲)、ムディター(喜)、ウペッカー(捨)のある心があり、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向、上方、下方、投げる方向へ広げ、すべての場所のすべての世界へ広げます。

 計ることができない豊かな慈悲喜捨のある心で、悪意がなく、復讐心がない偉大な心に達しています。比丘のみなさん。これが比丘にとって財産という意味です。

 比丘のみなさん。比丘にとって力という言葉の意味は何でしょうか。比丘のみなさん。この場合比丘は、すべての漏が終わり、漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これが比丘にとって力という意味です。

長部パーティヴァッガ 11巻85頁50項





人に四聖諦を教えることは、教誨神変

 ケヴァッタさん。これは私が最高の智慧で明らかにし、そして開示して他人に教えた三つの奇跡です。三つは何でしょうか。三つとは、神通神変、読心神変、教誨神変です。

(1) ケヴァッタさん。神通神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。

 この場合の比丘は、いろんな手法の神通力の行動をし、一人を何人もの姿にし、何人もを一人にし、隠されている場所を見える場所にし、見えている場所を見えない場所にし、空を歩くように壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜けてどこでも支障なく行くことができ、

水中のように大地に潜ったり浮かんだりすることができ、大地を歩くように水面を歩くことができ、翼のある鳥のように空を行くことができ、結跏趺坐して座ったままで非常に威力のある月と太陽を手で撫でることができ、そして梵天界まで体の威力を見せることができます。

 ケヴァッタさん。信仰のある良家の子息がその見世物を見て、信仰のない別の良家の子息に「不思議だ」と言うと、信仰のない良家の子息は「ガンダリー(註1)という知識がある。その比丘はその知識で神通力を見せただけだ(奇跡ではない)」と答えます。ケヴァッタさん。あなたはどう理解しますか。信じない人、信仰のない人は、当然信仰のある人にそのように答えるのではないですか。

 「そう答えるでしょうね。猊下」。

 ケヴァッタさん。私はこのように奇跡を見せることの害が見えるので、奇跡に対して当惑、不愉快、嫌悪を感じます。

註1: ガンダーラという修行者によって書かれた呪文。ガンダーラは地名という説もある。

(2) ケヴァッタさん。読心神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。この場合の比丘は、当然他の動物、他の人たちの心を、「あなたの心はこのようだ。あなたの心にはこれがある。あなたの心にはこのような症状がある」等々と心の感覚を読み、考えを読むことができます。

 ケヴァッタさん。信仰のある良家の子息がその見世物を見て、信仰のない別の良家の子息に「不思議だ」と言うと、信仰のない良家の子息は、当然信仰のある良家の子息に「マニカーという知識がある。その比丘が心を推量してそのように言うのはその知識だ(奇跡ではない)」と反論します。

 ケヴァッタさん。あなたはこれをどう理解しますか。信じない人、信仰のない人は、当然信じる人、信仰のある人にこのように答えるのではないですか。

 「そう答えるでしょうね。猊下」。

 ケヴァッタさん。私はこのように奇跡を見せることの害が見えるので、奇跡に対して当惑、不愉快、嫌悪を感じます。

(3) ケヴァッタさん。教誨神変はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。この場合の比丘は、当然「このように熟慮なさい。そのように考えてはいけません。心の中をこのようになさい。心の中をそのようにしてはいけません。これを捨ててしまいなさい。これに到達してその中にいなさい」とこのように教え諭します。ケヴァッタさん。私はこれを教誨神変と呼びます。

 ケヴァッタさん。まだあります。この世界に知識と品行が完璧で、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する人であり、天人と人間の先生であり、明るい人であり、ダンマを分類して動物に教える人である阿羅漢サンマーサンブッダである如行が生まれました。

 如行は最高の智慧でこの世界と、天人と悪魔、梵天、サマナ・バラモン、天人と人間を含む動物の群を明らかにし、他の人に教えて明らかに知らせました。如行は初めも中間も終わりも美しく、義も細部もまったく完璧なダンマを説き、梵行を公開しました。

 長者や長者の息子、あるいは後でどこかの家系に生まれてきた人がそのダンマを聞くと、如行への信仰が生じて信仰のある人になり、「在家は窮屈で、埃の元で、出家は開ける機会だ。所帯を持っていれば、僧のように完璧に梵行をするのは簡単ではない。

それなら私は髪と髭を剃って袈裟(渋染めの布)をまとい、家を出て出家し、家と関わらない人になろう」と熟慮して見ます。その後その人は大小の財産を捨て、大小の親戚を捨て、髪と髭を剃って家を出て出家し、家と関わらない人になります。

 その比丘がこのように出家すると、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意をすることで慎み、行儀と軌道(好んで行く場所)が完璧で、平素からどんな小さな物でもすべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守し、善である身業口業があり、純潔な生活があり、戒が完璧で、すべての根を管理する門があり、常自覚があり、サンドーサ(知足)があります。

 ケヴァッタさん。戒が完璧な比丘はどのようでしょうか。ケヴァッタさん。このダンマヴィナヤの比丘は動物の命を奪うことを捨て、盗みを避け、丸太と武器を置いてしまい、恥を知り、可愛がり憐れむことに達し、すべての動物の利益を望みます。ケヴァッタさん。私はこれを教誨神変と呼びます。

 (この後、小戒、中戒、大戒、根律儀、常自覚、衣食住薬に足るを知ること、静寂な場所で蓋を拭き取って初禅、二禅、三禅、四禅、智見、神通意所成、種々の神通、天耳、他心智、宿命智、死生智を得ること、そして漏神通までそれぞれの段階を教えることを説かれ、教誨神変の一つと呼ばれています)。

 ケヴァッタさん。その比丘は心が純潔で明るく安定すれば、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、このように動揺がなく維持できれば、その人は漏神通に傾き、彼は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」、そして「これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

 このように知り、このように見れば、心は欲漏、有漏、無明漏から解脱し、「心は解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じ、彼は「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならない他の仕事はない」とハッキリと知ります。

 ケヴァッタさん。山の中腹にある水が澄んでいる渕は、目のある人がその岸に立って見ると、いろんな貝や小石や石や魚の群れが、その渕の中で泳いだり止まったりしているのが見えます。その人は「この渕は澄んでいて濁っていない。貝。小石、これらの魚の群れが、この渕の中を止まったり泳いだりしている」と、このように心に留めるのと同じです。ケヴァッタさん。私はこれを教誨神変と言います。

 ケヴァッタさん。これが、私が最高の智慧で明らかにし、公開して他人に教えた三つの奇跡です。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻273頁339項





まだ識と心がある体の中に四聖諦を規定した

 比丘のみなさん。私はローヒタッサデーヴァプッタに、

 「ね、あなた。生まれず、老いず、死なず、移動せず、発生しない世界の終りは、行くことで知り、見、その世界に到達すると、私は言いません。ね、あなた。まだ世界の終りに到達しなければ、当然私は苦の終わりと言いません。ね、あなた。識と心がある身丈ニメートルの体を、私は『世界、世界の発生源、世界の消滅、そして世界の消滅に至る道』と規定しました」と、このように言いました。

増支部チャッカニバータ 21巻64頁46項





四聖諦は受がある動物のために規定した

 比丘のみなさん。六つのダートゥに依存して当然胎内に下りて行くことがあり、胎内へ下りることがあれば当然名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があります。比丘のみなさん。私は当然「これが苦」「これが苦の原因」「これが苦の消滅」「これが苦の消滅に至る道」と、受を味わうことができる動物に規定しました。

 (この後の四聖諦について詳しく話されている部分は、第一部の「詳細に説かれた四聖諦」で見ることができます)。

増支部ティカニバータ 20巻227頁501項

 (学習者は、この真実は非常に重要と見るべきです。つまり本当に受を味わわなければ、その受から生じる欲望から生じた苦諦は見えません。そしてその受の欲望が消滅すると苦も消滅するのは、心に八正道が自然にある時です。だから受がないだけで、四聖諦は本当にはありません。だからブッダが言われた要旨で「四聖諦は受を味わえる動物に規定した」ということができます)。




四十一種類の縁による受

 比丘のみなさん。私は、大悟したばかりの頃住んだことがあるヴィハーラダンマと、同じヴィハーラダンマに住んでいました。このようにヴィハーラダンマにいる時、私は当然、

誤った見解や誤った見解が静まったことが縁で当然受があり、

正しい見解や正しい見解が静まることが縁で当然受があり、

誤った考えや誤った考えが静まることが縁で当然受があり、

正しい考えや正しい考えが静まることが縁で当然受があり、


誤った言葉や誤った言葉が静まることが縁で当然受があり、

正しい言葉や正しい言葉が静まることが縁で当然受があり、

誤った業や誤った業が静まることが縁で当然受があり、

正しい業や正しい業が静まることが縁で当然受があり、


誤った生活や誤った生活が静まることが縁で当然受があり、

正しい生活や正しい生活が静まることが縁で当然受があり、

誤った努力や誤った努力が静まることが縁で当然受があり、

正しい努力や正しい努力が静まることが縁で当然受があり、


誤ったサティや誤ったサティが静まることが縁で当然受があり、

正しいサティや正しいサティが静まることが縁で当然受があり、

誤ったサマーディや誤ったサマーディが静まることが縁で当然受があり、

正しいサマーディや正しいサマーディが静まることが縁で当然受があり、

チャンダ(喜びによる満足)やチャンダが静まることが縁で当然受があり、

ヴィタッカやヴィタッカ(熟考)が静まることが縁で当然受があり、

想や想が静まることで当然受があり、

まだ静まっていないチャンダ(満足)、ヴィタッカ(熟考)、想が縁で当然受があり、

静まったチャンダ、ヴィタッカ、想が縁で、当然受があり、

到達する努力をする立場に到達することが縁で、当然受があると、明らかに知りました。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻17頁50項





四聖諦を知る人はアビダンマに精通する必要はない

 比丘のみなさん。私は三種類の小型馬と三種類の唐辛子のような人について説明します。

 比丘のみなさん。三種類の小型馬はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の小型馬は①早くて毛並みは美しくなく、姿も凛々しくない馬と、②早くて毛並みは美しいけれど姿が凛々しくない馬と、③早くて毛並みが美しくて姿も凛々しい馬です。比丘のみなさん。これが三種類の小型馬です。

 比丘のみなさん。三種類の唐辛子のような人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は素早さはありますが肌に艶がなく態度が堂々としていない人と、素早くて肌の艶も良いですが態度が堂々としていない人と、素早くて肌の艶も良く威風堂々としている人です。

 比丘のみなさん。素早さはあっても肌に艶がなく、態度が勇壮でない人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と真実のままに知っています。これが彼の素早さです。しかしアビダンマやアビヴィナヤの質問をされると黙り込んで答えることができません。

 これが彼の肌に艶がないことで、そしてチーヴァラ、食べ物、住まい、すべての八物の貰い物が少ない人で、これが、彼の勇壮でないことです。比丘のみなさん。こういうのを、素早さはあっても肌に艶がなく、態度も勇壮でない唐辛子のような人と言います。

 比丘のみなさん。素早くて肌の艶も良いですが、態度が勇壮でない人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と真実のままに知っています。これが彼の素早さです。

 そしてアビダンマやアビヴィナヤの質問をされると、答えることができ、黙り込みません。これが彼の肌の艶にあることです。しかしチーヴァラ、食べ物、住まい、すべての八物の貰い物が少ない人で、これが、彼の勇壮でないことです。比丘のみなさん。こういうのを、素早さがあり肌に艶があっても、態度が勇壮でない唐辛子のような人と言います。

 比丘のみなさん。素早さもあり、肌の艶も良く態度が勇壮な人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と真実のままに知っています。これが彼の素早さです。

 そしてアビダンマやアビヴィナヤの質問をされると、黙り込まず答えることができ、これが彼の肌の艶にあることです。そしてチーヴァラ、食べ物、住まい、すべての八物の貰い物が豊富な人で、これが、彼の態度が勇壮なことです。比丘のみなさん。こういうのを、素早さもあり肌に艶があっても、態度も勇壮な唐辛子のような人と言います。

 比丘のみなさん。これが三種類の唐辛子のような人です。

増支部ティカニバータ 20巻370頁580項

 (学習者は、一番の唐辛子のような人は、四聖諦は知っているが、アビダンマやアビヴィナヤの問題に答えることができず、そして供物も少ないというのは、四聖諦を知ることはアビダンマやアビヴィナヤを知ることと、そして供物が多いこととは関わりがないことを表していると、観察して見なければなりません)。




内部と外部の原因を作りなさい

1.内部の原因

 比丘のみなさん。まだ到達していない心の望みがあり、無上に安全な物(涅槃)を望んでいる有学僧が、それを内部のダンマにした時、その人にとってこのヨーニソーマナシカーラ(理に従って考えること。如理作意)のように多くの恩恵があるダンマは、私には他には一つも見えません。

 比丘のみなさん。比丘が理に適った考えをすれば、当然悪を捨て、善を発展させます。理に適った考えは有学のためにあり、最高の利益に到達することにとって、このように多くの恩恵があるダンマは他にありません。比丘は心を絶妙にして、苦の終りに到達するべきです。

2.外部の原因

 比丘のみなさん。まだ到達していない望みがあり、無上に安全な物を望んでいる有学僧が、それを外部のダンマにした時、彼にとってこの善友のように多くの恩恵があるダンマは、私には他には一つも見えません。

 比丘のみなさん。善友のいる比丘は当然悪を捨て、善を発展させます。尊敬し、敬う人である善友がい、その友の言うことに、自覚があるように、サティがあるように従う比丘は誰でも、段階的にすべてのサンヨーージャナ(結)の終りに到達します。

小部イティウッタカ 25巻236頁194項





仏教の一つの宝石である八正道

 パハーラーダさん。たくさんの宝石があり、海にいろんな宝石があります。それらの宝石の中に、オパール、ルビー、猫目石、ほら貝、サンゴ、銀、金、ザクロ石、メノウ、琥珀があるように、パハーラーダさん。このダンマヴィナヤにもたくさんの宝石があります。このダンマヴィナヤにある宝石は、四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道です。

 パハーラーダさん。このダンマヴィナヤにたくさんの宝石があるので、このダンマヴィナヤは非常に不可思議で、非凡です。だから比丘のみなさんが見ると、当然このダンマヴィナヤを最高に喜びます。

増支部アッダカニバータ 23巻206頁109項





四聖諦を明らかにした人の功徳

 アーナンダ。人は誰かに依存して苦の疑念が消え、苦集の疑念が消え、苦滅の疑念が消え、苦滅道の疑念が消えます。その人に跪拝し、立って迎え、合掌し、和敬行(敬意を表すこと)をし、衣や食べ物や住まいや八物を差し上げる恩返しは、十分でふさわしい恩返しと言いません。

 (四聖諦を明らかにすることは精神の問題であり、行動や物での恩返しは物質面なのでふさわしい恩返しではありません。ふさわしいのは、他の人が同じように四聖諦を知るように助けることです)。

中部ウパリバンナーサ 14巻458頁709項





すべてのダンマに関して答えるべき根源

 比丘のみなさん。他の教義の修行者がみなさんに「先輩。すべてのダンマの根原は何ですか。すべてのダンマの発生源は何ですか。すべてのダンマの集は何ですか。すべてのダンマは何が集まったものですか。すべてのダンマは何が首長ですか。すべてのダンマは何が元首ですか。すべてのダンマの一番は何ですか。何が本質で、何が結果の物ですか。何が終った物ですか」とこのように質問したら、

比丘のみなさん。みなさんは「先輩、

すべてのダンマは、根源であるチャンダ(満足)があり、

すべてのダンマは、発生源であるマナシカーラ(関心を寄せること)があり、

すべてのダンマは、集であるパッサ(処入の刺激。触)があり、

すべてのダンマは、(結果が)集まったものであるヴェーダナー(受)があり、

すべてのダンマは、首長であるサマーディがあり、

すべてのダンマは、元首であるサティがあり、

すべてのダンマは、(知識の)最高レベルの智慧があり、

すべてのダンマは、(受け取る結果の)精髄である解脱があり、

すべてのダンマは、(目標の)である不死があり、

すべてのダンマは、(梵行の)終わりである涅槃があります」と、このように答えるべきです。

 比丘のみなさん。このように問われたら、他の教義の修行者たちにこのように答えるべきです。

増支部ダサカニバータ 24巻113頁58項






四聖諦の仕事の終りは三つのニャーナの完璧さで知る

1.比丘のみなさん。私が今まで聞いたことがないダンマに「これが苦である素晴らしい真実(これをサッチャニャーナと言う)。苦である素晴らしい真実はすべて知り尽くすべき(これをキッチャニャーナと言う)。苦である素晴らしい真実を私はすべて知り尽した(これをカタニャーナと言う)」という目、ニャーナ、智慧、明、そして明るさが生じました。

2.比丘のみなさん。私がそれまで聞いたことがないダンマに、「これが苦を生じさせる原因である素晴らしい真実(これをサッチャニャーナと言う)だ。苦の原因である素晴らしい真実を捨ててしまうべき(これをキッチャニャーナと言う)だ。苦の原因である素晴らしい真実を、私はすべて捨てた(これをカタニャーナと言う)」という目、ニャーナ、智慧、明、そして明るさが生じました。

3.比丘のみなさん。私が今まで聞いたことがないダンマに、「これが滅苦である素晴らしい真実(これをサッチャニャーナと言う)だ。滅苦である素晴らしい真実を明らかにするべき(これをキッチャニャーナと言う)だ。滅苦である素晴らしい真実を、私は明らかにした(これをカタニャーナと言う)」という目、ニャーナ、智慧、明、そして明るさが生じました。

4.比丘のみなさん。私がそれまで聞いたことがないダンマに、「これが滅苦に至る道である素晴らしい真実(これをサッチャニャーナと言う)だ。滅苦に至る道である素晴らしい真実に励むべき(これをキッチャニャーナと言う)だ。滅苦に至る道である素晴らしい真実に、私は励んだ(これをカタニャーナと言う)」という目、ニャーナ、智慧、明、そして明るさが生じました。

 比丘のみなさん。四聖諦にこのような三転、十二の状態があると真実のままに知り、真実のままに見る智慧が、私にとってまだ純潔清浄でない時は、その間中、如行は天人界、悪魔界、梵天界、サマナ・バラモン、天人も人間も含めた動物群に、アヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟ったと、宣言しませんでした。

 比丘のみなさん。四聖諦にこのような三転、十二の状態があると真実のままに知り、見る智慧が、私にとって純潔清浄になった時、私は天人界、悪魔界、梵天界、サマナ・バラモンと、天人と人間を含めた動物群にアヌッタラサンマーサンボーディニャーナ(無上正菩提智)を悟ったと、宣言しました。

 つまり「私の解脱は悪化しない。この生は最後の生だ。今、再び生まれることはない」とこのようなニャーナが私に生じました。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻529頁1666項



完(この後に付録あり)




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