誘い懇願する言葉
比丘のみなさん。
みなさんが
「これは苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るために
行動するべきヨーガカンマ、涅槃を、私は説明しました。
涅槃に至る道も、みなさんに説明しました。
可愛がる教祖が、可愛がることの利益を求めて、
可愛がることに依存してみなさんにするべきことは何でも、
私はみなさんにしました。
ほら、木の根元。ほら、空き家。
みなさん、煩悩を焼く努力をなさい。油断をしてはいけません。
後で悩む人になってはいけません。
これが、私がみなさんに繰り返し繰り返し教える言葉です。
漏を終わらせる知識
比丘のみなさん。私は、漏の終りは知っている人見えている人にあり、知らない人見えない人にはないと言います。
比丘のみなさん。何を知り、何が見えるのでしょうか。比丘のみなさん。漏の終りは当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」とこのように知り、見える人にあります。比丘のみなさん。漏の終りは当然このように知っている人、見える人にあります。
四聖諦を見るヨーガカンマの機会は今完璧
比丘のみなさん。仮に大きな大陸全体が一様に洪水になり、人が一つだけ穴を開けたエカ(竹? 原文のママ)を水に投げ入れると、東風が吹けば西に流され、西風が吹けば東に流され、北風が吹けば南に流され、南風が吹けば北に流されます。
その水の中に一匹の盲目のカメがいて、百年に一度だけ浮いて来ます。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。盲目のカメが百年に一度浮いてきて、首を伸ばしてエカに一つだけある穴に入ることはあり得ると思いますか。
「それは難しいです、猊下。盲目のカメが百年に一度浮いて来て、首を伸ばして一つしかない竹の穴に入るのは」。
比丘のみなさん。誰でも人間になることは同じように難しいです。同じように阿羅漢サンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称。行ったようという意味。漢訳では如来)が世界に生まれるのも難しく、如行が公開したダンマヴィナヤが世界に繁栄するのも、同じように難しいです。
比丘のみなさん。しかし今人間に生まれていて、阿羅漢サンマーサンブッダである如行が世界に生まれ、そして如行が公開したダンマヴィナヤが世界に広まっています。
比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知るヨーガカンマの行動をするべきです。
パリヤッティ(三蔵の勉強)は四聖諦を知ることではない
比丘のみなさん。この世界に四種類の雨雲に例えられる人がいます。四つはどのようでしょうか。四つとは、
①鳴っても降らない、
②降っても鳴らない、
③鳴りも降りもしない、
④鳴って降る雨雲です。
比丘のみなさん。この場合の人はダンマ、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を学習しますが、その人は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知りません。比丘のみなさん。私はこの人を、雷はしても降らない雨雲に譬えられると言います。
比丘のみなさん。この場合の人はダンマ、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を学習しませんが、その人は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知っています。比丘のみなさん。私はこの人を、雷はしないが降る雨雲に譬えられると言います。
比丘のみなさん。この場合の人はダンマ、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)の学習をせず、そしてその人は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知りません。比丘のみなさん。私はこの人を、雷もせず雨も降らない雨雲に譬えられると言います。
比丘のみなさん。この場合の人はダンマ、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を学習し、そしてその人は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知っています。比丘のみなさん。私はこの人を、雷もして雨も降る雨雲に譬えられると言います。
(別の経:21巻138頁103項では、上の四つの状態を四種類の鍋、つまり空で蓋がしてある鍋を、四聖諦を知らないが、僧にふさわしい行儀のある比丘に、中身がいっぱいで蓋が開いている鍋を、四聖諦を知っているが僧にふさわしい行儀のない比丘に、
空っぽで蓋が開いている鍋を、四聖諦を知らず僧にふさわしい行儀もない比丘に、中身がいっぱいで蓋がしてある鍋を、四聖諦を知り、そして僧にふさわしい行儀もある比丘に例えられています。
別の経:21巻140頁104項では、四種類の渕、つまり浅くて影が深い渕を、四聖諦を知らないけれど僧にふさわしい行儀のある比丘に、水は深いが影が浅い渕を、四聖諦を知っているが僧にふさわしい行儀のない比丘に、水が浅く影も浅い渕を、四聖諦を知らず、僧にふさわしい行儀もない比丘に、水が深くて影も深い渕を、四聖諦を知り、そして僧にふさわしい行儀もある比丘に例えています。
別の経:21巻142頁105項では、四種類のマンゴー、つまり未熟で色だけ熟しているマンゴーを、四聖諦を知らないけれど僧にふさわしい行儀のある比丘に、熟しているが色は未熟に見えるマンゴーを、四聖諦を知っているが僧にふさわしい行儀のない比丘に、
未熟で色も未熟に見えるマンゴーを、四聖諦を知らず僧にふさわしい行儀もない比丘に、熟していて、色も熟して見えるマンゴーを、四聖諦を知り、そして僧にふさわしい行儀もある比丘に例えています)。
本当の三宝が見えるのは、四聖諦が見えて漏から解脱した時
(出家した良家の子息の実践項目は、戒を持すことから、知足、根律儀、常自覚、静寂な住まいに住む、五蓋を捨てる、初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、宿命智、死生智に進みます)。
その比丘の心が安定し、煩悩が無く、純潔清浄になり、随煩悩が無く、仕事に適したしなやかな自然になり、動揺しない状態に達し、そのように維持できれば、心はすべての漏を終わらせるニャーナ(智)に傾きます。その人は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道、これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。
バラモンさん。これも私は「如行の足跡」「如行の体が擦った跡」「如行の牙がえぐった跡(註1)」などと言います。しかしその聖人である弟子はまだ心髄に至っていませんが、次第に「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタム(仏法)は善く説かれたもので、世尊の弟子集団は善い実践者」とこのように確信しつつあります。
その聖人である弟子がこのように知り、このように見ていれば、心は欲漏からも、有漏からも、無明漏からも解脱し、解脱すれば「解脱した」と知るニャーナ(知ること。智)があり、当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならない仕事は他にない」とハッキリと知ります。
バラモンさん。これも私は「如行の足跡」「如行の体が擦った跡」「如行の牙がえぐった跡」などと言います。バラモンさん。これだけの理由で、その聖人である弟子は、当然「世尊はサンマーサンブッダであり、プラタムは善く説かれたもので、世尊の弟子集団は善い実践者」とこのように確信します。
註1: 他の経では、ブッダ自身を森のマハーナーガ象に譬えられ、順にダンマの実践をし、順にダンマに到達し、最後に漏尽智に到達することで後を追ってくる人は、地面の足跡が見え、木々で体を擦った跡が見え、牙で木の枝をえぐった跡が見え、漏から脱した段階で、象であるブッダが見えると譬えられています。
四聖諦を知るための実践はダンマ主義
比丘のみなさん。ダンマ主義はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は、森へ行っても木の根元へ行っても、あるいは空き家へ行っても、「私が家を出て家のない人になったのは、チーヴァラを得るためでもなく、食べ物を得るためでもなく、住まいを得るためでも、いろんな物になるためでもない。
私は『生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みに追いつかれた苦のある人で、先に苦がある。どうしたらすべての苦を終わらせることができるだろう』と熟慮して出家したのだ。
更にプラタムは世尊が良く説かれたダンマで、学習し実践する人が自分で見るべき物で、時代に関わらず実践して結果を出せる物で、他人に『来て見て』と言える物で、自分に引き寄せるべき物で、知る人本人だけが知る物で、そのダンマはこのようだと知り、見えている梵行仲間もいる。
だから私は、世尊がこのように説かれたダンマヴィナヤで出家し、不注意を嫌う人になる。不注意は私にふさわしくない」と、このように熟慮して見ます。
その比丘は「私が始めた努力は弛まぬ努力で、維持しているサティを忘れることはなく、静まった体は悪化せず、心は安定し、一つだけの感情がある」と熟慮して見ます。その比丘はプラタム(教え)を重要とする行動をし、悪を捨て善に励み、罪のあるカンマを捨て罪のないカンマに励み、自分を純潔に維持します。
比丘のみなさん。私はこれをダンマ主義と呼びます。
(他の主義もあります。自分の利益の行動を始め、行動を緩めないのをアッターティパタイ(利己主義)と呼び、他人の批判を始め、行動を緩めないのをローガーティパタイ(世俗主義)と呼びます。どちらにもダンマがないので、実践を援ける物と見なすべきではありません。しかし上記のダンマ主義は実践を援けるので、仏教で苦を終わらせる教えに照らして正しいです。あるいはブッダの望みと一致します)。
四聖諦の洞察は鹿毛で鹿毛を突き刺すより緻密な仕事
「猊下。今朝私がチーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、ヴェーサリーへ托鉢に行く時、大勢のリッチャヴィー(氏族の名)の男子が公会堂で弓の練習をしているのを見ました。矢は遠くに開けてある穴を抜けてピタリと当たり、的を外れる矢はありませんでした。猊下。それを見て私は、リッチャヴィーの男子は良く練習していると思いました。遠くに開けてある穴を抜けてピタリと射ることができ、外れる矢は一本もありません」。
アーナンダ。あなたはこれをどう思いますか。遠くに開けてある穴を抜けて当てるのと、鹿の毛先に七つに裂いた鹿の毛先を通すのと、どちらが難しいですか。あるいはあり得ないですか。
「猊下。この鹿の毛先に、七つに裂いた鹿の毛先を通す方が難しいです。更にあり得ないです」。
アーナンダ。もっと難しい貫通をさせる人がいます。それは四聖諦を「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と突き刺す(洞察する)すべての人です。
アーナンダ。だからこのことは、あなたは「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と知らせるヨーガカンマ(目的を達成するために系統的にする努力)があるべきです。
四聖諦の実践はカーラーマ経と矛盾しない
「猊下。サマナ・バラモンの一団がケサプッタ村へ来て自分の教義である言葉を説き、他のサマナ・バラモンの教義の言葉を誹謗中傷、侵害することを言い、別のサマナ・バラモンが来ると、彼らも同様に自分の教義を自慢し、他のサマナ・バラモンの教義を侵害します。どのサマナ・バラモンが真実を言い、どの人たちが嘘を言っているのか、疑わしく思います。猊下
」。
カーラーマのみなさん。あなた方が疑われるのは尤もです。みなさんの疑念は疑うべくして生じました。
1.悪の側
カーラーマのみなさん。おいでなさい(来て話しましょう)、みなさん。
言い伝えているというだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
代々していると言うだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
評判になっていると言うだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
経典に根拠があるという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
論理的理由だけで、真実と見なしてはいけません。
推測による理由だけで、真実と見なしてはいけません。
状況的に考えた理由だけで、真実と見なしてはいけません。
(自分の)見解による凝視に耐えられるという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
聞いて信じられそうだという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
話しているサマナが自分の先生だという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
カーラーマのみなさん。みなさんが自分自身で「これらのダンマは悪だ。これらのダンマは罪がある。これらのダンマは知識者が非難する。これらのダンマはその(結果が出る)水準まで行動をすれば苦になり、利益がない」とこのように知ったら、その時そのダンマを捨ててしまうべきです。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。人に貪りが生じる時、利益のために生じますか、それとも利益のためではないですか。
「利益のためではありません、猊下」。
その人が貪り、貪りが支配し、貪りが心を包囲すると、当然動物を殺し、当然盗みをし、当然他人の妻を犯し、嘘を言い、他人をそのような行動に誘います。それは苦のための行動で、永遠に利益がないのではないですか。
「そうです、猊下」。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。人に怒りが生じる時、利益のために生じますか。それとも利益がありませんか。
「利益はありません、猊下」。
その人に怒りがあり、怒りが支配し、怒りが心を支配すると、当然動物を殺し、当然盗みをし、当然他人の妻を犯し、嘘を言い、他人をそのような行動に誘います。それは苦のための行動で、永遠に利益がないのではないですか。
「そうです、猊下」。
その人に愚かさがあり、愚かさに支配され、愚かさが心を支配すると、当然動物を殺し、当然盗みをし、当然他人の妻を犯し、嘘を言い、他人をそのような行動に誘います。それは苦のための行動で、永遠に利益がないのではないですか。
「そうです、猊下」。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。これらのダンマは善ですか悪ですか。
「悪です、猊下」。
罪がありますか、ないですか。
「罪があります、猊下」。
智者は称賛しますか。
「智者は非難します、猊下」。
めいっぱい行動したら苦になり、利益になりませんか。
「めいっぱいしたら苦になり、利益はありません、猊下」。
カーラーマのみなさん。
言い伝えているというだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
代々しているというだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
評判になっていると言うだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
経典に根拠あるという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
理論的な理由だけで、真実と見なしてはいけません。
推測による理由だけで、真実と見なしてはいけません。
状況で考えた理由だけで、真実と見なしてはいけません。
見解による凝視に耐えられるという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
聞いて信じられそうだという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
話すサマナが自分の先生だという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
カーラーマのみなさん。みなさん方が自分自身で「これらのダンマは悪だ。これらのダンマは罪がある。これらのダンマは知識者が非難する。これらのダンマはその(結果が出る)水準まで行動すれば苦になり、利益がない」とこのように知ったら、その時そのダンマを捨ててしまうべきです。私はこの十項に依存して話しました。
善の側
カーラーマのみなさん。おいでなさい(来て話しましょう)、みなさん。
長く伝承しているというだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
代々していると言うだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
評判になっていると言うだけの理由で、真実と見なしてはいけません。
経典に根拠あるからという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
理論的思考だけで真実と見なしてはいけません。
推測による理由だけで真実と見なしてはいけません。
状況的に考えた理由だけで真実と見なしてはいけません。
(自分の)見解と一致するという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
聞いて信じられそうだという理由だけで、真実と見なしてはいけません。
話すサマナが自分の先生だという理由だけで真実と見なしてはいけません。
カーラーマのみなさん。みなさん方が自分自身で「これらのダンマは善だ。これらのダンマは罪がない。これらのダンマは、知識者が称賛する。これらのダンマは、その(結果が出る)水準まで行動をすれば幸福になり、利益がある」とこのように知ったら、その時みなさんはそのダンマに至り、そして常にその感覚でいるべきです。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。人に貪らない気持ちが生じる時、利益のために生じますか、それとも利益でないためですか。
「利益のためです、猊下」。
その人が貪らなければ、貪りが支配しなければ、貪りに心が包囲されなければ、彼は当然動物を殺さず、当然盗まず、当然他人の妻を犯さず、嘘を言わず、他人をそのような行動に誘いません。それは幸福のための行動で、永遠に利益があるのではないですか。
「そうです、猊下」。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。人に怒らないことが生じた時、利益のために生じますか。それとも利益がありませんか。
「利益があります、スガタ様」。
その人に怒りがなく、怒りに支配されず、怒りに心が覆われなければ、彼は当然動物を殺さず、当然盗まず、当然他人の妻を犯さず、嘘を言わず、他人をそのような行動に誘いまぜん。それは幸福のための行動で、永遠に利益があるのではないですか。
「あります、猊下」。
その人に愚かさがなく、愚かさに支配されず、愚かさが心を覆わなければ、当然動物を殺さず、当然盗みをせず、当然他人の妻を犯さず、嘘を言わず、他人をそのような行動に誘いません。それは幸福のための行動で、永遠に利益があるのではないですか。
「あります、猊下」。
カーラーマのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。これらのダンマは善ですか悪ですか。
「善です、猊下」。
罪がありますか、ないですか。
「罪はありません、猊下」。
智者は非難しますか、称賛しますか。
「智者は称賛します、猊下」。
めいっぱい行動したら、幸福になり、利益になりますか。
「めいっぱいしたら、幸福になり、利益になります、猊下」。
カーラーマのみなさん。
言い伝えているという理由だけで真実と見なしてはいけません。
代々していると言う理由だけで真実と見なしてはいけません。
評判になっていると言う理由だけで真実と見なしてはいけません。
経典に根拠あるという理由だけで真実と見なしてはいけません。
理論的思考だけで真実と見なしてはいけません。
推測による理由だけで真実と見なしてはいけません。
状況で考えた理由だけで真実と見なしてはいけません。
(自分の)見解と一致するという理由だけで真実と見なしてはいけません。
聞いて信じられそうだという理由だけで真実と見なしてはいけません。
話すサマナが自分の先生だという理由だけで真実と見なしてはいけません。
カーラーマのみなさん。みなさん方が自分自身で「これらのダンマは善だ。これらのダンマは罪がない。これらのダンマは、知識者が称賛する。これらのダンマは、その(結果がでる)標準まで行動すれば幸福になり、利益がある」とこのように知ったら、その時そのダンマに到達するべきです。私はこの十項に依存して話しました。
カーラーマのみなさん。聖人である弟子はこのように貪りがなく、このように怒りがなく、愚かさがなく、自覚があり、現前にサティがあり、慈しみと一緒に行く心があり、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向へ同じように広げ、彼は世界中のすべての方向のどこにでも、上も下も、投げる方へも、慈しみになる心、悪意のない心、復讐心のない心、偉大な徳のある広大で無限の心を広げ、常にその感覚の中にいます。
その人は憐れみになる心を当然第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向へ同じように広げ、世界中のすべての方向のどこにでも、上も下も、投げる方へも、憐れみになる心、悪意のない心、復讐心のない心、偉大な徳のある広大で無限の心を広げ、常にその感覚の中にいます。
喜(他人の幸福を喜ぶこと)と一緒に行く心があり、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向へ同じように広げ、世界中のすべての方向のどこにでも、上も下も、投げる方へも、喜びになる心、悪意のない心、復讐心のない心、偉大な徳のある広大で無限の心を広げ、常にその感覚の中にいます。
捨(動じないで平然としていること)と一緒に行く心があり、第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向へ同じように広げ、その人は世界中のすべての方向のどこにでも、上も下も、投げる方へも、捨になる心、悪意がなく復讐心がなく、偉大な徳のある広大で無限の心を広げ、常にその感覚の中にいます。
カーラーマのみなさん。その聖人である弟子はこのように悪意がない心があり、このように復讐心のない心があり、このように憂鬱でない心があり、このように清浄で素晴らしい心があります。その聖人である弟子に四つの心の軽さが、現生であります。
1.来生があり善いカンマ悪いカンマの報いがあるなら、体が壊れて死んだ後、私が善趣、天国に至ることはあり得る。これがその聖人である弟子に生じる心の軽さの一番です。
2.来生がなく善いカンマ悪いカンマの報いがないなら、現生のここにいる私は幸福で悪意がなく、復讐心がなく、苦がないように自分を管理できる、とこのようです。これがその聖人である弟子に生じる心の軽さの二番目です。
3.罪が行為者のための行動なら、私はどんな罪も作ろうと考えない。何も罪を作らない私に、どこから罪が来るだろう、とこのようです。これがその聖人である弟子に生じる心の軽さの三番目です。
4.もし罪が行為者のための行動でないなら、ここで自分は二つの世界でこのように純潔に見える。これが、その聖人である弟子に生じる心の軽さの四つ目です。
比丘のみなさん。その聖人である弟子はこのように悪意のない心があり、このように復讐心のない心があり、このように憂鬱でない心があり、このように純潔な素晴らしい心があれば、この四つの心の軽さが当然その聖人である弟子に現生で生じます。
「世尊。それはそうです。猊下、それはそのようです」。
(カーラマーの人々はブッダが繰り返された言葉を受け入れ、ブッダの説法を称賛して、自ら清信士であると表明しました)。
(学習者は、「四聖諦の学習と実践はカーラーマ経の十項目と何一つ矛盾しない」と、観察して見ることができます。
言い伝えてきた言葉を信じる必要がなく、伝承している行動を見る必要もなく、噂を信じる必要も、テキスト(経)を根拠にする必要もなく、あるいは論理的理由で、あるいは哲学で、あるいは常識で、あるいは自分の理論との一致で、
あるいは話し手が信じられそうな人だから、あるいは話し手が自分の先生だからという理由で信じなくても、それ自体が「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と明らかに説明しているからです。
ブッダもそれを、この経の中で常に強調しておられます。つまり四聖諦の知識と実践には、カーラーマ経に照らして何らかの矛盾がある迷信や、戒禁取になる余地はないと言うことができます)。
四聖諦に関わる教団員
比丘のみなさん。この二つの部類の教団員(四衆)がいます。二つはどのようでしょうか。二つは素晴らしくない(アナリヤ)教団と、素晴らしい(アリヤ)教団です。
比丘のみなさん。素晴らしくない教団員はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合のどの教団の比丘も「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに明らかに知りません。この教団員を、私は素晴らしくない教団員と言います。
比丘のみなさん。素晴らしい教団員はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合のどの教団員の比丘も「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに明らかに知っています。この教団員を、私は素晴らしい教団員と言います。
比丘のみなさん。教団員にはこの二つの部類があります。二種類の教団員うちの秀でた教団は、素晴らしい教団です。
四聖諦を二部に分ければ
比丘のみなさん。アリヤであり、苦から出る道具であり、動物を悟りに至らせる道具であるすべての善のダンマがあります。
比丘のみなさん。質問好きな人がみなさんに「善であり、アリヤであり、苦から出る道具であり、悟りに至る道具であるダンマを聞いて、最高の利益を得る方法(ウパニサー。註1)はどのようですか」と質問したら、みなさんは「その方法は、それらの二つの部分に分けるべきダンマを、真実のままに知る(聞くこと)です」と答えるべきです。
二つの部分はどのようでしょうか。それは「これが苦、これが苦の原因」と知る(聞く)こと、これがアヌパッサナー(随観)の第一部で、「これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このようなのがアヌパッサナーの第二部です。
比丘のみなさん。正しく二つの部分に分けるべきダンマをこのように見れば、不注意でない人であり、煩悩を焼く努力があり、ダンマに自分を追い遣り、その人が期待すべき二つの結果は、現生で阿羅漢果へ到達するか、まだウパディが残っていれば当然アナガミー(不還)です。
註1: ウパニサーという言葉を「利益」と訳している所がありますが(ブッダヴァチャナによる縁起の549頁)正しくありません。正しくは「利益に至る方法」です。このようにご理解ください。
四聖諦の学習原則は一般にも使える
例1.悪い戒
タパティさん。これらの悪い戒(不善戒)を、私は知るべき物と言います。
タパティさん。悪い戒にはこれが原因としてあり、私はこれを知るべき物と言います。
タパティさん。ここで悪い戒は残らず消滅し、それを私は知るべき物と言います。
タパティさん。このように実践する人は悪い戒を消滅させるために実践します。それを私は、知るべき物と言います。
例2.善い戒
タパティさん。これらの善い戒を、私は知るべき物と言います。
タパティさん。善い戒にはこれが原因としてあり、私はこれを知るべき物と言います。
タパティさん。ここで善い戒が残らず消滅し、それを私は知るべき物と言います。
タパティさん。このように実践する人は善い戒を消滅させるために実践します。それを私は、知るべき物と言います。
例3.悪い考え
タパティさん。これらの悪い考えを、私は知るべき物と言います。
タパティさん。悪い考えにはこれが原因としてあり、私はこれを知るべき物と言います。
タパティさん。ここで悪い考えが残らず消滅し、それを私は知るべき物と言います。
タパティさん。このように実践する人は、悪い考えを消滅させるために実践します。それを私は、知るべき物と言います。
例4.善い考え
タパティさん。これらの善い考えを、私は知るべき物と言います。
タパティさん。善い考えには原因であるこれがあり、私はこれを知るべき物と言います。
タパティさん。ここで善い考えが残らず消滅し、それを私は知るべき物と言います。
タパティさん。このように実践する人は、善い考えを消滅させるために実践します。それを私は、知るべき物と言います。
(学習者は「これは何か、何が原因か、何のために、どんな方法で、と分ける四聖諦式学習原則は、どんなダンマの学習にも応用できる」と、自分で観察して見ることができます)。
四聖諦は智慧根が姿を現す基盤
比丘のみなさん。これら五つの根があります。五つはどのようでしょか。五つは信根、精進根、サティ根、サマーディ根、そして智慧根です。
比丘のみなさん。信根はどこで見られるでしょうか。信根は、四つのソターパティヤンガ(預流の徳。預流支)に見られます。
比丘のみなさん。精進根はどこで見られるでしょうか。精進根は四正勤で見られます。
比丘のみなさん。サティ根はどこで見られるでしょうか。サティ根は四念処で見られます。
比丘のみなさん。サマーディ根はどこで見られるでしょうか。サマーディ根は四つの定で見られます。
比丘のみなさん。智慧根はどこで見られるでしょうか。智慧根は四聖諦で見られます。
比丘のみなさん。これが五根です。
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