八正道の実践は基盤である戒に依存しなければならない

 比丘のみなさん。人がする力仕事は、どれも大地に依存して大地に立つことでできるように、比丘のみなさん。比丘は戒に依存して戒を維持することで、当然八正道に励んでたくさんすることができます

 比丘のみなさん。比丘はどのように戒に依存し戒を維持すれば、当然八正道を生じさせ、当然八正道を増やすことができるでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ニローダ(滅)に依存し、(取蘊を)返却することに傾いていく正しい見解に励み、当然正しい望みに励み、当然正しい言葉に励み、当然涅槃に傾く類の正しい業に励み、当然正しい生活に励み、当然正しい努力に励み、当然正しいサティに励み、当然正しいサマーディ(専心)に励みます。

 比丘のみなさん。こういうのを、戒に依存し、戒を維持する比丘は、当然八支正道に励み、当然八支正道たくさんすることができると言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻68頁264項

 (ここで言っている「基盤である戒」は八正道に含まれている戒という意味でなく、五戒や菩薩戒などの、まだ遠離、離欲、滅、振り払うことを始めていない戒のことです。

 基盤である戒に依存しなければならない行動の例えは、力仕事以外に、すべての農業は生育させる大地に依存しなければならない例え:19巻70頁272項、龍は生まれる場所、育つ場所としてヒマラヤに依存しなければならない例え:19巻71頁275項があります)。





(道の用具である)住むべき場所と交際する人を選ぶ基準

森の中の住まいを選ぶ

 比丘のみなさん。この場合の比丘がどこかの密林へ行って住むと、まだ維持できないサティは維持できず、まだ安定しない心も安定せず、まだ終わっていない漏も終わらず、そしてまだ到達していない無上に安全なダンマにも到達せず、出家者が求めるべきチーヴァラ(衣)や食べ物、住まい、八物を求めるのにも苦労をします。

 比丘のみなさん。熟慮してこのように見たら、その比丘は昼も夜も、その森の住まいから離れるべきで、ここにいるべきではありません。

 比丘のみなさん。更にこの場合の比丘がどこかの密林へ行って住むと、まだ維持できないサティも維持できず、まだ安定しない心も安定せず、まだ終わっていない漏も終わらず、そしてまだ到達していない無上に安全なダンマにも到達しませんが、出家者が求めるべきチーヴァラや食べ物、住まい、八物を求めるには苦労しません。

 比丘のみなさん。その比丘は「私が家を出て出家したのはチーヴァラのためでも、食べ物のためでも、住まいのためでも、八物のためでもない」と熟慮して明らかに見、このように熟慮して見たら、その比丘はその森の住まいから離れるべきで、住んでいるべきではありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘はは、まだ終わっていない漏も終わりに達し、そしてまだ到達していない無上に安全なダンマにも到達しますが、出家者が求めるべきチーヴァラや食べ物、住まい、八物を求めるのに苦労します。

 比丘のみなさん。その比丘が「私が家を出て出家したのはチーヴァラのためでも、食べ物のためでも、住まいのためでも、八物のためでもない」と熟慮して明らかに見ます。このように熟慮して見たら、その比丘はその森の住まいにいるべきで、離れるべきではありません。

 比丘のみなさん。この場合の比丘がどこかの密林へ行って住むと、まだ維持できなかったサティも維持でき、まだ安定しなかった心も安定し、まだ終わっていない漏も終わりに達し、そしてまだ到達していない無上に安全なダンマにも到達し、そして出家者が求めるべきチーヴァラや食べ物、住まい、八物を求めるにも苦労しません。

 比丘のみなさん。その比丘が熟慮してこのように明らかに見えたら、その比丘は生涯その森の住まいにいるべきで、離れるべきではありません。

 (村や町や都や田舎に住む場合、そして人を選ぶ場合も、同じ基準で話されています)。

中部ムーラパンナーサ 12巻212頁235項

 (別の経では、住むべきか住むべきでないか判断する基準として、善が生じるか生じないかを基準にし、善や徳の結果があれば住むべきであり、悪の結果があれば住むべきではないと捉えます。そしてこれらを選ぶ時、体の正しい行い、言葉の正しい行い、心の正しい行い、心の発生、想の獲得、見の獲得、自我の獲得、六根それぞれの感情、チーヴァラ、食べ物、住まい、村、町、都、田舎、そして人を基準にしています。

 詳しく知りたい方は、中部ウパリバンナーサ、14巻144頁199項を見てください。あるいは本書の1143頁にある「悪を捨て善に励む努力をする道具」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-7-1.htmlを見てください)。





八正道を早く完璧にする方法

 比丘のみなさん。

 目を真実のままに知り、見ていれば、

 形を真実のままに知り、見ていれば、

 眼識を真実のままに知り、見ていれば、

 眼触を真実のままに知り、見ていれば、眼触が縁で生じる受を、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、真実のままに知って見ていれば、その人は当然目を喜んで欲しがらず、当然すべての形を喜んで欲しがらず、当然眼識を喜んで欲しがらず、当然眼触を喜んで欲しがらず、当然眼識が縁で生じる受を、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、喜んで欲しがりません。

 その人が喜んで欲しがらず、揃えず、陶酔せず、平素から害が見えていれば、当然五取蘊は二度と作られない状態に至ります。そして新しい有に導く物であり、欲情と陶酔の威力があり、その感情に最高に陶酔させるその人の欲望は、当然捨てられ、体と心の不安定さも捨てられ、体と心が焼き炙られることも捨てられ、体と心の焦燥も捨てられ、その人は体と心の幸福を味わいます。

 このように知って、このように見ている人の見解は正しい見解であり、このように知り、このように見ている人の考えは正しい考えであり、このように知り、このように見ている人の言葉は正しい言葉であり、

このように知り、このように見ている人の業、生活、努力、サティ、サマーディは、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。つまりそのように知り、そのように見ている人の八正道は、当然このような状態で完璧なバーヴァナー(精励)になるということです。

中部ウパリバンナーサ 14巻523頁828項

 (基本に八正道の実践をする人は、深いレベル、つまり欲望・取の基盤である六処について正しく知る実践は、当然全部揃った八正道を実践する秘訣、と説かれているパーリ(ブッダの言葉である経)の重要性を見なければなりません。

 幾つもの項目に分かれていて、そしてそれぞれの項目が更に幾つもにも分かれている実践をする人のように、時間を無駄にする必要はありません。それらのほとんどは、死ぬまで実践しても、あるいは死ぬほど実践しても成功しないので、このパーリの重要性を実践者のみなさんに主張させていただきます。

 目の場合だけを取り上げましたが、学習者は、耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように引き比べて見てください。そうすれば六処入、五種類で、三十全部揃います)。





聖なる弟子の注意深さの維持し方

 ナンディヤさん。聖なる弟子は、平素からどのように不注意でない人でしょうか。

 ナンディヤさん。この場合の聖なる弟子は、「これらの理由で、世尊は自分自身で正しく悟った阿羅漢であり、明(知識)と徳行が完璧で、良く行った人であり、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する人であり、天人と人間の先生であり、ダンマを分類して動物に教える明るい人」と、このようにブッダに揺るぎない帰依のある人です。

 その聖なる弟子は、ブッダへの揺るぎない帰依に満足するに止まらず、更に高く、つまり昼間の遠離、夜間の隠遁の努力をします。その聖なる弟子がこのように油断しなければ、当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば喜悦が生じ、心に喜悦があれば体も静まり、体が静まった人は当然幸福を感じ、

幸福な人は当然心が安定し、心が安定すれば(まだ現れたことがない)ダンマが現れ、そのダンマが現れることで、その聖なる弟子は当然、普段から本当に不注意でなく暮らす人と見なすことができます。

 (二番目の預流支の場合は、教えへの揺るぎない帰依、三番目はサンガへの揺るぎない帰依、四番目は聖人が満足する戒があることを、ブッダへの帰依と同じように話されています)。

 ナンディヤさん。このように、聖なる弟子は、平素から注意深く暮らす人です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻501頁1602項

 (預流の準備段階である随法行者と随信行者、あるいは預流もまだ仕事があり、引き続き一層注意深くしなければならないので、この経の内容を「いつも油断なく暮らす人」という題にしたという主旨を観察してください。

 この実践項目の要旨は、「昼はヴィヴェカ(遠離)」、つまり外部の妨害が静まり、「夜はパティサッラーナ(沈思)」、つまり心がいろんな感情に飛散しないで、四六時中適度なダンマを心で意識することで、歓喜からまだ生じたこのないダンマが生じるまで、順に結果が生じます。

 更に高いレベルの聖なる弟子も、同じ実践原則があります。現在到達しているより高いダンマに到達するために、阿羅漢に到達するまで「昼はヴィヴェカ、夜はパティサッラーナ(沈思)」で、最高に不注意でない阿羅漢でも、梵行の終りに到達した人の穏やかな暮らしのために「昼は遠離、夜は沈思」です。

 どうぞみなさん、離れて暮らすことと、沈思黙考があることは、それほど大変でなく、より注意深さを維持することの基幹であると、その重要性を見てください)。





サマタとヴィパッサナーのバランスをとるべき

 比丘のみなさん。この四種類の人がこの世界にいます。四種類はどのようでしょうか。

 四種類とは、ある人は内部のチェトーサマタ(心を鎮めること。心寂止)をしますが、高い智慧でダンマヴィパッサナー(ダンマを見ること)をせず、ある人はでダンマヴィパッサナーをしていますが、内部のチェトーサマタをせず、ある人は内部のチェトーサマタも、高い智慧でダンマヴィパッサナーもせず、ある人は内部のチェトーサマタも、高い智慧でのダンマヴィパッサナーもしています。

 比丘のみなさん。この四種類のうち、

1.内部でチェトーサマタをしても、高い智慧でダンマヴィパッサナーをしていない人は、内部のチェトーサマタで自分を維持し、そして高い智慧でダンマヴィパッサナーをする努力をするべきです。そうすればその後彼は、内部のチェトーサマタと高い智慧によるダンマヴィパッサナーをした人になります。

2.高い智慧でダンマヴィパッサナーをしていても、内部でチェトーサマタをしていない人は、高い智慧のダンマヴィパッサナーに自分を維持し、そして内部のチェトーサマタをする努力をすべきです。そうすればその後彼は、内部のチェトーサマタも、高い智慧によるダンマヴィパッサナーもした人になります。

3.内部のチェトーサマタも、高い智慧のダンマヴィパッサナーもしていない人は、頭や着衣に火が点いて燃えている人が、頭や着衣の火を消すために非常に大きな満足、精進、努力、不退転、サティ、そして自覚の行動をしなければならないように、二種類の善をするために非常に大きな満足、精進、奮闘努力、不退転、常自覚の行動をするべきです。

 そうすればその後彼は、内部のチェトーサマタと、高い智慧によるダンマヴィパッサナーをした人になります。

4.内部のチェトーサマタも、高い智慧のダンマヴィパッサナーもしている人は、二つの善の中に自分を維持し、そしてすべての漏の終りのために一層努力をするべきです。

 比丘のみなさん。この四種類の人がこの世界にいます。

増支部チャッカニバータ 21巻524頁93項





サマタ(止)とヴィパッサナー(観)のバランスのための実践

 比丘のみなさん。その四種類のうち、

1.内部でチェトーサマタ(心を鎮めること。心寂止)をしても、高い智慧でダンマヴィパッサナー(ダンマを見ること)をしていない人は、その人は高い智慧でダンマヴィパッサナーをする人を訪ねて、「ご年配。私は行をどのように見、どのように熟慮すべきですか」とこのように質問するべきです。

 質問された人は、自分で見えたように、明らかにしたように「ご年配。行はこのように見、行はこのように熟慮し、行はこのように明らかに見るべきです」と託宣します。その後彼は、内部のチェトーサマタと、高い智慧によるダンマヴィパッサナーをする人になります。

2.高い智慧でダンマヴィパッサナーをしても、内部でチェトーサマタをしていない人は、内部のチェトーサマタをする人を訪ねて、「ご年配。心はどのように維持するべきですか。どのように導かれるべきですか。どのように安定させるべきですか」と質問するべきです。

 質問された人は自分が見えたように、明らかであるように「ご年配。心はこのように維持するべきで、このように導かれるべきで、このように一つだけの感情のある心にするべきです」と託宣します。その後彼は、内部のチェトーサマタも、高い智慧によるダンマヴィパッサナーもする人になります。

3.内部のチェトーサマタも、高い智慧のダンマヴィパッサナーもしていない人は、内部のチェトーサマタも高い智慧でのダンマヴィパッサナーもしている人を訪ねて、「ご年配。心はどのように維持するべきものですか。どのように導かれるべきですか。どのように安定させるべきですか。私は行をどのように見、どのように熟慮すべきですか」と質問するべきです。

 質問された人は自分で見たように、明らかなように「ご年配。心はこのように維持するべきで、このように導かれるべきで、このように一つだけの感情のある心にするべきです。行はこのように見、行はこのように熟慮し、行はこのように明らかに見るべきです」と託宣します。その後彼は、内部のチェトーサマタと高い智慧でダンマヴィパッサナーをする人になります。

4.内部のチェトーサマタも、高い智慧のダンマヴィパッサナーもしている人は、その人は二つダンマの中で自分を維持し、そしてすべての漏の終りのために、一層努力をするべきです。

 比丘のみなさん。この四種類の人がこの世界にいます。

増支部チャッカニバータ 21巻122頁94項





サンマッタがあれば最高の目標がある

 比丘のみなさん。サンマッタ(正しさ)に依存することで、当然アーラーダナー(聖人が満足する最高の成功)があり、ヴィラーダナー(成功に巡り合わないこと)はありません。それはどのようでしょうか。比丘のみなさん、

正しい見解がある人は、正しい考えが当然十分あり、

正しい考えがある人は、正しい言葉が当然十分あり、

正しい言葉がある人は、正しい業が当然十分あり、

正しい業がある人は、正しい生活が当然十分あり、

正しい生活がある人は、正しい努力が当然十分あり、

正しい努力がある人は、正しいサティが当然十分あり、

正しいサティがある人は、正しいサマーディが当然十分あり、

正しいサマーディがある人は、正しいニャーナが当然十分あります。

 比丘のみなさん。こういうのを、サンマッタに依存してアーラーダナーがあり、ヴィラーダナーがあるのではないと言います。

相応部ダサカニバータ 24巻226頁104項

 (望まないこと、ヴィラーダナーはミッチャッタ(誤り)に依存して生じると、反対の意味で話されています。学習者は自分で対照して見てください。解説はこの後にあります)。





ミッチャッタとサンマッタの結果

 比丘のみなさん。人に誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディ、誤ったニャーナ、誤った解脱があれば、その人が誤った見解で目一杯行動した身業、口業、意業も、意図も、望みも、誓願も、どんな行も、その人のダンマはすべて、当然望ましくない、欲しくない、満足しない、役に立つ利益がない苦になります。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは見解が誤った見解だからです。

 比丘のみなさん。人が湿った土に植えた栴檀(あるいはキニーネ)、苦へちま、苦ひょうたんは、土の味やその植物のどこの味を見ても、土とすべての水の味は、当然苦くて辛くてヒリヒリして不味いのと同じです。それはなぜでしょうか。その植物は悪い植物だからです。

 比丘のみなさん。人に正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しいニャーナ、正しい解脱があれば、その人が正しい見解で目一杯行動する身業、口業、意業も、意図も、望みも、誓願も、どんな行もその人のダンマはすべて、当然望ましく、欲しくなる、満足できる、役に立つ幸福になります。それは何故でしょうか。

 比丘のみなさん。それは見解が良い見解だからです。比丘のみなさん。人が湿った土に植えたサトウキビ、麦、ブドウは、土の味やその植物のどこの味を見ても、土とすべての水の味は、当然喜ばしい味、甘い味、瑞々しい味になるのと同じです。

それはなぜでしょうか。その植物は良い植物だからです。

増支部ダサカニバータ 24巻226頁104項





急いで精一杯実践し、成功を焦る必要はない
(それが中道)

 比丘のみなさん。農家の長者が急いでしなければならない仕事は三つあります。三つは何でしょうか。

 三つとは、農家の長者は急いで田んぼを耕し、良く均し、それから急いで稲を植え、急いで水を入れたり抜いたりします。比丘のみなさん。農家の長者が急いでしなければならない仕事はこの三つです。しかしその長者は「私の稲は今日芽を出し、明日穂を出し、明後日実れ」と、このようにする神通はありません。正しくは、その稲が季節に応じて変化し、当然芽を出し、実をつけて熟す時間があります。

 比丘のみなさん。同じように比丘が急いでしなければならない仕事は三つあります。三つはどれでしょうか。三つとは、最高の戒の実践を遵守し、最高の心の実践を遵守し、最高の智慧の実践を遵守します。比丘のみなさん。これが、比丘が急いでしなければならない三つの仕事です。

 しかしその比丘は「私の心は今日か明日、あるいは明後日、取が無くなってすべての漏から解脱する」と、このようにする威力や神通はありません。正しくは、その比丘が最高の戒の実践も、最高の心の実践も、最高の智慧の実践をすれば、取がなくなり、心が自然にすべての漏から解脱するふさわしい時間があります。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「最高の戒の実践、最高の心の実践、最高の智慧の実践を遵守する自分の満足は、十分厳格でなければならない」と心の留めておかなければなりません。比丘のみなさん。みなさん、このように心に留めておくべきです。

増支部ティカニバータ 20巻309頁532項





純潔な苦行梵行の清浄な状態

1.比較のための純潔でない状態

 「猊下。このように完璧な苦行で煩悩を妨害しても、世尊はまだ何か、苦行をするいろんな随煩悩についておっしゃいますか」。

1.ニグローダさん。この場合苦行をしている苦行者は「望みどおり完璧だ」と苦行に満足しています。ニグローダさん。彼が「完璧だ」と苦行に満足していることは、これもその苦行者の随煩悩(心を憂鬱にする物)です。

2.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行を自慢し他人を貶します。ニグローダさん。苦行を自慢し他人を貶すことも、その苦行者の随煩悩です。

3.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、苦行に酔って苦行に迷い、その苦行で陶酔に至ります。ニグローダさん。苦行に酔って苦行で愚かさや陶酔に至ることも、その苦行者の随煩悩です。

4.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせ、その供物と称賛に「望みどおりだ」と満足します。ニグローダさん。彼が「望みどおりだ」と供物と称賛に満足することも、その苦行者の随煩悩です。

5.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせ、その供物と称賛を自慢し、他人を貶します。ニグローダさん。供物と称賛を自慢し、他人を貶すことも、その苦行者の随煩悩です。

6.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせ、供物に酔い、供物に迷い、供物と称賛で惑溺に至ります。ニグローダさん。彼が供物に酔い供物に迷い、供物と称賛で惑溺に至ることも、その苦行者の随煩悩です。

7.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その食べ物のすべてを「これは私にふさわしい。これはふさわしくない」と区別し、嫌いな物に顔を背けて興味を示さないで捨ててしまい、好きな物には熱中してそれを狙って害が見えず、(その旨味から出る)智慧なしに食べます。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

8.まだあります。苦行をしている苦行者は供物と称賛が欲しいので、「王や大臣や武士、バラモン、長者、教祖のすべてが私に供物をくれる」と考えます。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

9.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は所構わず、サマナ・バラモンの誰にでも、「何ですか。この方は乱れた生活をなさって、根で殖える植物も、株で殖える植物も、実で殖える植物も、芽で殖える植物も、幹で殖える植物も、何でもみな食べて尽くしてしまわれる」と、鋭利な刃物のような、電光のような侵害する言葉で攻撃します。ニグローダさん。このような行動も、その苦行者の随煩悩です。

10.ニグローダさん。まだあります。

 苦行をしている苦行者が、人々が揃って供物を差し上げ、尊敬し、敬意を表し、崇拝しているいろんなサマナ・バラモンを見ると、「この乱れた仕事をしているサマナ・バラモンを、すべての名家の人が揃ってお供えし、敬意を表し、尊敬し、崇拝している。しかし苦行者であり、スーカ(註1)とパティパダー(道)がある暮らしをしている私に、どこの名家の人もお供えをせず、表敬、尊敬、崇拝しない」と考えます。

 彼はこのように、すべての名家に嫉妬と吝嗇を生じさせます。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

註1: このスーカという言葉は、タイ人にとって訳しにくい言葉です。今までは「憂鬱やみすぼらしさ」と訳され、もっと高い、あるいは深い本当の意味と違う、誤解をさせる訳語です。つまり「価値がなく、美しくなく、快適でない生活」、一般に最高に厳格と言われる「出家にとって、最低の生活」のことです。このスーカという言葉を、今後も外来語として使ってください。

11.まだあります。苦行をしている苦行者は、人が往来する道に座って(自慢するために)自分の姿を見せます。ニグローダさん。これもその苦行者の随煩悩です。

12.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、自分を(真実のままに)公開しないでいろんな名家を訪れ、「こういうのが私の苦行です。私の苦行にあります」と公言します。ニグローダさん。これもその苦行者の随煩悩です。

13.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、大抵何でも秘密にする性分で、これはあなたに適していますかと訊かれると、ふさわしくない物をふさわしいと言い、ふさわしい物をふさわしくないと言い、知っていながら嘘を言う人です。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

14.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は、如行(ブッダの一人称)または如行の弟子がダンマを説いていると、彼は(正しい、真実だと)認めるべき説明を、真実でも(正しい、真実だと)認めません。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

15.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は怒りっぽい人で、怒りを腹に溜めやすい人です。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

16.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は他人の徳を貶し、目上の人と対等に振る舞う人で、嫉妬し、ケチで、自慢し、姦計がある人で、頑固で、他人を下に見る人で、下品な望みがあり、下品な望みの威力の下に落ちている人で、誤った見解で、辺執見があり、いろんな物を自分のディッティで撫で回す人で、強く執着して返却し難い人です。ニグローダさん。これも、その苦行者の随煩悩です。

 ニグローダさん。あなたはこれをどう理解しますか。今述べたような状態の苦行で煩悩を妨害するのは随煩悩ですか、随煩悩ではないですか。

 「猊下。これらの苦行で煩悩を妨害するのは本当の随煩悩です。随煩悩でないことはありません、猊下。これはあり得ます。つまりこの場合の苦行者には随煩悩のすべてが漏れなくあるのに、個々の随煩悩がないことがどうしてあるでしょうか」。



2.原則と捉えるための純潔な状態

1.ニグローダさん。この場合の苦行をしている苦行者は、その苦行は期待どおり完璧だと感じ、苦行に満足している人ではありません(自分の満足のために苦行をしているのではない)。ニグローダさん。彼が満足するために苦行をしないことは、彼はその点で純潔な人です。

2.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行を自慢し他人を貶しません。苦行で自慢し他人を貶さないので、彼はその点で純潔な人です。

3.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者はその苦行に酔わず、苦行に迷わず、苦行で陶酔に至りません。苦行に酔わず、苦行に迷わず、苦行で陶酔に至らないので、彼はその点で純潔な人です。

4.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせ、その供物と称賛に「望んだとおり豊かだ」と満足する人ではありません。ニグローダさん。彼は供物と称賛に「望みどおり豊富だ」と満足しないので、彼はその点で純潔な人です。

5.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせますが、彼はその供物と称賛を自慢せず、他人を貶しません。供物と称賛を自慢し他人を貶さないので、彼はその点で純潔な人です。

6.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その苦行で供物と称賛を生じさせ、供物に酔わず、供物に迷わず、供物と称賛で惑溺に至りません。彼が供物に酔わず、供物に迷わず、供物と称賛で惑溺に至らないので、彼はその点で純潔な人です。

7.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、その食べ物のすべてを、「これは私にふさわしい。これはふさわしくない」と区別せず。嫌いな物に顔を背けて、興味がないことを表して捨ててしまうことなく、好きな物に熱中してそれを狙いません。害が見え、(その旨味から出る)智慧で食べるので、彼はその点で純潔な人です。

8.まだあります。苦行をしている苦行者は、供物と称賛が欲しいために「王や大臣や武士、バラモン、長者、教祖のすべてが私に供物をくれる」と、このように考えません。だから彼はその点では純潔な人です。

9.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、所構わず、サマナ・バラモンの誰にでも「何ですか。この方は乱れた生活をなさって、根で殖える植物も、株で殖える植物も、実で殖える植物も、芽で殖える植物も、幹で殖える植物も、何でもみな食べて尽くしてしまわれる」と、鋭利な刃物のような、電光のように侵害する言葉で攻撃する人ではありません。だから彼はその点で純潔な人です。

10.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者が、すべての名家の人々がサマナ・バラモンに揃って供物を差し上げ、尊敬し、敬意を表し、崇拝しているのを見ると、「この乱れた生活をしているサマナ・バラモンを、すべての名家の人が一斉にお供えし、敬意を表し、尊敬し、崇拝している。

しかし苦行者であり、スーカとパティパダーがある暮らしをしている私に、どこの名家の人もお供えし、敬意を表し、尊敬し、崇拝しない」と、このように考えず、このようにすべての名家に嫉妬と吝嗇を生じさせません。だから彼はその点で純潔な人です。

11.まだあります。苦行をしている苦行者は、人が通行する道に座って(自慢するために)自分の姿を見せるのを好みません。だから彼はその点では純潔な人です。

12.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は自分を隠さず、すべての名家を訪れて(彼は真人であり隠し事がなく)「こういうのが私の苦行です。私の苦行にあります」と公言しません。だから彼はその点で純潔な人です。

13.ニグローダさん。まだあります。苦行をしている苦行者は、通常何でも秘密にする性分でなく、これはあなたに適していますかと訊かれると、ふさわしくない物はふさわしくないと言い、ふさわしい物はふさわしいと言い、分かっていながら嘘を言う人ではありません。だから彼はその点で純潔な人です。

14.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は、如行、あるいは如行の弟子がダンマを説いていると、彼は(正しい、真実だと)認めるべき(真実のある)説明を(正しい、真実だと)認めます。彼はその点で純潔な人です。

15.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は、怒りっぽい人でなく、怒りを腹に溜めやすい人でもありません。彼はその点では純潔な人です。

16.ニグローダさん、まだあります。苦行をしている苦行者は、他人の徳を貶さず、目上の人と対等に振る舞う人でなく、嫉妬せず、ケチでなく、自慢せず、姦計のある人でなく、頑固でなく、他人を見下す人でなく、下品な望みがなく、下品な望みの威力下に落ちている人でなく、正しい見解で、辺執見がなく、いろんな物を自分のディッティで撫で回す人でなく、強く執着しない人、楽に返却できる人です。彼はその点で純潔な人です。

 ニグローダさん。あなたはこれをどう理解しますか。このようなら、苦行で煩悩を妨害することは純潔ですか、純潔でないですか。

 「猊下。このようなら、苦行で煩悩を妨害するのは本当に純潔で、その上核心に至り、頂点に至ります。猊下」。

 ニグローダさん。これだけの苦行で煩悩を妨害しても、まだ芯や頂点には至りません。まだ乾いた外皮に至るだけですよ。

長部パーティヴァッガ 11巻44頁24項他





苦を嫌悪する人の闘い

 苦を嫌い、静かな座臥所を味わう人の安楽があり、そのダンマを真実のままに悟りたいなら、私が知っているようにあなたに教えます。

 賢い比丘はサティがあり、どの方向にも最高のダンマの振る舞いをするべきです。五つの危険、つまりアブ、刺す動物、這う動物、人間の衝撃、そして四足の動物による危険を恐れるべきではありません。

 その比丘は、反対のダンマのある人たちに怯えるべきではなく、それらたくさんの恐怖、あるいは他の危険が見えても、善であるダンマを探してその恐怖を支配してしまうことができます。

 病気や飢えや寒さ暑さに触れても堪えることができ、どんなにそれらの触に触れようと、心に溢れる煩悩がなく、立ち向かって不動の努力を維持することができます。

 盗みをすべきでなく、嘘を言うべきでなく、まだビクビクでも余裕でも、慈しみで動物に触れるべきです。心の曇りをハッキリと知り、そしてそれは黒い側のダンマと考えて排除してしまうべきです。

 怒りと傲慢の威力に至るべきでなく、それらの煩悩の根を掘って、愛す物とと愛さない物の威力を直接支配する人でいるよう、自分を維持すべきです。

 善い喜びがあり、高い智慧を目指し、それらの危険を支配してしまう人であるべきです。静寂な住まいを喜ばない気持ちを抑え、四つの嘆きの基盤であるダンマ、つまり「何も食べる物がない。どこで食べられるだろう。昨夜は寝苦しかった。今夜はどこで寝よう」という嘆きを抑えてしまうべきです。これらの嘆きの基盤であるヴィタッカ(考え)を取り出してしまい、住む場所のない有学になって旅をなさい。

 適当な時間に食べ物と住まいを手に入れたら、このダンマヴィナヤの知足がある人、適度を知る人、これらの縁に関して自分を管理する人、町へ遊びに行くことを慎む人でいるために、罵られても、乱暴な言葉を言うべきではありません。

 低い視線の人で、動き回らず、禅定の中にいて、最高に目覚めている人で、自分をサマーディに追いやり、捨を喜び、ヴィタッカ(考えること)と悪作を増やす原因を断ってしまいなさい。

 忠告を受けたら、喜んで忠告を受け入れるサティのある人で、すべての梵行仲間の善である言葉への反論をなくし、限度を越えず、他人を批判する考えをせず、その後は、五つの埃を出してしまうことを学ぶサティのある人でいなさい。つまりすべての形・声・香・味・触・考えの貪りを抑えなさい。

 それらすべての感情の満足を出して、サティがあり、良く解脱できる心があり、サンマーダンマを熟慮し、ふさわしい時に闇を追放できる最上のダンマがある比丘になりなさい。

小部スッタニバータ 25巻521頁423項

 (八正道の実践は、サーリプッタに話されたブッタバーシタ(ブッダの言葉)で、非常に細かく分けることができます。八正道の良い解説の言葉に含めることができるので、ここに挿入しました)。





チ 道と供養されるべき人

八正道を歩くだけで供養される人になる

 比丘のみなさん。この八つのダンマがある比丘は、当然供養(尊敬の理由により食事を持て成す)されるべき人、奉仕されるべき人、布施されるべき人、合掌されるべき人で、そしてそれ以上の徳田はない世界の徳田です。八つはどのようでしょうか。八つとは、この場合の比丘は、

1.戒のある人で、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、平素からどんな小さな物でも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を学ぶべき物と受け入れて遵守します。

2.人がどんな食べ物を献じても、粗末な食べ物でも上等な食べ物でも、敬意と救済心(訳註)でその食べ物を食べ、困惑・焦燥しません。

3.不正な体、不正な言葉、不正な心を嫌い、すべての下賎な悪が揃うことを嫌う人です。

4.静寂を好む人で、幸福に共同生活をし、他の比丘を恐れさせません。

5.教祖や知識者である梵行仲間の中で、自分の傲慢や不正や反抗心や欺瞞を事実のままに開示し、教祖や知識者である梵行仲間は、当然彼のそれらの罪を取り除く努力をします。

6.学習がある人で、「他の比丘は、学ぼうと学ぶまいとその人の自由だ。私は教条を学ぶ」と、このように決意します。

7.彼が行く時は真っ直ぐ行きます。この場合の真っ直ぐな道とは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

8.「皮膚と腱と骨だけを残して、体の肉と血が干乾びても、人は人が奮闘努力で到達すべき利益に到達するべきだ。その利益に到達できるまでこの努力を止めることはない」と、このような努力を始めた人です。

 比丘のみなさん。この八つがある比丘は、当然供養されるべき、奉仕されるべき、布施されるべき、合掌されるべき人で、そしてそれ以上の徳田はない世界の徳田です。

増支部アッダカニバータ 23巻193頁103項

訳注: 庶民は徳田である比丘に食べ物を献じることで徳を積むので、出家が食べ物を食べることは、献じた人が徳を積むのを援ける行為になるという意味。





有学の人の有学である道 

 「猊下。有学、有学という言葉がありますが、有学である人とはどれほどの理由でしょうか、猊下」。

 比丘。この場合の人は、

有学である正しい見解のある人で、

有学である正しい考えのある人で、

有学である正しい言葉のある人で、

有学である正しい業のある人で、

有学である正しい生業のある人で、

有学である正しい努力のある人で、

有学である正しいサティのある人で、

有学である正しいサマーディのある人です。

 比丘。これだけの理由で人は有学と呼ばれます。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻18頁51項

 (学習者は、反対の意味で、阿羅漢の道である無学の道の項目があると、自分で考えてみてください)。





十サンマッタの最高の利益

 タパティさん。私は十項のサンマッタ(正しさ)がある人は完璧な善があり、最高の善がある人で、誰も負かすことができない理想の到達に到達した人と規定します。どの十項があれば完璧な善があり、最高の善がある人で、誰も負かすことができない理想の到達に到達した人と規定するでしょうか。タパティさん。この場合の比丘は、

無学である正しい見解のある人で、

無学である正しい考えのある人で、

無学である正しい言葉のある人で、

無学である正しい業のある人で、

無学である正しい生業(生活)のある人で、

無学である正しい努力のある人で、

無学である正しいサティのある人で、

無学である正しいサマーディのある人で、

無学である正しいニャーナ(智)のある人で、

無学である正しい解脱のある人です。

 タパティさん。この十項のダンマがある人を、私は、完璧な善があり、最高の善がある人で、誰も負かすことができない理想の到達に到達した人と規定します。

中部マッジマバンナーサ 13巻346頁361項





リ 道とブッダ

八正道は自然に悟る道

 比丘のみなさん。両極に偏らない中道(真ん中である実践項目)は、如行が悟った実践項目であり、目を生じさせる実践項目、ニャーナ(知ったと認識すること)を生じさせる実践項目であり、静かさのため、最高の知識のため、すべてを悟るため、涅槃のためになります。

 比丘のみなさん。両極に偏らない中道(真ん中である実践項目)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。真ん中の道である実践項目は、八項目の素晴らしい道である実践項目です。八つはどれでしょうか。それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく想い出すこと、正しい心の安定です。

 比丘のみなさん。これが目を生じさせる実践項目であり、ニャーナを生じさせる実践項目であり、静かさのため、最高の知識のため、すべてを知ることのため、涅槃のためになる、如行が悟った真ん中の道である実践項目です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻528頁1664項






アハンカーラ・ママンカーラをなくす話
 サーリプッタ。私は概略で話すこともでき、詳細に話すこともでき、概略かつ詳細に話すこともできますが、漏らさず知る人はほとんどいません。

 「世尊。その時が来ました、猊下。概略ででも、詳細にでも、概略かつ詳細にでも、世尊が説かれるべき時です。ダンマを漏らさず知る人もいます」。

 サーリプッタ。それならこれ(私が説くダンマは)は「すべてのアハンカーラ(私という感覚。我慢)・ママンカーラ(私の物という感覚。我所有)・マーナヌサヤ(傲慢。慢随眠)は識があるこの内部にない。外部のすべてのニミッタにアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤはない。

私は、到達したら常にその感覚の中にいる心解脱・智慧解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいる。アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤ(我慢・我所有・慢随眠)は当然ない」と、このように学ばなければなりません。

 サーリプッタ。比丘のアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤが、識のあるこの体にない時でも、アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤが、外部のすべてのニミッタにない時でも、比丘が心解脱・智慧解脱に到達して、その感覚の中にいて、アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤが当然ない時でも、サーリプッタ。

その時「この比丘は欲望を断ち切り、サンヨージャナ(動物を輪廻に結び付ける煩悩。結)を崩壊させ、マーナで正しく苦を終わりにした」と言います。

増支部ティカニバータ 20巻170頁472項

 (三つ、つまり概略、詳細、概略で詳細な形で、三つ、つまり体のアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤをなくし、すべての外部のニミッタにアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤをなくし、そしてアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤがない心解脱・智慧解脱に到達するダンマを説かれています。

 これは、「概略」では体にアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤがないようにし、「詳細」は外部のすべてのニミッタにアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤがないようにし、「概略で詳細」は、アハンカーラ・ママンカーラのない心解脱・智慧解脱に到達すること、と見ることができます。要するに概略でも詳細でも概略で詳細でも、アハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤがなくなることを目指します。

 これは、どんな実践原則が幾つあっても、どんなレベルでも、すべてはアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤ(俺、俺の物という感覚と傲慢)を破壊することを目指す教えを掴むことができます。ここではどんなレベルの八正道もアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤを消滅させることを目指すと捉えるので、ここに挿入しました)。





八正道は私たちに委ねられた梵行の中にある(三十七菩提分)

 比丘のみなさん。私が最高の智慧で説いたダンマはどれも、それらのダンマを、みなさんは良く学び、実践し、励んでたくさんするべきです。そうすればこの梵行(つまり宗教)は盤石で、永遠に維持できます。これは大衆のため、大衆の幸福のため、世界を支援するため、世界の利益のためになり、すべての天人と人間の利益、支援、幸福のためになります。

 比丘のみなさん。私が最高の智慧で説き、みなさんは良く学び、実践し、励み、増やさすべきで、そうすればこの梵行(つまり宗教)は盤石で、永遠に維持でき、大衆のため、大衆の幸福のため、世界を支援するため、世界の利益のためになり、すべての天人と人間の利益、支援、幸福のためになるのはどのダンマでしょうか。それは四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道です。

 比丘のみなさん。これらが、みなさんが良く学び、実践し、励んでたくさんするべき、私が最高の智慧で説いたダンマです。そうすればこの梵行(つまり宗教)は盤石で、永遠に維持でき、大衆のため、大衆の幸福のため、世界を支援するため、世界の利益のため、すべての天人と人間の利益、支援、幸福のためになるダンマです。

長部マハーヴァッガ 10巻140頁107項





託された善なる勤めである八正道

 アーナンダ。私が今規定した善い勤めは、一方的に倦怠のため、欲情の弛緩のため、滅のため、鎮静のため、最高の知識のため、すべてを知るため、涅槃のためになります。アーナンダ。この善い勤めはどのようでしょうか。それは八正道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 アーナンダ。その善い勤めについて、私が規定した善い勤めを、みなさん揃って行動できるように話させていただきます。みなさん、私の最後の人たちになってはいけません。

 どの時代に善い勤めが消滅しても、その人は、すべての人の中の最後の人と呼ばれます。アーナンダ。その善い勤めに関して、みなさんが揃って、私が規定した善い勤めで行動できる項目を、みなさんに話させていただきます。みなさん、私の最後の人になってはなりません。

中部マッジマバンナーサ 13巻437頁463項

 (これを話される前、ブッダが昔、仙人の王だった時、今でもまだしている人がたくさんいる涅槃に至らない梵天界のためだけの勤めを教えていたことを話され、涅槃に至る善である勤めは誰もが実践すべきと言われました。更に私たちが非常に関心を持たなければならないのは、ブッダの望みのように、この善い勤めの最後の人になってはならないことです)。





苦滅道諦は生じさせるべきもの

 比丘のみなさん。聖諦は四つあります。どの四つでしょうか。四つとは、苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦です。比丘のみなさん。これが四つの聖諦です。

 比丘のみなさん。この四つの聖諦の中に誰もが良く知るべき聖諦があり、誰もが捨てるべき聖諦があり、誰もが明らかにするべき聖諦があり、誰もが生じさせるべき聖諦があります。

 比丘のみなさん。誰もが知り尽すべき聖諦は「苦諦」、誰もが捨てるべき聖諦は苦の原因である「集諦」、誰もが明らかにすべき聖諦は苦の完全な消滅である「滅諦」、誰もが生じさせるべき聖諦は苦の絶滅に至る道である「苦滅道諦」です。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知る努力をなさい。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1709項





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