三つのレベルの根の訓練の道
1.卓絶したレベルのインドリヤバーヴァナーの状態
アーナンダ。アリヤヴィナヤの卓絶したレベルのインドリヤバーヴァナー(根の管理に精励すること)はどのようでしょうか。
アーナンダ。この場合嬉しい感情、嬉しくない感情、嬉しくもあり嬉しくもない感情が、目で形を見ることでその比丘に生じ、その比丘は「私に生じた感情は作り出した縁があるもので、下賎な物で、生じさせる原因と縁に依存している。しかし静まった物、緻密な物、つまりウペッカー(捨)もある」と明らかに知ります。
(そのように知れば)その比丘に生じる嬉しい感情、嬉しくない感情、嬉しくもあり嬉しくもない感情は当然消滅し、捨は当然維持します。アーナンダ。その比丘に生じてくる嬉しい感情、嬉しくない感情、嬉しくもあり嬉しくもない感情は、当然消滅し、捨は当然維持します。アーナンダ。これを私は、アリヤヴィナヤの卓絶したレベルのインドリヤバーヴァナー(根精励)の目で明らかに知る形の場合と言います。
(耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触、心で明らかに知る想念の場合も同じように話されています。違うのは感情の消滅が遅いか早いかだけです。
つまり声の場合は指を弾く速さに譬え、臭いの場合は蓮の花から落ちる露に譬え、味の場合は丈夫な人が吐き出す唾の速さ、接触の場合は丈夫な人が腕を踏んで腕を折る速さ、想念の場合は一日中真っ赤に熱してある鉄の上に落とした水滴が乾く速さに譬えられています)。
(卓絶した根精励は、極めて速く、そしてその感情は有為の物でしかなく、粗雑な物で、互いに依存して自然に生じる物で、反対の物、つまり緻密な物である捨もあると明らかに知る力によって、感情が消滅するという意味です。すべては深遠なダンマなので、ブッダのダンマヴィナヤのインドリヤバーヴァナーの卓絶したレベルと言います)。
2.セカパーティパダである人の状態
アーナンダ。有学のレベルの、特に自分が歩く道具であるダンマ(セカパーティパダ)のある人はどのようでしょうか。
アーナンダ。この場合は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触し、心で想念を知ることで、比丘に満足や不満や、満足でもあり不満でもあることが生じ、その比丘は当然その満足や不満や、満足と不満によって憂鬱や衝撃や嫌悪を感じます。
アーナンダ。こういうのを有学レベルの、自分だけが歩く道具であるダンマがある人と言います。
(まだ阿羅漢でない、まだ触れてくる感情に対して焦燥や衝撃を感じる有学の聖人は、喜びや満足の基盤である善の側の好所縁にも、自分に触れてくる感情である焦燥を感じます。まだ執着が一部残っているので、言い方を変えれば、まだ衝撃を受ける自分があるので、空でなく、絶滅でなく、冷却ではありません。)
3.聖人レベルのインドリヤに励む人の状態
アーナンダ。聖人レベルの訓練をしたインドリヤ(根)のある人は、どのようでしょうか。
アーナンダ。この場合、目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触し、心で想念を知ることで、比丘に満足や不満や満足と不満が生じ、その比丘は当然その満足や不満や満足と不満によって憂鬱や衝撃や嫌悪が生じます。
その比丘が不浄な物(つまり不満、あるいは怒りの基盤)を不浄でないと感じている人になりたいと望めば、その人は不浄な物を不浄でないと感じる人として暮らすことができます。
その比丘が、不浄な物(つまり不満、あるいは怒りの基盤であるだけの物)を不浄でないと感じる人になりたいと望めば、その人は不浄な物を不浄でないと感じる人として暮らすこともできます。
その比丘が、不浄でない物(怒りの基盤でなく、むさぼりの基盤であるだけの物)を不浄と感じる人でいたいと望めば、その人は不浄な物と不浄でない物を不浄と感じる人として暮らすこともできます。
その比丘が、不浄であり不浄でない物に不浄という感覚のある人でいたいと望めば、その人は不浄であり不浄でない物に不浄という感覚の人として暮らすこともできます。
その比丘が、不浄であり不浄でない物に不浄でないという感覚のある人でいたいと望めば、その人は不浄であり不浄でない物に不浄でないという感覚の人として暮らすこともできます。
そしてその比丘が、不浄という感覚と不浄でないという感覚のどちらもない人になり、ウペッカー(捨)があり、常自覚がある人として暮らしたいと望めば、その人は不浄な物にも不浄でない物にも常自覚があるウペッカー(捨)の人として暮らすこともできます。
アーナンダ。これが、聖人レベルの、励んだインドリヤ(根)がある人と呼ばれる人です。
(心を支配できるまで根に励んだ人は、不浄であることと不浄でないことに関わる場合、そして不浄と不浄でない意味から脱した場合でも心を支配することができ、喜びや悲しみを生じさせず、最高に捨でいることができるという意味です。まだ阿羅漢でなくてもできると理解します。更に学習者は、上の文章から有学という言葉と、アリヤという言葉の意味がどのように違うか観察して見なければなりません)。
アーナンダ。このように、アリヤヴィナヤ(聖なる律、つまり仏教という意味)のアヌッタラインドリヤ(無上根)を私は説き、セカパーティパダも説き、アリヤバーヴィティンドリヤ(聖精励根)も説きました。アーナンダ。可愛がる人である教祖が、可愛がる利益を求めて、可愛がることに依存してすべての弟子に対してするべき仕事はどれでも、その仕事をみなさんにしました。
アーナンダ。ほら、すべての木の根元。ほら、すべての空き家。アーナンダ。みなさん、煩悩を焼く努力をなさい。不注意になってはいけません。みなさん、後になって焦燥する人になってはいけません。これが、私がみなさんに繰り返し教える言葉です。
病人が阿羅漢果に到達するためのパティパダー
比丘のみなさん。五つのダンマが病気で虚弱な人から離れていなければ、その人はこれを期待できます。すべての漏が終わって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、間もなく、生きている間に最高の智慧で明らかにすることができます。五つのダンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、
平素から体は美しくないと見える人で、
平素から食べ物は不浄と理解する人で、
平素から世界のすべては喜ぶべきでないと理解する人で、
平素からすべての行の無常が見える人で、
マラナサンニャー(死想)は、その人が内部で良く維持しているものです。
比丘のみなさん。この五つのダンマが病気で、虚弱な人から離れていなければ、その人はこれを期待できます。つまりすべての漏が終わって漏を探すことができない心解脱・智慧解脱を、間もなく、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができます。
(この五つのダンマを別の経:増支部パンチャカニバータ 22巻94頁69項では、病人に対してだけでなく、一般の人に対して「励んでたくさんすれば、倦怠、欲情の弛緩、絶滅、抑制、悟り、知り尽すこと、そして涅槃になる」と話されています。
次の経:22巻95頁70項では、励んでたくさんすれば、すべての漏の終りになると言われています。
その次の経では、励んでたくさんすれば、結果であり功徳である心解脱と智慧解脱があると話されています)。
無明の殻を割る十五項(中道と同じ結果を目指す)
(心を打ちつける五つの釘を捨ててしまえる比丘、つまり「ブッダ」と「ブッダの教え」と「サンガ」と「教条」に疑念がない比丘は、梵行仲間に対して反感がない心で、そして心を縛りつける五つの物、①愛欲を欲しがらず、②体を欲しがらず、③形を欲しからず、④寝ることばかり考えず、⑤天人になるための梵行を抜いてしまうことができます)。
比丘のみなさん。その比丘は作り出すダンマがあり、サマーディがあり、チャンダ(満足)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(心)、ヴィマンサー(熟考)に依存し、五番目に主な仕事であるウッソヒー(非常に大きな努力)がある四如意足に励みます。
比丘のみなさん。その比丘はこのように、偉大な努力も含めた十五項があり、煩悩を突き刺し、すべてを知り、それ以上のダンマがないヨーガケーマダンマに至るにふさわしい人です。
比丘のみなさん。雌鶏が抱いて温めている八個、十個、十二個の卵は、雌鶏が「ヒヨコたちよ、蹴爪で殻を割って、嘴を伸ばして安全に出ておいで」と望まなくても、雛は蹴爪で殻を割って、嘴を伸ばして安全に出てくることができるように、大きな努力を含めた十五項がある比丘は、すべてを知るため、それ以上のダンマがないヨーガケーマダンマ(解縛)に至るために、煩悩を突き刺すことができます。
漏の終りになる喜び(最高に幸福な中道)
比丘のみなさん。六つがある比丘は、当然現生で幸福と喜びが多い人で、その人の「生まれること」は、漏を終わらるためです。六つはどれでしょうか。比丘のみなさん。六つのダンマとは、この場合の比丘は、
喜びであるダンマがあり、
喜びである努力に励み、
喜びである煩悩を捨て、
喜びであるヨーガダンマが静まり、
喜びである悩ませないダンマがあり、
喜びである遅らせないダンマがあります。
比丘のみなさん。この六つがある比丘は、当然現生で幸福と喜びが多い人で、そしてその人の「生まれたこと」は漏を終わらるためです。
それ以上に涼しい物がない涼しさ
1.涼しくしない人たち
比丘のみなさん。六つがある比丘は、それ以上の物がない涼しさを明らかにするにふさわしくない人です。六つのダンマはどれでしょうか。比丘のみなさん。六つのダンマとは、この場合の比丘は、
心を脅すべき時に脅さず、
心を支えるべき時に支えず、
心を明るくすべき時に明るくせず、
最高に心に注目するべき時に、最高に心に注目せず、
下賎なダンマに心を傾ける人で、
有身を非常に喜ぶ人です。
比丘のみなさん。この六つがある比丘は、それ以上の物がない涼しさを明らかにするにふさわしくない人です。
2.涼しくする人たち
比丘のみなさん。六つがある比丘は、それ以上の物がない涼しさを明らかにするにふさわしい人です。六つはどれでしょうか。比丘のみなさん。六つのダンマとは、この場合の比丘は、
心を脅すべき時に脅し、
心を支えるべき時に支え、
心を明るくすべき時に明るくし、
非常に心に注目するべき時に非常に注目し、
緻密なダンマに心を傾ける人で、
涅槃を非常に喜ぶ人です。
比丘のみなさん。この六つがある比丘は、それ以上の物がない涼しさを明らかにするにふさわしい人です。
(学習者は、ここでは有身は涅槃の反対であり、正しい側か誤りの側かだけで、どちらも同じだけ喜びの基盤と観察して見るべきです)。
現在の有で阿羅漢または不還に到達するパティパダー
比丘のみなさん。比丘でも比丘尼でも、五つのダンマに励んでたくさんする人は誰でも、その人は二つの結果、つまり現生での阿羅漢果、まだウパディ(種)が残っている場合は不還果のどちらかを期待すべきです。比丘のみなさん。その五つのダンマはどのようでしょうか。五つとは、この場合の比丘は、
すべてのダンマの発生と消滅を知る智慧を生じさせるために、内部で良く維持しているサティがあり、
平素から体は美しくないと見、
食べ物を不浄と理解し、
世界はすべて喜ばしくないと理解し、
平素からすべてのサンカーラ(行)の無常が見えます。
比丘のみなさん。比丘でも比丘尼でも、五つのダンマに励んでたくさんする人は誰でも、その人は二つの結果、つまり現生での阿羅漢果、まだウパディが残っている場合は不還果のどちらかを期待すべきです。
ヘ マッガの例え
マッガバーヴァナーには誤りも正しいのもある
誤っている側
比丘のみなさん。正しく置いてない麦の先端、あるいはもち米の先端が、踏みつけた手や足を刺すこと、内出血させることはあり得ません。それはどうしてでしょうか。それは、その粒が正しく置かれていないからです。
比丘のみなさん。同じように誤っている見解、間違っているマッガバーヴァナー(道の努力)は、その比丘が無明を破壊して明を生じさせること、あるいは涅槃を明らかにすることはあり得ません。それはなぜでしょうか。それは、ディッティ(見解)の維持し方が間違っているからです。
正しい側
比丘のみなさん。正しく置いてある麦の先端、あるいはもち米の先端が、踏みつけた手や足を刺すこと、内出血させること、それはあり得ます。それはどうしてでしょうか。それはその粒が正しく置かれているからです。
比丘のみなさん。同じように正しく維持している見解、正しく維持されているマッガバーヴァナーは、その比丘が無明を壊し、明を生じさせること、あるいは涅槃を明らかにすることはあり得ます。それはなぜでしょうか。それは、ディッティの維持し方が正しいからです。
比丘のみなさん。ディッティが正しく維持されマッガバーヴァナーが正しく維持されれば、その比丘が無明を破壊して明を生じさせ、涅槃を明らかにすることができると言われるのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい見解に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい考えに励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい言葉に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい業に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい生活に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しい努力に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しいサティに励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り払うことに傾いていく正しいサマーディに励みます。
比丘のみなさん。こういうのが「見解が正しく維持され、道の努力が正しく維持されれば、その比丘無明を壊し明を生じさせ、涅槃を明らかにすることができる」と言われるものです。
正しい状態と誤りの状態
比丘のみなさん。これから誤った状態と正しい状態を説明します。みなさんお聞きなさい。
比丘のみなさん。誤った状態はどのようでしょうか。それは誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディです。比丘のみなさん。これを誤った状態と言います。
比丘のみなさん。正しい状態はどのようでしょうか。それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。私はこれを、正しい状態と言います。
(正しい状態と誤った状態の、それぞれ八項目あります。別の経:19巻22頁62項では善のダンマ・悪のダンマと呼び、19巻28頁91項では正しいパティパダー・誤ったパティパダーと呼び、19巻28頁89項では正しい実践・誤った実践と呼ばれています。
ここで正しい物、誤った物と呼んでいる物を、ここでは八項目で、別のところでは十項目で、つまり誤ったニャーナ、誤った解脱を加えて十項にしているのもあり:増支部ダサカニバータ 24巻257頁132項、正しいニャーナ、正しい解脱を加えて十項にしているのもあります:増支部ダサカニバータ 24巻257頁133項)。
誤った状態と正しい状態
比丘のみなさん。これら十項の誤った状態があります。十項はどのようでしょうか。十項とは、誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生業、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディ、誤った知識、誤った解脱です。比丘のみなさん。これを誤った状態と言います。
比丘のみなさん。正しい状態はどのようでしょうか。それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しい知識、正しい解脱です。比丘のみなさん。私はこれを、正しい状態と言います。
罪を拭う物である無学の十のダンマ
比丘のみなさん。南部の田舎には「浄化」と呼ぶ祭祀があります。その祭祀には、米、水、齧る物、食べる物、嘗める物、飲む物があり、踊りがあり、歌があり、演奏があります。比丘のみなさん。その浄化と呼ばれる祭祀はあります。
ないとは言いませんが、その浄化と呼ばれる祭祀は低級で、庶民の物で、凡夫にふさわしく、聖人の物でなく、利益がなく、苦の倦怠のためにならず、欲情の弛緩、鎮静、消滅、最高の知識、すべてを知ること、涅槃のためになりません。
比丘のみなさん。私は、一方的な苦の倦怠のため、欲情の弛緩、抑制、最高の知識、すべてを知ること、涅槃のためになる素晴らしい浄化を説きます。
当たり前に生まれることがある動物が依存すれば、当然生まれることから解脱し、当たり前に老いがある動物が依存すれば、当然老いから解脱し、当たり前に死がある動物が依存すれば、当然死から解脱し、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みがある動物が依存すれば、当然悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みから解脱する浄化です。
みなさんこの言葉を聞いて、心の中を良くしなさい。話します。
(この後、アセカダンマの十項、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しいニャーナ、正しい解脱を説かれました)。
八正道は善友の意味がある
「猊下。このダンマ、つまり善い友人がいること、善い親友がいること、善い仲間がいることは梵行の半分です」。
アーナンダ、そう言ってはいけません。アーナンダ、そう言ってはいけません。アーナンダ。このダンマ、つまり善い友がいること、善い親友がいること、善い仲間がいることは、梵行のすべてです。
アーナンダ。善い友がいて、善い親友がいて、善い仲間がいる比丘は、これ、つまり八正道に励んで、八正道をたくさんすることが期待できるのはどのようでしょうか。
アーナンダ。それは、この場合の比丘は、ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ニローダ(滅)に依存して振り払うことに傾いていく正しい見解に励み、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しい考えに励み、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しい言葉に励み、
遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しい業に励み、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しい生活に励み、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しい努力に励み、正しいサティに励み、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく正しいサマーディに励みます。
アーナンダ。善い友がいる、善い同朋がいる、善い仲間がいる比丘は、これ、つまり八正道に励み、八正道をたくさんすることが期待できます。
アーナンダ。善い友がいること、善い同朋がいること、善い仲間がいることは梵行のすべてという項目には、誰でも、アーナンダ。善友である私に依存することで、当たり前に生まれることがある動物が、当然生まれることから解脱し、当たり前に老いがある動物が、当然老いから解脱し、
当たり前に死がある動物が、当然死から解脱し、当たり前に悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みがある動物が、当然悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みから解脱するという説明でも知るべきです。
アーナンダ。この説明で、善い友がいること、善い同朋がいること、善い仲間がいることは梵行のすべてであると、誰でも知るべきです。
サーリプッタに言った言葉
そうです、そうです、サーリプッタ。善い友がいること、善い朋輩がいること、善い仲間がいること。これは梵行のすべてです。
サーリプッタ。善い友、善い朋輩、善い仲間がいる比丘は、これ、つまり八正道に励み、良く励み、八正道をたくさんすることが期待できます。
(この後、遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り払うことに傾いていく八正道の分類について話され、そして動物が善友であるブッダに依存して生まれること、老い、そしてすべての苦から脱すことを、上の文と同じように話されています)。
徳の田・罪の田は道次第
罪の田
比丘のみなさん。八つがある田に蒔いた種は、当然それほどの結果はなく、あまり満足せず、儲けも大したことがないのは、どんな八つの状態でしょうか。八つとは、この場合の田は、石や砂利がいっぱいあるデコボコした土地で、塩分が多く、深く耕すことができず、流れ込む水路も、排水路もなく、溝も、土手もありません。
同じように比丘のみなさん。この八つがあるサマナ・バラモンに施す布施は、あまり結果がなく、あまり功徳がなく、大した繁栄がないのはどんな八つの状態でしょか。
八つとは、この場合のサマナ・バラモンは、誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディのある人です。比丘のみなさん。この八つがあるサマナ・バラモンに献じた布施は、あまり結果がなく、それほど功徳がなく、あまり発展しない、広く行き渡らない布施です。
徳の田
比丘のみなさん。八つがある田に蒔いた種は、当然大きな結果があり、非常に満足でき、たくさんの収穫があります。八つの状態はどのようでしょうか。八つとは、この場合の田は、石や砂利が少ないデコボコした土地で、土の塩分も少なく、深く耕すことができ、流れ込む水路も、排水路もあり、溝も、土手もあります。
同じように比丘のみなさん。人がこの八つがあるサマナ・バラモンにする布施は、大きな結果があり、大きな功徳があり、繁栄があり、広大な広がりがあります。八つはどのようでしょうか。
八つとは、この場合のサマナ・バラモンは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディがある人です。比丘のみなさん。この八つがあるサマナ・バラモンにした布施は、たくさんの結果があり、たくさんの功徳があり、発展があり、広大に広がります。
サンマッタパティパダーで罪を落とす儀式
バラモンさん。何だってあなたは寺の本堂で首を洗い、新しい麻布をまとって生の草を掴んで、ここに立っているのですか。今日はバラモンの家系の人たちにとって何の日ですか。
「ゴータマ様。今日はバラモンの家系の人たちの罪を落とす日です」。
バラモンさん。バラモンの罪を落とす儀式はどのようですか。
「ゴータマ様。この場合すべてのバラモンはお寺の本堂で首を洗い、新しい麻布をまとい、地面に牛糞を塗って生の草を敷き、それから儀式をする建物とかがり火の間に、伏せては起き上がって三回火を拝みます。その宵は『私は発展した人と共に罪を落とす』『私は発展した人と共に罪を落とす』と言って、火に十分なバター、油、濃いバターを継ぎ足します。
その宵が過ぎると、すべてのバラモンを上等な食べ物と齧る物(食後の果物)で心ゆくまでもてなします。ゴータマ様。バラモンたちの罪を落とす儀式はこのようです」。
バラモンさん。バラモンたちの罪を落とす儀式と、アリヤヴィナヤの罪を落とす儀式は違います。バラモンさん。この場合の聖なる弟子は「誤った見解の報いは、現在も、未来でも下賎なダンマ」と熟慮して明らかに見、熟慮してこのように見たら、誤った見解を捨ててしまい、落としてしまいます。
(誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディの場合も、誤った見解の場合と同じように話されています)。バラモンさん。アリヤヴィナヤの罪を落とす儀式はこのようです。
「ゴータマ様。バラモンの罪を落とす儀式と、アリヤヴィナヤの罪を落とす儀式は違いますね。バラモンの罪を落とす儀式は、このアリヤヴィナヤの罪を落とす儀式の十六分の一の価値もありません。
ト 道の実践をする道具
愚かさを削り落とす基盤であるダンマの詳細
ジュンダさん。サッレカダンマ(愚かさを削減するダンマ)は、すべてのダンマの中で、みなさんがしなければならないダンマです。つまり、
他人が侵害する人である時は、自分は侵害しない人になると愚かさを削り落とし、
他人が殺生をした時は、自分は殺生を避けると愚かさを削り落とし、
他人が盗みを犯した時は、自分は盗みを避けると愚かさを削り落とし、
他人が梵行を行わない時は、自分は梵行を行う人になると愚かさを削り落とし、
他人が虚偽を言う時は、自分は虚偽を言うのを避けると愚かさを削り落とし、
他人が告げ口をする時は、自分は告げ口を言うのを避けると愚かさを削り落とし、
他人が悪口を言う時は、自分は悪口を言うのを避けると愚かさを削り落とし、
他人が際限なく長話をする時は、自分は際限なく長話をするのを避けると愚かさを削り落とし、
他人の貪りが多い時は、自分は貪りの少ない人になると愚かさを削り落とし、
他人に復讐心がある時は、自分は復讐心のない人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った見解がある時は、自分は正しい見解がある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った考えがある時は、自分は正しい考えがある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った言葉がある時は、自分は正しい言葉がある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った業がある時は、自分は正しい業がある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った努力がある時は、自分は正しい努力がある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤ったサティがある時は、自分は正しいサティがある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤ったサマーディがある時は、自分は正しいサマーディがある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤ったニャーナ(智)がある時は、自分は正しいニャーナがある人になると愚かさを削り落とし、
他人に誤った解脱がある時は、自分は正しい解脱がある人になると愚かさを削り落とし、
他人に眠気と侘しさがある時は、自分は?沈睡眠がない人になると愚かさを削り落とし、
他人が散漫な人である時は、自分は散漫でない人になると愚かさを削り落とし、
他人に疑法がある時は、自分は疑法がない人になると愚かさを削り落とし、
他人が怒りっぽい人である時は、自分は怒りっぽくない人になると愚かさを削り落とし、
他人が怒りを溜める人である時は、自分は怒りを溜めない人になると愚かさを削り落とし、
他人が徳を軽視する人である時は、自分は徳を軽視しない人になると愚かさを削り落とし、
他人が競争する人である時は、自分は競争しない人になると愚かさを削り落とし、
他人が嫉妬をする人である時は、自分は嫉妬しない人になると愚かさを削り落とし、
他人がケチな人である時は、自分はケチでない人になると愚かさを削り落とし、
他人が自慢する人である時は、自分は自慢しない人になると愚かさを削り落とし、
他人が計略のある人である時は、自分は計略のない人になると愚かさを削り落とし、
他人が頑固な人である時は、自分は頑固でない人になると愚かさを削り落とし、
他人が人を見下す人である時は、自分は人を見下さない人になると愚かさを削り落とし、
他人が素直でない人である時は、自分は素直な人になると愚かさを削り落とし、
他人に悪友がいる人である時は、自分は善い友のいる人になると愚かさを削り落とし、
他人が油断のある人である時は、自分は油断しない人になると愚かさを削り落とし、
他人が信仰のない人である時は、自分は信仰のある人になると愚かさを削り落とし、
他人が恥を知らない人である時は、自分は恥を知る人になると愚かさを削り落とし、
他人が恐れを知らない人である時は、自分は恐れを知っている人になると愚かさを削り落とし、
他人が知識を学ぶことが少ない人である時は、自分は知識を学ぶことが多い人になると愚かさを削り落とし、
他人が怠け者の時は、自分は努力を始めた人になると愚かさを削り落とし、
他人が忘れているサティがある人である時は、自分は維持しているサティがある人になると愚かさを削り落とし、
他人が劣った智慧がある人である時は、自分は完璧な智慧のある人になると愚かさを削り落とし、
他人が自分のディッティ(見解)を撫で回す人、強く執着する人、取を払い捨てるのが難しい人である時は、自分は自分のディッティを撫で回さない人、強く執着しない人、取を楽に払い捨てる人になると愚かさを削り落とします。
(学習者は、この愚かさを削ることに関わるブッダの言葉で説かれているダンマは四十四対あり、正反対の対であると観察して見なければなりません。つまり一方は行動すべき善で、正反対であり、それ自体が愚かさの削減です。四十四の愚かさを削り落とすダンマと、四十四の愚かさを削るべきダンマが、この四十四の教えに依存した四十四の対になっています)。
四十四組のダンマの解説
1.心起説
「他人が侵害する人である時は、自分は侵害しない人になる」から「他人が自分のディッティを撫で回す人で、強く執着する人で、取を払い捨てるのが難しい人である時は、
自分は自分のディッティを撫で回さない人で、強く執着しない人で、取を楽に払い捨てる人になる」まで、このように四十四の意味の心を生じさせることについて、このようなチットゥパーダ(心の発生)を維持することは、それだけで非常に恩恵がある行動であり、体や心ですることについて語る必要はないと話されています。四十四対のダンマを考えに入れておくことを心起説と言います。
2.回避説
間違った道を避けて正しい道を歩くように、心が悪の側を回避し、善の側にいるようにさせることを、パリッカマナと言います。
初めに述べた四十四組のダンマの、前は誤った側で、後が正しい側です。パーリには「他人が侵害する人である時は、自分は侵害しない人になる」から「他人が自分のディッティを撫で回す人で、強く執着する人で、取を振り捨てるのが難しい人である時は、自分は自分のディッティを撫で回さない人で、強く執着しない人で、取を楽に払い捨てる人になる」まであり、この四十四組の行動を回避説と言います。
3.上昇導説
四十四組のダンマの前者である、間違っている方は低い方へ導く物で、後者である正しい方は高い方へ導く物です。
だからパーリには「他人が侵害する人である時は、自分は侵害しない人になる」から「他人が自分のディッティを撫で回す人で、強く執着する人で、取を払い捨てるのが難しい人である時は、自分は自分のディッティをなで回さない人で、強く執着しない人で、取を楽に払い捨てる人になる」まであり、このような四十四組の行動を上昇導説と言います。
4.涅槃説
四十四組のダンマの前者である間違っている方は静まらず、後者である正しい方は静まります(涅槃)。
だからパーリには「他人が侵害する人である時は、自分は侵害しない人になる」から「他人が自分のディッティを撫で回す人で、強く執着する人で、取を払い捨てるのが難しい人である時は、私は自分のディッティをなで回さない人で、強く執着しない人で、取を楽に払い捨てる人になる」まであり、この四十四組の行動を涅槃説と言います。
ここでは特に「泥沼にはまっている人は、他人を泥沼から引き上げられないように、静まらない人は、他人が静まるように手助けすることはできない」と言われています。
(この四十四対の愚かさを削り落とす道具であるダンマのリストは、愚かさを削る説明だけでなく、解説で1.2.3.4に分けた行動の説明に使うこともできます。本当に本気で学習する決意のある人は、どんな順か、どのように誤りでどのように正しいかを明らかにしなければなりません。
そうすれば全部を取り上げなくても、初めの項目と最後の項目を引用するだけで、それぞれの項目を理解することができ、そうすれば望み通りの利益があります)。
梵行を成長発展させる美徳(道を実践する用具)
比丘のみなさん。十一の美徳がある牛飼いは、当然牛を飼って収入を増やすにふさわしい人です。十一の美徳はどれでしょうか。十一とは、この場合の牛飼いは、
牛の体を知っている人で、
牛の状態に賢い人で、
ハエの卵をほじり出し、
傷を塞ぎ、
煙で燻し、
牛を導く仕草を知り、
牛が飲むべき水を知り、
牛が歩くべき道を知り、
行くべき浅瀬に関して賢く、
牛乳を多少残して搾り、
常に群れのリーダーである雄牛に名誉を与える人です。比丘のみなさん。このような十一種の美徳のある牛飼いは、当然牛を飼って収入を増やすにふさわしいです。
比丘のみなさん。同じように十一の美徳がある比丘は、このダンマヴィナヤ(法と律。宗教という意味)で発展繁栄するにふさわしいです。十一の美徳とは何でしょうか。
このダンマヴィナヤの比丘は形を知る人で、状態に関して賢い人で、ハエの卵をほじり出し、傷を塞ぎ、煙で燻し、行くべき場所を知り、飲むべき水を知り、歩く道を知り、行くべき場所に賢く、「牛乳」を残らず搾ってしまわず、長老や出家して長い人、サンガの父である人、サンガの指導者を特に崇拝して、非常に尊敬する人です。
形を知る人たち
比丘のみなさん。形を知る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然「どんな形も、すべて形と呼ばれる。四大種形は四つあり、そして執着する形は四大種形が依存する形」とこのように真実のままに知ります。比丘のみなさん。形を知る比丘は、このようです。
状態に関して賢い人たち
比丘のみなさん。状態に賢い比丘はどのようでしょうか。みなさん。この場合の比丘は、当然「愚かな人は商標であるカンマ(業)があり、智者は商標であるカンマがない」とこのように真実のままに知っています。比丘のみなさん。状態に関して賢い比丘はこのようです。
常にハエの卵を穿る人たち
比丘のみなさん。常にハエの卵をほじる比丘とはどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は忍耐でき、生じている愛欲を熟慮し、悪意を熟慮し、他人を困らせることを熟慮して捨て、減らし、終わらせ、絶滅させ、そして忍耐でき、生じているすべての悪や低劣さを捨て、減らし、終わらせ、絶滅させます。比丘のみなさん。ハエの卵を穿る比丘はこのようです。
傷を塞ぐ人たち
比丘のみなさん。傷を塞ぐ人たちはどのようでしょうか。
比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で考えを知っても、全体をまとめてでも各部分に分けてでも、それらを掌握して執着する心がなく、悪で低劣な物、つまり貪欲と憂いは、いずれかの根に集中しないことが原因で目・耳・鼻・舌・体・心に注意しない人に流れて行くので、それらの根を塞ぐ行動をします。
彼は目・耳・鼻・舌・体・心に細心の注意を払って維持します。比丘のみなさん。傷を塞ぐ比丘はこのようです。
煙で燻す人たち
比丘のみなさん。煙で燻す比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、他人から聞いて学んだとおりに詳しくダンマを説きます。比丘のみなさん。煙で燻す(薫陶する)比丘はこのようです。
行くべき浅瀬を知る人たち
比丘のみなさん。行くべき浅瀬を知る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘はブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)に精通し、ダンマを維持し律を維持し題目を維持している博学者に出会うと、ふさわしい時に「発展なさった方、このブッダヴァチャナはどのようですか。このブッダヴァチャナの意味はどうですか」と質問攻めにするので、
その博学の人は秘されたことを明らかにし、深いことを浅くし、そしてその比丘にとって様々な疑義の基盤である、すべてのダンマの疑義を減らします。比丘のみなさん。行くべき浅瀬を知る比丘はこのようです。
飲むべき水を知る人たち
比丘のみなさん。飲むべき水を知る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、如行が公開したダンマヴィナヤ(教えと律)を誰かが説くと、彼はダンマの知識を得、深い意味を知り、ダンマに依存する喜びを得ます。比丘のみなさん。飲む水を知る比丘はこのようです。
歩く道を知る人たち
比丘のみなさん。歩く道を知る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然八正道を、真実のままに明確に知ります。比丘のみなさん。歩く道を知る比丘はこのようです。
行くべき場所に賢い人たち
比丘のみなさん。行くべき場所に関して賢い比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然四念処を真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。行くべき場所について賢い比丘はこのようです。
牛の乳を残して絞る人たち
比丘のみなさん。牛乳を残して搾ることを知っている比丘はどのようでしょうか。みなさん。信仰のある在家たちは、当然この宗教の比丘に対して、チーヴァラ(衣)や食べ物や住まいや医薬品八物を、何でも喜んで寄進する気持ちがあります。彼らがこのように何でも喜んでする時、これらのチーヴァラなどの四依(衣食住薬)を受ける適度を知る比丘です。比丘のみなさん。牛乳を残して搾る比丘はこのようです。
年長者を敬う人たち
比丘のみなさん。長老である多くの比丘を、特に非常に尊敬する比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、出家して歳月が長い、サンガの父であるすべての長老比丘に対して、人目のある場所でもない場所でも、慈しみのある行動、発言、心の行動を心がけています。比丘のみなさん。長老であるすべての比丘を特別に敬う比丘はこのようです。
比丘のみなさん。これらの十一項の美徳のある比丘は、当然このダンマヴィナヤで成長繁栄するにふさわしいです。
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