サマナの実践の終りであるダンマ
タパティさん。私はどの十項がある人を「善が完璧な人で、究極の善があり、誰にも負けない理想である到達するべきダンマに到達した人」と規定するでしょうか。タパティさん。この場合の比丘は、
有学である正しい見解があり、
有学である正しい考えがあり、
有学である正しい言葉があり、
有学である正しい業があり、
有学である正しい生活(生業)があり、
有学である正しい努力があり、
有学である正しいサティがあり、
有学である正しいサマーディがあり、
有学である正しいニャーナ(知ること。智)があり、
有学である正しい解脱がある人です。
タパティさん。私はこの十項がある人を、善が完璧な人で究極の善があり、誰にも負けない理想である到達するべきダンマに到達した人と規定します。
下五結を捨てるための実践
アーナンダ。下五結(動物を輪廻に結び付ける、初等五つの煩悩)を捨てるためになるどんなマッガ(道)も、どんなパティパダー(道)もあります。そのマッガ、そのパティパダーに依存しないで下五結を知ること、見ること、あるいは捨てることは、立っている芯のある大木の泥や辺材を削らない人が心材を得ることがないように、それはあり得ません。アーナンダ。下五結を捨てる道はどのようでしょうか。
アーナンダ。この場合の比丘はウパディ(依。しがらみ)が静まり、すべての悪が静まって、体の粗暴さがすっかり治まることですべての愛欲が静まり、すべての悪が静まり、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦ィと幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
その初禅には(義務をしている)形・受・想・行・識があり、その人はそれらのダンマを「無常であり、苦であり、病気であり、出来物の頭であり、矢であり、困難であり、患いであり、他人のよう(借り物)であり、壊れ物であり、空っぽの物であり、自分の物ではない」と見ます。
その人は(無常など十一の状態がある)これらのダンマ(つまり五蘊)で心を維持するので、「それは静まった。それは緻密だ。それはすべての行が静まった自然であり、すべてのウパディを返却した物であり、欲望の終りであり、弛緩であり、消滅であり、涅槃だ」と意識して心を不死の物(涅槃)に傾けます。
その人は土台に初禅があるヴィパッサナーニャーナを維持し、当然漏の終りに至ります。漏の終りに至らなければ、初等の五つの結が終わったことと、(不死の物を意識することから生じた)ダンマラーガ(ダンマの欲)、ダンマナンディ(ダンマの喜び)の威力によってその有で般涅槃し、当然その世界から戻って来ない人、オッパーティカ、アナーガミー(不還)になります。
アーナンダ。これが下五結を捨てるマッガ(道)でありパティパダー(道)です。
アーナンダ。まだあります。比丘はヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一つの感情しかないサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくする物である二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。(この後は初禅の場合と同じように話されています)。アーナンダ。これが下五結を捨てるマッガでありパティパダーです。
アーナンダ。まだあります。比丘は喜悦が薄れることで、捨にいて、サティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人の方々が、「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり、普通に幸福がある」と言われる三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。(この後は初禅の場合と同じように話されています)。アーナンダ。これも下五結を捨てるマッガでありパティパダーです。
アーナンダ。まだあります。比丘は幸福と苦を捨てることができるので、過去のすべての喜びが薄れることで苦も楽もなく、あるのは捨によって純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。(この後は初禅の場合と同じように話されています)。アーナンダ。これも下五結を捨てるためのマッガでありパティパダーです。
アーナンダ。まだあります。比丘は形想をすべて越えることができ、瞋恚想が消滅し、心の中をいろんな想にしないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
その空無辺処には(義務を行っている)受・想・行・識があり(註1)、その人はそれらのダンマを不変でない物と見、苦であり、病気であり、出来物の頭であり、矢であり、困難であり、患いであり、他人のよう(借り物)であり、壊れた物であり、空っぽの物であり、自分の物ではないと見ます。
その人は(無常など十一の状態がある)これらのダンマ(つま返却したり五蘊)で心を維持するので、「それは静まった。それは緻密だ。それはすべての行が静まった自然であり、すべてのウパディを返却した物であり、欲望の終りであり、弛緩であり、消滅であり、涅槃だ」と意識することで、心を不死の物(涅槃)に傾けます。
その人は基盤に初禅があるヴィパッサナーニャーナを維持し、当然漏の終りに至ります。漏の終りに至らなければ、初等の五つの結が終わり、(不死のものを意識することから生じた)ダンマラーガ、ダンマナンディの威力によって、その有で般涅槃し、当然その世界から戻って来ない人オッパーティカ、アナーガミー(不還)になります。アーナンダ。これも下五結を捨てるマッガでありパティパダーです。
アーナンダ。まだあります。比丘は空無辺処をすべて越えることができ、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいます。(この後は初禅の場合と同じように話されています)。アーナンダ。これも下五結を捨てるマッガでありパティパダーです。
アーナンダ。まだあります。比丘は識無辺処をすべて越えることができ、心の中を「無」にする無所有処に到達し、その感覚の中にいます。(この後は初禅の場合と同じように話されています)。アーナンダ。これも下五結を捨てるためのマッガでありパティパダーです。
註1: 学習者は、形禅定には五蘊が揃っていて、無形禅定は四蘊、つまり形蘊が欠けていることを観察しなければなりません。
(要するに、このマッガ、あるいはパティパダーで下五結を捨てることができるのは、無常から、四つそれぞれの形禅定が現れる時の形・受・想・行・識の十一の状態と、無我を見ることによってです。
そして非想非非想処を除く無形禅定の初めの三つそれぞれが現れる時の形・受・想・行・識の十一の状態のダンマを見ることは、、最高に繊細なダンマと見なします。学習者は禅定がある時の心にある五蘊、あるいは四蘊を熟慮熟考しなければなりません)。
自然に涅槃に傾いていく生活(自然な中道)
比丘のみなさん。人がこの五つのダンマに励んでたくさんすれば、全面的に倦怠のため、欲情の弛緩のため、消滅のため、鎮静のため、究極の知識のため、知り尽すため、涅槃のためになります。五つはどのようでしょうか。五つとは、この場合の比丘は、
平素から体の不浄が見える人で、
食べ物は不浄という理解がある人で、
世界のすべての物を喜ばしくないという理解がある人で、
平素からすべてのサンカーラを無常と見る人で、
そしてその比丘は内部で死想を良く維持しています。
比丘のみなさん。この五つのダンマに人が励んでたくさんすれば、全面的に倦怠のため、欲情の弛緩のため、消滅のため、鎮静のため、究極の知識のため、知り尽すため、涅槃のためになります。
(これは、このように実践していれば、意図しなくても、それだけで涅槃に傾いていく結果が生じるという意味です。雌鶏が卵を良く抱いていれば、生まれるよう意図しなくてもヒヨコが生まれてくるのと同じです。どなたも良く熟慮してください)。
ニ マッガの働き
実践すれば四聖諦の働きをする八正道
比丘のみなさん。宿泊所があるのと同じです。宿泊所は東から来た客が泊まることもあり、西から来た客が泊まることもあり、北から来た客が泊まることもあり、南から来た客が泊まることもあり、バラモンの客が滞在することもあり、町人の客が滞在することもあり、賤民の客が滞在することもあります。(同じ建物に四方からの四種類の身分の人が泊まれるように)、比丘のみなさん。これも同じです。
つまり八正道に励んでたくさんする比丘は、
当然最高の智慧で認識するべきダンマを認識でき、
当然最高の智慧で捨てるべきダンマを捨てることができ、
当然最高の智慧で明らかにするべきダンマを明らかにすることができ、
当然最高の智慧で励むべきダンマに励むことができます。
(八正道に励むだけで、四種類の人が一緒に泊まることができる宿泊所のように、四種類の行動と行動の結果があるという意味です)。
比丘のみなさん。最高の智慧で認識するべきダンマはどれでしょうか。答えは五取蘊、つまり形取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊であるべきです。
比丘のみなさん。最高の智慧で捨てるべきダンマはどれでしょうか。答えは無明と有愛であるべきです。
比丘のみなさん。最高の智慧で明らかにするべきダンマはどれでしょうか。答えは明と解脱であるべきです。
比丘のみなさん。最高の智慧で励むべきダンマはどれでしょうか。答えはサマタとヴィパッサナーであるべきです。
比丘のみなさん。比丘がどのように八正道に励んでたくさんすれば、四つの結果があるでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲依存し、滅に依存し普通に振り捨てることに傾いていく正しい見解に励み、正しい考えに励み、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディに励みます。
比丘のみなさん。比丘はこのように八正道に励みます。(そうすれば四つの結果があります。)
(この経の四つのダンマは、四聖諦の一般の教えのように、認識すべき、捨てるべき、明らかにするべき、励むべき順に並んでいます。しかし別の経:中部ウパリバンナーサ:14巻24頁819項では違う並び方、つまり認識すべき、捨てるべき、励むべき、明らかにするべき順になっているのもあります。しかし四聖諦を維持できるので、何も矛盾する結果はありません。
この経のパーリ(ブッダの言葉)では、八正道をヴィヴェカニッシタ ニローダニッシタ ボッサッガパリナーミーの状態で説かれ、別の経ではこのような場合の八正道の状態を、ラーガヴィナヤパリヨーサーナ=ラーガを取り出して終わらせ、ドーサヴィナヤパリヨーサーナ=ドーサを取り出して終わらせ、モーハヴィナヤパリヨーサーナ=モーハを出して終わらせる意味にし:19巻69頁267項、
不死になるアマトーガダ、不死の初めであるアマタプラーヤナ、終局として不死があるアマタパリヨーサーナ:19巻69頁269項、涅槃に傾くニッバーナニンナ、涅槃に傾くニッバーナポーナ、涅槃に下りて行くニッバーナパッバーラ:19巻70頁271項と、このようなのもあり、文字は違っても同じ意味を指しています。
もう一つ観察すべきは、この経では四聖諦の仕事である物を、他の一般的な経とは違う説き方をされている点です。一般の経では、認識するものをあらゆる種類の苦で説かれていますが、この経では五取蘊だけ説かれています。
捨てる物は、一般の経では三欲と説かれていますが、この経では無明と有欲と説かれ、明らかにするものを一般の経では八正道と説いていて、この経ではサマタとヴィパッサナー説かれています。学習者が、説かれている言葉の両方の意味をすべて知り、理解すれば、何も矛盾はないとと分かります)。
励めば菩提分が完璧になる八正道
比丘のみなさん。空にはいろんな種類の風が吹くのと同じで、東から吹く風、西から吹く風、北から吹く風、南から吹く風、埃を巻き上げる風、埃のない風、冷たい風、熱い風、そよ風、強風などが吹きます。比丘のみなさん。同じように比丘が八正道に励んでたくさんすれば、
四念処も完璧なバーヴァナー(望みに向かって努力すること)に至り、
四正勤も完璧なバーヴァナーに至り、
四如意足も完璧なバーヴァナーに至り、
五根も完璧なバーヴァナーに至り、
五力も完璧なバーヴァナーに至り、
七覚支も完璧なバーヴァナーに至ります。
(空にはいろんな風があるように、これらのダンマも六種類揃っています)。
比丘のみなさん。比丘がどのように八正道に励めば、(六種類のダンマが完璧になるでしょうか)。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し普通に振り捨てることに傾いていく正しい見解に励み、正しい考えに励み、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディに励みます。
比丘のみなさん。比丘はこのように八正道に励みます。(そうすれば六つの結果があります。)
(ブッダの言葉である他の経では、八正道の項目である正しい見解の状態を、このような場合、貪りを抜き取ることが目指す目的、復讐心を抜く取ることが目指す目的、愚かさを抜き取ることが目的という要旨のもあり:19巻69頁267頁、先に不死があり、不死が目指す目的というのもあり:19巻69頁269項、涅槃へ傾く、涅槃引き寄せる、涅槃へかしぐ:19巻69頁271項というのもあります)。
ダンマに到達する時の根の仕事
そうです、そうです、サーリプッタ。サーリプッタ、如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)に対して最高の帰依がある聖人である弟子は誰でも、その人は当然如行、あるいは如行の教えに疑念や躊躇いはありません。サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人なら、続いてこれを期待できます。
つまりその比丘はすべての悪を捨てるため、全ての善を完璧にするために努力を始めた人、力のある人であり、精励努力があり、すべての善の仕事を捨てません。サーリプッタ。その聖人である弟子のこのような努力は、当然その人のヴィリジンドリヤ(精進根)です。
サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で、努力を始めている人なら、続いてこれが期待できます。つまり彼はサティがある人で自分を極めて注意深く守るサティがあり、思い出すことができる人で、したこと話したことをどんなに前のことでも思い出すことができます。サーリプッタ。その聖人である弟子のこのような思い出すことは、当然その人のサティインドリヤ(念根)です。
サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で、努力を始めている人でサティを維持している人なら、これが期待できます。つまりその人は捨てることができ、心が安定し、つまり心に一つだけの感情があります。サーリプッタ。その聖人である弟子のこのような心の安定は、当然その人のサマーディンドリヤ(サマーディ根)です。
サーリプッタ。聖人である弟子が信仰のある人で、努力を始めてサティを維持し心が正しく安定している人なら、次にこれが期待できます。つまりその人は「輪廻には人が知ることができない終りがある。最初の部分も当然、無明に塞がれている人、縛りつける欲望があり、今も駆けて行って輪廻しているすべての動物には現れない。闇の固まりである無明が薄れた完璧な消滅もある。
それは静かな物であり、緻密な物であり、すべてのサンカーラが静まったダンマ(もの)であり、すべてのウパディ(しがらみ)を返却した物であり、欲望の終り、薄れること、消滅、涅槃だ」と明らかに知ります。サーリプッタ。その聖人である弟子のこのように明らかな知識は、当然その人のパンジンドリヤ(智慧根)です。
サーリプッタ。その聖人である弟子がこのような状態で(精進)を維持し、このように(サティで)思い出し、このように(サマーディで)安定し、このように(智慧で)明らかに知れば、当然「私が前に聞いたことがあるダンマのどれも、今私は名身でそれらのダンマに触れている。そしてそれらのダンマを智慧で洞察して見ている」とこのように極めて確信します。
サーリプッタ。その聖人である弟子のこのような確信は、当然その人のサッディンドリヤ(信根)です。
(この場合、極めて観察するべきことは、他の四つの根が自分の仕事をすれば、信根もその仕事をする点です。これは、信頼あるいは信仰というものは、その人がしなければならない仕事が成功した時に最高に達すという意味です。
いろんなタンマ集で説明されている、導く物として初めに生じる信仰(信頼)は、完璧な信仰ではなく、完璧な信仰は聖果に到達した時心に現れる、つまり自分の解脱を見る定の中にあると言うことができます)。
サンマッタ(正しさ)は漏を終わらせるダンマ
比丘のみなさん。この十項のダンマに人が励んでたくさんすれば、当然すべての漏が終わります。
十項はどのようでしょうか。十項とは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しいニャーナ、正し解脱です。
比丘のみなさん。この十項のダンマに人が励んでたくさんすれば、当然すべての漏が終わります。
ホ 別の名前のダンマ
八正道の形の中にある古いダンマの足
比丘のみなさん。この四つのダンマパダ(ダンマの足という意味。経の名前ではない)は、素晴らしいと知られ、長くあり、昔からあり、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、識者であるサマナ・バラモンが反論しないと知られているダンマです。四つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。四つとは、
貪らないことは素晴らしく、昔から長く伝承され、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、智者であるサマナ・バラモンは反論しないと知られているダンマです。
恨まないことは素晴らしく、昔から長く伝承され、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、智者であるサマナ・バラモンは反論しないと知られているダンマです。
正しいサティは素晴らしく、昔から長く伝承され、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、智者であるサマナ・バラモンは反論しないと知られているダンマです。
正しいサマーディは素晴らしく、昔から長く伝承され、散らばらず、一度も散らばったことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、智者であるサマナ・バラモンは反論しないと知られているダンマです。
比丘のみなさん。この四つのダンマパダは素晴らしく、昔から長く伝承され、拡散せず、一度も拡散したことがなく、抜かれず、これからも抜かれず、智者であるサマナ・バラモンは反論しないと知られているダンマです。
(この四つのダンマを主張することは昔からあり、今日まで誰も反論せず、絶えることなく伝承され、今のブッダの教えに含まれていなければならないと説いています。貪らないことと復讐しないことは、正しい考えであり、正しいサティと正しいサマーディと一緒にすると八項の道の三項になるので、マッガの部であるここに引用しました)。
有身滅道である実践項目
比丘のみなさん。サッカーヤニローダパティパダー(心を有身の消滅に至らせる道。有身滅道)はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合聞いたことがある聖人である弟子は聖人が見え、聖人のダンマに賢く、聖人のダンマの忠告を聞き、善人が見え、善人のダンマに賢く、善人のダンマの忠告を受けるので、
当然形を自分と見ず、自分は形があると見ず、形は自分にあると見ず、自分は形の中にあると見ず、
当然受を自分と見ず、自分には受があると見ず、受は自分にあると見ず、自分は受の中にあると見ず、
当然想を自分と見ず、自分には想があると見ず、想は自分にあると見ず、自分は想の中にあると見ず、
当然行を自分と見ず、自分には行があると見ず、行は自分にあると見ず、自分は行の中にあると見ず、
当然識を自分と見ず、自分には識があると見ず、識は自分にあると見ず、自分は識の中にあると見ません。
比丘のみなさん。私はこれを有身滅道と呼びます。
比丘のみなさん。これ(今述べたすべて)を、苦の消滅に至らせる道具と見ると言います。
(学習者はドゥッカニローダガーミニーサマヌパッサナー(苦の消滅に至らせる道具と見ること)こそ有身滅道であると見なければなりません。このような場合の道とは、心が歩く道であり、意図する実践ではありません。その誤りでない見方がパティパダー(道)です。
他の中部ウパリバンナーサ 14巻506頁821項では、見る物を五蘊の代わりに六つのアーヤタニカダンマ、つまり外処入・内処入・六識・六触・六受・六欲を、自分ではないと見ることとし、そしてその見ることを、上の経のように、心が有身滅に至る道と呼ばれています)。
実践の基本である功徳
ラフラ。メッター(他人の幸福を願うこと。慈)バーヴァナー(目的に向かって努力すること。精励)に励みなさい。慈に精励にすれば、復讐心は捨てられます。
ラフラ。カルナー(他人の苦を悲しむこと。悲)バーヴァナーに励みなさい。悲に精励すれば、加害する考えは捨てられます。
ラフラ。ムディター(他人の幸福を喜ぶこと。喜)バーヴァナーに励みなさい。喜に精励すれば、誰(の幸福)も喜ばないことは捨てられます。
ラフラ。ウペッカー(平然としていること。捨)バーヴァナーに励みなさい。捨に精励すれば、心の焦燥は捨てられます。
ラフラ。アスパ(不浄)バーヴァナーに励みなさい。不浄に精励すれば、貪りは捨てられます。
ラフラ。アニッチャサンニャー(無常想)バーヴァナーに励みなさい。無常想に精励すれば「自分、自分のもの」という理解は捨てられます。
四つのタイプの漏を終わらせる実践
比丘のみなさん。この四つのタイプのパティパダー(道)があります。
①ゆっくり知る困難な実践、
②早く知る困難な実践、
③ゆっくり知る楽な実践、
④早く知る楽な実践です。
1.結果が遅い困難な実践
比丘のみなさん。この場合の比丘は体が美しくないことが普通に見える人で、食べ物は不浄という識があり、世界のすべては喜ばしくない物という識があり、すべての行は変化すると普通に見える人で、モラナサンニャー(死想)も、内部で良く維持しています。
その比丘はこの五つの有学僧の力であるダンマ、つまり信力・慚力・愧力・精進力・智慧力に依存していますが、その人の五根、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根は弱く現れます。これらの根はまだ弱いので、その比丘は漏がゆっくり終わるアナンタリヤキッチャ(註1)に到達します。比丘のみなさん。これを知るのが遅い困難な実践と言います。
註1: アナンタリヤキッチャとは、サマタとヴィパッサナーの力が合わさって八正道の働きになり、煩悩を断ち、順にマッガの最高の段階に到達すること。
2.早く結果がでる困難な実践
比丘のみなさん。この場合の比丘は体が美しないことが見える人で、食べ物は不浄という識があり、世界のすべては喜ばしくない物という識があり、すべての行は変化すると普通に見える人で、死想も内部で良く維持しています。
その比丘はこれら五つの有学僧の力であるダンマ、つまり信力・慚力・愧力・精進力・智慧力に依存し、そしてその人の五根、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根は非常にたくさん現れます。これらの根が非常に多いので、その比丘は漏が早く終わるアナンタリヤキッチャに到達します。比丘のみなさん。これを、知るのが早い困難な実践と言います。
3.結果が遅い楽な実践
比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲と悪が鎮まって、初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。その比丘は有学僧の力であるダンマ、つまり信力・慚力・愧力・精進力・智慧力に依存していますが、その人の五根、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根は弱く現れます。これらの根がまだ弱いので、その比丘は漏がゆっくり終わるアナンタリヤキッチャに到達します。
比丘のみなさん。これを、知るのが遅い困難な実践と言います。
4.結果が早い快適な実践
比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲とすべての悪が鎮まって初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。その比丘は有学僧の力であるダンマ、つまり信力・慚力・愧力・精進力・智慧力に依存し、そして、その人のこれらの五根、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根は極めて多く現れます。
これらの根の量が極めて多いので、その比丘は漏が早く終わるアナンタリヤキッチャに到達します。比丘のみなさん。これを知るのが早い困難な実践と言います。
比丘のみなさん。これが四つのパティパダーです。
(このブッダの言葉は、実践を四種類に分け、一つはこの経で「体が美しくないことを見る」など、大変で複雑で混乱と言っているように快適ではなく、この経で「四つの定を得る」と言っているもう一つの方は、初めから快適で幸福で楽な実践で、正反対の違いがあります。大変なやり方が合っている人と、快適なやり方が合っている人がいますが、結果が出るのが早いか遅いかは、その人の根次第です)。
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