ハ 道諦の価値

梵行である八正道

 「猊下。梵行、梵行と言われている言葉がありますが、梵行とはどのようですか、猊下。そして梵行の終りは何ですか」。

 比丘。この八正道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが梵行です。

 比丘。貪りの終り、怒りの終り、愚かさの終りが梵行の終りです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻9頁29項





二つに分類した梵行

 比丘のみなさん。私はみなさんに、不注意でないためにまだしなければならない仕事が(残って)いると言いません。そしてみなさんには注意深くしなければならない仕事があると言いません。

1.苦の終りに達した人

 比丘のみなさん。阿羅漢キーナーサヴァである人は梵行が終り、するべき仕事をし終え、下ろした重荷があり、自分が追求した利益があり、有が終わったサンニョージャナ(結)があり、正しく知ることで解脱した人です。比丘のみなさん。これらの人に、私は不注意でないためにまだしなければならない仕事が(残って)あると言いません。

 そしてみなさんに、注意深くしなければならない仕事があると言いません。それは何故でしょうか。その人は注意深くしなければならない仕事をし終わり、そして二度と不注意な人になることはないからです。

2.まだ苦の終りに達しない人

 比丘のみなさん。有学で、まだ達成していない心の望みがあり、それ以上に素晴らしい物がない努力から生じた安全なダンマを望んでいる人は誰でも、比丘のみなさん。それらの比丘に私は、まだ注意深くしなければならない仕事があると言います。それは何故でしょうか。

 それはこの段階の人が適切な住まいに住み、善友と付き合い、すべての根を熟させていけば、それ以上に素晴らしい物がない、家を出て出家し、正しく家と関わらない人である良家の子息が求める利益を、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいることができるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘の不注意でないことの結果が見えるので、その人が注意深くしなければならない仕事はまだあると言います。

中部マッジマバンナーサ 13巻228頁229項





梵行の本当の目的

 比丘のみなさん。この梵行は、功徳として貰い物や称賛がある訳ではありません。この梵行は、功徳として戒が完璧になる訳ではありません。この梵行は功徳としてサマーディが完璧になる訳ではありません。この梵行は、功徳としてニャーナダッサナ(智見)が揃うわけではありません。

 比丘のみなさん。悪化しないチェトーヴィムッティ(心解脱)があり、梵行はそのチェトーヴィムッティが目指す利益で、チェトーヴィムッティが要旨で、チェトーヴィムッティが梵行の終りです。

中部ムーラパンナーサ 12巻373頁352項





八正道は涅槃になる梵行

 パンチャシカさん。私の梵行はニッピダー(厭離)の一部分のため、離欲のため、滅のため、ウパサマ(寂止)のため、神通のため、正覚のため、涅槃のためになります。

 パンチャシカさん。一部厭離のため、離欲のため、滅のため、寂止のため、神通のため、正覚のため、涅槃のためになる梵行はどのようでしょうか。梵行とは八正道のことです。正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。パンチャシカさん。これが一部の厭離のため、離欲のため、滅のため、寂止のため、神通のため、正覚のため、涅槃のためだけになる梵行です。

 パンチャシカさん。私の教えを全部知り尽している弟子は誰でも、その弟子は当然漏が終わり、漏を探すことができない心解脱・智慧解脱を、最高の智慧で生きているうちに明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいます。

 私の教えを全部揃って知り尽していない弟子は誰でも、その弟子はサンヨージャナ(動物を輪廻に結びつける煩悩。結)の下の五つが終わり、当然オッパーティカ(不還)であり、その有で涅槃し、当然その世界から戻って来ません。

 私の教えを全部知り尽していない弟子は誰でも、その弟子の一部はサンヨージャナの三つが終わり、貪りと怒りと愚かさが薄くなって当然サカダガーミー(一来)であり、この世界にもう一度だけ戻って来て、苦を終わらせます。

 私の教えを全部揃って知り尽していない弟子は誰でも、その弟子の一部はサンヨージャナの三つが終わって、当然ソターパンナ(預流)であり、普通に戻ることはなく、(涅槃が)確実で、将来すべてを悟ります。

 パンチャシカさん。この良家の子息の(このダンマヴィナヤでの)出家はこのようであり、不毛でなく、害はなく、結果や利益があるだけです。

長部マハーヴァッガ 10巻285頁234項





八正道は梵行にある(と編者は指摘する)

1.正しい見解とは、良家の子息がダンマを聞いて、すべての漏尽業に正しい見解が生じること。

2.正しい考えとは、良家の子息が出家を望んで出家すること。

3.正しい言葉とは、良家の子息がすべての不正な言葉と、畜生談を避けて話すこと。

4.正しい業とは、良家の子息が悪のカンマ(業)を避けること。

5.正しい生業(生活)とは、良家の子息が畜生知識で生活することを避け、サンドーサ(知足)などがあること。

6.正しい努力とは、良家の子息が寝ている時も起きている時も、一般の努力の教えで努力すること。

7.正しいサティとは、良家の子息にサティと自覚があること。

8.正しいサマーディとは、良家の子息がサマーディと四つの形禅定に励むこと。

 (詳しくは1553頁を参照してください)。
 http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-12-1.html





八正道と梵行は機械のように結果を出す

 ブーミチャさん。サマナでもバラモンでも、どんな人たちも正しい見解があり、正しい考えがあり、正しい言葉があり、正しい業があり、正しい生活をし、正しい努力があり、正しく思い出すことがあり、正しい専心がある人は誰でも、

 それらの人は結果を期待して梵行をしても必ず結果を受け得り、結果を期待しないで梵行をしても必ず結果を得り、結果を期待するのと期待しないのとで梵行をしても必ず結果を受け取り、結果を期待するでもなく、しないのでもなく梵行をしても必ず結果を受け取ります。それは何故でしょうか。結果を受け取るのは、それらの人が原因を作っているからです。

 ブーミチャさん。油を求めて油を探し歩いている人が、ゴマの種を溝に入れて均し、水を振り掛けてどんどん絞れば、その人が期待しようとしまいと、期待と期待しないのと両方でも、期待するでもなくしないでもなくても、その人は必ず油を得られるのと同じです。それは何故でしょうか。その人が油を得られるのは、その人が理に適った行動をするからです。

 (同じようにあと三つの例えを示されています。つまり牛乳を求める男が小さな子牛のいる母牛の乳を絞る話、バターを求める男が発酵させた牛乳を攪拌する話、火を求める男が乾いた木を擦る譬えで、期待してもしなくても、正しく行動すれば当然結果はあると話されています)。

中部ウパリバンナーサ 14巻279頁414項





愚者と博学者の梵行の違い

 比丘のみなさん。この体は何らかの無明に包まれ、何らかの欲望で関わる愚かな人に生じ、愚かな人はまだ無明を捨てることができず、欲望もまだ終わりません。それは何故でしょうか。比丘のみなさん。それは、愚かな人は正しく苦を終わらせるために梵行をしないからです。

 だから愚かな人は、(この)体が壊れることで(別の)体に至ります。その愚かな人が体に至れば、私は「彼は生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから脱しない」と言います。

 比丘のみなさん。この体は何らかの無明に覆われている人、何らかの欲望で関わる人に生じ、その無明を博学者は捨てることができ、そして欲望も終わります。それは何故でしょうか。それは、苦を正しく終わらせるために梵行をするからです。

 だから博学者は(この)体が壊れることで(別の)体に至りません。その博学者が体に至らなければ、私は「彼は当然生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱した」と言います。

 相応部ニダーナヴァッガ 16巻29頁59項





八正道の威力

1.如行の出現

 比丘のみなさん。この八項目のダンマに人が励んでたくさんすれば、まだ生じていないすべてのダンマが当然生じ、アラハンタサンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳では如来)の出現も例外ではありません。八項目はどのようでしょうか。

 それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。この八つのダンマに人が励んでたくさんすれば、まだ生じていないすべてのダンマが生じます。阿羅漢サンマーサンブッダである如行の出現も例外ではありません。

 比丘のみなさん。この八つのダンマは純潔で純白で、小山ほどの煩悩もなく、随煩悩がなく、まだ生じていないすべてのダンマを生じさせます。阿羅漢サンマーサンブッダである如行の出現も例外ではありません。八項目はどのようでしょうか。

 それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行の出現も例外ではありません。


2.スガタヴィナヤの出現

 比丘のみなさん。この八項目のダンマに人が励んでたくさんすれば、当然まだ生じていないすべてのダンマが生じて来ます。スガタヴィナヤ(善く行った人の律。つまりブッダの教団)の出現も例外ではありません。八項目はどのようでしょうか。

 それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。人がこの八つのダンマに励んでたくさんすれば、まだ生じていないすべてのダンマが生じてきます。スガタヴィナヤ(の出現)も例外ではありません。

 比丘のみなさん。この八つのダンマは純潔で純白で、小山ほどの煩悩もなく、随煩悩がなく、まだ生じていないすべてのダンマが当然生じてきます。スガタヴィナヤ(の出現)も例外ではありません。八項目はどのようでしょうか。

 それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。この八つのダンマは純潔で純白で、小山ほどの煩悩もなく、随煩悩がなく、まだ生じていないすべてのダンマが生じ、スガタヴィナヤ(の出現)も例外ではありません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻18頁52項





知るべき捨てるべきダンマを知るため捨てるための八正道

 比丘のみなさん。この八つのダンマは、貪り、怒り、愚かさ、憤怒、恨み、悪意、悩み、嫉妬、ケチ、欺瞞、不信、強情、激情、傲慢、過慢、慢心、油断を、最高に知るため、知り尽くすため、終わらせるため、捨てるため、終わりのため、衰退のため、薄れるため、消滅のため、振り捨てるため、返却するために励みます。

 八つはどのようでしょうか。八つとは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。人が貪り、怒り、愚かさ、憤怒、恨み、悪意、悩み、嫉妬、ケチ、欺瞞、不信、強情、激情、傲慢、過慢、慢心、油断を最高に知るため、知り尽くすため、終わらせるため、捨てるため、終わりのため、衰退のため、薄れるため、消滅のため、振り捨てるため、返却のために励むのはこの八つのダンマです。

増支部23巻359頁201項

 (この内容はすべて、ブッダの言葉では、一つ一つの行動と状態をそれぞれの経に分けるよう望まれています。たとえば最高に知ることを一つの経にし、そして捨てるべき煩悩一つで一つの経に、貪りを最高に知ることを一つの経にしています。行動が十あり、捨てるべき煩悩の名前が十七あり、掛けると百七十の経になります。ここでは学習しやすいように、そして時間の節約のために一つにまとめました)。





八正道は母子でも助けられない危険を鎮める

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、当然母子でも助け合うことができない三つの災害について話します。

 大火で集落全体、村全体、町全体が燃える時、母は子を(助けることが)できず、子は母を(助けることが)できません。比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、当然母子でも助けられない災害の一つ目と言います。

 比丘のみなさん。まだあります。大きな雨雲があり、洪水が集落全体、村全体、町全体を呑み込む時は、母は子を(助けることが)できず、子も母を(助けることが)できません。比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、当然母子でも助けられない災害の二つ目と言います。

 比丘のみなさん。まだあります。森から災害(山賊の大暴れ)が来る時は、庶民は車に乗って散り散りに逃げます。このような災害が生じれば、その時母は子を(助けることが)できず、子も母を(助けることが)できません。比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、当然母子でも助けられない災害の三つ目と言います。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫は、本当は母子で助けられるこの三つの災害を、母子で助けられない災害と言ってしまいます。比丘のみなさん。母子で助けられる災害はどのようでしょうか。三つとは大火が一つ目、大洪水が二つ目、盗賊が暴れるのが三つ目です。それらの災害も、時には母子で助け合うことができますが、聞いたことがない凡夫は、どれも母子でも助け合うことができない災害と言ってしまします。

 比丘のみなさん。次の三つの、母子でも助けることができない災害があります。三つとは老いから生じる危険、病気から生じる危険、死から生じる危険です。比丘のみなさん。母親は「私が老いよう。この子は老いないで」と、このように子が老いることを望まず、子も「私が老いよう。母は老いないで」とこのように望みます。

 母親は「私が病気になろう。この子は病気になってはいけない」と、わが子が病むことを望まず、子は「私が病気になる。母は病気にならないで」とこのように望みます。母親は「私が死のう。この子は死なないで」とこのようにわが子の死を望まず、子も「私が死のう。母は死なないで」とこのように望みます。比丘のみなさん。これが母子でも助けられない三つの危険です。

 比丘のみなさん。これら三つの危険、母子で助けられる危険と親子で助けられない危険の、どちらも廃止してしまい、越えてしまうマッガ(道)があり、パティパダー(道)があります。そのマッガ、あるいはパティパダーはどのようでしょうか。

 それは八正道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これが、三つの母子で助け合える危険と、三つの親子で助け合えない危険のどちらも廃止して越えてしまうマッガであり、パティパダーです。

増支部ティカニバータ 20巻228頁502項





業滅道である八正道

 比丘のみなさん。これから新しいカンマ(業)と古いカンマの業滅と業滅道について話します。

 比丘のみなさん。古いカンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。みなさんが古いカンマ、作り出す縁、感覚を生じさせる縁、感情を知覚できる知覚と見るべき目・耳・鼻・舌・体・心です。比丘のみなさん。これを古いカンマと言います。

 比丘のみなさん。新しいカンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。現在体で行動したこと(身業)、言葉で行動したこと(口業)、心で行動したこと(意業)は何でも、これを新しいカンマと言います。

 比丘のみなさん。カンマニローダ(業滅)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。身業・口業・意業のいずれかが滅すことで解脱に触れることを、業滅と言います。

 比丘のみなさん。カンマニローダミニーパティパダー(業滅道)はどのようでしょうか。業滅道とは、八正道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディで、比丘のみなさん。これを業滅道と言います。

 比丘のみなさん。私はこのように古いカンマもみなさんに説き、新しいカンマもみなさんに説き、業滅もみなさんに説き、業滅道もみなさんに説きました。比丘のみなさん。可愛がる教祖が、可愛がることに依存する利益を求めてみなさんにするべきことは何でも、私はみなさんにしました。

 比丘のみなさん。ほら、すべの木の根元。ほら、すべての空き家。比丘のみなさん。みなさん煩悩を焼く努力をなさい。不注意であってはいけません。みなさん、後で焦燥する人になってはいけません。これが、私が繰り返し教える言葉です。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻166頁227項





八正道は神足専心道

 アーナンダ。イッディバーダ(如意足)はどのようでしょうか。アーナンダ。イッディ(神通)を得る、特に神通を得るどんなマッガ(道)、どんなパティパダー(道)も、アーナンダ。私はこれを如意足と言います。

 アーナンダ。イッディバーダバーヴァナー(如意足専心)はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は、

①当然作り出す道具が揃っていて、主な仕事であるチャンダ(満足)に依存したサマーディがある如意足に励み、

②当然作り出す道具が揃っていて、主な仕事であるヴィリヤ(精進)に依存したサマーディがある如意足に励み、

③当然作り出す道具が揃っていて、主な仕事であるチッタ(心)に依存したサマーディがある如意足に励み、

④当然作り出す道具が揃っていて、主な仕事であるヴィマンサー(熟慮)に依存したサマーディがある如意足に励みます。

 アーナンダ。私はこれを如意足専心と言います。アーナンダ。如意足専心道はどのようでしょうか。この八正道こそがそれで、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。アーナンダ。私はこれを如意足専心道と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻367頁1223項





八正道は解脱がある宗教の象徴

 スパッダさん。八正道がないダンマヴィナヤ(宗教)は、どこでもサマナ(聖人)はいません。二番目のサマナも、三番目のサマナも、四番目のサマナも、そのダンマヴィナヤにはいません。

 スパッダさん。八正道があるダンマヴィナヤは、どこでもサマナがおり、そのダンマヴィナヤには二番目のサマナも、三番目のサマナも、四番目のサマナも探すことができます。

 スパッダさん。このダンマヴィナヤには八正道があるので、このダンマヴィナヤではサマナを見ることができます。二番目のサマナも、三番目のサマナも、四番目のサマナも探すことができます。他の教義に他の教義のサマナはいません。

 スパッダさん。これらの比丘のすべてが正しく暮らせば、世界は阿羅漢に欠けることはありません。

長部マハーヴァッガ 10巻175頁138項





八正道の項目は、善人悪人に分ける教え

 比丘のみなさん。これから、悪人と悪人以上の悪人、善人と善人以上の善人についてお話します。

 比丘のみなさん。悪人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディのある人で、比丘のみなさん。私はこれを悪人と言います。

 比丘のみなさん。悪人以上の悪人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、自分に誤った見解があり、他人を誤った見解に誘い、自分に誤った考えがあり、他人を誤った考えに誘い、自分に誤った言葉があり、他人を誤った言葉に誘い、自分に誤った業があり、他人を誤った業に誘い、

 自分に誤った生活があり、他人を誤った生活に誘い、自分に誤った努力があり、他人を誤った努力に誘い、自分に誤ったサティがあり、他人を誤ったサティに誘い、自分に誤ったサマーディがあり、他人を誤ったサマーディに誘う人です。比丘のみなさん。私はこれを悪人以上の悪人と言います。

 比丘のみなさん。善人はどのようでしょうか。この場合の人は正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディのある人で、私はこれを善人と呼びます。

 比丘のみなさん。善人以上の善人はどのようでしょうか。この場合の人は自分に正しい見解があり、他人を正しい見解に誘い、自分に正しい考えがあり、他人を正しい考えに誘い、自分に正しい言葉があり、他人を正しい言葉に誘い、自分に正しい業があり、他人を正しい業に誘い、

 自分も正しい生活があり、他人を正しい生活に誘い、自分に正しい努力があり、他人を正しい努力に誘い、自分に正しいサティがあり、他人を正しいサティに誘い、自分に正しいサマーディがあり、他人を正しいサマーディに誘う人です。比丘のみなさん。私はこれを善人以上の善人と言います。

増支部チャッカニバータ 21巻302頁204項

 (別の経では人を善人・悪人にする項目を、八正道ではなく十善道・十悪道で説かれています。21巻303頁206項、別の経では人を善人・悪人に分ける代わりに、罪な人・徳の高い人と分けているのもあります。21巻306頁209項、別の経では八正道や十正・十悪で人を分ける代わりに、十善行・十悪行で分けているものもあります。21巻297頁201項)





誤った探求を確実に防ぐ八正道

 比丘のみなさん。この三つの探求があります。三つはどのようでしょうか。三つとは、愛欲の探求、有の探求、梵行の探求です。比丘のみなさん。これが三つの探求です。

 比丘のみなさん。この三つの探求を最高に知るために、人は八正道に励むべきです。どの種の八正道でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して振り落すことに傾いていく正しい見解に励み、正しい考えに励み、正しい言葉に励み、正しい業に励み、正しい生業(生活)に励み、正しい努力に励み、正しいサティに励み、正しいサマーディに励みます。

 比丘のみなさん。この三つの探求を最高に知るために、人は八正道に励むべきです。

 (「最高に知るため」という言葉を別の経では「知り尽すため」という言葉を使っているものあり、「完全な終わりのために」という言葉、「捨ててしまうために」という言葉を使っているのもあります。

 この探求の場合の梵行という言葉は、戒禁取である誤った品行を意味します。愛欲や界と同類だからです。

 この経で探求と言う認識して捨てなければならない物を、別の経では別の言葉で呼ばれています。認識して捨てる物は、

 ヴィダー(悪い、同じ、良いと比較する気持ちを生じさせる感覚)もあり、

 アーサヴァ(つまり欲漏、有漏、無明漏)の三種類もあり、

 バヴァ(欲界、形界、無形界)の三種類もあり、

 ドゥッカター(苦ゆえの苦、作り出す苦、変化する苦)の三種類もあり、

 キーラ(心を打ち付ける釘。つまり貪り・怒り・愚かさ)の三種類もあり、

 マラ(心の汚れ。つまり貪り・怒り・愚かさ)の三種類もあり、

 ニガ(心にぶつかるもの、つまり貪り・怒り・愚かさ)の三種類もあり、

 ヴェーダナー(幸受、苦受、不幸不苦受)の三種類もあり、

 タンハー(愛欲、有欲、無有欲)の三種類もあり、

 オガ(心に溢れる煩悩、つまり愛欲、バヴァ(有)、ディッティ(見)、無明)の四種類もあり、

 ヨーガ(心を縛る煩悩、つまり愛欲、バヴァ、ディッティ、無明)の四種類もあり、

 ウパダーナ(愛欲、ディッティ(見)、シーラパラタ、無明による執着)の四種類もあり、

 ガンタ(名身を縛りつけるもの、つまり貪り・怒り・シーラパラタ・自分だけの真実)の四種類もあり、

 アヌサヤ(本性に眠っている煩悩、随眠。つまり欲貪、瞋恚、見、疑念、慢、有貪、無明)の七種類もあり、

 五欲(形・声・香・味・触・考え)の五種類もあり、

 蓋(心を塞ぐ煩悩、つまり貪欲、瞋恚、?珍睡眠、掉挙悪作、疑法)の五種類もあり、

 取蘊(蘊つまり、取に支配されている形・受・想・行・識)の五種類もあり、

 オーランバギヤサンヨージャナ(動物を低い界に繋ぐ煩悩。下五結。つまり有身見、疑法、戒禁取、貪欲、瞋恚)の五種類もあり、

 ウッダンバーギヤサンヨージャナ(動物を上の界に繋ぐ結。上五結。つまり形貪、無形貪、慢、散漫、無明)の五種類もあります)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻81頁298項





時代の説法のための中道


1.自分と他人にちょうど良い 

 比丘のみなさん。六つのダンマがある比丘は、自分自身を援けることも、他人も援けることも適度にできます。六つはどのようでしょうか。六つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴むことができる人で、

②聞いたダンマを記憶する自然(能力または習性という意味)があり、

③普段記憶しているダンマの要旨を熟慮し、

④意義を知り、ダンマを知り、ダンマにふさわしいダンマの実践をし、

⑤美しい言葉があり、美しい物言いをし、意味が明瞭で洗練されていて、要旨が伝わる庶民の話し方をし、

⑥説明して、すべての純潔な行動に、勇敢に引っ張って行くことができます。

 比丘のみなさん。この六つがある比丘は自分自身を援けることも、他人を援けることも適度にできます。



2.自分と他人のためにちょうど良い

 比丘のみなさん。五つがある比丘は自分自身を援けることも、他人を援けることも適度にできます。五つはどのようでしょうか。五つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴める人ではありませんが、聞いたダンマを記憶する自然があり、

②平素から記憶しているダンマの要旨を熟慮し、

③意義を知りダンマを知り、ダンマにふさわしくダンマの実践をし、

④美しい言葉があり、美しい物言いをし、意味が明瞭で洗練され、要旨が伝わる庶民の話し方をし、

⑤説明してすべての梵行者を明るく勇敢に導くことはできます。

 比丘のみなさん。この五つがある比丘は、自分自身を援けるのにちょうど良く、他人を援けるにもちょうど良いです。



3.自分のためにはちょうど良いが他人のためには良くない

 比丘のみなさん。四つがある比丘は自分自身を援けることは適度にできますが、他人を援けるのは適度ではありません。四つはどのようでしょうか。四つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴むことができる人で、

②聞いたダンマを記憶する自然があり、

③平素から記憶しているダンマの要旨を熟慮し、

④意義を知り、ダンマを知り、ダンマにふさわしくダンマの実践をしますが、

 彼は美しい言葉で美しい物言いをせず、意味が明瞭でなく、洗練されてなく、要旨が伝わる庶民の話し方をする人でもなく、そして説いてすべての梵行者を明るく勇敢に導くことはできません。

 比丘のみなさん。この四つがある比丘は自分自身を適度に援けられますが、他人を援けるには適度にできません。



4.他人のためにはちょうど良いが、自分のためには良くない

 比丘のみなさん。四つがある比丘は適度に他人を援けることができますが、自分自身を援けるのは適度ではありません。四つはどのようでしょうか。四つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴むことができる人で、

②聞いたダンマを記憶する自然がありますが、彼は平素、記憶しているダンマの内容を熟慮せず、意義を知り、ダンマを知ってダンマにふさわしいダンマの実践をせず、

③彼は美しい言葉があり、美しい物言いをし、意味が明瞭で洗練され、内容が伝わる庶民の話し方をする人で、

④そして説明してすべての梵行者を明るく勇敢に導くことができます。

 比丘のみなさん。この四つがある比丘は適度に他人を援けることはできますが、自分自身を援けるのは十分ではありません。



5.自分のためにはちょうど良いが他人のためには良くない

 比丘のみなさん。三つがある比丘は、自分自身を適度に援けることができますが、他人を援けるのは適度ではありません。三つはどのようでしょうか。三つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴める人ではありませんが、聞いたダンマを記憶する自然があり、

②平素、記憶しているダンマの内容を熟慮し、

③意義を知りダンマを知り、ダンマにふさわしいダンマの実践をしますが、

 彼は美しい言葉で美しい物言いをせず、意味が不明瞭で洗練されてなく、要旨が伝わる庶民の話し方をする人でなく、そして説いてすべての梵行者を勇敢に導くことはできません。

 比丘のみなさん。この三つがある比丘は自分自身を適度に援けることができすが、他人を援けるのは適度ではありません。



6.他人のためにはちょうど良いが自分のためには良くない

 比丘のみなさん。三つがある比丘は他人を適度に援けることができますが、自分自身を援けるのは適度ではありません。三つはどのようでしょうか。三つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴める人ではありませんが、聞いたダンマを記憶する自然があり、

②彼は平素から、記憶しているダンマの内容を熟慮せず、意義を知らずダンマを知らず、ダンマにふさわしいダンマの実践をしません。しかし彼は美しい言葉があり、美しい物言いをし、意味が明瞭で洗練され、内容が伝わる庶民の話し方をし、

③そして説明してすべての梵行者を明るく勇敢に導くことはできます。

 比丘のみなさん。この三つがある比丘は他人を適度に援けることができすが、自分自身を援けるのは適度ではありません。



7.自分のためにはちょうど良いが、他人のためには良くない

 比丘のみなさん。二つがある比丘は自分自身を適度に援けることができますが、他人を援けるのは適度ではありません。二つはどのようでしょうか。二つとは、この場合の比丘は、

①すべての善を素早く掴める人でなく、聞いたダンマを記憶する自然はありませんが、彼は平素、記憶しているダンマの内容を熟慮し、

②意義を知りダンマを知り、ダンマにふさわしいダンマの実践をしますが、彼は美しい言葉で美しい物言いをせず、意味が不明瞭で洗練されず、要旨が伝わる庶民の話し方をする人でなく、そして説明してすべての梵行者を明るく勇敢に導くことができません。

 比丘のみなさん。この二つがある比丘は、自分自身を適度に援けることができますが、他人を援けるのは適度ではありません。



8.他人のためにはちょうど良いが自分のためには良くない

 比丘のみなさん。二つがある比丘は他人を適度に援けることはできますが、自分自身を援けるのは適度ではありません。二つはどのようでしょうか。二つとは、この場合の比丘は、

 すべての善を素早く掴める人でなく、聞いたダンマを記憶する自然もなく、そして平素から記憶しているダンマの内容を熟慮して意味を知りダンマを知り、ダンマにふさわしいダンマの実践をしませんが、彼は

①美しい言葉があり、美しい物言いをし、意味が明瞭で洗練され、要旨が伝わる庶民の話し方をし、

②そして説明してすべての梵行者を明るく勇敢に導くことができます。

 比丘のみなさん。この二つがある比丘は、他人を適度に援けることができますが、自分自身を援けるのは適度ではありません。

増支部アッダカニバータ 23巻305頁152項

 (この六つはどれも説法者、特に今の時代の説法にとって必要不可欠です。どうぞ熟慮して、これらの美徳がすべて揃うように自分自身を改革してください)。




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