ロ 道の状態について
不死の道である八正道
「猊下、『不死、不死』という言葉がありますが、不死とはどのようですか。そして不死への道はどのようですか、猊下」。
比丘のみなさん。貪りの終り、怒りの終り、愚かさの終り。これを不死と言います。
この八正道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが不死に至る道です。
八正道は涅槃への流れがある
比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)、ヨムナー川、アジラヴァディー川、サラブー川、マヒー川、すべての川は東へ下り、東へ傾き、東へ流れるように、比丘のみなさん、八正道に励んでたくさんする比丘は当然涅槃に傾き、涅槃に下り、涅槃に流れ着きます。
比丘のみなさん。比丘がどのように八正道に励んでたくさんすれば、涅槃へ下り、涅槃へ傾き、涅槃へ流れ着く人になるでしょうか。
比丘のみなさん。この場合は当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、捨てることに傾いていく正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
比丘のみなさん。このように八正道に励んでたくさんすれば、その比丘は涅槃へ下って行く人、涅槃へ傾いていく人、涅槃へ流れ着く人です。
(上記のように「遠離に依存し、離欲に依存する類の道に励んでたくさんする」という言葉は、別の経では「貪・瞋・痴を出す道に励んでたくさんする」と説明しているのもあり:19巻52頁205項、別の経では「不死になり、先々行く場所である不死があり、求める不死がある」というのものあり、:19巻55頁220項、また別の経では「涅槃へ傾き、涅槃へかしぐ」と言われているのもあります。:19巻58頁236項」。
目標に到達させる道である八正道
比丘のみなさん。もし他の教義の出家僧に「先輩。みなさんがゴータマサマナのところで梵行をしているのは、何の利益のためですか」と、このように聞かれたら、比丘のみなさん。このように聞かれたらみなさんは「先輩。私たちは貪りを吐き出す利益のために梵行をしています」と答えるべきです。
(別の経では、
サンヨージャナ(動物を輪廻に結ぶ煩悩。結)を捨てる利益のため、
アヌサヤ(随眠)を抜き取る利益のため、
動物は無明で遠い旅をしなければならないことを認識するため、
すべての漏の終わりのため、
明と解脱を明らかにさせるため、
見ることを知るため、
執着しないことで、生きているうちに消滅するため、などがあります)。
比丘のみなさん。異教義の出家僧から「先輩。貪りを吐き出すためのマッガ(道)はありますか。パティパダー(道)はありますか」と聞かれたら、比丘のみなさん。そのように聞かれたらみなさんは「貪りを吐き出すためのマッガがあり、パティパダーがあります」と託宣するべきです。
比丘のみなさん。貪りを吐き出すためのマッガはどのようで、パティパダーはどのようでしょうか。それは八正道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これが貪りを吐き出すためのマッガであり、パティパダーです。
(上で述べた一つ一つの名前の梵行の目標である教えの後に「サンヨージャナを捨てる利益のために」とあります。学習者は自分で入れてみてください)
八正道は鍋敷きの役目をする
比丘のみなさん。鍋敷きのない鍋は当然転がりやすく、鍋敷きのある鍋は当然転がりにくいように、比丘のみなさん。敷き台のない心は当然転がりやすく、敷き台のある心は当然転がりにくいです。
比丘のみなさん。何が心の敷き台でしょうか。この八正道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業(行動)、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディが心の敷き台です。
八正道はすべての有為の物の頂点
比丘のみなさん。すべての有為のダンマがどれだけあっても、八正道はすべてのダンマよりも卓絶していると私は言います。
比丘のみなさん。八正道を尊ぶ人たちは素晴らしいダンマを尊ぶと言われ、素晴らしいダンマを尊ぶ人には当然素晴らしい報いがあります。
八正道は、発見した古い道
比丘のみなさん。密林へ入った人が、人間が歩いたことのある古道の跡を見つけて、その道に沿って歩いて行くと、昔たくさんの人間が暮らしていた古代の都市、豊かな庭園、豊かな木々、豊かな池、城壁の残骸があり、心地よい場所がある古代都市の残骸を発見します。
比丘のみなさん。その後その人は王や王の重臣に「お知らせ申し上げます。私が密林に入りますと、人間が歩いた古道を見つけ、その道に沿って歩いて参りますと、昔たくさんの人間が暮らしていた古代の都市の残骸を発見しました。豊かな庭園、豊かな木々、豊かな池、城壁の残骸があり、心地よい場所がありました。どうぞその場所を調査なさって、都にしてください」と奏上します。
比丘のみなさん。その後王または王の重臣がその場所を調査して都にすると、その後その都は豊かに繁栄し、大勢の人が住み、どこも人で溢れる豊かな繁栄に至ります。
比丘のみなさん。同じように、私はたくさんのサンマーサンブッダが歩いた古道を発見しました。比丘のみなさん。たくさんのサンマーサンブッダが歩いた古道とは何でしょうか。
それは八正道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これがたくさんのサンマーサンブッダが歩いた古い道で、私がその道にそって歩いて行くと、老死、老死の原因、老死の消滅、老死の消滅に至る実践規範を、極めて明らかに知りました。
(このあと生、有、取、欲望、受、触、六処、名形、識、行について、老死の場合と同じような四つの形で述べられています)。
比丘のみなさん。その道を最高に知った時、私は比丘、比丘尼、清信士、清信女に教えました。
比丘のみなさん。私が教えた梵行は盤石で繁栄した梵行であり、広く普及し、たくさんの人に知られ、その結果、天人と人間のみなさんが良く開示できます。
苦を規定して知る道である八正道
比丘のみなさん。異教義の修行者に「苦を知るマッガ(道)はありますか。パティパダー(道)はありますか」と聞かれたら、みなさんは「苦を知るためのマッガはあります。パティパダーはあります」と答えるべきです。
比丘のみなさん。苦を知るためのマッガはどのようで、パティパダーはどのようでしょうか。この素晴らしい八つがある道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディがあります。これがその、苦を知るためのマッガであり、パティパダーです。
比丘のみなさん。みなさんがそのように質問されたら、他の教義の出家にこのように託宣なさい。
涅槃のための目とニャーナを生じさせる中道
比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称)が大悟した実践規範である中道は、どのように目を生じさせ、ニャーナ(いろんなレベルに到達したと内心で知ること。智)を生じさせるため、静まるため、最高の智慧のため、大悟のため、涅槃のための実践規範でしょうか。
比丘のみなさん。中道である実践規範は八項目からなる素晴らしい道である実践規範で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。これが目を生じさせニャーナを生じさせ、静まるため、最高の智慧のため、大悟のため、涅槃のための中道である、如行だけが悟った実践規範です。
中道の三つのレベル
イ (一般の)中道
比丘のみなさん。出家が関わるべきでない二極に傾く物があります。両極に傾く物とは何でしょうか。
それは、あらゆるカーマ(愛欲)に欲望で関わること(愛欲実践)です。それは低俗な行動であり、庶民の物、凡夫の物であり、聖人の物でなく利益がありません。もう一つは苦をもたらし、聖人の物でなく利益がない自分を苦しめる努力(苦行実践)です。
比丘のみなさん。二極に偏らない中道(真ん中の道である実践規範)は、如行が大悟した実践項目で、目を生じさせ、ニャーナを生じさせ、静まるため、最高の智慧のため、大悟のため、涅槃のためになります。
比丘のみなさん。中道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。中道とは八項目から成る素晴らしい道である実践規範で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい生活、正しい職業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
比丘のみなさん。これがその中道です。
ロ (中等の)中道
比丘のみなさん。中道はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然普通に体の中の体が見え、普通にすべての受の中の受が見え、普通に心の中の心が見え、普通にすべてのダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力を始め、罪である悪が生じないよう、まだ生じていない善が生じるよう、生じた善を維持するよう、汚さないよう、更に成長、発展、完成するよう心を維持します。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然作り出すダンマが揃っていて、チャンダ(満足)に依存したサマーディがある如意足を主な仕事として励み、当然加工するダンマが揃っていて、ヴィリヤ(精進)に依存したサマーディのある如意足を主な仕事として励み、
当然加工するダンマが揃っていて、チッタ(心)に依存したサマーディのある如意足を主な仕事として励み、当然加工するダンマが揃っていて、ヴィマンサー(熟考)に依存したサマーディのある如意足を主な仕事として励みます。
(ここで言っている仕事とは、注意すること、捨てること、生じさせること、そして維持することです)。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然信根に励み、当然精進根に励み、当然サティ根に励み、当然サマーディ根に励み、当然智慧根に励みます。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然信力に励み、当然精進力に励み、当然サティ力に励み、当然サマーディ力に励み、当然智慧力に励みます。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然七覚支のサティに励み、当然七覚支の択法に励み、当然七覚支の精進に励み、当然七覚支の喜悦に励み、当然七覚支の軽安に励み、当然七覚支のサマーディに励み、当然七覚支の捨に励みます。比丘のみなさん。これを中道と言います。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然正しい見解に励み、当然正しい考えに励み、当然正しい言葉に励み、当然正しい業に励み、当然正しい生活に励み、当然正しい努力に励み、当然正しいサティに励み、当然正しいサマーディに励みます。比丘のみなさん。これを中道と言います。
ハ (深遠な意味の)中道
(この教えは、質問に来た人に答えたブッダヴァチャナに依存しています。ほとんどはバラモンが正反対の物について質問しています。たとえば「すべての物はあるのか否か。すべては同じか同じでないか。自分や他人は行動する人か結果を受け取る人か」など、それはこうだと、あるいはこうではないと一方的に断定しいます。ブッダは真ん中(マッジェナ)で答えられ、どちらも容認なさいませんでした)。
バラモンさん。如来は当然中間のダンマを説き、どちらにも偏りません。つまり如行は、
無明が縁としてあるからすべての行があり、
行が縁としてあるから識があり、
識が縁としてあるから名形があり、
名形が縁としてあるから六処があり、
六処が縁としてあるから触があり、
触が縁としてあるから受があり、
受が縁としてあるから欲望があり、
欲望が縁としてあるから取があり、
取が縁としてあるから有があり、
有が縁としてあるから生があり、
生が縁としてあるから老死、悲しみ、嘆き、苦しみ、すべての憂いが、残らず生じる。すべての苦の海の発生はこのように生じ、
無明が消滅することで行が消滅し、
行が消滅することで識が消滅し、
識が消滅することで名形が消滅し、
名形が消滅することで処入が消滅し、
処入が消滅することで触が消滅し、
触が消滅することで受が消滅し、
受が消滅することで欲望が消滅し、
欲望が消滅することで取が消滅し、
取が消滅することで有が消滅し、
有が消滅することで生が消滅し、
生が消滅することで老死、悲しみ、嘆き、苦しみ、すべての憂いが消滅します。
すべての苦の海の消滅はこのようにしてあります。
(上記のブッダの言葉のマッジェナとは中道のことです。だから中道とはこの経で話されているように縁起の流れのことで、それはどんな物も一方的にどちらの側と断定できなくさせます)。
(中道を学ぶには、最初に基本である中道、八正道を学び、それから深いレベルの中道、縁起を最後に学ばれることをお勧めします。そうしないと難しいです)。
清浄な道の状態
八支がある道はすべての道より素晴らしく、四聖諦の文言はすべての文言より素晴らしく、離欲はすべてのダンマより素晴らしく、ブッダの目がある人はすべての二本足の動物より素晴らしいです。これが清浄な見方への道で、他に道はありません。
みなさん、悪魔が迷う道を歩きなさい。みなさん、その道を歩けば苦を終わらせることができます。
私がみなさんに教えたのは、矢を抜くことを知る道で、みなさんがしなければならない仕事は努力です。すべての如行は(行動の仕方を)教える人にすぎず、ひたすら実践する人は悪魔の捕縛具から脱します。
人が「すべての行は苦」と智慧で見れば、その時その人は当然苦であるものに倦怠します。それが清浄な道です。
人が「すべてのダンマは無我である」と智慧で見れば、その時その人は当然苦である物に倦怠します。それが清浄な道です。
阿羅漢果のための実践次第
比丘のみなさん。私は当然、最初のレベルの行動だけで阿羅漢果の満足に出合うと言いません。比丘のみなさん。しかし阿羅漢果の満足に出合うには、順を追って学習すること、段階的に行動すること、段階的に実践することで当然可能です。
比丘のみなさん。ではどのように段階的に学習し、段階的に行動し、段階的に実践すれば、当然阿羅漢果の満足に出合うでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の人が、
生じた信仰のある人になれば、当然訪ねて行き、
訪ねて行けば、当然近くに座り、
近くに座れば、当然耳を掘って聞き、
耳を掘って聞けば、当然ダンマを聞き、
聞けば、当然ダンマを記憶し、
当然自分が憶えているダンマの要旨を熟慮熟考し、
彼がそのダンマの要旨を熟慮熟考すれば、
すべてのダンマは検証に耐え、
検証に耐えるダンマがあれば、当然満足が生じ、
満足が生じた人は、当然能力があり、
能力があれば当然(真実を探求するために)公正な判断をし、
公正な判断をすれば当然そのダンマを維持し、
自分をそのダンマに追いやる人は当然名身で偉大な真実を明らかにし、
当然その偉大な真実を智慧で洞察します。
著作目次へ | ホームページへ | 次へ |