ブッダヴァチャナによる四聖諦


解説十三 道諦
(29話)





誘い懇願する言葉

 比丘のみなさん。みなさんがするべきヨーガカンマは、

 「これが苦、これが苦を生じさせる原因、

 これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るためです。


 涅槃はもう説明しました。

 涅槃への道もみなさんに説明しました。

 可愛がる教祖が、可愛がることの利益を求めて、

 弟子のみなさんにするべきことは何でも、

 みなさんにしました。


 ほら、木の根本、ほら、空き家。

 みなさん煩悩を燃やす努力をなさい。

 油断をしてはいけません。

 後で苦しむ人になってはいけません。

 これが、私がみなさんに口うるさく教えることです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ サラーヤタナヴァッガ





イ 道の解説について

苦滅道諦の例示

 比丘のみなさん。素晴らしい真実、つまり苦の絶滅に至る道はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。それは八項目からなる素晴らしい道です。すなわち
 正しい見方

 正しい考え

 正しい発言

 正しい業

 正しい生活

 正しい努力

 正しい想起

 正しい専心

 これを素晴らしい真実、つまり苦の絶滅に至る道と言います。

増支部ティカニカーヤ 20巻228頁501項





苦滅道諦の解説

 比丘のみなさん。苦の絶滅に至る道である聖諦はどのようでしょうか。それは八項目からなる素晴らしい道です。八項目とは正しい見方、正しい考え、正しい発言、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しく想い出すこと、正しい心の安定です。

 比丘のみなさん。正しい見方とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の知識、苦が生じる原因に関する知識、苦の消滅の知識、苦の絶滅に至る道の知識です。

 比丘のみなさん。正しい考えはどのようでしょうか。愛欲から出る考え、復讐しない考え、加害しない考え。これを正しい考えと言います。

 比丘のみなさん。正しい発言はどのようでしょうか。比丘のみなさん。虚偽を言うのを避け、仲違いさせる発言を避け、粗暴な言葉を避け、饒舌を避けることです。これを正しい発言と言います。

 比丘のみなさん。正しい業はどのようでしょうか。比丘のみなさん。殺生を避け、所有者が与えない物を所有することを避け、あらゆる性的な間違いを避けることです。これを正しい業と言います。

 比丘のみなさん。正しい生活はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この聖なる弟子(聖人である弟子)は、誤った職業を捨ててしまい、正しい生活で生活します。これを正しい生活と言います。

 比丘のみなさん。正しい努力はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、悪事を生じさせないために当然満足を育て、当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然心を維持し、生じてしまったすべての悪を捨ててしまうために当然満足し、

当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然心を保持し、善を生じさせるために当然満足を育て、当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然心を維持し、生じたすべての善を永続させ、汚さず成長させ、発展させ、完璧にするために当然満足を育て、当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然心を維持します。

 比丘のみなさん。正しい想起とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、普段から体の中の体を熟慮して見る人で、罪を燃やす努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。普段からすべての受の中の受を熟慮して見る人で、罪を燃やす努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。

 普段から心の中の心を熟慮して見る人で、罪を燃やす努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。普段からすべてのダンマの中のダンマを熟慮して見る人で、罪を燃やす努力があり、全身に自覚があり、サティがあり、世界の満足と不満足を出してしまうことができます。比丘のみなさん。これを正しいサティと言います。

 比丘のみなさん。正しい専心はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この宗教の比丘は、すべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタッカとヴィチャーラ(一つの感情について考えること)、ヴィヴェカ(遠離)だけから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心を明るくする物であり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、サマーディから生じた喜悦と幸福しかない二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人であり、サティがあり、全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わいます。その人は当然聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることができ、そして過去の喜びと憂いが消滅して、苦も幸福もなく、あるのは捨で純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこれを正しいサマーディと言います。

 比丘のみなさん。これを、苦の絶滅に至る道である聖諦と言います。

長部マハーヴァッガ 10巻368頁299項





ロ 二つの道の終りについて

中道(八正道)の敵

 比丘のみなさん。出家が関わるべきでない二極に走る物があります。二極に走る物とは何でしょうか。一つは庶民と凡夫の低劣な行動である自分をすべての愛欲に溺れさせることで(愛欲実践)、もう一つは苦行である、自分を苦しめる努力(苦行実践)です。この二つは聖人の物でなく、利益がありません。

 比丘のみなさん。二極に偏らない真ん中(中道)である実践規範は、如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)だけが知った実践規範であり、目を生じさせる実践規範であり、ニャーナ(各レベルに到達したと知ること。智)を生じさせる実践規範であり、静寂、知識、最高の知識、すべてを悟ること、涅槃になります。

 比丘のみなさん。二極に偏らない真ん中(中道)である実践規範はどのようでしょうか。比丘のみなさん。その中道の実践規範は、八項目からなる素晴らしい道である実践規範です。八項目とは何でしょうか。正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

初転輪法経
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻528頁1664項





中道の敵 Ⅱ (中部アラナヴィバンガスッタ) 

解説

 人は、低劣な幸福である、愛欲の喜びを掻き寄せるべきではありません。それは庶民の物、凡夫の物で、聖人の物でなく利益がありません。そして聖人の物でなく、利益がなく、苦をもたらす苦行もするべきではありません。

 二極に走らない中間(中道)である実践規範は、如行だけが大悟した実践規範で、目を生じさせる実践規範であり、ニャーナ(知ること。智)を生じさせる実践規範であり、静謐、最高の知識、すべてを知ること、つまり涅槃になります。

 称賛と追い払うことを知るべきで、知ったらわざと称賛すべきでなく、追い払うべきでなく、ダンマであることだけを述べるべきです。幸福を判断することを知り、知ったら内面の幸福にするべきです。

 言うべきでない悪口を言うべきでなく、言うべきでない捨て台詞を言うべきでなく、口や声が震えるほど早口で話すべきでなく、庶民の言葉を信じるべきでなく、世想(世界の人の言葉)を捨てるべきではありません。これがアラナヴィバンガ(ダンマの敵であるダンマと敵でないダンマを区別すること)です。



解説

 低劣な行動であり、庶民の物、凡夫(心がまだ世俗にある人)の物であり、聖人の物でなく利益がない、愛欲に関わる幸福がある人の喜びがあるダンマはどれも、そのダンマは苦があり、困難があり、心が干乾び、焼き炙りがある誤った道です。(中道の敵)

 低劣な行動であり、庶民の物、凡夫の物であり、聖人の物でなく、利益がない、愛欲に関わる幸福がある人の喜びがないダンマはどれも、そのダンマには苦がなく、困難がなく、心が干乾びず、焼き炙ることのない正しい道です。(中道の敵ではない)

 聖人の物でなく利益がなく、苦の行動である自分を苦しめるダンマはどれも、そのダンマには苦があり、困難があり、心が干乾び、心を焼き炙る誤った道です。(中道の敵)

 苦があり聖人の物でなく、利益がない自分を困らせるダンマがなければ、そのダンマには苦がなく、困難がなく、心が干乾びず、焼き炙ることがない正しい道です。(中道の敵でない)。

 「人は低劣な幸福であり、庶民の物、凡夫の物であり、聖人の物でなく、利益がない愛欲の幸福を掻き寄せてはいけない。そして聖人の物でなく、利益がなく、苦をもたらす苦行をするべきではない」と私が言うのは、今述べた理由からです。

 「これらは如行だけが悟った実践規範であり、目を生じさせる実践規範であり、ニャーナ(知ること。智)を生じさせる実践規範である、どちらか二極に偏らない真ん中の道(中道)である実践規範で、静謐、究極の知識、悟り、涅槃になる」とこのように私が述べるのは、何を意味しているのでしょうか。

 八正道、つまり、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディという意味です。

 比丘のみなさん。この中道はどれでも、如行だけが大悟した実践規範であり、目を生じさせる実践規範であり、ニャーナ(知ること。智」)を生じさせる実践規範であり、静まり、究極の知識、悟り、涅槃になります。そのダンマ(中道)には苦がなく、困難がなく、心が干乾びることがなく、焼き炙ることがない正しい道なので、そのダンマは敵のないダンマと呼ばれます。

中部ウパリバンナーサ 18巻822頁654項





中道の敵Ⅲ (増支部ティカニカーヤ)

 比丘のみなさん。この三種類のパティパダー(道)があります。三つはどのようでしょうか。三つとは濡れた道、焦げた道、真ん中の道です。

 比丘のみなさん。濡れた道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は「すべての愛欲に害はない」と主義する言葉があり、ディッティ(見解。この場合は邪見)があり、その人は当然すべての情欲に溺れています。これを濡れた道と言います。(中道ではない)。

 比丘のみなさん。焦げた道はどのようでしょうか。この場合の人は裸の人(裸行者)で、礼儀作法を棄て、自分の糞を手で拭き取る振る舞いをする人で、「発展した方、是非お出でください」と食事に招待されても、その人の招待を受けない人と見なします。(詳細は非常にたくさんあります。ブッダヴァチャナによるブッダの伝記にあります)。比丘のみなさん。これを焦げた道と言います。(中道ではない)

 比丘のみなさん。中道はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、当然正しい見解に励み、当然正しい考えに励み、当然正しい言葉に励み、当然正しい行動に励み、当然正しい生活に励み、当然正しい努力に励み、当然正しいサティに励み、当然正しいサマーディに励みます。これを中道と言います。

 比丘のみなさん。これが三種類の道です。

増支部ティカニカーヤ 20巻381頁597項

 (濡れた道と焦げた道の二種類は、カーマスカリカーヌヨーガ(欲楽実践)とアッタキラマターヌヨーガ(苦行実践)で名前は違いますが、違うのは呼び方だけで、意味は同じです。どちらもマッジマパティパダー(中道)の反対なので、ここで中道の敵として述べられています)。




欲楽実践の別の状態

 バラモンさん。この場合のサマナ・バラモンと自称するある人は、自分は正しい梵行者だと宣言し、女性と性交をしないのは事実ですが、女性に付ききりで撫でたり揉んだり叩いたり浴びせたり、体を拭いてもらったりするのを喜びます。このように女性に侍られると、彼は喜びでゾクゾクします。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交に関わっている、と私は言います。

 ある人は女性と性交をせず、そして女性に撫でたり揉んだり叩いたりされるのを喜びませんが、彼はまだ、女性とヒソヒソ話をしたり、からかってふざけ合うのをゾクゾクするほど喜びます。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交に関わっている、と私は言います。

 ある人は女性と性交をせず、そして女性に撫でたり揉んだり叩くなどの奉仕されるのを喜ばず、女性とヒソヒソ話をしたり、からかってふざけ合うのを喜びませんが、まだ女性と目を合わせたり、そのようなことをゾクゾクするほど喜びます。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交に関わっている、と私は言います。

 ある人は女性と性交をせず、そして女性に撫でたり揉んだり叩くなどの奉仕をされるのを喜ばず、女性とヒソヒソ話をしたり、からかってふざけあうのを喜ばず、女性と目を合わせることも喜びませんが、笑い声でも話し声でも、歌声でも泣き声でも、壁の外でも塀の外でも、女性の声を聞くのが好きで、声を聞くのをゾクゾクするほど喜びます。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっている、と私は言います。

 ある人は女性と性交をせず、そして女性に撫でたり揉んだり叩くなどの奉仕をされるのを喜ばず、女性をからかってふざけるのを喜ばず、女性と目を合わせることを喜ばず、女性の声を聞くことを喜ばず、過去に女性とふざけ合い笑い合ったことを思い出すのを喜びませんが、

長者や長者の息子たちが女性を侍らせて五欲で満たされているのを見ると、彼はゾクゾクするほど喜びます。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっている、と私は言います。

 ある人は、女性と性交をせず、そして女性から撫でたり揉んだり叩くなどの奉仕を受けるのを喜ばず、女性をからかってふざけるのを喜ばず、女性と目を合わせることを喜ばず、女性の声を聞くことを喜ばず、かつて女性とふざけ合い笑い合ったことを思い出すのを喜ばず、長者や長者の息子たちが五欲で満たされているのを見て非常に喜びませんが、

「この戒、この勤め、この苦行、あるいはこの梵行で私は天人の一人になる」と誓願し、何らかの天人に生まれることを望んで梵行をしています。この人の梵行は純潔でなく、まだ性交と関わっていると私は言います。

 (この七つの行動を、一般にメートゥンサンニョーガ=愛欲偶合と言いますが、カーマスカリカーヌヨーガ=欲楽実践の状態があるので、ここに入れます)。

増支部サッタカニバータ 23巻56頁47項





「五欲」と「性の幸福」と呼ぶもの

 アーナンダ。この五つの欲があります。五つはどのようでしょうか。五つは、非常に好ましい物であり、愛欲する物であり、満足でき、可愛い状態があり、欲望の住処であり、愛欲の基盤である目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で感じる接触です。これを五欲と言います。

 アーナンダ。五欲に依存して生じるどんな喜びも、カーマ(愛欲)の喜び(カーマスッカ)と言います。

中部ムーラバンナーサ 13巻96頁100項

 (愛欲の喜びに濡れていることをカーマスカリカと言い、カーマスカリカの中にいることをカーマスカリカーヌヨーガと言い、中道の敵側である一極とします)。





二種類の幸福実践

1. 誤った見解による幸福実践

 ジュンダさん。他の教義の出家者がみなさんに「サーカヤプッティ(サカヤ族の息子)のサマナたちは、この四種類の幸福実践(スカリカーヌヨーガ)で暮らす」と言う人がいるかもしれません。ジュンダさん。他の教義の出家者がこのように言ったら、みなさんは彼らに「先輩。どの幸福実践ですか。幸福実践には何種類も、幾つもあります」と言うべきです。

  ジュンダさん。この四種類の幸福実践は下賎な行動で、庶民の物、凡夫の物で、聖人の物でなく、利益がなく、倦怠、欲情の弛緩にならず、滅、静まりのためにならず、知り尽すこと、すべてを悟ることのためにならず、涅槃のためになりません。四つはどのようでしょうか。四つとは、この場合の人は下賎な人で、生き物を殺して自分を満足ゆくまで幸福にします。これが幸福実践の一つ目です。

 ジュンダさん。まだあります。この世界のある人は、所有者が与えていない物を所有して、自分を心ゆくまで幸福にします。これはの二つ目です。

 ジュンダさん。まだあります。この場合の人は嘘を言って自分を満足するまで幸福にします。これが幸福実践の三つ目です。

 ジュンダさん。まだあります。この場合の人は他人に奉仕させて五欲で十分満たされます。これが幸福実践の四番目です。


2.正しい見解の幸福実践

 ジュンダさん。他の教義の出家者が、みなさんに「サキヤプッティのサマナたちは、その四種類のスカリカーヌヨーガ(幸福実践)で暮らしているに違いない」と言う人がいるかもしれません。ジュンダさん。みなさんは彼らに、そうではないと言うべきです。それらの出家者はみなさんに正しく言わず、事実ではない言葉を言います。

 ジュンダさん。この四種類の幸福実践は倦怠、愛欲の弛緩のためになり、滅、鎮静のためになり、最高の知識、すべてを知ること、特に涅槃のためになります。

 どの四種類でしょうか。ジュンダさん。四種類とは、この場合の比丘は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じる喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが幸福実践の一番です。

 ジュンダさん。まだあります。比丘はヴィタッカとヴィチャーラが静まって、心の内面を明るくするものであり、一つの感情だけのサマーディを生じさせ、ヴィタッカとヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。これが幸福実践の二番目です、ジュンダさん。

 まだあります。比丘は喜悦が薄れることで捨にいて、サティと自覚があり、そして当然名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが幸福実践の三番目です。

 ジュンダさん。まだあります。比丘は幸福と苦を捨てることができることで、過去のすべての喜びが薄れて、苦も喜びもなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常のその感覚の中にいます。これが幸福実践の四番目です。

 ジュンダさん。これが幸福実践の四種類です。これらは一方的に倦怠、愛欲の弛緩のためになり、滅、鎮静のためになり、最高の知識、すべてを知ること、涅槃のためになります。

 ジュンダさん。これはあることです。つまりすべて他の教義の出家僧が「サキャ族の息子のサマナたちは、この四種類の幸福実践で暮らす」と言うことです。みなさんは彼らに「それは正しい。それらの出家者は正しく言っている」と言わなければなりません。そうすればそれらの出家者が、みなさんに事実でない言いがかりを言うことはありません。


正しい見解の幸福実践の結果

 ジュンダさん。いろんな教義の出家者が、みなさんに「先輩。あなたが四つの幸福実践をしている時、あなたはどんな結果を望み、どんな功徳を望んでいるのですか」と言うかもしれません。

 彼らがこのように言ったら、あなたは「先輩。私たちがこの四つの幸福実践をする時は、四つの功徳を望んでいます。四つは何でしょうか。この場合の四つは、比丘はサンヨージャナ(動物を輪廻に結びつける煩悩。結)の三つがなくなって、当然落ちることがなく、将来確実に悟る涅槃が確実な人、預流になります。これが一つ目の結果であり功徳です。

 先輩。まだあります。比丘はサンヨージャナの三つがなくなり、そして貪りと怒りと愚かさが薄い自然になることで、この世界に一度だけ戻ってきて苦を終わらせる一来になります。これが二つ目の結果であり功徳です。先輩。まだあります。比丘は初等のサンヨージャナ五つがなくなって、その有で般涅槃して、当然その世界から戻って来ない不還になります。これが三つ目の結果であり功徳です。

 先輩。まだあります。比丘は、すべての漏がなくなったので漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。これが四つ目の結果であり功徳です。先輩。私たちはみな、この四つの結果を望んで四種類の幸福実践をします」と、このように答えなければなりません。

長部パーティヴァッガ 11巻143頁114項


 (学習者はカーマスカリカーヌヨーガ=欲楽実践と、スカリカーヌヨーガ=幸福実践という言葉が同じでないこと、そしてカーマスカリカーヌヨーガは愛欲から生じる幸福だけを意味するのに対して、スカリカーヌヨーガは罪人の幸福も、性を享受する人の幸福も、禅定やサマーディから生じる幸福も含めることができるので、幸福実践の方が愛欲実践より、少なくとも意味が三倍広いことを観察しなければなりません)。




苦行による厭離は生木の丸太で海を渡るよう

 「猊下。二つのダンマの実践規範である、シーラヴィスッティ(戒に汚れがないこと。戒清浄)とタポジグッチャ(苦行で罪を遮る教え)でオガ(衆生の心の暴流のような状態)を引き抜く規定をするサマナ・バラモンがいます。世尊はこれを何と言われますか」。

 サーラハさん。私は、戒清浄はサマナの実践規範の一つと言います。タポジグッチャ(苦行で罪を遮る教え)のサマナ・バラモンは、タポジグッチャが主旨であり、タポジグッチャと付き合って夢中になっているので、オガ(衆生の心の暴流のような状態)を引き抜くにふさわしくない人たちです。

 純潔でない身の振る舞いがあり、純潔でない発言があり、純潔でない心の振る舞いがあり、純潔でない生業があるサマナ・バラモンも、ニャーナダッサナ(知ること見ること。智見)と最高の悟りにふさわしくありません。

 サーラハさん。海を渡ろうとする人が斧を持って森へ行き、太くて真っ直ぐで疵一つない若いサラの木を見つけ、その木を根元から切り倒し、先端を切り落とし、枝を払って葉を落とし、それから斧で削ぎ、刀で削ぎ、カンナで削り、丸い石でツルツルに磨き、それから水に浮かべたら、サーラハさん。あなたはこれをどう思いますか。その人は海を渡ることができますか。

 「いいえできません。猊下」。

 なぜですか。

 「猊下。そのサラの丸太は、正しく準備したのは外面だけで、内部は(舟にするには)正しくないので、その人が期待できるのは、サラの木が沈んで破滅することだけです。猊下」。

 サーラハさん。これも同じです。苦行で罪を遮るサマナ・バラモンも、オガ(衆生の心の暴流のような状態)を引く抜くことはできず、純潔でない振る舞いがある人たちも、ニャーナダッサナ(智見)にふさわしくなく、そしてアヌッタラサンボーディ(無上菩提)にふさわしくありません。

 (その後、反対の意味の話をされています。読者は自分で比較対照できます)。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻271頁196項


 


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