すべてのレベルの幸福に関わらない

1 恐れるべき幸福

 ウダージさん。これらの五欲があります。五種類はどのようでしょうか。五種類とは、愛らしく、満足すべき、望ましく、可愛いい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で感じるすべての形、耳で感じるすべての声、鼻で感じるすべての臭い、舌で感じるすべての味、体で感じるすべての接触です。ウダージさん。これらが五欲です。

 ウダージさん。これらの五欲に依存して生じるどんな喜びも、私は愛欲の幸福、尿道など不潔な物から生じる幸福(ミラハスッカ)、凡夫の幸福、アリヤでない(素晴らしくない)幸福と呼びます。その幸福は味わうべきべきでなく、あるべきでなく、増やすべきでなく、恐れるべきと言います。

2 恐れるべきでない幸福

 ウダージさん。この場合の比丘は、愛欲が静まり悪が静まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ考察)と、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)スッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで、心の内部を明るくする物であり、一つだけの感情のあるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして絶えずその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れると当然捨にいて、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり、幸福だ」と言われる三禅に達し、絶えずその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消えることで、苦も幸福もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 私はこれを出離の幸福、遠離の幸福、寂静の幸福、菩提の幸福と言います。その幸福は、人が味わうべき、励むべき、増やすべき幸福で、そして恐れるべきでないと言います。

3 まだ揺れる幸福と、揺れない幸福

 ウダージさん。この場合の比丘は、愛欲が静まり、悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。ウダージさん。私は、この初禅はまだ動揺の領域にあると言います。

 初禅の何が動揺の領域にあるのでしょうか。初禅のヴィタッカとヴィチャーラがまだ滅していないからです。そのヴィタッカとヴィチャーラは、初禅の動揺の領域にあるものです。

 ウダージさん。この場合の比丘は、ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで、心の内部を明るくするものであり、一つだけの感情であるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 ウダージさん。私は、この二禅も動揺の領域にあると言います。二禅の何が動揺の領域にあるのでしょうか。まだ消滅していない二禅の喜悦と幸福があり、その喜悦と幸福は二禅の動揺の領域にある物だからです。

 ウダージさん。この場合の比丘は、喜悦が薄れることで当然捨にいて、常自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり普段から幸福だ」と言われる三禅に達し、常にその感覚の中にいます。

 ウダージさん。私は、この三禅も動揺の領域にあると言います。その三禅の何が同様の領域にあるのでしょうか。まだ消滅していない三禅の捨があり、その捨は三禅の動揺の領域にある物だからです。

 ウダージさん。この場合の比丘はスッカを捨ててしまい、苦を捨ててしまい、過去の喜びと憂いのどちらも滅したことで、苦も幸福もない、捨による純粋な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。ウダージさん。私は、この四禅は動揺の領域ではないと言います。

4 形禅定と無形禅定に関わることを捨てる

 ウダージさん。この場合の比丘は、愛欲が静まり悪が静まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。ウダージさん。私は、この初禅は然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。それでは何がその初禅を越えることでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まることで、心の内部を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 これが初禅を越えることです。ウダージさん。私は、この二禅も然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。何がその二禅を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、喜悦が薄れることで当然捨にいて、自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり自覚があり、正常な幸福だ」と言われる三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。これがその二禅を越えることです。

 ウダージさん。私は、この三禅も然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。何がその三禅を越えることでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、幸福を捨ててしまい、苦を捨ててしまい、過去の喜びと憂いのどちらも消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これがその三禅を越えることです。

 ウダージさん。私は、この四禅も然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。では何が四禅を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、すべての形想を越えることで、すべての瞋恚想が消滅することで、すべてのいろんな想に気を留めないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが四禅を越えることです。

 ウダージさん。私はその空無辺処も、然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。では何がその空無辺処を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、空無辺処をすべて越えてしまうことで、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが空無辺処を越えることです。ウダージさん。私はその識無辺処も、然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。では何がその識無辺処を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、識無辺処をすべて越えることで、心の中を「無」にする無所有処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが識無辺処を越えることです。私はその無所有処も、然るべき(満足する)ものではないと言います。私は捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。それでは何がその無所有処を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、無所有処をすべて越えることで、非想非非想処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。ウダージさん。私はその非想非非想処も、然るべき(満足する)ものではないと言います。私は、捨ててしまいなさい、越えてしまいなさいと言います。それでは何が非想非非想処を越えることなのでしょうか。

 ウダージさん。この場合の比丘は、非想非非想処をすべて越えることで想受滅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが非想非非想処を越えることです。

 ウダージさん。このように、私は非想非非想処でさえ捨てる話をします。ウダージさん。私が大小のサンヨージャナ(結)を捨てなければならないと言っていないと見えますか。

 「いいえ、それはありません。猊下」。

中部マッジマバンナーサ 13巻189頁182項





その見の感情の随観智で見を捨てる

 ジュンダさん。すべてのディッティ(見解)は、自分という考えだけに関わるもの、世界という考えに関わるものなど、世界にいろいろ生まれます。

 それらの見解がどんな感情に生じても、そしてどんな感情の中に眠っていても、人が「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と正しい智慧で真実のままに見ていれば、このような状態でその見解を捨てることは、それらの見解を返却することです。

中部ムーラパンナーサ 12巻72頁101項





五想の感情に執着が無ければ、七随眠は崩壊する

 比丘のみなさん。遅らせる物である各種のサンニャー(繰り返されて随眠になった思い込み。想)は、何らかの感情が原因で人を包囲します。

 その感情である何らかの物が、(どんな原因であろうと)その人が夢中になって褒めちぎって惑溺するためになければ、それがラーガヌサヤ(貪随眠)の終り、パティガヌサヤ(瞋恚随眠)の終り、ディッティヌサヤ(見随眠)の終り、ヴィチキッチャーヌサヤ(疑随眠)の終り、マーナヌサヤ(慢随眠)の終り、バヴァラーガーヌサヤ(有貪随眠)の終り、アヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)の終りです。

中部ムーラパンナーサ 12巻222頁245項

 (この場合の想は記憶だけでなく、幸想は幸福という思い込み、自我想は自分という思い込みなどの思い込みで、取によって生じれば、その時は当然眠が生じ、そしてその度に随眠(習性)が増えるので、滅苦にとって遅れ、あるいは困難をを生じさせます)。





涅槃を明らかにする縁の順

 比丘のみなさん。比丘が喜びの源である集団と交らず、集団と交わることを喜ばず、集団に交わる喜びがなく、喜びの源である団体と交わらず、団体と交わることを喜ばず、団体と交わる喜びがなければ、パヴィヴェーカ(最高に静かなこと)を非常に喜ぶ、孤独な人になることは、あり得ます。

 パヴィヴェーカを非常に喜ぶ孤独な人になれば、心がそのようなニミッタ(相)を掴むことはあり得ます。

 心がそのようになるニミッタ(相)を掴めば、正しい見解を完璧にすることはあり得ることで、

正しい見解を完璧にすれば、正しいサマーディを完璧にすることはあり得ることで、

正しいサマーディを完璧にすれば、すべてのサンヨージャナ(結)を捨てることはあり得ることで、

すべての結を捨てることができれば、涅槃を明らかにすることはあり得ることです。

 増支部チャッカニバータ 22巻272頁239項





解脱を最高に熟させる方法

 メギヤさん。五つすべてのダンマは、まだ完全に熟していないチェトーヴィムッティ(心解脱)を熟させます。五つとは何でしょうか。五つとは、

1.メギヤさん。この場合の比丘は、善友、善い友達、善い仲間がいる人です。メギヤさん。これが、まだ熟していない心解脱を熟させるダンマの一つです。

2.メギヤさん。まだあります。比丘は戒のある人で、パーティモッガ(二二七)戒に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(よくいく場所)が完璧で、小さなことでも、平素からすべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守します。メギヤさん。これがまだ熟心解脱を熟させる二つ目のダンマです。

3.メギヤさん。まだあります。比丘は、愚かさや煩悩を研き落とす物であり、心をすっきりさせる物であるダンマの解説である、望みを減らす話、群れから離れる話、静かにする話、集団に交わらない話、努力を始める話、戒を持つ話、サマーディにする話、智慧を生じさせる話、解脱を生じさせる話、解脱智見を生じさせる話を、望みどおりに、簡単に、難しくなく手に入れる人です。

 メギヤさん。これが、まだ熟していない心解脱を熟させる三つめのダンマです。

4.メギヤさん。まだあります。比丘はすべての悪を捨て、すべての善を生じさせるために、始めた努力がある人で、力があり、どんな苦労も乗り越える人で、すべての善である仕事を投げ出しません。メギヤさん。これが、まだ熟していない心解脱を熟させる四つ目のダンマです。

5.メギヤさん。まだあります。比丘は智慧がある人で、アリヤ(聖人のもの)であり、煩悩を攻撃して正しく苦を終わらせる道具である「発生」と「維持できないこと」の真実に至る智慧があります。メギヤさん。これが、まだ熟していない心解脱を熟させる、五つ目のダンマです。

 メギヤさん。比丘が善い友人、善友、善い仲間を持っている人なら、その後期待できるのは、戒がある人で……、ダンマの解説を簡単に手に入る人で……、努力を始める人で、智慧のある人になることです。

 メギヤさん。その比丘はこの五つのダンマを維持し、更に四つのダンマに励むべきです。つまり、

貪りを捨てるためにアスバ(不浄)に励み、

復讐心を捨てるためにメッター(慈)に励み、

ヴィタッカ(何らかの縁を考えること)を断つためにアーナーパーナサティに励み、

アスミマーナ(我慢)を抜くためにアニッチャサンニャー(無常想)に励みます。

 無常想に励めば、当然無我想も盤石になり、無我想のある人は当然アスミマーナを抜くことである、涅槃に現生で到達します。

増支部ナヴァカニバータ 23巻369頁207項

 (この実践方法は、解脱し始めた人でも使うことができ、解脱していてもまだ全部ではない人も使うことができます。つまりこれらと同じ名前の実践を発展させます。これは興味を持つべき非常に重要な実践原則と見なします。

 この経で「解脱を熟させる物」と呼んでいる五つのダンマを、他の経:増支部ナヴァカニバータ 23巻364頁205項では、「菩提分に励む基盤」と呼んでいます)。





アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧

 比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティに励み、どのようにたくさんすれば四念処を完璧にできるでしょうか。


カーヤーヌパッサナーの部

 比丘のみなさん。いつでも、

①比丘が長く息を吸った時は、私は長く息を吸ったと、このように遍く自覚し、長く息を吐いた時は、私は長く息を吐いたと遍く自覚するのでも、

②短く息を吸った時は、私は短く息を吸ったと遍く自覚し、あるいは短く息を吐いた時は、私は短く息を吐いたと遍く自覚するのでも、

③当然、すべての体を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然、すべての体を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

④当然、カーヤサンカーラ(体を作る物。つまり呼吸)を静める人になることを課題にして息を吸い、当然カーヤサンカーラを静めている人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。その時その比丘は、常に体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。


ヴェーダーヌパッサナーの部

 比丘のみなさん。比丘が、

①当然喜悦を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

②当然幸福を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然幸福を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

③当然チッタサンカーラ(心を作る物、つまり受と想)を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然チッタサンカーラを知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

④当然チッタサンカーラを静めた人になることを課題にして息を吸い、当然チッタサンカーラを静めた人になることを課題にして息を吐いている時、このようにする時はいつでも、

 比丘のみなさん。その時その比丘は、常にすべてのヴェーダナー(受)の中のヴェーダナー(受)が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。すべての呼吸に対応して心の中を良くすることことを、私は、すべてのヴェーダナーの中の一つ一つのヴェーダナーと呼びます。比丘のみなさん。だからその比丘は、常にすべてのヴェーダナーの中のヴェーダナーが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。


チッターヌパッサナーの部

 比丘のみなさん。比丘が

①当然心を熟知した人になることを課題にして息を吸い、当然心を知悉した人になることを課題にして息を吐き、

②当然心を喜ばす人になることを課題にして息を吸い、当然心を喜ばす人になることを課題にして息を吐き、

③当然心が盤石な人になることを課題にして息を吸い、当然心が盤石な人になることを課題にして息を吐き、

④当然心を開放した人になることを課題にして息を吸い、当然心を解放した人になることを課題にして息を吐いている時はいつでも、比丘のみなさん。その時その比丘は常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼びます。

 比丘のみなさん。私は、アーナーパーナサティは忘れ去られたサティのある人、自覚のない人にあると言いません。比丘のみなさん。だからその比丘は、常に心の中が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。


ダンマーヌパッサナーの部

 比丘のみなさん。比丘が

①当然、常に無常が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に無常が見える人になることを課題にして息を吐き、

②当然、常に薄れることが見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に薄れることが見える人になることを課題にして息を吐き、

③当然、常に消滅が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に薄れることが見える人になることを課題にして息を吐き、

④当然、常に返却が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吐く時はいつでも、

 比丘のみなさん。その時その比丘は常にすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼びます。

 比丘のみなさん。その比丘は自分の喜びと憂いを捨てることが智慧で見えるので、良く注目できる人です。比丘のみなさん。だからこれは、その比丘は当然常にすべてのダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、その時世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んで、このようにたくさんすれば、四念処を完璧にできたと言われます。

中部ウパリバンナーサ 14巻195頁289項





四念処が完璧なら七覚支も完璧

 比丘のみなさん。人がどのように四念処に励んで、どのようにたくさんすれば、七覚支が完璧になるでしょうか。


七覚支のカーヤーヌパッサナーの(身随観)部

 比丘のみなさん。比丘が常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人なら、その時それを維持している比丘のサティは、忘れていない自然です。

 比丘のみなさん。維持することができる比丘のサティが忘れていない自然である時、その時七覚支のサティも、その比丘は始めているということです。その時その比丘は、当然七覚支のサティに励んでいると言われ、その比丘の七覚支のサティは、発展に達したと言われます。

 比丘がそのようにサティのある人なら、当然そのダンマを智慧で選択し、当然選び出し、当然熟慮します。比丘のみなさん。その時その比丘は七覚支の択法も始めたということです。その時その比丘は、当然七覚支の択法に励んでいると言われ、その比丘の七覚支の択法は、発展に達したと言われます。

 その比丘がそのダンマを選択して智慧で熟慮すれば、弛まぬ努力はその比丘が始めたダンマと言われます。比丘のみなさん。その時そのダンマを智慧で熟慮し選択した比丘が弛まぬ努力を始めれば、その比丘はその時七覚支の択法も始めたということです。その時比丘は、当然七覚支の択法に励むと言われ、その比丘の七覚支の択法は、発展に達したと言われます。

 その比丘が努力を始めれば、餌がない喜悦が生じます。比丘のみなさん。その時努力を始めた比丘にアーミサのない(肉体的でない)喜悦が生じれば、その時七覚支の喜悦も始めたということです。その時比丘は、当然七覚支の喜悦に励むと言われ、その時その比丘の七覚支の喜悦は、発展に達したと言われます。

 その比丘は体が静まって幸福で、心は当然安定しています。比丘のみなさん。その時体が静まって幸福な比丘の心は、当然安定しています。その時その比丘は七覚支のサマーディを始めているということです。その時比丘は、当然七覚支のサマーディに励むと言われ、その時七覚支のサマーディは、発展に達したと言われます。

 その比丘は、当然そのように安定した心だけに良く注目する人です。比丘のみなさん。比丘がそのように安定した心だけに良く注目している時、その時七覚支の捨も、その比丘は始めているということです。その時七覚支の捨も当然励んでいると言われ、その時その比丘の七覚支の捨は、発展に達したと言われます。


七覚支のヴェーダナーヌパッサナー(受随観)の部


 比丘のみなさん。比丘がすべてのヴェーダナー(受)の中のヴェーダナー(受)が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人である時、その時維持している比丘のサティは忘れていない自然です。

 その時その比丘は、七覚支のサティも始めているということです。その時比丘は、当然七覚支のサティに励んでいると言われ、その時その比丘の七覚支のサティは、発展に達したと言われます。

 その比丘にこのようなサティがあれば、当然智慧でダンマを選択し、選び熟慮熟考します。

 (この後、七覚支の体の部と同じ内容が終りまであります)。


七覚支のチッターヌパッサナー(心随観)の部

 比丘のみなさん。比丘が常に心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、喜びと憂いを出してしまえる人なら、その時それを維持できる比丘のサティは、忘れていない自然です。

 比丘のみなさん。維持している比丘のサティが忘れていない自然である時はいつでも、その時七覚支のサティも、その比丘は始めているということです。その時比丘は、当然七覚支のサティに励むと言われ、その時その比丘の七覚支のサティは、発展に達したと言われます。

 その比丘にそのようなサティがあれば、当然そのダンマを智慧で選び、選択し、熟慮熟考します。

 (この後、七覚支の体の部と同じ内容が終りまであります)。


七覚支のダンマーヌパッサナー(法随観)の部

 比丘のみなさん。比丘が常にすべてのダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、喜びと憂いを出してしまえる人なら、その時それを維持できている比丘のサティは、忘れていない自然です。

 比丘のみなさん。維持している比丘のサティが忘れていない自然であれば、その比丘は七覚支のサティも始めているということです。その時比丘は、当然七覚支のサティに励むと言われ、その時比丘の七覚支のサティは、発展に達したと言われます。

 その比丘にそのようなサティがあれば、当然そのダンマを智慧で選び、選択し、熟慮熟考します。

 (この後、七覚支の体の部と同じ内容が終りまであります)。

中部ウパリバンナーサ 14巻197頁290項





完璧な明と解脱は七覚支が完璧だから

 比丘のみなさん。人がどのように七覚支に励み、どのようにたくさんしたら、明と解脱が完璧になるでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して手放すことに傾く七覚支のサティに励み、当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して手放すことに傾く七覚支の択法に励み、当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して、手放すことに傾く七覚支の精進に励み、

当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して放棄に傾く七覚支の喜悦に励み、当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して放棄に傾く七覚支の軽安に励み、当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して放棄に傾く七覚支のサマーディに励み、当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存して手放すことに傾く七覚支の捨に励みます。

 比丘のみなさん。人がこのように七覚支に励んで、このようにたくさんすれば、明と解脱を完璧にすると言われます。

中部ウパリバンナーサ 14巻201頁291項





滅諦

 比丘のみなさん。素晴らしい真実である苦の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。無明が薄れて消滅することでサンカーラ(行)が消滅し、行が消滅することでヴィンニャーナ(識)が消滅し、識が消滅することで、ナーマルーパ(名形)が消滅し、名形が消滅することでサラーヤタナ(六処)が消滅し、六処が消滅することで、バッサ(触)が消滅し、

触が消滅することでヴェーダナー(受)が消滅し、受が消滅することでタンハー(欲望)が消滅し、欲望が消滅することでウパダーナ(取)が消滅し、取が消滅することでバヴァ(有)が消滅し、有が消滅することでジャーティ(生)が消滅し、生が消滅することで老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 苦の山の消滅は当然このようにあります。比丘のみなさん。私はこれを、素晴らしい真実である苦の消滅と言います。

増支部ティカニバータ 20巻227頁501項





滅諦は明らかにすべきもの

 比丘のみなさん。これらの四つの聖諦は、どの四つでしょうか。四つとは、苦諦、集諦、滅諦、道諦です。比丘のみなさん。これらが四つの聖諦です。

 比丘のみなさん。この四聖諦の中に誰もが知るべき真実があり、誰もが捨てるべき真実があり、誰もが明らかにするべき真実があります。比丘のみなさん。誰もが良く知るべき真実は苦の真実で、誰もが捨てるべき真実は苦の原因である真実で、誰もが明らかにするべき真実は苦の消滅である真実です。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「苦はこのよう」「苦の原因はこのよう」「苦の消滅はこのよう」と、真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1709項


 


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