欲貪、形貪、無形貪を捨てる縁を限定する段階
比丘のみなさん。その比丘はね、悪友、善くない友人、悪い友達がいる人で、悪たちと付き合い、交際して交わり、そしてそれらの人物の考え方(見趣)を守れば、増上行儀(アビサマーチャーリカダンマ)を完璧にする行動はあり得ません。
増上行儀を完璧にしなければ、増上学(学習すべき更に上のダンマ)を完璧にすることはあり得ず、増上学を完璧にしなければ、すべての戒を完璧にすることはあり得ず、すべての戒を完璧にしなければ、欲貪、あるいは形貪、あるいは無形貪を捨てることはあり得ません。
比丘のみなさん。その比丘が善友、善い友人、善い友達のいる人で、善友と付き合い、交際して交わり、そしてそれらの人物の考え方(見趣)を守れば、増上行儀を完璧にすることができます。増上行儀を完璧にすれば増上学を完璧にすることができ、増上学を完璧にすればすべての戒を完璧にすることができ、すべての戒を完璧にすれば、欲貪、あるいは形貪、あるいは無形貪を捨てることができます。
(学習者は、増上行儀は一般の善人が家庭の中、友人間、一般社会で実践する行儀、あるいは勤めであることを観察して見なければなりません。これは高いレベルのダンマに到達する実践において、小さなことではありません。簡単に言えば学習者であることのふさわしさを生じさせる行動です。まず初めに、自分の増上行儀を可能な限り良く拭き清めてしまってください)。
結びつける物に迷わないことで貪・瞋・痴を捨てられる
比丘のみなさん。この二つのダンマがあります。二つはどのようでしょうか。二つとはすべてのサンニョージャニヤダンマ(輪廻に結び付ける物。結)を喜ばしい物と見ることと、すべての結ぶ物を飽き飽きする物と見ることです。
比丘のみなさん。すべてのサンニョージャニヤダンマを喜ぶべき物と見る人は、当然貪りと怒りと愚かさを捨てることができず、貪りと怒りと愚かさを捨てることができないので、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱できません。私は、当然苦から解脱しないと言います。
比丘のみなさん。すべてのサンニョージャニヤダンマを飽き飽きする物と見る人は、当然貪りと怒りと愚かさを捨てることができ、貪りと怒りと愚かさを捨てられるので、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから解脱します。私は当然苦から解脱すると言います。
比丘のみなさん。これが二つのダンマです。
自分が終わり、世界が終わる状態
「猊下、。私は年寄で長い歳月を重ねてきた老人です。猊下、。どうぞ簡略なダンマを説いてください。私をスガタ様の金言の継承者として、世尊の金言の意味を洩らさず知ることができるダンマを、どうぞ簡略に説いてください」。
マールンキヤプッタさん。あなたはこれをどう思いますか。目で感じることができるすべての形はあなたが見ていない形、見たことがない形であり、あなたが今見ている形もなく、あなたが見るべきと考える形もなければ、それらの形の満足でも欲情による愛でも、当然あなたにあると思いますか。
「ありません、猊下、」。
(続いて、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で感じる接触、心で知る想念の場合の質問と答えが話されています)。
マールンキヤプッタさん。あなたが見るべき物、聞くべき物、感じるべき物、明らかに知るべきすべての物は、
見たものは、見ただけ、
聞いたのは聞いただけ、
(鼻、舌、体で)感じたものは感じただけ、
(識で)明らかに知ったものは、明らかに知っただけです。
マールンキヤプッタさん。それらのダンマが見た時はいつでも、見た物は見ただけ、聞いた物は聞いただけ、感じた物は感じただけ、明らかに知った物は明らかに知っただけにすれば、マールンキヤプッタさん。そのようなら、その時あなたは当然いません。
マールンキヤプッタさん。その理由であなたがいなければ、その時あなたはそこにいません。
マールンキヤプッタさん。そこにあなたがいなければ、その時あなたはこの世界にも、別の世界にも、二つの世界の間にもいないので、それが苦の終りです。
「猊下。私は世尊がお話になった金言の意味を、次のように隅から隅まで詳細に知りました。
形を見てサティが忘れられると、心の中を可愛いルーパニミッタ(形相)にし、心が強く欲情してその感情を味わい、当然虜になることがその人を支配する。その人のいろんな形から生じる受は当然成長し、貪りと加虐は当然その人の心を包囲する。このように苦を掻き集めれば、猊下は、まだ涅槃から遠いと言われる。
(声を聞く場合、臭いを嗅ぐ場合、味を味わう場合、体で接触をする場合、心で想念を感じる場合についても、同様に述べています)。
その人がすべての形に欲情することなく、形を見たら形を見るサティがあり、心が欲情しないで感情を味わわなければ、虜になることはその人を支配しない。その人が形を真実のままに見る受を味わっていれば、苦は終わっていき、増えない。サティを維持してこのように行動し、このように苦を掻き集めなければ、猊下は涅槃の近くにいると言われる。
(声を聞く、臭いを嗅ぐ、味を味わう、体で接触をする、心で想念を感じる場合についても、同様に述べています)。
猊下。私は世尊がお話しくださった金言を、このように詳細に、洩らさず知りました」。
世尊は「その内容は正しい」と容認され、マールンキヤプッタ氏は静かな場所に隠遁して努力し、この宗教の阿羅漢の一人になりました。
煩悩を終わらせよう。どれだけと知る必要はない
比丘のみなさん。指の跡、あるいは親指の跡は、当然大工や大工の助手の道具の柄に現れますが、彼らは自分の道具の柄が今日これだけ擦り減った、別の日にはこれだけ擦り減ったと知りません。多分擦り減っていることだけは知っています。
同じように比丘のみなさん。バーヴァナー(望みに向かって努力すること)のある比丘は、今日自分の漏がこれだけなくなった、昨日はこれだけなくなった、別の日はこれだけなくなったと知りませんが、消滅する時には消滅するとだけ知っています。
サンニョージャナが、寿命が尽きた籐のようになれば
比丘のみなさん。半年の間ずっと水に浸かっていた籐蔓で縛ってある船を、彼らは冬の間陸に上げ、風と陽に曝して霧で湿らせると、縛っていた藤蔓がボロボロになって、簡単に崩れます。同じように、比丘のみなさん。比丘が望みに向かって努力(バーヴァナー)していれば、(風と日差しに曝してある藤蔓のような)すべてのサンニョージャナ(輪廻に結び付ける物。結)は、当然静められて最後にはなくなります。
(ブッダの故郷はインドの北部で、地図で見ると海に関わる機会はありませんが、海を航海する船についてご存知であり、国王レベルの人でも、たとえば海を航海する藤蔓で結わえたイカダ船が、季節が終わると寿命が尽きて壊れるなど、庶民の些細なことを知っておられた点を観察するべきです。ブッダになるにふさわしい知性の生まれである証です)。
卵が孵るのは母鶏の意志でではない
比丘のみなさん。比丘がバーヴァナーに励んでいれば、彼が「私の心よ、取がなくなって漏から解脱せよ!」と望まなくても、彼の心は当然取がなくなって確実に漏から解脱します。それはなぜでしょうか。彼は四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道に励むからです。
比丘のみなさん。雌鶏が良く抱き、良く向きを変え、良く温めている八個、十個、あるいは十二個の卵は、雌鶏が「私の卵よ、蹴爪で卵の殻を割って、嘴を伸ばして無事に出ておいで」と望まなくても、それらの卵は確実に蹴爪で殻を割って、嘴を伸ばして無事に出ることができるのと同じです。
実践の結果の高さの違い
比丘のみなさん。サーミサのある(肉体的な)ピーティ(喜悦)もあり、サーミサのない(肉体的でない)喜悦もあり、サーミサのない喜悦より更にサーミサがない喜悦もあります。
サーミサのあるスッカ(幸福)もあり、サーミサのない幸福もあり、サーミサのない幸福より更にサーミサのない幸福もあります。
サーミサのあるウペッカー(捨)もあり、サーミサのない捨もあり、サーミサのない捨より更にサーミサのない捨もあります。
サーミサのあるヴィモッカ(解脱)もあり、サーミサのない解脱もあり、サーミサのない解脱より更にサーミサのない解脱もあります。
比丘のみなさん。サーミサがある喜悦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。これらの五欲があります。
五つとは、可愛らしく、望ましく、満足すべき愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触で、これが五欲です。比丘のみなさん。これらの五欲に依存して生じる喜悦を、サーミサがある喜悦と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない喜悦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、すべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。
ヴィタッカ(思惟)とヴィチャーラ(考察)の両方が静まることで、心の内面を明るくするものであり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。この喜悦をサーミサのない喜悦と言います。
比丘のみなさん。サーミサがない喜悦より、更にサーミサのない喜悦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。キーナーサヴァ(阿羅漢)である比丘が貪りから解脱し、怒りから解脱し、愚かさから解脱した心を熟慮すると、何らかの喜悦が生じます。その喜悦をサーミサのない喜悦より更にサーミサがない喜悦と言います。
比丘のみなさん。サーミサのある(肉体的な)幸福はどのようでしょうか。比丘のみなさん。これらの五欲があります。五つとは、五つとは可愛らしく望ましく、満足すべき可愛い状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触で、これが五欲です。
比丘のみなさん。これらの五欲に依存して生じる幸福を、サーミサのある幸福と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない(肉体的でない)幸福はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。
ヴィタッカもヴィチャーラも静まることで、心の内面を明るくする物であり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
更に喜悦が薄れることで当然捨にいる人であり、サティと自覚があり、そして当然すべての聖人方が、「捨にいる人はサティがあり、正常な幸福である」と称賛する幸福を名身で味わい、三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。この幸福をサーミサのない幸福と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない幸福より、更にサーミサのない幸福はどのようでしょうか。比丘のみなさん。阿羅漢である比丘が、貪りから解脱し、怒りから解脱し、愚かさから解脱した心を熟慮すると、何らかの喜びが生じます。その喜びを、サーミサのない幸福より、更にサーミサのない幸福と言います。
比丘のみなさん。サーミサがある(肉体的な)ウペッカー(捨)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。これらの五欲があります。五つとは可愛らしく、満足すべき可愛い状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る音、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触で、これらが五欲です。
比丘のみなさん。これらの五欲に依存して生じる幸福を、サーミサのある幸福と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない(肉体的でない)捨はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は喜びを捨てられたことで、そして苦を捨てられたことで、過去の喜びと悲しみの両方が消滅したことで、苦も喜びもなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。この捨をサーミサのない捨と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない捨より、更にサーミサのない捨はどのようでしょうか。比丘のみなさん。阿羅漢である比丘が貪りから解脱し、怒りから解脱し、愚かさから解脱した心を熟慮して見ると、何らかの捨が生じます。その捨をサーミサのない捨より更にサーミサのない捨と言います。
比丘のみなさん。サーミサのあるヴィモッカ(解脱)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。形に関わっているヴィモッカをサーミサのある解脱と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない解脱はどのようでしょうか。比丘のみなさん。形に関わらない解脱を、サーミサのない解脱と言います。
比丘のみなさん。サーミサのない解脱より更にサーミサのない解脱はどのようでしょうか。比丘のみなさん。阿羅漢である比丘が貪りから解脱し、怒りから解脱し、愚かさから解脱した心を熟慮して見ると、何らかの解脱が生じます。その解脱をサーミサのない解脱より更にサーミサのない解脱と言います。
意図しなくても(戒から滅まで)生じるダンマの功徳
アーナンダ。このように
善である戒は、目指す功徳であるアヴィパッティサーラ(不悔恨)があり、
不悔恨は目指す功徳であるパモーダヤ(歓喜)があり、
歓喜は目指す功徳であるピーティ(喜悦)があり、
喜悦は目指す功徳であるパッサッディ(軽安)があり、
軽安は目指す功徳であるスッカ(幸福)があり、
幸福は目指す功徳であるサマーディ(三昧)があり、
三昧は目指す功徳であるヤターブータニャーナダッサナ(真実のままに知ること。如実智見)があり、
如実智見は目指す功徳であるニッピダー(厭離)があり、
厭離は、目指す功徳であるヴィラーガ(離貪)があり、
離貪は目指す功徳であるヴィムッティニャーナダッサナ(解脱したと知ること。解脱智見)があります。
アーナンダ。善である戒はこのような順で当然完璧な阿羅漢果に至ります。
比丘のみなさん。完璧な戒があれば「不悔恨が私に生じるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。完璧な戒があれば当然不悔恨が生じます。
比丘のみなさん。悔恨がなければ「歓喜が私に生じるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。悔恨が無ければ当然歓喜が(自然に)生じます。
比丘のみなさん。歓喜があれば「喜悦が私に生じるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。歓喜すれば、当然喜悦が(自然に)生じます。
比丘のみなさん。喜悦があれば「私の心が静まるように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。喜悦があれば、当然体が(自然に)静まりますす。
比丘のみなさん。体が静まれば「私は幸福を味わおう」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。体が静まれば、当然(自然に)幸福を味わいます。
比丘のみなさん。幸福があれば「私の心が安定してサマーディになるように」と意図する必要はありません。幸福を味わえば心が安定し、当然(自然に)サマーディになります。
比丘のみなさん。心が安定してサマーディになれば「私は真実を知り、真実が見えるように」と意図する必要はありません。心が安定してサマーディになれば(自然に)真実を知り、当然真実が見えます。
比丘のみなさん。真実を知り、真実が見えれば「私は倦怠するように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。真実を知り、真実が見えれば、当然(自然に)倦怠します。
比丘のみなさん。倦怠すれば「私は欲情が緩むように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。倦怠すれば、当然(自然に)欲情が緩みます。
比丘のみなさん。心の欲情が緩めば「私は解脱智見を明らかにするように」と意図する必要はありません。比丘のみなさん。心の欲情が緩めば、当然(自然に)解脱智見を明らかにします。
その想の感情が明瞭なら取の想は静まる
(学習者はかなり長いこの例えを我慢して読んで、駄馬と良馬がどう違うかを明らかに見てください。そうすれば執着で注目することと、執着しないで注目することの違いが理解でき、ヴィブータ=執着しないで注目する人の明るさ=という言葉が理解できます)。
サンダさん。あなたは血統の良い動物のように注目しなさい。クズな動物のように注目してはいけません。
サンダさん。クズな動物ように注目するとはどのようでしょうか。サンダさん。クズな馬を餌の前に繋いでおくと、心は「籾、籾」とばかり注目しています。なぜでしょうか。サンダさん。それは「今日私の御者は、私に何をさせるだろう。私はどう応えたら良いだろう」という考えがないので、心の中は「籾。籾」と夢中になって注目しています。
サンダさん。同じようにこの場合の低級な比丘は、森へ行っても、木の根元に行っても、廃屋へ行っても、心が欲貪蓋に覆われていて、生じた欲貪から出る方便を真実のままに知らず、彼はその欲貪に休まず注目し、全面的に注目し、洩らさず注目します。(復讐心、コン沈睡眠、掉挙悪作、そして疑蓋の場合も、貪欲蓋の場合と同じように話されています)。
その比丘は当然土という理解に依存して注目し、水という理解に依存して注目し、火という理解に依存し、風という理解に依存し、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、この世界、別の世界、「私が見た物」「私が聞いたこと」「私が探求した物」「私の心が追った物」という理解に依存して、それぞれこのように注目します。サンダさん。こういうのがクズな動物のように注目することです。
サンダさん。血統の良い動物のように注目するとはどのようでしょうか。サンダさん。発展した血統の良い馬を餌箱の前に繋いでおくと、その馬の心は「籾。籾」とだけ注目しません。サンダさん。なぜでしょうか。
その馬は餌箱の前に繋がれていても「今日、私の御者は私に何をさせるだろう。私はどう応えたら良いだろう」とだけ考えるので、心の中で「籾。籾」とだけ夢中になって考えません。サンダさん。その血統の良い馬は「棒で叩かれるのは借金を返すようなもの、閉じ込められる衰退は不吉と同じ」と考えています。
(同じ状況下でも、二頭の馬が心で考えていることが違うことを観察してください。一頭は食べることだけに注目し、もう一頭は、罰っせられないようにと任務のことばかり考えています。こういうのを、注目の仕方が全く違うと言います)。
サンダさん。発展した人である育ちの良い比丘も同じで、森へ行っても木の根元に行っても廃屋に行っても、欲貪蓋に包囲されていない心があり、生じてくる欲貪から出る方便を真実のままに見ています。(復讐心、コン沈睡眠、掉挙悪作、そして疑蓋の場合も、貪欲蓋の場合と同じように話されています)。
その比丘は当然土という理解に依存しないで注目し、水という理解に依存しないで注目し、火という理解に依存しないで、風という理解、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、この世界、別の世界、「私が見た物」「私が聞いたこと」「私が考えた物」「私が明らかに知った物」「私が到達した物」「私が探求した物」「私の心が追った物」という理解に依存しないで、このように注目します。
サンダさん。すべての天人、帝釈天、梵天、そして宮女も、当然このように注目する人である育ちの良い発展した人に、「最高にお育ちの良い方。ご挨拶させてください。あなたが依存して注目したもので、すべてを最高に知った方」と言って、遠くから挨拶に来ます。
「猊下。発展した良い生まれの方は、いったいどう注目するのですか。土や水などに依存しないで、そのように天人たちが揃って称賛するほど注目するのですか。猊下」。
(次は、その想の感情は「一般人が理解しているようではない」と注目している人に明らかな物になった時、いろんな想がどう抜き取られるかの説明です。学習者は、最高に良く理解するよう決意してください)。
サンダさん。この場合パダヴィーサンニャー(土を土と理解すること。土想)は、当然発展した生まれの良い人にとって、(土と理解している土は土ではなく、自然の有為の物でしかない。因果の法則、つまり無常・苦・無我で変化する:アッタカターの説明:増支部註)明らかです。
水を水と理解すること、火を火と理解すること、風を風と理解すること、空無辺処を空無辺処と理解すること、識無辺処を識無辺処と理解すること、無所有処を無所有処と理解すること、非想非非想処を非想非非想処と理解すること、世界を世界と理解すること、他の世界を他の世界と理解すること、見た物、聞いた物等々を「私が見た物」「私が聞いた物」と理解することは、
すべて発展した人である良い生まれの人にとって、これは「こうだ」と理解しているようなものではない。自然にある自然であり、因果の法則になる。つまり無常であり苦であり無我であると:アッタカターの説明)明らかです。
サンダさん。発展した良い生まれの人はこのように注目するので、土という理解に依存しない、水という理解に依存しない、火という理解に依存しない、風という理解に依存しないと言われ、その結果、天人たちが揃ってこのように称賛します。
苦受を味わっても、聖なる弟子に三つの随眠は生じない
比丘のみなさん。聞くことがある聖なる弟子(聖人)は、苦受に触れても当然悲しまず、当然焦燥せず、当然嘆き悲しまず、当然胸を叩いて泣く人でなく、サティがぼやけるに至らず、当然受を味わうだけを味わいます。つまり体の受であり、心の受ではありません。
比丘のみなさん。人が人を矢で射る時、二本目の矢を放たなければ、射られた人は、当然一本の矢だけの受を味わいます。
同じように聞くことのある聖なる弟子は、苦受に触れた時も悲しまず、焦燥せず、嘆き悲しまず、胸を叩いて泣く人でなく、サティがぼやけるほどにならないので、その聖なる弟子は一つの受だけを味わうと言われます。
その聖なる弟子は、その苦受が原因のパティガ(憤怒)がある人ではありません。苦受による憤怒がない聖なる弟子には、当然苦受から生じるどんなパティガーヌサヤ(瞋恚随眠)も眠っていません。
その苦受に触れている聖なる弟子は、カーマスッカ(愛欲の幸福)に満足しません。それはどうしてでしょうか。比丘のみなさん。それは聞くことのある聖なる弟子は、当然愛欲の幸福以外に、苦受から解脱する方便を明らかに知っているからです。その聖なる弟子が愛欲の幸福に満足しなければ、愛欲の幸福から生じるどんなラーガーヌサヤ(貪随眠)も、その聖なる弟子に眠っていません。
その聖なる弟子は、当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を、真実のままに明らかに知っています。その聖なる弟子が、受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれらすべての受から出る方便を真実のままに明らかに知っていれば、不苦不幸受から生じるどんなアヴィッチャーヌサヤ(無明随眠)も、その聖なる弟子には眠っていません。
その聖なる弟子が幸福の受を味わっても当然(受に)溺れて味わう人でなく、苦受を味わっても溺れて受を味わう人ではありません。
比丘のみなさん。聞いたことがあるこの聖なる弟子を、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みに溺れない人と私は言います。私は、苦に溺れない人と言います。
三受を味わって三随眠が生じなければ消滅
(世尊は病気の比丘の療養所である学校をお訪ねになり、そこの比丘全員にお話になりました)。
比丘のみなさん。死を待つ時、比丘はサティがあり自覚がある人でなければなりません。これがみなさんへの私の教えです。
比丘のみなさん。サティがある人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力をし、自覚がありサティがあり、世俗の喜びと悲しみを排除することができ、
常にすべての受の中の受が見える人で、常に心の中の心が見える人で、常にすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力をし、サティがあり自覚があり、世界の喜びと悲しみを排除することができます。こういうのを比丘のみなさん。サティがある比丘と言います。
比丘のみなさん。自覚がある比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は前進、後退、振り向き方、屈み方、伸び方、サンガーティ(外衣)や鉢やチーヴァラ(中衣)の持ち方、食べ、座り、寝、眠り、目覚め、話し、黙ることを注意深く自覚します。このようなのを比丘のみなさん。自覚がある比丘と言います。
比丘のみなさん。死を待つ時、比丘はサティと自覚がある人でいなさい。これがみなさんへの私の教えです。
比丘のみなさん。比丘にサティと自覚があれば不注意でなく、煩悩を焼く努力をし、このように自分をダンマに追いやれば、幸受が生じても「幸受が私に生じた。しかしこの受は原因と縁に依存して生じられるのであって、原因と縁に依存しないで生じることはできない。
何の原因と縁に依存したのだろう。依存した原因と縁はこの体だ。この体は無常であり、作る縁があり、生じる縁に依存してこのように生じた。変化しない幸受はどこにもない」と、このように明らかに知ります。その比丘は体と幸受の無常が見え、衰退し薄れることが見え、消滅、返却が見えます。このように体と幸受の無常が見えれば、彼は体とその幸受の貪随眠を捨てることができます。
(瞋恚随眠を生じさせる原因である苦受の場合も、同じように、比丘が体と、その苦受を無常と見、加工する物、縁に依存して生じると見れば、体とその苦受の瞋恚随眠を捨てることができると話されています。
次の件は無明随眠を生じさせる不苦不幸受も、同じように話されています)。
その比丘が幸受を味わえば、「その幸受は無常であり、そして私は夢中になっていない受だ」と、このように明らかに知り、苦受を味わえば「その苦受は無常であり、そして私は夢中になっていない受」と明らかに知ります。
その比丘が幸受を味わえば、その受から生じた捕縛具である煩悩なしにその受を味わう人で、苦受を味わえば、その受から生じた捕縛具である煩悩なしにその受を味わう人で、不苦不幸受を味わえば、その受から生じた捕縛具である煩悩なしにその受を味わう人です。
その比丘が終わった体がある受を味わえば、当然「私は終わった体がある受を味わっている」と明らかに知り、終わった命のある受を味わえば、当然「私は終わった命のある受を味わっている」と明らかに知り、当然「私はすべての受に陶酔しない。この体が壊れて命が尽きるまで、この自我の中で、冷えた物になった」と明らかに知ります。
比丘のみなさん。油の灯火は油と芯に依存して燃え、油と芯が尽きて縁に欠ければ、当然火も消滅するように、比丘のみなさん。体が終わった受を味わえば「私は体が終わった受を味わっている」と明らかに知り、命が終わった受を味わえば「私は命が終わった受を味わっている」とこのように明らかに知ります。
つまりその比丘は当然「私はすべての受に夢中にならない。この体が崩壊して命が終わるまで、この自我の中で冷えた物になった」と明らかに知ります。
(次の経:18巻264頁335項では、三受が発生する場所を、「体」ではなく「食」と言っています。内容はすべて同じです)。
欲望が新しい有に導かない状態は、様々な特別な結果を生じさせる
比丘のみなさん。人が目を真実のままに知り、真実のままに見れば、すべての形を真実のままに知り、見れば、眼識を真実のままに知り、見れば、眼触を真実のままに知り、見れば、幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、眼触が縁で生じる受を真実のままに知って見れば、
彼は当然目に欲情せず、すべての形に欲情せず、眼識に欲情せず、眼触に欲情せず、そして幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、眼触が縁で生じる受に欲情しません。その人が欲情しなければ、関わらなければ、惑溺しなければ、それらの害が見え、すべての五取蘊は当然その後は生まれない状態に達します。
そして陶酔の威力による欲情がある新しい有に導く物であり、その感情に極めて熱中させる物である欲望を、彼は当然捨ててしまうことができます。
彼は体の焦燥も捨ててしまうことができ、心の焦燥も捨ててしまうことができ、当然体の焼き炙りも捨ててしまうことができ、当然心の焼き炙りも捨ててしまうことができ、当然体の焼き炙りを捨ててしまうことができ、当然心の面の焼き炙りを捨ててしまうことができます。その人は当然体で経過する幸福を味わい、心で経過する幸福を味わいます。
人がそのようなら、彼の見解は当然正しい見解で、彼の考えは当然正しい考えで、彼の努力は当然正しい努力で、彼のサティは当然正しいサティで、彼のサマーディは当然正しいサマーディで、彼の身業、口業、そして職業は純潔なダンマです。このような状態で彼の八正道は当然発展に達します。
このように八正道に励めば、四念処も当然完璧に発展し、四正勤も完璧に発展し、四如意足、五根も完璧に発展し、五力も完璧に発展し、七覚支も完璧に発展し、彼のサマタとヴィパッサナーの二つのダンマは、並行するダンマです。
その人は当然、その人が最高の智慧で認識するべきすべてのダンマを、最高の智慧で認識し、その人が最高の智慧で捨てるべきすべてのダンマを、最高の智慧で捨て、その人が最高の智慧で発展させるべきすべてのダンマを、当然最高の智慧で発展させ、その人が最高の智慧で明らかにすべきすべてのダンマを、最高の智慧で明らかにします。
比丘のみなさん。人が最高の智慧で認識するべきダンマはどれでしょうか。答えは五取蘊、つまり形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊です。これらすべてのダンマを、人が最高の智慧で認識するべきダンマと言います。
比丘のみなさん。人が最高の智慧で捨てるべきダンマとはどれでしょうか。答えは無明も、バヴァタンハー(有欲)もです。これらすべてのダンマを、最高の智慧で捨てるべきダンマと言います。
比丘のみなさん。人が至高の智慧で発展させるべきダンマとはどれでしょうか。答えはサマタ(心の感情を一つにすること)も、ヴィパッサナー(サマタである心から生じる智慧で対象を見ること)もです。これらのダンマすべてを、人が最高の智慧で発展させるべきダンマと言います。
比丘のみなさん。人が最高の智慧で明らかにするべきダンマはどれでしょうか。答えは明も解脱もで、これらのダンマすべてを、人が最高の智慧で明らかにしなければならないダンマと言います。
(目・耳・鼻・舌・体・心、耳の処入のサハガタダンマの場合も、目と目のサハガタダンマの場合と同様に話されています)。
衆生凡夫の心の道から出る
(動物の心の道は「受は動物の心が行く道」という題で三十六種類あり、第一部にあります。次の説明は動物の心の道から出ることで、天敵であるダンマに依存して、すべての苦から完璧に出てしまうまで捨てるべきダンマを捨てます)。
比丘のみなさん。私が「こっちに依存してこっちを捨ててしまいなさい」と言うのは、何の教えに依存してでしょうか。比丘のみなさん。それは、
比丘のみなさん。動物の心が行く三十六の道の中に、家を避けることに依存する喜びが六つあります。みなさん、家を避けることに依存する喜びに依存して、家に依存する六種類の喜びを捨ててしまい、越えてしまいなさい。そうすれば当然、このような様相で家に依存する喜び六種類を捨ててしまうこと、越えてしまうことができます。
比丘のみなさん。動物(の心)が行く三十六の方向の中に、家を避けることに依存する悲しみが六つあります。みなさん、家を避けることに依存する悲しみに依存して、家に依存する六種類の悲しみを捨ててしまい、越えてしまいなさい。そうすれば当然このような様相で、家に依存する悲しみ六種類を捨ててしまうこと、越えてしまうことができます。
比丘の皆さん。動物(の心)が行く三十六の方向の中に、家を避けることに依存する捨が六つあります。みなさん、家を避けることに依存する捨に依存して家に依存する六種類の捨を捨ててしまい、越えてしまいなさい。そうすれば当然、このような様相で家に依存する捨六種類を捨ててしまうこと、越えてしまうことができます。
比丘のみなさん。動物(の心)が行く三十六の方向の中に、家を避けることに依存する喜びが六つあります。みなさん、家を避けることに依存する喜びに依存して、家に依存する六種類の喜びを捨ててしまい、越えてしまいなさい。そうすれば当然、このような状況で家に依存する喜び六種類を捨ててしまうこと、越えてしまうことができます。
比丘の皆さん。動物(の心)が行く三十六の方向の中に、家を避けることに依存する捨は六つあります。みなさん、家を避けることに依存する捨に依存して、家に依存する六種類の捨を捨ててしまい、越えてしまいなさい。そうすれば当然、このような状況で家に依存する捨六種類を捨ててしまうこと、越えてしまうことができます。
比丘のみなさん。いろんな状況に依存するいろんな状況の捨があります。一つの状況に依存する一つの状況がある捨もあります。
比丘のみなさん。いろんな状況に依存するいろんな状況がある捨はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての形の捨、すべての声の捨、すべての臭いの捨、すべての味の捨、すべての接触の捨があります。比丘のみなさん。これがいろんな状況に依存するいろんな状況がある捨です。
比丘のみなさん。一つの状況があり、一つの状況に依存する捨はどのようでしょうか。比丘のみなさん。空無辺処に依存する捨、識無辺処の依存する捨、無所有処に依存する捨、非想非非想処に依存する捨があります。比丘のみなさん。これが一つの状況に依存する一つの状況がある捨です。
比丘のみなさん。それらの捨の中で、一つだけに依存し、一つだけの状況がある捨に依存し、いろんな状況に依存するいろんな状況がある捨を捨ててしまい、越えてしまいなさい。いろんな状況に依存し、いろんな状況がある捨を捨ててしまうこと、越えてしまうことは、当然このようにすればあります。
比丘のみなさん。みなさんアタムマヤター(無関与)に依存して、一つだけの状況があり一つだけの状況に依存する捨を捨ててしまい、越えてしまいなさい。一つきりの状況があり、一つきりの状況の依存する捨を捨てることは、当然このようにすればあります。
比丘のみなさん。私が「これに依存して、これを捨ててしまいなさい」と言うのは、このような教えに依存しています。
一つに依存して一つを捨ててしまうことは、七段階の滅と見るべき、それぞれの滅です。
家を避ける喜びに依存して、家に依存する喜びを捨て、
家を避ける喜びに依存して、家を避ける悲しみを捨て、
家を避ける悲しみに依存して、家に依存する悲しみを捨て、
家を避ける捨に依存して、家に依存する捨を捨て、
家を避ける捨に依存して、家を避ける悲しみを捨て、
一つだけの捨に依存して、様々な捨を捨て、
アタムマヤター(無関与性)に依存して、エカッタウペッカー(一境捨)を捨てます。
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