良く解脱した心の状態 Ⅰ
比丘のみなさん。比丘が不変でない目を不変でないと見れば、その人の見解は正しい見解です。正しい見解で見れば当然倦怠し、ナンディ(喜び)がなくなればラーガ(貪り)がなくなり、貪りがなくなれば、当然喜びがなくなり、ナンディラーガ(喜びを貪ること。欲貪)が終われば、心は良く解脱したと言うことができます。
(耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように話されています)。
良く解脱した心の状態 Ⅱ
比丘のみなさん。比丘が無常であるすべての形を無常と見れば、その人の見解は正しい見解です。正しい見解で見れば当然倦怠します。喜びがなくなれば当然貪りがなくなり、貪りがなくなれば当然喜びがなくなり、喜びを貪ることがなくなれば、心は良く解脱したと言うことができます。
(耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように話されています)。
良く解脱した心の状態 Ⅲ
比丘のみなさん。みなさん心の中を絶妙な目にして、目の無常を真実のままに見なさい。比丘のみなさん。比丘が心の中を絶妙な目にして目の無常を真実のままに見れば、当然目に倦怠します。
ナンディ(喜び)がなくなることで当然ラーガ(貪り)がなくなり、貪りがなくなることで当然喜びがなくなり、ナンディラーガ(喜びを貪ること)が終わるので、良く解脱したと言うことができます。
(耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように話されています)。
良く解脱した心の状態 Ⅳ
比丘のみなさん。みなさん、心の中を絶妙にすべての形にして、すべての形の無常を真実のままに見なさい。比丘のみなさん。比丘が心の中を絶妙にすべての形にして、すべての形の無常を真実のままに見れば、当然すべての形に倦怠します。
喜びがなくなれば当然貪りがなくなり、貪りがなくなれば当然喜びがなくなり、喜びを貪ることが終われば、良く解脱したと言うことができます。
(声・臭・味・触・考えの場合もすべての形の場合と同じように話されています)。
良く解脱した心の状態 Ⅴ
比丘のみなさん。比丘が無常である形を無常と見れば、その人の見解は正しい見解です。正しい見解で見れば当然倦怠し、喜びがなくなることで当然貪りがなくなり、貪りがなくなることで当然喜びがなくなり、喜びを貪ることがなくなれば、心は良く解脱したと言うことができます。
(受・想・行・識の場合も形の場合と同じように話されています)。
良く解脱した心の状態 Ⅵ
比丘のみなさん。みなさん心の中を絶妙に形にし、すべての形の無常を真実のままに見なさい。比丘のみなさん。比丘が心の中を絶妙な形にして形の無常を真実のままに見れば、当然形に倦怠します。喜びがなくなることで当然貪りがなくなり、貪りがなくなることで当然喜びがなくなり、喜びを貪ることが終われば、良く解脱したと言うことができます。
(受・想・行・識の場合も形の場合と同じように話されています)。
無我を見る解脱の詳細な順序
比丘のみなさん。形は無常の物で、無常の物は何でも苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも、自分ではなく、自分の実体でもありません。みなさん、この項目をこのように智慧で真実のままに正しく見なさい。
(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。
比丘のみなさん。人がこの項目を智慧でこのように正しく見れば、すべての過去に関したディッティ(この場合は邪見)はありません。
過去に関したディッティがなければ、未来に関したディッティも当然なく、未来に関したディッティがなければ、当然執着して強く撫でまわすこともなく、執着して強く撫でまわすことがなければ、当然心は形・受・想・行・識の欲情が薄れ、執着が無いので、すべての漏から解脱します。
心が解脱することで、心は(心の状態を)維持し、
維持している心なら明るく楽しく、
明るく楽しい心なら驚愕せず、
心が驚愕しなければ当然本人だけの般涅槃です。
彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。
解脱に至る五つの道
比丘のみなさん。解脱に至らせる五つのダンマがあります。比丘がそのダンマに不注意でない人で、煩悩を焼く努力があり、追い出してしまった自分があれば、まだ解脱していない心は当然解脱し、まだ終わっていない漏は終わりに達します。
あるいは、当然それ以上の物がない素晴らしい努力から生じた、まだ到達していない安全に段階的に到達します。解脱に到達させる五つのダンマはどのようでしょうか。五つとは、
1.比丘のみなさん。この場合教祖、または師の立場にある梵行仲間の誰かが、当然比丘にダンマを説くと、その人は当然深い意味を知り、教祖、または師である立場の梵行仲間が説いたダンマを知り尽す人です。
ダンマを知り尽し、深い意味を知り尽せば、当然彼に満足が生じ、満足すれば当然喜悦が生じ、心が喜悦すれば当然体が静まり、体が静まれば当然(名身で)幸福を味わい、幸福があれば当然心が安定します。比丘のみなさん。これが解脱に至らせるダンマの一番目です。
そのダンマに比丘が不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、追いやった自分があれば、まだ解脱しない心は当然解脱し、まだ終わっていない漏は当然終わりに達します。あるいはその人がまだ段階的に到達していないこの上なく素晴らしい実践から生じた安全に段階的に(確実に)到達します。
2.比丘のみなさん。まだあります。教祖あるいは師の立場にある梵行仲間の誰も比丘にダンマを説きませんが、その人は聞いたダンマ、勉強したダンマを大勢の人に詳細に説きます。その人は当然自分が聞いたように、勉強したように他の人たちに詳しくダンマを説きます。
その人は他の人たちに説いたダンマを詳細に知り尽し、深い意味を知り尽している人で、ダンマを知り尽せば、当然彼に満足が生じ、満足すれば当然喜悦が生じ、喜悦があれば体が静まり、体が静まれば当然(名身で)幸福を味わい、幸福があれば心は安定します。比丘のみなさん。これが解脱に至らせるダンマの二番目です。
比丘がそのダンマに不注意でない人で、煩悩を焼く努力をし、追いやった自分があれば、まだ解脱していない心は解脱し、まだ終わっていない漏は終わりに到達します。あるいは、まだ段階的に到達していないこの上なく素晴らしい実践から生じた安全に、(確実に)段階的に到達します。
3.比丘のみなさん。まだあります。教祖、あるいは師の立場にある梵行仲間の誰も比丘にダンマを説かず、そしてその人も聞いたように、勉強したように詳細に多くの人にダンマを説きませんが、その人は自分が聞いて勉強したダンマを詳細に記憶して暗唱します。
その人は当然聞いて勉強したように詳しく暗唱している、そのダンマの深い意味をすべて知り、そのダンマをすべて知っています。ダンマを知り尽し、深い意味をすべて知れば当然歓喜が生じ、歓喜すれば当然喜悦が生じ、喜悦があれば当然体が静まり、体が静まれば当然(名身で)幸福を味わい、幸福があれば当然心が安定します。比丘のみなさん。これが解脱に至らせるダンマの三番目です。
比丘がそのダンマに不注意でない人で、煩悩を焼く努力をし、追いやった自分があれば、まだ解脱していない心は解脱し、まだ終わっていない漏は終わりに到達します。あるいはだま段階的に到達していない、この上なく素晴らしい実践から生じた安全に、(確実に)段階的に到達します。
4.比丘のみなさん。まだあります。
教祖、あるいは師の立場にある梵行仲間の誰も比丘にダンマを説かず、そしてその人も聞いたように勉強したように、詳細に多くの人にダンマを説かず、その人は自分が聞いて勉強したダンマを詳細に暗唱していませんが、聞いて勉強したダンマを心で熟慮し、心で注目し、当然、その人が心で熟慮している、心が注目しているダンマの深い意味をすべて知り、そのダンマをすべて知っています。
ダンマをすべて知り、深い意味をすべて知れば当然その人に歓喜が生じ、歓喜すれば当然喜悦が生じ、喜悦があれば、当然体が静まり、体が静まれば当然(名身で)幸福を味わい、幸福があれば当然心は安定します。比丘のみなさん。これが解脱に至らせるダンマの四番目です。
比丘がそのダンマに不注意でない人で、煩悩を焼く努力をし、追いやった自分があれば、まだ解脱していない心は解脱し、まだ終わっていない漏は終わりに到達します。あるいはだま段階的に到達していない、この上なく素晴らしい実践から生じた安全に、(確実に)段階的に到達します。
5.比丘のみなさん。まだあります。教祖、あるいは師の立場にある梵行仲間の誰も比丘にダンマを説かず、そして彼も聞いたように、勉強したように詳細に多くの人にダンマを説かず、彼は自分が聞いて勉強したダンマを詳細に暗唱せず、聞いて勉強したダンマを心で熟慮し心で注目しませんが、何らかのサマーディニミッタは彼が良く掴んでいる物、心で作って維持し、智慧で洞察した物です。
彼は当然、何らかのサマーディニミッタは、彼が良く掴んで心の中で維持し智慧で洞察している物であるように、ダンマの深い意味を知り尽し、そのダンマを知り尽しています。
ダンマをすべて知り、深い意味をすべて知れば、当然彼に歓喜が生じ、歓喜すれば当然喜悦が生じ、喜悦があれば、当然体が静まり、体が静まれば当然(名身で)幸福を味わい、幸福があれば当然心は安定します。比丘のみなさん。これが解脱に至らせるダンマの五番目です。
比丘がそのダンマに不注意な人でなく、煩悩を焼く努力をし、追いやった自分があれば、まだ解脱していない心は解脱し、まだ終わっていない漏は終わりに到達します。あるいはだま段階的に到達していない、この上なく素晴らしい実践から生じた安全に(確実に)段階的に到達します。
比丘のみなさん。この五つの解脱に至らせるダンマに、比丘が不注意な人でなく、煩悩を焼く努力があり、追い出してしまった自分があれば、まだ解脱していない心が解脱し、まだ終わりに達していない漏が終わりに達し、あるいは、まだ段階的に到達していない、この上なく素晴らしい実践から生じた安全に段階的に到達します。
取がなくなった時、取を知る
比丘のみなさん。すべての取を知り尽すダンマはどのようでしょうか。
(真実は)目と形に依存して眼識が生じ、三つ(目と形と眼識)の会合が触で、触が縁で受が生じます。比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子はこのように(変化させる流れが)見ているので、当然目に倦怠し、形に倦怠し、眼識に倦怠し、眼触に倦怠し、受に倦怠します。
倦怠すれば欲情が緩み、欲情が緩むことで当然解脱し、その人は当然「私は自分の取を、その解脱によって全部知った」と明らかに知ります。
(耳・鼻・舌・体・心の場合も、同じように話されています)。
(これは非常に重要な教えです。私たちは何かをとことん知るのは、それに対してするべきことを最後までした時と、普通の人は夢にも考えないからです。それに関わるだけで完璧に知るわけではありません。この場合どの煩悩を知るのも「その煩悩をすっかり消滅させた時」という重要点があります)。
サマーラムバと無明を駆除すれば漏が尽きる
ヴァッパさん。あなたはこれをどう理解しますか。カーヤサマーラムバ(身業を作る欲望)が縁で生じるすべての漏は焦燥させ苦しめる物で、人がカーヤサマーラムバを避ければ焦燥させ苦しめる物は当然なく、その人は当然新しいカンマを作らず、当然古いカンマを正しく終わらせる行動をします。
この古さを知らない教えであるパティパダー(道)は、実践者が自分で見えるダンマであり、時を選ばず、呼んで来て見せるべき、自分の方にたわめるべきダンマで、すべての智者が本人だけが知ることができるダンマです。ヴァッパさん。苦受になるすべての漏が後で人に流れて行くのは、どんな条件が原因か、あなたはその条件が見えますか。
「いいえ、見えません。猊下」。
ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。焦燥させ苦しめる物であるヴァチーサマーラムバ(口業を作る欲望)が縁で生じるすべての漏のどれも、人がヴァチーサマーラムバを避ければ焦燥させ苦しめる物であるヴァチーサマーラムバは当然なく、その人は当然新しいカンマを作らず、当然古いカンマを正しく終わらせる行動をします。
古さを知らない教えであるこのパティパダー(道)は、実践者が自分で見えるダンマであり、時を選ばず、呼んで来て見せるべき、自分の方にたわめるべきダンマで、すべての智者がその人だけで知ることができるダンマです。ヴァッパさん。苦受になるすべての漏が後で人に流れて行くのは、どんな条件が原因か、あなたはその条件が見えますか。
「いいえ、見えません。猊下」。
ヴァッパさん。あなたはこれをどう思いますか。焦燥させ苦しめるものであるマノーサマーラムバ(意業を作る欲望)が縁で生じるすべての漏のどれも、人がマノーサマーラムバを避ければ焦燥させ苦しめる物であるマノーサマーラムバは当然なく、その人は当然新しいカンマを作らず、当然古いカンマを正しく終わらせる行動をします。
この古さを知らない教えであるパティパダー(道)は、実践者が自分で見えるダンマであり、時を選ばず、呼んで来て見せるべき、自分にたわめるべきダンマで、すべての智者が本人だけ知ることができるダンマです。ヴァッパさん。苦受になるすべての漏が後で人に流れて行くのは、どんな条件が原因か、あなたはその条件が見えますか。
「いいえ、見えません。猊下」。
ヴァッパさん。あなたはこれをどう理解ますか。焦燥させ苦しめる物である無明が縁で生じるすべての漏のどれも、人が無明をすべて吐き出せば焦燥させ苦しめる物である無明は当然なく、その人は当然新しいカンマを作らず、当然古いカンマを正しく終わらせる行動をします。
この古さを知らない教えであるパティパダー(道)は実践者が自分で見えるダンマであり、時を選ばず、呼んで来て見せるべき、自分にたわめるべきダンマで、すべての智者が本人だけ知ることができるダンマです。ヴァッパさん。苦受になるすべての漏が、後で人に流れて行くのは、どんな条件が原因か、あなたはその条件が見えますか。
「いいえ、見えません。猊下」。
縫い付けを知る人は苦を終わりにできる
比丘のみなさん。触が一方の端で、触の原因(触集)がもう一方の端で、触滅が真ん中にあり、欲望は縫って縛る物です。その欲望は、当然有を生じさせるために縫い付けます。
比丘のみなさん。これだけの知識で、比丘は「最高に知るべきダンマを最高に知っている。知り尽すべきダンマを知り尽している」と言われます。最高に知るべきダンマを最高に知り、知り尽すべきダンマを知り尽せば、当然生きているうちに苦を終わらせることができます。
苦の終りの状態
比丘のみなさん。比丘が無明を捨てて明が生じた時はいつでも、その時その比丘は、無明を残らず吐き出すことができ明が生じたので、彼は当然徳であるアビサンカーラ(作り上げる状態。三行作)を作らず、当然徳でないアビサンカーラを作らず、当然不動であるアビサンカーラを作りません。
作らなければ、意図しなければ、彼は当然この世界の何にも執着せず、執着しなければ当然驚愕せず、驚愕しなければ当然本人だけの般涅槃をします。彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。
その比丘が幸受を味わうと「この受は無常だ。私はもう陶酔して平れ伏さない。もう夢中にならない」と明らかに知り、苦受を味わうと「この受は無常だ。私は陶酔して平れ伏さない。もう夢中にならない」と明らかに知り、不苦不幸受を味わうと「この受は無常だ。私はそれに陶酔して平れ伏さない。もう夢中にならない」と明らかに知ります。
その比丘が幸受を味わう時は、縫い付けて縛る煩悩なしにその受を味わい、苦受を味わう時は、縫い付けて縛る煩悩なしにその受を味わい、不苦不幸受を味わう時は、縫い付けて縛る煩悩なしにその受を味わいます。その比丘が終わった体がある受を味わうと、
当然「終わった体がある受を味わっている」と明らかに知り、彼が終った命がある受を味わうと当然「終わった命がある受を味わっている」と明らかに知ります。彼は当然「すべての受に、私は夢中にならない。それはこの個人の中で冷めた物になる。体のすべては、体が崩壊して命が終るまで残っている」と明らかに知ります。
比丘のみなさん。まだ熱い土鍋を焼き窯から出して土間に置くと、鍋の蒸気が自然に治まった後に、たくさんの焼き物が残るように、比丘のみなさん。この場合の比丘も同じで、終わった体がある受を味わうと、当然「私は終わった体のある受を味わっている」と明らかに知り、終わった命のある受を味わうと、当然「私は終わった命の受を味わっている」と明らかに知ります。
その比丘は当然「すべての受に、私は夢中にならない。この自我の中では冷えたものになる。体のすべては、体が崩壊して命が終わるまで残る」と明らかに知ります。
比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。キーナーサヴァ(阿羅漢)である比丘は善のカンマ、あるいは悪のカンマ、あるいは不動のカンマを作るでしょうか。
「それはありません。猊下」。
すべての行がなければ、行がすべて消滅することで識が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
識がなければ、識がすべて消滅することで名形が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
名形がなければ、名形がすべて消滅することで六処が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
六処がなければ、六処がすべて消滅することで触が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
触がなければ、触がすべて消滅することで受が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
受がなければ、受がすべて消滅することで欲望が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
欲望がなければ、欲望がすべて消滅することで取が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
取がなければ、取がすべて消滅することで、有が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
有がなければ、有がすべて消滅することで、生が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
生がなければ、生がすべて消滅することで老死が現れるでしょうか。
「それはありません、猊下」。
比丘のみなさん。そうです、そのとおりです。比丘のみなさん。みなさんこれはそのように理解し、この項目の信仰を捨てなさい。比丘のみなさん。この項目に疑念のない人でいなさい。それが苦の終りです。
行が消滅する順序
比丘。行が消滅する順(次第行滅)について話します。つまり、
比丘が初禅に入った時、当然言葉が消え、
二禅に入った時、当然ヴィタカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)が消え、
三禅に入った時、当然喜悦が消え、
四禅に入った時、当然呼気と吸気が消え、
空無辺処に入った時、当然形想が消え、
識無辺処に入った時、当然空無辺処が消え、
無所有処に入った時、当然識無辺処が消え、
非想非非想処に入った時、当然無所有処が消え、
想受滅に入った時、当然想と受が消え、
漏が終わった時、貪りも消え、怒りも消え、愚かさも消えます。
(他の経:18巻272頁801項では、行のこのような様相を「消滅=ニローダ」と呼ばれる代わりに「静かさに入る」と呼ばれているのもあり、「特に鎮まる」と呼ばれているのもあります)。
ふさわしい想があれば心は不死になる
比丘のみなさん。人が励んで増やすこの七つの想は当然大きな結果があり、大きな功徳があり、不死になり、探し求める不死があります。七つはどのようでしょうか。
アスバサンニャー(不浄想)、
モラナサンニャー(死想)、
アーハーレパティクーラサンニャー(食物不浄想)、
サッバローケアナビラタサンニャー(一切世間不喜想)、
アニッチャサンニャー(無常想)、
アニッチェドゥッカサンニャー(無常苦想)、
ドゥッケーアナタサンニャー(苦無我想)です。
比丘のみなさん。比丘が不浄想の訓練をたくさんすれば、心は当然引き返し、逆戻りし、後戻りして淫欲に浸りません。そして無関心、あるいは不浄という感覚を内心で維持しています。
火に投げ入れた鶏や靱帯は当然ちぢみ、当然曲がって伸びないように、比丘のみなさん。比丘が不浄想の訓練をたくさんしても、心がまだ淫欲に浸る方向へ流れて行くなら、あるいは不浄ではないという感覚を内心で維持しているなら、その比丘は「私は不浄想の訓練をしていないということだ。以前より良い物は私にない。私はまだ努力の結果に到達していない」と知るべきです。
その人はこのように、このことに自覚のある人です。比丘のみなさん。このような理由で、私は「不浄想は、人が励んでたくさんすれば当然偉大な成果があり、偉大な功徳があり、不死に至り、探し求める不死がある」と言います。
(命の喜びから引き返させる死想の場合も、味の欲望から引き返させる食物不浄想でも、世間に夢中になる心から引き返させる一切世間不喜想でも、供物と称賛から引き返させる無常想でも、この四つの想を、不浄想と同じように話されています)。
比丘のみなさん。比丘が無常苦想の訓練をたくさんすれば、勤勉でないこと、怠慢なこと、仕事を放擲すること、油断、努力が無いこと、そしてぞんざいなことを恐ろしいと感じる恐怖の想が、死刑執行人が目の前で刀を振り上げているように強く現れます。
比丘のみなさん。比丘が無常苦想の訓練をたくさんしても、勤勉でないこと、怠慢なこと、仕事を放棄すること、油断、努力が無いこと、そしてぞんざいなことを恐ろしいと感じる恐怖の想が、死刑執行人が目の前で刀を振り上げているように強く現れなければ、比丘のみなさん。その比丘は「私は無常苦想の訓練をしていないということだ。以前より秀でた特徴が私にはない。私はまだ努力の結果に到達していない」と知るべきです。
その人はこのようにこのことに自覚がある人です。比丘のみなさん。このような理由で私は「無常苦想を人が励んでたくさんすれば、当然大きな成果があり、大きな功徳がある。不死に到達し、探し求める不死がある」と言います。
比丘のみなさん。比丘が苦無我想の訓練をたくさんすれば、心は当然この識がある体と外部のすべてのニミッタに「私」「私の物」というマーナ(慢)がなく、三段階の慢を越えることができた心、静かに鎮まって特別の脱出をした心になります。
比丘のみなさん。比丘が苦無我想の訓練をたくさんしても、識のある体と外部のすべてのニミッタにまだ「私」「私の物」という慢があり、三段階の慢を越えた心でなく、特に鎮らなければ、その比丘は「私は苦無我想の訓練していないということだ。以前より素晴らしい物が私にはない。私はまだ努力の結果に達していない」と知るべきです。
その人はこのようにこのことに自覚がある人です。比丘のみなさん。この理由で、私は「苦無我想は、人が励ん。以前より素晴らしい物が私にはないでたくさんすれば当然大きな成果があり、大きな功徳があり、不死に至り、求めている不死がある」と言います。
比丘のみなさん。この七つの想は、人が励んでたくさんすれば、当然大きな成果があり、大きな功徳があり、不死に至り、求めている不死があります。
(これらの想はどれも不死に導きますが、その状態はみな違うことを観察し、自分にふさわしく選んで発展させるべきです)。
六マンニャナ(思惟)を捨てて阿羅漢に到達する
比丘のみなさん。六つのダンマを捨てない人は、阿羅漢果を明らかにするにふさわしくない人です。六つのダンマはどれでしょうか。六つとは、
マーナ(尊大)、
オマーナ(卑屈)、
アティマーナ(自慢)、
アディマーナ(著しい傲慢)、
ダンバ(鈍さ)、
アーティニパータ(卑下)です。
比丘のみなさん。この六つ全部を捨てない人は、阿羅漢果を明らかにするにふさわしくありません。比丘のみなさん。この六つを捨てた人は、阿羅漢果を明らかにするにふさわしい人です。
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