ブッダヴァチャナによる四聖諦


解説十二 欲望の消滅






世界の消滅の様相

 比丘のみなさん。世界の消滅はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じます。三つ(目と形と眼識)の会合で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が薄れて消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このような様相であります。

 比丘のみなさん。これが世界の消滅です。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同様に話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻108頁157項





苦が消滅する様相

 比丘のみなさん。苦の消滅はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、三つ(目と形と眼識)の会合で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じます。欲望が薄れて消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山のすべての消滅は、当然このような様相であります。

 比丘のみなさん。これが苦の消滅です。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同様に話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻107頁155項





最高に簡略な苦の消滅の様相

 比丘のみなさん。比丘が無明を捨てることができ、明が生じればいつでも、明が生じて無明を全部抜き出してしまうことができるので、その時その比丘は当然カームパダーナ(欲取)に執着せず、当然アッタヴァードゥパダーナ(我語取)に執着しません。

 執着しなければ当然驚愕せず、驚愕しなければ当然その人だけの般涅槃し、ます。彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。解脱した人になるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

中部マッジマバンナーサ 12巻135頁158項





苦の消滅の様相の概要

 ミガチャーラさん。望ましく愛らしく満足すべき物で、愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で知るすべての形があります。比丘がその形に夢中にならず、褒めちぎらず、酔って平伏しなければ、喜び(ナンディ)は当然消滅します。ミガチャーラさん。私は「喜びが消滅することで当然苦の消滅がある」と言います。

 (耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で接触する接触、心で知る想念の場合も、目で見る形の場合と同様に話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻45頁69項





苦が完全に消滅する様相

 比丘のみなさん。無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで形が消滅し、形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 苦の山の完璧な消滅は、このようです。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻5頁18項





苦が消滅する様相 Ⅱ

 比丘のみなさん。その比丘は当然形に夢中にならず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しません。その比丘が当然形に夢中にならず、当然褒めちぎらず、当然惑溺しなければ、形の中のどんな喜び(ナンディ)も当然消滅します。

 喜びの消滅によって取が消滅し、取の消滅によって有が消滅し、有の消滅によって生が消滅し、生の消滅によって、老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山のすべての消滅は、このようにしてあります。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻19頁29項





苦が消滅する様相 Ⅲ

 比丘のみなさん。比丘が、平素からサンヨージャナ(結)の基盤であるすべてのダンマの下劣な害が見える人なら、識はありません。

 識が消滅することで形の消滅があり、形が消滅することで六処の消滅があり、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。

 苦の山のすべての消滅は、このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻110頁222項





苦が消滅する様相 Ⅳ

 比丘のみなさん。比丘が平素からサンヨージャナの基盤であるすべてのダンマの下賎な害が見えれば、当然欲望は消滅します。

 欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の山のすべての消滅は、このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻102頁198項


 (別の経:16巻104頁202項には、上記と全く同じ内容ですが、「取の基盤であるすべてのダンマ」という言葉の代わりに、「サンヨージャナの基盤であるすべてのダンマ」という言葉を使われています)。





苦が消滅する様相 Ⅴ

 私に「私が到達し、そして常にその感覚の中にいる悟りの道はこれだ。名形の消滅によって識が消滅し、識の消滅によって形が消滅し、形の消滅によって処入が消滅し、処入の消滅によって触が消滅し、触の消滅によって受が消滅し、

受の消滅によって欲望が消滅し、欲望の消滅によって取が消滅し、取の消滅によって生が消滅し、生の消滅によって老死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅した。すべての苦の山の消滅は、このようにしてある」と、このように明らかな知識が生まれました。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻128頁252項





苦が消滅する様相 Ⅵ

 (世尊がある閑静な場所に滞在なさっている時、この説明を独白なさいました)。

 目にも形にも依存して眼識が生じ、三つのダンマの会合が触で、触が縁で受があり、受が縁で欲望がある。欲望が薄れて消滅することで取の消滅があり、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで、当然このように老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みの消滅がある。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように話されています)。

 その時一人の比丘が、世尊の言葉を隠れて聞いていました。世尊はその比丘に視線を投じて言われました。

 比丘。あなたはこの説明を聞きましたね。比丘。あなたはこの説明を受け取りなさい。この説明を勉強し、この説明を保持しなさい。比丘。この説明は梵行の初めとして利益があります。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻113頁164項





苦が消滅する様々な原因

 すべてのウパディ(輪廻の原因。依)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 アヴィッチャー(無明)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 すべてのサンカーラ(行)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 ヴィンニャーナ(識)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。


 パッサ(触)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 すべてのヴェーダナー(受)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 タンハー(欲望)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 ウパダーナ(取)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。


 アーラムバ(関心)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 すべての食べ物が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 すべてのインジタ(動揺)が薄れて消滅すれば、すべての苦はない。

 これがアヌパッサナー(随観)の一つ一つです。

小部スッタニバータ 25巻474頁392項


(この十一の随観は集の側の随観と対になっていて、苦集の部の「いろんな説明の苦の縁」に収めてあります)。




四聖諦を知ることと漏がなくなって梵行が終わる状態

 大王。その比丘の心が安定し、純潔清浄で煩悩がなく、随眠がなく、仕事をするにふさわしいしなやかな自然になり、動揺しない状態を維持できれば、その比丘は心をアーサヴァッカヤニャーナ(漏尽智)に傾けます。

 その人は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知り、「これらが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

 その人がこのように知れば、心はカーマーサヴァ(欲漏)、バヴァーサヴァ(有漏)、アヴィッチャーサヴァ(無明漏)から脱します。解脱すれば「心は解脱した」と知るニャーナ(智)が生じ、彼は「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。山の中の水が澄み切った淵の畔に目の良い人が立つと、いろんな貝が見え、小石や砂利が見え、魚の群れが泳いだり止まったりするのが見え、その人は「この淵は澄み切っていてまったく濁っていない。貝や砂利や、いろんな魚が泳いだり止まったりしている」と心に留めます。

 同じように比丘のみなさん。その比丘は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」、「これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

 その比丘がこのように知り、このように見ていれば、心は欲漏、有漏、無明漏から脱し、解脱すれば「心は解脱した」と知る智が生じます。彼は「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

 長部シーラカンダヴァッガ 9巻110頁138項





苦が消滅する様相 Ⅰ

 パッグナさん。六つすべての触処が薄れて消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の連隊の消滅は、当然このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻17頁37項





苦が消滅する様相 Ⅱ

 比丘のみなさん。人が何かについて考えなければ、当然何も決意せず、当然何かに心を埋もれさせなければ(つまり随眠がなければ)、その時それは識を維持する感情になりません。感情がなければ識を維持することはなく、識が維持されず成長発展しなければ、当然名形への進展はありません。

 名形が消滅することで処入が消滅し、処入が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の連隊の消滅は、このようです。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻79頁148項





苦が消滅する様相 Ⅲ

 比丘のみなさん。人が何かについて考えず、当然何も決意せず、そして当然何かに心を埋めなければ(つまり随眠がなければ)、その時それは識を維持する感情になりません。感情がなければ識を維持することはありません。

 識が維持されず、成長発展しなければ、当然新らたな有へ導く物はなく、新たな有に導く物がなければ、行くこと来ることもなく、行くことも来くることもなければ、移動も生まれることもなく、生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の連隊の消滅はこのようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻80頁150項





 苦が消滅する様相 Ⅳ

 比丘のみなさん。人が何かについて考えず、当然何も決意せず、そして当然何かに心を埋めなければ(つまり随眠がなければ)、その時それは識が存在するための感情ではありません。感情がなければ、識が生じることはありません。

 識が生じて成長発展しなければ新たな有が生じることは当然なく、新たな有がなければ生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の連隊の消滅はこのようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻78頁146項





解脱した人の状態

 アーナンダ。何らかの形・受・想・行・識があり、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、すべての蘊を「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と正しい智慧で、真実のままに見るべきです。

 アーナンダ。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば、当然形に倦怠し、受に倦怠し、想に倦怠し、行に倦怠し、識に倦怠します。倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱でき、解脱すれば「解脱した」と知るニャーナがあります。

 その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と、このように明らかに知ります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻228頁364項





ナンディというの名の欲望の消滅

 比丘のみなさん。その比丘は目で形を見ても、当然愛の基盤である形を喜んで欲しがらず、当然憎悪の基盤である形を憎悪せず、サティで暮らす人で、自分が維持している体になり、測ることができない心があり、当然すべての善と悪が消滅したダンマであるチェトーヴィムッティ(心解脱)パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。このように喜びと悲しみを捨ててしまった人は、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもなくても、どんな受を味わっても当然その受に夢中にならず、褒めちぎらず、惑溺しません。

 その比丘が受に陶酔せず、褒めちぎらず、惑溺しなければ、当然すべての受のナンディ(思いどおりになった喜び)は消滅します。ナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが消滅します。苦の連隊の消滅はこのようにしてあります。

 (耳で聞く声、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、体で触れる触、心で知る想念についても、同じように話されています)。

 比丘のみなさん。欲望がなくなって解脱するダンマとして、私が概略で話したこのダンマを維持しなさい。

中部ムーラパンナーサ 12巻494頁458項


 (概略で話された欲望がなくなって解脱する話は、別の経:中部ムーラパンナーサ 12巻470頁439項、増支部サッタカニバータ 23巻90頁58項で、「何物にも執着するべきでないと聞いている比丘は、すべてのダンマを最高に良く知り、すべてのダンマを知り尽していると言われています。

 どんな受を味わっても、常にその受の無常、薄れること、消滅、返却が見える人で、当然この世界の何にも執着せず、驚愕せず、その人だけの涅槃をします」と話されています)。





有身滅

 比丘のみなさん。サッカーヤニローダ(有身滅)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。欲望が薄れて消滅すること、欲望を振り捨てること、返却すること、手放すこと、住む場所を与えないことです。

 比丘のみなさん。これを私は有身滅と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻194頁489項

 (欲望の消滅を、普通はドゥッカニローダ=苦滅と言いますが、この経ではサッカーヤニローダ=有身滅と言われています。別の経:17巻192頁277項では、サッカーヤニローダンタ=有身滅辺と呼ばれています)。





(簡略な)無明を捨てる様相

 「猊下。比丘がそれを捨てることができれば当然無明を捨て、当然明が生じるダンマはありますか」。

 比丘。そういうダンマはあります。

 「猊下。そのダンマは何ですか」。

 比丘。無明ですよ、比丘が捨てることができれば当然明が生じるダンマは。

 「猊下。比丘がどのように知っていて、どのように見えていれば、無明を捨てられ、当然明が生じるのですか」。

 比丘。この場合の比丘が聞いた教えは、当然「すべての物は、誰も(私、私の物と)執着するべきではない」であるべきです。比丘。比丘がその教えを「すべての物は、誰も(私、私の物と)執着するべきでない」と聞けば、

その比丘は、当然すべてのダンマを最高に知り、すべてのダンマを最高に知れば、当然すべてのダンマを知り尽し、すべてのダンマを知り尽せば、その人は当然すべての物のニミッタを別の物(注)と見ます。

 つまり当然目を違う物と見、形を違う物と見、眼識を違う物と見、目の触を違う物と見、幸福でも、苦でも、苦でも幸福でもない物でも、目の触から生じる受を違う物と見ます。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

 比丘。比丘がこのように知りこのように見えれば、無明は捨てられ明が生じます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻62頁96項

 注: すべての物を正しく知れば、当然知らない時と明らかに違って見えます。たとえば行は不変と見ていましたが、今は無常等の物に見え、これを「別の物に見える」と言います。ニミッタとは観察する物、あるいは感じる物、捉える物、思い込む物である、いろんな物のいろんな状態を意味します。





解脱智見を作る流れ Ⅰ

 比丘のみなさん。常自覚があれば、常自覚がある人の慚と愧は習性(ウパニサヤ。注)になり、

 慚と愧があれば、慙と愧が揃っている人の根律儀は、習性である根律儀になり、

 根律儀があれば、根律儀が揃っている人の戒は習性になり、

 戒があれば、戒が揃っている人の正しい見解は習性である正しい見解になり、

 正しい見解があれば、正しい見解のある人の如実智見は。習性である如実智見になり、

 如実智見があれば、如実智見のある人の厭離・離欲は、習性である厭離・離欲になり、

 厭離、離欲があれば、厭離、離欲がある人の解脱智見は習性である解脱智見になります。

増支部アッダカニバータ 23巻348頁187項

注:習性とは、根城にして自分の思いどおりにできる住処という意味





解脱智見を作る流れ Ⅱ

 比丘のみなさん。戒があり、戒で完璧ならば、無悔恨(注)も習性になり、

 無悔恨があれば、無悔恨のある人の喜悦も習性になり、

 喜びがあれば、喜びのある人の軽安も習性になり、

 軽安があれば、軽安のある人の安楽も習性になり、

 安楽があれば、安楽のある人の正しい専心も習性になり、

 正しい専心があれば正しい専心のある人の如実智見も習性になり、

 如実智見があれば、如実智見のある人の厭離も習性になり、

 厭離があれば、厭離のある人の解脱智見も習性になります。

増支部エーカーダサカニバータ 24巻338頁210項

註:無悔恨とは、サマーディを失うほど自分の心を焦燥、嫌悪、憎悪させる物がないという意味。





解脱智見を作る流れ Ⅲ

 比丘のみなさん。

 比丘に戒があり、戒で完璧なら、彼の正しいサマーディは当然、習性で完璧なダンマで、

 正しいサマーディがあれば、如実智見は当然、その正しいサマーディのある人の習性で完璧なダンマで、

 如実智見があれば、如実智見がある人にとって厭離離欲は、当然習性で完璧なダンマで、

 厭離・離欲があれば、厭離・離欲のある人にとって解脱智見は、当然習性で完璧なダンマです。


 比丘のみなさん。枝と葉が豊かな木は外皮も豊かで、樹皮も豊かで、辺材も豊かで、芯材も豊かなのと同じです。

 (これと反対の内容の話もされています。学習者は自分で規定することができるので、割愛します)。

増支部パンチャカニバータ 22巻21頁24項





現生での般涅槃 Ⅰ

 「猊下。この世界のある生き物を、現生で般涅槃させる原因は何で、縁は何ですか」。

 天人の統領である方。目で見る形でも、耳で聞く声でも、鼻で嗅ぐ臭いでも、舌で味わう味でも、体で明らかに知る接触でも、心で明らかに知る想念でも、望ましい物であり、愛らしく、心を虜にし、満足すべき物で、

願望の住処であり、惚れることの基盤である物があります。そして比丘がその形などがある感情に恍惚とせず、褒めちぎらず、惑溺しない人なら、当然形などの感情が依存する欲望である識はなく、取になる識もありません。天人の統領である方。取がない比丘は当然般涅槃します。

 天人の統領である方。これが、ある動物たちを現生で般涅槃させる原因であり、縁です。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻128頁179項





現生での般涅槃 Ⅱ

比丘のみなさん。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、目の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘は「ダンマを説く人」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、目の消滅のために実践するなら、その比丘は「ダンマにふさわしいダンマの実践をする人」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘が倦怠によって、欲情が弛緩することによって、目が消滅することで執着しない人になって解脱すれば、その比丘は「現生での涅槃に到達した人」と呼ぶにふさわしいです。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も目の場合と同じように話されています。
 他の経:相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻199頁302項では、六内処入の代わりに、形・受・想・行で話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻177頁244項





現生での般涅槃 Ⅲ

 比丘のみなさん。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、老死の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘は「ダンマを説く人」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、老死の消滅のために実践するなら、その比丘は「ダンマにふさわしいダンマの実践をする人」と呼ぶにふさわしいです。

 比丘が倦怠により、欲情の弛緩により、老死の消滅により執着しない人になって解脱した人なら、その比丘は「現生での涅槃に到達した人」と呼ぶにふさわしいです。

 (生・有・取・欲望・受・触・六処・名形・識・行・そして無明の場合も老死の場合と同じように話されています)。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻22頁46項


 


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