阿羅漢か否かを試す自己判定基準

 比丘のみなさん。人がそれに依存すれば、信じること、満足、伝聞、状況に従ってする思考、自分の見解と合うかどうかを見ることなどに依存しないで「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは、もうない」と明らかに知り、自分は阿羅漢に到達したと宣言できる規定があります。比丘のみなさん。その規定はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘が目で形を見ると、内面に生じた貪り・瞋り・愚かさを「内部に生じている」と明らかに知り、内面に生じていない貪り・瞋り・痴愚を「内面に生じていない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。その人がこのようにハッキリと知っていれば、その他に信じること、満足、伝聞、状況で思考すること、自分の見解に合うかどうか見ることに依存しなければならないダンマが、まだ必要でしょうか。

 「必要ありません。猊下」。

 比丘のみなさん。人がこれに依存すれば「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならない他の仕事はもうない」とはっきりと知るので、信じること、満足、伝聞、状況に従った思考、自分の見解に合うかどうか考えることに依存する必要のない規定はこれです。

 (耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で触れる接触、心で明らかに知る想念についても、目で見る形の場合と同じように話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻173頁239項他





阿羅漢であることを試せる質問

 比丘のみなさん。この場合「私は『生が終わり、梵行をしているのは終わり、するべき仕事は成功しました。このようになるためにしなければならない他の仕事はもうありません』と、このように宣言する比丘がいたら、比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を受容するべきでなく、反論するべきでもありません。


1.四触

 みなさんは容認も反論もしないで、「先輩。知る人見える人阿羅漢サンマーサンブッダが正しく話された四つの言葉があります。それは

①平素から見たことを見たと言う。
②平素から聞いたことを聞いたと言う。
③平素から考えたことを考えたと言う。
④明らかに知ったことを明らかに知ったと言う、
の四つです。先輩。あなたはどのように知り、どのように見えて、心がすべての漏から解脱したのですか。その四つの言葉に執着しないからですか」と質問するべきです。

 比丘のみなさん。もしその比丘がキーナーサバ(阿羅漢)で、している梵行が終わり、するべき仕事が成功し、重荷を下ろすことができて本当に正しく解脱したなら、その比丘が宣言するにふさわしいダンマは、

当然「先輩。私はその見た物に近づかず、逃げず、依存せず、関らず、私はその威力から脱し、縛り付ける煩悩がなく、自分で境界をなくした心で暮らしています。先輩。聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったことでも、私は近づかず、逃げず、依存せず、関らず、私はその威力から脱し、縛り付ける煩悩がなく、自分で境界をなくした心で暮らしています。

先輩。私はこのように知りこのように見えたので、心がすべての漏から解脱しました。この四つの言葉に執着しないからです」と、このようです。

 比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を、サードゥ(善いですね)と言って共に喜ばなければなりません。


2. 五取蘊

 みなさんはこのように共に喜んだら、更に「先輩。知る人見える人阿羅漢サンマーサンブッダが正しく話された五取蘊があります。形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊を、先輩はどのように知り、どのように見て、すべての漏から解脱したのですか。心がその五取蘊に執着しないからですか」と、このように質問するべきです。

 比丘のみなさん。その比丘がキーナーサバ(阿羅漢)で、している梵行が終わり、しなければならない仕事が成功し、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)がなくなり、正しく知ることで本当に解脱したなら、その比丘が宣言するにふさわしいダンマは、

当然「先輩。私は、形は無力なもので、欲しがるべきでなく、安心の基盤ではないと明らかに知りました。私はその形の取に執着して乗り被さる癖、心が潜り込む癖(随眠)が終わり、緩み、消滅し、振り捨て、返却したので、私は解脱したとハッキリと知りました。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同様の問答があります)。先輩。私がこのように知り、このように見ている時、私の心は五取蘊に執着しないことですべての漏から解脱しました」とこのようです。比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を、サードゥ(善いですね)と言って共に喜ばなくてはなりません。


3. 六界

 そのように喜んだら、みなさんは更に「先輩。知る人見える人阿羅漢サンマーサンブッダが正しく話された六界、つまり土界、水界、火界、風界、空界、識界を、先輩はどのように知りどのように見えたので、すべての漏から解脱したのですか。その六界に執着しないからですか」と質問するべきです。

 比丘のみなさん。もしその比丘が、している梵行が終わり、しなければならない仕事が成功し、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)がなくなって正しく知ることで本当に解脱したキーナーサバなら、その比丘の宣言にふさわしいダンマは、

当然「先輩。私は無我で土界を理解し、土界であるダンマを自分と理解せず、そして私は、土界に依存するダンマに近づかず、取の執着で土界に乗り被さり、心が潜り込む癖(随眠)が終わり、緩み、消滅し、振り捨て、返却したので、私は解脱したとハッキリと知りました。

 (水界・火界・風界・空界・識界の場合も、土界の場合と同様の問答があります)。先輩。私がこのように知りこのように見えた時、私の心は土界に執着しないことですべての漏から解脱しました」とこのようです。比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を、サードゥと言って共に喜ばなくてはなりません。


4-5. 内処・外処

 このように随喜したら、みなさんは更に「先輩。知る人見える人阿羅漢サンマーサンブッダが正しく話された内処と外処があります。目と形、耳と声、鼻と臭い、舌と味、体と接触、心と想念を、先輩はどのように知りどのように見て、その内処外処に執着しないですべての漏から解脱したのですか」と質問するべきです。

 比丘のみなさん。もしその比丘がキーナーサバ(阿羅漢)で、梵行が終わっていて、しなければならない仕事が成功し、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)がなくなり、正しく知ることで本当に解脱したなら、その比丘の宣言にふさわしいダンマは、

当然「先輩。私は、目、形、眼識、眼識で知るすべてのダンマの、取の執着で乗り重なる癖、心が潜り込む癖の欲貪、喜び、欲望、習性(随眠)があり、取の執着で乗り重なる癖、心が潜り込む癖の欲貪、喜び、欲望、習性(随眠)が終わり、緩み、消滅し、振り捨て、返却したので、私は解脱したと、ハッキリと知りました。

 (耳と声、鼻と臭い、舌と味、体と接触、心と想念の場合も、目と形の場合と同様の問答があります)。先輩。私がこのように知り、このように見えた時、私の心は目と形に執着しないことで、すべての漏から解脱しました」と、このようです。比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を、サードゥと言って共に喜ばなくてはなりません。


6. 随眠を抜く

 このように共に喜んだら、みなさんは更に「先輩。あなたはどのように知りどのように見えたので、識がある体と外部のすべてのニミッタ(相)を『私、私の物』とこだわる習性を抜くことができたのですか」と質問するべきです。

 比丘のみなさん。もしその比丘が梵行が終わっていて、しなければならない仕事に成功し、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)がなくなり、正しく知ることで本当に解脱したキーナーサバ(阿羅漢)なら、その比丘の宣言にふさわしいダンマは、

当然「先輩。私がまだ所帯をもっていた頃は何も知らず何も見えない人でしたが、如行様や如行様のお弟子が私にダンマを説かれた時、私はそれを聞いて如行様を尊敬し、『在家の生活は窮屈で埃の出處、出家はすっきりできる機会だ。所帯を持っている人がサンガのように完璧な梵行を行うのは簡単ではない。それなら髪と髭を剃って袈裟をまとい、家を出て家の無い出家になろう』と考えました。

 その後、大小の財産を捨て、大小の親戚を捨て、髪と髭を剃り、袈裟をまとって家を出て家のない人になりました。このように出家をすると、教条と行儀が完璧になり、殺生を捨て、殺生を避け、丸太と武器を置き、

罪を恥じ、可愛がること、悲しむ(憐れむ)ことがあり、すべての動物を援けることを願い、所有者が与えない物を取ることを捨て、盗みを避け、所有者が与えた物だけを持ち、所有者が与える物を望み、盗人でない清潔な人になりました。

 私は純潔でないカンマを捨て、普段梵行をすることで梵行の振る舞いをする人になり、在家の物である性交を避けて距離を置き、嘘を言うのを捨て、虚言を避けて本当のことだけを言い、誠実な言葉、確実な言葉を維持し、わざと世間に対して間違ったことを言わず、

皮肉を捨て、両舌を避け、こちらで聞いたことを、こちらに加害するために隠して向こうに言わないことがなく、あるいはあちら側で聞いたことを、あちらに加害するために隠してこちらに知らせないことがなく、仲違いした人たちを仲直りさせ、助け合う人たちの心を一つにさせます。

 乱暴な言葉を言うのを捨て、粗野な言葉を避け、耳に美しく、愛を生じさせ、心が膨らむ害のない言葉だけを言い、庶民が話す丁寧な言葉、大衆が望み満足する言葉だけを言います。私は撒き散らす言葉を捨て、際限なく話すのを避け、時にふさわしいことだけを言い、利益があること、ダンマの範囲のこと、根拠のあること、引用元のある、終わりがある、時にふさわしい利益がいっぱいあることだけを言います。

 植物を絶やすことを避け、一日一食だけの人であり、夜間と時間外に食べることを避け、舞踊、吟唱、歌唱、演奏、そして善の敵である類の催しを見ることを避ける人で、飾り、つまり花で飾り、香りの物を塗ることを避け、高くて大きな寝台で寝ることを避けます。

 金銀を受け取るのを避け、籾米を受け取るのを避け、生肉を受け取るのを避け、女性や少女、男女の奴隷を受け取ることを避け、羊、ヤギ、鶏、豚、象、馬牛、ロバを受け取るのを避け、田んぼや庭を受け取るのを避け、(在家の)人の遣いであちこちへ行くのを避けます。

 売買を避け、目方をごまかさず、偽物で騙さず、計量でごまかすことを避け、祈祷のお供え物で不正をすること、そして誘惑、切る、殺す、監禁、待ち伏せしての加害し、盗み、恐喝するのを避けます。

 私は体を維持するチーヴァラ(衣)と腹を維持する食べ物に満足を知る人で、翼のある鳥はどこへ飛んで行くにも当然自分の翼だけが荷物のように、どこへ行っても、当然すべてを維持することができます。

 私はこのようにアリヤである戒の塊があるので、内面で汚れのない幸福だけを感じました。私は目で形を見てもニミッタと捉えず(つまり全体を美しいとか醜いなどと捉えない)、一部分だけを美しいとか醜いとも捉えず、罪悪である喜びと悲しみは、必ず根に注意しないことが原因でその人に流れて行くので、私はその根を塞ぐ実践をし、根つまり目を注意深く管理しました。

 (耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触し、心で想念を感じる場合も、目で形を見る場合と同じように話されています)。

 私はこのようにアリヤである根律儀があるので、アッバヤーセカスッカだけを感じました。前進、後退、見方、振り向き方、屈み方、伸ばし方、サンガーティ(外衣)や鉢やチーヴァラ(中衣)の持ち方、食べ方、飲み方、噛み方、嘗め方、排便排尿の仕方、去り方、立ち止まり方、座り方、寝る、眠り方、目覚め方、話すこと黙ることを、注意深く自覚しました。

 私はこのように聖である戒の塊があり、このように聖である根律儀があり、このように聖であるサティと自覚があり、静寂な住まいつまり小さな林、木の根元、山、谷の窪み、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山(のいずれか一箇所)に住み、食事以外の時間は、托鉢から戻ると結跏趺坐して体を真っ直ぐにし、サティを現前に維持しました。

 世界の貪りを捨て、貪りのない心があり、常に心の貪りを洗うべく構えていて、加害する復讐心を捨て、復讐心のない心があり、眠気と侘しさを捨て、心の明るさだけを目指し、眠気のない心があり、サティと自覚があり、眠気と侘しさ拭おうと構えています。

 落ち着きの無さを捨て、散漫でなく、内面が鎮まっている心があり、心から落ち着きのなさを拭おうと構えています。疑念を捨て、疑を越えることができ、すべての善について「これは何ですか。これはどうですか」と(疑念で)訊く必要がなく、心から疑念を拭おうと構えています。

 心を憂鬱にし、智慧の力を後退させる五つの蓋を捨てることができた時、愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)、ピーティ(喜悦)スッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいました。

 ヴィタッカ・ヴィチャーラが鎮まると、心の内部を明るくするものであり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして絶えずその感覚の中にいました。

 喜悦が薄れると当然捨にいて、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言う三禅に達し、絶えずその感覚の中にいました。幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消えることで、苦も幸福もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に達し、そして常にその感覚の中にいました。

 心が安定し純潔で明るくなった時、煩悩がなく随眠がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、動じないことに達しました。このようになると心が漏尽智に傾いて行き、私は「これが苦、これが苦の生じる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに明らかに知り、「これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知りました。

 このように知っていて、見えている時、心は欲漏からも有漏からも無有漏からも解脱し、心が解脱すると「心が解脱した」と知るニャーナ(智)が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このように解脱するためにしなければならない他の仕事はない」と明らかに知りました。

 先輩。私がこのように知りこのように見えた時、識がある体とすべての外部のニミッタを、『私、私の物』と自慢する習性が抜かれました」とこのようです。比丘のみなさん。みなさんはその比丘の言葉を、サードゥ(良いですね)と言って共に喜ばなくてはなりません。

 みなさんがサードゥと言って共に喜んだら、その比丘に「先輩。私たちは幸運です。先輩。あなたのような梵行者に会うことができて良かったです」と言わなければなりません。

中部ウパリバンナーサ 14巻123頁167項





四種類のサマナ Ⅰ

  比丘のみなさん。このダンマヴィナヤ(法と律。この場合は宗教という意味)には(一番目の)サマナ、二番目のサマナ、三番目のサマナ、四番目のサマナがいます。他の教義には、他の教義のサマナはいません。比丘のみなさん。みなさんはこのように正しく獅子吼を轟かせなさい。

 比丘のみなさん。一番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は三つのサンヨージャナ(結)がなくなったので、落ちて普通になることがなく、将来すべてを悟る涅槃が確実な人であるソターパンナ(預流)です。比丘のみなさん。これが(一番目)のサマナです。

 比丘のみなさん。二番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は三つのサンヨージャナがなくなったので、貪・瞋・痴が減ったので、この世界に一度だけ戻って来て、そして苦を終わらせる人サカダーガーミー(一来)です。比丘のみなさん。これが二番目のサマナです。

 比丘のみなさん。三番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、初等の五つのサンヨージャナがなくなったアナーガーミー(不還)であり、当然その有で般涅槃し、当然その世界から戻ってきません。比丘のみなさん。これが三番目のサマナです。

 比丘のみなさん。四番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、すべての漏が無いので漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これが四番目のサマナです。

増支部チャトゥカニバータ 21323巻241頁項





四種類のサマナ Ⅱ

 比丘のみなさん。この四種類の人が世界にいます。世界で探すことができます。四種類はどれでしょうか。四種類とは、サマナアチャラ、サマナプンダリーカ、サマナパトゥマ、サマナスクマーラです。

 比丘のみなさん。サマナアチャラ(動揺しないサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は三つのサンヨージャナ(結)がなくなった預流であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で、将来すべてを悟る人です。比丘のみなさん。こういうのをサマナアチャラと呼びます。

 比丘のみなさん。サマナプンダリーカ(白蓮のようなサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は三つのサンヨージャナがなくなり、そして貪・瞋・痴が薄くなった一来であり、この世界に一度だけ戻って来て、そこで苦を終わらせます。比丘のみなさん。こういうのをサマナプンダリーカと言います。

 比丘のみなさん。サマナパドゥマ(紅蓮のようなサマナ)とはどのようでしょうか。この場合の比丘は、初等のサンヨージャナ五つがなくなった不還であり、その有で涅槃し当然その世界から戻ってきません。比丘のみなさん。こういうのをサマナパドゥマと言います。

 比丘のみなさん。サマナスクマーラ(上品なサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、すべての漏が終わったので、漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。こういうのをサマナスクマーラと言います。

 比丘のみなさん。この四種類の人が世界にいて、探すことができます。

増支部チャトゥカニバータ 21巻116頁88項





四種類のサマナ Ⅲ

 比丘のみなさん。この四種類の人が世界にいます。世界で探すことができます。四種類はどれでしょうか。四種類とは、サマナアチャラ、サマナプンダリーカ、サマナパトゥマ、サマナスクマーラです。

 比丘のみなさん。サマナアチャラ(揺れないサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は正しい見解があり、正しい考えがあり、正しい言葉があり、正しい業があり、正しい生活があり、正しい努力があり、正しいサティがあり、正しいサマーディがあります。こういうのをサマナアチャラと言います。

 比丘のみなさん。サマナプンダリーカ(白蓮のようなサマナ)というのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は正しい見解があり、正しい考えがあり、正しい言葉があり、正しい業があり、正しい生活があり、正しい努力があり、正しいサティがあり、正しいサマーディがあり、正しいニャーナ(智)があり、正しい解脱がありますが、彼は名身で八解脱に触れません。比丘のみなさん。こういうのをサマナプンダリーカと言います。

 比丘のみなさん。サマナパドゥマ(紅蓮のようなサマナ)というのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は正しい見解があり、正しい考えがあり、正しい言葉があり、正しい業があり、正しい生活があり、正しい努力があり、正しいサティがあり、正しいサマーディがあり、正しいニャーナがあり、正しい解脱があり、そして名身で八解脱に正しく触れます。比丘のみなさん。こういうのをサマナパドゥマと言います。

 比丘のみなさん。サマナスクマーラ(上品なサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘が消費するチーヴァラ、食べ物、住まい、八物のほとんどは人が懇願するから使う物で、誰にも懇願されない物はわずかです。

 一緒に梵行をする人たちのほとんどは、その比丘に対して望ましい身業、口業、意業の振る舞いをし、望ましくない振る舞いはわずかです。何でもほとんどは満足すべき物で、満足できない物はわずかです。

 胆嚢の病気や、痰や風邪、発疹、季節の変化、不摂生、動きすぎによる病気から生じる苦受、あるいはカンマの報いでも、その比丘には多くなく、彼は病気が少ないです。

 更にその比丘はこの世の幸福な住まいである四つの定を、最高の心に依存して簡単に、難しくなく、大変でなく得ることができます。そして彼は、漏がなくなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を最高の智慧で生きているうちに明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。こういうのをすべてのサマナの中のサマナスクマーラと言います。

 比丘のみなさん。正確に言えば、すべてのサマナの中のサマナスクマーラである人とは、この私こそすべてのサマナの中のサマナスクマーラと呼ぶべきです。

 比丘のみなさん。これらがこの世界にいて、この世界で探すことができる四種類の人です。

増支部チャトゥカニバータ 21巻117頁89項





四種類のサマナ Ⅳ

 比丘のみなさん。この四種類のサマナがいます。世界で探すことができます。四種類はどれでしょうか。四種類とは、サマナアチャラ、サマナプンダリーカ、サマナパトゥマ、サマナスクマーラです。

 比丘のみなさん。サマナアチャラ(動揺しないサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は実践中の有学で、それ以上に素晴らしい物がない実践から生じる安全なダンマである涅槃を望んでいます。

 聖水注頂礼を受けた国王の王太子は、聖水注頂礼をするにふさわしい人ですが、まだ皇太子の地位を維持しているように、比丘のみなさん。有学の比丘も実践中で、それ以上に素晴らしい物がない実践から生じる安全なダンマである涅槃を望んでいます。比丘のみなさん。こういうのをサマナアチャラと言います。

 比丘のみなさん。サマナプンダリーカ(白蓮のようなサマナ)という人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての漏がなくなって漏を探すことができない心解脱・智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいます。しかし彼は名身で八解脱に触れていません。比丘のみなさん。このようなのをサマナプンダリーカである人と言います。

 比丘のみなさん。サマナパドゥマ(紅蓮のようなサマナ)という人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は漏がなくなって漏を見つけることができない心解脱、智慧解脱を、最高の智慧で生きているうちに明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいます。そして彼は名身で八解脱に触れています。比丘のみなさん。こういうのをサマナパドゥマである人と言います。

 比丘のみなさん。サマナの中のサマナスクマーラ(上品なサマナ)である人とはどのような人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、消費するチーヴァラ、食べ物、住まい、八物のほとんどは、人が懇願されて使う物で、誰にも懇願されない物はわずかです。(この後は、前にあるサマナスクマーラである人の場合と同じです)。

 比丘のみなさん。こういうのをサマナの中のサマナスクマーラと言います。比丘のみなさん。この私こそ、すべてのサマナの中のサマナスクマーラと呼ぶべきです。

 比丘のみなさん。これら四種類の人がいます。この世界で探すことができます。

増支部チャトゥカニバータ 21巻113頁87項





四種類のサマナ Ⅴ

 比丘のみなさん。この四種類のサマナがいます。この世界で探すことができます。四種類はどれでしょうか。四種類は、サマナアチャラ、サマナプンダリーカ、サマナパトゥマ、サマナスクマーラです。

 比丘のみなさん。サマナアチャラ(動揺しないサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は有学で、まだ実践中で、まだ到達していない心の目的があり、これ以上に素晴らしい物がない努力から生じる安全なダンマを望んでいます。比丘のみなさん。こういうのをサマナアチャラと言います。

 比丘のみなさん。サマナプンダリーカ(白蓮のようなサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は「形はこのよう、形の発生はこのよう、形の消滅はこのよう、受はこのよう、受の発生はこのよう、受の消滅はこのよう、想はこのよう、想の発生はこのよう、想の消滅はこのよう、

行はこのよう、行の発生はこのよう、行の消滅はこのよう、識はこのよう、識の発生はこのよう、識の消滅はこのよう」と平素から五取蘊すべての発生と消滅が見える人ですが、彼は名身で八解脱に触れていません。比丘のみなさん。こういうのをサマナプンダリーカと言います。

 比丘のみなさん。サマナパドゥマ(紅蓮のようなサマナ)の人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は「形はこのよう、形の発生はこのよう、形の消滅はこのよう、受はこのよう、受の発生はこのよう、受の消滅はこのよう、想はこのよう、想の発生はこのよう、想の消滅はこのよう、

行はこのよう、行の発生はこのよう、行の消滅はこのよう、識はこのよう、識の発生はこのよう、識の消滅はこのよう」と平素から五取蘊すべての発生と消滅が見える人で、そして名身で八解脱に触れています。比丘のみなさん。こういうのをサマナパドゥマと言います。

 比丘のみなさん。サマナ集団の中のサマナスクマーラ(上品なサマナ)と呼ぶ人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘が消費するチーヴァラ、食べ物、住まい、八物のほとんどは、人が懇願するから使うもので、誰にも懇願されない物はわずかです。

 一緒に梵行をする人たちのほとんどは、その比丘に対して望ましい身業、口業、意業の振る舞いをし、望ましくない振る舞いをする人はわずかです。何でもほとんどは満足すべき物で、満足できない物はわずかです。

 胆汁の病気や痰や風、発疹、季節の変化、不摂生、動きすぎによる病気から生じる苦受、あるいはカンマの報いでも、その比丘にとって多くありません。彼は病気が少ないです。更にその比丘はこの世での幸福な住まいである四つの定を、最高の心に依存して簡単に、難しくなく、大変でなく得ることができます。

 そして彼は漏がなくなって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。こういうのをサマナ集団の中のサマナスクマーラと言います。比丘のみなさん。この私こそ、すべてのサマナ集団の中のサマナスクマーラと言うべきです。

 比丘のみなさん。これら四種類の人がいて、世界で探すことができます。

増支部チャトゥカニバータ 21巻118頁90項





それぞれの教義のサマナは、他の教義のサマナと違う
(だから梵行は同じではない)

 比丘のみなさん。(一番目の)サマナはこのダンマヴィナヤにいます。二番目のサマナもこのダンマヴィナヤにい、三番目のサマナもこのダンマヴィナヤにい、四番目のサマナもこのダンマヴィナヤにいます。他の教義に他の教義のサマナはいません。

 比丘のみなさん。みなさんは、このように正しく獅子吼を響き渡らせなさい。

中部ムーラパンナーサ 12巻128頁154項


 (このブッダの言葉は、言葉は基準にできないことを説いています。同じ言葉でも教義によって意味が違い、そして論争や侮辱し合う原因になるかもしれないので、注意しなければなりません)。





(四聖人の)名前を理由に、誰が誰より良いと言うことはできない

 プラサヴィッダという長老僧はサッダーヴィムッタ(四聖諦を理解し、信仰に導かれて漏を滅す人。信解脱者)式の実践を称賛し、プラマハーコッディダはカーヤサッキー(禅定と智慧の両方で漏を滅す人。身証者)式の実践を称賛し、プラサーリプッタはディッティパッタ(四聖諦を理解し、智慧で見ることで漏を滅す人。見至者)式の実践を称賛し、どなたも達成するまでその実践に依存したので、三つのうちどれがどれよりふさわしく、美しく緻密かを知るために、三人揃って世尊を訪ねました。

 サーリプッタ。三群の人たちのうちどれが美しく、どれが緻密かを一言で言うのは簡単ではありません。

 サーリプッタ。信解脱者の人たちは阿羅漢果のために実践し、カーヤサッキー(身証者)の人たちはまだ一来又は不還だけで、至見者もまだ一来又は不還だけということもあります。だから三群のうち、どれがどれより美しく緻密かを一概に言うのは簡単ではありません。

 サーリプッタ。身証者の人たちは阿羅漢果のために実践し、身解脱者の人と至見者の人たちはまだ一来又は不還だけということもあり得ます。だから三群のうち、どれがどれより美しく緻密かを、一概に言うのは簡単ではありません。

 サーリプッタ。至見者の人たちは阿羅漢果のために実践し、信解脱者の人と身証者の人たちはまだ一来又は不還だけということもあります。だから三群のうち、どれがどれより美しく緻密かを、一言で言うのは簡単ではありません。

 増支部ティカニバータ 20巻151頁460項


 (これは、信解脱者、身証者、至見者という言葉の意味に依存して、どの人たちが良いか、勝るかをを判断できないことを説明しています。なぜなら預流、一来、不還、阿羅漢と、明らかな結果を表すために規定した名前以外には、それぞれの人が実践のどの過程にいるか分からないからです)。





道を教える人と旅人は、同じ解脱をする

 比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、倦怠、欲情の弛緩、消滅、そして執着しないことで形から解脱したので「サンマーサンブッダ(自分で大悟したブッダ)」と呼ばれます。

 比丘のみなさん。智慧解脱者である比丘も、倦怠、欲情の弛緩、消滅、そして執着しないことで形から解脱したので「パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)」と呼ばれます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。二種類の人が同じように形から解脱するなら、何の違い、どんな目的の違いで阿羅漢サンマーサンブッダと智慧解脱者の違いが生じるのでしょうか。

 比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、まだ生じていない道を生じさせ、誰も知らない道を人に教え、誰も話さなかった道を話される道にしたので、如行はマッガンニュー(道を知る人)であり、マッガヴィドゥー(道を明らかに知る人)であり、マッガコヴィドー(道に賢い人)です。

 比丘のみなさん。一方現在のすべての弟子たちはマッガーヌガー(道に沿って歩く人)、後から追ってくる人です。

 比丘のみなさん。これが違いであり、目的の違いであり、阿羅漢サンマーサンブッダと智慧解脱者の違いを生じさせるものです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻81頁125項





聖諦を知ることで歩速を測る

 比丘のみなさん。四つがあるよく訓練された国王の馬は、当然国王にふさわしい馬で、王の道具であり、王の体の一部と見なされます。四つとは何でしょうか。四つとは毛並み、力、速さ、体型で、これらが完璧なことです。

 比丘のみなさん。同じように四つのダンマがある比丘は、当然招待を受けるにふさわしく、供養を受けるにふさわしく、布施を受けるにふさわしく、合掌されるにふさわしい人で、そしてこれ以上の徳田はない世界の徳田です。

 四つのダンマとはどのようでしょうか。四つとは、肌の艶、力、速さ、容姿が完璧なことです。

 比丘のみなさん。肌の色つやが完璧な比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は戒がある人で、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意をし、行儀と拠り所が完璧で、どんな小さなことと見なされていることでも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を学んで遵守します。

 比丘のみなさん。力が完璧な比丘とはどのようでしょうか。この場合の比丘は、悪であるダンマを捨てるため、善であるダンマを満たすために努力を始めた人で、(心に)力があり、確実に前進する努力をし、どんな善の仕事も投げ出しません。

 比丘のみなさん。速さが完璧な比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と真実のままに明らかに知っています。

 比丘のみなさん。容姿が完璧な比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は、普段からチーヴァラ、食べ物、住まい、八物が手に入ります。

 比丘のみなさん。この四つがある比丘は当然招待を受けるにふさわしい人で、供養を受けるにふさわしい人で、布施を受けるにふさわしい人で、合掌されるにふさわしい人で、そしてこれ以上の徳田はない、世界の徳田です。

増支部チャトゥカニバータ 21巻337頁259項


 (その後の経:21巻338頁360項では、速さが完璧な比丘を「漏がなくなったので漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、常にその感覚の中にいます」と説明しています。ここでの速さとは俊馬のように苦を追い越す到達の速さを意味します。

 そして他の経:20巻316頁537項では、速さが完璧な比丘を「突然生まれ、その有で般涅槃し、その世界に戻らない人不還」と説明されています)。





有が消滅する側を選ぶことを知っている人

 長者のみなさん。「有がすべて消滅することはない」と、このように発言する、このような考えのサマナ・バラモンたちがいます。しかし別のサマナ・バラモンたちは、反対に「有がすべて消滅することはある」と言います。長者のみなさん。みなさんはどう考えますか。これらのサマナ・バラモンの言葉は正反対ではありませんか。

 「そのとおりです。猊下」。

 長者のみなさん。分別のある人は「有のすべてが消滅することはないと、このように言うサマナ・バラモンがいるが、私はそう見ない。有のすべてが消滅することはあると言うサマナ・バラモンもいるが、これを私は知らない。私が知らないのに、見えないのに、言葉だけでこっちが真実で他のは違うと言うのは私にふさわしくない。

有のすべてが消滅することはないと見るサマナ・バラモたちの言葉が本当なら、私が形のない天人の群れの中に生まれ、確実に識でできている自我がある。しかし有のすべてが消滅することはあると見るサマナ・バラモンの言葉が本当なら、私は現生で般涅槃することはあり得る。有のすべてが消滅することはないと言うサマナ・バラモンたちはの見解は、

どちらかと言えば惚れ込み、有があり、夢中になり、酩酊し、取で執着する。有のすべてが消滅することはあると見るサマナ・バラモンたちのの見解は、どちらかと言えば有がなくなり、夢中にならず、酩酊せず、取で執着しない」とこのように熟慮します。

 その分別者はそのように熟慮して倦怠し、欲情が緩み、すべての有が消滅する実践を選びます。

中部マッジマバンナーサ 13巻118頁121項





幸福に暮らす人は離欲を現せる 

 比丘のみなさん。努力の結果はどのように現れるでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤ(法と律。宗教という意味)の比丘は、当然苦が山積みでない自分に苦を山積みせず、今あるダンマのある幸福を捨てる必要はなく、そしてその幸福に陶酔しません。

 その比丘は「苦の原因を作ることを感情として維持している時、その作ることが原因でヴィラーガ(離欲)が生じる。そしてその苦の原因に注目して益々注目に励めばヴィラーガ(離欲)が生じる」とこのようにハッキリと知っています。

 その比丘が何らかの苦の原因を作ることを感情にし、何らかの苦の原因に注目し、益々注目すれば、当然その作ることが原因で彼に離欲が生じます。

 こうして彼はその苦の原因を作ることを(更に)感情として維持します。そして彼がその苦の原因を作ることを感情として(更に)維持すれば、その作ることが原因で離欲が生じ、その時彼の苦は消滅します。彼がその苦の原因に注目してますます注目すれば、離欲が生じ、そうなった時彼の苦は消滅します。(これが、努力が結果を生む様相です)。

 比丘のみなさん。ある女を非常に好きになって惚れ込んで追い掛けている男は、その女が他の男と立っているのを見ると、話しているのを見ると、クスクス笑っているのを見ると、悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じますね。

 「そうです。猊下」。

 それはなぜですか。

 「その男がその女を気に入って、惚れ込んで追い掛けているからです」。

 比丘のみなさん。その後その男性が「悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じるのは、私が彼女を非常に気に入って惚れ込んで注目しているからだ。それなら彼女へのチャンタラーガ(欲貪)を捨ててしまおう」と考え、捨ててしまいます。その後彼は、その女が他の男性と立っているのを見、話しているのを見、クスクス笑っているのを見た時、再び悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じるでしょうか。

 「いいえ。猊下」。

 それはどうしてですか。

 「猊下。その男性はその女性に対して貪りがないからです」。

 比丘のみなさん。努力は、このような状況にも結果があります。

中部ウパリバンナーサ 14巻13頁12項


 (これは、その男が苦の原因を作っている時離欲が生じることができ、更に彼が苦の原因に注目していれば更に離欲が生じ、最後には彼女つまり苦の貪りを捨てることができると言うことを説いています。

 まだ苦がない人は苦の原因を作らないで、ダンマで正しい幸福があってもその幸福に酔わなければ、苦のない自分に苦を持って来て積み上げないと言われ、そして苦の離欲があります。これは当然可能です)。




いろんなレベルの苦から自分を抜き出す人

 比丘のみなさん。水に落ちた人に例えられる人はこの七種類あり、世界で探すこと、見ることができます。七種類とはどれでしょうか。比丘のみなさん。この場合は、

1 一度沈んで、沈んだままの人

2 一度浮き上がった後、沈んだままの人

3 浮き上がって立っている人

4 浮き上がって周囲を見回している人

5 浮き上がって岸へ歩いていく人

6 浮き上がって浅い方へ歩いて行く人

7 向こう岸に着いて、陸へ上がって立っているバラモンである人

 比丘のみなさん。①一度沈んで、沈んだままの人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は悪の側のダンマしかない人です。こういうのを「一度沈んだら沈んだまま」と言います。

 比丘のみなさん。②一度浮き上がって沈んだままの人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりすべての善に信仰があり、慙(罪を恥じること)があり、愧(罪を恐れること)があり、精進があり、すべての善に智慧がありますが、その人の信仰等は発展せず衰退していきます。こういうのを「一度浮き上がって沈んだまま」と言います。

 比丘のみなさん。③浮き上がって立っている人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりすべての善に信仰があり、慙があり愧があり、精進があり、すべての善に智慧があります。そしてその人の信仰等は衰退も発展もせず、そのままの状態を維持します。こういうのを「浮かんだまま立っている」と言います。

 比丘のみなさん。④浮き上がって周囲を見回している人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりすべての善に信仰があり、慙があり、愧があり、精進があり、すべての善に智慧があります。その人はサンヨージャナ(結)の三つがなくなった預流であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実な人で、将来必ず悟ります。こういうのを「浮き上がって周囲を見回している」と言います。

 比丘のみなさん。⑤浮き上がってから、岸へ泳いで行く人とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりすべての善に信仰があり、慙があり、愧があり、精進があり、すべての善に智慧があります。その人はサンヨージャナの三つがなくなって、貪・瞋・痴が薄くなった一来であり、この世界にもう一度だけ戻って来て苦を終わらせる人です。こういうのを「浮かんで岸へ歩いて行く」と言います。

 比丘のみなさん。⑥浮き上がってから、浅い方へ歩いていく人とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりすべての善に信仰があり、慙があり、愧があり、精進があり、すべての善に智慧があります。その人はサンヨージャナの初等の五つがなくなった不還であり、その有で般涅槃し、当然その世界から戻ってきません。こういうのを「浮かんで浅い方へ歩いて行く」と言います。

 比丘のみなさん。⑦向こう岸に着いて陸へ上がって立っているバラモンはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は浮き上がる、つまりつまりすべての善に信仰があり、慙があり、愧があり、精進があり、すべての善に智慧があります

 。その人は漏がなくなって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいます。こういうのを「浮かび上がって岸に到達し、上陸してバラモンになって立っている」と言います。

 比丘のみなさん。これが七種類の水に落ちた人の例えです。これは世界にいます。世界で探すことができます。

増支部サッタカニバータ 23巻10頁135項


 


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