自分がなくなれば執着もなくなる

 比丘のみなさん。(話を)聞いた聖なる弟子はすべての聖人が見え、聖人のダンマに賢い人で、聖人のダンマの忠告を受け、善人の集団が見え、善人のダンマに賢い人で、善人のダンマの忠告を受けます。

(1) その方は当然、形を自分と見ず、自分は形があると見ず、形は自分の中にあると見ず、自分は形の中にあると見ません。

(2) その方は当然、受を自分と見ず、自分は受があると見ず、受は自分の中にあると見ず、自分は受の中にあると見ません。

(3) その方は当然、想を自分と見ず、自分は想があると見ず、想は自分の中にあると見ず、自分は想の中にあると見ません。

(4) その方は当然、行を自分と見ず、自分は行があると見ず、行は自分の中にあると見ず、自分は行の中にあると見ません。

(5) その方は当然、識を自分と見ず、自分は識があると見ず、識は自分の中にあると見ず、自分は識の中にあると見ません。

 比丘のみなさん。このように聞いた聖人の弟子はこのようです。私如行はその人を、執着する物である形・受・想・行・識に心を繋がれることがなく、内外のどんな物にも執着しない人であり、平素からこちら側(輪廻)も見え、あちら側(涅槃)も見える人と言います。私如行は、その聖人である弟子は、苦から解脱すると言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻201頁305項





自分がなくなればアハンカーラ(我慢)がなくなる

 「猊下。人はどのように知り、どのように見れば、この識がある体と外部すべてのニミッタに慢随眠である自分という執着、自分の物という執着がなくなるですか」。

 カッパさん。形・受・想・行・識はどれも、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、粗雑ても緻密でも、上等でも下等でもでも、遠くにあっても近くにあっても、聖なる弟子はそのすべてを「それは自分の物ではない。それは自分ではない。それは自分の実体ではない」と正しい智慧で真実のままに見ます。

 カッパさん。人はこのように知り、このように見なければなりません。そうすれば識のあるこの体とすべての外部のニミッタに、慢随眠である自分という執着、自分の物という執着はなくなります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻206頁318項





 「猊下。人はどのように知りどのように見れば、この識がある体と外部すべてのニミッタに傲慢にさせるマーナ(慢)である「自分」という執着、「自分の物」という執着のない自然な心になるのですか。どのように知り、どのように見れば、心がマーナを超えることができ、鎮まって解脱できるのですか」。

 カッパさん。形・受・想・行・識のどれも、過去でも未来でも現在でも、内部にあっても外部にあっても、上品でも下品でも、雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、聖なる弟子はそのすべてを「それは自分の物ではない。それは自分ではない。それは自分の実体ではない」とこのように正しい智慧で真実のままに見ます。このようになれば執着しないので解脱します。

 カッパさん。人はこのように知り、このように見なければなりません。そうすれば心は、識のあるこの体と外部すべてのニミッタに執着する物である自分という執着がなく、自分の物という執着がない自然になり、そして心はマーナを越えて鎮まることができ、素晴らしい解脱をします。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻207頁319項





明の要素である想

 比丘のみなさん。この六つのダンマは、明(ヴィッチャーバーギヤ)の一部分であるダンマです。六つはどのようでしょうか。六つとは、

 アニッチャサンニャー(無常という想。無常想)、

 アニッチェドゥッカサンニャー(無常である物の苦という想。無常苦想)、

 ドゥッケーアナッタサンニャー(苦である物は自分ではないという想。苦無我想)、

 パハーナサンニャー(捨てる想)、

 ヴィラーガサンニャー(欲情が緩む想。離貪想)、

 ニローダサンニャー(消滅する想。滅想)です。

 比丘のみなさん。この六つのダンマがヴィッチャー(明)の一部分であるダンマです。

増支部チャッカニバータ 22巻272頁306項





明に到達した人

 「猊下。ヴィッチャー(明)、ヴィッチャーと言われている言葉はどのようですか。そしてどれほどの理由でおっしゃっているのでしょうか。猊下」。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤで聞いた聖なる弟子は、形・受・想・行・識を明らかに知り、形・受・想・行・識の発生を明らかに知り、形・受・想・行・識の消滅を明らかに知り、形・受・想・行・識の消滅に至る道を明らかに知ります。

 比丘のみなさん。こういうのをヴィッチャー(明)と言います。そしてヴィッチャーに到達した人は、当然これだけの理由です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻198頁301項





明に達した人の明

 「猊下。ヴィッチャー(明)、ヴィッチャーと言われている言葉はどのようですか。そしてどれほどの理由で人はヴィッチャーに達したと言われるのですか。猊下」。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聞いた人である聖なる弟子は、当然発生のある形・受・想・行・識を「当然発生がある物」と真実のままに明らかに知り、当然衰退のある形・受・想・行・識を「当然衰退がある物」と真実のままに明らかに知り、当然発生と消滅がある形・受・想・行・識の消滅を「当然発生と衰退がある物」と、真実のままに明らかに知ります。

 比丘のみなさん。こういうのを私はヴィッチャー(明)と言います。そしてヴィッチャーに達した人は当然これだけの理由であり得ます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻210頁321項





四大種に関わる実践の結果を得た人

 ラーフラ。内部でも外部でも土界は土のダートゥ(要素)にすぎません。あなたは土界を土界と、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見なければいけません。その土界を正しい智慧で真実のままに見る人は、当然土界に倦怠し、土界の欲情が緩みます。

 (水界・火界・風界の場合も、土界の場合と同じように話されています)。

 ラーフラ。比丘がこの四大種を自分と見ず、自分の物と見なければ、ラーフラ、その比丘を私は「欲望を断つことができた。サンヨージャナ(動物を輪廻に結びつけるもの。結)を壊すことができた。慢を正しく知ることで、苦を終わりにした」と言います。

増支部チャトゥカニバータ 21巻222頁177項





悪魔の釣り針を飲み込まない人

 比丘のみなさん。望ましい物、可愛らしく満足できる物、心を魅了して愛させる物であり、愛の住処であり、そして惚れ込むことの基盤である目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で触れる接触、そして心で明らかに知る感情(概念)があります。

 形などがある感情に恍惚とせず、際限なく喋らず、虜になって惑溺しない比丘は誰でも、比丘のみなさん。このような比丘を私は「悪魔の針を壊し、針を粉々に折った悪魔の釣り針を飲み込まない人。危険に至らず、破滅に至らず、罪な心の悪魔が好き勝手にできない人」と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 17巻198頁290項





近寄らない人は当然解脱する

 比丘のみなさん。近寄っていく人は解脱しない人で、近寄らない人は解脱する人です。

 比丘のみなさん。形を掴んで維持する識も維持でき、感情である形があり、住処である形があり、放蕩するナンディがある識も成長でき、比丘のみなさん。受を掴んで維持している識も維持でき、感情である受があり、住処である受があり、放蕩するナンディがある識があれば、成長できます。

 比丘のみなさん。想を掴んで維持している識も維持でき、感情である想があり、住処である想があり、放蕩するナンディがある識も成長でき、比丘のみなさん。行を掴んで維持している識も維持でき、感情である行があり、住処である行があり、放蕩するナンディがある識も成長できます。

 比丘のみなさん。誰かが「私は識が行くこと、来ること、終わり、発生、発展、成長、そして繁栄を、形・受・想・行を除外して規定する」とこのように言うなら、それはあり得ません。

 比丘のみなさん。その比丘が貪りを捨てることで、形界・受界・想界・行界・識界の貪りを捨てることができれば、識のための感情もなくなり、識の基盤もありません。

 基盤のない識は成長せず、変化することがないので解脱します。解脱すれば非常に安定し、非常に安定すれば自分を喜び、自分を喜べば動揺がなく、動揺がなければ本人だけの般涅槃です。当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならない仕事はもうない」と、明らかに知ります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻66頁105項





閻魔大王を迷わす人

 比丘のみなさん。話を聞かない凡夫は当然「海」「海」と話しますが、比丘のみなさん。その言っているような海は聖人のヴィナヤ(律)の海ではありません。比丘のみなさん。その話されている海はただの大きな池でしかなく、大きな渕でしかありません。

 比丘のみなさん。望ましく、可愛らしく、満足でき、心を魅了して愛させ、愛の住処であり、そして惚れ込むことの基盤である目で見る形があります。比丘のみなさん。これを私は「聖人のヴィナヤの海」と言います。

 天人界と悪魔界と梵天界も含めたこの世界と、天人も人間もサマナ・バラモンも含めた動物群の、ほとんどはその海に落ちて沈んでいます。欲望がある人の心は糸玉のように、鳥の巣のように、ムッチャやパッバチャの草薮のように絡み合っているので、その海のすべての動物は破滅、悪趣、報いを受ける所、そして輪廻から脱すことができません。

比丘のみなさん。望ましく愛らしく、(中略)耳で聞く声・・・・・・

比丘のみなさん。望ましく愛らしく、(中略)鼻で嗅ぐ臭い・・・・・

比丘のみなさん。望ましく愛らしく、(中略)舌で味わう味・・・・・

比丘のみなさん。望ましく愛らしく、(中略)体で触れる接触・・・・

 比丘のみなさん。望ましく愛らしく、満足でき、心を魅了して愛させ、愛の住処であり、そして惚れることの基盤である心で知る想念があります。比丘のみなさん。これを私は「聖人の律の海」と言います。

 天人界と悪魔界と梵天界も含めたこの世界と、天人と人間とサマナ・バラモンも含めた動物群の、ほとんどはその海に落ちて沈んでいます。欲望がある人の心は糸玉のように、鳥の巣のように、ムッチャ草パッバチャ草の薮のようにもつれるので、その海の中のすべての動物は破滅、悪趣、償いのための生、そして輪廻から脱すことができません。


(経末の詩)

 貪り、怒り、惑溺が薄れれば

 凶暴な動物が棲み、羅刹が棲み

 渦があり、恐ろしく危険で

 非常に越え難い海を越えた人と言われる


 その方は巻き込むものを越えた人で

 死ななければならないことがなく

 随煩悩がない


 その方は再び生まれなければならない苦と絶縁し

 その方は滅尽し、二度と戻って来ない

 閻魔大王を欺くことができる」と言われる。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻196頁287項





解脱は違っても、実践の結果は同じ

 「猊下。マッガ(道)もこの系統で、パティパダー(道)も初等の五つのサンヨージャナを捨てるのに、どうして実践する比丘の何人かは心解脱に達し、何人かは智慧解脱に達すのですか、猊下」。

 アーナンダ。それは比丘の根の違いです。(五根とは、信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根)

中部マッジマバンナーサ 12巻162頁159項





聖人にいろんなレベルがあるのは根の違い

 比丘のみなさん。この五つの根があります。五根とはどのようでしょうか。五つとは信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根です。比丘のみなさん。これが五根です。

 比丘のみなさん。これら五つの根が完璧に揃っていれば、実践者は当然阿羅漢です。

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然アンタラーパリニッバージー(中般涅槃者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然ウパハッチャパリニッバージー(生般涅槃者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然アサンカーラパリニッバージー(無行般涅槃者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然ササンカーラパリニッバージー(有行般涅槃者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然ウッダソトアカニッダガーミー(上流形究天行者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然サカダーガーミー(一来者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然エカビージ―(もう一度生まれれば阿羅漢に至る人。一種)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然コランコラ(後二三回善い家に生まれる人。家々)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然サッタッカカントゥパロマ(極七返生)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然ダンマーヌサーリー(随法行者)で、

 すべての根がそれより弱ければ、実践者は当然サッダーヌサーリー(随信行者)です。


 (19巻267頁885項)比丘のみなさん。根が違うので当然結果に違いがあり、結果の違いで人に違いがあります。

 (19巻267頁887項)比丘のみなさん。このような理由で完璧にする人は、当然完璧な成功をし、一部分だけする人は一部分だけ成功するということです。比丘のみなさん。私は五つの根は当然不毛ではないと言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻271頁899項





聖人になることは不可能ではない

 比丘のみなさん。目と形に依存して明らかな知識が生じ、(目と形と識)三つの会合から当然触が生じ、触が縁で受が生じます。それは幸福だったり、苦だったり、苦でも幸福でもなかったりします。

 比丘のみなさん。幸福の受が触れた時、その人が当然陶酔せず、際限なく喋り捲らず、溺れて虜にならなければ、貪りの随眠はその人の本性に眠りません。

 比丘のみなさん。苦の受が触れた時、その人が当然悲しまず、憂悶せず、嘆かず、胸を叩いて泣かず、自分を見失わなければ、怒りの随眠は当然その人の本性で眠りません。

 比丘のみなさん。苦でも幸福でもない受が触れた時、その人がその受の発生、その苦が維持できないこと、その受の旨味、その受の害、その受から出る方便を明らかに知れば、無明の随眠は当然その人の本性で眠りません。

 (他の内処入と外処入が会合して識、触、そして受が生じる残りの五つの場合も、初めの場合と同じ内容です)。

 比丘のみなさん。その人は随眠つまり幸受の貪りを捨てることができ、随眠つまり苦受の怒りを減らすことができ、随眠つまり無明を根こそぎ抜くことができ、生きているうちに本当に苦を終わらせた人になります。これはあり得ることです。

 中部ウパリバンナーサ 14巻518頁823項





安全なカーヤナガラ(身都)

 比丘のみなさん。七つのサッダンマ(正法)があり、そして現生で幸福に暮らす道具である、最高の心にある四つの定を望みどおりに簡単に、苦労しないで、普通に得られる聖なる弟子を、比丘のみなさん。その時はいつでもその聖なる弟子を「罪のある悪魔が手出しできない人」と呼びます。

 比丘のみなさん。七項目のサッダンマ(正法)がある比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。内部を危険から守り、外部の防衛をするために深く埋め込んだ、ぐらぐら揺らがない柱がある辺境の王都の砦のように、比丘のみなさん、聖なる弟子は信仰があり、「このような理由で世尊は知った人、目覚めた人、明るい人であり、ダンマを分類した人」と、如行(ブッダの一人称。漢訳は如来)の悟りを信じます。

 比丘のみなさん。砦の柱である信仰がある聖なる弟子は、当然悪を捨て善に励み、害のあるカンマを捨て害のないカンマに励んで自分を純潔にします。これを一番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 比丘のみなさん。内部を危険から守り、外部を防衛するために周囲に深くて広い濠を巡らせた辺境の王都のように、比丘のみなさん、聖なる弟子も慚(罪を恥じること)があり、不正な体、不正な言葉、不正な心を捨て、すべての下品な悪を恥じます。

 比丘のみなさん、周囲に巡らした堀である慚(恥)がある聖なる弟子は、当然悪を捨てて善に励み、害のあるカンマを捨て害のないカンマに励んで自分を純潔にします。これを二番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 比丘のみなさん。内部を危険から守り、外部を防衛するために高くて広い土塁が周囲にある辺境の王都のように、比丘のみなさん、聖なる弟子は愧(罪を怖れること)があり、不正な体、不正な言葉、不正な心に驚愕し、すべての下品な悪に驚愕します。

 比丘のみなさん、周囲に巡らせた堀である愧(恐れ)がある聖なる弟子は、当然悪を捨てて善に励み、害のあるカンマを捨て、害のないカンマに励み、自分を純潔にします。これを三番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 比丘のみなさん。内部を危険から守り外部を防衛するために、近くで殺す武器も遠くから殺す武器も、たくさん武器を蓄えている辺境の王都のように、比丘のみなさん、意味も言葉も、初めも美しく中間も美しく終わりも美しく、純潔で完璧な梵行を公開した物であるどのダンマも、聖なる弟子は自分が聞いたスッタ(経)があり、スタを保持し、スッタを集めます。

 彼はたくさん聞いたその時見える形のあるダンマを保持し、すらすらと言え、心は見解で良く洞察します。比丘のみなさん。武器であるスッタがある聖なる弟子は当然悪を捨てて善を発展させ、害のあるカンマを捨てて害のないカンマを発展させ、自分自身を清潔に維持します。これを四番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 比丘のみなさん。多くの軍勢、つまり騎象隊、騎馬隊、戦車隊、弓隊、旗隊、参謀隊、兵站隊、権力者隊、王子隊、突撃隊、大龍隊、勇者隊、櫓漕ぎ隊、装甲隊、外部の守りと内部の統治のための奴隷隊が駐留している辺境の王都のように、比丘のみなさん、聖なる弟子はすべての悪を捨て、すべての善を満たすために始めた努力があり、力があって艱難辛苦に耐え、すべての善の仕事を捨てません。

 比丘のみなさん。軍勢である精進努力のある聖なる弟子は当然悪を捨て、善を発展させ、罪のあるカンマを捨て罪のないカンマを発展させ、自分自身を清潔に維持します。これを五番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 比丘のみなさん。内部を危険から守り外部の危険を防ぐために見知らぬ人を入れず、知っている人だけを入れる博学で賢く、智恵のある門番がいる辺境の王都のように、比丘のみなさん。聖なる弟子はサティのある人で、非常に防ぐ物であるサティがあり、良く思い出し、どんな古いことでも、した事、話した言葉を思い出すことができます。

 比丘のみなさん。門番であるサティがある聖なる弟子は、当然悪を捨てて善を発展させ、害のあるカンマを捨て、害のなりカンマを発展させ、自分を清潔に維持します。これを六番目のサッダンマがある人と言います。

 比丘のみなさん。高くて広い城壁があり、内部を守り外部を防ぐために完璧な建造と壁塗りをした辺境の王都のように、比丘のみなさん。聖なる弟子は智慧のある人で、発生と維持できないことの真実に至る智慧、煩悩に突入して正しい苦の終りに到達させるアリヤである(聖人の)智慧があります。

 比丘のみなさん。智慧がある聖なる弟子は造りと壁塗りが完璧で、当然悪を捨てて善を発展させ、罪のあるカンマを捨て罪のないカンマを発展させ自分を清潔に維持します。これを七番目のサッダンマ(正法)がある人と言います。

 聖なる弟子は、この七つのサッダンマ(正法)がある人です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子がどのようにすれば、最高の心にある、現生で幸福に暮らす道具である四つの定を、望みどおり難しくなく、大変でなく、普通に得られる人になるでしょうか。

 比丘のみなさん。内部で驚愕せず、安楽に暮らす喜びのために外部を防ぐために、草や木や水をたくさん備蓄している辺境の王都のように、比丘のみなさん、聖なる弟子も驚愕せず安楽に暮らす喜びのため涅槃するために、

愛欲が鎮まり悪が鎮まってヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。


 比丘のみなさん。驚愕しないで内部で安楽に暮らす喜びのため外部を守るために、小麦や大麦をたくさん備蓄している辺境の王都のように、比丘のみなさん、聖なる弟子は驚愕することなく安楽に暮らす喜びのため、涅槃するために、

ヴィタッカ・ヴィチャーラが鎮まって、心の内部を明るくする物であり、一つのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、サマーディから生じた喜悦と幸福がある二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。


 比丘のみなさん。内部で驚愕しないで安楽に暮らす喜びのため外部を守るために、ゴマや緑豆、アオイ豆などをたくさん備蓄している辺境の王都のように、比丘のみなさん。

 聖なる弟子は喜悦が薄れて捨にいる人になり、サティと自覚があり、そして驚愕しないで平安に暮らす喜びのため、涅槃するために、聖人が「捨にいる人はサティがあり、正常な幸福で暮らす」と称賛する類の幸福を名身で味わい、三禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。


 比丘のみなさん。内部で驚愕しないで安楽に暮らす喜びのために、外部を守るために、薬つまり透明なバター、濃いバター、油、蜂蜜、サトウキビ汁、そして塩をたくさん備蓄している辺境の王の都のように、比丘のみなさん、

聖なる弟子は驚愕しないで安楽に暮らす喜びのため、涅槃するために、過去の喜びと悲しみが消滅して幸福と苦を捨てることができ、苦も幸福もなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、常にその感覚の中にいます。


 聖なる弟子は、最高の心にある現生で幸福に暮らす道具であるこの四つの定を、生きているうちに望みどおりに得る人で、難しくなく、大変でなく得ることができ、そして常にその感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。聖なる弟子にこの七つのサッダンマがあり、そして最高の心にある現生で幸福に暮らす道具である四禅を、望みどおりに難しくなく、普通に得られる時はいつでも、比丘のみなさん。この聖なる弟子は罪のある悪魔が何もできない人と言うことができます。

増支部サッタカニバータ 23巻109頁64項


 (この体を、都のように守らなければならない物がたくさんあるので、カーヤナガラ=身都と言います。このカーヤナガラには、いつでも邪魔しようと待ち構えている悪魔がいます。聖なる弟子に安楽に暮らす道具である七つのサッダンマ(正法)と四つの定があれば、悪魔は何もできないので、安全なカーヤナガラと見なすことができます。ブッダヴァチャナの美しい比喩です)。





棘のない人

 比丘のみなさん。みなさん(心を突き刺す)棘のない人のように暮らしなさい。

 比丘のみなさん。みなさん棘がなく、突き刺す棘がなくなった人のように暮らしなさい。

 比丘のみなさん。すべての阿羅漢は心を突き刺す棘のない人です。

 比丘のみなさん。すべての阿羅漢は棘のない人、突き刺す棘が消滅した人です。

増支部ダサカニバータ 24巻145頁72項





一人暮らしの人とは、すべてのダンマに熱中しない人

 (比丘仲間で噂になるほど普段一人でいることが好きな、テーラという比丘に話されました)。

 テーラさん。あなたのような一人暮らしはあります。ないとは言いません。しかしあなたのよりもっと広大で完璧な一人暮らしを、よくお聞きなさい。これから話します。

 テーラさん。あなたの一人暮らしよりもっと完璧で広大な一人暮らしはどのようでしょうか。テーラさん。この場合の一人暮らしは、過去の物を捨てることができ、将来の物は生じる余地がなく、現在生じている個人のチャンタラーガ(欲貪)も、全部取り出ました。

 テーラさん。あなたのよりもっと完璧で広大な一人暮らしは、このようです。


経末のガーター(詩)

 善い智慧がある人はすべての感情を支配でき

 すべてのダンマを知って

 すべてのダンマに熱中せず

 すべてのウパティ(依)を捨て

 欲望の終りであるダンマで特別な解脱する


 私はそれを、普段一人暮らしの人と言う

相応部ニダーナヴァッガ 16巻329頁719項


 (この経の翻訳に関しての難題は、pajjuppannesu ja attubavapatilabhesu candarago という文章です。繰り返し熟慮して見ると、「現在の自我のすべてのチャンタラーガ」と訳すべきと見ます。つまり、現在個人の中にたくさんあるチャンダラーガという意味であり、「得た時の」ではありません。

 この場合の自我とは、有、あるいは受から欲望が生じるたびに生じる縁起の流れの中で、心を作り上げる経過の中の、取が縁になって生じる有、あるいは様々な有り様を意味します。それは一日に何回もあるので、ブッダは複数形を使われています。

 つまり patilabhesu 、そして話を現在の話にされているので、支障がなく、過去現在未来のすべてが揃い、揃って解脱した人を「最高に深遠で完璧な一人暮らしの人」と言います)。





欲望が終わった人の体は、しばらくは存在する(滅は死ではない)

 比丘のみなさん。有に導く欲望が如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)によって抜かれてなくなってしまっても、如行の体は維持しています。この体が維持している分だけ、すべての天人と人間は如行を見ることができます。体の崩壊によって命の支配が終わった後は、すべての天人と人間は如行を見ることはありません。

 比丘のみなさん。マンゴーの房の茎が切れれば、当然同じ茎に繋がっているすべてのマンゴーは一緒に落ちるように、比丘のみなさん。 如行の体も同じです。 如行の体は、有に導く欲望が如行によって抜かれてしまって維持しているので、この体が維持している間だけ、すべての天人と人間は、如行を見ることができます。体が崩壊して命の支配が終わった後は、すべての天人と人間が如行を見ることはありません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻59頁90項





阿羅漢は死んだら消滅するのか

 「ゴータマ様。心が最高に素晴らしい解脱をした比丘は、どこに生まれるのですか」。

 ヴァッチャさん。生まれるという言葉を使うべきではありません。

「ゴータマ様。それなら生まれないのですか」。

 ヴァッチャさん。生まれないという言葉を使うべきではありません。

 「ゴータマ様。それなら生まれることもあり、生まれないこともあるのですか」。

 ヴァッチャさん。生まれることもあり、生まれないこともあるという言葉を使うべきではありません。

 「ゴータマ様。それなら心が最高に素晴らしい解脱をした比丘は生まれるのでもなく、生まれないのでもないのですか」。

 ヴァッチャさん。生まれるのでもなく、生まれないのでもないという言葉を使うのは、それもふさわしくありません。

 「ゴータマ様。あなた様の答えは私には訳が分かりません。私は堂々巡りになってしまいました。初めに話された時のあなた様への私の信頼も、今は薄れてしまいました」。

 ヴァッチャさん。あなたに訳が分からないのは当然です。堂々巡りのように感じるのも当然です。このダンマは深い窪で、見るのが難しく知るのが難しいからです。このダンマは静かで緻密なもので、思考で推測できる領域のものではありません。このダンマは高尚なので、博学者は知ることができます。

 この問題はあなたには今までの見方があり、聞いて満足することが違い、託宣されて喜ぶことも違い、違う結果のために実践する努力をし、あなたには別の先生がいるので、だからあなたは知るのが難しいのです。それなら私が質問します。あなたはどうあるべきと思うか、言ってご覧なさい。

 ヴァッチャさん。あなたはこれをどう思いますか。もし目の前で火が燃え上がったら、あなたは目の前で火が燃え上がっていると知ることができますか。

 「ゴータマ様。知ることができます」。

 ヴァッチャさん。目の前で燃え上がっている火は、何に依存して燃えているのかと訊かれたら、あなたはどう答えますか。

 「ゴータマ様。目の前で赤々と燃えている火は、燃料である草や木に依存して燃えています」。

 ヴァッチャさん。あなたの目の前で火が消えたら、あなたは目の前で火が消えたと知ることができますか。

 「ゴータマ様。知ることができます」。

 ヴァッチャさん。あなたの目の前で消えた火はどっちへ行ったか、東か西か、北か南かと訊く人がいたら、あなたはどう答えますか。

 「ゴータマ様。これはそのように言うべきではありません。火は草や木に依存して燃えることができ、燃料が終わり、それ以上燃えるものがなければ、その火は燃料が無いので消滅したと見なさなければなりません」。

 それと同じですよ、ヴァッチャさん。いずれかの形・受・想・行・識の集まりを動物(如行)と規定するなら、それもできます。しかしこの形・受・想・行・識の集まりへの執着を、如行は捨ててなくしてしまい、二度とないように、二度と生じないようにしました。

 ヴァッチャさん。如行は、形・受・想・行・識と見なすことを越えてしまいました。それは海の中の渕のように、誰も推測できず、推測するのが難しい深遠な話です。ヴァッチャさん。だからこれは、生まれると言うべきでなく、生まれないと言うべきでなく、生まれることもあり、生まれないこともあると言うべきでなく、そして生まれないのでもなく、生まれるのでもないと言うべきでもありません。

中部マッジマバンナーサ 13巻245頁248項



 自分への執着が消えた人に、規定する基準(あらゆる類の計測基準)を使う術はありません。その方には、誰かが「その方は何だ」と言える理由、あるいは状態は、それ以後何もありません。

 すべての物から執着が抜き取られてしまい、ヴァーダパタつまりそれらすべてを呼ぶ言葉の流れも、ついでに抜き取られ、完全に無意味になりました。

小部スッタニバータ 25巻539頁430項


 


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