ピヤルーパ、サータルーパの秘密を知る人

 比丘のみなさん。世界の愛らしく喜ばしい物(ピヤルーパ、サータルーパ)である感情を、無常であり、苦であり、自分ではない状態と見、突き刺す物、恐ろしい危険と見た遠い昔のサマナあるいはバラモンのどの人たちも、そのサマナ・バラモンたちは、欲望を捨てることができました。

 比丘のみなさん。世界の愛らしく喜ばしい物である感情を、無常であり、苦であり、自分ではない状態と見、突き刺す物、恐ろしい危険と見る未来のサマナあるいはバラモンのどの人たちも、そのサマナ・バラモンは、欲望を捨てることができます。

 比丘のみなさん。世界の愛らしい喜ばしい物である感情を、無常であり、苦であり、自分ではない状態と見、突き刺す物、恐ろしい危険と見る現在のサマナ・バラモンのどの人たちも、そのサマナあるいはバラモンたちは、当然欲望を捨てることができます。

 比丘のみなさん。欲望を捨てることができたサマナ・バラモンは誰でも、それらのサマナ・バラモンは当然ウパディ(すべての依存する物。しがらみ。依)を捨てることができ、ウパディを捨てることができれば、当然苦を捨てることができ、苦を捨てることができれば、当然生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから脱します。

 私はそのサマナあるいはバラモンを、苦から脱すことができたと言います。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻134頁261項





境界を探すことができない心の人

 比丘のみなさん。すべての動物がまだ五取蘊の旨味を旨味として真実のままに知らない間は、五取蘊の害を害と真実のままに知らず、五取蘊から出る方便を方便とまだ真実のままに知りません。

 比丘のみなさん。すべての動物がまだ走って脱出する人と呼ばれない間は、引っ掛ける物がない解脱した人と呼ばれず、まだこの世界の範囲、悪魔界、梵天界の範囲にいる人で、まだ動物の群れ、サマナの群れ、バラモンの群れ、そして天人と人間の領域にいる人です。

 比丘のみなさん。すべての動物が五取蘊の味を味と真実のままに知り、五取蘊の害を害と真実のままに知り、五取蘊から出る方便を方便と真実のままに知れば、比丘のみなさん。

 その時その動物は走って脱出する人、引っ掛かる物がない解脱した人、限界のない心の人で、この世界の中、天人界、悪魔界、梵天界の中に住み、動物の群れ・サマナの群れ・バラモンの群れの中、人間と天人の群れの中で暮らしている人と呼ばれます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻38頁63項





欲望に勝った人の内心の感想

 私がまだニャーナ(知ること。智)に出合っていない時は、輪廻のいろんな生に駆けて行って回遊し、家を建てる職人、つまり有を作る欲望を求め、生まれる度に苦を繰り返した。

 監獄の建築主よ。私はお前を知ってしまった。お前は二度と家を造って私を住まわせることはできない。お前の骨組みをすべて折ってしまい、家の先端を壊してしまった。私の心は欲望がなくなって、何物も変化させられない状態に達した。

小部ダンマパダ 25巻35頁21項





七段階の聖人

 比丘のみなさん。これら七種類の人が世界にいます。世界で探すことができます。七種類はどのようでしょうか。七種とは、ウバトーバーガヴィムッタ(倶分解脱者)、パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)、カーヤサッキー(身証者)、ディッティッパッタ(見至者)、サッダーヴィムッティ(信解脱者)、ダンマーヌサーリー(随法行者)、サッダーヌサーリー(随信行者)です。


1.倶分解脱者

 比丘のみなさん。倶分解脱者はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は形を越えてしまったので、形に関わらない静まった解脱であるすべての解脱に名身で触れ、そしてその感覚の中にいます。そしてその人のすべての漏は智慧で明らかに見ることでなくなります。

 この比丘はまだ注意深くしなければならないことが残っていると、私は言いません。それは何故でしょうか。それは、その人が油断せずにしなければならない仕事は終わり、そして二度と不注意な人にならないからです。


完璧な倶分解脱者

 (倶分解脱者とは八解脱に精通し、漏を探すことができない心解脱、智慧解脱で解脱した人です。八解脱の詳細は次に引用します)。

 アーナンダ。これらの八解脱があります。どの八つでしょうか。八つとは、

1 (サマーディの感情である)形がある人は当然(それらのサマーディニミッタである)すべての形が見えます。これが一つ目の解脱です。(当然解脱があり、すべての蓋の威力から出ます)。

2 内面に(サマーディの感情にするための)形想がない人は当然、外面である(サマーディの感情のための)すべての形が見えます。これが二番目の解脱です。(当然解脱があり、すべての蓋の威力から脱します)。

3 「美しい」という感覚だけ(サマーディの形相)に心を傾ける人です。これが三番目の解脱です。(当然解脱があり、すべての蓋の威力、特に汚物の汚物という感覚の妨害から出ます)。

4 すべての形想をことごとく越えることで瞋恚想が消滅し、すべての想を気に留めなくなることで心の中を「無限の空」にする空無辺処の到達した人であり、そして常にその感覚の中にいます。これが四番目の解脱です。(当然解脱があり、形である物に影響を生じさせる、すべての形と結びつけるすべての形想の威力から脱します)。

5 空無辺処をことごとく越えることで心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、常にその感覚の中にいます。これが五番目の解脱です。(当然解脱があり、初めの抽象と結びつける空無辺処の威力から脱します)。

6 識無辺処のすべてを越えることで心の中を「無」にする無所有処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいます。これが六番目の解脱です。(当然解脱があり、二番目の抽象と結び付ける無所有処の威力から脱します)。

7 無所有処をすべて越えることで非想非非想処に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが七番目の解脱です。(当然解脱があり、三番目の無形と結びつける非想非非想処の威力から脱します)。

8 非想非非想処のすべて越えることで想受滅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これが八番目の解脱です。(当然解脱があり、四番目の無形と結び付ける想受滅の威力から脱します)。

 アーナンダ。これらが八解脱です。


 アーナンダ。随従でも拒否でも、随従と拒否の両方でも、望む時に望む物に望みどおりに、出たり入ったりできます。これらの解脱に到達した比丘は、すべての漏が終わって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにします。

 アーナンダ。その比丘をウバトーバーガヴィムッティ(二つの部分で解脱した人。倶分解脱者)と言います。

 アーナンダ。この倶分解脱よりもっと緻密な、もっとすごい倶分解脱も、当然あります。




倶分解脱者(アーナンダの言葉で)

 「先輩。倶分解脱、倶分解脱と話している言葉があります。先輩。この倶分解脱者とは、世尊はどれほどの理由でそう言われているのですか」。プラウダージがプラアーナンダに質問し、プラアーナンダが答えています。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が鎮まり、悪が鎮まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 更に処である定は(味や働きなどがある想念である)ように、その人は(味と働きで)その想念に名身で触れ、そして常にその感覚の中にいます。そしてその人は、智慧でダンマ(つまり初禅)を知り尽します。先輩。世尊が言われた倶分解脱者とは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接倶分解脱で話しています。漏が終わる想受滅は、間接的に倶分解脱で話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、その感覚の中にいます。更に智慧で見ることで、その人のすべての漏は完全に終わります。更に処であるの想受滅は(想念であり、味と働きがあるように)、その人は(味と働きで)その想念に名身で触れ、そしてその感覚の中にいます。

 そしてその人は、智慧でダンマ(その想受滅)を知り尽します。先輩。世尊が言われる倶分解脱者は、直接言えばこれだけの原因です。



2.パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)Ⅰ

 比丘のみなさん。パンニャーヴィムッタ(智慧によって解脱した人)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は形を越えてしまったので、形に関わらない鎮まった解脱であるどんな解脱もあります。その人はそれらの解脱に名身で触れることはありませんが、その人のすべての漏は智慧で明らかに見ることでなくなります。

 比丘のみなさん。私はこれをパンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)と呼びます。比丘のみなさん。この比丘が不注意にならないためにしなければならないことは残っていないと私は言います。それは何故でしょうか。その人は注意深くしなければならない仕事が終わり、そして二度と不注意な人に戻ることはないからです。



パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)Ⅱ

 アーナンダ。この七つのヴィンニャーナティティ(七識住)と二処があります。どれが七識住でしょうか。七識住とは、

1.アーナンダ。体が違い想が違ういろんな動物がいます。つまりすべての人間、ある種の天人、そしてある種の餓鬼で、これが初めの七識住です。

2.アーナンダ。体が違い想が同じいろんな動物がいます。つまり初めに生まれた梵天に関わっている天人と四悪趣のいろんな動物で、これが七識住の二番目です。

3.アーナンダ。体が同じで想が違ういろんな動物がいます。つまり第六天(二禅)に生まれた天人で、これが七識住の三番目です。

4.アーナンダ。体が同じで想も同じいろんな動物がいます。つまり第九天(三禅)に生まれた天人で、これが七識住の四番目です。

5.アーナンダ。形想をことごとく越え、瞋恚想が消滅し、いろんな想に関心がなくなり、心の中を「無限の空」にする空無辺処に達したいろんな動物がいます。これが七識住の五番目です。

6. アーナンダ。空無辺処をことごとく越えて、心の中を「無限の識」にする識無辺処に達したいろんな動物がいます。これが七識住の六番目です。

7.アーナンダ。識無辺処をすべて越えて、心の中を「無」にする無所有処に達したいろんな動物がいます。これが七識住の七番目です。

 二つの処は、無想有情処と非想非非想処です。

 アーナンダ。七識住と二処の中に、一番目の識住がいます。つまり体が違い、想が違ういろんな動物で、すべての人間、ある種の天人、そしてある種の餓鬼です。

 アーナンダ。一番目の識住を明らかに知り、それの発生を明らかに知り、それの消滅を明らかに知り、それの旨味を明らかに知り、それの低劣な害を明らかに知り、そしてそれから出る方便を明らかに知った人は誰でも、その人はその識住に最高に陶酔するでしょうか。

 「それはあり得ません。猊下」。


 (二番目、三番目、四番目、五番目、六番目、七番目の識住についても、上記の一番目と同じような説明と質問と答えがあります。二番目の非想非非想処は、もう一度全文を引用します)。

 アーナンダ。七識住と二処の中に、非想非非想処があります。アーナンダ。非想非非想処を明らかに知り、その発生を明らかに知り、その消滅を明らかに知り、その旨味を明らかに知り、その低劣な害を明らかに知り、それから出る方便を明らかに知る人は誰でも、その人はその非想非非想処に極めて陶酔するでしょうか。

 「それはあり得ません。猊下」。

 アーナンダ。比丘がこの七識住と二処の発生と消滅と旨味と低劣な害と、そして出る方便を明らかに知れば、執着しないことで解脱した人になります。アーナンダ。この比丘を私は、智慧解脱者と言います。



パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)Ⅲ(アーナンダの言葉で)

 「先輩。パンニャーヴィムッタ(智慧解脱者)、パンニャーヴィムッタと言われていますが、先輩。このパンニャーヴィムッタという言葉は、世尊はどれほどの理由でそう言われるのですか」。

 (プラウダージがプラアーナンダに質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は、愛欲が鎮まり、悪が鎮まり、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。そして彼は智慧でダンマ(つまり初禅)を良く知ります。先輩。世尊が言われている智慧解脱者とは直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接智慧解脱者で話しています。漏が終わる想受滅は、間接的に智慧解脱者で話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、そして常にその感覚の中にいて、更に智慧で見ることでその人のすべての漏は完全に終わります。そしてその人は智慧でダンマ(その想受滅)を知り尽します。

 先輩。世尊が言われる智慧解脱者とは、直接言えば、これだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻473頁248項


 (私たちは原則として、智慧解脱者は禅定に入ることはできないと教えられていますが、上記のブッダヴァチャナ=ブッダの言葉から、智慧解脱者は次第滅に入定することである、その定の想念を名身で味わうことさえなければ、想受滅の定にも入ることができると、学習者は観察して見るべきです。これをどのように結論するか、学習者自身で熟慮して見てください)。


3.カーヤサッキー

 比丘のみなさん。カーヤサッキー(証人として幸福を名身で味わう人。身証者)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の人は形を越えてしまったので、形に関わらないいろんな解脱に名身で触れ、その感覚の中にいて、更にその人のすべての漏の幾つかは、智慧で明らかに見ることでなくなります。

 比丘のみなさん。私はこの比丘をカーヤサッキーである人と言います。比丘のみなさん。この比丘が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。

 それは何故でしょうか。それはこの方が適切な住まいに住み、善い友人と交際し、すべての根を熟させていれば、家を出て出家して家に関わらない良家の子息が欲しがる利益であり、至高のものである梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにさせ、そしてその感覚の中にいられるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘の不注意でないことの結果を見るので、私は、彼が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。


カーヤサッキー(アーナンダの言葉で)

「先輩。カーヤサッキー、カーヤサッキーと言われていますが、先輩。このカーヤサッキー(身証者)は、世尊はどれほどの理由で言われているのですか」。

 (プラウダージがプラアーナンダに質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が鎮まり、悪が鎮まり、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 更に処、つまり(味や用事がある想念である)定のように、彼は(味と用事である)想念に名身で触れ、そしてその感覚の中にいます。先輩。世尊が言われているカーヤサッキーとは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合もすべて初禅の場合と同じように、直接カーヤサッキーの条件として話しています。漏が終わる想受滅は間接的なカーヤサッキーで話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、そしてその感覚の中にいます。更に智慧で見ることで彼のすべての漏は完全に終わります。更に処入つまりその想受滅(は味と用事のある想念である)ように、彼は(味と用事などで)その想念に名身で触れ、そしてその感覚の中にいます。

 先輩。世尊が言われるカーヤサッキーとは、直接言えばこれだけの原因です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻473頁247項


(「カーヤサッキーは証人である体がある」というのは、名身つまり自分の心で定などの味を味わうという意味であり、「間接」という言葉はこの場合漏が終わるという意味で、まだ漏が終わらなければ「直接」ということを観察して見るべきです)。


4.ディッティッパッタの人

 比丘のみなさん。ディッティッパッタ(見解でダンマに到達した人。見至者)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形を越えてしまったので形に関わらないいろんな解脱があるこの場合の人は、名身でその解脱に触れませんが、その人のすべての漏の幾つかは、智慧で明らかに見ることでなくなります。更に如行が公開したすべてのダンマを、智慧で見ることができ、行動できます。

 比丘のみなさん。この比丘を私は、ディッティッパッタと言います。比丘のみなさん。私は、この比丘も油断をせずにしなければならないことがまだあると言います。それはどうしてでしょうか。

 それは、この方が適切な住まいに住んで善い友人と交際しすべての根を熟させていれば、家を出て出家し、家に関わらない良家の子息が欲しがる利益である、至高の物である梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにさせ、そしてその感覚の中にいることができるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘のこの不注意でないことの結果を見るので、彼が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。


5.サッダーヴィムッタ

比丘のみなさん。サッダーヴィムッタ(信仰で解脱した人。信解脱者)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形を越えてしまったので形に関わらないいろんな解脱があるこの場合の人は、その人は名身でその解脱に触れませんが、彼のすべての漏の幾つかは智慧で明らかに見ることでなくなります。更にその人の如行への信仰は、すべて納得している信仰であり、根(ね)が張っていて非常に安定しています。

 比丘のみなさん。この比丘を私は、サッダーヴィムッタである人と言います。比丘のみなさん。私は、この比丘も油断をせずにしなければならないことがまだあると言います。

 それはどうしてでしょうか。それは、この方が適切な住まいに住んで善い友人と交際し、すべての根を熟させていれば、彼は家を出て出家し家に関わらない良家の子息が欲しがる利益である、至高の物である梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにさせ、そしてその感覚の中にいることができるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘のこの不注意でないことの結果を見るので、彼が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。


6.ダンマーヌサーリーの人

 比丘のみなさん。ダンマーヌサーリー(ダンマを追って走る人。随法行者)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形を越えてしまったので、形に関わらない鎮まった解脱が何でもあるこの場合の人は、その人は名身でその解脱に触れませんが、その人のすべての漏の幾つかは智慧で明らかに見ることでなくなります。

 更に如行が公開したすべてのダンマは、当然その人の智慧の標準の凝視に耐え、そしてこれらすべてのダンマ、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根があります。比丘のみなさん。この比丘を私は、ダンマーヌサーリーである人と言います。

 比丘のみなさん。この比丘も油断をせずにしなければならないことがまだあると言います。それはどうしてでしょうか。

 それは、この方が適切な住まいに住み、善い友人と交際し、すべての根を熟させていれば、家を出て出家し、家に関わらない良家の子息が欲しがる利益である、至高の物である梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにさせ、そしてその感覚の中にいることができるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘のこの不注意でないことの結果を見るので、彼が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。


7.サッダーヌサーリーである人


 比丘のみなさん。サッダーヌサーリー(信仰で走る人。随信行者)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形を越えてしまったので形に関わらないいろんな解脱があるこの場合の人は、その人はその解脱に名身で触れませんが、その人のすべての漏の幾つかは、智慧で明らかに見ることでなくなります。

 更に如行に対して(あるべき)適度の信仰と、(あるべき)適度な愛があります。そしてこれらすべてのダンマ、つまり信根、精進根、サティ根、サマーディ根、智慧根が彼にあります。比丘のみなさん。この比丘を私は、サッダーヌサーリーである人と言います。

 比丘のみなさん。私は、この比丘も油断をせずにしなければならないことがまだあると言います。それはどうしてでしょうか。

 それは、この人が適切な住まいに住んで善い友人と交際し、すべての根を熟させていれば、家を出て出家し家に関わらない良家の子息が欲しがる利益である至高の物である梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにさせ、そしてその感覚の中にいることができるからです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘のこの不注意でないことの結果を見るので、彼が油断をせずにしなければならないことはまだあると言います。

中部マッジマバンナーサ 12巻229頁230項





アニミッタヴィハーリー

 モッガラーナ。ティッサバラモンはアニミッタヴィハーリー(無相住者)である七番目の人の説明を、あなたにしなかったのですか。

 「世尊。今こそアニミッタヴィハーリーである七番目の人について説かれるべき時です。比丘のみなさんも聞いて記憶することができます」。

 モッガラーナ。この場合の比丘は心の中をどんなニミッタ(相)にもしないので、ニミッタがないチェトーサマーディに到達します。

 それらの天人は、当然その比丘を「この方は心の中をどんなニミッタ(相)にしないので、ニミッタがないチェトーサマーディに到達し、その感覚の中にいる。

この方がふさわしい住まいに住んで善い友達と交際し、すべての根を熟させていれば、家を出て出家し、正しく家と関わらない良家の子息が望む利益であり、それ以上に素晴らしいダンマはない梵行の終りを、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができると信じられる」と、このように知っています。

増支部サッタカニバータ 23巻79頁53項





サンディッティカダンマがある人

(アーナンダの言葉で)

 「先輩。サンディッティカダンマ、サンディッティカダンマと言われている言葉は、先輩、このサンディッティカダンマ(自分で見ることができ、他人を信じる必要がないダンマ)とは、世尊はどれほどの理由でおっしゃっていますか」。

 (プラウダージが質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が鎮まり悪が鎮まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。先輩。世尊がおっしゃるサンディッティカダンマとは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接サンディッティカダンマで話しています。漏が終わる想受滅は、間接的なサンディッティカダンマで話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、そして常にその感覚の中にい、更に智慧で見ることで、その人のすべての漏はすっかり終わります。先輩。世尊がおっしゃるサンディッティカダンマは、直接言えばこれだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻474頁250項





涅槃の人と般涅槃の人

(アーナンダの言葉で)

 (アーナンダの言葉の涅槃と般涅槃は、上記のサンディッティカニッバーナ(註)とまったく同じ内容です。その他に、涅槃の代わりにケーマン アマタン、アビヤン、パッサッダニローダという言葉で説明しているのもあります。増支部ナヴァカニバータ 23巻5-477頁)

註:サンディッティカダンマの間違いと思われます。訳者




ディッタダンマニッバーナの人

(アーナンダの言葉で)

 「先輩。ディッタダンマニッバーナ(現生での涅槃)、ディッタダンマニッバーナと言われている言葉は、先輩。このディッタダンマニッバーナとは、世尊はどれほどの理由でおっしゃっているのですか」。

 (プラウダージが質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が鎮まり悪が鎮まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。先輩。世尊がおっしゃっているディッタダンマニッバーナとは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接ディッタダンマニッバーナで話しています。漏が終わる想受滅は、間接的なディッタダンマニッバーナで話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、その感覚の中にい、更に智慧で見るので、彼のすべての漏はすっかり終わります。先輩。世尊がおっしゃるディッタダンマニッバーナとは、直接言えばこれだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻473頁247項





ケーマッパッタの人(アーナンダの言葉で)

 「先輩。ケーマッパタ、ケーマッパッタと言われている言葉は、先輩、このケーマッパッタは、世尊はどれほどの理由でおっしゃっているのですか」。

 (プラウダージが質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は、愛欲が鎮まり悪が鎮まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。先輩。世尊がおっしゃっているケーマッパッタとは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接ケーマッパッタで話し、漏が終わる想受滅は間接的なケーマッパッタで話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は、想受滅に到達し、その感覚の中にいます。更に智慧で見ることで、彼のすべての漏は終わります。先輩。世尊がおっしゃるケーマッパッタとは、直接言えば、これだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻477頁257項


 (ケーマッパッタという名で説明している他に、アマタッパッタ、アバヤッパッタという言葉で、まったく同じ内容で説明しています。増支部ナヴァカニバータ 23巻277頁259、261項。ケーマも、アマタもアバヤも、この場合はすべて涅槃を意味しています。パタとは到達した人という意味です)。




タダンカニプトー(その項目で鎮まった人)

 比丘のみなさん。人がその形の不変でないこと、変化、薄れること、消滅を、過去のすべての形は不変でなく、苦であり、変化があると、このように真実のままに正しい智慧で見れば、悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みは当然捨てます。

 悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みを捨てられることで、その人は当然驚愕しなくなり、驚愕しなければ当然幸福です。(このような状態の)幸福な人を、タダンガニッブトー(それによって鎮まった人)である比丘と言います。私はその比丘を、タダンカニプトーである比丘と呼びます。

 (形・受・想・行・識の場合も、同じように話されています)。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻54頁88項





タダンガニッバーナがある人

(アーナンダの言葉で)

 「先輩。タダンガニッバーナ、タダンガニッバーナと言われている言葉は、先輩、このタダンガニッバーナ(一向涅槃)は、世尊はどれほどの理由でおっしゃっているのですか」。

 (プラウダージが質問し、プラアーナンダが答えています)。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が鎮まり悪が鎮まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。先輩。世尊がおっしゃっているタダンカニッバーナとは、直接これだけの理由です。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、すべて初禅の場合と同じように、直接タダンガニッバーナの条件として話しています。漏が終わる想受滅は、間接的なタダンガニッバーナの条件として話しています)。

 先輩。別の意味もあります。非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に到達し、そして常にその感覚の中にい、更に智慧で見ることでその人のすべての漏は全部終わります。先輩。世尊がおっしゃるタダンガニッバーナとは、直接言えば、これだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻475頁254項





著作目次へ ホームページへ 次へ