欲望が終わって特別な解脱をした人

 「無苦の方。すべてのサマナ・バラモンは究極の成功をした方で、究極の実践から生じた安全があり、梵行が終わり、究極の仕事が終わったのですか」。

 天人の統領である方。すべてのサマナ・バラモンが究極の成功をした人であり、究極の実践から生じた安全があり、終わった梵行者であり、究極の仕事が終わっている人という訳ではありません。

 「無苦の方。なぜすべてのサマナ・バラモンが究極の成功をした人、究極の実践から生じた安全があり、終わった梵行者で、究極の仕事が終わった人でないのですか」。

 天人の統領である方。輪廻の害が見え、欲望が無くなって素晴らしい解脱をすれば、その時その人だけが究極の成功をした人で、究極のヨーガ(努力)から生じた安全があり、終わった梵行者であり、究極の仕事が終わったと言われます。

 だからすべてのサマナ・バラモンが究極の成功をした人、究極の実践から生じた安全があり、終わった梵行者であり、究極の仕事が終わった人という訳ではではありません。

長部マハヴァッガ 10巻318頁261項





浴びる物を浴びた人(三つの想を知って解脱した人)

 (この知識は必ず十六ウパキレーサ=随煩悩を捨てること、ブッダ、プラタム、僧に揺るぎない信仰心があること、純潔な戒があり、純潔な智慧があり、無量梵住を世界中に広げることに導きます)。 
 比丘のみなさん。当然「こういう想(サンニャーガタ)もある、悪の想もある。そしてこの想から出る方便もある」と明らかに知ります。

 彼がそのように知っていれば見ていれば、心は当然欲漏からも、有漏からも、無明漏からも解脱し、解脱すれば当然「心が解脱した」と知るニャーナがあります。彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにするべき他の仕事はない」と明らかにと知ります。

 比丘のみなさん。この比丘を私は、内面の浴びるべき物を浴びた人と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻69頁97項





肯定側でも反論側でもない人
(正の見解、負の見解から出てしまうことで煩悩を滅す)

 比丘のみなさん。この二種類の見解、つまり有るという見解(正の見解)と、ないという見解(負の見解)があります。

 比丘のみなさん。有見に寄り掛かり、有見に至り、有見があるサマナあるいはバラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは当然無有見に反論します。比丘のみなさん。無有見に寄り掛かり、無有見に至り、無有見があるサマナ・バラモンは、当然有見に反論します。

 比丘のみなさん。二種類の見解の発生と、維持できないこと、旨味、劣悪な害、そしてそれらから出る方便を真実のままに明らかに知るサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは、貪り、怒り、迷い、欲望、取がなく、明らかに見える人で、肯定する側でも反論する側ではありません。

 彼らは喜びの原因である遅れを生じさせるダンマがない人で、遅らせないダンマを喜び、当然生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから脱します。私は、その人は当然苦から脱すことができると言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻121頁155項





愛と憎しみの根を抜き取った人
(解脱すれば、自然に愛と憎しみの根が抜ける)

 比丘のみなさん。これらのダンマーラマナ(心が感じている想念)は当然四つに生じます。四つはどのようでしょうか。四つとは愛から生じる愛、愛から生じる憎しみ、憎しみから生じる愛、憎しみから生じる憎しみです。

 比丘のみなさん。愛から生じる愛はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合ある人(A)がある人(B)を愛していて、他の人たち(C)がその人(B)に愛らしい望ましい振る舞いをすると、その人(A)に「これらの人(C)は私が愛している人にとても良い振る舞いをする」と満足が生じ、その人(A)は当然それらの人(C)に愛を生じさせたと言われます。比丘のみなさん。こういうのを、愛から生じる愛と言います。

 比丘のみなさん。愛から生じる憎しみとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合ある人(A)がある人(B)を愛していて、他の人たち(C)がその人(B)に望まない憎たらしい振る舞いをすると、その人(A)に「これらの人(C)は私が愛している人に望まない可愛くない振る舞いをする」と不満が生じ、その人(A)は当然それらの人(C)に憎しみを生じさせたと言われます。比丘のみなさん。こういうのを、愛から生じる憎しみと言います。

 比丘のみなさん。憎しみから生まれる愛とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、ある人(A)がある人(B)を嫌っていて、他の人たち(C)がその人(B)に望まない憎たらしい振る舞いをすると、その人(A)に「これらの人(C)は私が嫌っている人に望ましくない可愛くない振る舞いをする」と満足が生じ、その人(A)は当然それらの人(C)に愛を生じさせたと言われます。比丘のみなさん。こういうのを憎しみから生れる愛と言います。

 比丘のみなさん。憎しみから生まれる憎しみとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、ある人(A)がある人B)を愛していて、他の人たち(C)がその人に望ましい可愛い振る舞いをすると、その人(A)に「これらの人(C)は私が嫌っている人に望ましい可愛い振る舞いをする」と不満が生じ、その人(A)は当然それらの人(C)に憎しみを生じさせたと言われます。比丘のみなさん。こういうのを、憎しみから生じる憎しみと言います。

 比丘のみなさん。これが四つのダンマーラマナ(想念。法所縁)です。

 比丘のみなさん。比丘がすべての漏が無くなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいる時はいつでも、愛から生じる愛も捨てられて無くなり、根が断たれ、先端を切断された砂糖ヤシのように無意味になり、当然二度と生じることができません。

 愛から生じる憎しみも捨てられて無くなり…、憎しみから生じる愛も捨てられて無くなり……、憎しみから生じる憎しみも捨てられて無くなり……、根が断たれ、先端を切断された砂糖ヤシの木のように無意味になり、当然二度と生じることができません。比丘のみなさん。この比丘を私は、当然高慢でなく、当然仕返しをせず、当然くすぶらず、当然燃え上がらず、当然焼け焦げないと言います。

増支部チャッカニバータ 21巻280頁200項





1 高慢でない人

 比丘のみなさん。当然高慢でない人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は形(体)を自分と見ず、自分は形があると見ず、自分の形と見ず、形である自分と見ず、受を自分と見ず、受がある自分と見ず、受の中の自分と見ず、想を自分と見ず、自分は想があると見ず、想の中の自分と見ず、行を自分と見ず、自分は行があると見ず、行の中の自分と見ず、識を自分と見ず、識がある自分と見ず、識の中の自分と見ません。

 比丘のみなさん。こういうのを、当然高慢でない人と言います。


2 仕返しをしない人

 比丘のみなさん。当然仕返しをしない比丘と言われるのはどのような比丘でしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然自分を罵った人に罵り返さず、当然自分に怒っている人に怒り返さず、当然喧嘩腰の人に喧嘩で応えません。

 比丘のみなさん。こういうのを当然仕返しをしない比丘と言います。


3 くすぶらない人

 比丘のみなさん。当然くすぶらない比丘と言われるのはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。

①「私は生きている」と(慢随眠で)考えることがなく、

②「私はこのようにいる」という考えがなく、

③「私はそのようにいる」という考えがなく、

④「別の私がいる」という考えがなく、

⑤「無常の私がいる」という考えがなく、


⑥「不変の私がいる」という考がなく、

⑦「私はいるべきだ」という考えがなく、

⑧「私はこのようにいるべきだ」という考えがなく、

⑨「私はそのようにいるべきだ」という考えがなく、

⑩「私は別のようにいるべきだ」という考えがなく、


⑪「私はいるべきか」という考えがなく、

⑫「私はこのようにいるべきか」という考えがなく、

⑬「私はそのようにいるべきか」という考えがなく、

⑭「私は違うあり方であるべきか」という考えがなく、

⑮「私はこれからもいる」という考えがなく、


⑯「私はこれからもこのようにいる」という考えがなく、

⑰「私はこれからもそのようにいる」という考えがなく、

⑱「私はこれからも違うあり方でいる」という考えなければ、

 比丘のみなさん。こういうのを、当然くすぶらない比丘と言います。


4 燃え上がらない人
 比丘のみなさん。当然燃え上がらない比丘と言われるのはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。

①「私はこの蘊で生きている」と(慢随眠で)考えることがなく、

②「私はこの蘊でこのようにいる」という考えがなく、

③「私はこの蘊でそのようにいる」という考えがなく、

④「この蘊で違う私がいる」という考えがなく、

⑤「この蘊で不変でない私がいる」という考えがなく、


⑥「この蘊による不変な私がいる」という考えがなく、

⑦「私はこの蘊でいるべきだ」という考えがなく、

⑧「私はこの蘊でこのようにいるべきだ」という考えがなく、

⑨「私はの蘊でそのようにいるべきだ」という考えがなく、

⑩「私はこの蘊で別のようにいるべきだ」という考えがなく、


⑪「私はこの蘊でいるべきか」という考えがなく、

⑫「私はこの蘊でこのようにいるべきか」という考えがなく、

⑬「私はこの蘊でそのようにいるべきか」という考えがなく、

⑭「私はこの蘊で違うあり方でいるべきか」という考えがなく、

⑮「私はこの蘊でこれからもいる」という考えがなく、


⑯「私はこの蘊でこれからもこのようにいる」という考えがなく、

⑰「私はこの蘊でこれからもそのようにいる」という考えがなく、

⑱「私はこの蘊でこれからも違うあり方でいる」という考えもなければ、

 比丘のみなさん。こういうのを、当然燃え上がらない比丘と言います。


5 焼け焦げない人

 比丘のみなさん。当然焦げない比丘というのはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘のアスミマーナ(私という驕り。我慢)は捨てられ、根が抜かれ、先端を切断された砂糖ヤシの木のようになり、当然二度と生まれることはありません。

 比丘のみなさん。こういうのを焼け焦げない比丘と言います。

増支部チャトゥカニバータ 21巻293頁200項





皮を脱ぎ捨てた人

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、遅らせる原因であるすべてのダンマから脱すことができた人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸(注1)を払い捨てることができた比丘です。

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、この世界のすべての物にそのような真実はない(注2)と知っている人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、この世界のすべての物にそのような真実はないと知って貪りがなくなった人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、この世界のすべての物にそのような真実はないと知って愛欲がなくなった人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、この世界のすべての物にそのような真実はないと知って怒りが無くなった人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 前へ疾走せず、後へ疾走して戻らず、この世界のすべての物にそのような真実はないと知って迷いが無くなった人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 すべての悪の根が抜かれたので、どんなアヌサヤ(心に眠っている習性。随眠)もない人は、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 内の岸に行く縁であるヤキモキさせる煩悩がない人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 執着させる有の原因を作るための、荒んだ森のような荒廃を生じさせる煩悩がない人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

 蓋を五つとも捨てることができ、困窮がなく、疑念を越えてしまい、心を突き刺すものがない人は誰でも、その人はヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように、内の岸と外の岸を振り捨てることができた比丘です。

小部スッタニバータ 25巻325頁294項


注1:内の岸、外の岸とは、内と外があると確信する考えという意味で、縁起の法則、あるいは中道になりません。
注2:、そのような真実がないとは、有為でないこと、あるいは不変で変化しないこと。





思い込みのない人はナンディ(取)が生じない

 比丘のみなさん。漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事が成功し、重荷を下ろし、追いついた自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)が全部なくなり、正しく知ったことで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、その比丘は当然土を土と極めて良く知ります。土を土と極めて良く知れば、

     当然土と思い込まず、

     当然土のと思い込まず、

     当然土であると思い込まず、

     当然私の土と思い込まず、

     当然土に極めて陶酔しません。

 それはどうしてでしょうか。それは、土は彼が知り尽している物だからと私は言います。

 (この他に二十二種類のダンマ、つまり水、火、風、ブータサッタ、天人、梵天等々、涅槃まで、二十二種類について、土の場合と同じように話されています。涅槃については全文を引用します)。

 比丘のみなさん。漏が終わり、梵行が終わっていて、するべき仕事が成功し、重荷を下ろし、求めた自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)が全部終わり、正しく知って解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、その比丘は当然涅槃を涅槃と極めて良く知ります。涅槃を涅槃と極めて良く知れば、

  当然涅槃と思い込まず、

  当然涅槃のと思い込まず、

  当然涅槃であると思い込まず、

  当然私の涅槃と思い込まず、

  当然涅槃に極めて陶酔しません。

 それはなぜでしょうか。涅槃は彼が知悉しているものだからと私は言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻6頁4項





実践者は、弓に長けた武士のよう

 サーラハさん。弓の使い方をいろいろ知っている武士は、三つの条件で国王にふさわしい人で、国王の側近と見なされるほど国王の家臣にふさわしいです。三つの条件とはどのようでしょうか。三つの条件とは、遠くの物を射ることができる人、的に的中する人、大軍を撃退できる人です。

 サーラハさん。遠くの物を射ることができる武士のように、聖なる弟子は正しいサマーディがあり、正しいサマーディがある聖なる弟子は「形は何でも、過去でも未来でも現在でも、内面でも外面でも、上品でも下品でも、粗雑でも繊細でも、遠くても近くても、すべての形は私の物ではない。私ではない。私自身ではない」と当然正しい智慧で、真実のままに見ます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 サーラハさん。的確に的を射ることができる武士のように、聖なる弟子は正しい見解のある人で、正しい見解がある聖なる弟子は当然「これは苦、これは苦の原因、これは苦の滅、これは滅苦の道」と真実のままに明らかに知っています。

 サーラハさん。大軍を撃退できる武士のように、聖なる弟子は正しい解脱のある人で、正しい解脱がある聖なる弟子は当然無明の大軍を撃退することができます。

増支部チャトゥカニバータ 21巻274頁196項





解脱した人の五つの例え

 比丘のみなさん。比丘が解脱して心解脱者と智慧解脱者になれば、私はこの比丘を、

 「くさびを抜き取った人」、

 「城壁を壊した人」、

 「砦の柵を抜いてしまった人」、

 「門のかんぬきを外した人」、

 「旗を降ろし、重荷を下ろし、思いを寄せるものがない聖人」と呼びます。

 比丘のみなさん。「くさびを抜き取った人」と呼ばれる比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は無明を捨ててしまい、無明の根を抜き、先端を切断された砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、当然二度と生まれることができないようにしました。比丘のみなさん。こういうのを「くさびを抜き取った人」と言います。

 比丘のみなさん。「城壁を壊した人」と呼ばれる比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は新しい有に導く輪廻を捨て、輪廻の根を抜き、、先端を切断された砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、当然二度と生まれることができないようにしました。比丘のみなさん。こういうのを「城壁を壊した人」と言います。

 比丘のみなさん。「砦の柵を抜いた人」と呼ばれる比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は欲望を捨て、欲望の根を抜いて、先端を切断された砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、当然二度と生まれることができないようにしました。比丘のみなさん。こういうのを「砦の柵を抜いた人」と言います。

 比丘のみなさん。「門のかんぬきを外した人」と呼ばれる比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は低いサンヨージャナ(結)五つを捨て、サンヨージャナの根を抜いて、先端を切断された砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、当然二度と生まれることができないようにしました。比丘のみなさん。こういうのを「門のかんぬきを外した人」と言います。

 比丘のみなさん。旗を降ろし、重荷を下ろし、「思いを寄せる物がない聖人」と呼ばれる比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はアスミマーナ(我慢)を捨て、アスミマーナの根を抜いて、先端を切断された砂糖ヤシの木のように生きられないようにし、当然二度と生まれることができないようにしました。

 比丘のみなさん。こういうのを「旗を降ろし、重荷を下ろし、思いを寄せる物がない聖人」と言います。

増支部パンチャカニバータ 22巻96頁71項





途上で死なずに、脱出できる人

 スナッカッタさん。これはあり得ます。つまりこの場合の比丘は「サマナが矢だと言う欲望は、無明の毒の害があり、当然貪りと恨みで成長する。その矢つまり欲望を、私は捨てることができ、無明の毒の害を全部出してしまった。私は正しく涅槃に傾いていく人だ」と自分を理解しています。

 彼が正しく涅槃に傾いていけば、正しく涅槃に傾いていく人にとって良くないすべてのダンマはありません。

 つまり目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で想念を感じる時に、不快な物であるすべてのダンマはありません。これらの不快なダンマがなければ、当然貪りは彼の心を突き刺さず、彼の心は貪りに突き刺されないので、当然死あるいは死ぬほどの苦に至ることはありません。

 スナッカッタさん。猛毒を塗った矢で射られた人のようです。その人の親戚や血族、友人が外科医を呼んで来ると、医者は知識を使って彼の傷口を切開し、そして検査器具で矢を探して矢を抜き、毒が残っていないと分かるまで毒の害を取り除きます。

 医者は彼に「発展した方。矢は抜きました。残っている毒がないように、すっかり毒を取り出しました。もう大丈夫です。自由に食事をして結構ですが、傷に良くない物は食べないでください。傷が炎症を起こしますから。定期的に傷を洗って、時間どおりに傷口に薬を塗ってください。

時間どおりに傷を洗って薬を塗り、傷口が膿まないよう血が固まらないようにしてください。それに風や陽に晒さないで、外に行く時は不潔な埃が傷口に入らないようにしてください。発展した方。傷の手当てに注意してください。傷の手当は重要です」と言います。

 その人は「医者は矢を抜き取ってしまった。毒の害は取り出されて残っていない。もう危険はない」と考えて快適な食べ物を食べ、(そしてすべて医者の指示に従い)これらの正しい行動によって不潔な毒の害を出すので、残っている物はありません。二つの理由で傷が治り、肌もきれいになって、死に至らず、あるいは死ぬほどの苦もありません。

 スナッカッタさん。これも同じです。自分は正しく涅槃に傾いていると思っている比丘に、正しく涅槃に傾いていくことにとって良くないダンマがなければ、貪りは彼の心を突き刺さしません。その人は貪りに突き刺されない心があり、当然死に至らず、あるいは死ぬほどの苦に至りません。

 スナッカッタさん。この例えは、内容を理解させるために作りました。これは要旨です。傷とは六内処のことで、毒の害とは無明で、矢とは欲望で、検査する物は心で、学問とは聖なる智慧で、外科医とは私サンマーサンブッダ(自力で大悟したブッダ)です。

中部ウパリバンナーサ 18巻69頁77項





涅槃の門前で死ぬ人

 スナッカッタさん。これはあり得ます。この場合の比丘は「サマナが矢だと言う欲望は、無明の毒が害で、当然貪りと恨みによって成長する。矢であるその欲望を私は捨てることができた。害である無明の毒を、私は全部出してしまった。私は正しく涅槃に傾いていく人だ」と、このように自分自身を理解しています。

 彼は当然、涅槃に正しく傾いていく人にとって快適でない物であるすべてのダンマ、つまり目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で想念を感じる時に、快適でないダンマがあります。これらの不快なダンマがあれば、貪りが当然彼の心を突き刺します。彼は貪りに突き刺された心があるので、当然死ぬか、あるいは死ぬほどの苦に至ります。

 スナッカッタさん。猛毒を塗った矢に刺された人と同じです。彼の友人・家来・親戚・血族が治療する外科医を呼んでくると、医者は知識を用いて彼の傷口を切り開き、そして検査する道具で矢を探して矢を抜き、毒が残っていないと分かるまで毒の害を取り除きます。

 そして医者は彼に「発展した方。矢は抜きました。残っている毒がないように、すっかり毒を取り出しました。もう大丈夫です。自由に食事をして結構ですが、傷に良くない物は食べないでください。傷が炎症を起こしますから。定期的に傷を洗って、時間とおりに傷口に薬を塗ってください。

時間どおりに傷を洗って薬を塗り、傷口が膿まないよう血が固まらないようにしてください。それに風や陽に曝さないでください。外に行く時は不潔な埃が傷口に入らないようにしてください。発展した方。傷の手当てに注意してください。傷の手当は重要です」と言います。

 その人は「医者は矢を抜き取ってしまった。毒の害は取り出されて残っていない。もう危険はない」と考えて障りになる食べ物を食べ、障りになる食べ物を食べれば傷が悪化し、そして彼は定期的に傷を洗って薬を塗りません。彼が定期的に傷を洗って薬を塗らなければ傷口に膿と血の塊ができます。

そして彼は風や日に曝して不潔な埃を傷口に入れ、傷の手当てに留意せず、古傷を重要と見ません。これらの間違った行動で不潔な毒の害がもたらされて傷が腫れます。彼は傷が腫れて死ぬか、あるいは死ぬほどの苦に至ります。

 スナッカッタさん。それと同じです。自分を正しく涅槃に傾いていく人と理解していても、正しく涅槃に傾いていく人にふさわしくないダンマがあるので、貪りが彼の心を突き刺します。彼の心は貪りに突き刺され、当然死ぬか、あるいは死ぬほどの苦に至ります。

 スナッカッタさん。このダンマヴィナヤの「死」とは還俗して低い暮らしに戻ることを意味し、死ぬほどの苦とは何らかの憂鬱な罪から出る(償う)ことを意味します。

中部ウパリバンナーサ 18巻66頁76項


 (この場合の比丘は良く学習をし、良い望みがありますが、自分自身とダンマに誤解があり、矢である欲望は無明を抜き取らずに捨てられる、根を取り除かずに投げ捨てられると考えています。

 そして自分自身を正しく涅槃に傾いていくと理解していますが、目・耳・鼻・舌・体・心すべてで涅槃へ傾いていくことにとって快適でないことをするので、貪りが生じて突き刺し、聖なるヴィナヤで死に至ります。だから彼を「涅槃の門前で転んで死ぬ」と言います)。





執着しないで解脱する人

 いつの時代のどの方たちも、生と死の原因である執着の危害を見て、執着を止めれば解脱できます。生と死が尽きたダンマ(もの)である涅槃に依存するからです。そのような方たちは、当然幸福に遭遇し、安全なダンマ(もの)である涅槃に到達し、現生で鎮まった人になり、災いを越え危険を越えることができ、そしてすべての苦を越えることができます。

中部ウパリバンナーサ 14巻346頁525項





涅槃へ傾いている人

 比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)が東へ傾斜し東へ流れて行くように、比丘のみなさん。四つの定に励む比丘は当然涅槃の方向へ傾き、涅槃の方向へ傾斜し、涅槃の方向へ流れます。

 比丘のみなさん。四つの定に励んで四つの定をたくさんする人は、当然涅槃の方向へ傾き、涅槃の方向へ傾斜し、涅槃の方向へ流れて行く人です。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)、ピーティ(喜悦)スッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカ・ヴィチャーラが鎮まることで、心の内部を明るくする物であり、突然サマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた嘉悦と幸福だけの二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 更に喜悦が薄れると当然捨にいて、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり、幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消えることで苦も幸福もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。こういうのが、四つの定に励んで四つの定をたくさんし、当然涅槃の方向へ傾き、涅槃の方向へ傾斜し、涅槃の方向へ流れて行く比丘です。

相応部マハヴァッガヴァーラ 19巻392頁1301項





冷えて涅槃するために実践する人

 比丘のみなさん。過ぎた物でも、これから生じる物でも、すべての形・受・想・行・識は不変でない物で、現在の形・受・想・行・識については言うまでもありません。

 比丘のみなさん。過ぎた物でも、これから生じる物でも、すべての形・受・想・行・識はその状態を維持できない物で、苦です。現在の形・受・想・行・識については言うまでもありません。

 比丘のみなさん。過ぎた物でも、これから生じる物でも、すべての形・受・想・行・識は自分ではなく、現在の形・受・想・行・識についても言うまでもありません。

 比丘のみなさん。聞いたことがありこのように見るこのダンマヴィナヤの聖なる弟子は、当然過ぎた形・受・想・行・識に未練や喜びがなく、当然これから生じる形・受・想・行・識を楽しまず、現在の形・受・想・行・識に飽きるため、消滅させるために実践をする人です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻25頁36項


 


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