ダンマは聖人の生活用具

 比丘のみなさん。すべての聖人の今までの暮らしも、在の暮らしも、これからの暮らしも、聖人の暮らしにはこの十の生活用具があります。十とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は五つを捨ててなくし、六つがあり、守りだけで四方に背もたれがあり、「真実は夫々の方向に落ちる」という考えを抜き取ってしまった人です。探求がすっかり終わった人で、曇っていない考えのある人で、鎮まった静まったカーヤサンカーラ(身行)がある人で、良く解脱した心があり、良く解脱する智慧のある人です。

 比丘のみなさん。①五つを捨てた比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲を捨て、恨みを捨て、眠気と侘しさ(コン沈睡眠)を捨て、落ち着きの無さ(掉挙悪作)を捨て、ためらい(疑)を捨てることができた人です。比丘のみなさん。このような比丘を「五つを捨てることができた人」と言います。

 比丘のみなさん。②六つがある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触し、心で感情を感じても喜ばず、悲しまず、捨があり、常自覚があります。このような比丘を「六つがある人」と言います。

 比丘のみなさん。③守りしかない比丘とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、サティで心が維持されています。比丘のみなさん。このような比丘を「守りしかない人」と言います。

 比丘のみなさん。④四方に背もたれがある比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は熟慮して何か(関わるべき物、人、ダンマ)と関わり、熟慮して何か(我慢すべき受、言葉、感情)を我慢し、熟慮して何か(避けるべき物、人、ダンマ)を避け、熟慮して何か(すべての悪の考え)を減らします。比丘のみなさん。このような比丘を「四方に背もたれのある人」と言います。

 比丘のみなさん。⑤「真実はいろんな方向になる」という考えを抜いた人である比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は世界は不変だ、世界は無常だ、世界は終わりがある、世界に終わりはない、命と体は同じ、命と体は違う、如行が死んだ後当然また生まれる、如行が死んだ後は当然二度と生まれない、如行が死んだ後当然生まれるのもあり、生まれないのもあるなど、

多くのサマナやバラモンたちが考えるように非常にたくさんある「真実はそれぞれになる」という考えを振り払い、吐き出し、放し、捨て、投げ捨て、抜いた人です。比丘のみなさん。このような比丘を「真実はそれぞれの方向になる」という考え(それぞれの真実)を抜き取ってしまった人」と言います。

 比丘のみなさん。⑥探求が完全に終わった比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲の探求を捨て、有の探求を捨て、梵行の探求も静まった人です。比丘のみなさん。このような比丘を「探求が完全に終わった人」と言います。

 比丘のみなさん。⑦濁っていない考えの比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲の考えを捨ててしまい、恨みの考えを捨ててしまい、困らせる考えを捨ててしまった人です。比丘のみなさん。このような比丘を「濁った考えのない人」と言います。

 比丘のみなさん。⑧鎮まった身行がある比丘とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は幸福を捨ててしまうことができ、苦を捨ててしまうことができ、そして過去の喜びと悲しみを消滅させたので苦も楽もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に到達します。比丘のみなさん。このような比丘を「身行が鎮まった人」と言います。

 比丘のみなさん。⑨心が良く解脱した比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は心が貪り・怒り・迷いから解脱した比丘です。比丘のみなさん。このような比丘を「心が良く解脱した人」と言います。

 比丘のみなさん。⑩良く解脱する智慧のある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「私は貪り・怒り・迷いを捨ててしまった。根こそぎ抜くことができた。先端が腐った砂糖ヤシのように、存在できないよう、二度と生まれないようにした」と明らかに知ります。比丘のみなさん。このような比丘を「良く解脱する智慧のある人」と言います。

 比丘のみなさん。遠い過去に聖人らしく暮らしていた聖人方は誰でも、これら十項の聖人らしい生活をしていました。

 比丘のみなさん。遠い未来に聖人らしく暮らす聖人方は誰でも、この十項の聖人らしい生活をします。

 比丘のみなさん。現代でも聖人らしく暮らす聖人方は誰でも、この十項の聖人らしい暮らしをしています。

 比丘のみなさん。すべての聖人がして来たのでも、あるいはしているのでも、これからするのでも、聖人らしい暮らしには、この十項の生活用具があります。

増支部ダサカニバータ 24巻31頁20項





阿羅漢の特徴がある人

 比丘のみなさん。最高の成功があり、努力から生じた最高の安全があり、最高の梵行がある比丘は、すべての天人と人間より素晴らしい最高の仕事が終わった人で、当然三つのダンマがあります。三つのダンマとはどれでしょうか。

 三つとは無学である戒蘊、無学であるサマーディ蘊、無学である智慧蘊です。比丘のみなさん。最高の成功があり、最高の努力から生じた安全があり、最高の梵行がある比丘は、最高の仕事が終わった人、すべての天人と人間より素晴らしい人で、当然三つのダンマがあります。

 比丘のみなさん。最高の成功があり、努力から生じた最高の安全があり、最高の梵行がある比丘は、すべての天人と人間より素晴らしい最高の仕事が終わった人で、当然あと三つのダンマもあります。あと三つのダンマとはどれでしょうか。

 あと三つとは神変神通があり、読心神通があり、教戒神通があります。比丘のみなさん。最高の成功があり、努力から生じた最高の安全があり、最高の梵行がある比丘は、すべての天人と人間より素晴らしい最高の仕事が終わった人で、当然これら三つのダンマがあります。

増支部エーカーダサカニバータ 24巻35頁217項


 (阿羅漢の特徴は、無学のダンマ三つと、神通力が三つの他にもありますが、ここで取り上げる必要はないと見ます。)




阿羅漢の興味深い特徴

 (阿羅漢は世界のすべてより、有情居と有頂天‐梵天より秀でていると話された後、次の詩を詠まれました)。

 すべての阿羅漢方は幸福だなあ

 欲望がなく、アスミマーナ(自尊心)をすべて抜き取ってしまい

 愚かさの陣営を壊滅させたので、

 動揺のない状態に至った

 心に曇りがなく、その方を世界に貼りつける糊はない


 梵天(註1)のように漏のない人で、

 五蘊を知り尽くし

 ゴーチャラ(註2)である七正法(註3)があり、

 称賛される善人(註4)であり

 ブッダの胸から生まれた息子であり、

 七つの宝石(註5)が揃っている


 三学が終り

 各地へ遊説するマハーヴィーラ(勇者)(註6)であり、

 災厄はまったくなく、

 十項目(サンマッタ)(註7)が揃い、

 堅固な心のマハーナーガ(大龍)である


 これが世界の素晴らしい人

 その方に欲望はなく、無学智が生じた

 この身体の集合はその方にとってこれが最後

 梵行の意味で他人の縁に依存する必要はない

 (三慢のレベルの)すべての明ゆえに内面が揺れることはない


 新しい有があることから脱し、

 ダンタブーミ(註8)に到達した

 上流、中流、下流のすべての世界に勝っても

 その方に喜びはなく

 獅子吼を尊ぶ状態でダンマを公開し

 その方以上に知る人はいない、世界を知る人

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻101頁153項




1.梵天=インドの古い言い回しで、すべての動物の中で最高に素晴らしい人という意味。

2.ゴーチャラ=好んで遊びに行く場所

3.七正法=信・慙・愧・声聞・精進・サティ・智慧

4.善人=この言葉は現代人にとって非常に奇妙な言葉かもしれません。ブッダは阿羅漢を呼ぶのに使い、ブッダ在世時の後の碑にもあります。

5.七つの宝石=ここでは七覚支を意味します。

6.マハーヴィーラ=この言葉は仏教も他の教義も使います。

7.サンマッタ=十の正しさという意味。

8.ダンタブーミ=最高の自己訓練をした状態。つまり阿羅漢





阿羅漢は有頂天より秀逸

 比丘のみなさん。形・受・想・行・識は不変でなく、不変でない物は苦で、苦である物は無我で、無我である物は「それは自分の物ではない。それは自分ではない。それは自分自身ではない」と、智慧で真実のままに正しく見なければなりません。

 比丘のみなさん。聞くことがある聖なる弟子がこのように見れば、当然形に倦怠し、受に倦怠し、想に倦怠し、行に倦怠し、識に倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、緩むことで当然解脱し、解脱すれば当然解脱したと洞察するニャーナ(智)があります。その聖なる弟子は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにするべき他の仕事はもうない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。有情居がどれだけいても、梵天がどれだけいても、世界で傑出して素晴らしいのは阿羅漢の方々です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻101頁152項





欲界・形界・無形界を越えた人は、まだ世界を越えたと言われない

 バラモンさん。このアリヤヴィナヤ(聖なる律、つまり仏教)では、このような五欲を世界と呼びます。五つとはどのようでしょうか。

 五つとは、望ましい物であり、可愛らしく、満足して欲しくなる物で、可愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触があります。バラモンさん。この五つをこのアリヤヴィナヤでは世界と言います。

 バラモンさん。この場合の比丘は愛欲が鎮まり、悪が鎮まってヴィタカ・ヴィチャーラ(熟考。尋・伺)があり、ピーティ・スッカ(喜悦・幸福)がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。バラモンさん。彼らはこの比丘を「世界の終りに達した。世界の終りにいる」と言います。

 別の人たちはその比丘を「この比丘はまだ世界と繋がっている。まだ世界から出ていない」と言います。バラモンさん。私も「この比丘はまだ世界と繋がっている。まだ世界から出ていない」と言います。

 (二禅、三禅、四禅、空無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、初禅の場合と同じように話されています)。

 バラモンさん。他にもあります。非想非非想処に完璧を通過した比丘は空受滅に到達し、常にその感覚の中にいる人のすべての漏も、智慧で見ることで完全になくなります。バラモンさん。この比丘は当然誰もが「世界の終りに達した。世界の終りにいる。世界に引き止める物を越えた」と言います。

増支部ナヴァカニバータ 23巻448頁242項





阿羅漢はケバリーである人
(梵行が終わって五つのダンマが無くなり、五つのダンマに到達した人)

 比丘のみなさん。五つのダンマを捨て、そして五つのダンマが揃っている比丘を、私は「梵行が終ったケバリ(カイヴァラヤダンマがある人)で、このダンマヴィナヤの理想の人」と呼びます。

 比丘のみなさん。五つのダンマを捨てた比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、貪る喜びを捨て、復讐心を捨て、コン沈睡眠(眠気と寂しさ)を捨て、掉挙悪作(落ち着きがないこと)を捨て、疑念を捨てました。比丘のみなさん。これが、五つのダンマを捨てた比丘です。

 比丘のみなさん。五つのダンマがすべてある比丘とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は無学である戒蘊があり、無学(註)であるサマーディ蘊があり、無学である智慧蘊があり、無学である滅があり、無学である滅智見があります。比丘のみなさん。こういうのが五つのダンマが完璧にある比丘です。

 比丘のみなさん。五つを捨て五つが揃っている比丘を私は「梵行が終わったケバリーであり、このダンマヴィナヤの理想の人」と言います。

註:学ぶことが終った阿羅漢のこと。


(経末の詩)

 愛欲の貪り、

 復讐心、

 眠くて寂しいこと

 落ち着きがないこと、

 そして疑念のすべてがない比丘は、


 無学の戒、

 無学のサマーディ、

 無学の智慧、

 無学の滅、

 無学の智が完璧で

 そのような比丘は五つが完璧で

 五つが無い。

 このダンマヴィナヤではそのような比丘を

 ケバリーと言う。

増支部ダサカニバータ 24巻17頁12項





仏教のケバリーの人

 比丘のみなさん。七つの条件で賢く、三つの方法でダンマを熟慮熟考する比丘を、私は「梵行が終わっているケバリー、このダンマヴィナヤの理想の人」と言います。

 比丘のみなさん。七つの条件で賢い人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然形を明らかに知り、形が生じる原因を明らかに知り、形の消滅を明らかに知り、形の消滅に至る実践項目を明らかに知り、形の旨味を明らかに知り、形の下品な害を明らかに知り、形から脱す方便を明らかに知ります。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。


 比丘のみなさん。形はどのようでしょうか。四大種形も、四大種形に依存する形も、私は形と言います。形の発生は当然食べ物の発生によってあり、形の消滅は当然食べ物の消滅によってあり、八正道でる正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは形の消滅に至る実践項目です。

 形に依存して生じる喜びは何でも、それが形の旨味で、形が無常であり苦であり当たり前に変化することが形の害で、満足の威力による欲情を取り出してしまえること、つまり形に満足する威力による欲情を捨ててしまうことが、形から出る方便です。(明らかに知るべき七項)

 比丘のみなさん。「形はこのよう、形が生じる原因はこのよう、形の消滅はこのよう、形の消滅に至る実践項目はこのよう、形の旨味はこのよう、形の害はこのよう、形の形から脱す方便はこのよう」と最高の智慧で知るサマナ、あるいはバラモンは誰でも、

形に倦怠するため、欲情を緩めるため、絶滅させるために実践する人で、そのサマナあるいはバラモンは善い実践をする人で、善い実践をする人は誰でも、その人はこのダンマヴィナヤの探求と言われます。

 比丘のみなさん。「形はこのよう、形が生じる原因はこのよう、形の消滅はこのよう、形の消滅に至る実践項目はこのよう、形の旨味はこのよう、形の害はこのよう、形から脱す方便はこのよう」と最高の智慧で知るサマナあるいはバラモンは誰でも、

形に倦怠することで、欲情が緩むことで、残らず消滅することで、素晴らしい解脱をした人です。素晴らしい解脱をした人は誰でも、その人たちはケバリーと呼ばれ、ケバリーである人は誰でも、当然その人たちに規定する輪廻はありません。

 比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六受は目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、心の触から生じる受で、これを受と言います。受の発生は当然触の発生によってあり、受の消滅は当然触の消滅によってあり、八正道は受の消滅に至る実践項目です。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 素晴らしい解脱を良くした人は誰でも、その人はケバリーと呼ばれ、ケバリーである人は誰でも、当然その人に規定する輪廻はありません。

 比丘のみなさん。想はどのようでしょうか。比丘のみなさん。想の群は、形想・声想・香想・味想・触想・法想で、これを想と言います。想の発生は当然触の発生によってあり、想の消滅は当然触の消滅によってあります。八正道は想の消滅に至る実践項目です。

 (この後は形の場合と同じように話されています)。

 素晴らしい解脱を良くした人は誰でも、その人はケバリーと呼ばれます。ケバリーである人は誰でも、当然その人に規定する輪廻はありません。


 比丘のみなさん。行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。行の群は、形行・声行・香行・味行・触行・法行で、これを行と言います。行の発生は当然触の発生によってあり、行の消滅は当然触の消滅によってあります。八正道は行の消滅に至る実践項目です。

 (この後は形の場合と同じように話されています)。

 素晴らしい解脱を良くした人は誰でも、その人はケバリーと呼ばれます。ケバリーである人は誰でも、当然その人に規定する輪廻はありません。


 比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。識の群は形識・声識・香識・味識・触識・法識で、これを識と言います。識の発生は当然触の発生によってあり、識の消滅は当然触の消滅によってあります。八正道は識の消滅に至る実践項目です。

 (この後は形の場合と同じように話されています)。

 素晴らしい解脱を良くした人は誰でも、その人はケバリーと呼ばれます。ケバリーである人は誰でも、当然その人に規定する輪廻はありません。

 比丘のみなさん。比丘はこのように七つの項目に賢いです。

 比丘のみなさん。三つの方法でダンマを熟慮熟考する比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然四大種でダンマを熟慮し、当然六処でダンマを熟慮し、当然縁起でダンマを熟慮します。比丘のみなさん。三つの方法でダンマを熟慮する比丘はこのようです。

 比丘のみなさん。私は、七つの項目で賢く、三つの方法でダンマを熟慮する比丘を、梵行が終わっている、このダンマヴィナヤの理想の人、ケバリーと呼びます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻76頁118項


 (ケバリーという言葉は、現代の学習者にとって明らかな言葉でなく、多くは「五欲に満たされた人」と訳されますが、私は、ヒンドゥーのパラマートマンと同じレベルの、ケヴァラ(完全な、唯一のという意味)であるダンマに到達したという意味で、阿羅漢を指す言葉と理解しています。

 阿羅漢などと同じように、当時のどの教義も使った共通の言葉です。だからケバリーという言葉を使うべきで、一般に知られる言葉になるまでは訳すべきではありません。どう決着するべきか、学習者のみなさん自身で熟慮判断してください。編者)




美しい戒と美しいダンマと美しい智慧があればケバリー

 比丘のみなさん。私は善い戒があり、善いダンマがあり、善い智慧がある比丘を、梵行が終わっているケバリーであり、このダンマヴィナヤの理想の人と言います。

 比丘のみなさん。善い戒がある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は戒がある人で、パーティモッガ(二二七戒)を遵守し、行儀作法とゴーチャラ(いつも行く場所)が完璧で、普段から小さな物でもすべての罪の害が見え、すべての教条を学んで遵守します。比丘のみなさん。こういうのを善い戒がある比丘と言います。これだけで善い戒と呼ばれます。

 比丘のみなさん。善いダンマがある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、三十七道品に励む努力がある人です。比丘のみなさん。こういうのを善いダンマがある比丘と言います。これだけで善い戒があり善いダンマがあると言われます。

 比丘のみなさん。善い智慧がある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての漏が終わったので漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、最高の智慧で生きている間に明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。こういうのを「善い智慧のある比丘」と言います。私はこのような状態で善い戒があり、善いダンマがあり、善い智慧があると言われる比丘を「梵行が終わっているケバリーであり、このダンマヴィナヤの理想の人」と言います。

小部イティウッタカ 25巻303頁277項


 (ケバリーという言葉は昔の重要な言葉で、阿羅漢という言葉などと同じように一般に使われていました。現代はこの言葉を使わないので聞かれません。使うとすればすっかり権威を落とすほどの意味を持たせ、その結果使わなくなったので、ケバリーという言葉は、阿羅漢という言葉と違って耳馴れません。

 どうぞみなさん耳馴れるようにケバリーという言葉を使ってください。口癖にして使ってください。そうすれば注意を喚起するものとして、広くたくさん使われる重要な言葉になります。編者は美しい戒、美しいダンマ、美しい智慧は八正道であり、八正道の結果はケバリーと見るので、この文章をここに収めました)。





いろんな漏を捨てた人


1 見ることで捨てられる漏

 比丘のみなさん。聞くことがある聖なる弟子は、聖人が見え、聖人のダンマに賢く、聖人のダンマの忠告を受け、善人が見え、善人のダンマに賢く、善人のダンマの忠告を受け、当然すべての心でするべきダンマ、心でするべきでないダンマを明らかに知ります。

 その聖なる弟子は、心の中をそのようにするべきダンマと、そのようにすべきでないダンマを明らかに知り、当然心の中をすべきでないすべてのダンマにせず、心の中をするべきすべてのダンマにするだけです。

 比丘のみなさん。聖なる弟子がそうしていない、心の中をそうするべきでないすべてのダンマはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。人が心の中をいずれかのダンマにすれば、欲漏、有漏、あるいは無明漏でも、まだ生じていない物も当然生じ、生じている物は成長します。これらのダンマは、聖なる弟子は心の中をそうしない、心の中をそうするべきでないダンマです。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が心の中をそうしている、心の中をそうするべきすべてのダンマはどのようでしょうか。比丘のみなさん。人が心の中をいずれかのダンマにすれば、欲漏、有漏、あるいは無明漏でも、まだ生じていない物は当然生じず、生じている物は捨てる、これらのダンマは、聖なる弟子が心の中をそうしている、心の中をそうするべきダンマです。

 聖なる弟子は心の中をそうするべきでないすべてのダンマをせず、心の中をそうするべきすべてのダンマだけをすれば、まだ生じていないすべての漏は生じず、生じているすべての漏は当然捨てる、その聖なる弟子は、当然「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦に至らせる道はこのよう」と、心の中をこのように絶妙にします。

 この聖なる弟子がこのように心の中を絶妙にしておけば、当然三つのサンヨージャナ(結)である有身見、疑、戒禁取を捨てます。比丘のみなさん。私はこれを「すべての漏は見ることで捨てるべき」と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻15頁12項



2 慎むことで捨てられる漏

 比丘のみなさん。慎むことで捨ててしまうべきすべての漏はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は根律儀で絶妙の熟慮をする人で、比丘が慎重でなければ困窮させ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が慎重な人でいれば、困窮させ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じない根である目・耳・鼻・舌・体・心に注意深い人になります。

 比丘のみなさん。それは、比丘がこのように注意深くしなければ困窮させ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が慎重にすれば困窮させ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。これを私は、慎重にすることで捨ててしまうべきすべての漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻16頁13項



3 使うことで捨てられる漏

 比丘のみなさん。使うことで捨てるべき漏はどのようでしょうか。この場合の比丘は絶妙の熟慮をして、寒さ暑さをしのぐため、アブや蚊や風、陽射し、すべての這う動物などとの接触を防ぐため、恥ずかしさを生じさせる器官を隠すためだけに衣をまといます。

 彼は絶妙の熟慮をして「私はこの受を取り除いてしまう。新たな受は生じさせない。命を維持すること、食べ物による害がないこと、そして楽しい平安は私にある」と考えて、遊びのためでなく、酔うためでなく、飾りのためでなく、この体を維持するため、命を維持するため、苦を予防ため、梵行を援けるためだけに食べ物を食べます。

 彼は絶妙な熟慮をして、暑さ寒さをしのぐため、アブや蚊、風、陽射し、すべての這う動物との接触を防ぐため、気候が原因の危険を減らすため、そしてバーヴァナー(望みに向かってする努力)のための遠離を喜ぶ人でいるために、住まいを使います。

 彼は絶妙な熟慮をして、いろんな病気から生じる苦を軽減するため、著しい苦に耐えなくても済むためにだけ、病人を助ける縁である医薬品を使います。
物を
 比丘のみなさん。それは、比丘が熟慮しないで使うべき物を使えば、苦しめ焦燥させるすべての漏が、必ずその比丘に生じ、そして比丘が熟慮して使うべき物を使えば、苦しめ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。私はこれを、使うべき物を使うことで捨てられるすべての漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻16頁14項



4 忍耐で捨てられる漏

 比丘のみなさん。忍耐で捨てることができる漏はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は暑さ寒さに耐える人で、飢えや渇きに耐える人で、アブや蚊や風、陽射し、そしてすべての這う動物との接触に耐える人で、悪意のある暴言の流に耐える血筋で、そして生じている辛酸であり苦渋であり快適でない、あるいは死ぬほどの体の苦受に耐える人です。

 比丘のみなさん。それは、比丘がこのように忍耐しなければ、苦しめ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が忍耐すれば苦しめ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。私はこれを、忍耐で捨てることができる漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻18頁15項



5 避けることで捨てられる漏

 比丘のみなさん。避けることで捨てられるすべての漏はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は絶妙な熟慮をして、当然獰猛な象、暴れ馬、獰猛な牛、獰猛な犬、ヘビ、障害物、棘、渕、不潔な池、肥溜めを避け、そして座るべきでない、行くべきでない場所を避け、知識者であるすべての梵行仲間が低劣と見なす、下賎な友達と付き合うことを避けます。

 その比丘は絶妙な熟慮をして、当然座るべきでない場所、行くべきでない場所を避けてしまい、それらの下賎な人たちを避けてしまいます。

 比丘のみなさん。それは、比丘がこのように避けなければ、苦しめ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が避ければ、苦しめ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。私はこれを、避けることで捨てられる漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻18頁16項



6 減らすことで捨てられる漏

 比丘のみなさん。減らすことで捨てられる漏はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は絶妙な熟慮をして生じた愛欲の考え、復讐心、加害する考えを当然心に受け入れず、当然捨ててしまい、当然軽減させ、終わりにし、いられなくします。そして当然生じているすべての下賎で悪である物を心に受け入れず、当然捨ててしまい、当然減らし、終わりにし、いられなくします。

 比丘のみなさん。それは、比丘がこのように減らさなければ、困らせ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が減らせば困らせ焦燥させるすべての漏は、その比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。私はこれを、減らすことで捨てられるすべての漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻19頁17項



7 益々励むことで捨てられる漏

 比丘のみなさん。励むことで捨てられる漏はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は絶妙の熟慮をして、当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のサティに励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のダンマヴィチャヤ(択法)に励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のヴィリヤ(精進)に励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のピーティ(喜悦)に励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のパッサッティ(軽安)に励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のサマーディ(三昧)に励み、

当然ヴィヴェカ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、二ローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く七覚支のウべカー(捨)に励みます。

 比丘のみなさん。それは、比丘がこのように励まなければ困らせ焦燥させるすべての漏が必ず生じ、比丘が励めば、困らせ焦燥させるすべての漏はその比丘に生じるべくもないからです。比丘のみなさん。私はこれを、励むことで捨てられるすべての漏と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻19頁18項



8 七つの方法で漏を塞いだ結果

 比丘のみなさん。比丘が見ることで捨てられるすべての漏、慎重にすることで捨てられるすべての漏、使うべき物だけを使うことで捨てられるすべての漏、耐えることで捨てられるすべての漏、避けることで捨てられるすべての漏、減らすことで捨てられるすべての漏、励むことで捨てられるすべての漏を捨てることができれば、

比丘のみなさん。その比丘を私は「すべての漏を塞ぐべきもので塞ぎ、欲望を断ち、サンヨージャナ(動物を輪廻に縛り付ける煩悩。結)を壊し、慢を正しく知ることで苦を終わらせることができた人」と言います。

中部ムーラパンナーサ 12巻20頁19項

 

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