預流と阿羅漢は見えるダンマが違う

 比丘のみなさん。取蘊は全部で五種類あります。五種類とは何でしょうか。五種類とは形取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子がこれらの五取蘊の発生、維持できないこと、旨味、低劣な害、そして出る方便を真実のままに明らかに知れば、比丘のみなさん、この聖なる弟子を「落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で、将来すべてを悟る預流」と私は言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻196頁296項



 比丘のみなさん。これらの取蘊は五種類あります。五種類はどのようでしょうか。五種類とは形取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が五取蘊の発生、維持できないこと、旨味、低劣な害、そして出る方便を真実のままに明らかに知れば、執着が無くなって解脱した人です。

 比丘のみなさん。その比丘を私は「漏が終わった人阿羅漢であり、梵行が終わり、するべき仕事に成功し、重荷を下ろし、追って到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナ(結)が皆無になり、正しく知ることで解脱した人」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻196頁297項





預流と阿羅漢は見えるダンマが違う Ⅱ

 比丘のみなさん。これらの六根があります。六根とはどれでしょうか。六とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が六根の発現を知り、維持できないことを知り、旨味を知り、凶悪な害を知り、そして出る方便を真実のままに知ればいつでも、比丘のみなさん。その聖なる弟子は預流であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で、将来ダンマをすべて悟ると私は言います。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻271頁902項


 比丘のみなさん。これらの六根があります。どの六つでしょうか。六つとは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根です。

 比丘のみなさん。比丘が六根の発現を知り、維持できないことを知り、旨味を知り、凶悪な害を知り、出る方便を真実のままに知れば、比丘のみなさん。その比丘は漏が終わった人であり、梵行が終わり、するべき仕事は成功し、重荷を下ろし、追いついた自分の利益があり、有のサンヨージャナ(生き物を輪廻に結ぶ煩悩。結)が皆無になり、正しく知ることで解脱した阿羅漢と言います。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻272頁904項


 (上記の経は内処入で根の説明をされています。他にも五受、つまり幸根・苦根・喜根・憂根・捨根で根の説明されている経《19巻275頁414項》もあります)。




預流に含まれる三群

1 サッダーヌサーリー(随信行者)

 比丘のみなさん。目・耳・鼻・舌・体・心は無常の物で、当たり前に変化があり、当たり前に別の物になります。

 比丘のみなさん。信仰があり、このようにこの六つのダンマに心を傾ける人は誰でも、私はその人を「正しい系統であり、善人の域であり、凡夫の域を通り越して地獄行きや、畜生または餓鬼に生まれるカンマを作ることはできず、そして預流果を明らかにする前に死ぬことはないサッダーヌサーリー(信仰に導かれて道を歩む人。随信行者)」と呼びます。

2 ダンマーヌサーリー(随法行者)

 比丘のみなさん。この六種類のダンマがこのように、どんな人の最高の智慧の凝視にも堪える人を、私は「正しい系統であり、善人の域であり、凡夫の域を越えたので、地獄行きや、畜生、あるいは餓鬼に生まれるカンマを作ることはできず、そして預流果を明らかにする前に死ぬことはないダンマーヌサーリー(智慧に導かれて道を歩む人。随法行者)」と呼びます。

3 ソターパンナ(預流)

 比丘のみなさん。この六つのダンマを、当然このような状態(上記のように、無常等の見方で)で知り、当然見える人は誰でも、私はその人を「落ちて普通になることはなく、確実に涅槃する人で、将来三菩提になるソターパンナ(流れに到達した人。預流)」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻27頁469項


 サーリプッタ。この八正道は「流れ=ソタ」と呼ばれ、すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻435頁1431項


 (上記の経は六内処で無常等の感情を説明されています。次の経では六外処、つまり形・声・香・味・触・考えで説明されているのもあり、六識で説明されているのも、六触で説明されているのも、六受で説明されているのも、六想で説明されているのも、六思で説明されているのも、六欲で説明されているのも、六大種で説明されているのも、五蘊で説明されているのもあります。どれも同じ実践原則を説かれています。)





預流であることは変化しない

 比丘のみなさん。四大種である土・水・火・風も変化して別の状態になります。しかしこのダンマヴィナヤの聖なる弟子はブッダ・プラタム(教え)・僧に対して揺るぎない全幅の帰依があり、当然別の物に変化することはありません。ブッダ、プラタム、僧に対して確固とした揺るぎない帰依があれば、地獄行き、畜生の生まれ、餓鬼の境域などになるほどの変化はあり得ません。

 比丘のみなさん。四大種である土・水・火・風も変化して別の状態になります。しかしこのダンマヴィナヤの聖なる弟子は聖人方が満足する類のすべての戒が身に付いているので、当然変化することはありません。聖人方が満足する類のすべての戒があるので、まだ地獄へ行きや、畜生の生まれ、餓鬼の境域になるまで変化してしまうことはあり得ません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻457頁149項





預流であることは皇帝になるより素晴らしい

 比丘のみなさん。たとえ四大陸を支配する皇帝で、体が崩壊して死んだ後、天国界に行ってトウ(リッシン偏に刀)利天級の天人と友達になり、歓喜園の仙女に囲まれ、このように天の五欲で満たされる人でも、それでもその方は地獄や畜生の生まれ、餓鬼の境域、破滅、悪趣、悪の報いから脱すことはできません。

 比丘のみなさん。一方このダンマヴィナヤの聖なる弟子は自分の手足で托鉢して得た飯塊で何とか生活し、織耳のないみすぼらしい布をまとっていても、四つのダンマがあれば、彼は地獄や畜生の生まれ、餓鬼の境域、破滅、悪趣、悪の報いから逃れることができます。

 比丘のみなさん。四つのダンマとはどれでしょうか。四つとは、このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、①ブッダと②プラタムと③サンガに対して確固として揺るぎない帰依があり、④聖人方が満足する類のすべての戒がある人です。

 比丘のみなさん。四つの大陸とこの四つのダンマのうちの、四つの大陸を手に入れることは、この四つのダンマを得ることの十六分の一にも及びません。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻428頁1411項





預流であることの結果

 比丘のみなさん。預流果を明らかにすることには六つの功徳があります。六つとはどれでしょうか。六つとは、

 サッダンマ(正法)に対して永久に変わらない人で、

 衰えることのないダンマがある人で、

 行動し終わった行動のすべての段階で苦が消滅し、

 他の人たちと同じでないニャーナがある人で、

 原因であるダンマが見える人で、

 原因から生じたすべてのダンマが見える人です。

 比丘のみなさん。これらが預流果を明らかにすることの六つの功徳です。

増支部チャッカニバータ 22巻490頁368項





捨てる結が違う聖人

 比丘のみなさん。これら四種類の人が世界にい、世界で見ることができます。四種類とはどれでしょうか。四種類とは、

(1) この世界のある人は、まだ捨てられない低いサンニョージャナ(結)があり、まだ捨てられない再び生まれさせる原因であるサンヨージャナがあり、そしてまだ捨てられない、必ず有がある原因であるサンヨージャナがあります。

(2) この世界のある人は低い結のすべてを捨てることはできましたが、まだ捨てられない再び生まれる原因である結があり、まだ捨てられない、必ず有がある原因である結があります。

(3) この世界のある人は低い結のすべてを捨てることができ、再び生まれる原因である結も捨てることができましたが、まだ捨てられない必ず有がある原因である結があります。

(4) この世界のある人は低い結のすべてを捨てることができ、再び生まれる原因である結をすべて捨てることができ、必ず有がある原因である結も捨てることができます。


【一番目の種類】比丘のみなさん。プラサキダーガーミー(一来)は、まだ低い結を全部は捨てることができません。再び生まれる原因である結を捨てることができず、そして必ず有がある原因である結もまだ捨てることができません。

【二番目の種類】比丘のみなさん。有頂天の流れがあるプラアナーガーミー(不還)は低い結のすべてを捨てることができましたが、再び生まれる原因である結と、必ず有がある原因である結を捨てることができません。

【三番目の種類】比丘のみなさん。この間で般涅槃するプラアナーガミー(不還)の人たちは低い結をすべて捨てた人であり、再び生まれる原因である結も捨てましたが、必ず有がある原因の結はまだ捨てることができません。

【四番目の種類】比丘のみなさん。プラオラハンキーナーサバ(阿羅漢)は低い結をすべて捨てることができ、再び生まれる原因である結を捨てることができ、そして必ず有がある原因である結も捨てることができます。

 比丘のみなさん。これら四種類の人が世界にいます。世界で見つけることができます。

増支部チャトゥカニバータ 21.巻181頁131項





四種類の違うサンカーラダンマを使わなければならない聖人


1.ディッテーヴァダンメーササンカーラパリニッバージーである人

 比丘のみなさん。ディッテーヴァダンメーササンカーラパリニッバージーとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は普通に体が美しくないことが見える人で、食べ物は汚物という想があり、世界のすべては喜ばしいものではないという想がある人で、普通にすべての行の無常が見える状態があり、そして内面で良く維持してある死想があります。

 その人はこの五つの有学の力であるダンマ、つまり信力、慙力、愧力、精進力、智慧力に依存しています。その人の五根、つまり信根、精進根、念根、定根、智慧根は極めて力量のあるダンマで、その比丘は五つのダンマの分量が極めて現れているので、ディッデーヴァダンメーササンカーラパリニッバージーです。

 比丘のみなさん。ディッデーヴァダンメーササンカーラパリニッバージー(原註:現生で般涅槃するためのサンカーラダンマがある人?)である人はこのようです。

増支部チャトゥカニバータ 21巻 209頁169項


2.カーヤッサベーダーササンカーラパリニッバージである人

 比丘のみなさん。カーヤッサベーダーササンカーラパリニッバージである人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は普段から体が美しくないことが見える人で、食べ物は汚物という想があり、世界のすべては喜ばしい物ではないという想がある人で、普通にすべての行の無常が見える状態があり、そして内面で良く維持してある死想があります。

 その人はこの五つの有学の力であるダンマ、つまり信力、慙力、愧力、精進力、智慧力に依存しています。その人の五根、つまり信根、精進根、念根、定根、智慧根は力の弱さが現れているダンマです。その比丘は五つのダンマの力が弱いのでカーヤッサベーダーササンカーラパリニッバージである人です。

 比丘のみなさん。カーヤッサベーダーササンカーラパリニッバージ(原註:体が崩壊する時に般涅槃するためのサンカーラがある人?)である人はこのようです。

増支部チャトゥカニバータ 21巻210頁169項


3.ディッデーヴァタンメーアサンカーラパリニッバージーである人

 比丘のみなさん。ディッデーヴァタンメーアサンカーラパリニッバージーである人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は初禅に達し、二禅に達し、三禅に達し、四禅に達し、そして常にその感覚の中にいて、その人はこの五つの有学の力であるダンマ、つまり信力、慙力、愧力、精進力、智慧力に依存します。

 その人の五根、つまり信根、精進根、念根、定根、智慧根は極めて多い分量が現れているダンマで、その比丘はこの五つのダンマの分量が極めて多いのでディッデーヴァタンメーアサンカーラパリニッバージーである人です。

 比丘のみなさん。ディッデーヴァタンメーアサンカーラパリニッバージー(原註:現生での般涅槃のためにサンカーラを使う必要がない人?)である人はこのようです。

増支部チャトゥカニバータ 21巻210頁169項


4.カーヤッサベーダーアサンカーラパリニッバージーである人

 比丘のみなさん。カーヤッサベーダーアサンカーラパリニッバージーである人とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、初禅に達し、二禅に達し、三禅に達し、四禅に達し、常にその感覚の中にいます。その人はこの五つの有学の力であるダンマ、つまり信力、慙力、愧力、精進力、智慧力に依存します。その人の五根、信根、精進根、念根、定根、智慧根は、弱い力が現れているダンマです。その比丘はこの五つのダンマの力が弱いのでカーヤッサベーダーアサンカーラパリニッバージーである人です。

 比丘のみなさん。カーヤッサベーダーアサンカーラパリニッバージー(原註:体が崩壊する時の般涅槃のためにサンカーラを使う必要がない人?)である人はこのようです。

増支部チャトゥカニバータ 21巻211頁169項





聖なる弟子の自己訓練を象の訓練に例える

 比丘のみなさん。国王の象に四つの美徳があり王が使うにふさわしければ、王の体の一部と言われます。四つはどのようでしょうか。この場合の四つは聞くことを知り、殺すことを知り、耐えることを知り、行くことを知っています。

 比丘のみなさん。聞くことを知っている王の象はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の象は象使いが何かをするよう命じると、したことがあることでもないことでも、当然心の隅々まで集中させて耳を傾けて聞きます。このようなのを聞くことを知っている王の象と言います。

 比丘のみなさん。殺すことを知っている王の象はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の王の象が戦場に行くと当然象を殺し、象の背にいる人を殺し、馬を殺し、馬の背にいる人を殺し、当然戦車を壊し、戦車にいる人を殺し、当然歩兵を殺します。このようなのを殺すことを知っている象と言います。

 比丘のみなさん。耐えることを知っている王の象はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の王の象は槍や刀や矢で殺されることにも耐え、鳴り響く陣太鼓、でんでん太鼓、ほら貝、鉦の音に耐えることができます。こういうのを忍耐を知る王の象と言います。

 比丘のみなさん。行くことを知っている王の象はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の王の象は象使いがいずれかの方向へ行かせると、行ったことがあってもなくても、当然直ちに行くことができます。こういうのを行くことを知る王の象と言います。

 比丘のみなさん。この四つの美徳があるこれらの王の象は王が使うにふさわしく、王の一部と呼ばれます。

 比丘のみなさん。同じように四つの美徳がある比丘は当然供養を受けるにふさわしい人、供養されるべき人、布施を受けるにふさわしい人、合掌されるべき人で、そしてこれ以上の徳田はない世界の徳田です。四つの美徳とはどのようでしょうか。この場合の四つとは聞くことを知り、殺すことを知り、忍耐を知り、行くことを知る比丘です。

 比丘のみなさん。聞くことを知る比丘とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は誰かが如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)が公開したダンマヴィナヤを説いていると、当然心を一つに集中させて耳を傾けてダンマを聞きます。こういうのを、聞くことを知っている比丘と言います。

 比丘のみなさん。殺すことを知っている比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然生じている愛欲の考え、恨みの考え、加害する考えを見過ごさず、当然捨て、当然減らし、当然終わらせる行動をし、当然なくし、生じているすべての卑猥な悪を見過ごさず、当然捨て、当然減らし、当然終わらせる行動をします。こういうのを殺すことを知っている比丘と言います。

 比丘のみなさん。忍耐を知る比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐え、アブや蚊や日差し、風、そして地を這うすべての動物に耐え、粗暴で悪辣な言葉の流れに耐え、苦であり、大胆で、辛辣で、嬉しくない、満足できない、呼吸を奪い去りそうな生じている受に耐える生まれの人です。こういうのを忍耐を知っている比丘と言います。

 比丘のみなさん。行くこと知っている比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はこれほどまで長い永遠の時間彼が行ったことがない方向、つまりすべての行の鎮静であり、すべてのウパティ(依)を払い捨てたものであり、欲情することがない欲望が終わったものであり、残らず消滅したものである涅槃の方向に、直ちに行く人です。こういうのを行くことを知っている比丘と言います。

 比丘のみなさん。この四つの美徳がある比丘は当然供養を受けるにふさわしい人、供養されるべき人、布施を受けるにふさわしい人、合掌されるべき人で、そしてこれ以上の徳田はない、世界の徳田です。

 増支部チャトゥカニバータ 21巻156頁114項





種が残っている九種類の人

 ある朝プラ・サーリプッタが衣をまとい、鉢を持ってサーヴァッディーの都へ托鉢に行き、まだ托鉢するには早すぎると見て他の教義の修道者たちの寺へ立ち寄り、習慣に従って挨拶をして庭に座りました。その時異教の修道者たちが「まだ種が残っている人は誰でも、死んだら当然地獄、畜生に生まれ、餓鬼の境域、破滅、悪趣、悪の報いから逃れられる人は一人もいない」という問題について議論している最中でした。

 プラ・サーリプッタはそれらを肯定も反論もせず、このことを世尊にお知らせしようと考えて座を立ち、托鉢から戻ると世尊に拝謁してその朝あったことをすべて奏上すると、世尊は次のように言われました。

 サーリプッタ。他の教義の修道者たちはまだ知識が貧弱で賢くないので、誰に種が残っていて、誰に種が残っていないか、知ることができません。

 サーリプッタ。残っている種のある九種類の人は、これから話すように死んでも地獄や畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱しています。その九種類の人はどのようでしょうか。九種類とは、

(1)この場合の人は、戒の部分を十分にすることができ、サマーディの部分を十分にすることができますが、智慧の部分は適度にします。初歩のサンヨージャナの五つを終わらせたことで、その人は寿命の半分に満たないうちに般涅槃するアナーガミー(不還)になります。

 サーリプッタ。これが残っている種のある人の一番目で、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(2) サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分にすることができ、サマーディの部分を十分にすることができますが、智慧の部分は適度にすることができます。初等のサンヨージャナ五つを終わらせたので、その人は寿命の半分を過ぎてほとんど終る頃般涅槃するアナーガミー(不還)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の二番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(3)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができ、サマーディの部分を十分することができますが、智慧の部分は適度にすることができます。初等のサンヨージャナ五つを終わらせたので、その人は努力する必要なしに般涅槃するアナーガミー(不還)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の三番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(4) サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができ、サマーディの部分を十分することができますが、智慧の部分は適度にすることができます。初等のサンヨージャナ五つを終わらせたので、必ず努力をして般涅槃するアナーガミー(不還)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の四番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(5)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができ、サマーディの部分を十分することができますが、智慧の部分は適度にすることができます。初等のサンヨージャナ五つを終わらせたので、その人は上流の流れがあり、有頂天まで行くアナーガミー(不還)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の五番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(6)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができ、サマーディの部分を十分することができますが、智慧の部分は適度にすることができます。初等のサンヨージャナ三つを終わらせ、そして貪・瞋・痴を減らせたので、その人はサカダーガーミー(一来)です。

 つまり人間の世界にもう一度だけ来て、苦を終わらせる行動をする人です。サーリプッタ。これは残っている種のある人の六番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(7)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができますが、サマーディの部分は適度にすることができ、智慧の部分も適度にすることができます。初等のサンヨージャナ三つを終わらせたので、その人はソターパンナ(預流)です。

 つまり人間の有に一度だけ生まれて、そして苦を終わらせる行動をする人です。サーリプッタ。これは残っている種のある人の七番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(8)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができますが、サマーディの部分は適度にすることができ、智慧の部分も適度にすることができます。初等のサンヨージャナ三つを終わらせたので、二度か三度家に回遊しなければならず、そして苦を終わらせる行動をするソターパンナ(預流)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の八番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

(9)サーリプッタ。この場合の人は戒の部分を十分することができますが、サマーディの部分は適度にすることができ、智慧の部分も適度にすることができます。初等のサンヨージャナ三つを終わらせたので、天人と人間に、最高であと七回回遊しなければならず、そして苦を終わらせる行動をするソターパンナ(預流)です。

 サーリプッタ。これは残っている種のある人の九番目の人たちで、死ぬ時地獄、畜生に生まれること、餓鬼の領域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

 サーリプッタ。他の教義の修道者たちはまだ智慧が貧弱で賢くないので、誰に種が残っていて誰に種が残っていないと知ることなどできません。サーリプッタ。これが残っている種のある九種類の人で、死ぬ時地獄、畜生の生まれ、餓鬼の境域、破滅、悪趣、悪の報いから脱します。

 サーリプッタ。このダンマの説明は、まだ比丘、比丘尼、清信士、清信女に説いたことがありません。それはどうしてでしょうか。それは彼らがこの説明を聞くと揃って油断すると思うからです。更にこのような説明は、特別に質問された時だけ話すダンマです。

増支部ナヴァカニバータ 23巻393頁216項





阿羅漢は五取蘊を明らかに知って解脱した

 比丘のみなさん。比丘が五取蘊の発生を真実のままに明らかに知り、五取蘊が維持できないことを真実のままに明らかに知り、五取蘊の旨味を真実のままに明らかに知り、五取蘊の害を真実のままに明らかに知り、そして五取蘊から出る方便をこのように真実のまま明らかに知れば、執着がないことで解脱した人です。

 比丘のみなさん。その時この比丘を、私は「漏が終わり、梵行が終わって、するべき仕事が成功し、重荷を下ろすことができ、到達した自分の利益があり、有の結がすべて終わり、正しく知ることで解脱した阿羅漢」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻196頁297項





無取般涅槃に到達した人

 比丘のみなさん。アヌパーダーパリニッバーナ(無取般涅槃)とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は次のように実践できる人で、「縁がなければ当然私に結果はない。将来のための縁がなければ、将来の結果は私にはない。あるもの、既にある物は、私は当然それを捨てることができる」とこのように注目します。

 その比丘は有を欲しがらず、有に関わらず、当然正しい智慧で、その言葉は静まった言葉だと、更に良くなる言葉が見えます。そしてその言葉こそ、その人がすべてを明らかにし、消滅させる行動をした物です。

 慢随眠もその比丘は一つ残らず終わらせ、有貪随眠もその比丘はすべて終わらせ、その比丘は無明随眠もすべて終わらせたということです。その人はすべての漏が終わって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、現生で最高の智慧で明らかにする行動をしました。

 比丘のみなさん。これをアヌパーダーパリニッバーナ(無取般涅槃)と言います。

増支部サッタカニバータ 23巻74頁52項





阿羅漢は無学の人

 「猊下。『無学、無学』と言われている、無学と言われる比丘はどれほどの理由でしょうか」。

 比丘。このダンマヴィナヤの比丘は無学の正しい見解、無学の正しい考え、無学の正しい言葉、無学の正しい業、無学の正しい生活、無学の正しい努力、無学の正しいサティ、無学の正しいサマーディ、無学の正しい智慧、そして無学の正しい解脱がある人です。

 比丘。プラアセーカ(無学の僧=阿羅漢)と呼ばれる比丘は、当然これだけの理由です。

増支部ダサカニバータ 24巻237頁111項





阿羅漢の一般的な状態

 幸福を台無しにする焦燥は、当然長旅の終りを歩く人にはあり得ず、悲しみを知らない人にはあり得ず、すべてから脱した人にはあり得ません。幸福を台無しにする焦燥は、縛りつける煩悩を捨てた人には当然どんな場合にもあり得ません。

 完璧なサティがある人たちは当然自分を追い出すことができ、住んでいる土地を喜ばず、白鳥が翼を広げて飛び立つ時湿原を捨てるように、未練と未練を生じさせる物を捨てます。

 掻き集めることをせず、食住を良く知っている人は誰でも、煩悩がない脱出がゴーチャラ(好んで行く場所)であり、何も目指さないことがゴーチャラである脱出があります。そのような方たちの前方にある「行くこと」は、飛んで行く鳥たちの行き先のように、当然教えて知らせることはできません。

 漏が終わり、食べ物に関して面倒なことがなく、煩悩がないことがゴーチャラである脱出があり、何も目指さないことがゴーチャラである脱出がある方、その方に関わる話は、空を飛行した軌跡のように教えて知らせることはできません。

 その方の目・耳・鼻などの根が毒を作らなければ、つまり調教者が上手く調教した馬のように大人しければ慢を捨てることができ、漏を見つけることはできません。そして安定しているその方をすべての天人と人間は好み、褒めちぎります。

 他人を信じる必要がなく、何も変化させることができない涅槃を明らかに知る方は誰でも、繋ぐ物である、有に繋ぎ生に繋ぐ煩悩を断った人で、何かを手に入れる機会を潰す人で、そして希望が終わった人です。そのような方は誰でも理想の人です。

小部ダンマパダ 25巻27頁17項


 「これが岸か岸でないか。あるいはその岸はどのようか。どのようにそうではないのか」という疑念がなくなった人は焦燥がない人、煩悩随眠から離れた人で、そのような人を私如行は本当のバラモンと呼びます。

 懐かしむことがなくなり、すべてを知り、普段何はどうかと他人に聞く必要がなければ不死に至った人で、自分が段階的に到達した利益がある人です。私如行はその人を「本当のバラモン」と呼びます。

小部ダンマパダ 25巻67頁36項



 世界の物の最高の状態と退化する状態を熟慮して見て、世界のどんな感情にも動揺しない人は誰でも、その人は静まった人で、煙のように広がって包む煩悩がなく、苦や困窮がなく、何も期待しない人です。私如行はその人を「生と老を越えた人」と呼びます。

小部ティカニバータ 21巻169頁471項



 梵行が終わるまで実践をした方は驚愕することがなく、欲望がなく、傲慢のために強情になる煩悩がなく、突き刺す矢でしかない苦を断ち切ることができます。このような方にとって「この体はこれで終わった」と言われます。

小部ダンマパダ 25巻63頁34項




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