預流レベルの貪・瞋・痴を捨てた人

 比丘のみなさん。六つのダンマを捨てない比丘は、ディッティサンパダー(預流であること。見具足)を明らかにする行動にふさわしくない人です。捨てない六つのダンマはどれでしょうか。六つのダンマとは、

 サッカーヤディッティ(自分の体という見方。有身見)を捨てず、

 ヴィチキッチャー(滅苦の道のためらい。疑法)を捨てず、

 シーラッバタパマーサ(本当の目的と違った戒の実践。戒禁取)を捨てず、

 アパーヤガマニヤラーガ(破滅に至る貪り)を捨てず、

 アパーヤガマニヤドーサ(破滅に至る怒り)を捨てず、

 アパーヤガマニヤモーハ(破滅に至る愚かさ)を捨てません。

 比丘のみなさん。この六つを捨てない比丘は、ディッティサンパダー(預流であること。見具足)を明らかにするにふさわしくない人です。





 比丘のみなさん。この六つを捨てた比丘はディッティサンパダー(預流であること。見具足)を明らかにするべき人です。

 捨てる六種類のダンマとはどれでしょうか。六種類のダンマとは、

 サッカーヤディッティ(自分の体という見方)を捨て、

 ヴィチキッチャー(滅苦の道に対するためらい)を捨て、

 シーラッバタパマーサ(本当の目的と違った戒の実践)を捨て、

 アパーヤガマニヤラーガ(破滅に至る貪り)を捨て、

 アパーヤガマニヤドーサ(破滅に至る怒り)を捨て、

 アパーヤガマニヤモーハ(破滅に至る愚かさ)を捨てます。

 比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てた比丘はディッティサンパダーを明らかにするべき人です。

増支部チャッカニバータ 22巻487頁360項


 (この経の六つのダンマを、次の経ではディッティ(見)が具わった人のダンマと言われ〈22巻487頁361項〉、次の経ではディッティが具わった人に生じることがないダンマと述べられて〈22巻487頁362項〉います。





預流は五取蘊を知っている

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子が五取蘊の発生を知り、五取蘊が維持できないことを知り、五取蘊の旨味がある面を知り、五種蘊の凶悪な害をもたらす面を知り、五取蘊を正しく追い出す本当の方便を知れば、比丘のみなさん。その時その聖人の弟子を、私は「落ちて普通になることがない人、涅槃が確実な人、将来ダンマを悟る人、ソターパンナ(預流)」と呼びます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻196頁296項





預流っていったい誰 Ⅰ

 サーリプッタ。よく「ソターパンナ(預流)」「ソターパンナ(預流)」と言っているのは、どういう人ですか、サーリプッタ。

 「猊下。八正道がある方はどなたでも、私は、こういう姓でこういう名前のソターパンナ(預流)と呼びます」。

 サーリプッタ、そうです。私も八正道のある人をそのように、こういう姓、こういう名前のプラソターパンナ(預流)と呼びます。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻143頁1433項





預流っていったいどんな人 Ⅱ

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は、四項目のダンマが揃っている人なので、落ちて普通になることがなく、涅槃が確実で、将来ダンマを悟る人です。四項目のダンマはどのようでしょうか。四項目とは

(1)比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は「このような理由でブッダは煩悩から離れた人で、自分自身で正しく悟ることができ、明と、明に至る実践項目が揃っている人、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人で、

すべての天人と人間の先生であり、知る人、目覚めた人、ダンマで明るい人であり、ダンマを分類して生き物に教える人」と、このようにブッダに対して揺るぎない深い帰依があります。

(2)比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人である弟子は、「プラタム(ブッダの教え)は世尊が良く話されたものであり、学習し実践した人が見ることができる物、実践できる物、そして時を限定せずにいつでも結果を出せる物であり、

その結果は「来て見てください」と他人に言える物であり、心を傾けるべき物であり、知る人本人だけが知る物」と、このようにプラタムに対して揺るぎない帰依があります。

(3) 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は「世尊の弟子である僧は、善い実践者、真っ直ぐな実践者、苦から出るダンマを知る実践者で、四組八人の人にふさわしい実践者だ。それが世尊の弟子である僧で、人々が供物を持って来るにふさわしい僧であり、一般人が合掌するにふさわしい僧であり、これに勝る徳田はない世界の徳田だ」と、このように僧サンガに対してゆるぎない帰依があります。

(4)比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は、欠けず、突き出ず、汚れのない戒、欲望に支配されない戒、智者が称賛する戒、ディッティ(邪見)に撫でまわされない戒、そしてサマーディになる戒、聖人たちが満足する類のすべての戒がある人です。

 比丘のみなさん。聖人の弟子はこの四つがある人で、預流と呼ばれ、落ちて普通になることがなく、涅槃が確約され、将来必ずダンマを悟る人です。

 (世尊はこのようにブッダヴァチャナを話された後、続いて詩を詠まれました)。

 信仰があり

 戒があり

 帰依があり

 ダンマが見える人はどなたも

 その方こそ

 将来ふさわしい時に

 梵行の幸福を受け取る人になる。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻429頁1414項





預流っていったいどんな人 Ⅲ

 恐れないでください、マハーナーマさん。怖がらないでください、マハーナーマさん。あなたの死は低劣にはなりません。あなたの行動は低劣にはなりません。マハーナーマさん。四つのダンマがある聖なる弟子は当然平素から涅槃に傾いている人で、涅槃へ傾き、確実に涅槃の方向へ傾いています。四つのダンマとは何でしょうか。四つのダンマとは、

 マハーナーマさん。この場合の聖なる弟子は、

(1)「このような理由でブッダは煩悩と離れた人で、自分自身で正しく悟ることができ、明と、明に至る実践項目が完璧な人で、良く行った人で、世界を明らかに知る人で、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人で、

すべての天人と人間の先生であり、知る人、目覚めた人、ダンマで明るい人で、ダンマを分類して動物に教える人だ」と、このようにブッダに対して確固として揺るぎない深い帰依があります。

(2) 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は、「プラタム(ブッダの教え)は世尊が良く悟った物であり、自分で学習し実践した人は見ることができ、実践でき、そして時を限定せず、いつでも結果を出せる物であり、

「来て見てください」と他人に言える物であり、自分に取り入れるべき物であり、知る人当人だけが知る物」と、このようにプラタムに対して確固として揺るぎない帰依があります。

(3) 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は「世尊の弟子である僧(サンガ)は、善い実践者、真っ直ぐな実践者、苦から出る道具であるダンマを知る実践者で、四組八人の人にふさわしい実践者だ。

それが世尊の弟子である僧、人々が持ってくる供養物にふさわしい僧であり、一般の人が合掌するにふさわしい僧であり、これ以上の徳田はない、世界の徳田だ」と、このように僧サンガに対して確固としてゆるぎない帰依があります。

(4)比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は聖人たちが満足するすべての戒、欠けず突き出ず、汚れがない戒、欲望に支配されない戒、智者が称賛する戒、邪見に撫でまわさない戒、そしてサマーディになる戒があります。

 マハーナーマさん。東へ傾いている木、東へ傾いでいる木、東へ偏っているその木を根元から切ったら、どちらに倒れますか。

 「たいてい木が傾いている方向に倒れます」。

 マハーナーマさん。それと同じです。これら四つのダンマがある聖なる弟子は、当然普段から涅槃へ傾き、本当に涅槃の方向へ傾いている人です。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻465頁1511項





預流っていったいどんな人 Ⅳ

 比丘のみなさん。この百五十の教条は当然半月ごとに取り上げて順に説き、利益を求める良家の子息は揃ってその教条を学習しています。比丘のみなさん。すべての教条を集めたこの三種類の学習があります。その三種類の学習はどのようでしょうか。

 増上戒学、増上心学、増上智慧学です。比丘のみなさん。これが、すべての学ぶべきことを集めた三学です。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は戒を完璧にし、サマーディを適度にし、智慧を適度にする人で、彼はまだ小さな教条を犯すことがあり、そして多少の罪から出なければなりません。それはどうしてでしょうか。

 それは小さな教条を犯すことがあり、多少の罪からでなければならないことから生じるロークッタラの到達の貧弱さを、知って言う人が誰もいないからです。

 一方梵行の初めである梵行にふさわしい教条はどれでも、その人は永続する戒があり、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はサンヨージャナ(人を輪廻に結びつける煩悩結)の包囲が終わった預流であり、落ちて普通になることがなく、涅槃が確実な人であり、将来すべてを悟ります。

増支部ティカニバータ 20巻297頁526項





自分の預流の状態を判定する基準

 長者さん。いつの時代でも聖なる弟子が五つの災厄を鎮めることができ、聖なる弟子にとってソターパッティヤンガ(預流の徳。四預流支)が完璧であり、アリヤニャーヤダンマ(聖理)が良く見えるダンマであり、智慧で良く洞察した物である時、その時その聖なる弟子が望めば、

「私は地獄が終わった。畜生に生まれることも終わり、餓鬼の領域も終わり、破滅や悪趣や償いのための生も終わった。私は流れにたどり着いた人で、落ちて普通になることはない。涅槃が確約され、将来すべてを悟る」と自分で自分に告げることができます。

 長者さん。聖なる弟子は五つの災いをどのように鎮めることができるのでしょうか。長者さん。普段動物を殺している人は、現生のこともあり来生(あるいは後生)のこともありますが、当然報いである災難に遭遇し、当然殺生が縁で苦や精神的な憂いを味わいます。

 殺生を避ける人は現生でも来生でも当然その災厄に遭遇せず、苦や精神的な憂いを味わう必要はありません。聖なる弟子が殺生を避ければ、その災厄は当然このように鎮まります。

 (泥棒、邪淫、虚言、そして飲酒の場合も、同じように話されています)。

 長者さん。これらの災厄は、すでに鎮静したものです。

 長者さん。聖なる弟子は、どのように到達した預流の四項目があるでしょうか。

(1)長者さん。この場合の聖なる弟子は「このような理由で世尊は煩悩から遠い人で、自分自身で正しく悟ることができ、明と、明に至る実践項目が完璧な人、良く行った人、世界を明らかに知る人、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人で、すべての天人と人間の先生であり、知る人、目覚めた人、ダンマで明るい人で、ダンマを分類して生き物に教える人だ」と、このようにブッダに対して確固とした揺るぎない深い帰依があります。

(2)長者さん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は「プラタム(ブッダの教え)は世尊が良く悟った物であり、学習し実践する人は見ることができる物で、実践できる物で、そして時を限定せずにいつでも結果を出せる物であり、「来て見てください」と他人に言える物であり、自分に取り入れるべき物であり、知る人本人だけが知る物だ」と、このようにプラタムに対して確固とした揺るぎない帰依があります。

(3)長者さん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は、「世尊の弟子である僧(サンガ)は善い実践者で、真っ直ぐな実践者で、苦から出る道具であるダンマを知る実践者で、四組八人の人にふさわしい実践者だ。それが世尊の弟子で、人々が持ってくる供物にふさわしい僧、一般の人が合掌するにふさわしい僧であり、これ以上の徳田はない世界の徳田だ」と、このように僧に対して確固としたゆるぎない帰依があります。

(4)長者さん。このダンマヴィナヤの聖人の弟子は、欠けず突き出ず汚れがない戒、欲望に支配されない戒、智者が称賛する戒、ディッティや欲望に撫でまわされない戒、そしてサマーディになる戒である、聖人たちが満足する類のすべての戒があります。長者さん。聖なる弟子は、預流に到達するこの四つのダンマが完璧な人です。

 長者さん。アリヤニャーヤダンマ(聖理)は、聖なる弟子がどのように良く見て、智慧で洞察しているダンマでしょうか。

 長者さん。この場合の聖なる弟子は「これがあれば当然これがある。これが生じたからこれが生じた。これがなければ当然これはない。これが消滅すれば、当然これが消滅する。

 すなわちこれら、無明が縁で行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ、嘆き、憂い、苦、すべての悩みが揃って生じ、苦の海の発生は、当然このようにしてある。

無明が薄れて残らず消滅するので行が消滅し、行が消滅するので識が消滅し識が消滅するので名形が消滅し、名形が消滅するので六処が消滅し、六処が消滅するので触が消滅し、触が消滅するので受が消滅し、受が消滅するので欲望が消滅し、欲望が消滅するので取が消滅し、

取が消滅するので有が消滅し、有が消滅するので生が消滅し、生が消滅するので、老・死・悲しみ・嘆き・憂い・苦・すべての悩みが消滅し、苦の海の消滅はこのようにしてある」と、このように熟慮して見ます。

 長者さん。アリヤニャーヤダンマ(聖理)は、聖なる弟子が良く見えているダンマ、智慧で良く洞察しているダンマです。

 長者さん。いつの時代でも、この五つの災厄は、聖なる弟子が鎮めることができたものであり、聖なる弟子は、これら四つのソターパッティヤンガ(預流の徳。四預流支)が完璧な人で、この聖理は、聖なる弟子に良く見えているものであり、智慧で良く洞察したものです。

 その時その聖なる弟子が望めば、「私は地獄が終わった人で、畜生に生まれることが終わり、餓鬼の境域も終わり、破滅や悪趣や贖罪のための生も終わった。私は(涅槃の)流れにたどり着いた人であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で、将来すべてを悟る」と自分で自分に告げることができます。

増支部ダサカニバータ 24巻195頁92項





預流であることを映して見る鏡

 アーナンダ。これから「ダンマの鏡」というダンマの説明をします。全部揃っている聖なる弟子は誰でも、自分自身に告げたければ、「自分は地獄が終わった人で、畜生に生まれることが終わり、餓鬼の境域も終わり、破滅や悪趣、悪の報いが終わった。自分は預流であり、落ちて普通に戻ることはなく、涅槃が確実で、将来ダンマを悟る人」と、自分で自分に宣言することができる(自分を映して見る)鏡であるダンマの説明をします。

 アーナンダ。ここで鏡と言う説明はどのようでしょうか。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、ブッダ、教え、僧への揺るぎない帰依がある人で、そしてこのダンマヴィナヤの聖なる弟子は、聖人たちが満足するすべての戒、つまり欠けず突き出ず、汚点がない戒、欲望に支配されない戒、智者が称賛する戒、ディッティ(見解)で撫でまわさない戒、そしてサマーディになる戒がある人です。

 アーナンダ。この説明をダンマの鏡と呼びます。すべてが具わった聖なる弟子は誰でも、自分で望めば、託宣することができます。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻450頁1479項





自然に見解が完璧な人
(ディッティで完璧な人が自然にできないこと)

 比丘のみなさん。この六つの不可能な物があります。六つは何でしょうか。六つとは、

 ディッティ(見解)が完璧な人は、どんな行も不変な物と理解できず、

 見解が完璧な人は、どんな行も幸福と理解できず、

 見解が完璧な人は、どんな行も自分と理解できず、

 見解が完璧な人は、無間業を作ることができず、

 見解が完璧な人は、奇特瑞祥(この場合は催眠術の類を意味する)で純潔に到ることを望むことはできず、

 見解が完璧な人は、この宗教外の人の支援を求めることはできません。

 比丘のみなさん。これがあり得ない六つの条件です。

増支部チャッカニバータ 22巻488頁364項





見解が完璧な人 Ⅰ
(見解が完璧な人のあり得ない立場)

 比丘のみなさん。この六つのあり得ない立場があります。六つとはどれでしょうか。六つとは、

  ディッティ(見解)が完璧な人は、教祖を畏敬せずにはいられず、

  見解が完璧な人は、プラタム(教え)を畏敬せずにはいられず、

  見解が完璧な人は、僧を畏敬せずにはいられず、

  見解が完璧な人は、学習を畏敬せずにはいられず、

  見解が完璧な人は、求めるべきでない物を求めることはできず、

  見解が完璧な人は、八回目の有を生じさせることはできません。(預流はあと七回の有しかないので)。

増支部チャッカニバータ 22巻488頁363項 





見解が完璧な人 Ⅱ
(正しい見解の人のあり得ない立場)

 比丘のみなさん。この六つのあり得ない立場があります。六つとはどれでしょうか。六つとは、

 ディッティ(見解)が完璧な人が母の命を奪うことはあり得ず、

 見解が完璧な人が父の命を奪うことはあり得ず、

 見解が完璧な人が阿羅漢の命を奪うことはあり得ず、

 見解が完璧な人が如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)に加害しようと考えることは、内出血する程度でもあり得ず、

 見解が完璧な人がサンガを分裂させることはあり得ず、

 見解が完璧な人が(サンマーサンブッダ以外の)他の宗教を信奉することはあり得ません。

 比丘のみなさん。これがあり得ない六つの立場です。

増支部チャッカニバータ 22巻48頁365項





見解が完璧な人 Ⅲ
(見解が具わっている人のあり得ない立場)

 比丘のみなさん。この六つのあり得ない立場があります。六つとはどれでしょうか。六つとは、

 ディッティ(見解)が完璧な人は「幸福と苦は自分で作る」という見解にならず、

 見解が完璧な人は「幸福と苦は他人が作ってくれる」という見解にならず、

 見解が完璧な人は「幸福と苦は自分が作るのもあり、他人が作ってくれるのもある」という見解にならず、

 見解が完璧な人は「幸福と苦は、自分で作らなくてもひとりでに生まれる」という見解にならず、

 見解が完璧な人は「幸福と苦は、他人に作ってもらわなくても、ひとりでに生じる」という見解にならず、

 見解が完璧な人は「幸福と苦は、自分で作らなくても、そして他人に作ってもらわなくても、ひとりでに生じる」という見解になりません。

 それは何故でしょうか。比丘のみなさん。それは、見解が本当に完璧な人の(苦と幸福)であり、すべてのダンマは原因から生じるものだからです。

 比丘のみなさん。これがあり得ない六つの立場です。

増支部チャッカニバータ 22巻366頁





疑念が無くなった人(預流)

 比丘のみなさん。形があれば形に執着し、形に心を埋めるので、「風は吹かず、川は流れず、妊婦も出産せず、太陽も月も昇らず沈まない。それぞれが砦の柵のように盤石だ」という見解が生じます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。形は恒常ですか、無常ですか。

 「恒常ではありません。無常です、猊下」。

 無常なものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です。猊下」。

 無常であり苦であり当然変化するものでも、それに執着しなければ、「風は吹かず、川は流れず、妊婦も出産せず、太陽も月も昇らず沈まず、それぞれが砦の柵のように盤石だ」という、このような見解は生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 (形・受・想・行・識の場合も、形と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。人が見た、聞いた、感じた、明らかに知った、到達した、探求した、心で熟考したもの何でも、これらは恒常ですか、無常ですか。

 「恒常ではありません。猊下」。

 恒常でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です。猊下」。

 無常であり、苦であり、当然変化するものでも、それに執着しなければ「風は吹かず、川は流れず、妊婦も出産せず、太陽も月も、昇らず沈まない。それぞれが砦の柵のように盤石だ」という、このような見解は生じますか。

 「いいえ、生じません。猊下」。

 比丘のみなさん。この六つの疑念を聖なる弟子が捨てることができた時はいつでも、その時苦と苦を生じさせる原因と、苦の消滅と動物を苦の消滅に至らせる実践項目に関した疑念も、その比丘は捨てることができたということです。

 比丘のみなさん。この聖なる弟子を私は「預流である聖なる弟子は、当然落ちて普通になることはなく、(涅槃が)確実な人で、将来すべてを悟る」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻248頁417項


 六つの立場とは、五蘊と上記の七種類を一つにまとめたのを合わせて六つになります。

 上の経は、この六つの立場はエシカッダージッダタサッサタディッティの基盤と説かれています。

 他の経(17巻250頁419項)では、この六つの立場は、自分、自分の物というディッティ(見)の基盤と説かれています。

 他の経(17巻251頁422項)では、この六つの立場は、常見の基盤と説かれ、

 他の経(17巻253頁424項)では、この六つの立場は、断見の基盤と説かれ、

 他の経(17巻255頁426項)では、この六つの立場は、虚無論の基盤と説かれ、

 他の経(17巻257頁428項)では、この六つの立場は、無作用論の基盤と説かれ、

 他の経(17巻258頁430項)では、この六つの立場は、無因縁論の基盤と説かれています。

 そしてこの六つの立場は、まだ他にもたくさんのディッティの基盤と説かれていますが、多すぎるのでここでは引用しません。





ダンマニャーナとアンヴァヤニャーナのある人(預流者)


 比丘のみなさん。老死はどのようでしょうか。老いること、老い耄れること、歯が抜けること、白髪になること、皮膚にしわが寄り、寿命がなくなり、その種族の動物のすべての根の衰えを老いと言います。

 それらすべての動物の移動、破壊、消滅、命が終わること、死、五蘊の崩壊、体を捨てること、根つまり命が断たれること、その種属から去ることを死と言います。老いも死も、このようです。

 比丘のみなさん。これを老死と言います。老死の発生は当然生の発生によってあり、老死の消滅は当然生の消滅によってあり、八正道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心は老死の消滅に至る道です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子は、当然「老死はこのよう」とすべて知り、当然「老死の消滅はこのよう」とすべて知り、当然「生き物を老死の消滅に至らせる実践項目をこのよう」とすべて知ります。その時その聖なる弟子の知識を、ダンマニャーナ(ダンマのニャーナ=智)と言います。

 その聖なる弟子が知り、到達し、洞察したダンマ、そして時を限定せずに使うことができるそのダンマを、その聖なる弟子は「遠い昔のサマナ・バラモンのある人たちも老死を最高によく知り、老死が生じる原因を最高によく知り、老死の消滅を最高によく知り、動物を老死の消滅に到達させる実践項目を最高に良く知っていた。サマナ・バラモンの誰もが、私が今良く知っているように、良く知っていた。

遠い未来のサマナ・バラモンのある人たちは、老死を最高によく知り、老死が生じる原因を最高に良く知り、老死の消滅を最高によく知り、動物を老死の消滅に到達させる実践項目を最高に良く知っている。サマナ・バラモンの誰もが、私が今良く知っているように、良く知っている」と、当然その知識を過去と未来に広げます。

 聖なる弟子のこの知識を、アンヴァヤニャーナ(続いて知る智)と言います。

 比丘のみなさん。二つのニャーナ(智)つまり聖なる弟子のダンマニャーナとアンヴァヤニャーナが純潔で清浄な自然である時はいつでも、比丘のみなさん。その時私はその聖なる弟子を「見解で完璧な人」「サッダンマ(正法)が見える人」「有学である智(ニャーナ)のある人」「有学である明のある人」「ダンマの流れに到達した人」「煩悩に突っ込む智慧がある卓絶した人」「不死の門に立っている人」と言います。

 (上の文章は縁起の場合で、つまり聖なる弟子が四聖諦の意味で熟知している老死で、ダンマニャーナとアンヴァヤニャーナがあるようにし、見解などが具わった人にします。続いて縁起、つまり生、有、取、欲、受、触、根、名形、識、行のそれぞれについて、縁起の場合、つまり老死と同じように話されています)。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻68頁120項





預流は六根を知っている

 比丘のみなさん。この六種類の根があります。六種類とは何でしょうか。六種類とは目根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根です。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が六根の発生を知り、六根が維持できないことを知り、六根の旨味である面を知り、六根の凶悪な害だけをもたらす面を知り、六根を越える方便を真実のままに知れば、比丘のみなさん。その時その聖なる弟子を私は「落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で、将来ダンマをすべて悟る預流」と言います。

相応部マハーヴァ-ラヴァッガ 19巻271頁902項


 


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