解説十一 欲望を消滅させた人






凡夫とは思いっきり掴む人

 比丘の皆さん。この世界の凡夫は聞かない人で、すべての聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然土・水・火・風を土・水・火・風と理解します。

土・水・火・風を土・水・火・風と理解すれば当然土・水・火・風と思い込み、土・水・火・風と思い込めば、当然土・水・火・風の物と思い込み、当然土・水・火・風であると思い込み、当然私の土・水・火・風と思い込みます。それはなぜでしょうか。私は「土・水・火・風を、凡夫はまだ知り尽していないから」と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻1頁2項


 (凡夫が知らないで、思い込みで陶酔している物、つまりブータサッタ(註)、天人、宮女、梵衆天、極光浄天、遍浄天、広果天、無煩天、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、見えた物、聞いた物、知っている物、明らかに知っている物、一つの界、色んな界、すべての物、そして涅槃についてこの経の先で話されています)。

訳注: 二足歩行ができるように変えられた野生動物で、人間のように話し、食べ物を食べることができる動物と言われている。




有学とは掌握が減っていく人

 比丘のみなさん。まだ有学の僧で、まだ阿羅漢向に達してなくて、それ以上に素晴らしい物がない実践から生じる安全な物である涅槃を望んでいる比丘は誰でも、その比丘は当然土・水・火・風を土・水・火・風と明らかに知ります。

 土・水・火・風を土・水・火・風とだけ知れば土・水・火・風に思い込みがない人で、土・水・火・風を自分の物と思い込まないので、普通に土・水・火・風に極めて陶酔することがなくなります。それはなぜでしょうか。それは「その有学の僧は土・水・火・風を知り尽くすから」と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻6頁2項





凡夫とは、まだ涅槃を知らない人

 比丘のみなさん。話を聞いたことがないこの世界の凡夫は、すべての聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然涅槃を涅槃と理解します。

 涅槃を涅槃と理解すれば当然涅槃と思い込み、当然涅槃にと思い込み、当然涅槃であると思い込み、当然私の涅槃と思い込み、その人は涅槃に極めて陶酔します。それはなぜでしょうか。私は「凡夫はまだ涅槃を知り尽していないから」と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻5頁2項





有学とは今から涅槃を知る人

 比丘のみなさん。比丘は誰でも、まだ有学で阿羅漢向に達してなく、それ以上に素晴らしい物がないダンマの実践より生じた安全な物である涅槃をまだ望んでいても、その比丘は当然涅槃を涅槃と明らかに知ります。

 涅槃を涅槃とだけ明らかに知れば、当然涅槃に思い込みがない人なので、私の涅槃と思い込まず、涅槃に最高に陶酔する日常はありません。それはなぜでしょうか。「その有学の比丘にとって涅槃は知り尽くした物だから」と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻6頁3項





無学の僧はすべての執着が終わった人

 比丘のみなさん。漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事が終わり、重荷を下ろし、自分が到達した利益があり、有のサンヨージャナ(結)が終わり、正しく知ることで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、その比丘は当然、土・水・火・風を土・水・火・風とハッキリと知っています。

 土・水・火・風を土・水・火・風とだけハッキリと知れば当然土・水・火・風と思い込まない人であり、土・水・火・風のと思い込まず、土・水・火・風であると思い込まず、私の土・水・火・風と思い込まないので、土・水・火・風に著しく陶酔する人ではありません。それはなぜでしょうか。それは阿羅漢であるその比丘は土・水・火・風を知り尽しているから、と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻6頁4項


 (この経では土・水・火・風以外の執着の住処である物、つまりブータサッタ(二足歩行するように変化させられた野生動物)、天人、宮女、梵衆天、極光浄天、遍浄天、広果天、無煩天、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、見えた物、聞いた物、知っている物、明らかに知っている物、一つの有、色んな有、すべての物、そして涅槃について話されています)。




無学の僧はすべての掌握が終わった人

 比丘のみなさん。漏が終わり、梵行が終わり、するべき仕事が成功して、下ろした重荷があり、到達した自分の利益があり、有の結がなくなり、正しく知ることで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、その比丘は当然土・水・火・風を土・水・火・風としてハッキリと知っています。

  土・水・火・風を土・水・火・風とだけハッキリと知れば当然土・水・火・風に思い込みがない人で、土・水・火・風のと思い込まず、土・水・火・風であると思い込まず、自分の土・水・火・風と思い込まないので、平素から土・水・火・風に極めて陶酔しない人です。それは何故でしょうか。私は、その阿羅漢である比丘は、土・水・火・風を知り尽しているから、と答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻6頁4項

(この経では土・水・火・風以外の執着の巣であるもの、つまりブータサッタ、天人、宮女、梵衆天、極光浄天、遍浄天、広果天、無煩天、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、見えた物、聞いた物、知っている物、明らかに知っている物、一つの有、いろんな有、すべての物、そして涅槃について話されています)。





無学の僧は涅槃にも執着しない人

 比丘のみなさん。漏が終わり、している梵行が終わり、するべき仕事が成功して、下ろした重荷があり、到達した自分の利益があり、有のサンヨージャナがなくなり、正しく知ることで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、その比丘は、当然涅槃を涅槃と明らかに知っています。

 涅槃を涅槃とだけ明らかに知っていれば、当然涅槃に思い込みがない人で、涅槃のと思い込まず、涅槃と思い込まず、私の涅槃と思い込みません。だから涅槃に最高に陶酔しない人です。それは何故でしょうか。私は、その阿羅漢である比丘は、涅槃をすべて知り尽しているからと答えさせてもらいます。

中部ムーラパンナーサ 12巻7頁4項





無学の僧の三学

 比丘のみなさん。三つのダンマがある比丘は当然最高に成功し、最高に解縛の努力をし、最高の梵行があり、最高に仕事を終わらせた人であり、すべての天人とすべての人間より素晴らしい人です。どのような三つのダンマがあるのでしょうか。三つのダンマとは、

 無学である戒蘊があり、

 無学であるサマーディ蘊があり、

 無学である智慧蘊があります。

 比丘のみなさん。これら三つのダンマのある比丘は、当然最高に成功した人であり、最高に解縛の努力をし、最高の梵行があり、最高の仕事を終わらせた、天人とすべての人間より素晴らしい人です。

増支部ティカニバータ 20巻375頁583項





無学の人のダンマ

 比丘のみなさん。五つのダンマがある比丘は当然供養を受けるにふさわしい人で、奉仕を受けるにふさわしい人で、布施を受けるにふさわしい人で、合掌されるべき人で、そしてこれ以上の徳田はない世界の徳田です。五つのダンマとは何でしょうか。五つのダンマとは、

 無学である戒蘊があり

 無学であるサマーディ蘊があり

 無学である智慧蘊があり

 無学である解脱蘊があり

 無学である解脱智見蘊があります。

 比丘のみなさん。この五つのダンマがある比丘は当然供養を受けるにふさわしく、奉仕を受けるにふさわしく、布施を受けるにふさわしく、合掌されるべき人で、そしてこれ以上の徳田はない世界の徳田です。

増支部パンチャカニバータ 22巻152頁107項





無学僧の十の正しさ

 比丘のみなさん。これら十の無学のダンマがあります。十種類とはどのようでしょうか。十種類とは、

 無学であるサンマーディッティ(正しい見解)

 無学であるサンマーサンカッパ(正しい考え)

 無学であるサンマーヴァーチャー(正しい言葉)

 無学であるサンマーカンマンタ(正しい業)

 無学であるサンマーアージヴァ(正しい生活)

 無学であるサンマーヴァーヤナ(正しい努力)

 無学であるサンマーサティ(正しいサティ)

 無学であるサンマーサマーディ(正しい専心)

 無学であるサンマーニャーナ(正しい智)

 無学であるサンマーヴィムッティ(正しい解脱)

 比丘のみなさん。これが無学のダンマ十種類です。

増支部ダサカニバータ 24巻237頁112項





有学と無学

 比丘のみなさん。正しいサマーディの部下の中で、当然正しい見解が先導です。

 比丘のみなさん。正しい見解がどのように先導するのでしょうか。

 比丘のみなさん。正しい見解があれば当然正しい考えが十分になり、正しい考えがあれば当然正しい言葉が十分になり、正しい言葉があれば当然正しい業が十分になり、正しい業があれば当然正しい生活が十分になり、正しい生活があれば当然正しい努力が十分になり、

正しい努力があれば当然正しいサティが十分になり、正しいサティがあれば当然正しいサマーディが十分になり、正しいサマーディがあれば当然正しいニャーナ(知ること。智)が十分あり、正しいニャーナがあれば当然正しい解脱が十分になります。

 比丘のみなさん。だから八つが揃っている人をセーカ(有学)僧と言い、十項が揃っている人を阿羅漢(アセーカ。無学)と言います。

中部ウパリバンナーサ 14巻187頁279項





比較のための三学の説明

 比丘のみなさん。この三種類の学ぶべきことがあります。三種類はどのようでしょうか。三種類とはアディシーラシッカー(増上戒学)、アディチッタシッカー(増上心学)、アディパンニャーシッカー(増上智慧学)です。

 比丘のみなさん。増上戒学(高い戒を学ぶ)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は戒があり、パーティモッガ(227戒)に細心の注意を払っている人で、行儀とゴーチャラ(いつも遊びに行く場所)が完璧で、どんな小さな物でも、普通にすべての罪の害が見え、すべての教条を遵守します。比丘のみなさん。これを私は増上戒学と言います。

 比丘のみなさん。増上心学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカ・ヴィチャーラの両方が鎮まると心の内部を明るくする物になり、一つのダンマであるサマーディが生じ、ヴィタッカもヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 更に喜悦が薄れることで当然捨にいる人になり、サティと自覚があり、そして当然すべての聖人が「捨にいる人はサティがあり、正常な幸福にいる」と言われる類の幸福を名身で味わう三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 幸福を捨てることができ、苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いのどちらも捨てることができたので、苦も楽もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、常にその高い感覚の中にいます。比丘のみなさん。これを私は増上心学と呼びます。

 比丘のみなさん。増上智慧学とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知っています。比丘のみなさん。これを私は増上智慧学と呼びます。

 比丘のみなさん。これが三学です。

増支部ティカニバータ 20巻303頁529項





三学の説明 Ⅱ

 比丘のみなさん。この三種類の学習があります。三種類はどのようでしょうか。三種類とは、増上戒学・増上心学・増上智慧学です。

 比丘のみなさん。増上戒学とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は戒がある人で、パーティモッガに細心の注意を払い、……すべての教条を遵守します。比丘のみなさん。これを私は増上戒学と呼びます。

 比丘のみなさん。増上心学とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が鎮まり、……初禅に到達し、……二禅に到達し、……三禅に到達し、……四禅に到達し、常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこれを増上心学と呼びます。

 比丘のみなさん。増上智慧学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、最高の智慧ですべての漏を終わらせたので、漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を明らかにする行動をし、生きているうちに到達し、そして常にその高い感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこれを増上智慧学と呼びます。

比丘のみなさん。これが三学です。


(経末のガーター)

 努力があり、力があり、安定があり

 目標があり、サティがあり

 根に注意を払う人で

 増上戒学、増上心学、増上智慧学の行動を

 測ることができないサマーディで、

 前後と後前のように、

 上下と下上のように、

 昼夜と夜昼のように、

 すべての方向へ同じように心を広げて覆いなさい

 それをその方は有学の道、

 あるいは清浄なダンマの振る舞いと言われる

 火が消えたように欲望が終わり

 識が終わって解脱した人に

 当然心の解脱がある

増支部ティカニバータ 20巻303頁530項





有学僧と無学僧の比較

 「猊下。猊下が『有学』『有学』とおっしゃるのは、人はどれほどの理由でそう呼ばれるのですか」。

 比丘。学習する人を有学と言います。何を学習するのでしょうか。増上戒学も、増上心学も、増上智慧学もです。比丘のみなさん。その人は学習するので有学と呼ばれます。

 (続いてサンギーティカーチャン、つまり三蔵を編纂した僧が綴った言葉があります)。

 「有学の人がまっすぐな方法で学習すれば、先ず尽智が生じ、それから阿羅漢果智が生じ、続いて私の解脱は悪化することはないと確定した阿羅漢果智で解脱したその方に、当然有結の終わりのニャーナ(知ること。智)が生じます」。

増支部ティカニバータ 20巻297頁525項



 比丘のみなさん。この百五十の教条は、当然半月ごとにサンガで取り上げられ、利益を求める良家の子息たちは、揃ってこれらの教条を学んでいます。比丘のみなさん。この三種類の学習があります。すべての教条の集まりである三種類の学習とはどのようでしょうか。

 それは増上戒学、増上心学、増上智慧学です。比丘のみなさん。この三種類の学習は、すべての学ぶべきことをまとめたものです。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は戒を完璧にし、サマーディを適度にし、智慧を適度にする人です。彼はまだ多少教条を犯すことがあり、そしてその多少の罪から出なければなりません(罪の清算をしなけらばならないという意味)。

 それは何故でしょうか。それは小さな教条の違反と、これらの小さな罪から出なければならないことから生じるロークッタラ(世界から出ること。脱世間)の到達の貧弱さを、知って言う人がいないからです。

 一方梵行の初めになり、梵行にふさわしいどんな教条にも、彼は恒常的に戒のある人で、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はサンヨージャナ(結)の三つがなくなって、落ちて普通に戻ることがない人、涅槃が確実な人、将来すべてを悟る人ソターパンナ(預流者)です。

 (ここから預流の項目の終わりまでは227項から)

 その比丘はサンヨージャナ(結)の三つがなくなってサッタカカットゥパラマ(最高で七回生まれる人。極七返生)の人になり、まだ天人と人間の有を、最大七回回遊しなければならず、それから当然苦を終わらせます。

 (あるいは)その比丘はサンヨージャナの三つがなくなってコランコラ(後二三回善い家に生まれる人。家々)の人になり、二度、あるいは三度家に生まれなければならず、それから当然苦を終わらせます。

 (あるいは)その比丘はサンヨージャナの三つがなくなってエカビージ―(もう一度生まれれば阿羅漢に達す人。一種)の人になり、人間の有に一度だけ生まれ、それから当然苦を終わらせます。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は戒を完璧にし、サマーディを適度にし、智慧を適度にする人で、その人はまだ小さな教条を犯すことがあり、そして多少の罪から出なければなりません。それは何故でしょうか。それは小さな教条の違反と小さな罪からでなければならないことから生じるロークッタラの到達の貧弱さを、知って言う人が誰もいないからです。

 一方梵行の初めになり、梵行にふさわしいどんな教条にもその人は恒常的に戒のある人で、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はサンヨージャナの三つがなくなり、貪・瞋・痴が軽減して、もう一度だけ世界に来て、そして当然苦を終わらせる人サカダーガーミー(一来)です。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を適度にする人で、その人はまだ小さな教条を犯すことがあり、そして多少罪から出なければなりません。それはどうしてでしょうか。それは、小さな教条の違反と、その罪から出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧弱さを、知って言う人が誰もいないからです。

 一方梵行の初めであり梵行にふさわしいどんな教条にも、その人は恒常的に戒のある人で、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はサンヨージャナの前半の五つがなくなって突然生まれ、その有で般涅槃し、当然その世界に戻ってこない人オッパティカアナーガーミー(不還)です。

 (次からアナーガーミーの項目の終わりまでは227項からです)。

 比丘のみなさん。その人は、サンヨージャナの下の五つがなくなって、有頂天まで上流の流れがあるウッダンソトカニッダガーミー(有頂天に行って般涅槃する人。上流色究竟行者)であり、

 比丘のみなさん。(あるいは)サンヨージャナの下の五つがなくなって、非常に努力と労力で般涅槃する人ササンカーラパリニッバージー(有行般涅槃者)であり、

 比丘のみなさん。(あるいは)サンヨージャナの下の五つがなくなって、努力も労力も使わずに般涅槃する人アサンカーラパリニッバージー(無行般涅槃者)であり、

 比丘のみなさん。(あるいは)サンヨージャナの下の五つがなくなって、人生の半分以上が終わって、終わり近くに般涅槃する人ウパハッチャパリニッバージー(生般涅槃者)であり、

 比丘のみなさん。(あるいは)サンヨージャナの下の五つがなくなって、まだ半分に達しないうちに般涅槃する人アンタラーパリニッバージー(寿命半ばに達しないで有余依涅槃し、寿命半ばで般涅槃する人。中般涅槃者)です。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を完璧にする人で、その人はまだ小さな教条を犯すことがあり、そして多少の罪から出なければなりません。それは何故でしょうか。それは、、小さな教条の違反と、その罪から出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧弱さを、知って言う人が誰もいないからです。

 一方梵行の初めであり梵行にふさわしいどんな教条にも、その人は恒常的に戒のある人で、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はすべての漏が終わって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。一部分だけ行動する人は当然一部分だけ成功し、完璧に行動する人は当然完璧に成功させることができます。だから私は、すべての教条は当然不毛ではないと言います。

増支部ティカニバータ 20巻297頁526項





同じ実践をした阿羅漢の段階

 比丘のみなさん。この百五十の教条は当然半月ごとに取り上げて説明し、それらの教条を学ぶ利益を求める良家の子息たちが揃って学習しています。比丘のみなさん。すべての教条を集めたものである三種類の学習があります。

 三種類の学習はどのようでしょうか。それは増上戒学・増上心学・増上智慧学です。比丘のみなさん。これが、すべての教条を集めた三学です。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を完璧にする人で、彼はまだ小さな教条を犯すことがあり、そして多少の罪から出なければなりません。それはどうしてでしょうか。それは小さな教条の違反と、その罪から出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧弱さを、知って言う人が誰もいないからです。

 一方梵行の初めである、梵行にふさわしいどんな教条にも、彼は恒常的に戒のある人で、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守します。その比丘はすべての漏が終わって、漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいます。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、サンヨージャナ(結)の下の五つをなくしたので、寿命の半分に達しないうちに般涅槃する人アンタラーパリニッバージー(中般涅槃者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、下五結がなくなって寿命の半分がすぎて終わりに近い頃、般涅槃する人ウパハッチャパリニッバージー(生般涅槃者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、下五結がなくなって力も使わず努力もしないで、般涅槃する人アサンカーラパリニッバージー(無行般涅槃者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、下五結がなくなって努力と労力によって般涅槃する人、ササンカーラパリニッバージー(有業涅槃者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、下五結がなくなって有頂天まで上流の流れのある人アッダンソートーアカニッダガーミー(上流色究竟行者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、サンヨージャナの下の三つをなくし、貪・瞋・痴が少なくなってもう一回世界に戻ってくる人サカダーガーミー(一来者)です。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、サンヨージャナの下の三つがなくなったエカビージ―(もう一度生まれれば阿羅漢に達す人。一種)であり、人間の有に一回だけ生まれ、そして苦を終わりにする行動をします。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、サンヨージャナの下の三つがなくなったコランコラ(家々)であり、家に三回だけ生まれ、そして苦を終わりにする行動をします。

 (ある人は)まだ無漏解脱を生じさせてなく、洞察していませんが、サンヨージャナの下の三つがなくなったサッタカカットゥパラマ(極七返生)であり、人間と天人の有に最高で七回生まれ、そして苦を終わりにする行動をします。

 比丘のみなさん。一部しかできない人は、当然一部の成功しかしません。完璧にする人は、当然完璧な成功をします。だから私は、すべての教条は不毛ではないと言います。

増支部ティカニバータ 20巻301頁528項


 (学習者は、この経の内容は、本当に同じ実践をしても、他の原因と縁によって違う結果があることを観察して見なければなりません)。




四聖諦で五蘊を知る

 ソーナさん。サマナ、あるいはバラモンの誰でも、形を知り尽さず、形が生じる原因を知り尽さず、形の消滅を知り尽さず、形の消滅に至る道を知り尽していなければ、(受・想・行・識の場合も同様に話されています)、ソーナさん。そのサマナあるいはバラモンはサマナの中のサマナと仮定されるべき人でなく、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 もう一つ、それらを知らない人たちはサマナであることの利益、バラモンであることの利益を、最高の智慧で生きているうちに明らかにし、そしてその感覚の中にいることができません。

 ソーナさん。サマナあるいはバラモンのどの人たちも形を知り尽し、形が生じる原因を知り尽し、形の消滅を知り尽し、形の消滅に至る道を知り尽しているサマナ、あるいはバラモンは誰でも、(受・想・行・識の場合についても、形の場合と同様に話されています)ソーナさん。そのサマナ、あるいはバラモンは当然サマナの中のサマナと仮定され、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 もう一つ、これらを知り尽す人は当然サマナであることの利益、バラモンであることの利益を、最高の智慧で明らかにし、生きているうちに本当に到達し、常にその高い感覚の中にいます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻62頁101項

 (上記の経では、五蘊を知るものとして説明しています。他の経:19巻226頁922項では、五根で説明しています)。




五つの状態のダンマで五取蘊を知る

 比丘のみなさん。五種類の取蘊があります。五取蘊とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。五取蘊とは取に支配されている形蘊、取に支配されている受蘊、取に支配されている想蘊、取に支配されている行蘊、取に支配されている識蘊です。

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも五取蘊の発生を知らず、五取蘊が維持できないことを知らず、五取蘊の旨味を与える面を知らず、五取蘊の凶悪な害をもたらす面を知らず、五取蘊を越える正しい本当の方便を知らなければ、そのサマナあるいはバラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、サマナでもバラモンでもありません。

 (反対の意味)

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンのどの人たちも五取蘊の発生を知り、五取蘊が維持できないことを知り、五取蘊の旨味を与える面を知り、五取蘊の凶悪な害をもたらす面を知り、五取蘊を越える正しい本当の方便を知れば、それらのサマナあるいはバラモンは、サマナと仮定されても、バラモンと仮定されても、本当のサマナ、本当のバラモンです。

 そして自分がサマナになった利益、あるいはバラモンになった利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻195頁295項


 (上記の経は、五取蘊で知る説明ですが、他の経:19巻275頁919項では、五根で知る説明をされています)。


 


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