(まだ涅槃に達しない)世界の幸福の序列
アーナンダ。五つある五欲の五つとは何でしょうか。五つとは望ましい物であり、愛らしく、満足すべきで、魅力があり、願望の住処であり、惚れることの基盤である目で見るすべての形、耳で聞くすべての声、鼻で嗅ぐすべての臭い、舌で味わうすべての味、体で触れるすべての接触があります。アーナンダ。これが五種類の欲です。
アーナンダ。どんな幸福や喜びも、この五欲に依存して生じます。アーナンダ。その幸福を私は「カーマスッカ(愛欲の幸福)」と呼びます。
アーナンダ。「愛欲の幸福だけを味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを得る立場にある」と言う人たちがいるなら、私はそのような言葉を認めません。なぜでしょうか。アーナンダ。愛欲の幸福よりもっと上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。愛欲の幸福より上の、より精緻な幸福とは何でしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は愛欲が静まり、すべての悪が静まることで、ヴィタッカ(思惟)ヴィチャーラ(考察)、ピーティ(喜悦)スッカ(幸福)がある初禅に到達します。
アーナンダ。これが愛欲の幸福より高い、精緻な幸福です。アーナンダ。しかしそれでも「初禅から生じる幸福だけを味わうすべての動物は、至高の安楽、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、アーナンダ、私は当然それらの人たちのこの言葉を認めません。何故でしょうか。アーナンダ。それは初禅から生じる幸福より上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。初禅から生じる幸福より上の、より精緻な幸福はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)が静まることで、内面を明るくさせる物であり、心の感情が一つだけのサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、あるのはそのサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達します。
アーナンダ。これが初禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福です。アーナンダ。しかしそれでも「二禅から生じた幸福を味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、それらの人たちの言葉をアーナンダ、私は認めません。それは何故でしょうか。アーナンダ。二禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。二禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福とは何でしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、喜びが薄れて捨にいる人であり、自覚があり、名形で幸福を味わうことで、すべての聖人が「三禅に到達した人は、当然捨にいてサティがあり、正常な幸福に暮らす人」と言う三禅に到達します。アーナンダ。これが二禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福です。
アーナンダ。しかし「三禅から生じた幸福を味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、その言葉を、アーナンダ、私は認めません。それは何故でしょうか。それは、三禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。三禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福とはどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、幸福を捨てることができ、そして苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いを捨てることで、苦も楽もなく、あるのは純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、常にその感覚の中にいます。アーナンダ。これが三禅から生じる幸福の上にある、より精緻な幸福です。
アーナンダ。しかし「四禅から生じる幸福を味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、アーナンダ、私はその言葉を認めません。それはなぜでしょうか。それは、四禅から生じる幸福より上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。四禅より上の、より精緻な幸福はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、すべての形想を越えることができたので、瞋恚想が存在できないので、心の中を種々想にしないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、いつもその感覚の中にいます。
アーナンダ。これが四禅から生じた幸福より上の、より精緻な幸福です。アーナンダ。しかし「空無辺処から生じた幸福を味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、アーナンダ、私はその人たちの言葉を認めません。それは何故でしょうか。それは空無辺処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福があるからです。
アーナンダ。空無辺処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福とはどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、空無辺処をすべて越えることで、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、常にその感覚の中にいます。アーナンダ。これが空無辺処より上の、より精緻な幸福です。
アーナンダ。しかし「識無辺処から生じた幸福だけを味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人たちがいるなら、アーナンダ、私はその人たちのそのような言葉を認めません。それは何故でしょうか。アーナンダ。それは識無辺処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福がまだあるからです。
アーナンダ。識無辺処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、識無辺処をすべて越えることで、心の中を「無」にする無所有処に到達し、常にその感覚の中にいます。アーナンダ。これが識無辺処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福です。
アーナンダ。しかし「無所有処から生じた幸福だけを味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人がいるなら、その人たちのそういう言葉を、アーナンダ、私は認めません。それは何故でしょうか。アーナンダ。それは無所有処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福がまだあるからです。
アーナンダ。無所有処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は無所有処をすべて越えてしまうことで、非想非非想処に到達することができ、そして常にその感覚の中にいます。これが無所有処から生じる幸福より上の、より精緻な幸福です。
アーナンダ。しかし「非想非非想処から生じた幸福だけを味わうすべての動物は、当然至高の平安、至高の幸福、至高の喜びを味わう立場にある」と言う人がいるなら、その人たちのそのような言葉を、アーナンダ、私は認めません。それは何故でしょうか。それは非想非非想処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福がまだあるからです。
アーナンダ。非想非非想処から生じた幸福より上の、より精緻な幸福はどのようでしょうか。アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、非想非非想処をすべて越えてしまうことで、想受滅に到達し、常にその感覚の中にいます。アーナンダ。これが非想非非想処から生じる幸福より上の、より精緻な幸福です。
アーナンダ。これはあり得ます。つまり他の教義の修道者たちはきっと「ゴータマ・サマナは想受滅について話し、そしてその想受滅を幸福と規定した。それはどの種の幸福だろう。幸福になり得るはずがない」と言います。
アーナンダ。異教の修道者は、普通このように言います。あなたたちは「先輩。世尊は幸受という意味で幸福と規定したのではありません。先輩。しかし人がどんなダンマにも見つけることができる幸福を、プラタターガタ(如行)は幸福と規定しました」と訂正しなければなりません。
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻278頁413項
註:世界の幸福、あるいはすべてのレベルの縁が必要な幸福をここに収めたのは、原因と縁がないダンマであり、幸福よりはるかに上の物である涅槃と比較するためです。だからブッダは幸福の一種という扱いで並べられています。
順に消滅する(まだ涅槃に至らない)ダンマ
イ アヌプッバニローダ(九次第滅)
比丘のみなさん。九つの次第滅があります。九つは何でしょうか。九つとは、
(1)初禅に達した時、アーミッサ(愛欲の)想が当然消滅し、
(2)二禅に達した時、ヴィタッカ(尋)とヴィチャーラ(伺)が当然消滅し、
(3)三禅に達した時、ピーティ(喜悦)が当然消滅し、
(4)四禅に達した時、吸気と呼気が当然消滅し、
(5)空無辺処に達した時、形想が当然消滅し、
(6)識無辺処に達した時、空無辺想が当然消滅し、
(7)無所有処に達した時、識無辺処が当然消滅し、
(8)非想非非想処に達した時、無所有処が当然消滅し、
(9)想受滅に達した時、想と受が当然消滅します。
比丘のみなさん。これが九次第滅です。
増支部ナヴァカニバータ 23巻423頁235項
(このダンマ集は順に消滅するダンマについての説明なので、九次第滅と名付けられています。つまり九段階に消滅するダンマで、初めに簡単に学ばなければならないダンマ集です。詳細はハで学ぶことができます。
他ではプラアーナンダの言葉で、四形禅定と四無形禅定で、次第軽安と次第滅を比較する観点で次第軽安と次第滅について間接的に説明しています。そして漏の終わりである想受滅については、次第軽安と次第滅の観点で、上の経のように何という定が何というダンマを消滅させる、あるいは鎮静させると詳しく説明しないで、間接的に説かれています。
ロ 九次第住
比丘のみなさん。これらの九次第住があります。九とは何でしょうか。九とは、
(1) 初禅
(2) 二禅
(3) 三禅
(4) 四禅
(5) 空無辺処
(6) 識無辺処
(7) 無所有処
(8) 非想非非想処
(9) 想受滅
比丘のみなさん。これらが九次第住です。
増支部ナヴァカニバータ 23巻424頁236項
(この九項のダンマをヴィハーラダンマつまり九段階の心が住むダンマなので、九次第住と呼びます。また不思議なことに、パーリ(ブッダの言葉)のある箇所には上の四つ、つまり初禅から四禅について、四つの挙措、つまり座る・寝る・立つ・歩く最中にも、このヴィハーラダンマの中にいることができると述べているのがあります。増支部20巻234頁503項)
ハ 九次第住サマーパッティ
比丘のみなさん。次第住入定の九項について説明します。みなさんお聞きなさい。比丘のみなさん。九次第住入定とは何でしょうか。
(1)すべてのカーマ(愛欲)を、最終的に当然消滅させ、そしてどこかですべての愛欲を消滅させ、そしてその感覚の中にいる人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。
「すべての愛欲はどこで消滅するのか。どの人たちがどこですべての愛欲を消滅させ、その感覚の中にいるのか。私はそれを知らず、それが見えない」と言う人がいれば、答えは次のようでなければなりません。
「年配の方。この場合の比丘は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考。尋伺)があり、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいる、その初禅ですべての愛欲が消滅します。そしてその人たちはまだ、すべての愛欲をその禅定で消滅させ、その感覚の中にいます」と、このようです。
比丘のみなさん。自慢しない人、陰謀のない人は誰でも聞き惚れ、「サードゥ=善いですね」という言葉で必ず共に喜びます。このようにうっとりし「サードゥ」という言葉で共に喜び尊敬する人は、合掌して確実に訪ねて行きます。
(2) すべてのヴィタッカとヴィチャーラを当然どこででも消滅させ、そしてどこででもヴィタッカとヴィチャーラを消滅させて、その感覚の中にいる人たちは誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に至った」と言います。
誰かが「すべてのヴィタッカとヴィチャーラはどこで消滅するのか。そしてその人たちがどこで、すべてのヴィタッカとヴィチャーラを消滅させ、その感覚の中にいるのか。私はそれが分からない。それが見えない」と質問するなら、
彼に「年配の方。この場合の比丘は、ヴィタッカとヴィチャーラがすべて静まることで、心の中を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディに導き、ヴィタッカとヴィチャーラがなく、サマーディから生じた喜悦しかない二禅に到達します。
すべてのヴィタッカとヴィチャーラが二禅で消滅し、そしてその人たちはまだ、その二禅ですべてのヴィタッカとヴィチャーラを消滅させ、そしてその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は必ず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりし、サードゥという言葉で共に喜ぶ人は、確実に合掌して訪ねて行きます。
(3)喜悦が当然どこかで消滅し、そしてまだ喜悦をどこででも消滅させてその感覚の中にいる人たちは誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。
「どこで喜悦が消えたのか。そして誰がどこで消滅させているのか。私には見えない」と言う人がいれば、彼に「年配の方。この場合は喜悦が薄れ、捨にいて、サティと自覚があり、そして名身で幸福を味わい、聖人方が『この定にいる人は捨にいて、サティがあり、幸福に暮らす』と言われる三禅に到達し、
そして常にその感覚の中にいます。喜悦がその三禅で消滅し、そしてその人は、まだ喜悦をその三禅で消滅させる」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、策略のない人は誰でも、必す聞き惚れて、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりして、サードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(4) ウペッカースッカ(捨の幸福)が当然最後に消滅し、そしてどこででも捨の幸福を消滅させている人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。
「捨の幸福はどこで消滅するのか。そしてどの人たちがどこで捨の幸福を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、「ご年配。この場合の比丘は、幸福も苦も捨ててしまうことができたので、過去の喜びと憂いが消滅したので、苦も楽もなく、捨による純粋な自然であるサティしかない四禅に到達します。
捨の幸福はその四禅で消滅します。そしてそれらの人たちはまだ、その四禅で捨の幸福を消滅させていて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、かならず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(5) すべての形想が当然どこでもで消滅し、そしてどこででも形想を消滅させていく人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。「形想はどこで消滅するのか。そしてどの人たちがどこで形想を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、
「ご年配。この場合の比丘は、すべての形想を越えてしまうことができたので、すべての瞋恚想が存在できないので、心の中をいろんな状態と思い込まないので、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、いつもその感覚の中にいます。形想はその空無辺処で消滅します。そしてそれらの人たちはまだ、その空無辺処で形想を消滅させていて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、かならず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(6) 空無辺処が当然どこかで消滅し、そしてどこででも空無辺処を消滅させている人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。
「形想はどこで消滅するのか。そしてどの人たちがどこで形想を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、「ご年配。この場合の比丘は、空無辺処をすべて越えてしまうことができたので、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達し、いつもその感覚の中にいます。空無辺処はその識無辺処で消滅します。そしてそれらの人たちはまだ、その空無辺処で形を消滅させて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、必ず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(7) 識無辺処が当然どこかで消滅し、そしてどこででも識無辺処を消滅させていく人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。「識無辺処はどこで消滅するのか、そしてどの人たちがどこで識無辺処を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、
「ご年配。この場合の比丘は、すべての識無辺処を越えてしまうことができたので、心の中を『何もない』にする無所有処に到達し、いつもその感覚の中にいます。識無辺処はその無所有処で消滅します。そしてそれらの人たちはまだ、その無所有処で識無辺処を消滅させて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、かならず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(8) 無所有処が当然どこかで消滅し、そしてどこででも無所有処を消滅させていく人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。「無所有処はどこで消滅するのか。そしてどの人たちがどこで無所有処を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、
「ご年配。この場合の比丘は、無所有処をすべて越えてしまうことがでたので、非想非非想処に到達し、いつもその感覚の中にいます。無所有処はその非想非非想処で消滅します。そしてそれらの人たちはまだその非想非非想処で無所有処を消滅させていて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、かならず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
(9) 非想非非想処が当然どこかで消滅し、そしてどこででも非想非非想処を消滅させていく人は誰でも、私は「その年配の人はそこで確実に渇きが消えた。消滅した。越えた。それによって向こう岸に到着した」と言います。「非想非非想処はどこで消滅するのか。そしてどの人たちがどこで非想非非想処を消滅させるのか、私は知らない。見えない」と言う人がいたら、
「ご年配。この場合の比丘は、非想非非想処を越えてしまうことがでたので、すべての瞋恚想が存在できないので、識受滅に到達し、いつもその感覚の中にいます。非想非非想処はその想受滅で消滅します。そしてそれらの人たちはまだ、その想受滅で非想非非想処を消滅させて、常にその感覚の中にいます」と答えなければなりません。
比丘のみなさん。自慢好きでなく、計略のない人は誰でも、かならず聞き惚れ、サードゥという言葉で共に喜びます。このようにうっとりしてサードゥという言葉で共に喜んで尊敬すれば、確実に合掌して訪ねて行きます。
比丘のみなさん。これが九次第住サマーパッティです。
増支部ナヴァカニバータ 23巻424頁237項
(このダンマは、次第住入定という名前になっていますが、イ、ロ、で述べたような九つのダンマを意味します。ただここでは「渇きが消えた。消滅した。越えた。岸に到着した」と感じるほど、心がそのダンマの中に深く長くあることを意味します。ここで言っている岸とは、間接的に涅槃を意味します。阿羅漢果に到達しない場合は、時間が限定された涅槃の味見(時解脱)です。
学習者は、この九の入定の説明の各項目は、どれも同じように話されていると観察しなければなりません。違うのは定の名前と、その定の状態の説明だけです。その部分は簡単に観察できるように太字で強調しました。学習者は観察する努力をして、明らかに理解しているものにしてください。非常に利益があります。
まとめると、イは消滅すべき物が順に消滅することを意味し、ロは順に入る物の順を意味し、ハはどんどん極まっていく入定の味の順を意味します)。
次第住患
(いずれかの定で捨てられる感情の状態は、その入定にとって病気にする想になる)
1. アーナンダ。大悟する前、私がまだ大悟していない、まだボーディサッタ(菩薩)だった時、「ネッカンマ(欲情を忌避すること。出家すること。離欲)は成功の道だ。パヴィヴェカ(愛欲が静まった生活)は成功の道だ」という知識が生じました。しかしそれでも私の心は走って行かず、帰依せず、維持できず、出られませんでした。私は「ネッカンマは静かだ」と見えていたのに。
アーナンダ。続いて私に「何が私の心をそのようにする原因であり、縁なのだろう」という考えが私に生じました。アーナンダ。「すべての愛欲の害が私にはまだ見えず、それについてたくさん考えることができず、そして愛欲から出ることの功徳も受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という考えが生じました。
アーナンダ。続いて私に「それなら、すべての愛欲の害が見え、それについて沢山考えることができ、愛欲を回避する功徳を受け取ってその功徳を余すところなく味わえば、離欲は静かだと見ることで、私の心が駆けて行き、帰依し、維持できる条件になる」という考えが生じました。
アーナンダ。その後、私は全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、出て、それは静かさだと見える離欲に行きました。アーナンダ。そのようになると、愛欲とすべての悪が静まったことで、私はヴィタッカ・ヴィチャーラ、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、その感覚の中にいました。
アーナンダ。私がヴィハーラダンマ(住む物)、つまり初禅にいても、まだ心の中が愛欲になる想の威力が生じて介入しました。これはまだ私にとって(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
アーナンダ。続いて私に「その病気を除去するために、それならヴィタッカ・ヴィチャーラを鎮めて、心の内部を明るくする二禅に到達し、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、サマーディから生じる喜悦と幸福だけの一つの感情しかないサマーディを生じさせ、その感情の中にいるべきだ」という考えが生じました。
アーナンダ。それでも私の心は駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してアッヴィタッカダンマ(熟考のないダンマ。つまり二禅)に行きませんでした。それは静かだと見えていたのに。
2. アーナンダ。続いて私に「私の心をこのようにさせる原因は何で縁は何だろう」という考えが生じました。アーナンダ。私に「私にはまだヴィタッカダンマの害が見えず、それについて沢山考えることができず、まだアヴィタッカダンマの功徳を受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はこのようなのだ」という考えが生じました。
アーナンダ。続いて私に「ヴィタッカの害が見え、そして沢山考えることができ、アヴィタッカダンマの功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえれば、それが私の心を駆けて行かせ、必ず帰依させ、維持させ、脱出して、それは静かだと見えているアヴィタッカに行く条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後私は全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、脱出してそれは静かだと見えていたアヴィタッカダンマ(二禅)に行きました。
アーナンダ。そのようになると、私はヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)を静めることができたので、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの一つだけの感情にし、心の内部を明るくするものである二禅に到達しました。
アーナンダ。ヴィハーラダンマ、つまり二禅にいても、心をヴィタッカにする想の威力が生じて介入しました。これはまだ私にとって(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じるのと同じです。
3. アーナンダ。続いて「この病気を除去してしまうために、それなら喜悦が薄れることで捨にいて、サティと自覚があり、そして名形で幸福を味わえば、聖人が『この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす』と言われる三禅に到達し、その感覚の中にいるに違いない」という考えが生じました。
アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してニッピーティカジャーナ(無喜悦定。つまり三禅)に行きませんでした。私には、それは静かだと見えていたのに。
アーナンダ。続いて私に「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に、喜悦の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そしてニッピーティカジャーナ(つまり三禅)の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて私に「ピーティ(喜悦)の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、ニッピーティカジャーナ(つまり三禅)の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出してニッピーティカジャーナにいく条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して、ニッピーティカジャーナに行きました。
アーナンダ。そのようにすると、私は喜悦が薄れたのでウペッカー(捨)が生じ、サティと自覚があり、そして当然名形で幸福を味わい、聖人の方々が「この定を得た者は捨にいる人で、サティがあり、幸福に暮らす」と言われる三禅に到達し、その感覚の中にいました。
アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり三禅にいても、心の中を喜悦にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。、幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
4. アーナンダ。続いて私に「この病気を除去するために、幸福と苦を捨ててしまうことで、喜びと憂いが消えて無くなることで、苦も楽もなく、あるのは捨による純潔正常な自然であるサティだけの四禅に到達する」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその四禅に行きませんでした。それが静かさだと見ていたのに。
アーナンダ。続いて私に「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えない捨の幸福の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして幸福でも苦でもない功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから、私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて私に「ウペッカースッカ(捨の幸福)の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、幸福でも苦でもない功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かさと見えているように、脱出してアドゥカマスッカ(不苦不幸。つまり四禅)に行く」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出してアドィカマスッカ(つまり四禅)に行きました。
アーナンダ。そのようにすると、私は幸福も苦も捨て、過去の喜びと憂いを捨てたので、苦も楽もなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、その感覚の中にいました。
アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり四禅にいても、心の中を捨にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
5. アーナンダ。続いて私に「この病気を除去するために、ルーパサンニャー(形を認識すること。形想)を越えることで、パティガサンニャー(ぶつかって来る感情を認識すること。瞋恚想)が存在できないことで、心の中をいろんな状態と認識しないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達するはずだ」という考えが生まれました。
アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその空無辺処に行きませんでした。それは静かさだと見えていたのに。
「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「すべての形の害がまだ私に見えず、それについて沢山考えることができず、そして空無辺処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて「すべての形の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、空無辺処の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように脱出して空無辺処に行く条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように脱出して空無辺処に行きました。
アーナンダ。そのようになると、すべての形想を越えたので、瞋恚想が存在できないので、心の中をいろんな想にしないことで心を「無限の空」にする空無辺処に到達し、その感覚の中にいました。
アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり空無辺処にいても、心の中をすべての形にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
6. アーナンダ。続いて私に「この病気を除去するために、空無辺処のすべてを越えることで、心の中を無限の識にする識無辺処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその識無辺処に行きませんでした。それは静かさだと見ていたのに。
アーナンダ。私に「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えない空無辺処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして識無辺処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて「私に空無辺処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、識無辺処の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出して識無辺処にいく条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して、心を無限の識にする識無辺処に行きました。
アーナンダ。私は空無辺処をすべて越えたので、心の中を無限の識にする識無辺処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり識無辺処にいても、心の中を空無辺処にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
7. アーナンダ。続いて私に「この病気を除去するために、識無辺処のすべてを越えることで、心の中を『何もない』とする無所有処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその無所有処に行きませんでした。それは静かさだと見えていたのに。
アーナンダ。「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に見えない識無辺処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして無所有処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて私に「識無辺処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、無所有処の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出して無所有処に行く条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して無所有処に行きました。
アーナンダ。私は識無辺処のすべてを越えることができたので、心の中を「何もない」とする無所有処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり無所有処にいても、心の中を識無辺処にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
8. アーナンダ。続いて私に「この病気を除去するために、無所有処のすべてを越えてしまうことで、非想非非想処に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその非想非非想処に行きませんでした。それは静かさだと見ていたのに。
アーナンダ。「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私に無所有処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして非想非非想処の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて私に「無所有処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、非想非非想処の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心が駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出して非想非非想処にいく条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して非想非非想処に行きました。
アーナンダ。私は無所有処をすべて越えたことで非想非非想処に到達し、その感覚の中にいました。アーナンダ。私がヴィハーラダンマ、つまり非想非非想処にいても、心の中を無所有処にする想の威力が生じて介入しました。これは私にとってまだ(心の)病気です。幸福な人でも、まだ病気による苦が生じて妨害するのと同じです。
9. アーナンダ。続いて私に「それならこの病気を除去するために、非想非非想処のすべてを越えることで、想受滅に到達するに違いない」という考えが生まれました。アーナンダ。それでも私の心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持できず、脱出してその想受滅に行きませんでした。それは静かさだと見ていたのに。
アーナンダ。「何が私の心をこのようにする原因であり、縁だろう」という考えが生じました。アーナンダ。「まだ私には非想非非想処の害が見えず、それについて沢山考えることができず、そして想受滅の功徳もまた私は受け取ったことがなく、まだ味を知らないから私の心はそのようなのだ」という気持ちが生じました。
アーナンダ。続いて「私に非想非非想処の害が見えれば、そしてそれについて沢山考え、想受滅の功徳を受け取り、その功徳を余すところなく味わえば、それは私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見えているように、脱出して想受滅に行く条件になる」という考えが生まれました。
アーナンダ。その後全面的にそのようにしたので、私の心は駆けて行き、帰依し、維持でき、それは静かだと見ているように脱出して想受滅に行きました。
アーナンダ。私は非想非非想処を越えたので、想受滅に到達し、絶えずその感覚の中にいました。(その後病気はありません)。更に智慧で(四聖諦が)見えたので、すべての漏は終わりに達しました。。
増支部ナヴァカニバータ 23巻457頁245項
まとめ
1. 初禅で捨てる過去愛欲想は、初禅に入ることにとって病気になる。
2. 二禅で捨てる過去尋想は、二禅に入ることにとって病気になる。
3. 三禅で捨てる過去喜悦想は、三禅に入ることにとって病気になる。
4. 四禅で捨てる過去捨想は、四禅に入ることにとって病気になる。
5. 空無辺処で捨てる過去形想は、空無辺定に入ることにとって病気になる。
6. 識無辺処で捨てる過去空無辺処想は、識無辺処に入ることにとって病気になる。
7. 無所有処で捨てる過去識無辺処想は、無所有処に入ることにとって病気になる。
8. 非想非非想処で捨てる過去無所有処想は、非想非非想処に入ることにとって病気になる。
9. 想受滅で静まる過去非想非非想処想は、想受滅にとって病気にならない。