苦からの解脱にふさわしいダンマ

 比丘のみなさん。このダンマは、ダンマにふさわしい実践をする比丘にふさわしいダンマです。ダンマにふさわしいダンマの実践とは、形に倦怠を感じることが多く、受に倦怠を感じることが多く、想に倦怠を感じることが多く、行に倦怠を感じることが多く、識に倦怠を感じることが多い人です。

 その比丘が形・受・想・行・識に倦怠を感じることが多ければ、当然形・受・想・行・識を知り尽し、形・受・想・行・識を知り尽せば、当然形・受・想・行・識から解脱し、当然生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みから解脱します。

 私如行は「彼は当然苦から解脱する」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻50頁83項


 比丘のみなさん。このダンマはダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘にふさわしいダンマです。ダンマにふさわしいダンマの実践をする人とは、その比丘が(聞いて学習することで)形の無常が見え、受の無常が見え、想の無常が見え、行の無常が見え、識の無常が見える人であることです。

 その比丘が形・受・想・行・識の無常が見えていれば、当然形・受・想・行・識を知り尽します。形・受・想・行・識を知り尽せば、当然形から、受から、想から、行から、識から解脱し、当然生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みから解脱します。

 私如行は「彼は苦から解脱した」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻51頁84項


 比丘のみなさん。このダンマは、ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘にふさわしいダンマです。つまり比丘が(学習によって)形は苦と見え、受は苦と見え、想は苦と見え、行は苦と見え、識は苦と見える人なら、その比丘が形・受・想・行・識は苦と見えていれば、当然形・受・想・行・識を知り尽します。

 その人が形・受・想・行・識を知悉すれば、当然形から、受から、想から、行から、識から解脱し、当然生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みから解脱します。

 私如行は「その人は苦から解脱できる」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻51頁85項


 比丘のみなさん。このダンマは、ダンマにふさわしいダンマの実践をする比丘にふさわしいダンマです。

 つまり比丘が(学習や実践によって)形は無我と見、受は無我と見、想は無我と見、行は無我と見、識は無我と見る人であることで、その比丘が形・受・想・行・識の無我が見えていれば、当然形・受・想・行・識を知り尽します。その人が形・受・想・行・識を知り尽せば、当然形、受、想、行、識から解脱し、当然生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みから解脱します。

 私如行は「その人は苦から解脱できる」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻51頁86項




欲望を捨てるのを簡単にするニッサーラニヤダートゥ

 比丘のみなさん。払い捨てるべき物を払い捨てることが出来るもの(ニッサーラニヤダートゥ。出離すべき物)は、この五種類あります。五種類とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合は、比丘が心の中をすべてのカーマ(愛欲)にしても、心はすべてのカーマに走らず、帰依せず、維持せず、傾きませんが、その比丘が心をネッカンマ(淫欲から出ること。出離)にすれば、心は出離に駆けて行き、帰依し、維持し、傾くので、その人の心は「良く達した。良い実践をした。良く出た。良く解脱した。良くすべてのカーマ(愛欲)が無くなった」と言われます。

 そしてその人は、カーマが縁で生じるすべての漏、困窮させ、焦燥させるすべての漏から解脱し、その受を味わう必要はありません。このような状況を私は、すべてのカーマを振り捨てるダートゥと言います。

 比丘のみなさん。他にもあります。比丘が心の中を害意にしても、心は害意に駆けて行かず、信仰せず、維持せず、傾きませんが、その比丘が心の中を非害意にすれば、心は非害意に駆けて行き、帰依し、維持し、傾くので、その人の心は「良く達した。良い訓練をした。良く出た。良く解脱した、良くすべてのカーマが無くなった」と言われます。

 そしてその人はカーマ(愛欲)が縁で生じるすべての漏、困窮させ、焦燥させるすべての漏から解脱し、その受を味わう必要はありません。このような状況を、私は、害意を振り捨てるダートゥと言います。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘が心の中をすべての形にしても、心はすべての形に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾きませんが、その比丘が心の中を無形にすれば、心は無形に駆けて行き、帰依し、維持し、傾くので、その人の心は「良く達した。良い訓練をした。良く出た。良く解脱した。良くすべてのカーマが無くなった」と言われます。

 そして彼はカーマが縁で生じるすべての漏、困窮させ、焦燥させるすべての漏から解脱し、その受を味わう必要はありません。このような状況を私は、形を振り捨てるダートゥと言います。

 比丘のみなさん。他にもあります。比丘が心の中を有身(自分の体、つまり五蘊)にしても、心は有身に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾きませんが、その比丘が心の中を有身の消滅にすれば、心は有身の消滅に駆けて行き、帰依し、維持し、傾くので、その人の心は「良く達した。良い訓練をし。良く出た。良く解脱した。良くすべてのカーマが無くなった」と言われます。

 そしてその人は、カーマが縁で生じるすべての漏、困窮させ、焦燥させるすべての漏から解脱し、その受を味わう必要はありません。このような様相を私は、有身を振り捨てるダートゥと言います。

 カーマの喜びも彼の心で眠らず、恨みの喜びもの彼の心で眠らず、加害の喜びも彼の心で眠らず、形の喜びも彼の心で眠らず、有身の喜びも彼の心で眠りません。

 彼の心でカーマの喜びが眠らず、恨みの喜びが眠らず、加害の喜びが眠らず、形の喜びが眠らず、有身の喜びが眠らなければ、私はその比丘を「未練なく欲望を切り捨てた。サンヨージャナ(結)を抜き取った。マーナ(慢)を正しく知ることで苦の固まりを終わりにすることができた」と言います。

 比丘のみなさん。これが、払い捨てるべき物を払い捨てることができる五つの物です。

増支部パンチャカニバータ 22巻272頁200項




サマタ・ヴィパッサナーの最高の結果であるいろんなダンマダートゥ
(六神通)

 「猊下。猊下は人がセカニャーナ(学智)で到達すべき結果、セカヴィッチャー(学明)で到達すべき結果は何でも、到達なさいました。どうぞ世尊、私に最高のダンマを説いてください」。

 ヴァッチャさん。それならあなたは二つのダンマ、つまりサマタとヴィパッサナーのちらにも、益々励みなさい。ヴァッチャさん。あなたが益々励む二つのダンマ、つまりサマタとヴィパッサナーはどちらも、いろんなものを洞察できます。

1.ヴァッチャさん。あなたは望みどおりいろんな神変、例えば一人の自分を何人もの姿に変え、何人もの人を一人にすることができ、隠された場所を明るい所に、明るい場所を隠された所にすることができ、支障なしに行くことができ、何も無い空間のように壁を通り抜け、塀を通り抜け、山を通り抜け、水の中のように地面から浮き上がったり潜ったりし、

大地を歩くように水面を歩き、結跏趺坐したまま翼のある鳥のように浮き上がって月と太陽を撫でるなど、このようにたくさん神通力をもつことができ、そして梵天界まで体の威力を見せることができます。この神足通で、あなたはまだ六処があるうちに証人になれる能力に達します。

2.ヴァッチャさん。あなたの望みどおりになり、普通の人間を越えた純潔な天耳があり、天の声と人間の声、遠くの声と近くの声の両方聞こえます。その天耳智で、あなたはまだ六処があるうちに証人になれる能力に達します。

3.ヴァッチャさん。あなたは望みどおりに、他の動物、他の人の心を、貪りがある心を貪りがあると知り、貪りの無い心を貪りがないと、怒りがあれば怒りがあると、怒りがなければ怒りがないと、愚かさがあれば愚かさがあると、愚かさがなければ愚かさがないと、消沈していれば消沈していると、散漫なら散漫と、大きな徳に至れば大きな徳に至ったと、大きな徳に至らなければ大きな徳に至らないと、

最高にすごい心があれば最高にすごい心があると、最高にすごい心がなければ最高にすごい心がないと、磐石なら磐石だと、解脱すれば解脱したと、解脱しなければ解脱しないと、自分の心で認識することができます。その他心智通で、あなたはまだ六処があるうちに証人になれる能力に達します。

4.ヴァッチャさん。あなたは思いどおりに、過去の有で暮らしたことがあるたくさんの蘊を、一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生から何劫もの生を、その有にいた時はこういう名前で、こういう姓で、こういう階級で、こういう食べ物があり、こういう幸福とこういう苦を味わい、

何歳まで生き、その有が終わるとこの有に生まれ、このような家族があり、身分があり、食べ物があり、こういう幸福と苦を味わい、何歳で亡くなって次にどこの有へ生まれたと、このように思い出せすことができ、過去に住んだことがある数々の蘊を、このような状態と説明も一緒に思い出せます。この宿命通で、あなたはまだ六処があるうちに証人になれる能力に達します。

5.ヴァッチャさん。あなたは期待どおりに、すべての動物が死んでいるのが見え、生まれているのが見え、下品か上品か、良い身分か悪い身分か、幸福か不幸か見ることができる、普通の人間を越えた純潔清浄な天眼を持つことができ、「みなさん。これらの動物は不正な体、不正な言葉、不正な心があり、すべての聖人を非難する間違った見解で、邪見による職業を営み、

体が壊れて死んだ後は当然そろって悪趣や罪を受ける場所、地獄に行きます。みなさん。こちらの動物は正しい体、正し言葉、正しい心があり、聖人を非難しない正しい見解で、正見による職業を営み、体が壊れて死んだ後は、当然そろって善趣、天国の世界に行きます」と、カンマでこのように到達した動物の群れを明らかに見ることができます。

 普通の人間を越えた純潔清浄な天眼で、死んでいる動物、生まれている動物が見え、上品か下品か、身分はどうか、苦があるか幸福か、このようにカンマで到達した動物を明らかに知ります。その天眼通で、あなたはまだ六処があるうちに、証人になれる能力に達します。

6.ヴァッチャさん。あなたは希望どおりに、すべての漏が終わった心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができ、そして常にその高い感覚の中にいることができます。その漏尽通で、あなたはまだ六処があるうちに、証人になれる能力に達します。

中部マッジマバンナーサ 13巻257頁261項




(常見でない)本当の宿命智

 比丘のみなさん。どのサマナ・バラモンも、思い出す時はいろんな過去の暮らしを思い出します。そのサマナ・バラモンのすべては、当然五取蘊すべて、あるいは五取蘊のいずれかの蘊を思い出します。五種類はどのようでしょうか。五種類とは、

 比丘のみなさん。彼が思い出す時、当然「遠い昔、私はこのような形のある人だった」とこのように形を思い出します。

 比丘のみなさん。彼が思い出す時、当然「遠い昔、私はこのような受のある人だった」とこのように受を思い出します。

 比丘のみなさん。彼が思い出す時、当然「遠い昔、私はこのような想のある人だった」とこのように想を思い出します。

 比丘のみなさん。彼が思い出す時、当然「遠い昔、私はこのような行のある人だった」とこのように行を思い出します。

 比丘のみなさん。彼が思い出す時、当然「遠い昔、私はこのような識のある人だった」とこのように識を思い出します。


 比丘のみなさん。彼らはどうしてルーパ(形)と呼ぶのでしょうか。比丘のみなさん。それの自然は当然崩壊するので、形と言います。なぜ崩壊するのでしょうか。寒さ、暑さ、飢え、飢餓、アブや蚊、風、日差し、地を這う動物によって崩壊します。比丘のみなさん。その自然は当然壊れるので形と言います。

 比丘のみなさん。なぜヴェーダナー(受)と呼ぶのでしょうか。比丘のみなさん。その自然は人が感じることができるので受と言います。何を感じるのでしょうか。喜びを感じ、苦を感じ、喜びでも苦でもないと感じます。比丘のみなさん。その自然は人が感じることができるので受と言います。

 比丘のみなさん。なぜサンニャー(想)と呼ぶのでしょうか。比丘のみなさん。その自然は、当然認識できるので想と言います。何を認識するのでしょうか。緑や赤や白などを認識します。比丘のみなさん。その自然は当然認識するので想と言います。

 比丘のみなさん。なぜサンカーラ(行)と呼ぶのでしょうか。比丘のみなさん。その自然は当然変化する物に変化させるので行と言います。何を変化する物にするのでしょうか。形を変化する物である形にし、受を変化する物である受にし、想を変化する物である想にし、行を変化する物である行にし、識を変化する物である識にします。

 比丘のみなさん。その自然は当然変化する物に変化させるので行と言います。

 比丘のみなさん。なぜヴィンニャーナ(識)と呼ぶのでしょうか。比丘のみなさん。その自然は当然明らかに知るので識と言います。何を明らかに知るのでしょうか。酸味や苦味や辛味や甘味や渋味や、渋くないことや、塩辛さや、塩辛くないことを明らかに知ります。比丘のみなさん。その自然は当然明らかに知るので識と言います。

 比丘のみなさん。聞くことがある聖なる弟子は、当然五蘊を熟慮して「今私は形に噛まれている。遠い昔も、現在の形に噛まれているように形に噛まれていた。これからも、現在の形に噛まれているように形に噛まれる」と見ます。

 その聖なる弟子が熟慮してこのように見れば、当然過去の形に注目せず、将来の形に陶酔せず、当然倦怠し、欲情が緩み、現在の形を残らず消滅させるために実践します。

  (受・想・行・識の場合も、形と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。あなたはこれをどう理解しますか。形は不変ですか、不変でないですか。

 「不変ではありません。猊下」。

 不変でないものは苦ですか、幸福ですか。

 「苦です。猊下」。

 無常であり苦である物は、当然変化があります。それを「これは自分の物。これは自分。これは自分自身」と見るべきですか。

 「見るべきではありません」。

(受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。だからこの場合の、何らかの形は、過去も未来も現在も、外部にあっても内部にあっても、上品でも下品でも、雑でも緻密でも、遠くにあっても近くにあっても、そのすべての形は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、正しい智慧で真実のままに見なければなりません。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。この聖なる弟子を私は「彼は当然廃止し、当然始めず、当然投げ捨て、当然掴まず、当然散らばらせ、当然固まりにせず、当然燃やし尽くし、当然燃え上がらせないと言います。

 その聖なる弟子は何を当然廃止し、当然始めないのでしょうか。その人は当然形を、受を、想を、行を、識を廃止し、始めません。

 その聖なる弟子は当然何を投げ捨て、当然何を掴まないのでしょうか。その人は当然形を、受を、想を、行を、識を投げ捨て、掴みません。

 聖なる弟子は、当然何を散らばらせ、当然何を固まりにしないのでしょうか。その人は当然形を、受を、想を、行を、識を散らばらせ、塊にしません。

 聖なる弟子は、当然何を絶やし、当然何を燃え上がらせないのでしょうか。その人は当然形を、受を、想を、行を、識を燃やし尽くし、燃え上がらせません。

 比丘のみなさん。聞くことのある聖なる弟子がこのように見れば、当然形にも、受にも、想にも、行にも、識にも倦怠します。倦怠すれば、当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱すれば当然「解脱した」と洞察するニャーナ(智)があります。

 その聖なる弟子は、当然「生は終わった。している梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このように解脱するためにするべき仕事は他にない」と、明らかに知ります。

 比丘のみなさん。この比丘を私は「始めず、廃止していないが、廃止して維持していることになる。投げ捨てず掴んでいないが、投げ捨てて維持していることになる。散らばらせず固まりにしていないが、散らばらせて維持していることになる。絶やさず燃え上がらせていないが、燃やし尽くして維持していることになる」と言います。

 比丘のみなさん。何を始めず何を廃止しないけれど、廃止して維持していることになるのでしょうか。その人は形、受、想、行、識を始めず廃止しませんが、それを廃止して維持していることになります。

 比丘のみなさん。何を投げ捨てず、何を掴んでいないが、投げ捨てて維持していることになるのでしょうか。その人は形、受、想、行、識を投げ捨てず掴んでもいませんが、それを投げ捨てて維持していることになります。

 比丘のみなさん。何を散らばらせず、何を固まりにしていないが、散らばらせて維持していることになるのでしょうか。その人は形、受、想、行、識を散らばらせていないし、固まりにしてもいませんが、散らばらせて維持していることになります。

 比丘のみなさん。何を燃やし尽さず、何を燃え上がらせていないが、燃やし尽して維持していることになるのでしょうか。その人は形、受、想、行、識を燃やし尽さず、燃え上がらせてもいませんが、燃やし尽して維持していることになります。

 比丘のみなさん。天人とインドラ神と梵天、そして宮女も、このように心が解脱した比丘に「最高の人間である良い血統の方。私はあなたに礼拝します。私はあなたが依存し、注目しているものを知ることができないからです」と、このように遠くから挨拶に来ます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻105頁158項

 (学習者は、この意味の宿命智は、マハーパリニッバーナ経のマハーパテーサ(四大法教)と矛盾しないと、そして一般に三明のニッデーサで言われているような常見の形はないと観察して見てください。学習者は特に熟慮してください)。




聖解脱は不死のダンマ

 「猊下。アリヤヴィモッガ(素晴らしい特別な脱出)はどのようですか」。

 アーナンダ。この場合の比丘は、当然次のように熟慮して明らかに見ます。

1.現在の有になるすべての愛欲のどれも、先々の有になるすべての愛欲のどれも、

2.現在の有になる欲想のどれも、先々の有になる欲想のどれも、

3.現在の有になるすべての形のどれも、先々の有になるすべての形のどれも、

4.現在の有になるすべての形想のどれも、先々の有になるすべての形想のどれも、

5.不動想のどれも、

6.無所有処想のどれも、

7.非想非非想処想のどれも、

 それ(七つのダンマ)は(すべて)有身です。有身があればある分だけ不死の物、つまり有身に執着しないことによる心の解脱があります。

 アーナンダ。これで私は不動有験道を説き、無所有処有験道を説き、非想非非想処有験道を説いたことになります。有験道に依存して爆流を越えられることも説明しました。これがアリヤヴィモッガ(聖なる解脱)です。

 アーナンダ。可愛がる教祖が可愛がることに依存する利益を求めてするべきことを、私はみなさんにしました。アーナンダ。ほら木の根元、ほら廃屋。アーナンダ。あなた達はみな煩悩を焼く努力をなさい。不注意に陥ってはいけません。みなさん。後で困ったことになる人になってはいけません。これがみなさんに口喧しく教える言葉です。

中部ウパリパンナーサ 14巻79頁91項




空(滅の道)に関心があるから素晴らしい教団員

 比丘のみなさん。これら二種類の教団員がいます。どの二種類でしょうか。つまり導くものである外部の人を信じ、導くものを審査し判断しない教団員と、導くものである外部の人に依存せず、導くものを自分で審査し判断することに依存する教団員です。

 比丘のみなさん。導くものである外部の人を信じる教団員はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合のどの教団員もすべての比丘は、如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳では如来)が話したすべてのスッタンタ(経)、如行の言葉であり、深遠で深遠な意味があり、空の話があるロークッタラ(世界から出るもの)のスッタンタを述べる人がいると、良く聞かず、耳を傾けて聞かず、本気で知ろうとせず、そして自分が勉強すべき物と理解しません。

 一方新しく書かれた華麗な言葉がある詩形に綴られたスッタンタのどれでも、系統を逸れた話であり、弟子の言葉であるこれらのスッタンタを話す人がいると、彼らは良く聞き、すべてを知ろうと耳を傾けて聞き、そして自分が勉強するべきものと理解します。彼らが新しく綴られたダンマを勉強しても互いに質問することなく、「この言葉の意味はどうか」を明らかな物、公開された物にしません。

 彼らはまだ公開されていないものを公開することができず、伏せてある物を裏返すことができず、多くの疑問の基盤であるすべてのダンマの疑問を減らすことができません。比丘のみなさん。私はこれを、導く物である外部の人を信じる教団員と言います。

 比丘のみなさん。導くものを自分で判断する教団員はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合のどの教団員も、すべての比丘は、華麗な言葉のある詩形に綴られた系統を逸れた話であり、弟子の言葉である新しく書かれたすべてのスッタンタを述べる人がいると、良く聞かず、耳を傾けて聞かず、すべてを知ろうと真剣にならず、そして自分が勉強するべきものと理解しません。

 一方如行が言った言葉であり、深遠で、深遠な意味があり、空の話があるロークッタラであるスッタンタはどれでも、これらのスッタンタを話す人がいると、彼らは当然良く聞き、当然耳を傾けて聞き、当然すべてを知ろうと真剣になり、そして自分が勉強するべきものと理解します。彼らは如行が述べたダンマを学び、互いに質問し合い、これはどういう言葉でどういう意味だと、明らかにし公表します。

 彼らはまだ公表されていない物を公表し、伏せてある物を裏返すことができ、すべての疑念の基盤であるいろんな疑問を減らすことができます。比丘のみなさん。私はこれを、自分で審査し再検討することを導くものとして依存する教団員と言います。

 比丘のみなさん。これが二種類の教団員です。比丘のみなさん。この二種類の教団員の中で素晴らしい教団員は、導くものを自分で審査し判断することに依存する教団員です。

増支部ドゥカニバータ 20巻91頁292項




到達したダンマに執着しないから涅槃

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘の中には、(非想非非想処が容易な道の)実践者で、当然「あるべきでなく、私にあるべきでなければ、私にあってはならない。あるもの、既にあるものを、私は捨ててしまおう」とウペッカー(捨)になる人がいます。

 その比丘は当然その捨に陶酔せず、褒めちぎらず、惑溺しません。その捨に陶酔せず、褒めちぎらず、惑溺しなければ、その人の識もその捨に依存する自然でなく、取である捨はありません。取のない比丘は当然般涅槃(完全な涅槃)します。

中部ウパリバンナーサ 14巻79頁91項




三悪を絶てば現生での涅槃

 比丘のみなさん。この三つの善があります。三つとはどれでしょうか。三つとはアローパ(貪りがないこと。無貪)、アドーサ(怒りがないこと。無瞋)、アモーハ(愚かさがないこと。無痴)の三善です。

 比丘のみなさん。無貪は善で、貪りのない人は体と言葉と心のカンマ(業)があり、そのカンマも善です。

 貪りのない人は貪りに支配されず、貪りに覆われた心がなく、殺害や監禁をせず、衰退させず、非難せず、追い払わず、自分の方が力があると見なして、あるべきでない苦を他人に与えないので、このカンマも善です。

 貪らないことから生じる、貪らないことが原因の、貪らないことがサムダヤ(集。原因)である、貪らないことが縁である様々な善が、当然このようにその人に生じます。

 (無瞋、無痴の場合も、無貪と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。この種の人はカーラヴァーディー(時語者)、ブータヴァーディー(実語者)、アッタヴァーディー(義語者)、ダンマヴァーディー(法語者)、ヴィナヤヴァーディー(律語者)などと呼ばれるべきです。

 なぜそう呼ばれるべきでしょうか。この人は殺害や監禁をせず、衰退させず、非難せず、追い払わず、自分は力が上と見なして、他人にあるべきでない苦を与えないからです。

 そして事実であることで告訴された時は認めて言い逃れをせず、事実でないことで告訴された時は、それは事実ではないと明らかにする努力をします。だからこの人は、カーラヴァーディー(時語者)、ブータヴァーディー(実語者)、アッタヴァーディー(義語者)、ダンマヴァーディー(法語者)、ヴィナヤヴァーディー(律語者)と呼ばれるべきです。

 比丘のみなさん。貪りから生じた下賎な悪を、この人は先々端を断ち切った砂糖ヤシの木のようにし、維持できない状態、当然二度と生まれない状態にしました。その人は当然幸福で、苦がなく、困難も焦燥もなく、実に生きているうちに般涅槃します。

 (怒りと愚かさの場合も、貪りの場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。サーラの木や潅木やパンダナなどの大木が、三種類の蔦に覆われ絡まれていると、男がスコップと篭を持って来て根元から切ってむしり取り、根を全部、萱の柄くらいでも全部壊し、大小に切り、切ったら裂き、裂いたら小片にし、小片にしたら風や日に当てて乾燥させ、乾燥したら強い風か急流に流すようなものです。

 比丘のみなさん。その蔦は根が抜かれ、先端を切断され、当然存在できなくなり、二度と生まれない砂糖ヤシの木のようになります。

 比丘のみなさん。同じように貪りから生じるすべての悪を、その人は捨てて無くしてしまい、先端を切り落として存在できないようにし、二度と芽が出ない砂糖ヤシの木のようにすれば、その人は当然生きている間は幸福に暮らし、困難が無く、苦悶や焦燥がなく、当然現生で般涅槃します。

 (怒りと愚かさの場合も、貪りの場合と同じように話されています)

 比丘のみなさん。これが三つの善です。

増支部ティカニカーヤ 20巻261頁509項




本人だけの涅槃
(すべてのダンマの思い込みを抜いた結果)

 比丘のみなさん。私は「すべての思い込みを抜き取るのにふさわしい道」をみなさんに説きます。みなさん、心してお聞きなさい。話します。思い込みを抜き取る道とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、目を目と思い込まず、目のものと思い込まず、目を自分のものと思い込まず、形と思い込まず、すべての形と思い込まず、すべての形であると思い込まず、すべての形を自分のものと思い込みません。

 眼識と思い込まず、眼識のものと思い込まず、眼識を自分の眼識と思い込まず、眼触と思い込まず、眼触のものと思い込まず、眼触を自分の触と思い込まず、受と思い込まず、受のものと思い込まず、眼触を縁として生じる受を、幸福でも、苦でも、幸福でも苦でもなくても、その受を自分の受と思い込みません。

 (耳、鼻、舌、体、心の場合も目の場合と同じように話されています)。

 すべての物に思い込みがなく、すべての物と思い込まず、すべての物を自分の物と思い込みません。比丘のみなさん。このように思い込まなければ世界の何にも執着せず、何にも執着しなければ驚愕しません。

 驚愕しなければ本人だけの般涅槃で、彼は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。これが「すべての思い込みを抜き取る道」です。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻26頁33項

 (この後の経では、上記の経と同じように六処すべてについて話され、それぞれの処入の部分の終わりで、以下のような文章が加えられています。そしてこの道を「すべての思い込みを抜き取ってしまうのに便利な道」と呼んでいます)。

 比丘のみなさん。比丘は当然何かを何かと思い込み、何かを自分の物と思い込みますが、その人が思い込んでいる物は、当然その人が思い込んでいる物ではありません。有に関わり有に陶酔している世界の動物は、別の人になります。

 (次の文章は、六番目の段落の終わり、つまり意の部分の後で話されています)。

 比丘のみなさん。蘊、ダートゥ(大種、あるいは界)、処入が幾つあっても、比丘は当然その蘊やダートゥや処入を蘊やダートゥや処入と思い込まず、その蘊やダートゥや処入をその蘊やダートゥや処入の物と思い込まず、その蘊やダートゥや処入である物と思い込まず、その蘊やダートゥや処入を自分の物と思い込みません。

 比丘がこのように思い込まなければ世界の何も執着せず、執着しなければ驚愕せず、驚愕しなければ本人だけの般涅槃で、その人は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにするべきことは、他に何もない」と、このように明らかに知ります。

 比丘のみなさん。これが「すべての思い込みを抜き取る便利な方法」です。
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻28頁34項

 (四つで思い込みを抜き取るとは、①それを思い込まない ②それで思い込まない ③それと思い込まない ④それを自分のものと思い込まないことです。

 すべての思い込みを抜き取るに便利な道について、次の経(18巻29頁35項)では、アナッタラッカナ経の説明と同じ実践法を説かれています。非常に広く学習されている経なので、ここでは割愛します。

 要旨としては、ブッダの質問から始まって比丘がお答えし、聖なる弟子はこのように見るので当然倦怠し、欲情が緩み、解脱し、そして最後には阿羅漢になると話され、それぞれの名前のダンマを取り上げて質問されます。つまり六外処入、六内処入、六識、六触、そして六受、合わせて三十のダンマを取り上げています。そしてこの方式の実践を、すべての思い込みを抜き取るに便利な道と呼ばれています)。





執着を止めれば動揺も止まる

 比丘のみなさん。比丘の無明が消滅すれば、その時はいつでも明が生じます。無明が無くなれば明が生じ、その比丘は当然愛欲の執着、ディッティ(邪見)の執着、戒や勤めの執着、そして自分という執着を生じさせません。

 比丘のみなさん。すべての執着を生じさせなければ当然何にも動揺せず、動揺しなければ当然自分だけの本当の消滅です。その比丘は当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このような苦の終わりのためにするべきことは他にない」と明らかに知ります。

中部ムーラバンナーサ 12巻135頁158項




驚愕しないのは取が無いから

 比丘のみなさん。みなさんに「驚愕しないのは取(執着)が無いから」という説明をします。みなさん、これを良く聞いて心の中を利益になるようになさい。これから話します。

 比丘のみなさん。「取がないから驚愕しない」とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の聞くことがある聖なる弟子は、聖人が見え、聖人のダンマに賢く、聖人のダンマの忠告を受け、善人が見え、善人のダンマに賢く、善人のダンマの忠告を受け、当然常に形を自分と見ず、当然常に自分には形があると見ず、当然常に自分の形と見ず、当然形の自分と見ないので、

 その形が聖なる弟子にとって別の物に変化しても、その聖なる弟子の識は形の変化につれて変化する識ではなく、形の変化につれて驚愕させる物が生じても、当然その聖なる弟子の心を支配しません。

 心が驚愕させる物に支配されないので、その聖なる弟子は取が無いので驚愕しない人であり、困窮せず、憂慮せず、そしてびっくり仰天しません。

  (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。取が無いので驚愕しないことは、当然このようにあり得ます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻20頁31項




驚愕しないのは取が無いから 二

 比丘のみなさん。みなさんに、取が無いから驚愕しないことについて説明します。みなさんこれを聞いて、心の中を有益になさい。これから話します。

 比丘のみなさん。「取が無いから驚愕しない」とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の聞くことがある聖なる弟子は、当然常に形を「これは私の物ではない。これは私ではない。これは私自身ではない」と見ています。その形が変化して当然違う状態になっても、その聖なる弟子である比丘に、当然形が別の物に変化することによる悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みは生じません。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。取が無いから驚愕しないことは、このようにあり得ます。
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻24頁34項




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