生老死の下剤と催吐薬

 比丘のみなさん。医者は誰でも、当然胆嚢が原因の病気、痰が原因の病気、風が原因の病気を下させるために下剤を飲ませます。比丘のみなさん。私は「その種の薬はある。ない訳ではないが、その種の下剤は結果が出る時も出ない時もある」と言います。

 比丘のみなさん。結果を出すばかりで結果が出ないということがない、聖なる下剤の説明をします。これに依存すれば、生まれるのが当たり前の動物が生まれることから脱し、老いるのが当たり前の動物が老いから脱し、死ぬのが当たり前の動物が死から脱し、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが当たり前にある動物が、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みから脱します。

 みなさん、心してお聞きなさい。これから話します。

 比丘のみなさん。聖なる下剤はどのように結果を出す一方で、結果に欠けることがなく、動物が依存すれば、生まれること等々から脱すでしょうか。

 比丘のみなさん。正しい見解のある人が下すことができた誤った見解、つまり誤った見解が縁で生じる様々な罪や悪は何でも、それらは彼が下すことができた物です。そして正しい見解が縁で生じた様々な善は、当然発展します。

 比丘のみなさん。正しい考えの人が下すことができた誤った考えは、(以下同文)

 比丘のみなさん。正しい言葉の人が下すことができた誤った言葉は……

 比丘のみなさん。正しい業の人が下すことができた誤った業は……

 比丘のみなさん。正しい生活の人が下すことができた誤った生活は……

 比丘のみなさん。正しいサティのある人が下すことができた誤ったサティは……

 比丘のみなさん。正しいサマーディのある人が下すことができた誤ったサマーディは……

 比丘のみなさん。正しいニャーナ(智)のある人が下すことができた誤ったニャーナは……

 比丘のみなさん。正しい解脱のある人が下すことができた誤った解脱、つまり誤った解脱が縁で生じる様々な罪や悪は何でも、それらの罪や悪は、その人が下すことができたものです。そして正しい解脱が縁で生じた様々な善は、当然発展します。

 比丘のみなさん。これが聖なる下剤(十種類)で、結果があるばかりで、結果がないことはありません。

 これに依存すれば、当たり前に生まれることがある動物は生まれることから脱し、当たり前に老いがある動物は老いから脱し、当たり前に死がある動物は死から脱し、悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがある動物は、悲しみ・嘆き・苦・憂い・全ての悩みから脱します。

増支部ダサカニバータ 24巻233頁108項

 (上の経では十項のダンマを下剤と呼ばれ、次の経では催吐薬と呼ばれていて、内容は全て同じです。次の経では十項のダンマを全ての悪を吹き払うことができ、善を満たすことができる神聖な吹く物と呼ばれていますが、生まれるのが当たり前の動物が生まれることから脱すなどの部分はありません。吹く(入魂などをする)人は熟慮して見るべきです。

 他の経(24巻231頁107項)では、上記の十項のダンマを、人々が昔からしている伝統儀式の習慣、骨を清浄に洗い清める水と呼ばれています。この聖なる洗浄水は全ての悪や罪を洗い清め、善を満たし、そして最高の知識、涅槃のためになります。そして動物が依存すれば、生まれるのが当たり前の動物が、生まれることから脱します)。




ダンマは現在のアスミマーナを抜き取るもの

 比丘のみなさん。善い友達がいて、善い友人がいて、善い仲間がいる比丘にとって、これは期待できます。つまり戒のある人になり、パーティモッガを遵守する戒があり、行儀作法とゴーチャラが完璧で、平素からどんなに小さな物でもすべての罪の危険が見え、すべての教条を学ぶべきこととして遵守する人になります。

 比丘のみなさん。これが善い友がいて、善い朋輩がいて、善い仲間がいる比丘が期待できることです。

 その人は、最高に愚かさを掘り出す道具であり、心を広々と爽快にするカター(解説という意)である、望みが少ないことについて、サンドーサ(知足)について、静寂について、混じらないことについて、努力について、戒について、サマーディについて、智慧について、解脱について、解脱智見についてのカターを、簡単に、難しくなく、大変でなく手に入れます。

 比丘のみなさん。これが善い友達があり、善い友人がいて、善い仲間がいる比丘にとって期待できることです。つまりすべての悪を捨て、すべての善を完璧にするために、始めている努力があり、気力があり、堅い闘志があり、すべての善の仕事を投げ捨てない人になります。

 比丘のみなさん。これが善い友達があり、善い友があり、善い仲間がある比丘にとって期待できることです。つまり聖なる智慧である発生と消滅を知る智慧があり、煩悩を突き刺し、正しく苦の終わりに到らせる智慧のある人になります。

 比丘のみなさん。この四つのダンマを維持している人は、益々四つのダンマに励まなければなりません。

 貪りを捨てるためにアスパ(不浄)に励む

 恨みを捨てるためにメッター(慈)に励む

 ヴィタカ(考えること。尋)を断つためにアーナーパーナサティに励む

 アスミマーナ(自我。我慢)を抜くために無常想に励む

 比丘のみなさん。比丘に無常想、無我想があれば、当然非常に安定し、無我想がある人は当然アスミマーナを抜きます。つまり現世で涅槃に至ります。

増支部ナヴァカニバータ 23巻365頁205項 

 (この内容を読んだら、学習者は時々目にしていても意味か良く分からない『善友がいることは梵行のすべて』という言葉を思い出さなければなりません)。




アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤが無くなるサマーディ

 プラアーナンダが「比丘がそのサマーディを得ると、結果が、識がある体にアハンカーラ(我)、ママンカーラ(我所)、マーナヌサヤ(慢随眠)が無く、外部のすべてのニミッタにアハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤが無くなり、そしてその感覚の中にいるサマーディはありますか。猊下」と質問しました。

 アーナンダ。比丘がサマーディを得ると、その様な結果になるのはあります。

 「猊下。比丘がサマーディを得たら、その様な結果になるのはどのようですか」。

 アーナンダ。特にこの場合の比丘が注目するのは「それは静寂で、それは緻密で、それはすべての行が静まったダンマであり、すべてのウパティ(存在の基礎。依)を返却した物、欲望の終わった物、薄れること、消滅、涅槃(涼しさ)」とこのようです。

 アーナンダ。比丘がサマーディを得た時結果があるサマーディはこのようです。つまり識のある体にアハンカーラ(私)、ママンカーラ(私の物)、マーナヌサヤ(傲慢)が無く、外部のすべてのニミッタにアハンカーラ(私)、ママンカーラ(私の物)、マーナヌサヤ(傲慢)がなく、そしてアハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤのない心解脱、慧解脱に到達します。

 アーナンダ。これは『世界の著しい状態と緩慢な状態を(どちらも同様に空であると)熟慮して見る人は、世界のどんな感情にも動揺しない鎮まった人であり、煙のように広がって包む煩悩がなく、苦や困窮がなく、何も望まない人で、私はその人を、老死を越えてしまうことができた人と言います』と、パラーヤナ集会でプンナカ青年に答えた言葉に依存して言います。

 (上記のカターの内容は、『アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤがない』という意味です)。

増支部ティカニバータ 20巻168頁471項




涅槃は最高に幸福

 貪りと並ぶ火はなく、怒りと並ぶ罪はなく、蘊と並ぶすべての苦はなく、静かさ(涅槃)以外に幸福はありません。

 飢えは突き刺す棘であり、すべての行は最高に苦です。これを真実のままに知れば、消滅させてしまうことができ、最高の幸福になります。

 病気がないことは最高の幸運で、足るを知ることは最高の財産で、親睦は最高の親戚で、涅槃は最高の幸福です。

小部ダンマパダ 25巻42頁25項




涅槃は最高に見え難い
 涅槃と名がつけば人に見え難く、傾かせる欲望がない。涅槃は本物の自然なので、簡単には見えない。私が欲望を洞察したのは、知っていて、見えていたので、憂慮する煩悩がなかったから。

小部ウダーナ 25巻207頁159項




涅槃ダンマが現れれば疑念は消える

 罪を無くすために実践する人、煩悩を焼く努力をしている人に、当然すべてのダンマが現れれば、その時罪を無くすために実践している人のすべての疑念は、理由と同時にダンマを明らかに知ることで当然尽きる。

小部ウダーナ 25巻74頁38項


 罪を終わらせるために実践する人、煩悩を焼く努力をしている人に、当然すべてのダンマが現れれば、その時、罪を終わらせるために実践する人のすべての疑問は、すべての縁の終わりを明らかに知ることで当然消滅する。

小部ウダーナ 25巻74頁39項


 罪を終わらせるために実践する人、煩悩を焼く努力をしている人に、すべてのダンマが当然現れた時、その時罪を終わらせるために実践する人は、闇を駆逐して空を明るく照らす太陽のように、悪魔と悪魔の手下を退治して維持できる。

小部ウダーナ 25巻76頁40項




涅槃は世界の害が見える人の目標

 比丘のみなさん。素晴らしい探究はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。世界のある人は、自分に当たり前に生まれることがあれば、自分が当たり前に生まれることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上に素晴らしい物がない努力から生じる安全なダンマである、生まれることがない涅槃を探究します。

 自分に当たり前に老いがあれば、自分に当たり前に老いがあることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上に素晴らしい物がない努力から生じる安全なダンマである、老いることがない涅槃を探究します。

 自分に当たり前に病気があれば、自分に当たり前に病気があることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上の物がない素晴らしい努力から生まれる安全なダンマである、病気のない涅槃を探究します。

 自分に当たり前に死があれば、自分に当たり前に死があることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上に素晴らしい物がない努力から生じる平安な安全である、死のない涅槃を探究します。

 自分に当たり前に悲しみがあれば、自分に当たり前に悲しみがあることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上の物がない素晴らしい努力から生じる平安なダンマである、悲しみのない涅槃を探究します。

 自分に当たり前に憂鬱があれば、自分に当たり前に憂鬱があることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上の物がない素晴らしい実践から生じる安全なダンマである、憂鬱のない涅槃を探究します。

 自分の周りに憂鬱があるのが当たり前の時は、自分の周りに当たり前に憂鬱があることの害を明らかに知り、そして当然、それ以上の物がない努力から生じる安全なダンマである、周囲に憂鬱のない涅槃を探究します。

 比丘のみなさん。これも素晴らしい探究と言います。

中部ムーラバンナーサ 12巻316頁315項




不死の物があるから、死ぬの物に出口がある

 比丘のみなさん。生まれず、生きず、何かによって作られず、何かによって変化させられない物は有ります。

 比丘のみなさん。生まれず、生きず、何かによって作られず、何かによって変化させられない物が無ければ、生まれ、生き、何かによって作られ、何かによって変化させられる物に脱出は現れません。

 比丘のみなさん。生まれず、生きず、何かによって作られず、何かによって変化させられないものが有るから、生まれ、生き、何かによって作られ、何かによって変化させられる物の脱出が現れています。

  (次は詩で話された説明です)。


 縁が作った、縁が加工した

 生まれて生きているもの

 一斉に生まれたもの

 永遠でなく

 老死のために作られ

 病巣であり

 腐るものであり

 発生源である餌と欲望があるものに

 陶酔するべきではない


 一方それらの(生まれた等々の)ものからの脱出は

 静まった自然であり

 思考の領域でない

 永遠で

 生まれず

 一斉に生まれず

 悲しみがなく

 埃がない

 到達するべきものであり

 当たり前に苦があるものの消滅である

 行の静まりは幸福


小部イウッタカ 25巻257頁221項




道に迷うまで道を逸れるから涅槃に至らない

 「ゴータマ様のお弟子は、ゴータマ様がこのように休まずお教えになると、すべての方が究極の成功である涅槃に到達なさるのですか。それとも到達なさらないのですか」と、一人のバラモン(バラモン階級の人)が質問しました。

 バラモンさん。私の弟子は、私がこのように休まず教えても、最高の成功である涅槃に到達する人は非常に少なく、到達しない人たちもいます。

 「ゴータマ様。涅槃があり、動物が涅槃に到達する道があり、(歩いて行くよう)誘うゴータマ様もいらっしゃるのに、到達する人たちは少なく、到達しない人たちがいる原因は何で、縁は何でしょうか」。

 バラモンさん。反対に質問するのでお答えなさい。あなたはラーチャガハへ行く道に精通していますね。ラーチャガハへ行く男が訪ねて来て「ラーチャガハへ行きたいので、道を教えてくれませんか」と言われたら、

あなたは「こちらへ行きなさい。この道がラーチャガハへ行く道です。しばらく行くとこういう名の村があり、こういう名の町が見え、ラーチャガハの楽しそうな森が見え、楽しそうな地域が見え、楽しそうな池が見えます」と言います。

 あなたがこのように教えた男が道を間違えて反対の道を行き、(あなたが同じように教えた)もう一人の男は無事にラーチャガハに到着します。バラモンさん。ラーチャガハの都があり、教えるあなたもいるのに、どうして一人の男は道に迷い、もう一人の男は無事に到着する、原因は何で、縁は何ですか。

 「ゴータマ様。それは私にはどうしようもございません。私はただ道を教えるだけですから」。

 バラモンさん。同じように涅槃があり、涅槃に到達する道もあり、誘う私がいても、私がこのように休まず教えている弟子でも、最高の成功である涅槃に到達する人たちは少なく、ある人たちは到達しないのは、バラモンさん。これは私にもどうしようもありません。私はただ道を教えるだけですから。

中部ウパリバンナーサ 14巻85頁101項




盲人の涅槃(邪見)

 「ゴータマ様。本当に不思議です。今まで見たことがございません。ゴータマ・サマナは『すべての幸運は最高に病気がないこと。涅槃は最高の幸福』とおっしゃいます。ゴータマ様。私は『すべての幸運は最高に病気がないこと。涅槃は最高の幸福』と、昔の先生である(異教の)修道者の言葉を聞いたことがあります。このように同じです。これは本当に一致します」。

 マーガンディヤさん。あなたが昔の先生である修行者から聞いた『すべての幸運は最高に病気がないこと、涅槃は最高の幸福』という言葉の、病気がないとは何で、涅槃とは何ですか。

 世尊がこのように言われると、異教の修道者マーガンディヤは、自分の体を掌で撫でて唸り、「ゴータマ様。どうでしょう。病気がないとはどんなことでしょう。涅槃とは何でしょう。ゴータマ様。今私は幸福で、病気がなく、患いがありません」。

 マーガンディヤさん。これは、生まれつき目が見えない男は白黒の形、緑の形、黄色い形、赤い形、橙色の形が見えず、デコボコが見えず、星や月や太陽が見えないので、目の良い人が「白い布は清潔で、汚れが無く、とってもきれいだ」と言うのを聞いて、その盲人は白い布を探して歩きます。

 ある男がススで汚れた古い布を「旦那。これは清潔で汚れが無くとてもきれいで、あなたのための白い布ですよ」と騙すと、盲人はその布を買って身にまとい、「旦那方。この白い布は清潔で汚れが無く、とてもきれいですねえ」と自分の満足を表明して歩くのと同じです。

 マーガンディヤさん。あなたはこれをどう思いますか。その生まれつきの盲人は煤で汚れた古い布と知っていて、見えていて、それで「旦那方。これは清潔で汚れが無く本当にきれいな白い布です」と自慢して歩くのですか。それとも彼を騙した目の良い男を信じてそのように言っているのですか。

 「ゴータマ様。彼がそのように言うのは、騙した目の良い男を信じているからです」。

 マーガンディヤさん。同じように、異教の修行者は目のない盲人であり、病気がないことを知らず、涅槃が見えない人で、それで「すべての幸運は病気がないこと。涅槃は最高の幸福」と言います。マーカンディヤさん。このガーター(詩)は、すべての阿羅漢サンマーサンブッダが昔から言われているガーターです。

 すべての幸運は最高に病気がないこと

 涅槃は最高の幸福

 すべての道より安全な道である八正道は

 不死に至らせるもの

 こういうのが今、凡夫が語る詩になってしまいました。マーカンディヤさん。病気であり、腫れ物の頭であり、矢であり、困難であり、患いであるのはこの体ですか。その方はそれを病気がないことであり、涅槃と言います。マーガンディヤさん。無病を知る聖なる目が、その方の涅槃を見ることはありません。

中部マッジマバンナーサ 13巻281頁287項
 (この異教の修道者は、自分自身を病気が無く涅槃と理解していたので、この例えの盲人が汚れた布を白い布と理解していたように、盲人の涅槃と言わなければなりません)。




到達したダンマに執着すれば涅槃しない

 「猊下。このダンマヴィナヤの比丘はそのような(非想非非想処に快適な道の)実践者で、当然『あるべきでなく、私にあるべきでなければ、私にあってはならない。ある物、既にある物を私は捨てよう』と、このようにウペッカー(捨)になります。猊下。その比丘は完全な般涅槃をするべきでしょうか。それとも般涅槃するべきでないでしょうか」。

 アーナンダ。述べたような場合、何人かの比丘は般涅槃するし、何人かの比丘は般涅槃しません。

 「猊下。述べたような場合の比丘の何人かは般涅槃し、何人かは般涅槃しない原因と縁は何ですか」。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、そのような(非想非非想処に快適な道の)実践者で、当然「あるべきでなく、私にあるべきでなければ、私にあってはならない。あるもの、既にあるものを私は捨てよう」と、このように捨になります。

 その比丘は当然その捨に陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。その捨に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、彼の識もその捨に依存している自然であり、その捨はウパーダーナ(取)です。アーナンダ。まだ取がある比丘は、完璧に般涅槃できません。

中部ウパリバンナーサ 14巻78頁89項




涅槃まで走っていく車を作る

 「サリーラヤナ(体という機械)は四輪で、九つの門があり、貪りがある不潔な物がいっぱいで、泥の中に生まれます。偉大な勇者である方。どうしたら向こう岸へ到達できるでしょうか」。

 縛り付けている革紐のような怒りを断ち切ってしまい、繋いでいる紐のようなディッティ(邪見)を断ち切ってしまい、下品な望みと貪りを断ってしまい、欲望を根(無明)こそぎ引き抜いてしまえば、このようにすることで体という車は向こう岸まで走って行きます。

相応部サガーダヴァッガ 15巻23頁74項




まだ種があれば般涅槃ではない

 「猊下。この世界のある動物たちが現世でまだ般涅槃(完全な涅槃)できない原因と縁は何ですか。この世界のある動物たちが現世で般涅槃する原因と縁は何ですか」。

 長者さん。目で見るすべての形も、耳で聞くすべての声も、鼻で嗅ぐすべての臭いも、舌で味わうすべての味も、体で触れるすべての接触も、そして心で明らかに知る想念も、愛らしく満足すべき望ましい物であり、目や心を魅了し、願望の住処であり、惚れ込んでしまうことの基盤である物があります。

 そして比丘が、形などがある感情(心が捉えているもの)に陶酔し、褒めちぎって惑溺し、形等のある感情に陶酔し、褒めちぎって惑溺すれば、その比丘の識は形などがあるその感情に依存し、それがあることが取です。長者さん。まだ取がある比丘は当然般涅槃しません。

 長者さん。これが、この世界のある種の動物が当然現世で般涅槃しない原因であり縁です。

相応部サラーヤタナヴァガ 18巻137頁191項




種が無くなれば般涅槃

 長者さん。目で見るすべての形、耳で聞くすべての声、鼻で嗅ぐすべての臭い、舌で味わうすべての味、体で触れるすべての接触、そして心で明らかに知る想念でも、愛らしく、満足すべき望ましい物であり、目や心を魅了し、願望の住処であり、心を染める欲情の基盤である物があります。

 しかし比丘が形などのある感情(心が捉えるもの)に陶酔せず、褒めちぎって惑溺しなければ、その比丘の識は、形などがあるその感情に依存しないので、取である物はありません。長者さん。取がない比丘は、当然般涅槃します。

 長者さん。これがこの世界のある種の動物が、当然現世で般涅槃する原因であり縁です。

相応部サラーヤタナヴァガ 18巻138頁192項


 比丘のみなさん。比丘が解脱した人で、目・耳・鼻・舌・体・心に倦怠し、欲情が緩み、冷めることで取で執着しないなら、その比丘は生きているうちに涅槃に到達した人と呼ぶにふさわしいです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻177頁244項




(貪瞋痴の終わりを感じた時)自分で見える涅槃

 「ゴータマ様。ゴータマ様は『自分で見える涅槃』『自分で見える涅槃』とおっしゃいます。ゴータマ様。自分で見える涅槃には時がなく、他人に『来て見てください』と言うことができる物で、心を傾けて関心を持つべき物で、自分だけが知ることが出来る物とおっしゃるのは、どれほどの理由でしょうか」。

 バラモンさん。欲情した人は貪りに支配され、貪りに縛られた心があり、当然自分を困らせる考えをし、当然他人を困らせる考えをし、当然自分も他人も困らせる考えをし、当然精神的な苦や憂いを味わいます。貪りを捨てられれば、当然自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えもせず、当然自分と他人を困らせる考えをせず、当然心の面の苦や憂いをまったく味わいません。

 バラモンさん。自分で見える涅槃は時がなく、「来て見てください」と言える物で、心を傾けて関心を持つべき物で、自分だけが知ることができる物で、当然それはこのようです。

 バラモンさん。怒りが生じた人は怒りに支配され、怒りに縛られた心があり、当然自分を困らせる考えをし、当然他人を困らせる考えをし、当然自分も他人も困らせる考えをし、当然精神的な苦や憂いを味わいます。怒りを捨てられれば、当然自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えをせず、当然自分と他人を困らせる考えをしないので、当然精神面の苦や憂いをまったく味わいません。

 バラモンさん。自分で見える涅槃は時がなく、「来て見てください」と言える物で、心を傾けて関心を持つべき物で、自分だけが知ることができる物で、当然それはこのようです。

 バラモンさん。愚かさのある人は愚かさに支配され、愚かさに縛られた心があり、当然自分を困らせる考えをし、当然他人を困らせる考えをし、当然自分も他人も困らせる考えをし、当然精神的な苦や憂いを味わいます。愚かさを捨てられれば、彼は当然自分を困らせる考えをせず、当然他人を困らせる考えもせず、当然自分と他人を困らせる考えをせず、当然精神面の苦や憂いをまったく味わいません。

 バラモンさん。自分で見える涅槃は時がなく、「来て見てください」と言える物で、心を傾けて関心を持つべき物で、自分だけが知ることができる物で、当然それはこのようです。

 バラモンさん。この人が貪りの完璧な消滅を味わう時はいつでも、当然怒りの完璧な消滅を味わい、当然愚かさの完璧な消滅を味わいます。バラモンさん。その時時に関わりなく、他人に対して「来て見てください」と言うべき物、心を傾けて関心を持つべき物、自分だけが知ることができる物である「自分で見える涅槃」は、このようです。

増支部ティカニカーヤ 20巻202頁495項




プラアーナンダの言葉での「自分で見える涅槃」

 「先輩。『サンディッティカニッバーナ』『サンディッティカニッバーナ』と言われている言葉があります。先輩。このサンディッティカニッバーナ(自分で見ることができる涅槃)は、世尊はどれほどの理由でおっしゃっているのでしょうか」。

 (プラウダージがプラアーナンダに質問し、プラアーナンダが答えました)。

 先輩。この場合の比丘は愛欲が静まり、悪が静まり、ヴィタカ・ヴィチャーラ(熟考)・ピーティ・スッカ(喜悦と幸福)がある初禅に到達し、常にその感覚の中にいます。意味としてはこれだけの理由で、世尊はサンディッティカニッバーナとおっしゃっています。

 (学習者は、ここで言うサンディッティカニッバーナという言葉は、その人が味わっている初禅の結果である幸福を意味すると観察して見なければなりません。離欲、特にすべてのレベルの禅定から生じた幸福を表すものを涅槃と呼ぶこともでき、無余依涅槃を意味する必要はありません。どのように結論するか、学習者は熟慮してみてください。

 二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も、初禅の時とすべて同文であり、そして意味としてはサンディッティカニッバーナです。漏が終わった想受滅については、次のように純理論として述べています)。

 先輩。他の意味もあります。比丘が非想非非想処をすべて越えて、想受滅に至り、常にその高い感覚の中にいて、更に智慧で明らかに見ることで、彼のすべての漏は全部終わります。先輩。世尊が言われているサンディッティカニッバーナを純理論で言えば、これだけの理由です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻475頁251項




食べ物がなくなれば涅槃

 比丘のみなさん。ご飯である食べ物(段食)にも、触である食べ物(触食)にも、意思である食べ物(意思食)にも、識である食べ物(識食)にも貪りがなく、喜びがなく欲望がなければ、識はその中で維持できず、成長できません。

 識が維持できず成長できない場所はどこでも、そこに名形の進入はなく、名形の進入がない所はどこでも、すべての行の成長はありません。

 すべての行の成長がない所はどこでも、当然そこに新しい有は生じず、新しい有が生じない所はどこでも、そこには老死はありません。その後老と死がない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しくない所、埃がない所、そして困窮のない所」と言います。

 比丘のみなさん。北、あるいは南に建っている楼閣、あるいは尖った屋根の東屋でも、東側に窓があれば、太陽が昇る時窓から入った光は、その家のどの部分に当たるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は家の中の西側の壁に現れます」。

 比丘のみなさん。西側に壁がなかったら、太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は床に現れます」。

 比丘のみなさん。床がなかったら、太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は水に現れます」。

 比丘のみなさん。水がなかったら太陽の光はどこに現れるでしょうか。

 「猊下。太陽の光は当然現れません」。

 比丘のみなさん。同じように食べ物、つまり飯塊である食べ物でも、触である食べ物でも、識である食べ物でも、意欲である食べ物でも、貪りがなく、喜びがなく、欲望がなければ、その食べ物である飯塊などで識は維持できず、成長もできません。

 識が維持も成長できない所はどこでも、名形は進入できず、名形が進入できない所はどこでも、すべての行の成長はありません。すべての行の成長がない所はどこでも、続いて新しい有が生まれることは、当然そこにはありません。

 続いて新しい有が生じない所はどこでも、続いてそこに生・老・死はありません。続いて生老死のない所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しくない所、埃がない所、そして困窮がない所」と呼びます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻124頁248項




漏尽智は漏から脱出させるもの

 バラモンさん。その比丘の心が安定し、純潔清浄になり、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、動揺のない状態になってこのように維持できれば、心は漏尽智に傾きます。

 その人は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。そして「これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

 彼がこのように知れば、心は欲漏、有漏、無明漏から脱し、心が素晴らしい脱出をすれば「心が脱出した」と感じるニャーナ(智)が生じます。その人は当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになる(解脱)ためにしなければならない仕事は他に何もない」と明らかに知ります。

 バラモンさん。この三番目の知識は、不注意でなく、罪を焼く努力があり、そのように自分を後押しし、絶えずその感覚の中にいる人に生じるように、その比丘が到達し、無明が追放されて明が生じ、闇が追放されて明るさが生じたダンマです。

増支部ティカニバータ 20巻210頁498項




本当の博学

 比丘のみなさん。博学とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りはどれでも、比丘のみなさん。それを私はパリンニャー(博学という意味。涅槃に到達した時生じる博学で、本当の知識)と呼びます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻33頁55項




二つのレベルの解脱 : 時解脱と非時解脱

1.時解脱

 比丘のみなさん。この場合の良家の子息は信仰があり、「私は生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みに支配されて、苦の山に落ちて目前に苦がある。どうしたらこの苦の山が現れないようにできるだろう」と考え、家を出て出家し、家に関わりません。

 出家すると、その人は供物と崇拝と賞賛を生じさせることができ、その供物と崇拝と称賛を喜ばず、その供物と崇拝と賞賛について目いっぱい考えず、その供物と崇拝と賞賛に陶酔しません。

 供物と崇拝と称賛に油断をしなければその人に戒が生じます。戒を喜ぶ心はありますが、戒について目いっぱい考えず、戒で思い上がらず、戒に酔わず、戒で不注意になりません。不注意にならなければサマーディがあることが生じます。

 その人はサマーディがあることを喜びますが、サマーディがあることについて目いっぱい考えず、サマーディがあることで思い上がらず、サマーディがあることに酔わず、サマーディがあることで不注意になりません。

 不注意にならなければ智見を生じさせることができ、その人はその智見を喜びますが、その智見について目いっぱい考えず、その智見で傲慢にならず、その智見に酔わず、その智見に油断をしません。油断をしなければ、その人はサマヤヴィモッカ(その時だけの特別な解脱。時解脱)を生じさせることができます。

 比丘のみなさん。これは当然あり得ます。つまりその比丘の時解脱が衰退することはあります。


2.非時解脱

 比丘のみなさん。心材を求めて心材を探して歩いている男が、芯のある大木を見つけて「これは本当の心材だ」と確信して芯を切り取って持って行くようなものです。

 目のある人がその男を見ると、「この人は心材を求めていると言っているように本当に心材を知り、辺材を知り、生皮を知り、外皮を知り、枝先の葉を知っていて、心材を求めて心材を探し歩き、芯のある大木を見つけると切り、『これは本当に心材だ』と確信して心材を持って行く。この人が心材で作らなければならない物は、きっと完成するに違いない」と言います。

 比丘のみなさん。これも同じです。この場合の良家の子息は信仰のある人で、「私は生・老・病・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みに支配されて、苦の山に落ちて目前に苦がある。どうしたらこの苦の山が現れないようにできるだろう」と考え、家を出て出家し、家に関わりません。

 出家すると、その人は供物と崇拝と賞賛を生じさせることができ、その供物と崇拝と称賛を喜ばず、その供物と崇拝と賞賛について目いっぱい考えず、その供物と崇拝と賞賛に陶酔しません。

 供物と崇拝と称賛で油断をしなければ戒が生じ、その人は戒を喜ぶ心はありますが、戒について目いっぱい考えず、戒で思い上がらず、戒に酔わず、戒で不注意になりません。不注意にならなければサマーディがあることが生じます。

 その人はサマーディがあることを喜びますが、サマーディがあることについて目いっぱい考えず、サマーディがあることで思い上がらず、サマーディがあることに酔わず、サマーディがあることで不注意になりません。

 不注意にならなければ智見を生じさせることができ、その人はその智見を喜びます。しかしその智見について目いっぱい考えず、その智見で傲慢にならず、その智見に酔わず、その智見に油断をしません。油断をしなければ、その人はアサマヤヴィモッカ(時を限定しない解脱。非時解脱)を生じさせることができます。

 比丘のみなさん。これは当然あり得ません。その比丘の非時解脱が衰退し薄れることはありません。

 比丘のみなさん。この梵行は功徳として供物や崇拝や賞賛があるわけではなく、この梵行は戒が功徳としてあるわけではなく、この梵行はサマーディが功徳としてあるわけではなく、この梵行は智見が功徳としてあるわけではありません。

 比丘のみなさん。悪化しないチェトーヴィムッティ(心解脱)があり、この梵行は心解脱が目指す利益であり、心解脱が心髄であり、心解脱が梵行の最終結果です。

中部ムーラバンナーサ 12巻370頁351項




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