解説十 欲望が消滅したもの






滅苦になる見解

 「ゴータマ様。ゴータマ様の悪見(デッティガタ)は何かございますか」。

 ヴァッチャさん。悪見と呼ぶものは、如行は全部取り出してしまいました。ヴァッチャさん。如行に見えた真実は「形はこのよう、形の発生はこのよう、形の消滅はこのよう、受はこのよう、受の発生はこのよう、受の消滅はこのよう、

想はこのよう、想の発生はこのよう、想の消滅はこのよう、行はこのよう、行の発生はこのよう、行の消滅はこのよう、識はこのよう、識の発生はこのよう、識の消滅はこのよう」です。

 だから私は「如行は取で執着しないことで特別の解脱をした。それは、すべての解釈、すべての探求、すべてのアハンカーラ(私)、ママンカーラ(私の物)、マーナヌサヤ(慢)が終わり、緩み、消滅し、それらを放棄し、返却したから」と言います。

中部マッジマバンナーサ 13巻244頁247項




名形が消滅する所

 比丘のみなさん。あなたの問題についてですが、あなたは「四大種、土界・火界・水界・風界は当然どこで消滅するか」と質問すべきではありません。本当は「土界・火界・水界・風界はどこにないか。長さ、短さ、大きさ、小ささ、美しさ、醜さはどこにないか。名形はどこで消滅するか」と質問すべきです。

 比丘のみなさん。その問題の答えは、人が明らかに知らなければならないものは現象がなく、終わりがなく、一とおり実践すれば到達できる道があるもので、それはあります。それには土界・火界・水界・風界がなく、そこには長短、大小、美醜はありません。そこで名形が残らず消滅し、そこで名形が消滅するのは、識が消滅するからです。
長部シーラカンダヴァッガ 9巻289頁348項




四大種がない所

 「すべての池はどこへ流れて戻るのでしょうか。輪廻は当然どこで回転しないのでしょうか。名と形は当然どこで消滅するでしょうか」。

 土界・火界・水界・風界が無い所はどこでも、すべての池はそこへ逆流します。輪廻は当然そこで回転を止め、そこで名形が当然残らず消滅します。

相応部サカーダヴァッガ 15巻22頁70項




世界の外の遊び場

 トウ利天も、夜魔天も、兜率天も、楽変化天も、そして他化自在天も、すべての天人は捕縛する物である五欲で縛られているので、再び悪魔の威力に戻らなければならず、世界中が灼熱で、世界中が煙で曇り、世界中が燃え上がり、世界中がぐらぐら揺れています。

 悪魔が行けない場所はどこでも、揺らがず、ぐらぐらせず、凡夫が遊ぶ場所ではありません。悪魔さん。私の心はそこを喜びます。

相応部サガータヴァッガ 15巻195頁544項
 (これは長老尼の言葉ですが、ブッダバーシタ(仏言)の解説に用いました)。




作らない物

 比丘のみなさん。比丘の無明が捨てられれば明が生まれます。無明が薄れて明が生まれるので、彼は当然徳である作る物を作らず、当然不徳である作る物を作らず、当然徳でも不徳でもない作る物を作りません。

 その人が作らなければ当然世界の何にも執着せず、執着しなければ当然驚愕せず、驚愕しなければ当然完璧な涅槃です。その人は当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は終わった。このように解脱するためにしなければならない他の仕事はない」と明らかに知ります。
相応部ニダーナヴァッガ 16巻99頁192項




「それ」はこの内部にある

 ほら、あなた。動物が生まれず、老いず、死なない世界の終わりはどこも、私は、誰でも行くことで世界の終わりを知ることができ、見ることができ、到達できると言いません。

 ほら、あなた。まだ想と心がある身丈二メートルばかりのこの体に、私は世界と世界が生じる原因と、世界の消滅と、そして世界の消滅に至る道を規定しました。

増支部チャトゥカニバータ 21巻62頁45項




ローグッタラの領域

 土界・火界・水界・風界が入れない場所は、そこには恒星の光も届かず、太陽も現れず、月も照らさない。しかしそこには闇もない。

 一心に実践するムニー(修行者)が、自分自身で、知識で(今話しているものを)明らかに知れば、その時そのムニー(牟尼)は当然形から脱し、当然無形から脱し、当然苦や幸福から完璧に脱出する。

小部ウダーナ 25巻85頁50項




「あなた」がいなければ

 バーヒヤさん。形を見たら見るだけ、声を聞いたら聞くだけ、臭いを嗅いだら嗅いだだけ、味を味わったら味わっただけ、体で接触したら触れただけ、想念を明らかに知ったら明らかに知っただけにすれば、その時「あなた」はいません。

 「あなた」がいなければ、この世界にあなたは現れず、他の世界にも、二つの世界の間にも現れません。それが苦の終わりです。

小部ウダーナ 25巻83頁49項




満ち欠けのないもの

 比丘のみなさん。すべての川は当然海へ流れ注ぎ、空から降ってくる雨も海へ注ぎますが、海の水は溢れも減りもしません。同じように比丘のみなさんのほとんどは、当然アヌパーディセサニッバーナダートゥ(すべての煩悩が無くなった完璧な涅槃。無余依涅槃界)で涅槃しますが、ニッバーナダートゥ(涅槃界)の満ち欠けは現れません。

 比丘のみなさん。ニッバーナダートゥの満ち欠けが当然現れないのは、どうしてでしょうか。それはこのダンマヴィナヤの摩訶不思議なことの一つです。

小部ウダーナ 25巻157頁118項




何もかも正反対

 比丘のみなさん。その物の中に土界がなく、火界がなく、水界がなく、風界がなく、無空辺処でもなく、識無辺処でもなく、無所有処でもなく、非想非非想処でもなく、この世界でもなく、別の世界でもなく、月でもなく、あるいは太陽でもないもの。「それ」はあります。

 比丘のみなさん。それと同じ場合のそれは、私は行くとも言わず、来るとも言わず、止まるとも言わず、生まれるとも言わず、それは維持せず、それは経過せず、それは感情ではありません。それが苦の終わりです。

小部ウダーナ 25巻206巻158項




苦の終わり

 本性がまだ欲望とディッティ(邪見)が住める物なら、まだ動揺があります。本性が欲望とディッティが住めない物なら、動揺はあり得ません。

 動揺がなければ当然心が鎮まり、心が鎮まれば心がどちらかに傾くことはなく、心が傾かなければ行くことも来ることもなく、行くことも来ることもなければ生まれることも死ぬこともなく、死ぬことも生まれることもなければこの世界に現れることも、別の世界に現れることも、二つの世界の間に現れることもありません。それが苦の終わりです。

小部ウダナーナ 25巻208頁161項




それは確かにある

 比丘のみなさん。生まれず、存在せず、何かによって加工されず、何かに変えられない物はあります。比丘のみなさん。生まれず、存在せず、何かされず、何かに変えられない物がなければ、生まれた物、生きている物、何かに作られた物、変化させられた物に脱出口は現れません。

 比丘のみなさん。生まれず、存在せず、何かされず、何かに変えられない物があるから、生まれ、生き、何かに作られ、何かに変えられた物の脱出が現れます。

小部ウダーナ 25巻207頁160項




涅槃という名のダンマ

 それは本当に静寂です! それは本当に繊細です!

 これがすべてのサンカーラ(行)が静まった物、すべての煩悩を払い捨てた物、欲望の終わり、欲情の弛緩、煩悩の消滅です。これが涅槃です。

増支部ナヴァカニバータ 23巻439頁240項
エーカーダサカニバータ 24巻344頁214項

 憂慮がないこと。執着がないこと。それが他にはない止まり木であるダンマです。私はそのダンマを、老死の終わりである「ニッバーナ(涅槃)」と言います。
小部スッタニバータ 25巻544頁434項

 欲望を捨てて無くすことを、その方は「涅槃」と言います。

小部スッタニバータ 25巻544頁437項
小部チュラニダデーサ 30巻216頁454項

 すべての欲望が緩んで、すべてが残らず消滅することは涅槃です。

小部ウダーナ 25巻122頁84項


 すべての智者は、涅槃は究極のダンマと言う。

小部ダンマパダ 25巻40頁24項




ニッバーナダートゥ(涅槃界)

 「猊下。猊下が『貪りを根絶させる、怒りを根絶させる、愚かさを根絶させるダンマ』とおっしゃるのは、何の代名詞ですか。

 比丘のみなさん。「貪りを根絶させ、怒りを根絶させ、愚かさを根絶させるダンマ」というのは涅槃の代名詞で、すべての漏の終わりであるダンマと言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻10頁31項




二種類の涅槃界の状態

 比丘のみなさん。ニッバーナダートゥ(涅槃界)は二種類あります。二種類は何でしょうか。二種類とは、サウパーディセサニッバーナダートゥ(有余依涅槃界)とアヌパーディセサニッバーナダートゥ(無余依涅槃界)です。

1.有余依涅槃界

 比丘のみなさん。有余依涅槃界はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、漏が終わり、梵行が終わっていて、するべき仕事が終わり、重荷を下ろし、自分の利益に到達し、有に縛りつける煩悩がすべて終わり、正しく知ることで解脱した阿羅漢です。

 五根がまだ維持され、五根が根絶されていないので、好きな感情(心が捉える物)や嫌いな感情を味わい、幸福や苦を味わうことがあります。その人の貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりのどれも、比丘のみなさん、それを私は有余依涅槃界と呼びます。
2.無余依涅槃界

 比丘のみなさん。無余依涅槃界はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は漏が終わり、梵行が終わっていて、するべき仕事が終わり、重荷を下ろし、自分自身の利益に到達し、有に縛りつける煩悩が終わり、正しく知ることで解脱した阿羅漢です。

 比丘のみなさん。その人のすべての受は、陶酔しないことでこの生で消滅しました。比丘のみなさん。こういうのを私は、無余依涅槃界と呼びます。


経末のガーター(詩)

 目のある人、欲望とディッティが住んでいない人

 変わらない人である涅槃界はこの二種類ある


 その時点で有への誘導が終わり

 まだウパーディ(依)が残っている涅槃界が一つ


 (もう一つの)ウパーディ(依)が残っていない涅槃は

 後ですべての有が完全に消滅する


 アサンカタパダ(無為の足)である二種類の涅槃界をすべて知っている人は

 有に導く物が終わって特別な解脱をした人


 その人は精華であるダンマに達したことによる苦の終わりを喜ぶ

 すべての有を捨てた変化しない人

 この内容は世尊が話された内容と、私はこのように聞いた

小部イティウッタカ 25巻258頁222項

 (この二種類のニッバーナダートゥは、二種類とも漏煩悩が終わった阿羅漢の涅槃です。有余依涅槃に到達した人の五根である目・耳・鼻・舌・体が、まだ涅槃の威力で根絶されていなければ、幸福や苦を感じる習慣がまだ残っているので、1で述べたようにサウパーディセサ=ウパーディ(依)が残っていると言います。


 後者の阿羅漢は、五根の感情に対する感覚の習慣が二番目のニッバーナダートゥによって完全に駆除されたので、その方の受は冷え切って、幸福も苦も感じません。だから2で述べたように、アヌパーディセサ=ウパーディ(依)が残っていないと言います。死ぬまで蘊を攻撃する必要はありません。ブッダの言葉には『その身体の中で、この世界で、その受は静まった(つまり幸福でも苦でもない)』とハッキリあります。

 前者の涅槃はまだ生存している阿羅漢で、後者の涅槃は亡くなった阿羅漢と理解する人がいるのは、経末の詩の中のパーリ語二語を誤解するからかもしれません。つまり「サムプラージカ」という言葉を「来生」、あるいは「死んだ時」と訳されていますが、本当は「その後」と言うこともできます。もう一つ「ディッタンミカ」は「その時点ですぐ」という意味で「この生」「この有」と明言する必要はありません。

 編者は、この二つの涅槃は、どちらもまだ生存している阿羅漢の物で、違うのは前者はその受に執着することはなくても、根がまだ幸福や苦を感じていて、後者は幸福や苦を感じないので「受は体の中で、あるいはこの世界で静まった物」と言います。これをどう結論するか、学習者は自分で熟慮してください)。




無為の三つの状態

 比丘のみなさん。これらの有為の物の有為の状態は三つあります。

    1.生じることが現れる

    2.衰退が現れる

    3.維持している時も、別の状態が現れる

 比丘のみなさん。この三つは有為の物の有為の状態です。

 比丘のみなさん。無為の物の無為の状態は三つあります。三つとは何でしょうか。三つとは、

    1.生じることが現れない

    2.衰退が現れない

    3.維持している時も、別の状態は現れない

 比丘のみなさん。これらの三つが無為の物の無為の状態です。

増支部ティカニカーヤ 20巻192頁486項




受の消滅は生きているうちにもあり得る

 ヴァッパさん。比丘にこのように正しい解脱があれば、その比丘は六つのサッタヴィハーラダンマ(註1)すべてに到達したということです。

 その比丘は目で形を見て喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、平然としていて自覚があります。耳で声を聞いて……、鼻で臭いを嗅いで……、舌で味を味わって……、体で接触して……、心で想念を感じても喜ぶ人でなく、悲しむ人でなく、平然としていて、自覚があります。

 その比丘が受を味わう時、最後の体があれば当然「私は最後の体のある受を味わっている」とハッキリと知り、最後の命がある受を味わえば当然「最後の命がある受を味わっている」とハッキリと知り、彼は当然「私はすべての受に陶酔しない。体の崩壊によって命が終わるまで、私の中で(受は)、冷えた物になった」と明らかに知ります。

 ヴァッパさん。影は当然柱に依存して現れるのと同じです。その時男がスコップと籠を持って来て、その柱を根元から切り、根元から切ったら掘り出し、掘り出したらすべての根を残らず壊し、男はその柱を切って大小の丸太にし、大小の丸太に切ったら割り、割ったら小さな欠片にし、小さな欠片にしたら陽に干し、風に曝して乾かし、陽や風に曝して乾いたら燃やします。

 燃やせば燃えカスになり、燃えカスになったら強い風に撒き散らすか、あるいは川の急流に浮かべれば、ヴァッパさん。その柱に依存する影は、当然原因のない物になります。先端を切り落とされた砂糖ヤシのようにされ、生きられないようにされたので、その後生じないのは当然です。

 ヴァッパさん。同じように、比丘がこのように正しく解脱すれば、その比丘はサッタヴィハーラダンマの六項すべてに到達したということです。

 その比丘は目で形を見ても喜ばない人であり、悲しまない人であり、平然としている人で、自覚があり、耳で声を聞いても・・・、鼻で臭いを嗅いでも・・・、舌で味を見ても・・・、体で接触しても、心で想念を感じても喜ばない人であり、悲しまない人であり、平然としている人で、自覚があります。

 その比丘が最後の体がある受を味わう時は当然「私は、最後の体のある受を味わっている」と明らかに知り、最後の命のある受を味わう時は、当然最後の命のある受を味わっていると、明らかに知ります。その人は当然「私が陶酔しないすべての受は、体の崩壊によって命が終わるまで、自分の中で冷えた物になった」と明らかに知ります。

増支部チャトゥカニバータ 21巻269頁195項
註1: この場合のサッタヴィハーラダンマとは、目・耳・鼻・舌・体・心の触に継続してサティと自覚があり、喜びや悲しみが継続して生じず、ぼんやりする時間がないという意味です。サティがこのように継続して六つの物を管理していれば、サッタヴィハーラダンマの六項と言います。




涅槃はヴィラーガダンマ

 比丘のみなさん。有為の物でも無為の物でも、それがどれほどあっても、ヴィラーガダンマ(離欲の物)はすべての有為の物と無為の物の頂点と私は言います。

 ヴィラーガダンマとは酔いが醒めた、渇きが無くなった、未練が引き抜かれた、輪廻が断たれた、欲望が終わった、欲情が緩んだ、煩悩が消滅したダンマ(もの)であり、これが涅槃です。

小部イティウッタカ 25巻298頁270項




涅槃の同義語(三十二語)

 比丘のみなさん。みなさんに涅槃の説明をします。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。涅槃とは何でしょうか。比丘のみなさん。どんなラーガ(貪り)の終わり、ドーサ(怒り)の終わり、モーハ(愚かさ)の終わりも、比丘のみなさん、私はこれを涅槃と言います。
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁741項


 比丘のみなさん。私はみなさんにアサンカタ(何物にも作られない物。無為)について説明します。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。無為とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どの貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりも、比丘のみなさん、これを私は無為と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項


 比丘のみなさん。みなさんにアンタ(何もかもが傾いて行く物。終極)の説明をします。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。終極とは何でしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりも、比丘のみなさん、それを私は終極と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁721項


 比丘のみなさん。みなさんにアナーサヴァ(漏のない物。無漏)の説明をします。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。無漏とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりも、比丘のみなさん、それを私は無漏と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁721項


 比丘のみなさん。みなさんにサッチャ(本物)を説きます。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。本物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は本物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁722項


 比丘のみなさん。私はみなさんにパーラ(向こう岸。彼岸)の説明をします。みなさん、これをお聞きなさい。比丘のみなさん。彼岸とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は彼岸と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁723項


 比丘のみなさん。みなさんにニプナ(上品な物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。上品な物はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は上品な物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁724項


 比丘のみなさん。みなさんにスドゥッダサ(極めて見えにくい物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。極めて見難い物はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は極めて見え難い物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁725項


 比丘のみなさん。みなさんにアジャッジャラ(老いない物。不老)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。不老はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は不老と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁726項


 比丘のみなさん。みなさんにドゥヴァ(恒常の物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。恒常のものとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は恒常のものと呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁727項


 比丘のみなさん。みなさんにアパロキナ(目標)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。目標とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は目標と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻450頁728項


 比丘のみなさん。みなさんにアニダッサナ(姿を現さない物。不可視の物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。不可視の物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりは何でも、比丘のみなさん、それを私は不可視の物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁729項


 比丘のみなさん。みなさんにニッパパンチャ(世界に引き留めない物。無障礙)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。引き止めない物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は引き止めない物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁730項


 比丘のみなさん。みなさんにサンタ(沈静した物。寂静)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。鎮まった物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は鎮まった物と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁731項


 比丘のみなさん。みなさんにアマタ(不死の物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。不死の物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は不死の物と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁732項


 比丘のみなさん。みなさんにパニータ(精緻な物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。精緻な物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りはどれも、比丘のみなさん、それを私は精緻な物と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁733項


 比丘のみなさん。みなさんにシヴァ(冷たい物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。冷たい物はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は冷たい物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁734項


 比丘のみなさん。みなさんにケーマ(安穏な物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。安穏な物はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は安穏な物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁735項

 比丘のみなさん。みなさんタンハッカヤ(欲望の終わり。愛尽)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。欲望の終わりはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は欲望の終りと呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁736項


 比丘のみなさん。みなさんにアッチャリア(不可思議な物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。不可思議な物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は不可思議な物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻451頁737項


 比丘のみなさん。みなさんにアッブタ(存在しない物。未曾有)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。未曾有とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は未曾有と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁738項


 比丘のみなさん。みなさんにアニティカ(危険のない物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。危険のない物はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は危険のない物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁739項


 比丘のみなさん。みなさんにアニ-ティカダンマ(危険のないダンマ。無災)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。無災とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は無災と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁740項


 比丘のみなさん。みなさんにアビャーパッチャナ(動物を苛めない物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。動物を苛めない物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は動物を苛めないものと呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁742項


 比丘のみなさん。みなさんにヴィラーガ(欲情の弛緩。離欲)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。離欲とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は離欲と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁743項


 比丘のみなさん。みなさんにスッダ(清浄な物)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。清浄な物とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は清浄な物と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁744項


 比丘のみなさん。みなさんにムッタ(解脱)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。解脱とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りは何でも、比丘のみなさん、それを私は解脱と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁745項


 比丘のみなさん。みなさんにアナーラヤ(未練がないこと。無執着)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。無執着はどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は無執着と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁746項


 比丘のみなさん。みなさんにディーパ(島)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。島とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は島と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁757項


 比丘のみなさん。みなさんにレナ(洞穴)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。洞穴とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は洞穴と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻452頁748項


 比丘のみなさん。みなさんにターナ(救護所)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。救護所とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は救護所と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻453頁749項


 比丘のみなさん。みなさんにサラナ(拠り所。帰依)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。拠り所とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は拠り所と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻453頁750項


 比丘のみなさん。みなさんにパラーヤナ(終り)の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。比丘のみなさん。終りとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。どんな貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終りも、比丘のみなさん、それを私は終りと呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻453頁751項




涅槃の同義語 

 「他の経の涅槃という言葉のほとんどは、アディヴァチャナである、様々な言葉で説かれた学ぶべき、実践すべき話です。

 アサンカタ(無為)=作る縁がないダンマ。あるいは縁が作れないダンマ。

 アンタ(終極)=何にも傾かないダンマ。あるいは何かが傾けられないダンマ。

 アナーサヴァ(無漏)=憂鬱な物である漏がまったくがないこと。

 サッチャ(本物)=唯一の真実。二番目の物はない。

 パーラ(彼岸)=煩悩と苦は追って行けない向こう岸。

 ニプナ=学ぶため、実践するためのこれ以上の物はない上品な物。

 スドゥッダサ=漏が終わっていない人には最高に見えにくい物。

 アジャッジャラ(不老)=古くならないこと。

 ドゥヴァ(恒常)=永遠不変で変わらないこと。

 アパロキナ(目標)=動物が到達しようと狙う物。

 アニダッサナ(不可視)=物理的、あるいは目で見える表出がない。他人は見られない物。

 二ッパパンチャ(無障礙)=煩悩がないので、妨害して遅らせる物がないこと。

 サンタ(静寂)=作ること、突き刺すこと、炙ることが静まった状態。

 アマタ(不死)=原因と縁の威力下にないので生まれることがない。

 パニータ(精緻)=形であること、名であることから脱したので、緻密で精緻なこと。

 シヴァ(冷静)=煩悩の火、苦の火がない静けさ。

 タンハッカヤ(欲尽)=欲望の終わり、あるいは欲望が終わった状態。

 アッチャリヤ(不可思議)=これ以上に不思議な物はない。

 アッブタ(未曽有有)=今まで話されたことがない物として話されるべき奇妙な物。

 アニーティカ(無災)=不吉な物がないこと。

 アニーティカダンマ=当然不吉な物がない正常な状態。

 アバヤーパチャナ=状況として苛めがないこと。

 ヴィラーガ(離欲)=何かに染まることがなく、緩むだけ。

 スダ(清浄)=憂鬱の基盤がないので清浄で純潔。

 ムッタ(解脱)=取による執着から脱した解脱。

 アナーラヤ(無執着)=煩悩と苦の住む場所ではない。

 ディーパ(島)=闇つまり無明に落ちている動物の拠り所である島。

 レナ(洞窟)=危険を避ける動物が危険を避けるために隠れる場所のよう。

 ターナ(救護所)=敵に抵抗する場所を求める動物が、抵抗する場所のようなもの。

 サラナ(拠り所)=危険を感じて拠り所を求める心が駆けて行く場所。

 パラーヤナ(終り)=輪廻を回っている動物の前にある目標。

 この種の代名詞をパーリ(ブッダの言葉である経)で「アディヴァチャナ」と呼ばれています。ここでは涅槃のアディヴァチャナです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441,450頁674、720項

 


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