ブッダヴァチャナによる四聖諦


第三部 滅諦

苦の完全な消滅である素晴らしい真実





     誘い懇願する言葉


 比丘のみなさん。みなさんがするべきヨーガカンマは、

 「これが苦、これが苦を生じさせる原因、

 これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るためです。


 涅槃はもう説明しました。

 涅槃への道もみなさんに説明しました。

 可愛がる教祖が、可愛がることの利益を求めて、

 弟子のみなさんにするべきことは何でも、

 みなさんにしました。


 ほら、木の下、ほら、空き家。

 みなさん煩悩を燃やす努力をなさい。

 油断をしてはいけません。

 後で苦しむ人になってはいけません。

 これが、私がみなさんに口うるさく教えることです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ サラーヤタナヴァッガ







滅諦の解説

 比丘のみなさん。素晴らしい真実、つまり苦の消滅はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。欲望が薄れて消滅すること、欲望の放棄、欲望の返却、欲望からの脱出、そして、その後欲望の住む場所がないことを、私は、苦が残らず消滅することである素晴らしい真実と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻534頁1681項





滅諦の説明


解説九 欲望の消滅(29話)




欲望を捨てる場所・消滅する場所

 比丘のみなさん。欲望(タンハー)を捨てる時は当然どこで捨て、(欲望が)消滅する時は当然どこで消滅するでしょうか。

 比丘のみなさん。世界の愛らしい喜ばしい状態があるものは何でも、その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然それで消滅します。

 比丘のみなさん。世界の愛や喜びの状態がある物は何でしょうか。

 比丘のみなさん。目には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、耳には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、鼻には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、舌には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、体には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。すべての形には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、すべての声(音)には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、すべての臭いには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、すべての味には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、すべての接触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、すべての想念には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。

 欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。目の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、耳の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、鼻の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、舌の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、体の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心の識には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。目の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、耳の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、鼻の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、舌の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、体の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。目の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、耳の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、鼻の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、舌の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、体の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心の触から生じる受には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。

 欲望を捨てる時は、当然そこで捨て、消滅する時は、当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。形の認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、声の認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、臭いの認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、味の認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、接触の認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、想念の認識には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。形について考えることには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、声について考えることには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、匂いについて考えることには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、味について考えることには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、体の接触について考えることには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心の触には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。

 欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。形の欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、声の欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、匂いの欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、味の欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、接触の欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があり、心の欲望には世界の愛らしい喜ばしい状態があります。その欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。形について熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、声について熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、臭いについて熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、味について熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、接触について熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があり、考えについて熟考することには世界の愛らしい喜ばしい状態があります。

 欲望を捨てる時は当然そこで捨て、消滅する時は当然そこで消滅します。

 長部マハヴァッガ 10巻346頁298項




滅苦は喜びが消滅することから生じる

 プンナさん。目で見る形も、耳で聞く声も、鼻で嗅ぐ臭いも、舌で味わう味も、体で感じる触も、心で明らかに知る考えも、望ましい物、愛らしい物、満足できる物であり、目や心を魅了する物であり、愛欲の住処であり、欲情の基盤である物があります。比丘が当然形などがある感情に陶酔せず、褒めちぎって惑溺しなければ、当然ナンディ(喜び)は消滅します。

 プンナさん。私は「苦の消滅は、喜びの消滅によって生じる」と言います。

中部ウパリバンナーサ 14巻482頁756項




滅苦の鎖

 比丘のみなさん。無明が薄くなって消滅すれば、それによって行が消滅し、行の消滅によって識が消滅し、識の消滅によって形が消滅し、形の消滅によって六処が消滅し、六処の消滅によって触が消滅がし、触の消滅によって受が消滅し、受の消滅によって欲望が消滅し、

欲望の消滅によって取が消滅し、取の消滅によって有が消滅し、有の消滅によって生が消滅し、生の消滅によって老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが当然消滅します。すべての苦の山の消滅は、このようにあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻2頁3項




四界を喜ばないことで苦から脱す

 比丘のみなさん。土のダートゥ(要素。土界)と水のダートゥ(水界)と、火のダートゥ(火界)と風のダートゥ(風界)を喜ばない人は、当然その人は苦である物を喜ばないと言われます。

 苦である物を喜ばない人は誰でも、その人を私は「苦から解脱した人」と呼びます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻208頁413項




「消滅」という言葉の意味

 「猊下。猊下は『消滅』『消滅』とおっしゃいますが、消滅と言われるているのは、すべてのダンマのどれの消滅を意味しているのですか」。

 アーナンダ。形も受も想も行も識も不変ではなく、互いに依存し合う縁によって作られたものなので、終りがあるのは当たり前、衰退があるのも当たり前、薄れるのも当たり前、消滅するのも当たり前です。私が「消滅」と言うのは、このように形などの蘊の消滅を意味します。

 アーナンダ。私が「消滅」と言うのは、すべてのダンマの消滅を意味します。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻30頁48項
註:ブッダが五蘊の消滅と言われるのは、直接苦の消滅を意味していると、学習者は観察しなければなりません。五取蘊は苦であり、そして五取蘊が消滅すれば苦の様相である生・老・病・死も消滅するからです。




形蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。土のダートゥ(土の要素。地界)と、水のダートゥ(水界)と、火のダートゥ(火界)と、風のダートゥ(風界)と呼ばれる物の消滅、鎮静、維持できないことは、苦の消滅であり、それはすべての突き刺す物が静まることであり、老死が存在できないことです。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻209頁415項
   カンダヴァーラヴァッガ 17巻286頁495項




受蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。目の接触から生じる受、耳の接触から生じる受、鼻の接触から生じる受、舌の接触から生じる受、体の接触から生じる受、心の触から生じる受の消滅、鎮静、維持できないことは苦の消滅であり、すべての突き刺す物の鎮静であり、そして老死が存在できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁488項




想蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。形の想、声の想、臭いの想、味の想、接触の想、考えの想のどれも、その想の消滅、鎮静、維持できないことは苦の消滅であり、すべての突き刺す物の鎮静であり、そして老死が存在できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁490項




行蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。形の意思、声の意思、臭いの意思、味の意思、接触の意思、考えの意思のどれも、その意思の消滅、鎮静、維持できないことは苦の消滅であり、すべての突き刺す物の鎮静であり、そして老死が存在できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁492項




識蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。目の識、耳の識、鼻の識、舌の識、体の識、心の識の消滅のどれも、その識の鎮静、維持できないことは苦の消滅であり、すべての突き刺す物の鎮静であり、そして老死が存在できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁498項




五蘊の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。形・受・想・行・識の消滅、鎮静、維持できないことは、それは苦の消滅であり、すべての普通に突き刺す物の鎮静であり、そして老死が存在できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁498項




欲望の消滅は重荷を下ろすこと

 比丘のみなさん。欲望の放棄、欲望の返却、欲望からの脱出、その後欲望の住む場所が無いことによる欲望の消滅は、比丘のみなさん。私はそれを「重荷を下ろすことができた」と言います。

 (世尊はこのブッダヴァチャナを言われた後、続いて次の詩を詠まれました)。


 五蘊は重荷

 重荷を背負って行くのは、人

 重荷を背負い提げることは世界の苦

 重荷を下ろせることは幸福


 聖人はすでに重荷を下ろし

 他の重荷も掴まないから

 欲望を根こそぎ(無明も一緒に)引き抜いた人

 欲しい物が無くなり、残らず消滅した人

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻32頁52項




煩悩・欲望を捨てることは、五蘊を捨てること

 比丘のみなさん。形・受・想・行・識にあるどんな満足(チャンダ)も貪欲(ラーガ)も、喜び(ナンディ)も欲望も、みなさん、その煩悩を捨ててしまいなさい。

 そうすれば形・受・想・行・識はみなさんが捨てることができた物であり、根を絶ち、先端が腐ったヤシのようにし、成長できないように、生き続けられない物にした物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻236頁375項


 ラーダさん。満足でも貪欲でも、喜びでも欲望でも、ウパーヤ(有の原因である煩悩)でも、そして取でも、心に住み、覆い重なって眠っている形・受・想・行・識にある物はどれも、みなさん、その煩悩を捨ててしまいなさい。

 そうすれば形・受・想・行・識は、みなさんが捨てることができた物であり、根を絶たれ、先端が腐ったヤシのようにされ、生き続けられない物、芽を出せなくした物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻237頁376項




何かの欲貪を捨てることは、その物を捨てること

 比丘のみなさん。形・受・想・行・識を最高に知らず、知り尽さず、欲情が緩まず、捨てて無くしてしまわなければ、苦の終わりにふさわしくありません。

 比丘のみなさん。形・受・想・行・識を最高に知り、知り尽し、欲情が緩み、捨てて無くしてしまえば、苦の終わりにふさわしいです。

 比丘のみなさん。みなさん、形・受・想・行・識に関わる喜貪を、このような行動で捨ててしまいなさい。そうすればその形・受・想・行・識はあなたが捨てることができた物であり、根を断って芯を取ってしまったヤシのようにし、存在できなくし、二度と芽が出ないようにした物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻33頁56項

 (これは、私たちが捨てるべき物を、十分な意味で捨てるために非常に役に立ちます。つまりその物質を捨てるのではなく、その物に満足して欲しがることを捨てれば、それを厳格に捨てたことと同じです。そして直接その物質を捨てることより実践できます)。




欲望の終わりは涅槃

 「猊下。『生き物』『生き物』と言うのは、どれほどの理由で生き物と言うのでしょうか」。

 ラーダさん。形に、受に、想に、すべての行に、識に、何らかの満足、何らかの貪り、何らかの欲望があり、それに夢中になって関わるから生き物(動物)と言います。

 ラーダさん。小さな土の家で遊ぶ男児や女児は、土で作った小さな家に貪りがあり、喜びがあり、愛があり、渇きがあり、焦燥と欲望があれば、その間中その幼児は土で作った小さな家を当然愛惜し、当然遊びたがり、土で作った小さな家を当然所有したがり、土で作った小さな家を「私の物」と執着します。

 ラーダさん。しかし土で作った小さな家に幼児たちの貪りがなく、喜びがなく、愛がなく、渇きがなく、焦燥がなく欲望がなければ、その時子供たちは土で作った小さな家を、たくさんの手と足でバラバラにし、粉々にし、平らにし、遊びを終わらせます。

 ラーダさん。同じようにみなさんも形・受・想・行・識を粉々にし、正しい方法で追放し、正しい方法で木端微塵にし、正しい方法で遊びを終わりになさい。欲望の終りのために実践なさい。ラーダさん。欲望の終りは、涅槃だからです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻232頁367項




梵行の終わりは涅槃

 「猊下。『悪魔』『悪魔』と言うのは、どれだけの理由で悪魔と呼ぶのですか」。

 ラーダさん。形・受・想・行・識があれば、必ず悪魔がい、死なせる人がい、あるいは死ぬ人がいます。ラーダさん。だからこれはみなさん、形・受・想・行・識を悪魔と見、死なせる人と見、死ぬ人と見、病気と見、腫れ物の頭と見、弓矢と見、苦と見、生じた苦と見なさい。当然形・受・想・行・識をこのように見る人たちは誰でも、「当然正しく見る」と言われます。

 「猊下。サンマーダッサナ(正しい見方)を目指す利益は何ですか」。

 ラーダさん。正しい見方を目指す利益はニッピダー(倦怠)です。

 「猊下。倦怠を目指す利益は何ですか」。

 ラーダさん。倦怠を目指す利益はヴィラーガ(薄れること)です。

 「猊下。薄れることを目指す利益は何ですか」。

 ラーダさん。薄れることを目指す利益はヴィムッティ(解脱)です。

 「猊下。解脱を目指す利益は何ですか」。

 ラーダさん。解脱を目指す利益はニッバーナ(涅槃)です。

 「猊下。涅槃を目指す利益は何ですか」。

 ラーダさん。あなたの質問は問題を通り越してしまって、問題の終わりが掴めません。ラーダさん。みんなで実践している梵行というもので、当然涅槃に達します。涅槃で終わりです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻231頁366項




六処を楽しまないことは苦からの解脱

 比丘のみなさん。一方、当然目を楽しまず、耳を楽しまず、鼻を楽しまず、舌を楽しまず、体を楽しまず、心を楽しまない人は、その人は当然苦である物を楽しみません。苦である物を楽しまない人は誰でも、私はその人を「当然苦から解脱する」と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻16頁19項

 比丘のみなさん。一方当然形を喜ばず、声を喜ばず、臭いを喜ばず、味を喜ばず、接触を喜ばず、考えを喜ばない人は、その人は当然苦である物を喜ばないと言われます。苦である物を喜ばない人は誰でも、私はその人を、当然苦から解脱すると言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻16頁20項




苦からの解脱は五蘊に陶酔しないから

 比丘のみなさん。形に陶酔しない人は誰でも、苦である物に陶酔しないのと同じです。私は「苦である物に陶酔しない人は当然苦から解脱する」と言います。

 比丘のみなさん。受に陶酔しない人は誰でも、苦である物に陶酔しないのと同じです。私は「苦である物に陶酔しない人は当然苦から解脱する」と言います。

 比丘のみなさん。想に陶酔しない人は誰でも、苦である物に陶酔しないのと同じです。私は「苦である物に陶酔しない人は当然苦から解脱する」と言います。

 比丘のみなさん。行に陶酔しない人は誰でも、苦である物に陶酔しないのと同じです。私は「苦である物に陶酔しない人は当然苦から解脱する」と言います。

 比丘のみなさん。識に陶酔しない人は誰でも、苦である物に陶酔しないのと同じです。私は「苦である物に陶酔しない人は当然苦から解脱する」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁65項




六処の消滅は苦の消滅

 比丘のみなさん。目・耳・鼻・舌・体・心のいずれかの消滅、静まり、そして存在できないこと、それが苦の消滅です。それがすべての普通に突き刺す物の静まり、老死が維持できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻283頁480項
サラーヤタナヴァッガ 18巻17頁21項

 比丘のみなさん。形・音・臭い・味・触・考えのいずれかの消滅、静まり、そして存在できないこと、それが苦の消滅です。それはすべての突き刺す物の静まりで、老死が維持できないことです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻284頁482項
サラーヤタナヴァッガ 18巻17頁23項




過去の五欲の欲望を消滅させる段階に至る知識

 マーガンディヤさん。あなたはこれをどう思いますか。

 この世界のある人は、望ましい、欲しくなる、愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目を通じた形に心行くまで楽しまされたことがあります。また別の時にその人は、すべての形の発生と消滅と旨味と低劣な害と、そして出る方便を真実のままに知り、形の欲望を捨ててしまい、形の焦燥を減らして渇きを無くして内面が静まった人になります。マーガンディヤさん。あなたはこの人について、何か言うことがありますか。

 「ありません」。

 (次に声・臭・味・触・考えについての問答が、同じように繰り返されます)。

中部マッジマバンナーサ 13巻273頁280項




カーマヨーガから脱す

 比丘のみなさん。動物を有に繋ぐ煩悩からの脱出は四種類あります。四種類はどれでしょうか。

 カーマヨーガ(愛欲で繋がれること。欲軛)から脱すこと、

 バヴァヨーガ(有で繋がれること。有軛)から脱すこと、

 ディッティヨーガ(見解で繋がれること。見軛)から脱すこと、

 アヴィッチャーヨーガ(無明で繋がれること。無明軛)から脱すことです。

 比丘のみなさん。カーマヨーガから脱すとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界のある人は、当然すべての愛欲の発生も、すべての愛欲の消滅も、すべての愛欲の旨味も、すべての愛欲の害も、すべての愛欲から出る方便も真実のままに知ります。

 その人がこのように真実のままに知れば、愛欲を欲しがることも、愛欲の陶酔も、愛欲の魅惑も、愛欲に平伏すことも、愛欲の渇きも、愛欲の焦燥も、愛欲への惑溺も、そしてすべての愛欲の欲望も、当然その人の中に眠っていません。比丘のみなさん。私はこれを、カーマヨーガからの脱落と言います。

増支部チャトゥカニバータ 21巻14頁10項




バヴァヨーガから脱す

 比丘のみなさん。バヴァヨーガ(有に繋がれること)から脱すとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界のある人は当然すべての有の発生も、すべての有の消滅も、すべての有の旨味も、すべての有の害も、すべての有から出る方便も真実のままに明らかに知ります。

 その人がそのように真実のままに知れば、有を欲しがることも、有に陶酔することも、有の魅力も、有にひれ伏すことも、有の渇きも、有ゆえの焦燥も、有への惑溺も、そしてすべての有の欲望も、当然その人の内部に眠っていません。私はこれを、バヴァヨーガから脱したと言います。

 増支部チャトゥカニバータ 21巻14頁10項




ディッティヨーガから脱す

 比丘のみなさん。ディッティヨーガ(見解で繋がれる)から脱すとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界のある人は、当然すべての見の発生も、すべての見の消滅も、すべての見の旨味も、すべての見の害も、すべての見から出る方便も真実のままに明らかに知ります。

 彼がそのように真実のままに知れば、見を欲しがることも、見に陶酔することも、見の魅力も、見に平伏すことも、見の渇きも、見ゆえの焦燥も、見への惑溺も、そしてすべての見の欲望も、当然その人の内部に眠っていません。私はこれを、ディッティヨーガから脱したと言います。

 増支部チャトゥカニバータ 21巻15頁10項




アヴィッチャーヨーガから脱す

 比丘のみなさん。アヴィッチャーヨーガ(無明で繋がれること)から脱すとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この世界のある人は当然六処の発生も、六処の消滅も、六処の旨味も、六処の害も、六処から出る方便も真実のままに明らかに知ります。その人がそのように真実のままに知れば、無明と六処の触の無知のどれも、当然その人の内部に眠っていません。これを私は、アヴィッチャーヨーガから脱したと言います。

 比丘のみなさん。以上の理由で、①カーマヨーガ(欲軛)がない、②バヴァヨーガ(有軛)がない、③ディッティヨーガ(見軛)がない、④アヴィッチャーヨーガ(無明軛)がないとまとめます。

 比丘のみなさん。悪で下賤で憂鬱な新しい有を作る原因であり、不安定であり、苦である結果があり、前方に生老死がある動物を有に繋ぐ煩悩がない人を、私は「通常ヨーガ(つなぐ物)がない安全な人」と言います。比丘のみなさん。これらが、動物を有に繋ぐ物である煩悩から脱すことです。


経末のガーター(詩)

 すべての動物にはカーマヨーガがあり

 バヴァヨーガがあり

 ディッティヨーガがあり

 そして無明によって、後で当たり前に生と死に行かされ

 当然輪廻に行く


 カーマヨーガとバヴァヨーガを知り尽した動物は

 ディッティヨーガを抜き取ることができ

 無明と決別することができる

 それらの動物は、動物を有に繋ぐすべての煩悩がなく

 動物を有に繋ぐヨーガキレーサを越えたムニー

 増支部チャトゥカニバータ 21巻14頁10項




結を捨てるのを妨害するもの

 比丘のみなさん。まだ群れることに満足し、群れることを喜び、群れることに満足があり、まだ集団に交わることに満足し、集団と交わることを喜び、集団と交わることに満足がある比丘は誰でも、その比丘が一人で住むこと、静寂を楽しむことは、あり得ないこと、なし得ないことです。

 一人で住んで静寂を楽しむことができずに、心のニミッタを掴むのはあり得ないこと、なし得ないことです。心のニミッタを掴まないで正しい見解を完璧にするのは、あり得ないこと、なし得ないことです。正しい見解が完璧でなくて正しいサマーディを完璧にするのは、あり得ないこと、なし得ないことです。

 正しいサマーディを完璧にしないですべてのサンニョージャナ(結)を捨てるのは、あり得ないこと、なし得ないことです。すべてのサンニョージャナを捨てないで涅槃を明らかにするのは、あり得ないこと、なし得ないことです。

増支部チャトゥカニバータ 22巻471頁339項

(反対の意味)

 比丘のみなさん。その比丘が群れることに満足せず、群れることを喜ばず、群れることに満足がなく、集団に満足せず、集団を喜ばず、集団に満足がなければ、その比丘が一人で暮らして静寂を楽しむことは、あり得ること、なし得ることです。

 一人で静寂を楽しむ人が、心のニミッタを掴むことは、あり得ること、なし得ることです。心のニミッタを掴めれば、正しい見解を完璧にすることはあり得ること、なし得ることです。正しい見解を完璧にできれば、すべてのサンニョージャナ(結)を捨てることは、あり得ること、なし得ることです。

 すべてのサンニョージャナを捨てることができれば、涅槃を明らかにするのは、あり得ること、なし得ることです。

増支部チャトゥカニバータ 22巻472頁339項




梵行を行うのは、随眠を厳格に断ち、捨てるため

 比丘のみなさん。七つの随眠(アヌサヤ)はこれらです。七つはどれでしょうか。七つとは、カーマラーガ(欲貪)・パティガ(瞋恚)・ディッティ(邪見)・ヴィチキッチャー(疑)・マーナ(慢)・バヴァラーガ(有貪)・アヴィッチャー(無明)です。比丘のみなさん。これが七随眠です。

 比丘のみなさん。みなさんがしている梵行は、七つの随眠を捨てて無くすためです。七つはどれでしょうか。

 比丘のみなさん。梵行をするのは欲貪随眠を捨てて無くすため、瞋恚随眠を捨てて無くすため、見随眠を捨てて無くすため、疑随眠を捨てて無くすため、慢随眠を捨てて無くすため、有貪随眠を捨てて無くすため、無明随眠を捨てて無くすためです。比丘のみなさん。梵行をするのは、この七つの随眠を捨てて無くすためです。

 比丘のみなさん。欲貪でも、瞋恚でも、邪見でも、疑でも、慢でも、有でも、無明でも、比丘が捨てられた物になった時、根を断ち、先端が腐ったヤシのようにし、生きられないように、二度と生まれないようにした時、比丘のみなさん。その時その比丘を私は「欲望を断つことができた。サンニョージャナ(結)を壊すことができた。マーナ(慢)の顔を正しく知ることで苦を終わらせることができた」と言います。

 増支部サッタカニバータ 23巻8頁11項

 (この経では、梵行をする目的は七随眠を捨てるためと説き、他の経(23巻7頁8項)では、七サンニョージャナを捨てるためと説かれています。七結の項目を参照してください)。




世界を見る時は、水の泡や陰りと見る

 人は(世界を)水の泡のようと見なければなりません。日の陰りのようと見なければなりません。そうすれば閻魔大王は、世界を熟慮して見る人が見えません。

小部ダンマパダ 25巻38頁23項




死に見られないように世界を見る

 「神仙である猊下。どのように世界を見れば、私は死に見つからないでしょうか」。

 モッガラーチャさん。サティのある人になり、自分という見方を抜いてしまい、熟慮して世界を空っぽの物と見なさい。そうすればこの実践で必ず死を超えることができます。死には、このように世界を熟慮して見るあなたは見えません。

小部スッタニバータ 25巻549頁439項
チュラニダデーサ 30巻245頁499項




滅苦は神通力や、漏に無関係の涅槃に関わりがない

 (スシマという異教の出家が、自分の教団をブッダのサンガのように供物と信仰で繁栄させるために、美徳に到達する方便を求めて仏教の出家になりました。出家すると、智慧解脱の比丘には六神通があると考えて訪問し、この比丘たちは六神通に関わりないと知り、

そして聖人であることと六神通は関係がないと知ると、ブッダに拝謁して、彼が考えているように漏の終わりと六神通は必ず関わりがあるかどうか、六神通について質問攻めにしました。

 猊下は、五蘊は無常であり苦であり無我なので、「自分の物」「自分」「自分自身」と見るべきでないという話をされ、ダンマディティニャーナとニッバーナニャーナを生じさせる方法を用いられると、初めにダンマディティニャーナになり、その結果心が倦怠し、欲情が緩み、解脱し、そして解脱したと分かりました。

 それが良く知られている「無我相経」のニッバーナニャーナ(涅槃智)です。あるいはどこででも読むことができます。その結果スシマという出家は、滅苦あるいは漏の終わりはあり得ると明らかに理解し、この真実が明らかに見えたので、次に話されました)。

 スシマさん。あなたは、生が縁で老死があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは有が縁で生があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは取が縁で生があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは欲望が縁で取があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは受が縁で欲望があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは触が縁で受があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは六処が縁で触があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは名形が縁で六処があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あなたは識が縁で名形があると見えますか。

 「見えます」。

 スシマさん。あたなは無明が縁で行があると見えますか。

 「見えます、猊下」。

 (次に滅の側の縁起が見えるように、上記の言葉と同じ十一の形で導き、それから言われました)。

 スシマさん。このように知り、このように見えた時、あなたはこれ以外に、一人を何人もの姿にし、何人もの人を一人にし、(註:ここでは神通力の状態についての詳細は省略します)そして体の威力を見せて梵天界にする、いろんな神通力が必要ですか。

 「いいえ、必要ありません」。

 スシマさん。このように知り、このように見えた時、あなたは更に天耳痛、遠くでも近くでも、天耳等々が必要ですか。

 「いいえ、必要ありません」。

 スシマさん。このように知り、このように見えた時、あなたは更に他心神通、つまり他の動物の心を、まだ解脱していない心を解脱していないと知る(等の)力が必要ですか。

 「いいえ、必要ありません」。

 スシマさん。このように知り、このように見える時、あなたはまだ宿命通、つまり過去の生で依存したいろんな蘊を、様相と説明で思い出す力が必要ですか。

 「いいえ、必要ありません」。

 スシマさん。このように知り、このように見えた時、あなたはまだ他に天眼通、つまり、カンマに至った群衆を明らかに知る、一般の人間を越えた純潔清浄な天の目が必要ですか。

 「いいえ、必要ありません」。

 スシマさん。このように知り、このように見える時、あなたはまだ他に無形解脱、つまり形を越えることで無形になる、静まった涅槃である無形解脱が必要ですか。あなたは名形による解脱が必要ですか。

 「いいえ、それは必要ありません」。

 スシマさん。今回、あなたのあの言葉と、(今あなたが言った)これらすべての神通に到達しなくても良いというのを、この場合、私は何と言いましょう。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻153頁294項

 

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