解説八 苦集であるすべての煩悩






生老死を捨てる前に貪瞋痴を捨てる

 比丘のみなさん。人は三つのダンマ、貪り・怒り・愚かさを捨てなければ、三つのダンマ、生老死を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人は三つのダンマ、有身見(自分の体という見解)、疑(疑うべきでない物を疑うこと)、戒禁取(理由のない戒と勤めを撫で回すこと)を捨てなければ、三つのダンマ、貪り・瞋り・痴愚を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、心の中を絶妙にしない(道理で考えない)こと、邪見と関わること、委縮した心を捨てなければ、三つのダンマ、有身見・疑・戒禁取を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、サティを忘れること、自覚がないこと、心の動揺を捨てなければ、三つのダンマ、心の中を絶妙にしないこと、邪見と関わること、委縮した心を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、聖人を見たがらないこと、聖人のダンマを聞きたがらないこと、寄り道が好きな心を捨てなければ、三つのダンマ、サティを忘れること、自覚が無いこと、心の動揺を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、散漫、集中しないこと、破戒を捨てなければ、三つのダンマ、聖人を見たがらないこと、聖人のダンマを聞きたがらないこと、寄り道が好きな心を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、信仰がないこと、寛仁でないこと、怠慢を捨てなければ、三つのダンマ、散漫、集中しないこと、破戒を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、援けるべき人やダンマを援けないこと、人の言うことを聞かない性質、悪友がいることを捨てなければ、三つのダンマ、信仰がないこと、寛仁でないこと、怠慢を捨てることはできません。

 比丘のみなさん。人が三つのダンマ、恥じるべき物を恥じない、恐れるべき物を恐れない、不注意を捨てなければ、三つのダンマ、援けるべき人やダンマを援けないこと、人の言うことを聞かない性質、悪友がいることを捨てることはできません。

 比丘のみなさん。その人に恥ずべき物を恥じないことがあり、恐れるべき物を恐れないことがあり、不注意がある不注意な人なら、軽侮すること、人の言うことを聞かない性質、悪友がいることを捨てることはできません。

 その人に悪友がいれば、信仰がないこと、寛仁でないこと、怠慢を捨てることはできません。

 その人に怠慢があれば、散漫、集中しないこと、破戒を捨てることはできません。

 その人に破戒があれば、聖人を見たがらないこと、聖人のダンマを聞きたがらないこと、寄り道する心を捨てることはできません。

 その人に寄り道する心があれば、サティを忘れること、自覚が無いこと、心の揺れを捨てることができません。

 その人に心の揺れがあれば、心の中を絶妙にすること、邪見と関わること、委縮した心を捨てることはできません。

 その人に委縮した心があれば、有身見・疑・戒禁取を捨てることができません。

 その人に疑があれば、貪り・怒り・愚かさを捨てることはできません。

 その人が貪りと怒りと愚かさを捨てなければ、生・老・死を捨てることはできません。

 (続いて反対の意味の生老死を捨てる側について話されています。読者は自分で比較して見ることができるので、割愛します)。

増支部ダサカニバータ 24巻154頁76項




不善根に関わるいろんな観点

 比丘のみなさん。この三つの悪の根源あります。三種類とは何でしょうか。三種類とは、貪りは不善根(悪の原因)であり、怒りは不善根であり、愚かさは不善根です。

 比丘のみなさん。貪りは悪で、人が貪欲なら、その人の体と言葉と心のどんなカンマ(業)も、そのカンマは悪です。人が貪欲なら貪欲に支配され、心が貪りに包囲され、あるべきでないことで他人を苦しめます。

 自分は相手より力があると慢心して殺すこともあり、監禁することもあり、衰退させ、誹謗し、追放することもあります。このようなカンマも悪です。貪りから生じる様々な低劣な悪は、原因である貪りがあり、集である貪りがあり、縁である貪りがあります。これらは当然このようにその人に生じます。

 (瞋と痴の場合も、同じように話されています)。


 比丘のみなさん。この種の人は

 アカーラヴァーディー(時を弁えないで話す人。不時語者)、

 アブータヴァーディー(本当でないことを話す人。不実語者)、

 アナッタヴァーディー(利益のないことを話す人。無益語者)、

 アダンマヴァーディー(公正でないことを言う人。不法語者)、

 アヴィナヤヴァーディー(規律のないことを言う人。不律語者)などと呼ばれるべきです。

 なぜそのように呼ばれるべきでしょうか。それは、自分は相手より力があると見なすことなどで殺すこともあり、監禁することもあり、衰退させ、誹謗し、追放し、他人にあるべきでない苦を与えるからです。

 そして事実であることで問責されると言い逃れをして罪を認めず、事実でないことで問責されると、それが事実でないことをハッキリさせる努力をしません。だからこの種の人は「不時語者、不実語者、無益語者、不法語者、不律語者」などと呼ばれるべきです。

 比丘のみなさん。この種の人は貪りから生じた下劣な悪に支配され、貪りから生じる下賤な悪に心が包囲されると、生きているうちに当然苦になり、困難があり、困窮し、焦燥し、体が壊れて死んだ後は、当然悪趣だけが期待できます。

 (瞋と痴の場合も、すべて同じように話されています)。


 比丘のみなさん。サーラのような大木や灌木が蔦にびっしり覆われると、当然破滅に至って消滅するのと同じです。比丘のみなさん。これが三悪です。

増支部ティカニカーヤ 20巻258頁509項
 (三部に、ブッダが反対の意味で話されている文があります。学習者は「不善根を断つことで生きているうちに涅槃する」という題で探すことができます)。




不善根について知るべきこと

 比丘のみなさん。他の教義の修行者たちに「先輩。この三つのダンマ、つまり貪り・怒り・愚かさの違いは何ですか。何がそれらの違いですか」と訊かれたら、比丘のみなさん。みなさんは彼らに「先輩。貪りの害は少なく緩むのが遅く、怒りは害が多く緩むのが早く、愚かさは害か多く緩むのが遅いです」と答えるべきです。

 彼らに「先輩。何がまだ生じていない貪りを生じさせ、あるいは生じた貪りを豊かに育てる原因で、何が縁ですか」と訊かれたら、答えは「美しいと感じさせる物です。彼が心の中を絶妙にしないで美しいと感じれば、まだ生じていない貪りが生じ、生じている貪りも最高に豊かに成長します。先輩。これが原因でこれが縁です」と答えるべきです。

 彼らに「先輩。まだ生じていない怒りが生じ、あるいは生じた怒りが一際豊かに育つ原因は何で、縁は何ですか」と訊かれたら、答えは「衝撃と感じさせる物です。その人が心の中を絶妙にしないで衝撃と感じると、まだ生じていない怒りが生じ、生じている怒りが一際豊かに成長します。先輩。これが原因でこれが縁です」と答えるべきです。

 彼らがまた「先輩。まだ生じていない愚かさが生じさせる、あるいは生じた愚かさが豊かに育つ原因は何で、縁は何ですか」と訊いたら、答えは「心の中を絶妙でなくすること(不如理作意=道理で考えないこと)です。心を絶妙にしなければ、まだ生じていない愚かさが生じ、生じている愚かさは最高に豊かに育ちます。先輩。これが原因であり、縁です」と答えるべきです。

 彼らがまた「先輩。まだ生じていない貪りは生じず、あるいは生じている貪りを捨てる原因は何で、縁は何ですか」と訊いたら、「美しくないと感じさせる物(不浄相)です。心を絶妙にして美しくないと感じれば、まだ生じていない貪りは生じず、生じている貪りも捨てます。先輩。これが原因で、これが縁です」と答えるべきです。

 彼らがまた「先輩。まだ生じていない怒りが生じず、生じている怒りを捨てる原因は何で、縁は何ですか」と訊いたら、「慈悲のある心で解脱すること(慈心解脱)です。心を絶妙にして慈心解脱すれば、まだ生じていない怒りは生じず、生じている怒りを捨てます。先輩。これが原因で、これが縁です」と答えるべきです。

 彼らがまた「先輩。まだ生じていない愚かさが生じず、生じている愚かさを捨てる原因は何で、縁は何ですか」と訊いたら、「心を絶妙にすること(如理作意=理に従って考えること)です。心を絶妙にすれば、まだ生じていない愚かさは生じず、既に生じている愚かさを捨てます。先輩。これが原因で、これが縁です」と答えるべきです。

増支部ティカニカーヤ 20巻256頁508項




貪瞋痴を捨てられないのは結の物に迷うから

 比丘のみなさん。この二つのダンマがあります。二つとは何でしょうか。
 二つとは、すべての結びつける物(サンニョージャニヤダンマ)を美味しい物とだけ見て夢中になることが一つ、そしてすべての結びつける物をうんざりする物と見ることが一つです。

 比丘のみなさん。すべての結びつける物(五欲等々)を美味しい物とだけ見て夢中になる人は、当然貪りを捨てることができず、怒りを捨てることができず、愚かさを捨てることができません。貪りと怒りと愚かさを捨てられないので、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みから脱せません。私は、当然苦から脱せないと言います。

 比丘のみなさん。すべての結びつける物をうんざりする物と見る人は、当然貪りを捨てることができ、当然怒りを捨てることができ、当然愚かさを捨てることができます。貪りと怒りと惑溺を捨てることができれば、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みから脱せます。私は、当然苦から脱せると言います。

 比丘のみなさん。これが二つのダンマです。

増支部ドゥカニバータ 20巻65頁252項




七結

 比丘のみなさん。この七種類のサンニョージャナ(輪廻に結びつける物。結)があります。七種類とは何でしょうか。七種類とは、

 アヌナヤサンニョージャナ(貪欲が原因で生じるサンニョージャナ。貪欲結)、

 パティガサンニョージャナ(思うようにならない怒りであるサンニョージャナ。 瞋恚結)、

 ディッティサンニョージャナ(間違った見方であるサンニョージャナ。 誤謬結)、

 ヴィチキッチャサンニョージャナ(疑念による躊躇いであるサンニョージャナ。疑結)、

 マーナサンニョージャナ(自分という理解であるサンニョージャナ。 慢結)、

 バヴァラーガサンニョージャナ(得たい、なりたいという感覚のサンニョージャナ。 有貪結)、

 アヴィッチャーサンニョージャナ(無明であるサンニョージャナ。無明結)です。

 比丘のみなさん。これが七種類のサンニョージャナです。

 比丘のみなさん。この梵行は、七つのサンニョージャナを断つため、捨てるためにしています。七種類とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。梵行は貪欲結・瞋恚結・誤謬結・疑結・慢結・有貪結・無明結を捨てるため、断つためにしています。比丘のみなさん。実践している梵行は、この七種類を捨てるため、断つためです。

 比丘のみなさん。貪欲結でも、瞋恚結でも、誤謬結でも、疑結でも、慢結でも、有貪結でも、無明結でも、比丘が捨てることができた物になった時はいつでも、根が断たれ、芽が腐った椰子のように維持できなくなり、二度と生まれない物になります。比丘のみなさん。私はその時その比丘を「欲望を断つことができた。サンニョージャナを壊すことができた。マーナ(慢)の顔を正しく知ったので、苦を正しく終りにした」と言います。

増支部サッタカニバータ 23巻7頁8項
 (これに関しては、本書431頁にある「梵行をするのは随眠を捨てるため、断つため」を参照してください)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/3-1.html




七結 二

 比丘のみなさん。この七種類のサンニョージャナ(結)があります。七種類は何でしょうか。七種類は、

 貪欲が原因で生じるサンニョージャナ、

 思うようにならない怒りであるサンニョージャナ、

 間違った見方であるサンニョージャナ、

 躊躇いであるサンニョージャナ、

 自分という理解であるサンニョージャナ、

 嫉妬による疑いであるサンニョージャナ、

 ケチであるサンニョージャナです。

 比丘のみなさん。これらがサンニョージャナの七種類です。

増支部サッダカニバータ 23巻8頁10項




十結

 比丘のみなさん。十のサンニョージャナ(結)があります。十とは何でしょうか。十とは、下五結と上五結です。


下五結とは何でしょうか。

 サッカーヤディティ(体を自分と見ること。有身見)、

 ヴィチキッチャー(疑)、

 シーラッバタパマーダ(間違った信仰による実践。戒禁取)、

 カーマチャンダ(愛欲への執着。欲貪)、

 バヤバータ(恨み、瞋恚)です。これらを下五結と言います。


 上五結とは何でしょうか。

 ルーパラーガ(物質への執着。形貪)、

 アルーパラーガ(抽象的な物への執着。無形貪)、

 マーナ(思い上がり。慢)、

 ウッダッチャ(落ち着きがないこと。掉挙)、

 アヴィッチャー(真実を知らないこと。無明)です。

 これが上五結です。

 比丘のみなさん。これらをサンニョージャナの十項目(十結)と言います。

増支部ダサカニバータ 24巻18頁13項




下五結の状態

 「世尊。今、世尊は下五結の説明をなさるべき時です。すべての比丘が聞いて記憶します」。

 アーナンダ。この場合の聞くことがない凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、その人は有身見に覆われ、有身見に包まれた心があります。

 その人は生じている有身見を振り払う方便を真実のままに明らかに知らないので、その有身見は追い出すことができないくらい威力があります。これが下五結です。

 (疑、戒禁取、欲貪、瞋恚についても、有身見と同じように話されています)。

 アーナンダ。聞くことがある聖なる弟子は、聖人が見え、聖人のダンマに賢く、聖人のダンマの忠告を受け、善人が見え、善人のダンマに賢い人で、善人のダンマの忠告を受けるので、その人は有身見に覆われない心、有身見に包まれない心があります。その聖なる弟子は、当然有身見を振り払う方便を真実のまま明らかに知り、その有身見はその聖なる弟子が随眠と一緒に捨てることができます。

 (疑、戒禁取、欲貪、瞋恚についても、有身見と同じように話されています)。

中部マッジマバンナーサ 13巻156頁155項

 (人が有身見などを捨てることができない結果、抜き出せないほど威力がある自然になるのは、下五結です。詳しくは解説7の「有身見はどのようにあるか」を参照してください)。




三随眠と三受

 比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、(目と形と眼識の)三つの出合いが触です。触が縁で幸福や苦や、幸福でも苦でもないなどの受が生じます。その人が幸福(喜び)の受に触れると当然陶酔し、当然褒めちぎって惑溺するので、当然その人に随眠つまり貪りが眠ります(習性になる)。

 その人が苦の受に触れると当然彼は悲しくなり、当然心が苦しくなり、当然嘆き悲しみ、当然胸を叩いて泣き呆けてしまうので、当然その人に随眠つまり怒りが眠り(習性になり)ます。

 苦でも幸福でもない受に触れると、その受が生じる原因も、その受の消滅も、その受の旨味も、その受の害も、その受から脱す方便も、その人は当然真実のままに知らないので、当然その人に随眠つまり無明が眠り(習性になり)ます。

 比丘のみなさん。その人はまだ幸福の受から生じた貪睡眠を捨てることができず、苦の受から生じた瞋恚随眠を捨てることができず、不苦不幸受から生じた無明随眠を捨てることができないので、無明を捨て、明を生じさせることができなければ、その人がこの生で苦を終わらせることはあり得ません。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)。

中部ウパリバンナーサ 14巻516頁822項




受に関わる随眠

 比丘のみなさん。この三つの受があります。三つとは何でしょうか。三つとはスッカヴェーダナー(幸受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、ドゥッカマスッカヴェーダナー(不苦不幸受)です。
 比丘のみなさん。幸受から生じる貪随眠は捨ててしまうべき物で、苦受から生じる瞋恚随眠は捨ててしまうべき物で、不苦不幸受から生じる無明随眠は捨ててしまうべき物です。

 比丘のみなさん。幸受から生じる貪随眠を比丘が捨てられた時、苦受から生じる瞋恚随眠を比丘が捨てられた時、不苦不幸受から生じる無明随眠を比丘が捨てられた時はいつでも、比丘のみなさん。この比丘を私は「随眠のない人。正しく見ることで欲望を絶ち、サンニョージャナ(結)を壊し、マーナを正しく見て苦を終わらせた人」と言います。


経末のガーター(詩)

 人が幸受を味わう時、その受を明らかに知らなければ

 その受の威力から出る出口が見えない人に、当然貪随眠がある

 人が苦受を味わう時、その受を明らかに知らなければ

 その受の威力から出る出口が見えない人に、当然瞋恚随眠がある

 ブッダが静まったダンマと説かれる不苦不幸受に惑溺する人も

 苦から脱すことはできない


 比丘が煩悩を焼く努力をし、自覚を失わなければ

 すべての受を知り尽した学者になる


 その比丘は受を知り尽すので、現生で漏のない人になり

 体が崩壊して死ぬまで、ダンマを維持する人であり

 受が終わり、(何かという)員数に入らない

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻254頁363項




苦受を味わっている時にも、三つの随眠は生じる

 比丘のみなさん。聞くことがない凡夫も幸受を味わい、苦受を味わい、不苦不幸受を味わい、聞くことがある聖なる弟子も幸受を味わい、苦受を味わい、不苦不幸受を味わいます。比丘のみなさん。それなら聞くことがある人と聞くことかない人の間に、何の違い、どんな目的の違いがあるでしょうか。

 比丘全員が「猊下。猊下のすべてのダンマは、世尊が大元で、世尊が指導者で、世尊が拠り所です。どうぞその言葉の意味を明らかになさってください。すべての比丘は世尊から聞いて記憶します」とこのように申し上げました。

 比丘のみなさん。聞くことがない凡夫が苦受に触れると、当然悲しみ、当然動揺し、当然嘆き悲しみ、胸を叩いて泣き、サティがぼやけ、彼は当然二つの面の、つまり体の受と心の受を味わいます。

 比丘のみなさん。矢で射られた人が二本目の矢を受けると、当然体の受と心の受を味わうように、比丘のみなさん。聞くことがない凡夫も苦受が触れれば当然悲しみ、当然動揺し、当然嘆き悲しみ、胸を叩いて泣く人になり、サティがぼやけます。彼は当然、体の受と心の受の二種類を味わうと言われます。

 その人は苦受が原因の怒りがあるので、苦受から生じた瞋恚随眠が生じ、瞋恚随眠は当然苦受が原因の怒りがある人の心の中で眠ります。その苦受に触れている凡夫は、当然カーマスッカ(愛欲の喜び)に満足します。それは何故でしょうか。

 比丘のみなさん。聞くことがない凡夫は、当然愛欲の喜び以外には、苦受を脱ぎ捨てる方便を明らかに知らないからです。その凡夫が愛欲の喜びに満足していれば、幸受から何らかの貪随眠が生じ、その貪随眠は当然その凡夫の習性になります。

 その凡夫は当然受が生じる原因、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてすべての受から出る方便を明らかに知りません。その凡人がそれらを真実のままに知らなければ、不苦不幸受から何らかの無明随眠が生じ、その煩悩随眠は当然その凡夫の習性になります。

 その凡夫が幸福な受を味わえば当然その受を味わうこと夢中になり、苦の受を味わえばその受を味わうことに夢中になり、不苦不幸受を味わえばその受を味わうことに夢中になります。

 比丘のみなさん。聞くことがないその凡夫を、私は「生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みに夢中なっている人」と言います。
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻257頁369項




漏に関して学ぶべきこと詳細

 比丘のみなさん。私が「漏、漏の原因、漏の違い、漏の報い、漏の滅、漏の滅に至る道は、明らかに知らなければならない」という時、どの漏を指して言っているでしょうか。比丘のみなさん。この三つの漏である、カーマーサヴァ(欲漏)、バヴァーサヴァ(有漏)、アヴィッチャーサヴァ(無明漏)があります。

 比丘のみなさん。漏(アーサヴァ)が生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。無明が漏を生じさせる原因です。

 比丘のみなさん。漏の違いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。地獄へ導く漏もあり、畜生に生まれるよう導く漏もあり、餓鬼の境域に導く漏もあり、人間界に導く漏もあり、天界に導く漏もあります。比丘のみなさん。これを漏の違いと言います。

 比丘のみなさん。漏の報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。無明に至った人は、徳の部分の自我でも、不徳の部分の自我でも、無明から生じる自我(註)を生じさせます。比丘のみなさん。これを私は、漏の報いと言います。

 比丘のみなさん。漏の滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。漏の消滅は無明の消滅によってあります。八正道が漏の滅に至る道です。その道は正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が漏をこのように明らかに知り、このように漏の原因を知り、このように漏の違いを知り、このように漏の報いを知り、このように漏の滅を知り、このように漏の滅に至る道を明らかに知れば、その時聖なる弟子は「煩悩を突き刺す道具である梵行が漏の滅」と知ります。

増支部チャッカニバータ 22巻462頁334項
 (註)これはヒト語にもダンマ語にも使えます。ヒト語ではご存知のように死んだ後新しく生まれることであり、ダンマ語では、その人の現在の自我が、その欲望にふさわしい取に応じて徳や罪に変わることです。どちらの意味を捉えるかは、学習者次第です)。





漏を成長させる原因と成長させない原因

 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとって成長します。二種類とはどれでしょうか。それは嫌うべきでない物を嫌う人と、嫌うべき物を嫌わない人です。

増支部ドゥカニバータ 20巻107頁353項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとって成長します。二種類はどれでしょうか。それはするべきでないことをするべきと理解する人と、するべきことをするべきでないと理解する人です。

増支部ドゥカニバータ 20巻107頁355項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとって成長します。二種類はどれでしょうか。二種類とは、罪でない物を罪と理解する人と、罪な物を罪でないと理解する人です。

増支部ドゥカニバータ 20巻107頁357項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとっては成長します。二種類の人とはどのようでしょうか。二種類とは、ダンマでない物をダンマと理解する人と、ダンマである物をダンマでないと理解する人です。

増支部ドゥッカニバータ 20巻108頁359項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとって成長します。二種類の人とはどのようでしょうか。二種類とは、律でない物を律と理解し、律である物を律でないと理解する人です。

 比丘のみなさん。この二種類の人にとって、当然すべての漏は成長します。

増支部ドゥッカニバータ 20巻108頁361項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとっては成長しません。二種類の人はどのようでしょうか。二種類とは、嫌うべきでない物を嫌わず、嫌うべき物を嫌う人です。

増支部ドゥッカニバータ 20巻107頁354項


 比丘のみなさん。すべての漏は然二種類の人にとっては成長しません。二種類の人はどのようでしょうか。二種類とは、不適切な物を不適切と理解し、適切な物を適切と理解する人です。

増支部ドゥッカニバータ 20巻107頁356項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとっては成長しません。二種類の人はどのようでしょうか。二種類とは、罪でない物を罪でないと理解し、罪である物を罪と理解する人です。

増支部ドゥッカニバータ 20巻107頁358項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとっては成長しません。二種類の人はどのようでしょうか。二種類とは、ダンマでない物をダンマでないと理解し、ダンマである物をダンマと理解する人です。

増支部ドゥッカニバータ 20巻108頁360項


 比丘のみなさん。すべての漏は当然二種類の人にとっては成長しません。二種類の人はどのようでしょうか。二種類とは、律でない物を律でないと理解し、律である物を律であると理解する人です。

 比丘のみなさん。この二種類の人にとって、当然漏は成長しません。
増支部ドゥッカニバータ 20巻108頁362項




現生で般涅槃しない理由

 「猊下。この世界のある種の動物が現生で般涅槃できない原因は何で、縁は何ですか」。

 天人の統領である方。望ましく、愛らしく、満足すべき愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である目で知るすべての形があり、比丘がその形に陶酔し、褒めちぎって惑溺すれば、その識は感情を欲望する識なので、その識(註)は取です。天人の統領である方。取がある比丘は、当然般涅槃しません。

 (耳で知る声・鼻で知る臭い・舌で知る味・体で知る触・心で知る考えについても、形と同じように話されています)。

 天人の統領である方。これが、この世界のある動物を現生で般涅槃させない原因であり、縁です。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻128頁178項
註:ここでの識は心の識(意識)であって、眼識ではありません。




無明に至った人

 「猊下。人は『無明』『無明』と言います。無明とはどのようですか。無明があると言われるのはどれだけの理由ですか」。

 比丘のみなさん。この世界の聞いたことがない凡夫は当然形を知らず、形が生じる原因を知らず、形の消滅を知らず、形の消滅に至る道を知りません。その人は当然受を知らず、受が生じる原因を知らず、受の滅を知らず、受の滅に至る道を知りません。

 その人は当然想を知らず、想が生じる原因を知らず、想の消滅を知らず、想の消滅に至る道を知りません。その人は当然行を知らず、行が生じる原因を知らず、行の消滅を知らず、行の消滅に至る道を知りません。その人は当然識を知らず、識が生じる原因を知らず、識の消滅を知らず、識の滅に至る道を知りません。

 この無知を私は「無明」と言います。そして無明があると言われるのは、これだけの理由です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻198頁300項




無明に至った人の無明

 「猊下。『無明』『無明』と言うのは、どのようですか。人はどれだけの理由で無明に達した人と言われるのですか」。

 比丘。この場合の聞くことがない凡夫は、当たり前に作られる形・受・想・行・識を「当たり前に作られる物」と真実のまま明らかに知らず、当たり前に衰退する形・受・想・行・識を「当たり前に衰退する物」と真実のまま明らかに知らず、当たり前に作られ当たり前に衰退する形・受・想・行・識を「当たり前に作られ、当たり前に衰退する物」と真実のまま明らかに知りません。

 比丘のみなさん。この無知を、私は無明と言います。そして人が無明に達したと言われるのはこれだけの理由によってです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻209頁320項




苦集諦は捨てるべきもの

 比丘のみなさん。四聖諦にはこの四つあります。四つは何でしょうか。四つとは苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦です。比丘のみなさん。これが四聖諦です。

 比丘のみなさん。この四つの聖諦に誰もが知悉するべき聖諦があり、誰もが捨てるべき聖諦があります。比丘のみなさん。誰もが知悉するべき聖諦は苦である聖諦で、誰もが捨てるべき聖諦は苦の原因である聖諦です。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん。「苦はこのよう、苦を生じさせる原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦に至る道はこのよう」と真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1709項

 

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