解説七 欲望に関わる見





間違った見解だから網に掛かる

 比丘のみなさん。過去の蘊に言及し、未来の蘊に言及し、過去の蘊と未来の蘊に言及して規定するサマナ・バラモンのどの人たちも、すべて過去蘊見、未来蘊見のある人で、過去の蘊と未来の蘊について言及し、色んな物があるアディミッティパダ(個々の見解による動物の最高の解脱の道。勝解処)である見の規定に言及します。

 それらのサマナ・バラモンのすべては、この六十二の(見の基盤である)物の領域に落ちていて、どこかで頭を上げれば、どこで頭を上げてもその範囲内で頭を上げています。

 比丘のみなさん。漁師と猟師の熟練した助手が、沼や池などの狭い範囲を目の詰んだ網で囲むと、その包囲内の動物はすべて網の中に入ったと言い、どこで(水面に)出ても網の中で、どこに出て来てもその網の中にいるのと同じです。比丘のみなさん。

 同じように過去の蘊に言及し、未来の蘊に言及し、過去の蘊と未来の蘊に言及して規定するサマナ・バラモンのどの人たちも、すべて過去蘊見、未来蘊見のある人で、過去の蘊と未来の蘊に言及し、色んな物があるアディミッティパダ(個々の見解による動物の最高の解脱の道。勝解処)である見の規定に言及します。

 しかしそれらのサマナ・バラモンは全員、これら六十二すべての(見の基盤である)物の領域に落ちていて、どこで頭を上げても、その範囲内で頭を上げています。

長部シーラカンダヴァッガ 8巻58頁90項
 六十二見は「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」三章2にあります。
 http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/3-2.html



煩悩と苦が生じるのはプラスの見・マイナスの見が原因

 比丘のみなさん。この二種類の見があります。つまりバヴァディッティ(プラスの見。有見)とヴィバヴァディッティ(マイナスの見。無有見)です。

 比丘のみなさん。有見にもたれかかり、有見に至り、有見であるサマナ・バラモンたちは誰でも、当然無有見に反論します。

 比丘のみなさん。無有見にもたれかかり、無有見に至り、無有見であるサマナ・バラモンたちは誰でも、当然有見に反論します。

 比丘のみなさん。二つのディッティ(見)の発生と、維持と、旨味と、低劣な害と、それから出る方便を真実のままに明らかに知らないサマナ・バラモンは誰でも、貪りがあり怒りがあり、欲望があり、執着があり、明らかに知らないので、一時是認し、一時否定し、喜びの原因である愚図があり、とかく遅れることを喜ぶ人と呼ばれます。彼らは当然生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みから脱せません。

 (この後、正反対の苦から脱すことができるプラスの見、マイナスの見のないサマナ・バラモンについて話されています)。

中部ムーラバンナーサ 12巻131頁155項




有身見はどのように生じるか

 「猊下。サッカーヤデッティ(有身見)は当然どのように生じるのですか」。

 比丘のみなさん。この場合聞くことがない凡夫は、聖人が見えず、聖人に賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人に賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、その人は当然形を自分と見、自分は形があると見、形は自分にあると見、

自分には受があると見、受は自分にあると見、自分は受の中にあると見、当然想を自分と見、想は自分にあると見、自分は想の中にあると見、当然行を自分と見、行は自分にあると見、自分は行の中にあると見、当然識を自分と見、識は自分にあると見、自分は識の中にあると見ます。

 比丘のみなさん。有身見は当然このようにあります。

 (この後有身見がないことについて話されています)。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻124頁188項




有身集起道

 比丘のみなさん。サッカーヤサムダヤガーミニパティパダー(有身見が生じる道。有身集起道)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の聞くことがない凡夫は、聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人に賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然形を自分と見、自分には形があると見、形は自分にあると見、自分は形の中にあると見ます。

 当然受を自分と見、あるいは自分には受があると見、あるいは受は自分にあると見、あるいは自分は受の中にあると見、

 当然想を自分と見、あるいは自分には想があると見、あるいは想は自分にあると見、あるいは自分は想の中にあると見、

 当然行を自分と見、あるいは自分には行があると見、あるいは行は自分にあると見、あるいは自分は行の中にあると見、

 当然識を自分と見、あるいは自分には識があると見、あるいは識は自分にあると見、あるいは自分は識の中にあると見ます。

 比丘のみなさん。これを有身集起道と言います。比丘のみなさん。これら(すべて)を「苦の発生に至らせる物を見る(ドゥッカ サムダヤガーミニ サムニパッサナー)」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻55頁89項

 (学習者は「苦集起道は有身集起道」と観察して見なければなりません。この場合のパティパダーは「心の行く道」であり、意図する実践ではありません。つまりそれらの間違った見解が道です。

 他のパーリ:ブッダの言葉である経(中部ウパリバンナーサ 14巻515頁820項)では、五蘊を見る物にする代わりに、六アーヤタニカダンマ、つまり六内処入、六外処入、六識、六触、六受、六欲を、自分を見る物質にし、その見方を、上記の経と同じように、有身を生じさせる心の道と呼んでいます)。





十辺執見が生じる原因

 「ゴータマ様。この世界に『世界は普遍だ』とか、『世界は普遍でない』とか、『世界に終わりがある』とか、『世界に終わりはない』とか、『命と体は同じ』とか、『命と体は違う』とか、『如行が死んだ後当然また生まれる』とか、『如行が死んだ後は当然もういない』とか、

『如行が死んだ後当然いるのもあり、いないのもある』とか『如行が死んだ後、当然いるのもなく、いないのもない』とか、様々なディッティ(見解。この場合は邪見)を生じさせる原因や縁は何でしょうか」。

 ヴァッチャさん。形と、形が生じる原因と、形の消滅と、形の消滅に至る道を知らないから、世界に「世界は不変だ」とか「世界は不変ではない」云々という様々な見解が生じます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻319頁554項

 (受・想・行・識を知らないからいろんな見解が生じる場合も、形を知らない場合と同じように話されています。

 上記の経の「知らないから」というのは、別の経では「見えないから」「至らないから」「段階的に知らないから」「突き抜けないから」「全部を認識ないから」「認識しないから」「常に変わらず注目しないから」「明らかに熟慮しないから」「特別に認識しないから」そして「明らかにしないから」という同じ意味の十の言葉を使われています)。




見は苦集だけの受を生じさせる

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンの中の、当然「自我と世界は四つの(見の基盤の)物によって不変」と規定するサッサタヴァーダ(常見)のどの人たちも、

 エカッチャサッサティカエカッチャサッサティカヴァーダ(当然四つの物で「世界と自我は不変な物も、不変でない物もある」と規定する。一分常一分無常)であるサマナ・バラモンのどの人たちも、

 アンターナンティカヴァーダである(当然四つの物で「世界は終わりがある、あるいは終わりがない」と規定する。辺無辺)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 アマラーヴィカケーピカヴァーダである(そこで問題を質問されると、当然四つの物で確定していない揺らぎに至る。詭弁論)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 アディッチャサムッパンニカヴァーダである(自我と世界は四つの物で、自然に漠然と生じると規定する。無因論)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 プッバンタカッピカヴァーダである(過去にあった蘊に関心を持つプッバンタナーヌディッティがあり、当然アディムッティボット=自分の見解による動物の最高の解脱の道=を規定して話す)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 ウッダマーカタニカサンニーヴァーダ(当然死んだ後の自我に識があると三十六の物で規定する。死後有想論)であるサマナ・バラモンのどの人たちも、

 ウッダマーカタニカアサンニーヴァーダ(当然死んだ後の自我に識は無いと三十六の物で規定する。死後無想論)であるサマナ・バラモンのどの人たちも、

 ウッダマーカタニカネヴァサンニーヴァーダである(当然死んだ後識はないのでもなく、あるのでもないと、八つの物で規定する。死後無想無無想論)サマナ・バラモンのども人たちも、

 ウッチェーダバーダである(当然存在する動物の欠乏、破滅、無を、七つの物で規定する。断滅論。断見論)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 ディッダンマニッバーナヴァーダである(当然いる動物のパラマディッダンマニッバーナヴァーダを五つの物で規定する。現世涅槃論)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 アパランタカッピカヴァーダである(前方にある蘊に言及するアパランターヌディッティがあり、当然様々なアディムッタィボットを四十四の物で規定する。未来論)サマナ・バラモンのどの人たちも、

 プッバンタカッピカヴァーダ(過去に言及する)の人たちも、アパランタカッピカヴァーダ(未来に言及する)の人たちも、プッバンターパランタカッピカヴァーダ(過去と未来に言及する)の人たちも、すべて過去と未来の見がある人で、過去にあった蘊と、未来にある蘊に言及し、当然いろいろあるアディムッティボットを六十二の物で規定します。

 それらすべてのサマナ・バラモンは、六触処で触れることで、自分だけのディッティ(見)の受を感じ、それらのすべてのサマナ・バラモンの受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みがあります。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻57頁90項
 (ここで「感じる」という言葉は、心で想念を感じることです。何らかのディッティ(見解)があれば、その人が味わう受は、当然その人にあるディッティの威力で経過する類の感覚を生じさせます。だから違うディッティがあれば同じ感情が触れてきても、その人は当然彼のディッティによって違う感覚が生じます。

 だから同じ感情から生じる受には違う意味があり、いつでも以前からのディティを強く育てる類のデッィティにさせる原因です。これを「触、あるいは受がディッティを作り、そしてそのディッティを育てる」と言うことができます。触、または受が無ければそれだけで、当然デッィティが生じる道はありません)。




ナンディ(取)を生じさせる原因である誤解

 比丘のみなさん。この世界の聞いたことがない凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けません。

 その凡夫は当然土を土と考え、土を土と考えると当然土を土と思い込み、当然土を土と思い込めば、当然土の意味で理解し、当然私の土と理解し、当然極めて土を気に入ります。それは何故でしょうか。土について知り尽していないから、と私は言います。

 (あと二十三種類のダンマの場合、つまり火、風、鬼神、天人、宮女、梵天、極光天、遍上天、広果天、勝者、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処、見える形、聞こえる声、鼻で感じる物、舌、体で明らかに感じる物、エカバーヴァ、ナーナーバーヴァ、

すべての物、そして涅槃各種について、動物は当然自分の物などと誤解をし、そして特にそれを気に入っていると言われています。だから誤解がナンディを生じさせる原因と言うことができます)。

中部ムーラバンナーサ 12巻1頁2項




欲望はピヤルーパ・サータルーパの邪見で成長する

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、世界の愛らしい物(ピヤルーパ)、喜ぶべき物(サータルーパ)を不変と見、幸福と見、自分と見、突き刺さない物と見、安全な物と見るサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは当然欲望を成長させます。

 欲望が成長すればウパディ(依)が成長し、ウパディが成長すれば苦が成長し、苦が成長すればそのサマナ・バラモンたちは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みから脱せません。私は当然「その人たちは、当然苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。色も香りも味も完璧な毒入りの飲み物が入っている青銅のカップがあり、その時体中が非常に蒸し暑く、疲れて喉が渇いている男が来ます。

 みんながその男に「発展した方。この青銅カップに入っている飲み物は、色も香りも味も完璧だが毒が入っています。飲みたければ飲んでもいいですよ。飲めば色か香りか味の虜になりますが、飲めばあなたは死ぬか、死ぬほどの苦を味わいます」と言うのと同じです。

 その男はカップの飲み物について(飲むべきか飲まざるべきか)熟慮する間もなく一気に飲み干してしまい、それが原因で死に至るか、死ぬほどの苦を味わいます。同じように、過去でも未来でも現在でも、世界の可愛い物、喜ばしい物を不変と見るサマナ・バラモンは誰でも、当然苦から脱せません。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻132頁254項

 

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