欲望は生まれることの種

 ヴァッチャさん。私は、まだ取がある動物のために生を規定したのであって、取がない動物のためではありません。ヴァッチャさん。燃える物があれば当然火は赤々と燃え上がり、燃える物がなければ火は燃えないように、ヴァッチャさん。私はまだ取がある動物のために生を規定したのであって、取がない動物のためではありません。

 「ゴータマ様。炎が風に吹かれて遠くに飛んだら、その時ゴータマ様は、何がその火の燃料と規定なさいますか。もしまだ燃える物があると見なすなら」。

 ヴァッチャさん。炎が風で遠くに飛ばされたら、私は風を燃料と規定します。ヴァッチャさん。その時は当然風がその火の燃料です。

 「ゴータマ様。体を捨てた動物がまだ他の体に生まれていない時、その時ゴータマ様は、何をその動物の種と規定なさいますか。まだ種があると見なすなら」。

 ヴァッチャさん。体を捨てた動物がまだ他の体に生まれていない時、私は、この動物の種は欲望と言います。その時欲望は、当然その動物の種だからです。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻485頁800項




漏は欲望と同じ働きをする

 アッギヴェッサナさん。憂欝にし、新しい有に生まれさせ、焦燥させ、報いである苦があり、続いて老死を生じさせるアーサヴァ(漏)のどれも捨てることができなければ、私はその人を惑溺した人と言います。アッギヴェッサナさん。漏を捨てることができないので惑溺した人です。

 アッギヴェッサナさん。憂鬱にさせ、新しい有に生れさせ、焦燥させ、報いである苦があり、その後老死があるようにするどの漏も捨てることができれば、私はその人を惑溺しない人と言います。漏を捨てることができるので惑溺しません。

 アッギヴェッサナさん。憂鬱にし、新しい有に生まれさせ、焦燥させ、報いである苦があるようにさせ、老死があるようにする漏のどれでも、如行(ブッダの一人称)は捨てることができ、根絶やしにすることができ、芽のないヤシのようにし、維持出来ない状態、当然二度と生まれない状態にしました。

中部ムーラバンナーサ 12巻461頁431項
 (学習者はこのブッダの言葉で、漏はタンハー(欲望)と同じ働き、つまり新しい有を作り、あるいは苦を生じさせる原因になると観察して見なければなりません)。




動物に欲望と苦が生じる様相

 比丘のみなさん。胎内に生まれることは、当然三つの物の出合いによってあります。世界の動物は、両親が一緒にいても、母親にまだ生理とガンダッバ(胎内で生まれる動物)がなければ、行って生存できないので、胎内の動物が胎内に生まれることはまだありません。

 この世界の動物は、両親が一緒にいて、そして母親に生理があっても、まだガンダッバ(註)が入って存在していなければ、胎内の動物が胎内に生まれることはできません。

 比丘のみなさん。しかし両親が一緒にいて、母親に生理があり、ガンダッバが存在していれば、胎内の動物が胎内に生まれることは、このように三つの物が出合うことで当然成立します。

 比丘のみなさん。母親は胎内に生まれた動物を、当然非常に多大な心配で管理し、それは丸九か月か十カ月間の重い責務です。比丘のみなさん。九か月、ないし十カ月が経過すると、母親はその子を、当然多大な心配をして重責である出産をし、自分の血で生まれた子を育てます。比丘のみなさん。聖人のヴィナヤで「血」というのは、母親の聖水という意味です。

 比丘のみなさん。その赤ん坊が成長して根が十分育つと、たとえばタイノーイ(メンコのような遊び? 訳者)で遊び、飯鍋、汁鍋で遊び、逆立ち、宙返りで遊び、小さな風車で遊び、木の葉で作った升で遊び、小さな車で遊び、小さな弓などの玩具で遊びます、

 比丘のみなさん。その赤ん坊が成長して根が十分育つと、五欲である目からの形、耳からの声、鼻からの臭い、舌からの味、体からの接触の、すべては望ましい物、愛らしい物、満足すべき物、魅惑する物であり、願望の住処であり、欲情の基盤であり、そして愛の基盤である五欲で満たされた人になり、それに喜ばされます。

 その赤ん坊が目で形などを見ると、魅惑的な形を喜んで欲しがり、愛の基盤でない形を嫌い、体に行き渡ったサティがある人でなく、善がある心の人でなく、すべての悪が残らず消滅する心解脱・智慧解脱を真実のままに知りません。

 その幼い男児にこのように喜び悲しみがあれば、幸福も苦も、幸福でも苦でもなくても、特に何らかの受を味わい、当然その受に陶酔し、褒めちぎり、惑溺し、その時当然喜びが生じます。

 その受への陶酔は取です。取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生はこのようにしてあります。

中部ムーラバンナーサ 12巻487頁452項
註: カンダッパとは、生まれることである胎内に生存する識を指す場合にだけ使われる名前を意味し、三つが会合すれば形と名が揃い、体内の動物の誕生が成功します。本書、導入部の「四聖諦の構造」の頁にある「詳細に説かれた四聖諦Ⅱ」で、体内の子は識に依存して育つことができると話されているのと一致します)。




(新しい有に導く物が)発達する様相

 比丘のみなさん。人が目を真実のままに知らず、すべての形を真実のままに知らず、眼識を真実のままに知らず、眼触を真実のままに知らず、幸福でも苦でも、幸福でも苦でもなくても、眼触が縁で生じる受を、知らなければ、その人は当然目を欲しがり、すべての形を欲しがり、眼識を欲しがり、眼触を欲しがり、幸福でも、苦でも、幸福でも苦でもなくても、何らかの受を欲しがります。

 その人が夢中になって溺れて、旨味に注目していれば、当然すべての五取蘊が生じます。そして喜びの威力による欲情があり、非常に陶酔させる物であり、新しい有に導く物である欲望が、当然最高に発達します。

 その人の体の焦燥や不安は当然最高に発達し、心の焦燥や不安は当然最高に発達し、体の焼き炙りも当然最高に発達し、心の焼き炙りも当然最高に発達し、体の焦燥も当然最高に発達し、心の焦燥も当然最高に発達し、その人は当然体の苦を味わい、心の苦を味わいます。

 (声・臭い・味・体・心の場合も、同じように話されています)。
中部ウパリバンナーサ 14巻521頁826項




餌のことばかり考えるから針に掛かる

 比丘のみなさん。釣り人が餌をつけた針を深い淵に投げ込むと、餌のことばかり考えている魚はその針を飲み込みます。比丘のみなさん。その針を飲み込んだ魚は釣り人が自由にできる物なので、破滅に至り、衰退に至ります。

 比丘のみなさん。同じようにすべての動物を破滅させるため、すべての動物を殺すために、世界には六つの針があります。六つの針はどのようでしょうか。六つの針とは、目で見る形でも、耳で聞く声でも、鼻で嗅ぐ臭いでも、舌で味わう味でも、体で感じる触でも、心で明らかに知る想念でも、望ましい物、可愛くて欲しくなる物、魅惑する物、欲望の住処であり、欲情の基盤である物があります。

 比丘が形などがある感情に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、比丘のみなさん。その比丘を私は「悪魔の針を飲み込んで破滅に至った人、罪のある悪魔が思い通りにできる破滅に至った人」と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻197頁289項




重荷を背負う人

 比丘のみなさん。重荷と重荷を背負う人と重荷を背負うことについて説明します。みなさん、これをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。重荷と言われる物は何でしょうか。比丘のみなさん。私は五取蘊を重荷と言います。

 五取蘊はどれでしょうか。それは執着の基盤である形蘊、執着の基盤である受蘊、執着の基盤である想蘊、執着の基盤である行蘊、執着の基盤である識蘊です。比丘のみなさん。私はこれを重荷と言います。

 比丘のみなさん。重荷を背負う人とは何でしょうか。比丘のみなさん。私は(仮定による)人を重荷を背負う人と呼びます。その人は知られているように呼ばれている名前、姓があります。比丘のみなさん。私はこれを重荷を背負う人と言います。

 比丘のみなさん。「重荷を背負う」とは何を言うのでしょうか。比丘のみなさん。普通にその感情に陶酔させる物である陶酔の威力による陶酔、再び生まれさせる欲望は何でも、つまり愛欲、所有したい存在したい欲望、所有したくない存在したくない欲望、比丘のみなさん。これを重荷を背負うと言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻32頁49項




心に欲望があれば、二人暮らしと言う

 「猊下。どれほどの原因で、比丘は二人暮らしと言われるのでしょうか」。

 ミガチャーラさん。満足して欲しくなり、愛らしい状態があり、欲望の住処であり、欲情の基盤である目で見る望ましい形があります。

 比丘が当然陶酔して褒めちぎり、その形に平伏して酔えば、その形に陶酔して褒めちぎって耽溺する比丘に、当然ナンディ(喜び)が生じ、ナンディ(陶酔)があれば、当然サーラーガ(強い欲情。貪欲)があり、サーラーガがあれば当然サンヨーガ(心と感情と結ぶこと)があります。

 ミガチャーラさん。喜びの威力で心を感情に縛りつけることが全部ある比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 (耳で聞くすべての声、鼻で嗅ぐすべての臭い、舌で味わうすべての味、体で触れるすべての接触の場合も、目で見る形と同じように話されています)。

 ミガチャーラさん。このような状態のある比丘は、妨害する音が少なく、騒々しく鳴り響く音が少なく、人の皮膚や体毛から吹く風がない人間が隠れる場所、このように隠遁にふさわしい場所である静寂な森や密林に隠れ住んでも、それでもその比丘を、私は「二人暮らしの人」と呼びます。

 それは何故でしょうか。その比丘の伴侶は欲望だからです。その比丘はまだ欲望を捨てることができないので、その比丘を私は、二人暮らしの比丘と呼びます。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻43頁66項




心に欲望がなければ一人暮らしと言う

 「猊下。どれだけの理由で、比丘は一人暮らしと言われるのでしょうか。

 ミガチャーラさん。満足して欲しくなる形、愛らしい状態があり、望みの住処であり、心を染める欲情の基盤である、望ましい、目で見るすべての形があり、もし比丘が当然その形に陶酔せず、褒めちぎらず、酔って平伏しなければ、その形に陶酔することなく、褒めちぎらず、酔って平伏しないその比丘は、当然ナンデ(陶酔)は消滅します。

 ナンディがなければ当然サーラーガ(強い欲情。貪欲)もなく、サーラーガがなければ当然サンニョーガ(心と感情と結ぶこと)もありません。ミガチャーラさん。比丘に、心と感情を陶酔の威力で結びつけることが揃っていなければ、私はそれを「一人暮らしのように暮らす人」と言います。

 (声・臭・味・触・考えの場合も、形の場合と同じように話されています)。

 ミガチャーラさん。このように暮らす比丘は、比丘や比丘尼や清信士や清信女が大勢いる、王や王の家臣が大勢いる、教祖や教祖の弟子が大勢いる村で暮らしていても、それでもその比丘を、本当に一人暮らしのように暮らす人と言います。

 それは何故でしょうか。伴侶である欲望を、その比丘は捨てることができたからです。だからその比丘を、一人暮らしのように暮らす人と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻44頁67項

 (この話は滅の部にあるべきですが、学習に便利なように、集の部の最後に収めます。一緒に学ぶ方が学びやすく、別にするより良い結果があります。しかしもっと深い、もっと緻密な「一人で住む」と呼ぶ心の状態があります。それは「一人で暮らす人はすべてのダンマに関わらない人」という題で、第三部、滅の部にあるので、そこで見てください)。




愛欲から生じる苦害

 比丘のみなさん。すべてのカーマ(愛欲)の害は、どのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この世界の良家の子息は、例えば手で想を使う技術、考える技術、予想する技術、農業、商業、そして牧畜、戦争の技術、王務、そして何らかの技術で生計を立てても、その職業を営む上で暑さ寒さに遭遇しなければならず、アブや蚊や風、陽射し、そしてすべての這う動物に遭遇しなければならず、時間どおりに食べられないことで飢え、痩せます。

 比丘のみなさん。これがすべての愛欲の害で、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる物である愛欲があり、愛欲が原因の、自分で見える苦の山です。

 比丘のみなさん。その良家の子息がこのように努力して探求しても、まだ身代を築くことができないと、その人は当然悲しく、痛恨で「私の勤勉さは不毛なのだろうか。私の勤勉さは実らないのだろうか」と嘆き悲しみ、胸を叩いて泣きます。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、その愛欲が原因の、自分で見える苦の山です。

 比丘のみなさん。その良家の子息がこのように努力して探求すると、その人に消費財の蓄えができます。そうするとその人は「王がその財産を没収しはしまいか。盗賊がその財産を盗みはしないか。火事で財産が燃えてしまわないか。洪水でその財産が駄目にならないか。不満のある相続人がその財産を奪わないか」と、それらの消費財を管理することで真っ暗になり、苦や憂いを味わわなければなりません。

 その良家の子息がこのように管理していると、王に財産を没収されても、盗族に財産を盗まれてしまっても、火事で財産を失っても、洪水で財産を失っても、あるいは不満のある相続人に財産を奪われても、その人は当然悲しみ、傷心し、嘆き、胸を叩いて泣き、一人で真っ暗になります。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲があり、愛欲が原因である、自分で見ることができる苦の海です。

 比丘のみなさん。愛欲が原因で、愛欲が作る物で、愛欲が行動させ、愛欲が原因であるまだ他の害もあります。王は当然王と仲違し、武士は当然武士と仲違し、バラモンは当然バラモンと仲違し、長者は当然長者と仲違し、母は当然子と仲違し、子は当然母と仲違し、父は当然子と仲違し、子は当然父と仲違し、兄弟は当然兄弟と仲違し、姉妹は当然姉妹と仲違し、友達は当然友達と仲違します。

 それらの人は喧嘩をし、仲違をして憎み合い、当然素手で闘うこともあり、当然レンガで闘うこともあり、当然棒を持って闘うこともあり、当然武器で闘うこともあり、当然そこで死に至り、あるいは死ぬほどの苦を受けます。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、生じさせる物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、愛欲が原因の自分で見える苦の海です。

 比丘のみなさん。愛欲が原因で、愛欲が作り、愛欲が行動させ、愛欲が根源である、まだ他の害もあります。すべての人が刀と盾を持ち、弓と矢を携え、二手に分かれて戦闘に突入し、矢が射られ、槍が投げられ、刀が振り回されると、それらの人は矢を放ち合い、槍で突き合い、刀で頭を切り、その戦いで彼らは当然死に至り、あるいは死ぬほどの苦を受け取ります。

 比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、愛欲が原因の自分で見える苦の海です。

 比丘のみなさん。愛欲が原因で、愛欲が作り、愛欲が行動させる、愛欲による害はまだ他にもあります。全員が刀と盾を持って弓と矢を携え、(国を奪うために)砦に駆け登って矢を射る時、槍を投げる時、刀を振り下ろす時、これらの人は矢を射合い、槍で突き合い、燃えている炭や牛糞を撒き合い、重い物を放って集落全部を一度に死なせ、刀で首を切ります。

 その戦いでそれらの人は、当然そこで死に至り、あるいは死ぬほどの苦を味わいます。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、愛欲が原因の自分で見える苦の海です。

 比丘のみなさん。愛欲が原因であり、愛欲が作り、愛欲が行動させ、愛欲が原因の害は、まだ他にもあります。当然コソ泥を働き、一軒家に入って睡眠薬で眠らせて盗み、寂しい場所で待ち伏せて危害を加え、そして他人の妻を犯す人は、すべて王がそれらの人を捕えて刑罰を科します。

 例えば蔓のムチで打ち、革紐で叩き、丸太で殴り、手を切り落とし、足を切り落とし、手と足を切り落とし、耳を切り落とし、鼻を切り落とし、耳と鼻を切り落とし、当然酢を煮る鍋(註1)の罰を与え、当然ホラ貝を結ぶ方法(註2)で罰し、当然ラーフー(魔物)の口(註3)で罰し、当然火の輪(註4)で罰し、当然手の松明(註5)で罰し、当然揺れる縞の方法(註6)で罰し、当然木の皮を着る方法(註7)で罰し、当然鹿が立つ方法(註8)で罰し、針のある餌に掛ける方法(註9)で罰し、

 当然硬貨の方法(註10)で罰し、当然沁みるブラシ(註11)で罰し、当然回転する磔(註12)で罰し、当然ワラの踏み台(註13)で罰し、当然熱い油を撒いて罰し、当然犬を放して引きちぎらせて(註14)罰し、当然槍の上に仰向けに寝かせ、当然刀で頭を切りします。

 彼らは当然その場で死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を味わいます。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、愛欲が原因の自分で見える苦の山です。

 比丘のみなさん。愛欲が原因であり、愛欲が作り、愛欲が行動させ、愛欲が原因の害はまだ他にもあります。すべての人が体で、言葉で、心で、当然不正な振る舞いをします。彼らは体が崩壊して死んだ後、当然悪、悪諏、罪を償う場所、地獄に行きます。比丘のみなさん。これもすべての愛欲の害であり、原因である愛欲があり、作る物である愛欲があり、行動させる愛欲がある、愛欲が原因の自分で見える苦の山です。

中部ムーラバンナーサ 12巻169頁198項


1.酢を煮る鍋とは、頭を叩き割って、火箸で真っ赤に焼けている鉄の塊を挟んで脳に入れて、酢を煮る鍋のように沸騰させること。

2.ほら貝を結ぶとは、両側の耳際と首のへこみの皮膚に横にぐるりと切り目を入れ、それから髪全部を縛って束にし、棒を差し込んで持ち上げて、髪がついたまま頭皮を剥ぎ、それから荒砂で、ほら貝のように真っ白になるまで頭蓋骨を磨くこと。

3.ラーフーの口とは、鉄の鉤で口を開けさせて火を点ける。もう一つは角ノミで耳際から口まで穴を開けると、血が口の中にあふれて魔物の口のように見える。

4.火の輪とは、油を湿らせた布を体中に巻いて火を点けること。

5.手の松明とは、油を湿らせた布を両腕に巻いて火を点ける。

6.揺れる縞とは、首の下から足首まで、細長く皮膚をそぎ取り、それから綱で縛って引っ張ると、罪人は自分の皮膚の縞を踏みながら、転んでは起き上がって死ぬまで歩く。

7.木の皮を着るとは、6番と同じように皮膚を縞に剥くが、首の下から腹までと、腹から足首までの二つの部分にすると、上半身の皮膚が垂れ下がって下半身を覆い、木の皮を着ているように見える。

8.鹿が立つとは、鉄の輪で両肘と両膝を縛り、地面にある四本の鉄の柱に固定すると、鹿が縛られているように見える。それから死ぬまで火であぶる。

9.針のある餌に掛けるとは、両側に鉤のある針を使って引っ掛けて、全身の皮膚と肉と腱を剥ぎ取る。

10.硬貨とは、鋭い刀で硬貨くらいの大きさに、死ぬまで丸く肉をそぎ取る。

11.沁みるブラシとは、体中を細かく切り刻み、それから(塩水など)沁みる水に浸けたブラシで撫で、擦って磨いて、皮膚と肉と腱がすべて剥がれ、骨だけになるまでそのようにする。

12.回転する磔とは、横向きに寝かせて鉄の槍で両耳を貫通させ、それから地面に固定して、両足を持ち上げて回転して歩く。

13.藁の踏み台とは、皮膚は切らずに、石の杵で体の骨を細かく砕き、それから髪をまとめて掴んで、肉が一まとめになるように揺すり、それから藁で作った足拭きのように、髪をまとめておく。

14.犬に捨てさせるとは、犬の群れを閉じ込めて、何日も餌をやらずに飢えさせておき、それから犬を放して噛みつかせると、しばらくすると骨だけになる。(三蔵とアッタカターの解釈は、M・アンパイチャリッツ訳)




愛欲が原因の様々な苦

 比丘のみなさん。(カーマ)タンハーが原因である九種類の(苦である)ダンマの説明をします。

 タンハー(欲望)に依存して探求があり、

 探求に依存して得ることがあり、

 得ることに依存して愛の決意があり、

 愛の決意に依存して満足による欲情があり、

 満足による欲情に依存して惑溺があり、

 惑溺に依存して心を奪われることがあり、

 心を奪われることに依存して吝嗇(ケチ)があり、

 吝嗇に依存して惜しむことがあり、

 惜しむことに依存して惜しむことから生じる話があります。

 つまり刃のない武器の使用、刃のある武器の使用、ケンカ、競争、仲違い、「俺」「てめえ」など野蛮な言葉使い、告げ口、そしてすべての虚言です。様々な罪や悪であるものは、当然一斉に生じます。比丘のみなさん。これらをタンハー(欲望)が原因の九種類の(苦の側の)ダンマと言います。

増支部ナヴァカニバータ 23巻413頁227項




欲望は悲しみの原因

 悲しみは当然愛する物から生じ、恐怖は当然愛する物から生じる。愛する物から脱せば当然悲しみはなく、恐怖はどこから生じるだろう。

 悲しみは当然愛から生じ、恐怖は当然愛から生じる。愛から脱せば当然悲しみはなく、そして恐怖はどこから生じるだろう。

 悲しみは、当然喜びから生じ、恐怖は当然喜びから生じる。喜びから脱せば当然悲しみはなく、恐怖はどこから生じるだろう。

 悲しみは当然願望から生じ、恐怖は当然願望から生じる。願望から脱せば当然悲しみはなく、恐怖はどこから生じるだろう。

 悲しみは当然欲望から生じ、恐怖は当然欲望から生じる。欲望から脱せば当然悲しみはなく、恐怖はどこから生じるだろう。

小部ダンマパダ 25巻43頁26項




様々な説明による苦の縁

 生じる何らかの苦、そのすべての苦はウパディ(しがらみ。依)が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は無明が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は行が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は識が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は触が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は受が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は欲望が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は取が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は掴むことが縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は食べ物が縁で、

 生じる何らかの苦、そのすべての苦は動揺が縁です。

 これが一つ一つのアヌパッサナー(随観)です。

 (十一のアヌパッサナーは、滅の側である十一のアヌパッサナーと対です。滅諦の部に「様々な説明による滅苦の原因」という題で収めてあります。学習者は自分で観察して見ることができます。このような状態でたくさんの説明に分類することができます)。

小部スッタニバータ 25巻474頁392項




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