解説六 欲望が苦を生じさせる状態





苦の山の発生

 比丘のみなさん。苦の発生である聖諦はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。無明が縁で行が生じ、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で六処が生じ、六処が縁で触が生じ、触が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが一斉に生じます。苦の山の発生は、当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。私はこれを、苦の発生である聖諦と言います。

増支部ティカニカーヤ 20巻227頁501項>




完璧な苦が生じる状態(縁起の流れ)

 比丘のみなさん。縁起(互いに依存し合って連なって生じるダンマ)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。無明が縁でサンカーラ(行)が生じ、

 行が縁でヴィンニャーナ(識)が生じ、

 識が縁でナーマルーパ(名形)が生じ、

 名形が縁でアーヤータナ(六処)が生じ、

 六処入が縁でパッサ(触)が生じ、

 触が縁でヴェーダナー(受)が生じ、

 受が縁でタンハー(欲望)が生じ、

 欲望が縁でウパーダーナ(取)が生じ、

 取が縁でバヴァ(有)が生じ、

 有が縁でジャーティ(生)が生じ、

 生が縁で老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、悩みが一斉に生じます。

 すべての苦の山の発生はこのようにしてあります。比丘のみなさん。これを私は、縁起(次々に縁で連なって生じるもの)と言います。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻1頁2項




縁起の分類

 比丘のみなさん。縁起はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。無明が縁で行が生じ、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で六処が生じ、六処が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、悩みが揃って生じます。苦の山の発生はこのようにしてあります。

 比丘のみなさん。老死はどのようでしょうか。老いとは年を取ること、老いぼれること、歯が抜け、白髪になり、皮膚が皺くちゃになり、寿命が減り、それらの動物の分類のすべての根の老化。これを老いと言います。

 比丘のみなさん。死とはどのようでしょうか。死とは終わり、移動、崩壊、消え去ること、命が終わること、没すこと、すべての蘊の崩壊、体を捨てること、根つまりそれらの動物の分類の命が無くなること。これを死と言います。この老と死を、比丘のみなさん、老死と呼びます。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。生とは生じること、生まれること、胎内に降りること、誕生、突然生まれること、すべての蘊が現れること、動物がその動物の分類の蘊を得ることです。比丘のみなさん。これを生と言います。

 比丘のみなさん。有はどのようでしょうか。有の三種類は欲界・形界・無形界です。比丘のみなさん。これを有(三界)と言います。

 比丘のみなさん。取はどのようでしょうか。比丘のみなさん。取の四種類は欲取、見取、戒禁取、我語取です。比丘のみなさん。これを取と言います。

 比丘のみなさん。欲望はどのようでしょうか。比丘のみなさん。欲望の六種類は形の欲、声の欲、臭いの欲、味の欲、触の欲、考えの欲です。比丘のみなさん。これを欲望と言います。

 比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六種類の受は目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、心の触から生じる受です。比丘のみなさん。これを受と言います。

 比丘のみなさん。触はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六種類の触とは目の触、耳の触、鼻の触、舌の触、体の触、心の触です。比丘のみなさん。これを触と言います。

 比丘のみなさん。六処はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六処入とは目・耳・鼻・舌・体・心である処入(六根)です。これを六処と言います。

 比丘のみなさん。名形はどのようでしょうか。名とは受、想、意図、触、そしてマナシカーラ(作意)で、これを名と言います。形は四大種すべてと四大種に依存する形で、これを形と言います。名も形もなので、比丘のみなさん、名形と呼びます。

 比丘のみなさん。識はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六識とは目の識、耳の識、鼻の識、舌の識、体の識、心の識です。比丘のみなさん。これを識と言います。

 比丘のみなさん。行はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての行は身行、口行、意行です。比丘のみなさん。これをすべての行といいます。

 比丘のみなさん。無明はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦を知らないこと、苦を生じさせる原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦に至る道を知らないこと。どんな無知でも、比丘のみなさん。これを無明と言います。

 比丘のみなさん。このような原因で無明が縁で行が生じ、行が縁で識が生じ、識が縁で名形が生じ、名形が縁で六処が生じ、六処が縁で触が生じ、触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・嘆き・苦・憂い・そして悩みが揃って生じます。苦の山の発生はすべて、このような状態で生じます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻2-5頁5-17項




無明の縁

 比丘のみなさん。無明の初めは当然現れません。今まで無明はありませんでした。無明は後から生じたばかりです。比丘のみなさん。このような言い方こそ誰もがするべきです。そして「無明はこれこれが縁で現れる」と言わなければなりません。

 比丘のみなさん。私は「無明も食べ物がある自然で、食べ物がない自然ではない」と言います。無明の食べ物とは何でしょうか。答えは「五蓋(註1)が無明の食べ物」と言わなければなりません。

 比丘のみなさん。五蓋も食べ物のある自然で、食べ物のない自然ではないと私は言います。何が五蓋の食べ物でしょうか。「三つの悪行」と答えなければなりません。

 比丘のみなさん。私は、三悪行(註2)も食べ物のある自然であり、食べ物のない自然ではないと言います。何が三悪行の食べ物でしょうか。五感に集中しないことと答えなければなりません。

等々

 五感に完璧に集中しなければ、当然三悪行が豊かになります。

 三悪行が豊かになれば、当然すべての蓋も豊かになります。

 五蓋すべてが豊かになれば、当然無明も厚くなります。

 比丘のみなさん。無明の食べ物は、当然このようにあります。そしてこのように豊富になります。

増支部ダサカニバータ 14巻121頁61項
註1: 五蓋とは貪欲・瞋恚・眠気と寂しさ・散漫・疑念

註2: 三悪行とは、貪り・憤り・迷い

 (普通私たちは、無明には縁はないと聞き、教えられています。ここでは、これこれが縁だと言われています。学習者は、蓋は縁、または食べ物であると、熟慮することができます)。




苦が生まれる様相

 目と形に依存して眼識が生じ、三つのダンマ(目と形と眼識)の出合いが触で、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山が一斉に生じるのは、当然このようにしてあります。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、目の場合と同じように話されています)
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻111頁163項




五蘊から苦が生じる様相

 比丘のみなさん。形の原因はどのようで、受の原因はどのようで、想の原因はどのようで、行の原因はどのようで、識の原因はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この世界の人は当然陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。その人は何に陶酔し、褒めちぎり、惑溺するでしょうか。

 比丘のみなさん。その人は形に当然陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。形に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、当然喜びが生じます。形の喜びは何でも取です。取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山はこのような状態で生じます。

 比丘のみなさん。その人は当然受に陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺します。受に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、当然喜びが生じ、どんな受の喜びも、その喜びは取です。取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は、このようにあります。

 比丘のみなさん。その人は当然想に陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。想に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、喜びが当然生じ、どんな想の喜びも、その喜びは取です。取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生はこのようにしてあります。

 比丘のみなさん。その人は当然すべての行に陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。すべての行に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、喜びが当然生じます。すべての行のどんな喜びも、その喜びは取で、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生はこのようにしてあります。

 比丘のみなさん。その人は当然識に陶酔し、褒めちぎり、惑溺します。識に陶酔し、褒めちぎり、惑溺すれば、喜びが当然生じ、どんな識の喜びも、その喜びは取です。取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生はこのようにしてあります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻18頁28項




五蘊に執着することで苦が生じる様相

 比丘のみなさん。この世界の聞いたことがない凡夫は、当然形(体)を「それは私の物。それは私。それは私自身」と見ます。その形は当然その人にとって違う物に変化し続け、形が違う物に変化し続ければ、当然その人に悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが現れます。

 (受・想・行・識の場合も、形と同じように話されています)。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻24頁34項




苦が生じる様相

 そのとおり、そのとおり、アーナンダ。サーリプッタがそのように問題に答えたのは正しいと言います。アーナンダ。私は、苦は何らかの縁によって生じる縁生(縁起)の物と言います。苦は何に依存するのでしょうか。苦は縁である触に依存します。このように言えば、私が述べたように言うと言われます。事実ではない言葉を私の教えと偽るのではない、正しい発言です。そして追随して言う盟友も誹謗されません。

 アーナンダ。四種類のカンマ(業。大乗ではカルマ)について教えるサマナ・バラモンのある人たちは、苦は当然自分自身で作る物と教えますが、彼らが規定した苦も、縁である触に依存して生じます。

 カンマについて教えるサマナ・バラモンのある人たちは、当然他人が作ってくれる物と教えますが、彼らが規定する苦も、縁である触に依存することで生じます。

 カンマを教えるサマナ・バラモンのある人たちは、当然自分で作る苦もあり、他人が作ってくれる苦もあると規定しますが、彼らが規定した苦も、縁である触に依存して生じます。

 カンマを教えるサマナ・バラモンのある人たちは、苦は、当然自分が作る物でも、他人が作ってくれる物でもないと規定しますが、彼らが規定した苦も、必ず縁である触に依存することで生じます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻40頁75項




苦が生じる様相 二

 比丘のみなさん。その比丘は当然形に陶酔し、当然褒めちぎり、当然惑溺し、その比丘が形に陶酔して褒めちぎって惑溺すれば、当然喜びが生じます。形のどんな喜びも、その喜びは取です。その比丘の取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は、当然このようにあります。

 (受・想・行・識の場合も、形と同じように話されています)。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻18頁28項




苦の発生の様相 三

  「猊下。どうぞ私に苦の発生と苦の消滅を説明してください」。

 ガーマニさん。私が、過去にはこうだったと、遠い過去まで言及して苦の発生と苦の消滅を説けば、きっとあなたは疑念を抱き、私が、それは将来このようだと、遠い将来に言及して苦の発生と消滅を説けば、きっとあなたは疑念を抱きます。そこでガーマニさん。私はここに座っているので、ここに座っているあなたに苦の発生と消滅を説きます。良くお聞きなさい。

 ガーマニさん。あなたはこれをどう思いますか。このウルヴェーラカッパ村の殺された人、投獄された人、衰退させられた人、誹謗中傷された人で、悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じた人間はいますか。

 「おります。スガタ様」。

 ガーマニさん。あなたはこれをどう思いますか。このウルヴェーラカッパ村の殺された人、投獄された人、衰退させられた人、誹謗中傷された人で、悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが生じなかった人間はいますか。

 「おります。猊下」。

 ガーマニさん。ある種の人間には悲しみ(等)が生じ、ある種の人間には生じない原因は何で、縁は何でしょうか。

 「スガタ様。その人たちにチャンダラーガ(喜貪)があることが悲しみ(等)を生じさせ、その人たちにチャンダラーガ(欲貪)がないことが、苦を生じさせません」。

 ガーマニさん。あなたが見、明らかに知り、到達し、完全に達した、時に左右されないこのダンマのこの意味を、「過去に生じたどの苦も、すべての苦は根源にチャンダ(喜び)があり、原因であるチャンダ(喜び)があった。チャンダが苦の原因だからだ。そして未来に生じるどんな苦も、すべての苦は根源に喜びがあり、原因である喜びがある。チャンダが苦の原因だから」と、過去のダンマ、未来のダンマに応用なさい。

 相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻403頁627項




苦が生じる様相 四

 比丘のみなさん。人が何かを考えると、当然それについて深く考え、当然心がそれに埋もれます。それは当然識が始まるための感情(心の中の概念)で、感情があれば、当然識の開始があります。

 識が始まって成長すれば、その後当然新しい有の発生があり、新しい有が生まれれば、その後老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが、一斉に生まれます。苦の山の発現は、当然このようにあります。

 比丘のみなさん。人が何かを考えなければ、当然それについて深く考えません。しかしまだ何かに埋もれている心があれば、それは当然識が維持するための感情であり、感情があれば、当然識の開始があり、その識が始まって成長すれば、その後当然新たな有の発生があります。

 新たな有が生まれれば、その後老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが、揃って生まれます。苦の山が生まれることは、当然このようにあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻78頁145項




苦が生じる様相 五

 比丘のみなさん。人が当然何かを考えれば、当然何かを深く考え、そして当然心がそれに埋もれます。それは識が生じるための感情で、感情があれば当然識が始まり、識が始まって成長すれば名形になります。

 名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生はこのようにしてあります。

 比丘のみなさん。人が当然何かを考えなければ、当然何かを深く考えることがありません。しかしその人にはまだ、何かに埋まっている心(つまり随眠)があります。それは当然、識が開始するための感情であり、感情があれば、識の開始は当然あり、識が始まって発展すれば、名形への進展があります。

 名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲望があり、欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って発生します。苦の山の発生は、このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻79頁147頁




苦が生じる様相 六

 比丘のみなさん。人が当然何かを考えれば、当然それについて考え、当然心はそれに埋もれます。それは識を始める感情で、感情があれば識の開始があり、識が始まって成長すれば、新しい有に導くもの(ナティ=タンハー=欲望)が当然あります。

 新しい有に導くものがあれば、当然行くこと来ることがあります。行くこと来ることがあれば、当然移動と生まれることがあり、移動と生まれることがあれば、続いて老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山のすべての発生は当然このようにしてあります。

 比丘のみなさん。人が何かを考えなければ、それについて考えません。しかしまだ何かに埋もれている心があれば、それは識が始まるための感情で、感情があれば、当然識が始まり、識が始って成長すれば、新しい有に導くもの(ナティ=タンハー=欲望))が当然あります。

 新しい有に導くものがあれば、当然行き来があります。行き来があれば、当然移動と生まれることがあり、移動と生まれることがあれば、続いて老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山の発生は当然このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻641頁149項




苦が生じる様相の概略

 ミガチャーラさん。可愛らしくて欲しくなる、満足すべき、魅惑して愛させる物であり、欲望の住処であり、心を染める欲情の基盤である目で見るすべての形があります。比丘がその形に陶酔し、褒めちぎり、酔って平伏すれば、当然ナンディ(喜び)が生じます。ミガチャーラさん。私は「苦の発生は喜びの発生によってある」と言います。

 (声・香・味・触・考えの場合も、形と同じように話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻45頁68項




世界が生まれる様相 

 比丘のみなさん。世界(五取蘊)の発生はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、三つ(目と形と眼識)が出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有(三界)が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。耳と声に依存して耳識が生じ、三つが出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、三つが出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。舌と味に依存して舌識が生じ、三つが出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。体と接触に依存して身識が生じ、三つが出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。心と考えに依存して意識が生じ、三つが出合うことで触が生じます。触が縁で受が生じ、受が縁で欲望が生じ、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。これが世界の発生です。

 比丘のみなさん。これが世界の発生です。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻108頁156項




六処の発生は苦の発生

 比丘のみなさん。目の発生、維持、極めて発生すること、目の現れはどれでも、それは苦の発生であり、病気の維持であり、老死の出現です。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合についても、目と同じように話されています)。
相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻283頁479項
 (この場合のこのような「生じる」という言葉は、それぞれの物が無明の威力で「私」の義務をすることを意味します。

 別の経では、このように六内処入の代わりに六外処入、六識、六触、六受、六想、六思.六欲、六大種、そして五蘊で話されています。その他にも、苦の消滅である反対の意味の滅の側を説明されています。発生とすべて反対の病気が静まること、老死が維持できないことで、学習者は自分で認識できます)。





食べ物から苦が生じる様相

 比丘のみなさん。生まれた動物が存続するため、あるいは生まれる場所を探している生き物を援けるために、この四種類の食べ物があります。四種類の食べ物はどれでしょうか。四種類とは、

 最初の食べ物は、下等でも上等でも飯塊(普通の食事)で、

 二番目の食べ物は触で、

 三番目の食べ物は意思で、

 四番目の食べ物は識です。

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は、生まれた動物が存在するため、あるいは生まれる場所を探している生き物を援けるためにあります。

 比丘のみなさん。食べ物、つまり飯塊に貪り、喜び、欲望があれば、識はその飯塊で存在でき、成長できます。識が存在でき成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があり、すべての行の成長もそこにあります。

すべての行の成長がある所はどこでも、新しい有に生まれることがあり、ます。新しい有に生まれることがある所はどこでも、そこには生老死があります。生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私は「そこには悲しみ、埃、困窮がある」と言います。

 (後三種類の食べ物、つまり触、意思、識についても、ご飯と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。染色師や絵師は、梓梗(エンジ)、ウコン、藍、あるいは桃色等の染料があれば、つるつるした壁や板に、女の人や男の人の全身の絵を描くべきなように、比丘のみなさん。

 同じように、飯塊に貪り、喜び、欲望があれば、識が維持でき、その飯塊で成長できます。識が維持でき、成長できる所はどこでも、そこに名形への進展があります。名形への進展があれば、そこにすべての行の成長があります。

 すべての行の成長がある所には、新しい有に生まれることがあり、新しい界に生まれることがある所には、後で生老死があります。後で生老死がある所はどこでも、比丘のみなさん、私はそこを「悲しみ、埃、そして困窮がある所」と言います。

 (四番目の食べ物である識まで、他の三種類についても、ご飯の場合と同じように話されています。違うのは食べ物の名前だけです)。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻122頁245項




外処入の欲望で苦が生じる様相

 比丘のみなさん。形の欲望、声の欲望、臭いの欲望、味の欲望、触の欲望、そして想念の欲望の発生、著しい発生、維持、そして発現はどれも、それは苦の発生、すべての普通に突き刺す物があること、老死が現れることです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻286頁493項




欲望から苦が生じる様相

 比丘のみなさん。比丘が普段から、ウパーダーナ(取)の基盤であるすべてのダンマ(ウパダーニヤダンマ)を、普通にアッサーダ(可愛い、喜ばしい)と見ていれば、当然欲望が広く成長し、欲望が縁で取が生じ、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山が一斉に生じることはこのようにしてあります。

 比丘のみなさん。牛車十台分、二十台分、三十台分、四十台分の薪が燃えている大きな焚火は、絶えず枯れ草や牛糞や枯れ木などを火にくべなければなりません。比丘のみなさん。このように支える物があり、燃やす物がある焚火は永遠に燃え続けるように、

比丘のみなさん。取の基盤であるすべてのダンマ(この場合は「もの」という意味)をアッサーダ(可愛い。喜ばしい)と見る比丘は、当然欲望が全面に成長します。欲望が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の山が揃って生じることは、このようにしてあります。

相応部ニダーナヴァガ 16巻102頁196項
(経では次に、常に油を注ぐ人がいる灯火の例えで、取の基盤である物の代わりにサンニョージャナの基盤である物について説明されています)。





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