愛欲は骨の欠片よう
長者さん。牛の屠殺場へ行って首を長くして待ち焦がれているひどく空腹な犬に、屠殺人か屠殺人の手慣れた助手が、肉を全部そぎ落として柔らかい膜は少しも残っていない、多少血がついているだけの骨を投げてやるようなものです。
長者さん。あなたはこれをどう思いますか。肉を全部そぎ落として柔らかい膜は少しも残っていない、多少血がついているだけの骨を齧ることで、その犬は著しい空腹による衰弱を癒せると思いますか。
「できません、猊下」。
それはなぜですか。
「肉を全部そぎ落として柔らかい膜は少しも残っていない、多少血がついているだけの骨からその犬が得るのは、心の疲労と本当の恨みだけです」。
長者さん。だから聖なる弟子は「世尊が骨の欠片のようだと言われるすべての愛欲は、非常に苦を生じさせる物で、非常に困窮させ、そして最高に害がある」と熟慮して、当然このように明らかに見なければなりません。
その愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見たら、いろんな感情(五欲)に依存しているいろんな注目を厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した、一つだけの感情(四禅の捨)に依存した一つだけの注目に励みなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁47項
愛欲はくわえている肉片のよう
長者さん。ハゲタカやタカ、あるいはコハゲコウでも、一羽が肉をくわえて飛んでいると、ハゲタカ、あるいはタカ、あるいはコハゲコウの群れがその一羽の鳥に肉を捨てさせるため、吐き出させるために追い掛けるようなものです。
長者さん。あなたはこれをどう思いますか。そのハゲタカ、あるいはタカ、あるいはコハゲコウが急いでその肉を捨てなければ、それが原因で死ぬか、死ぬほどの苦を受けるのではないですか。
「そうです、猊下」。
長者さん。だから聖なる弟子は「世尊が一欠けの肉片のようだと言われるすべての愛欲は非常に苦を生じさせる物で、非常に困窮させ、最高に害がある」と熟慮して、当然このように明らかに見なければなりません。
愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見た時、いろんな感情(五欲)に依存しているいろんな物がある注目を、厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した、一つだけの感情(四禅の捨)に依存した一つだけの注視を増やしなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁48項
愛欲は風に逆らう松明のよう
長者さん。火が点いている枯れ草の松明を持って、風に逆らって歩く人のようです。長者さん。あなたはこれをどう思いますか。急いで捨てなければ、その松明は手を煽り、腕を焼き、あるいはその人のどこかの部分を焼き、彼は死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を受けるのではないですか。
「さようでございます、猊下」。
長者さん。だから聖なる弟子は当然「世尊が枯草の松明のようだと言われるすべての愛欲は非常に苦を生じさせ、非常に困窮させ、そして極めて害がある」と熟慮して、このように明らかに見なければなりません。
その愛欲を正しい智慧でこのように真実のままに見た時、いろんな感情(五欲)に依存している様々なものがある注目を厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した、一つだけの感情(四禅の捨)に依存した、一つだけに注目することを増やしなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁49項
欲情は燃えている炭の穴のよう
長者さん。炎も煙もなく燃えている炭がいっぱいの穴があり、その時生きていたくて死にたくない、幸福を愛し、苦を嫌う男がそこへ来ると、腕力のある男二人が両腕を掴んで火の穴に引きずって行くようなものです。長者さん。あなたはこれをどう思いますか。その人は体を捩って、あちこちへもがかないでしょうか。
「もがきます。猊下」。
なぜですか。
「その人は燃えている炭の穴に落とされたら、自分は死ぬか、死ぬほどの苦を味わうと知っているからです。猊下」。
長者さん。だから聖なる弟子は「世尊が炭の穴のようだと言われるすべての愛欲は、非常に苦を生じさせ、非常に困窮させ、そして極めて害がある」と、当然このように熟慮して明らかに見なければなりません。
その愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見た時、いろんな感情(五欲)に依存しているいろんな物がある注目を、厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した一つだけの感情(四禅の捨)に依存した、一つだけの注視に励みなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁50項
愛欲は夢の中の物のよう
長者さん。心が楽しくなる森でも、心が楽しくなる森の木でも、楽しくなる地域でも、あるいは楽しくなる蓮池でも、それらを夢で見た人が目から覚めれば、何も見られないのと同じです。
長者さん。だから聖なる弟子は「世尊が夢の中の物のようだと言われるすべての愛欲は、非常に苦を生じさせ、非常に困窮させ、そして極めて害がある」と、当然このように熟慮して明らかに見なければなりません。
その愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見たら、いろんな感情(五欲)に依存しているいろんな物がある注目を、厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した一つだけの感情(四禅のウベッカー=捨)に依存した一つだけの注視に励みなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁51項
愛欲は借り物のよう
長者さん。ある男が他人から宝を借り、非常に高価な耳飾りや宝石などを小さな牛車に積んで、その男が借り物を自分の前や周りに置いて群衆の中を通り過ぎると、人々がその男を見て「おいみんな、この人は本当の金持ちだ。見ろよ。金持ちはこのように使う」と喧しく言います。
その時財宝の所有者がどこかでその男を見ると、彼はそこで財宝の返却を要求するのと同じです。長者さん。あなたはこれをどう思いますか。その男にそうするべきではありませんか。
「いいえ、猊下。財宝の所有者が自分の財宝の返却を求めるのは当たり前ですから」。
長者さん。だから聖なる弟子は「世尊が借り物のようだと言われるすべての愛欲は、非常に苦を生じさせ、非常に困窮させ、そして極めて害がある」と、当然このように熟慮して明らかに見なければなりません。
その愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見たら、いろんな感情(五欲)に依存している様々な物がある注目を、厳格に控えてしまいなさい。そして世界の餌にある取が消滅した、一つだけの感情(四禅の捨)に依存した一つだけの注視に励みなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁52項
愛欲は果物のよう
長者さん。村や町からそれほど離れていない大きな森のようです。その大きな森には、美味しそうな果物が鈴生りに成っている木があり、地面に落ちている実はありません。
その時果物を探して歩いている男がその森に入ってその木を見つけると、「この木の果物はたわわで美味しそうだ。地面に落ちている実はない。それに私は木登りができる。それなら木に登って好きなだけ食べるべきだ。その上いっぱい包むべきだ」とこのように考えます。その男はその木に登り、満足するまでもいで食べ、包めるだけ包みます。
その時同じように果物を探し歩いている男が鋭い斧を持って通り掛かり、その森に入って美味しそうな実が鈴生りに成っているその木を見つけ、「この木の実は鈴生りで美味しそうだ。地面に落ちている実はない。それに私は木登りができない。それなら根元から切り倒して好きなだけ食べるべきだ。その上いっぱい包むべきだ」とこのように考え、その木を根元から切り倒すようなものです。
長者さん。あなたはこれをどう思いますか。木の上にいる最初の男は急いで木から降りなければ、木が倒れる時、本当に手や足、あるいはどこかの部分を折ります。その男はそれが原因で死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を受けるのではないですか。
「そうです、猊下」。
長者さん。だから聖なる弟子は、「世尊が果物のようだと言われるすべての愛欲は、非常に苦を生じさせるもので、非常に困窮させ、そして極めて害がある」と熟慮して、当然このように明らかに見なければなりません。
愛欲を、正しい智慧でこのように真実のままに見たら、いろんな感情(五欲)に依存している様々な物がある注目を、厳格に控えてしまい、そして世界の餌にある取が消滅した、一つだけの感情(四禅の捨)に依存した、一つだけの注目に励みなさい。
中部マッジマバンナーサ 12巻41頁53項
愛欲について学ぶべき詳細
比丘のみなさん。私は「愛欲、愛欲の発生、愛欲の違い、愛欲の報い、愛欲の滅、愛欲の滅に至る道」を、明らかに知るべきものと言います。私はどの愛欲を意味して述べるでしょうか。比丘のみなさん。五欲です。
つまり望ましい物であり、愛らしく満足して欲しくなる物であり、満足すべき物である愛らしい形、欲望の住処であり、欲情の住処である目で明らかに知るすべての形、耳で明らかに知るすべての声、鼻で明らかに知るすべての臭い、舌で明らかに知るすべての味、体で明らかに知るすべての接触があります。
比丘のみなさん。この五種類の感情はカーマ(愛欲)ではありません。この五種類をアリヤヴィナヤ(聖なる律。仏教という意味)では、五欲と呼びます。
(この部分をまとめた詩)
考えの威力で欲しがること
それが人の愛欲
世界のすべての華麗な感情は
愛欲ではない
考えの威力で欲情すること、
それが人の愛欲
だから智慧のある人は
それらの感情への満足を取り出してしまう
比丘のみなさん。愛欲の発生源はどのようでしょうか。愛欲の発生源は触です。
比丘のみなさん。愛欲の違いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。愛欲の違いは形の感情の欲望、声の感情の欲望、臭いの感情の欲望、味の感情の欲望、接触の感情の欲望です。比丘のみなさん。これを愛欲のいろんな違いと言います。
比丘のみなさん。愛欲の報いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの感情を望んでいる人は、徳の部分があるものでも、徳でない部分があるものでも、その愛欲から生じる自分(註)を生じさせます。比丘のみなさん。私はこれを愛欲の報いと言います。
比丘のみなさん。愛欲の滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。愛欲の滅は当然触が滅すことによって生じ、八正道が愛欲の滅に至る道です。その道は正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
比丘のみなさん。聖なる弟子が愛欲をこのようにハッキリと知り、愛欲の原因をこのようにハッキリと知り、愛欲のいろんな違いをこのようにハッキリと知り、愛欲の報いをこのようにハッキリと知り、愛欲の滅をこのようにハッキリと知り、愛欲の滅に至る道をこのようにハッキリと知れば、その聖なる弟子は、当然「煩悩を突き刺す道具である梵行が愛欲の滅」とハッキリと知ります。
増支部チャッカニバータ 22巻457頁334項
(註:ヒト語とダンマ語の意味があります。ヒト語では、知られているように、死んで新たに生まれることで、ダンマ語では現在の彼の自我は死ぬ必要はなく、その望みから生じる取にふさわしく、徳、あるいは罪に生まれ変わります。どの意味を捉えるかは、学習者次第です)。
愛欲の同義語
比丘のみなさん。危険という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。苦という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。病気という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。でき物の頭という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。矢という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。引っ掛ける物という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。泥という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。胎内という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。危険という言葉がなぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。その動物は欲貪(カーマラーガ)で欲情し、喜貪(チャンダラーガ=満足によって貪る)に繋がれた人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然どちらも危険から脱すことができないからです。だから危険という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。苦という言葉はなぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在も、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だから苦という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。病気という言葉はなぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも当然苦から解脱できないからです。だから病気という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。でき物の頭という言葉は、なぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だから出来物の頭という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。矢という言葉は、なぜすべての愛欲の代名詞なでしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だからすべての苦の代名詞です。
比丘のみなさん。くっ付ける物という言葉は、なぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だからくっ付ける物という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
比丘のみなさん。泥という言葉は、なぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だから泥という言葉はすべての愛欲のの代名詞です。
比丘のみなさん。胎内という言葉は、なぜすべての愛欲の代名詞でしょうか。比丘のみなさん。この動物は欲貪で欲情し、喜貪で繋がれている人であり、現在の成り行きも、将来の成り行きも、当然苦から解脱できないからです。だから胎内という言葉はすべての愛欲の代名詞です。
増支部アッダカニバータ 23巻298頁146項
愛欲は船底の穴のよう
動物が愛欲を望んで得られれば、つまり望みが叶えばその人の心には本当に喜びがあります。その愛欲が消えてしまえば、愛欲に満足して欲しがっている動物は矢で射られたように苦しみます。愛欲を雷魚のようと見て回避する人は誰でも、この世界に揺れて行く欲望を越えるサティのある人です。
田畑や庭園やお金、牛、馬、奴婢、同族、そして他のたくさんの愛欲を気に入っている人は、当然四方に危険があり、当然煩悩という悪魔に支配され踏み潰されます。だから壊れた舟に水が流れ込むように、当然苦が追ってきます。
だから人は常にサティを維持すべきで、愛欲を避け、愛欲を捨て、薬を積んだ良い舟のような人は向こう岸(涅槃)へ渡れるように、瀑流(煩悩)を越えるべきです。
増支部スッタニバータ 25巻484頁408項
有欲の状態
比丘のみなさん。バヴァヨーガ(有に繋がれていること。有軛)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界のある人は、当然すべてのバヴァ(有)の発生、すべてのバヴァの消滅、すべてのバヴァの旨味、すべてのバヴァの害、そしてすべてのバヴァから出る方便を真実のままに明らかに知りません。
比丘のみなさん。そのように知らなければ、バヴァを欲しがること、バヴァに陶酔すること、バヴァの魅惑、バヴァへに平伏すること、バヴァの欲望、バヴァゆえの焦燥、バヴァに惑溺すること、そしてすべてのバヴァの欲が、当然その人の中に眠っています。
比丘のみなさん。私はこれをバヴァヨーガ(有軛)と言います。
増支部チャットゥカニバータ 21巻13頁10項
有欲の縁
比丘のみなさん。有欲は初めは当然現れません。今まで有欲はありませんでした。有欲は後から生じたばかりです。比丘のみなさん。このような言葉は、誰もが言うべき言葉です。そして「有欲は当然、これこれが縁としてあるから現れる」と言うべきです。
比丘のみなさん。「その有欲も食べ物がある自然であり、食べ物のない自然ではない」と私は言います。では何が欲の食べ物でしょうか。答えは、無明が有欲の食べ物です。
比丘のみなさん。「無明も食べ物がある自然であり、食べ物のない自然ではない」と私は言います。では何が無明の食べ物でしょうか。答えは、五つすべての蓋が無明の食べ物です。
丘のみなさん。「五蓋も食べ物のある自然で、食べ物のない自然ではない」と私は言います。では何が五蓋の食べ物でしょうか。答えは、三つの悪行です。
…等々…
根に完璧に集中しないことは、当然三つの悪行が豊富になります。三悪行が豊富になれば、当然五つの蓋も豊富になり、五蓋が豊富になれば、当然無明も豊富になり、無明が豊富になれば、当然有欲も豊富になります。
比丘のみなさん。有欲の食べ物は当然このようであり、このように豊富です。
増支部ダサカニバータ 24巻124頁62項
有欲の百八の分類
比丘のみなさん。みなさんに、動物を生け捕りにする罠である網のような自然があり、氾濫する自然があり、動物が掴まる物である欲望について説明します。
この世界の動物は欲望に覆われ、もつれた糸のように混乱させられ、鳥の巣のように複雑に絡まり、ヒエやイグサのようになるので、悪事、悪趣、罰を受けること、そして輪廻から脱すことができません。みなさんこれを聞いて、心の中を役立つようになさい。これから話します。
(すべての比丘が返事をすると、世尊は次のブッダヴァチャナを話されました)。
比丘のみなさん。その欲望がどのようだから、動物を生け捕りにする罠である網のような自然、氾濫する自然があり、動物が掴まる物であり、この世界の動物は欲望に覆われ、もつれた糸のように混乱させられ、鳥の巣のように複雑に絡まり、稗やイ草のようにもつれるので、悪事、悪諏、罰を受けること、そして輪廻から脱すことができないと言われるのか、説明します。
比丘のみなさん。内部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ(欲望の威力で広がる思い。欲行)十八種類、そして外部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ十八種類があります。比丘のみなさん。内部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタとはどのようでしょうか。
比丘のみなさん。内部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタは、「私がいる」という考えがあれば、
①「私がいる」
②「私はこうだ」
③「私はそうだ」
④「私は③と反対だ」
⑤「私は無常で永遠でない」
⑥「私は不変で永遠だ」
⑦「私はいた」
⑧「私はこうだった」
⑨「私はそうだった」
⑩「私は⑨と反対だった」
⑪「私はいるべきだ」
⑫「私はこのようであるべきだ」
⑬「私はそうあるべきだ」
⑭「私は⑬と反対であるべきだ」
⑮「私は今後もいる」
⑯「私はこのようにい続ける」
⑰「私はそのようにい続ける」
⑱「私は違うようになる」と、欲望の威力になる思いが生まれます。
比丘のみなさん。これを内部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタの十八種類と言います。
比丘のみなさん。外部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ(欲望の威力で拡散する思い)十八種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。外部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ十八種類は、「これ(外部の蘊)によって私はある」という思いがあれば、
①「これによって私はいる」
②「これによって私はこうある」
③「これによって私はそうある」
④「私はこれによって③と反対だ」
⑤「私はこれによって無常で、永遠でない」
⑥「私はこれによって不変で永遠だ」
⑦「私はこれによっていた」
⑧「私はこれによってこうだった」
⑨「私はこれによってそうだった」
⑩「私はこれによって⑨と反対だった」
⑪「私はこれによっているべきだ」
⑫「私はこれによってこのようであるべきだ」
⑬「私はこれによってそうあるべきだ」
⑭「私はこれによって⑬と反対であるべきだ」
⑮「私はこれによって今後もいる」
⑯「私はこれによって今後もこのようにいる」
⑰「私はこれによって今後もそのようにいる」
⑱「私はこれによって違うようになる」と、欲望の威力で経過する思いが生まれます。
比丘のみなさん。これを外部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタの十八種類と言います。
比丘のみなさん。内部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ十八種類と、外部の蘊を掴むタンハーヴィチャリタ十八種類を、タンハーヴィチャリタの三十六種類と言います。比丘のみなさん。このようなタンハーヴィチャリタは過去三十六、未来三十六、現在三十六で、合わせて百八のタンハーヴィチャリタになります。
比丘のみなさん。これは動物を生け捕りにする罠である網のような自然があり、氾濫する自然があり、動物が掴む物である欲望について説明です。この世界の動物は欲望に覆い包まれ、もつれた糸のように混乱させられ、鳥の巣のように複雑に絡まり、稗やイ草のようにごちゃごちゃするので、悪事、悪趣、罰を受けること、そして輪廻から脱すことができません。
増支部チャトゥカニバータ 21巻289頁199項
ダンマを聞いても意味が分からない理由 一
比丘のみなさん。五種類がある人は、ダンマを聞いても定義することができません。つまりすべての善の正しさに至りません。五種類は何でしょうか。
言葉にしか興味がない。
話す人にしか興味がない。
自分にしか興味がない。
心が散漫でダンマを聞く集中力がない。
比丘のみなさん。これらの五種類がある人は、ダンマを聞いても決定義するためになりません。つまりすべての善の正しさに踏み入ることができません。
増支部パンチャカニバータ 22巻195頁151項
ダンマを聞いても意味が分からない理由 二
比丘のみなさん。五つがある人はダンマを聞いても定義できません。つまりすべての善の正しさにできません。どんな五つの理由でしょうか。五つとは、
話された言葉にしか興味がない。
話している人にしか興味がない。
自分にしか興味がない。
愚鈍な人。
自分が知らないことを知っていると理解している。
比丘のみなさん。この五つがある人は、ダンマを聞いても定義できません。つまりすべての善の正しさに進めません。
増支部パンチャニバータ 22巻195頁152項
ダンマを聞いても意味が分からない理由 三
比丘のみなさん。五つがある人は、ダンマを聞いても定義するためになりません。つまりすべての善の正しさにできません。どんな五つでしょうか。五つとは、
ダンマを聞く(つまり学ぶ)ことを軽視する人。
競ってダンマを聞くことを軽蔑しすぎる。
粗野で悪意のある心で、説法する人の欠点を探そうと構えている。
愚鈍。
自分が知らないことを知っていると思い込んでいる。
比丘のみなさん。この五つがある人は、ダンマを聞いても定義するためになりません。つまりすべての善の正しさに進めません。
増支部パンチャカニバータ 22巻196頁153項
(それぞれの話の終わりで、反対のダンマがある人、つまりダンマを聞いて利益になる人について話されています。学習者は上記の意味と反対の意味で、自分で考えなければなりません)
指を弾く刹那だけでも有は厭わしい
比丘のみなさん。大便はほんの少しでも悪臭がするように、比丘のみなさん。バヴァ(有欲の結果)と呼ぶ物は指を弾く刹那くらいの短さでも、述べることができる美点はありません。
増支部エーカニバータ 20巻46頁203項
(次の経では、尿、唾、膿、血の例えで同じように話されています。20巻46頁204項)
無渇愛
ブッダが直接話された無有欲は、まだ見つかりません。学習者は有欲の反対で知ってください。