解説三 苦に関わるその他の教え


苦について知るべき教え

 比丘のみなさん。私が「苦を知るべき。苦が生じる原因を知るべき。苦の違いを知るべき。苦の結果を知るべき。苦の消滅を知るべき。そして苦の消滅に至る道を知るべき」と言うのは、どんな意味で言っているのでしょうか。比丘のみなさん。私はそれを、生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦、悲しみ・嘆き・体の苦・心の悩みは苦、望んで叶わないのも苦、要するに五取蘊は苦という意味で言っています。

 比丘のみなさん。苦が生じる原因はどのようでしょうか。比丘のみなさん。欲望は苦が生じる原因であり、根源です。

 比丘のみなさん。苦の違いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。著しい苦もあり、それほどでない苦もあり、ゆっくり緩む苦もあり、すぐに緩む苦もあります。これを苦の違いと言います。

 比丘のみなさん。苦の結果はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界の人のある人が何らかの苦に支配されて心が苦に縛られると、当然悲しみ、当然苦悶し、泣き嘆き、胸を叩いて泣き、当然惑溺に至ります。

 あるいは何らかの苦に支配されて心が苦に縛られると、当然「苦を消滅させる方法を一つか二つ知っている人は誰だろう」と外部に拠り所を求めます。

 比丘のみなさん。私は、苦の結果として惑溺があると言います。そうでなければ、結果として外部の拠り所を探します。比丘のみなさん。これを苦の結果と言います。

 比丘のみなさん。苦の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の消滅は、欲望の消滅によって生じます。比丘のみなさん。八正道、すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは苦の消滅に至る道が苦の消滅に至る道です。

 比丘のみなさん。私が「苦を知るべき。苦が生じる原因を知るべき。苦の違いを知るべき。苦の結果を知るべき。苦の消滅を知るべき。滅苦に至る道を知るべき」と述べるのは、こういう意味で述べます。

増支部チャッカニバータ 22巻464頁334項





五取蘊は苦諦

 比丘のみなさん。苦である聖諦はどのようでしょうか。五取蘊と言うべきです。五取蘊はどのようでしょうか。五取蘊は形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊です。比丘のみなさん。私はこれを苦諦と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻534頁1679項





五取蘊は苦

 比丘のみなさん。苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。「五取蘊は苦」と私は言います。五取蘊はどれでしょうか。五とは、形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊です。比丘のみなさん。これを苦と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻193頁280項





苦の状態の説明 一

 「猊下。彼らが言っている苦という言葉は、どのようですか」。

 ダーラさん。形は苦、受は苦、想は苦、行は苦、識は苦です。

 ダーラさん。聞いたことがある聖なる弟子がこのように見れば、当然形でも、受でも、想でも、行でも、識でも、それらに倦怠します。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻240頁381項


(他の経:17巻240頁382項では、苦を「ドッカダンマ=当たり前に苦があるもの」と呼んでいます)。




苦の状態の説明 二

 「ゴータマ様。『苦。苦』と彼らが好く言う言葉ですが、苦、あるいは苦と規定されるのは、どれほどの理由でそう言われるのでしょうか」。

 サミッディさん。目、形、眼識、眼識で明らかに知るべき物がどこにあっても、そこに苦、あるいは苦と規定される物があります。

 (耳識・鼻識・舌識・身識・意識の場合も、眼識と同じように話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻48頁74項





苦である三つの状態

 比丘のみなさん。苦には三つの状態があります。三つの状態はどのようでしょうか。三つの状態とは、

1.堪え難い状態があるから苦

2.加工された(訳注:変化させられた)物である状態と、他の物を加工する状態があるから苦

3.際限なく様々な物に変化し続ける状態があるから苦

 比丘のみなさん。これが苦の三つの状態です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻85頁3349項





天人と人間の、自然にある苦

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は、喜びが生じる物である形があり、喜べば形が際限なく変化し衰退することで当然苦になります。

 (声・臭・味・触・考えの場合も形と同様に話されています)。

 比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)は、形の発生と、存在と、旨味と、害と、そして払い捨てる方便を真実のままに明らかに知ったので、喜びが生じる所である形がなく、形を喜ばず、形を楽しまないので、形が限りなく変化して衰退しても幸福でいられます。

 (声・臭・味・触・考えの場合も形と同様に話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻159頁216項





六外処に迷うから苦になる

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる形があり、形を喜び、形を楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然形の際限ない変化と衰退と消滅が原因の苦があります。

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる声があり、声を喜び、声を楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然声の際限ない変化と衰退と消滅が原因の苦があります。

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる臭いがあり、臭いを喜び、臭いを楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然臭いの際限ない変化と衰退と消滅が原因の苦があります。

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる味があり、味を喜び、味を楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然味の際限ない変化と、衰退と消滅が原因の苦があります。

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる触があり、触を喜び、触を楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然触の際限ない変化と衰退と消滅が原因の苦があります。

 比丘のみなさん。すべての天人と人間は心を楽しませる想念があり、想念を喜び、想念を楽しみます。比丘のみなさん。すべての天人と人間は、当然想念の際限ない変化と衰退と消滅ゆえの苦があります。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻161頁218項





執着できない物に執着するから苦

 比丘のみなさん。山に水源があり、低い方へ流れて遠方まで流れて行く急流のある川の、両岸に生えている芦や茅やイグサやヴィラナ、あるいは木でも、それらの草木は川に垂れ下がります。

 その川の流れにさらわれた人が、芦でも茅でもイグサでもヴィラナでも、あるいは木でも掴めば、それらの草木は(川の流れが激しいので)抜けてしまい、その人は当然その行動で破滅します。

 比丘のみなさん。同じように聞いたことがない凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、

当然形を自分と思い込み、自分には形があると思い込み、形は自分の中にあると思い込み、自分は形の中にあると思い込むので、当然その人の形は崩壊し、その人は当然それが原因で破滅します。

 その凡夫は当然受を自分と思い込み、自分には受があると思い込み、受は自分の中にある、自分は受の中にあると思い込むので、その人の受は当然崩壊し、その人は当然それが原因で破滅します。

 その凡夫は当然想を自分と思い込み、自分には想があると思い込み、想は自分の中にある、自分は想の中にあると思い込むので、その人の想は当然崩壊し、その人は当然それが原因で破滅します。

 その凡夫は当然すべての行を自分と思い込み、自分にはすべての行があると思い込み、すべての行は自分の中にある、自分はすべての行の中にあると思い込むので、その人のすべての行は当然崩壊し、その人は当然それが原因で破滅します。

 その凡夫は当然識を自分と思い込み、自分には識があると思い込み、識は自分の中にある、自分は識の中にあると思い込むので、その人の識は当然崩壊し、その人は当然それが原因で破滅します。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻168頁237項





苦は心が作り出す流れ(苦しむ人はいない)

 カッサバさん。人が初めから「行動した人が結果を味わう」とこのように思い込めば、その人は「苦はその人自身が作った物」というヴァーダ(主張する主義)になり、それは当然常見の流れに走ります。

 カッサバさん。人が受に触れて「他の人が作って、他の人が結果を味わう」と思い込めば、その人は「苦は他人が作ってくれる物」という主張する主義になり、それは当然断見の流れに走ります。

 カッサバさん。如行は当然、どちらの端にも傾かない中道のダンマを説きます。つまり「縁である無明があるからすべての行があり、縁である行があるから識があり、生が縁としてあるから老・死・悲しみ・嘆き・憂い・すべての悩みが生じるまで、当然このようにすべての苦の山が生じます。

 無明が薄れて、跡形もなく消滅することで行の消滅があり、行が消滅することで識が消滅し、生の消滅があることで、老・死・悲しみ・嘆き・憂い・すべての悩みが消滅します。すべての苦の塊は、このように消滅します」と説明します。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻24頁50項


 (仏教は、心と人は同じと捉えません。心が作り出す流れは自然に経過するので、結果として生じる苦は、誰が作ったのでもありません。だから苦を感じる人が作ったのではなく、あるいは他の人が作って誰かを苦しめるのでもありません。

 これは無我を教える仏教の重要な教えです。行動する動物や人もなく、される動物や人もなく、あるのは心で感じることができる因果の流れだけです。最高に良く理解するまで学ばなければならない、仏教で最も重要な教えです)。




 ウパヴァーナさん。私は「苦は縁に依存して生じる物(縁起)と言います。その苦はどんな縁に依存して生じるのでしょうか。ウパヴァーナさん。苦は縁である触に依存して生じます。

 あるサマナ・バラモンたちが「自分で作る」と規定している苦は、触に依存して生じます。

 あるサマナ・バラモンたちが「他人が作った物を貰う」と規定している苦も、触に依存して生じます。

 あるサマナ・バラモンたちが「自分でも作り、他人が作ったのを貰うこともある」と規定している苦も、触に依存して生じます。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻49頁87項


 (ここでの触という言葉は縁起の一部、あるいは心で作り出す流れの一部であり、人ではありません。だから「誰も苦を生じさせることができる人はいない。心が作り出す流れにすぎない」と言います)。



六処に夢中になっているから、苦から脱せない

 比丘のみなさん。目に陶酔している人、耳に陶酔している人、鼻に陶酔している人、舌に陶酔している人、体に陶酔している人、そして心に陶酔している人は誰でも「苦である物に陶酔している人」と言われます。私は「苦である物に陶酔している人は誰でも、当然苦から脱すことはできない」と言います。

 比丘のみなさん。形に陶酔している人、声に陶酔している人、臭いに陶酔している人、味に陶酔している人、接触に陶酔している人、想念に陶酔している人は誰でも「苦である物に陶酔している人」と言われます。私は「苦である物に陶酔している人は誰でも、当然苦から脱すことができない」と言います。

相応部サラーヤラナヴァッガ 18巻16頁20項





六処入は苦諦

 比丘のみなさん。苦諦はどのようでしょうか。それは六内処(六根)と言わなければなりません。六内処はどれでしょうか。六とは目根・耳根・鼻根・舌根・体根・意根です。比丘のみなさん。これを苦諦と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻535頁1685項





処入の集まりは熱いもの

 比丘のみなさん。すべて物も熱い物です。比丘のみなさん。熱い物であるすべての物は何でしょうか。

 比丘のみなさん。目は熱い物で、形は熱い物で、目を通して知ることは熱い物で、目の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、目の触を縁として生じる受は熱い物です。比丘のみなさん。なぜ熱いのでしょうか。私は「貪りである火、怒りである火、惑溺である火で熱く、生で熱く、老いで熱く、死で熱く、嘆きで熱く、体の苦、心の苦、苦悶で熱い」と言います。

 比丘のみなさん。耳は熱い物で、声は熱い物で、耳を通して知ることは熱い物で、耳の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、耳の触を縁として生じる受は熱い物です。

 比丘のみなさん。鼻は熱い物で、香りは熱い物で、鼻を通して知ることは熱い物で、鼻の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、鼻の触を縁として生じる受は熱い物です。

 比丘のみなさん。舌は熱い物で、味は熱い物で、舌を通して知ることは熱い物で、舌の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、舌の触を縁として生じる受は熱い物です。

 比丘のみなさん。体は熱い物で、接触は熱い物で、体を通して知ることは熱い物で、体の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、体の触を縁として生じる受は熱い物です。

 比丘のみなさん。心は熱い物で、考えは熱い物で、心を通して知ることは熱い物で、心の触は熱い物で、喜びでも苦でも、喜びとも苦ともつかなくても、心の触を縁として生じる受は熱い物です。

 比丘のみなさん。どうして熱いのでしょうか。私は「貪りである火、怒りである火、惑溺である火で熱く、生で熱く、老いで熱く、死で熱く、嘆きで熱く、体の苦、心の苦、苦悶で熱い」と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻23頁31項





処入の集まりは暗いもの

 比丘のみなさん。すべては暗い物です。比丘のみなさん、暗い物であるすべての物は何でしょうか。

 比丘のみなさん。目は暗い物で、形は暗い物で、目を通して知ることは暗い物で、目の触は暗い物で、幸福でも苦でも、幸福とも苦ともつかなくても、目の触を縁として生じる受は暗い物です。

 比丘のみなさん。なぜ暗いのでしょうか。私は「生ゆえに暗く、老いゆえに暗く、死ゆえに暗く、嘆きゆえに暗く、体の苦、心の苦、憂いゆえに暗い」と言います。

 (耳・鼻・舌・体・心についても、目と同じように話されています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻25頁32項





凡夫の苦の毒矢

 比丘のみなさん。サマナ・バラモン・天人・悪魔・梵天、あるいは世界の誰も望まないこれらの五つの条件があります。五つとは何でしょうか。

 五つとは、サマナ・バラモン・天人・悪魔・梵天、あるいは世界の誰も、「老いるのが当たり前の物よ、老いないで。病気になるのが当たり前の物よ、病気にならないで。死ぬのが当たり前の物よ、死なないで。終わりがあるのが当たり前の物よ、終わらないで。破滅するのが当たり前の物よ、破滅しないで」と望むことはできません。

 比丘のみなさん。当たり前に老いのある物は、聞いてない凡夫にとって当然老いがあります。当たり前に老いがある物が老いると、「当たり前に老いがあるのは、本当は私一人だけではない。当たり前に老いがある物は当然老いる。来ること、行くこと、終わりと発生があるすべての動物は当然老い、

当然老いがある物が老いると、悲しみに浸り、焦燥し、泣き嘆き、胸を叩いて泣いて呆けてしまい、食べ物も消化せず、体も憂欝で、仕事も手に付かず、敵は喜び、友は悲しむ」と熟慮して明らかに見ません。

 その凡夫は当たり前に老いのある物が老いると、当然悲しみ、焦燥し、泣き嘆き、胸を叩いて泣き、当然呆けに至ります。比丘のみなさん。私は「聞かない凡人は悲しみの毒矢に射られ、自分を苦しめている」と言います。

 (当たり前に病気がある物、当たり前に死がある物、当たり前に終わりがある物、当たり前に破滅がある物についても、当たり前に老いがある物と同じように話されています。そして反対の話を聞く聖なる弟子についても話されています)。

増支部パンチャカニバータ 22巻59頁48項





苦楽は蘊があるから

 比丘のみなさん。形があればその形に依存して、当然心に幸福や苦の感覚が生じます。

 比丘のみなさん。受があればその受に依存して、当然心に幸福や苦の感覚が生じます。

 比丘のみなさん。想があればその想に依存して、当然心に幸福や苦の感覚が生じます。

 比丘のみなさん。すべての行があればすべての行に依存して、当然心に幸福や苦の感覚が生じます。

 比丘のみなさん。識があればその識に依存して、当然心に幸福や苦の感覚が生じます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻221頁346項





梵行をするのは苦を知り尽すため

 比丘のみなさん。他の教義の修道者たちから「ゴータマ・サマナの梵行をするのはどんな利益のためですか」と訊かれたら、比丘のみなさん。みなさんは彼らに「私たちが世尊の梵行をするのは、苦を知り尽すためです」とこのように答えなければなりません。

 比丘のみなさん。その異教の修道者たちが「みなさんがそれを知り尽すためにゴータマ・サマナの梵行をしている苦とは、どのようですか」と訊いたら、比丘のみなさん。みなさんは

「先輩方。目は苦です。私が世尊の梵行をしているのは、苦である目を知り尽すためです。形は苦で、私が世尊の梵行をしているのは、苦である形を知り尽くすためです。目の知識は苦で、私が世尊の梵行をしているのは苦である目の知識を知り尽すためです。

 目による触は苦です。私が世尊の梵行をしているのは、苦である目による触を知り尽すためです。目による触が縁で生じる受は、幸福であろうと苦であろうと、幸福でも苦でもなくでも苦で、私が世尊の梵行をしているのは苦である受を知り尽すためです。

 (内処入・外処入・識・触・受についてのあと五つも、初めの場合と同じに話されています)。

 先輩方。私が世尊の梵行をしているのは苦を知り尽すためです」と、このように答えなければなりません。比丘のみなさん。他の教義の修道者たちにこのように訊かれたら、みなさんはこのように答えなければなりません。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻172頁238項





最後尾の苦(ヒト語による説明)

 比丘のみなさん。貧乏は世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。財産のない貧乏人は当然借金し、借金をすることは世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。財産のない貧乏人が借金をすると、利息を払わなければなりません。利息を払うことは世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。貧乏人が借金すると利息の返済をしなければならず、決まった日までに払えなくて借金取りに催促されるのは、世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。財産のない貧乏人が借金をして返済の催促をされて返済できなければ、借金取りが追って来ます。追われることは、世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。財産のない貧乏人が借金取りに追われて返済できなければ、借金取りに捕えられます。捕えられることは、世界の愛欲を味わう人の苦です。

 「そうです。猊下」。

 比丘のみなさん。貧しいことも、借金をすることも、利息を払うことも、催促をされることも、追われることも、捕えられることも、すべて世界の五欲を味わう人の苦です。


(ダンマ語の説明)

 比丘のみなさん。同じように、信仰・慙(罪を恥じること)・愧(罪を恐れること)・勤(努力)・善の面の智慧がない人を、私は「その人は聖なる戒の財産がない貧乏人」と言います。

 比丘のみなさん。その種の人に信・慙・愧・勤・善の智慧がなければ、当然その人は不正な行動をし、不正な言葉を言い、不正な考えをします。その人の不正な振る舞いを借金と言います。

 不正な行動、不正な言葉、不正な考えを隠すために、その人は下賎な望みを抱き、誰にも知られないようにと願い、誰にも知らないようにと考え、誰にも知られないように話し、何でも誰にも知られないように探求します。その人のこのように不正な隠蔽を、私は「彼が払わなければならない利息」と言います。

 愛するものである戒がある梵行仲間が、揃って「あなたはこのように、何(嫌らしいこと)をしているのですか。いつでもこのような振る舞いをしています」と言及します。このように言われることを(借金の)催促をされると言います。

 その人は森に住んでも、木の根元に住んでも、空き家に住んでも、焦燥のある下賤な悪の考え(不善尋)が生じて、彼の心を支配します。私はこのような状況を、催促のために追い回されると言います。

 比丘のみなさん。この種の人が不正な体・言葉・心の振る舞いをすると、体が壊れて死んだ後、当然地獄に閉じ込められ、あるいは畜生に生まれます。

 比丘のみなさん。これ以上に素晴らしいダンマはないヨーガッカケーマダンマ(解縛)への到達にとって、このように残虐な、このように痛烈な、このように危険な、地獄に囚われるような、あるいは畜生に生まれるような監禁はこれ以外には何一つ見えません。


(経の最後のガーター)

貧困と借金をすることは世界の苦と言われる

借金で生活する人は

借金取りが追って来

借金取りに捕まって当然苦しむ

捕まることは、五欲を崇拝する人の苦


同じようにこの聖なる律で

信・慙・愧がない人は罪業だけを積み

体・言葉・心の不正な行動をし

誰にも知られないように

絶えず罪業を塗り重ねる悪人は

罪業を作っても

自分の悪業を自分の悪業としか感じないので

貧乏人が借金して食べるように

当然困窮する


心を苦しめる後悔から生じる深い思いは

当然町でも森でも追って来る


悪人は罪業を作っても

自分の悪業としか感じないので

ある者は畜生に生まれ

あるいは地獄に囚われる

その囚われは

智者が遭遇したことのない類の苦

増支部チャッカニバータ 22巻392頁316項





苦諦は知り尽すべきもの

 比丘のみなさん。聖諦はこの四つあります。四つはどれでしょうか。四つとは苦諦・集諦・滅諦・道諦です。比丘のみなさん。これらを四聖諦と言います。

 比丘のみなさん。この四つの聖諦の中に、誰もが知り尽すべき聖諦があります。

 比丘のみなさん。誰もが知り尽すべき聖諦はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。誰もが知り尽すべき聖諦は苦諦です。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは、苦とはこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのようと、真実のままに知るために努力するべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1709項





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