二 五蘊のまとめ


五蘊は知り尽さなければならないもの

 比丘のみなさん。知り尽すべきものの説明をします。みなさん、これをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。すべての知り尽すべきものは何でしょうか。

 比丘のみなさん。形は知り尽すべきものであり、受は知り尽すべきものであり、想は知り尽すべきものであり、行は知り尽すべきものであり、識は知り尽すべきものです。

 比丘のみなさん。これらすべてを知り尽すべきものと言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻33頁54項





五蘊の規定の根拠

 「猊下。何が形蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と規定する原因であり縁ですか」。

 比丘。四大種(土・水・火・風)が形蘊を規定する原因であり縁です。

 比丘。触(内処入と外処入と識の会合)が受蘊を規定する原因であり縁です。

 比丘。触が想蘊を規定する原因であり縁です。

 比丘。触が行蘊を規定する原因であり縁です。

 比丘。名身が識蘊を規定する原因であり縁です。

中部ウパリバンナーサ 14巻102頁124項





五蘊は有為を規定したもの

 アーナンダ。みなさんから「アーナンダさん。発生の法則でも衰退の法則でも、現状から別の物に変化する法則でも、すでに規定され、あるいはこれから規定されるのはどのダンマ集に規定されるのですか」と質問されたら、あなたはどう答えますか。

 「猊下。もしみなさんが私にそのように質問したら、私はその人たちに『みなさん。過ぎ去って変化した形・受・想・行・識のどの発生の法則も、衰退の法則も、現状から別の物に変化する法則も、それらのダンマ集に規定されています。

 みなさん。まだ生じていない、まだ現れていない形・受・想・行・識のどの発生の法則も、衰退の法則も、現状から別のものに変化する法則も、それらのダンマ集に規定されます。

 みなさん。生じている、現れている形・受・想・行・識のどの発生する法則も、衰退する法則も、現状から別のものに変化する法則も、それらのダンマ集に規定されます』と、私はこのように答えます」。

 そうです、アーナンダ。そのとおりです。過ぎ去った、消滅した、際限なく変化した形・受・想・行・識のどれが発生する法則も、衰退する法則も、現状から別の物に変化する法則も、当然そのダンマ集に規定されています。

 アーナンダ。まだ生じていない、まだ現れていない形・受・想・行・識のどれが発生する法則も、衰退する法則も、現状から別のものに変化する法則も、当然それらのダンマ集に規定されます。アーナンダ。そのように質問された時には、このように答えなさい。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻47頁81項





五蘊の随眠で烙印される

 そのとおりです比丘。そのとおりです比丘。あなたは私が概要で述べた内容を、正しく詳細に理解しました。

 比丘。心に形の随眠があれば、その人は当然、その形の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押され、

 比丘。心に受の随眠があれば、その人は当然、その受の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押され、 

 比丘。心に想の随眠があれば、その人は当然、その想の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押され、

 比丘。心に行の随眠があれば、その人は当然、その行の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押され、

 比丘。心に識の随眠があれば、その人は当然、その識の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されます。



  比丘。心に形の随眠がなければ、その人は当然形の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されず、

 比丘。心に受の随眠がなければ、その人は当然受の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されず、

 比丘。心に想の随眠がなければ、その人は当然想の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されず、

 比丘。心に行の随眠がなければ、その人は当然行の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されず、

 比丘。心に識の随眠がなければ、その人は当然識の中にある随眠ゆえに悪の烙印を押されません。

 比丘。私が簡単に話した箴言の内容を、誰でもこのように詳細に見なければなりません。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻44頁75項





五蘊で死んで烙印を押される

 そうです比丘。そうです比丘。あなたは私が(何かに随眠があれば、当然それで死んで行きます。何で死んで行っても、当然それゆえに烙印されますと)簡単に話した言葉の内容を、詳細に正しく理解できました。

 比丘。ルーパ(形)に随眠がある心があれば、その人は当然その形で死んで行き、何で死んでも、当然その人はそれで烙印されます。

 比丘。ヴェーダナー(受)に随眠がある心があれば、その人は当然その受で死んで行き、何で死んでも、当然その人はそれで烙印されます。

 比丘。サンニャー(想)に随眠がある心があれば、その人は当然その想で死んで行き、何で死んでも、当然その人はそれで烙印されます。

 比丘。サンカーラ(行)に随眠がある心があれば、その人は当然その行で死んで行き、何で死んでも、当然その人はそれで烙印されます。

 比丘。ヴィンニャーナ(識)に随眠がある心があれば、その人は当然その識で死んで行き、何で死んでも、当然その人はそれで烙印されます。



 比丘。形に随眠がある心がなければ、その人は当然その形で死にません。何かで死ななければ、その人は当然、それで烙印を押されることはありません。

 比丘。受に随眠がある心がなければ、その人は当然その受で死にません。何かで死ななければ、その人は当然、それで烙印を押されることはありません。

 比丘。想に随眠がある心がなければ、その人は当然その想で死にません。何かで死ななければ、その人は当然、それで烙印を押されることはありません。

 比丘。行に随眠がある心がなければ、その人は当然その行で死にません。何かで死ななければ、その人は当然、それで烙印を押されることはありません。

 比丘。識に随眠がある心になければ、その人は当然その識で死にません。何かで死ななければ、その人は当然、それで烙印を押されることはありません。


 比丘。私が簡単に話した金言の内容を、誰でもこのように詳細に見なければなりません。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻45頁78項





結と結の基盤

 比丘のみなさん。サンニョージャナ(動物を輪廻に結びつける物。結)とサンニョージャナの基盤について説明します。みなさん、これをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。結と結の基盤はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形は結の基盤であり、その形にあるどんな欲貪(気に入って欲しがること)も、その欲貪はその形のサンニョージャナ(結)です。

 比丘のみなさん。受は結の基盤であり、その受にあるどんな欲貪も、その欲貪はその受のサンニョージャナ(結)です。

 比丘のみなさん。想は結の基盤であり、その想にあるどんな欲貪も、その欲貪はその想のサンニョージャナ(結)です。

 比丘のみなさん。行は結の基盤であり、その行にあるどんな欲貪も、その欲貪はその行のサンニョージャナ(結)です。

 比丘のみなさん。識は結の基盤であり、その識にあるどんな欲貪も、その欲貪はその識のサンニョージャナ(結)です。

 比丘のみなさん。これらの蘊を結の基盤である物と言い、この欲貪を結と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻202頁308項


 (別の経:18巻110頁159項では、六内処入で、18巻135頁189項では、六外処入でサンニョージャニヤダンマの説明をしています)。




五蘊の秘密

 比丘のみなさん。形の旨味も、受の旨味も、想の旨味も、すべての行の旨味も、識の旨味も、これらがなければすべての動物は、これらの形・受・想・行・識を喜んで欲情しません。比丘のみなさん。しかし形の旨味も、受の旨味も、想の旨味も、すべての行の旨味も、識の旨味も、これらがあるから、すべての動物はその形・受・想・行・識に非常に欲情します。

 比丘のみなさん。形の害も、受の害も、想の害も、すべての行の害も、識の害も、これらがなければ、すべての生動物は、これらの形・受・想・行・識に倦怠しません。比丘のみなさん。しかし形の害も、受の害も、想の害も、すべての行の害も、識の害も、これらがあるからすべての動物はその形・受・想・行・識に倦怠します。

 比丘のみなさん。形から出る方便も、受から出る方便も、想から出る方便も、すべての行から出る方便も、識から出る方便も、もしこれらがなければ、すべてのどう物はこれらの形・受・想・行・識から出られません。

 比丘のみなさん。しかし形から出る方便も、受から出る方便も、想から出る方便も、すべての行から出る方便も、識から出る方便も、これらがあるからすべての動物はその形・受・想・行・識から脱出できます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻77頁62項





五蘊は憂鬱と純潔の縁に関わっている 

 「ブーラナカッサバは『すべての動物の憂欝に原因もなく縁もない。すべての動物は原因も縁もなく憂欝になる。そしてすべての動物の純潔には原因もなく縁もない。すべての動物は当然原因も縁もなく純潔になる』とこのように言います。これについて世尊はどのようにおっしゃいますか」。

 マハリさん。すべての動物が憂鬱になるには原因があり縁があります。すべての動物は、原因と縁があるから憂鬱になります。マハリさん。そしてすべての動物が純潔になるにも、原因があり縁があります。すべての動物は当然原因と縁があって純潔になれます。

 「猊下。すべての動物の憂欝の原因と縁はどのようですか。すべての動物はどんな原因と縁で憂欝になるのですか」。

 マハリさん。形でも受でも想でも、すべての行でも識でも、これらが結果として苦だけになり、幸福にならなければ、すべての動物はその形・受・想・行・識をそれほど喜んで欲しがりません。

 マハリさん。しかし(真実のままに知らない動物の感覚で)、形でも受でも想でもすべての行でも識でも恩恵である幸福をもたらし、幸福になり苦にならないと考えるので、すべての動物は、形・受・想・すべての行・識を非常に欲しがります。

 マハリさん。これらがすべての動物が憂欝になる原因であり縁です。すべての動物はこのような原因と縁で憂鬱になります。

 「猊下。すべての動物が純潔になる原因と縁はどのようですか。そしてすべての動物は、どんな原因と縁で当然純潔になりますか」。

 マハリさん。形でも受でも想でも、すべての行でも識でも、これらが幸福だけにし、恩恵として幸福にし、苦にしなければ、すべての動物はこれらの形・受・想・行・識に倦怠しません。マハリさん。しかし形でも受でも想でもすべての行でも識でも、結果として苦があり、苦にし、幸福にしないのもあります。

 だからすべての動物は形・受・想・行・識に倦怠し、倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然純潔になります。マハリさん。これらが、すべての動物が純潔になる原因と縁です。すべての動物はこのような原因と縁によって純潔になれます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻85頁131項





五蘊は崩壊する側のダンマ

 比丘のみなさん。崩壊する物と崩壊しない物について説明します。みなさんこれをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。崩壊する物はどのようで、崩壊しない物はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。形は崩壊する物で、その形が消滅した物、静まった物、そして形が存在できない物は、それは崩壊しない物です。

 比丘のみなさん。受は崩壊する物で、受が消滅した物、静まった物、そして受が存在できない物、それは崩壊しない物です。

 比丘のみなさん。想は崩壊する物で、その想が消滅した物、沈静した物、その想が存在できない物、それは崩壊しない物です。

 比丘のみなさん。すべての行は崩壊する物で、すべての行が消滅した物、鎮静した物、すべての行が存在できない物は、崩壊しない物です。

 比丘のみなさん。識は崩壊する物で、その識が消滅した物、鎮静した物、そしてその識が存在できない物、それは崩壊しない物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻40頁70項





五蘊は不変でない

 比丘のみなさん。形は不変でない物であり、際限なく変化し、別の物になります。

 比丘のみなさん。受は不変でない物であり、際限なく変化し、別の物になります。

 比丘のみなさん。想は不変でない物であり、限りなく変化し、別の物になります。

 比丘のみなさん。すべての行は不変でない物であり、際限なく変化し、別の物になります。

 比丘のみなさん。識は不変でない物であり、際限なく変化し、別の物になります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻281頁478項



 「猊下。人々は『当たり前に発生がある物、当たり前に発生がある物』と言います。その当たり前に発生がある物(サムッダヤダンマ)とはどのようですか」。

 ラーダさん。形は当たり前に発生がある物で、受は当たり前に発生がある物で、想は当たり前に発生がある物で、すべての行は当たり前に発生がある物で、識は当たり前に発生がある物です。

 「猊下。人は『当たり前に衰退がある物。当たり前に衰退がある物』と言いますが、当たり前に衰退がある物(ワヤダンマ)とはどのようですか」。

 ラーダさん。形は当たり前に衰退がある物で、受は当たり前に衰退がある物で、想は当たり前に衰退がある物で、すべての行は当たり前に衰退がある物で、識は当たり前に衰退がある物です。

 「猊下。人は『当たり前に消滅がある物。当たり前に消滅がある物』と言います。当たり前に消滅がある物(二ローダダンマ)とはどのようですか」。

 ラーダさん。形は当たり前に消滅がある物で、受は当たり前に消滅がある物で、想は当たり前に消滅がある物で、すべての行は当たり前に消滅がある物で、識は当たり前に消滅がある物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻241頁387項



 比丘のみなさん。形は不変でなく、不変でない物は何でも苦で、苦である物は何でも無我で、無我であるものは何でも、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実で見るべきです。

 比丘のみなさん。受は不変でなく、不変でない物は何でも苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。想は不変でなく、不変でない物は何でも苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。すべての行は不変でなく、不変でないものは何でも苦で、苦であるものは無我で、無我であるものは何でも、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。識は不変でなく、不変でない物は何でも苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻28頁42項





五蘊の原因と縁も不変でない

 比丘のみなさん。形は不変でなく、形を生じさせる原因も縁も不変でなく、不変でない原因と縁から生じた形が、不変の物ということがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。受は不変でなく、形を生じさせる原因も縁も不変でなく、不変でない原因と縁から生じた受が、不変の物ということがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。想は不変でなく、形を生じさせる原因も縁も不変でなく、不変でない原因と縁から生じた想が、不変の物ということがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての行は不変でなく、形を生じさせる原因も縁も不変でなく、不変でない原因と縁から生じたすべての行が、不変の物ということがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。識は不変でなく、形を生じさせる原因も縁も不変でなく、不変でない原因と縁から生じた識が、不変の物ということがあるでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻29頁45項





五蘊は苦

 「猊下。人は『苦。苦』と言います。苦(ドゥッカ)とはどのようでしょうか」。

 ラーダさん。形は苦、受は苦、想は苦、すべての行は苦、識は苦です。

 「猊下。人は『ドゥッカダンマ。ドゥッカダンマ』と言います。ドゥッカダンマ(当たり前に苦がある物)とはどのようですか」。

 ラーダさん。形は当たり前に苦がある物で、受は当たり前に苦がある物で、想は当たり前に苦がある物で、すべての行は当たり前に苦がある物で、識は当たり前に苦がある物です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻240頁381項



 比丘のみなさん。形は苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実で見るべきです。

 比丘のみなさん。受は苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん想は苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさんすべての行は苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん識は苦で、苦である物は何でも無我で、無我である物は何でも「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、このように正しい智慧で真実のままに見るべきです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻28頁43項





五蘊の原因と縁も苦

 比丘のみなさん。形は苦で、形を生じさせる原因と縁も苦で、苦である原因と縁から生じた形が、どうして幸福であり得るでしょうか。

 比丘のみなさん。受は苦で、受を生じさせる原因も縁も苦で、苦である原因と縁から生じた受が、どうして幸福であり得るでしょうか。

 比丘のみなさん。想は苦で、想を生じさせる原因も縁も苦で、苦である原因と縁から生じた想が、どうして幸福であり得るでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての行は苦であり、すべての行を生じさせる原因と縁も苦で、苦である原因と縁から生じた行が、どうして幸福であり得るでしょうか。

 比丘のみなさん。識は苦であり、識を生じさせる原因と縁も苦で、苦である原因と縁から生じた識が、どうして幸福であり得るでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻29頁46項





五蘊は無我

 比丘のみなさん。形は無我です。人はその形を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。受は無我です。人はその受を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。想は無我です。人はその想を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。すべての行は無我です。人はその行を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。識は無我です。人はその識を正しい智慧で「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私の実体ではない」と真実のままに見るべきです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻28頁44項



 比丘のみなさん。形(体のこと)は無我です。比丘のみなさん。もし形が自我(自分)なら、この形が病気になるはずはなく、更に動物は「私の形はこうあるべきだ。私の形はこうなってはいけない」と望みどおりにできるはずです。

 比丘のみなさん。しかし形は無我なので(自分の物ではない)病気になり、更に動物は、当然「私の形はこのようであれ。私の形はこのようになってはいけない」と望んだようになりません。

 比丘のみなさん。受は無我です。比丘のみなさん。もし受が自分なら、この受が病気になるはずはなく、更に動物は「私の受はこうあるべきだ。私の受はこうなってはいけない」と望みどおりできるはずです。

 比丘のみなさん。しかし受は無我なので(自分ではない)病気になり、更に生き物は、当然「私の受はこのようであれ。私の形受はこのようになってはいけない」と望んだようになりません。

 比丘のみなさん。想は無我です。比丘のみなさん。もし想が自分なら、この想が病気になるはずはなく、更に動物は「私の想はこうあるべきだ。私の想はこうなってはいけない」と望みどおりにできるはずです。

 比丘のみなさん。しかし想は無我なので病気になり、更に動物は、当然「私の想はこのようであれ。私の想はこのようになってはいけない」と望んだようになりません。

 比丘のみなさん。すべての行は無我です。比丘のみなさん。もしすべての行が自分なら、このすべての行は病気になるはずはなく、更に動物は「私のすべての行はこうあるべきだ。私のすべての行はこうなってはいけない」と望みどおりできるはずです。

 比丘のみなさん。しかしすべての行は無我なので病気になり、更に動物は、当然「私のすべての行はこのようであれ。私のすべての行はこのようになってはいけない」と望んだようになりません。

 比丘のみなさん。識は無我です。比丘のみなさん。もし識が自分なら、この識は病気になるはずがなく、更に動物は「私の識はこうあるべきだ。私の識はこうなってはいけない」と望みどおりできるはずです。

 比丘のみなさん。しかし識は無我なので病気になり、更に動物は、当然「私の識はこのようであれ。私の識はこのようになってはいけない」と望んだようになりません。

 比丘のみなさん。だからこの場合、何らかの形は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、すべての形は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、誰もが正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。だからこの場合、何らかの受は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、すべての受は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、誰もが正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。だからこの場合、何らかの想は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、すべての想は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、誰もが正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。だからこの場合、何らかのすべての行は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、すべての行は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、誰もが正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 比丘のみなさん。だからこの場合、何らかの識は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、すべての識は、「それは私の物ではない。それは私ではない。それは私自身ではない」と、誰もが正しい智慧で真実のままに見るべきです。

 相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻42頁127項





自分でないもの

 比丘のみなさん。だからこの場合自分でないものは何でも、みなさんそれを捨ててしまいなさい。それを捨てることができれば、みなさん自身の永遠の幸福のためになります。比丘のみなさん。自分ではないものとは、何でしょうか。

 比丘のみなさん。形は自分ではありません。みなさん形を捨ててしまいなさい。その形を捨てられれば、みなさん自身の永遠の幸福の利益になります。

 比丘のみなさん。受は自分ではありません。みなさん受を捨ててしまいなさい。その受を捨てられれば、みなさん自身の永遠の幸福の利益になります。

 比丘のみなさん。想は自分ではありません。みなさん想を捨ててしまいなさい。その想を捨てられれば、みなさん自身の永遠の幸福の利益になります。

 比丘のみなさん。すべての行は自分ではありません。みなさんすべての行を捨ててしまいなさい。そのすべての行を捨てられれば、みなさん自身の永遠の幸福の利益になります。

 比丘のみなさん。識は自分ではありません。みなさん識を捨ててしまいなさい。その識を捨てられれば、みなさん自身の永遠の幸福の利益になります。

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。この祇園精舎にあるどんな草木や木の枝や木の葉でも、人がそれを持って行ってしまい、燃やしてしまっても、あるいは何らかのしたいような行動をしても、みなさん、「人が私を持って行く、人が私を燃やす、人が私をしたいようにする」と考えたことがありますか。

  「そういうことはありません」。

それは何故ですか。

 「それは私ではなく、私に関わる物でもないからです」。

 比丘のみなさん。それと同じです。自分でないものは何でも、みなさん、それを捨ててしまいなさい。それを捨てることができれば、みなさん自身の幸福にとって永遠に利益があります。

中部ムーラバンナーサ 12巻279頁287項





五蘊の原因と縁も無我

 比丘のみなさん。形は無我で、形を生じさせる原因と縁も無我で、無我である(自分ではない)原因と縁から生じる形が、どうして自我(自分)になれるでしょうか。

 比丘のみなさん。受は無我で、受を生じさせる原因と縁も無我で、無我である(自分ではない)原因と縁から生じる受が、どうして自我(自分)になれるでしょうか。

 比丘のみなさん。想は無我で、想を生じさせる原因と縁も無我で、無我である(自分ではない)原因と縁から生じる想が、どうして自我(自分)になれるでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての行は無我で、すべての行を生じさせる原因と縁も無我で、無我である(自分ではない)原因と縁から生じる行が、どうして自我(自分)になれるでしょうか。

 比丘のみなさん。識は無我で、識を生じさせる原因と縁も無我で、無我である(自分ではない)原因と縁から生じる識が、どうして自我(自分)になれるでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻30頁47項





五蘊は重荷

 比丘のみなさん。みなさんに重荷について説明します。みなさんこれをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。重荷とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。五取蘊すべてを、私は重荷と言います。五種類とは何でしょうか。

 五種類とは、執着の基盤である蘊は形。執着の基盤である蘊は受。執着の基盤である蘊は想。執着の基盤である蘊は行。執着の基盤である蘊は識。比丘のみなさん。私はこれを重荷と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻32頁49項





五蘊は殺害者でもあり、死者でもある

 「スガタ様。人は『悪魔。悪魔』と言います。彼らが悪魔と言うのは、どれほどの意味があるのですか」。

 ラーダさん。(執着している)形があれば悪魔も、死なす人も、死ぬ人もいます。

 ラーダさん。(執着している)受があれば悪魔も、死なす人も、死ぬ人もいます。

 ラーダさん。(執着している)想があれば悪魔も、死なす人も、死ぬ人もいます。

 ラーダさん。(執着している)すべての行があれば悪魔も、死なす人も、死ぬ人もいます。

 ラーダさん。(執着している)識があれば悪魔も、死なす人も、死ぬ人もいます。

 ラーダさん。だからこの場合、形でも、受でも、想でも、すべての行でも、識でも、それらを悪魔、死なす人、死者、病気、腫れ物、矢、苦、そして生じた苦と見なければなりません。五蘊すべてをこのような状態と見る人は、そのような人は正しく見ると言われます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻231頁366項





五蘊は灰の中の熾き

 比丘のみなさん。形は灰の中の熾き(灰の中に埋もれて燃えている炭)で、受は灰の中の熾きで、想は灰の中の熾きで、すべての行は灰の中の熾きで、識は灰の中の熾きです。

 比丘のみなさん。聖人の弟子が話を聞く人でこのように見ていれば、当然形に倦怠し、当然受に倦怠し、当然想に倦怠し、当然すべての行に倦怠し、そして当然識に倦怠します。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻217頁334項





五蘊は生き物を繋ぐ物

 比丘のみなさん。この世界の聞くことがない凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然形を自分と思い込み、あるいは自分は形(体)があると思い込み、あるいは形は自分の中にあると、あるいは自分は形の中にあると思い込み、

当然受を自分と思い込み、あるいは自分は受があると思い込み、あるいは受は自分の中にあると、あるいは自分は受の中にあると思い込み、

当然想を自分と思い込み、あるいは自分は想があると思い込み、あるいは想は自分の中にあると、あるいは自分は想の中にあると思い込み、

当然すべての行を自分と思い込み、あるいは自分は行があると思い込み、あるいはすべての行は自分の中にあると、あるいは自分は全ての行の中にあると思い込み、

当然識を自分と思い込み、あるいは自分は識があると思い込み、あるいは識は自分の中にあると、あるいは自分は識の中にあると思い込みます。


 比丘のみなさん。聞くことがない凡夫は「繋ぐ物である形で繋がれている人。繋ぐ物である受で繋がれている人。繋ぐ物である想で繋がれている人。繋ぐ物であるすべての行で繋がれている人。繋ぐ物である識で繋がれている人」と、私は言います。

 内面も外面も繋ぐ物によって繋がれている人で、こちら側(輪廻)も見えない人、向こう側(涅槃)も見えない人で、繋ぐ物がある人として生まれ、繋ぐ物がある人として老い、繋ぐ物がある人として死に、繋ぐ物がある人としてこの世界から別の世界へ行きます。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻200頁304項





「動物」と呼ぶのは五蘊に夢中になるから

 「猊下。人々は「動物。動物」と言いますが、彼らがこのように「動物」と言うのは、どれほどの意味ですか」。

 ラーダさん。形にチャンダ(満足)、ラーガ(貪り)、ナンディ(陶酔)、タンハー(欲望)のいずれかがあれば、動物は当然それに関わり、その満足による貪りなどでその形に夢中になります。だからその動物は「動物(夢中になっている人)」と呼ばれます。

 ラーダさん。受に満足、貪り、陶酔、欲望のどれかがあれば、動物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその動物は「動物」と呼ばれます。

 ラーダさん。想に満足、貪り、陶酔、欲望のどれかがあれば、動物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその動物は「動物」と呼ばれます。

 ラーダさん。すべての行に満足、貪り、陶酔、欲望のどれかがあれば、動物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその動物は「動物」と呼ばれます。

 ラーダさん。識に満足、貪り、陶酔、欲望のどれかがあれば、動物は当然それに関わり、欲貪などでその形に夢中になります。だからその動物は「動物」と呼ばれます。

 相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻232頁367項





五蘊を知らなければ無明があると言うわれる

 「猊下。人は『無明。無明』と言います。無明とはどのようですか。そして無明がある人とはどれだけの理由でですか」。

 比丘。話を聞かないこの世界の凡夫は、当然形を知らず、形が生じる原因を知らず、形の消滅を知らず、形の消滅に至る道を知らず、当然受を知らず、受が生じる原因を知らず、受の消滅を知らず、受の消滅に至る道を知らず、当然想を知らず、想が生じる原因を知らず、

想の消滅を知らず、想の消滅に至る道を知らず、当然すべての行を知らず、すべての行が生じる原因を知らず、すべての行の消滅を知らず、すべての行の消滅に至る道を知らず、当然識を知らず、識が生じる原因を知らず、識の消滅を知らず、識の消滅に至る道を知りません。

 比丘。この無知を、私は無明と言います。そして無明があると言われる人は、これだけの理由です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻198頁300項





五蘊を楽しむのは苦を楽しむのと同じ

 比丘のみなさん。形に夢中になっている人は誰でも、その人は苦である物に夢中になっているのと同じです。私は「苦である物に夢中になっている人は誰でも、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。受に夢中になっている人は誰でも、苦である物に夢中になっているのと同じです。私は「苦である物に夢中になっている人は誰でも、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。想に夢中になっている人は誰でも、苦である物に夢中になっているのと同じです。私は「苦である物に夢中になっている人は誰でも、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。すべての行に夢中になっている人は誰でも、苦である物に夢中になっているのと同じです。私は「苦である物に夢中になっている人は誰でも、当然苦から解脱できない」と言います。

 比丘のみなさん。識に夢中になっている人は誰でも、苦である物に夢中になっているのと同じです。私は「苦である物に夢中になっている人は誰でも、その人は当然苦から解脱できない」と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻39頁64項





五蘊の欲貪を捨てなければならない

 比丘のみなさん。不変でない物は何でも、それのチャンダラーガ(満足して欲しがること。欲貪)を捨てなければなりません。比丘のみなさん。不変でない物は何でしょうか。

 比丘のみなさん。形は不変でなく、受は不変でなく、想は無不変でなく、すべての行は不変でなく、そして識は不変でないので、みなさんこれらに惚れて欲しがることを捨てなければなりません。比丘のみなさん。不変でない物は何でも、みなさん、それを気に入って欲しがること(欲貪)を捨てなければなりません。

 比丘のみなさん。苦である物は何でも、それの欲貪(気に入って欲しがること)を捨てなければなりません。比丘のみなさん。苦である物とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。形は苦、受は苦、想は苦、すべての行は苦、そして識は苦なので、みなさん、これらに惚れて欲しがることを捨てなければなりません。比丘のみなさん。つまり苦である物は何でも、みなさん、それを気に入って欲しがること(欲貪)を捨てなければなりません。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻218頁338項



 比丘のみなさん。無我である物は何でも、それの欲貪(気に入って欲しがること)を捨てなければなりません。比丘のみなさん。無我の物とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。形は無我、受は無我、想は無我、すべての行は無我、そして識も無我なので、みなさんこれらに惚れて欲しがることを捨てなければなりません。

 比丘のみなさん。つまり無我な物は何でも、みなさん、それに満足して欲しがること(チャンダラーガ=欲貪)を捨てなければなりません。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻218頁341項

 

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