3.サンニャー(想蘊)の分類


六想
 比丘のみなさん。サンニャー(想)はどのようでしょうか。これらの六想とは、形の想、声の想、臭いの想、味の想、接触の想、想念の想です。比丘のみなさん。これをサンニャー(想)と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻172頁244項





想という言葉の意味

 比丘のみなさん。一般の人は「想は何の意味に依存しているのだろう」と言います。比丘のみなさん。その中にある一斉に知る行動ゆえに、それを想と呼びます。それは当然、何を一斉に知るのでしょうか。それは当然、緑色を知り、当然黄色を知り、当然赤色を知り、当然白色を知りします。比丘のみなさん。それの中に一斉に知る行動があるので、それを想と呼びます。

相応部カンダワーラヴァッガ 17巻105頁159項





想の例え

 比丘のみなさん。まだ暑さが残っている夏の終わりの午時には、陽の陰りが非常に早く動きます。(普通に)目の良い人がその陰りを見ると絶妙の熟慮をします。その人が絶妙の熟慮をして見れば、その陰りは当然空虚な物に見え、実体のない物と分かります。比丘のみなさん。その陰りにどうして実体があるでしょうか。この例えも同じです。

 比丘のみなさん。同じように何らかの想は、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下品でも上品でも、粗雑でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、その想を観察する比丘が、当然絶妙の熟慮をして見、その比丘が絶妙の熟慮をして観察すれば、その想は当然空虚に見え、そして実体を見つけることができない物と分かります。

 比丘のみなさん。想にどうして実体があるでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻172頁244項





想について知るべき教え

 比丘のみなさん。私が「想を知るべき。想が生じる原因を知るべき。想の違いを知るべき。想の結果を知るべき。想の消滅を知るべき。想の消滅に至る道を知るべき」とこのように言うのは、どんな意味で言っているのでしょうか。比丘のみなさん。六想とは形の想、声の想、臭いの想、味の想、触の想、そして想念の想という意味で言っています。

 比丘のみなさん。想を生じさせる原因は何でしょうか。比丘のみなさん。触(内処入と外処入と識の会合)が想の原因です。

 比丘のみなさん。想の違いは何でしょうか。比丘のみなさん。形想と声想と臭想と味想と触想と法想、みんな違います。比丘のみなさん。これを想の違いと言います。

 比丘のみなさん。想の結果はどのようでしょうか。比丘のみなさん。私は口から出る言葉が結果と言います。人は当然「私はこのような想があった」と感じたとおりに言うからです。比丘のみなさん。これを想の結果と言います。

 比丘のみなさん。想の消滅はどのようでしょうか。比丘のみなさん。想の消滅は触の消滅によって生じます。

 比丘のみなさん。八正道は想の消滅に至る道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。

 比丘のみなさん。私が「想を知るべき。想が生じる原因を知るべき。想の違いを知るべき。想の結果を知るべき。想の消滅を知るべき。想の消滅に至る道を知るべき」とこのように述べのは、この意味で述べています。

増支部チャッカニバータ 22巻461頁334項






想は当たり前に変化する

 比丘のみなさん。形想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。声想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。臭想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。味想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。触想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。感情想は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻280頁474項





想の発生は苦の発生と同じ

 比丘のみなさん。形想、声想、臭想、味想、触想、感情想のいずれかの想の発生、維持、極めて発生することは、苦の発生、突き刺す物があること、そして老死が現れるのと同じです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁489項





想に関して規定すべきこと

 比丘のみなさん。想に依存して生じるどんな喜びや幸福も、その喜びや幸福が想の旨味で、想は不変でなく、苦であり、どんな様相で当たり前に変化しても、その状態が想の害で、想に満足する威力による欲情を取り出してしまうため、想に満足する威力による欲情を捨ててしまうための、その方便が想から出る道具です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻35頁59項





四聖諦の意味の想蘊

 比丘のみなさん。想はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六想とは形の想、声の想、臭いの想、味の想、触の想、想念の想です。比丘のみなさん。これを想と言います。

 想の発生は、触が生じることで生じ、想の消滅は、触が消滅することで消滅します。八正道は想の消滅に至る道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻74頁115項





4. サンカーラ(行蘊)の分類

六行

 比丘のみなさん。すべてのサンカーラ(行)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの意図は形の考え(形思)、声の考え(声思)、臭いの考え(臭思)、触の考え(触思)、想念の考え(意思)です。比丘のみなさん。これをすべてのサンカーラ(行)と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻74頁116項





行という言葉の意味

 比丘のみなさん。一般の人は何に依存して「すべての行(サンカーラ)」と言うのでしょうか。比丘のみなさん。加工して作り上げる動きがあるので、それを行と言います。

 それは当然何を作るのでしょうか。当然形にするために形を加工し、当然受にするために受を加工し、当然想にするために想を加工し、当然行にするために行を加工し、当然識にするために識を加工します。

 比丘のみなさん。そのものに加工する動きがあるので行と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻106頁159項





行のたとえ

 比丘のみなさん。芯材を求める人が芯材を探しに鋭い斧を持って森へ行き、その森でまだ若くて芯のない、真っ直ぐで柔らかい大きなバナナの木を見つけます。彼はそのバナナの木の根元を切り、先端を切り落とし、それから外皮を剥きます。そこで外皮を剥いても辺材さえ見つからないのに、芯材など見つかるはずがありません。

 (普通の)目のある人がそのバナナの木を見ると、絶妙の熟慮をして見ます。その人が絶妙の熟慮をして見れば、そのバナナの木は当然空っぽの物であることが分かり、芯材のない物と明らかになります。比丘のみなさん。バナナの木に芯材などあろうはずはありません。それと同じです。

 比丘のみなさん。同じようにすべての行のどれも、過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下品でも上品でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、すべての行の発生を観察して見る比丘は、当然絶妙の熟慮をして見ます。その比丘が観察して見、絶妙の熟慮をすれば、すべての行は当然空っぽの物と分かり、実体のない物と明らかになります。比丘のみなさん。その行にどうして実体があるでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻172頁245項





行は当たり前に変化する

 比丘のみなさん。形の考え(形思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。声の考え(声思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。臭いの考え(臭思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。味の考え(味思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。触の考え(触思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。想念の考え(感情思)は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻280頁475項





行の発生は苦の発生と同じ

 比丘のみなさん。形思、声思、臭思、味思、触思、感情思の発生と存在と出現は、苦の発生と同じであり、突き刺す物があることであり、老死の現れです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻285頁491項





行に関して規定するべきこと

 比丘のみなさん。すべてのサンカーラ(行)に依存して生じるどんな喜びも、その喜びがすべての行の旨味です。すべての行がどんな状態でも、無常の物であり、苦であり、いろんな様相に当たり前に変化しても、その様相がすべての行の害です。

 すべての行に満足する威力による欲情を取り出してしまうため、すべての行に満足する威力による欲情を何らかの方便で捨ててしまうための、その方便がすべての行から出る道具です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻79頁122項





四聖諦の意味の行蘊

 比丘のみなさん。すべてのサンカーラ(行)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。六思とは、形の考え、声の考え、臭いの考え、味の考え、触の考え、想念の考えです。比丘のみなさん。これをすべての行と言います。

 すべての行は触が生まれることで生じ、すべての行は触が消滅することで消滅します。四聖諦はすべての行の消滅に至る道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻74頁116項





5.ヴィンニャーナ(識蘊)の分類

六識

 比丘のみなさん。ヴィンニャーナ(識)とは何でしょうか。比丘のみなさん。これらの識は眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。比丘のみなさん。これをヴィンニャーナ(識)と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻75頁117項





識という言葉の意味

 比丘のみなさん。一般の人は「どんな意味に依存してヴィンニャーナ(識)と言うのだ」と言います。それには(触れてきた感情を)明らかに知る動きがあるので、ヴィンニャーナ(識)と言います。それは何を明らかに知るのでしょうか。

 当然酸っぱさを明らかに知り、当然苦さを明らかに知り、当然辛さを明らかに知り、当然甘さを明らかに知り、当然渋酸を明らかに知り、当然塩辛さを明らかに知り、当然塩辛くないことなどを明らかに知ります。比丘のみなさん。それには明らかに知る動きがあるので、それをヴィンニャーナ(識)と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻106頁159項





識のたとえ

 比丘のみなさん。魔術師でも魔術師の助手でも、十字路で魔術を演じているのを(普通に)目の良い人が見ると、絶妙の熟慮をします。その人が絶妙の熟慮をすると、その魔術は当然空虚な物に見え、実体はないと分かります。比丘のみなさん。その魔術に実体があるはずがあるでしょうか。

 比丘のみなさん。同じように何らかのヴィンニャーナ(識)は過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下品でも上品でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、その識を観察する比丘は、当然絶妙の熟慮をします。その比丘が観察し、絶妙な熟慮をすれば、そのヴィンニャーナ(識)は当然空虚なものと分かり、実体はないと明らかになります。比丘のみなさん。どうしてそのヴィンニャーナ(識)に実体があるでしょうか。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻173頁246項





識は当たり前に変化する

 比丘のみなさん。目の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。耳の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。鼻の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。舌の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。体の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

 比丘のみなさん。心の識は不変でない物であり、変化があり、他の物になります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻279頁471項





識が種の義務をすれば

 比丘のみなさん。種として使う物はこの五種類です。五種類とはどの五種類でしょうか。五種類とは球根で殖える植物、幹で殖える植物、芽で殖える植物、先端で殖える植物、(米など)種で殖える植物です。

 比丘のみなさん。これらの種として使う物が破壊されず、腐らず、風や陽射しで乾燥せず、まだ十分に種があり、そして持ち主が良い状態で保存して、水と土がないだけなら、比丘のみなさん、これらの植物として使う物は豊かに育つでしょうか。

 「そのようにはなりません」。

 比丘のみなさん。種として使うこれらの五類が破壊されてなく、まだ腐らず、風や陽射しで乾燥せず、十分に種があり、そして所有者が良い状態で保管していて土も水もあれば、比丘のみなさん。その五種類の植物として使うものは、豊かに育つのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。四識住(形・受・想・行)を土と同じと見るべきです。比丘のみなさん。欲貪を水と同じと見るべきです。比丘のみなさん。縁(つまりカンマ)のある識を五種類の植物と見るべきです。

 比丘のみなさん。ルーパ(形)を掴んで存在する識も存在でき、感情である形があり、依存する形があり、隠れている喜びがある識も豊かに成長します。

 比丘のみなさん。ヴェーダナー(受)を掴んで存在する識も存在でき、感情である受があり、依存する受があり、隠れている喜びのある識も、豊かに成長します。

 比丘のみなさん。サンニャー(想)を掴んで存在する識も存在でき、感情である想があり、依存する想があり、隠れている喜びのある識も豊かに成長できます。

 比丘のみなさん。サンカーラ(行)を掴んで存在する識も存在でき、感情である行があり、依存する行があり、隠れている喜びのある識も成長できます。

 比丘のみなさん。「私は形を避け、受を避け、想を避け、行を避けて識の往き来、生と死、発展成長を規定する」と言う人は、それはあり得ません。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻67頁106項





識の発生は苦の発生と同じ

 比丘のみなさん。目の識、耳の識、鼻の識、舌の識、体の識、そしていろんな物から識が生じるのは、苦が生じること、すべての突き刺す物があること、そして老死が現れることと同じです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻284頁483項





識に関して規定すべき項目

 比丘のみなさん。識に依存して生じるどんな喜びも、その喜びが識の旨味です。識がどんな状態で、無常の物であり、苦であり、当たり前にいろんな状態に変化しても、その状態が識の害です。識に満足する威力による欲情を取り出してしまうため、識に満足する威力による欲情を、どんな方便ででも捨ててしまうための、その方便が識から出る道具です。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻80頁123項





四聖諦の意味の識蘊

 比丘のみなさん。識とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。六識とは目の識、耳の識、鼻の識、舌の識、体の識、心の識です。比丘のみなさん。これを識(ヴィンニャーナ)と言います。

 識は名形が生じることで生じ、識の消滅は名形が消滅することで生じます。八正道は、識の消滅に至る道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻75頁117項





(ロ)五取蘊の分類

 比丘のみなさん。五取蘊とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、まだ取の基盤である漏がある、何らかのルーパ(形)があります。比丘のみなさん。これをまだ取がある形蘊と言います。

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、まだ取の基盤である漏がある、何らかのヴェーダナー(受)があります。比丘のみなさん。これをまだ取がある受蘊と言います。

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、まだ取の基盤である漏がある、何らかのサンニャー(想)があります。比丘のみなさん。これをまだ取がある想蘊と言います。

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、まだ取の基盤である漏がある、すべてのサンカーラ(行)があります。比丘のみなさん。これをまだ取がある行蘊と言います。

 比丘のみなさん。過去でも未来でも現在でも、内部でも外部でも、下等でも上等でも、粗悪でも繊細でも、遠くにあっても近くにあっても、まだ取の基盤である漏がある、何らかのヴィンニャーナ(識)があります。比丘のみなさん。これをまだ取がある識蘊と言います。

 比丘のみなさん。これらのまだ取がある蘊を、五取蘊と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻59頁96項





四取

 比丘のみなさん。取は四種類あります。どの四種類でしょうか。四種類とは、

1.カームパダーナ(欲取)=愛欲の執着

2.ディットゥパダーナ(見取)=見解の執着

3.シーラパットゥパダーナ(戒禁取)=間違った戒の執着

4.アッタヴァートゥパダーナ(我語取)=自分という考えの執着

 比丘のみなさん。これらが四取です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻88頁337項





(以下は34巻306頁780項の、論蔵ダンマンサンガニーの説明)

 『取という名前のダンマはどのようか。四取とは、欲取、見取、戒禁取、我語取である。

 四取の欲取とは何か。カーマチャンダ(愛欲の満足)、カーマラーガ(愛欲の喜び。欲貪)、カーマナンディ(愛欲への陶酔。欲喜)、カーマタンハー(愛欲の欲)、カーマシネーハ(愛欲への未練)、カーマパリラーハ(愛欲の焦燥。欲熱悩)、カーマムッチャー(愛欲への平伏。欲迷)、カーマッチョサーナ(愛欲への惑溺)を、カームパダーナ(欲取)と言う。

 四取の見取はどのようか。「与える物はない。崇拝する物はない。祭事はない。善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。他の世界はない。母はいない。父もいない。突然生まれる動物もいない。正しく行く人であり、正しい実践をし、つまりこの世界と他の世界を最高の智慧で明らかにし、そして公開して教えるサマナ・バラモンたちもこの世にいない」。

 このような形のどんな見解もディッティ(邪見)である。ディッティで行き、ディッティで混乱し、ディッティによる不毛、ディッティによる敵対、ディッティによる混乱、ディッティによる結合、こだわり、掴んでおく、強く執着する、撫で回す、悪の道、間違った道、間違ったあり方、誤った教義の伝承、間違った探求。これらを見取と言う。戒禁取と我語取を除いたすべてを見取と言い、邪見の名である。

 四取の戒禁取はどのようか。「この宗教以外のサマナ・バラモンたちの戒による清潔。勤めによる清潔。間違った戒による清潔」。このような状態のあるどんなディッティでも、ディッティで行き、ディッティで混乱し、ディッティによる不毛、ディッティによる敵対、ディッティによる混乱、ディッティによる結合、こだわり、掴んでおくこと、強く執着すること、撫で回すこと、悪の道、間違った道、間違ったあり方、誤った教義の伝承、間違った探求。これらを戒禁取と言う。

 四取の我語取はどのようか。この世界の聞くことがない凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然いつでも形・受・想・行・識と関連させて自我と見、当然いつでも形・受・想・行・識と関連させて見、当然いつでも形・受・想・行・識は自我の中にあると見、あるいは自我は形・受・想・行・識の中にあると、常に常に関連させて見る。

 述べたような状態の見解はどれもディッティであり、ディッティで行き、ディッティで混乱し、ディッティによる不毛、ディッティによる敵対、ディッティによる混乱、ディッティによる結合、こだわり、掴んでおくこと、強く執着すること、撫で回すこと、悪の道、間違った道、間違ったあり方、誤った教義の伝承、間違った探求を信じること、これらを我語取と言う。これが取という名のすべてのダンマである』。




取蘊の根

 「猊下。取蘊は、まだ取がある形蘊、まだ取がある受蘊、まだ取がある想蘊、まだ取がある行蘊、まだ取がある識蘊の五種類だけですか」。

 比丘のみなさん。取蘊は五種類しかありません。まだ取がある形蘊、まだ取がある受蘊、まだ取がある想蘊、まだ取がある行蘊、まだ取がある識蘊だけです。

 「猊下。それでは五取蘊には何が根(ね)としてあるのですか」。

 比丘のみなさん。これらの取蘊にはチャンダ(満足)が根(ね)としてあります。

中部ウパリバンナーサ 14巻101頁121項





取と取蘊は同じではない

 「猊下。五取蘊というのは取のことですか。それとも取と五取蘊は違いますか」。

 比丘のみなさん。取は五取蘊ではありません。しかし取は五取蘊以外にありません。五取蘊の中にあるチャンダラーガ(欲貪)が、この場合の取だからです。

中部ウパリバンナーサ 14巻101頁121項





取と取の基盤

 比丘のみなさん。取と取の基盤について説明します。みなさんお聞きなさい。

 比丘のみなさん。取の基盤は何でしょうか。そして取とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。ルーパ(形=体)が取の基盤で、その形にあるどんなチャンダラーガ(喜んで満足することによる欲情)も、それがその形の取です。

 比丘のみなさん。ヴェーダナー(受)は取の基盤で、その受にあるどんなチャンダラーガ(喜んで満足することによる欲情)も、それがその受の取です。

 比丘のみなさん。サンニャー(想)が取の基盤で、その想にあるどんなチャンダラーガ(喜んで満足することによる欲情)も、それがその想の取です。

 比丘のみなさん。サンカーラ(行)が取の基盤で、その行にあるどんなチャンダラーガ(喜んで満足することによる欲情)も、それがその行の取です。

 比丘のみなさん。ヴィンニャーナ(識)が取の基盤で、その識にあるどんなチャンダラーガ(喜んで満足することによる欲情)も、それがその識の取です。

 比丘のみなさん。これらの蘊を取の基盤と言い、このチャンダラーガ(欲貪)を取と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻202頁309項





五蘊を「有身」と「有身辺」と名付ける

 比丘のみなさん。サッカーヤ(有身)とは何でしょうか。比丘のみなさん。答えは五取蘊です。どの五つでしょうか。五つとはまだ取がある形蘊、まだ取がある受蘊、まだ取がある想蘊、まだ取がある行蘊、まだ取がある識蘊です。比丘のみなさん。これをサッカーヤ(有身)と言います。

 比丘のみなさん。サッカーヤンタ(有身辺)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。答えは五蘊です。どの五つでしょうか。それはまだ取がある形蘊、まだ取がある受蘊、まだ取がある想蘊、まだ取がある行蘊、まだ取がある識蘊です。比丘のみなさん。これをサッカーヤンタと言います。

 相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻193頁285項





動物が貼り付くもの

 比丘のみなさん。輪廻は(丸い輪なので)人が知ることができない初めと終わりがあります。無明に塞がれ、欲望に縛り付けられ、今も駆け回っているすべての動物に始めと終わりは現れません。

 比丘のみなさん。紐で頑丈な柱に繋がれている犬は、歩く時は柱に貼り付いて歩き、立つにも柱に張り付いて立ち、座るにも柱に貼り付いて座り、寝るにも柱に貼り付いて寝ます。

 比丘のみなさん。同じように聞くことがない凡夫は、当然いつでもルーパ(形=体)を

「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見、いつでもヴェーダナー(受)を「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見、いつでもサンニャー(想)を「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見、いつでもサンカーラ(行)を「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見、いつでもヴィンニャーナ(識)を「それは私の物。それは私。それは私の実体」と見ます。

 凡夫は歩くにも五取蘊の周りを歩き、立つにも五取蘊の傍に立ち、座るにも五取蘊の近くに座り、寝るにも五取蘊の傍で寝ます。

 比丘のみなさん。だからこのことは「この心が貪りと怒りと愚かさで永遠に憂欝になる」と、このように自分の心を熟慮して見るべきです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻183頁258項





罠に掛かる人、罠から脱す人

 比丘のみなさん。執着している人を悪魔の捕縛具があると言い、執着しない人を悪魔の捕縛具から脱したと言います。

 「完全に理解しました、猊下。私は完全に理解しました」。

 比丘。あなたは私が話した言葉を概略で理解したのですか、詳細に理解したのですか。

 「猊下。形、受、想、行、識に執着する人は、悪魔の捕縛具があると言われ、形、受、想、行、識に執着しない人は、悪魔の捕縛具から脱したと言われます。私はプラスガタが簡略に述べられた言葉の内容を、詳細に理解しました」。

 良い、良い、比丘。あなたは私が簡単に話した言葉の内容を、詳細に良く理解しました。比丘。私が簡単に話した内容を、人はそのように詳細に見るべきです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻91頁138項


(罠に掛かることをこの経では「執着する」という言葉を使っていますが、他の経では「思い込んでいる」という言葉を使っているのもあり、「夢中になっている」という言葉を使っているのもあります。言葉を入れ替えて使うことができます。17巻92頁140項)





執着による驚愕 一

 比丘のみなさん。執着による驚愕について説明します。みなさんこれを聞いて、心の中を役に立つようになさい。今話します。

 比丘のみなさん。執着が原因の驚愕はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。話を聞かないこの世界の凡夫は聖人が見えず、聖人のダンマに賢くなく、聖人のダンマの忠告を受けず、善人が見えず、善人のダンマに賢くなく、善人のダンマの忠告を受けないので、当然その人はいつでも形を自分と見、当然いつでも自分は形があると見、当然いつでも形は自分にあると見、当然いつでも自分は形の中にあると見ます。

 しかしその形は当然際限なく変化し、当然違う状態になるので、その人の識は、形の際限ない変化につれて変化する識です。形は他の物によって際限なく変化するので、(そのようなら)形の際限ない変化から生じる驚愕させる物の発生が、当然その人の心を支配しています。

 その人は驚愕させる物に心を支配されているので、驚愕し、困窮し、杞憂する人であり、そして取が原因で驚愕します。

 (形・受・想・行・識に従うことに関した場合についても、形と同文で話されています)。

 比丘のみなさん。取が原因の驚愕は、このような状態であります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻20頁31項





執着による驚愕 二

 比丘のみなさん。取による驚愕について説明します。みなさんこれを聞いて、心の中を役立つようになさい。今話します。

 比丘のみなさん。取による驚愕とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の耳を傾けて聞かない凡夫は、当然いつでも形を「これは私の物。これは私。これは私の自我」と見ます。しかしその形は当然際限なく変化し、当然その人を違う状態にします。形が際限なく変化して別の状態になることで、悲しみ、嘆き、苦、憂い、苦悶のすべてが、当然その凡夫に生じます。

 (受・想・行・識の場合も、形の場合と同文で話されています)。

 比丘のみなさん。取が原因で生じる驚愕は、このような状態であります。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻24頁34項





他の教義は我語取を知らない

 比丘のみなさん。取はこの四種類です。四種類とはどれでしょうか。四種類とは、

1.五欲への執着=カームパダーナ(欲取)、

2.見解への執着=ディットゥパダーナ(見取)、

3.間違った戒への執着=シーラパットゥパダーナ(戒禁取)、

4.自分という考えの執着=アッタヴァートゥパダーナ(我語取)です。


 比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人たちは「すべての取を知り尽した人です」と宣言しますが、彼らはすべての取を正しく知り尽す規定をしてなく、彼らが規定できるのは欲取だけで、見取を知り尽すことを規定せず、戒禁取を知り尽すことを規定せず、我語取を知り尽すことを規定していません。

 それは何故でしょうか。そのサマナ・バラモンは当然(それ以外の)三つの立場を真実のままに知らないからです。だからそのサマナ・バラモンたちは「すべての取を知り尽した人です」と自ら宣言しながら、すべての取を正しく知り尽したと規定していません。つまり彼らが規定できるのは欲取を知り尽すことだけで、見取を知り尽くし、戒禁取を知り尽くし、我語取を知り尽くしたと規定できません。

 比丘のみなさん。別のサマナ・バラモンたちは「すべての取を知り尽した人です」と宣言しますが、それらのサマナ・バラモンはすべての取の正しい知悉を規定していません。彼が規定できるのは欲取と見取だけで、戒禁取と我語取を知悉したと規定できません。それは何故でしょうか。そのサマナ・バラモンは、当然(それ以外の)二つの立場を、真実のままに知らないからです。

 だからそのサマナ・バラモンたちは「すべての取を知り尽した人です」と宣言しながら、すべての取を知悉する正しい規定できません。彼らが規定できるのは欲取と見取を知悉することだけで、戒禁取を知悉すること、我語取を知悉することは規定できません。

 比丘のみなさん。また別のサマナ・バラモンたちは「すべての取を知り尽した人です」と宣言しますが、それらのサマナ・バラモンは、すべての取を知悉する正しい規定がありません。彼らが規定できるのは、欲取と見取と戒禁取を知悉することだけで、我語取を知悉したと規定できません。それは何故でしょうか。

 そのサマナ・バラモンは、当然(それ以外の)一つの場合を、真実のままに知らないからです。だからそのサマナ・バラモンたちは「すべての取を知り尽した人です」と宣言しながら、すべての取を知り尽す正しい規定ができません。彼らが規定できるのは欲取と見取と戒禁取を知り尽すことだけで、我語取を知り尽したと規定できません。

中部ムーラバンナーサ 12巻132頁156項

 

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