ヴェーダナー(受)という言葉の意味
比丘のみなさん。一般の人はどんな意味に依存して受(ヴェーダナー=感じる)と言うのでしょうか。
比丘のみなさん。(触が生じた結果)そのように感受する動きがあるので、これを受と呼びます。それは当然何を感じることができるのでしょうか。当然幸福の感覚を感じ、当然苦を感じ、そして当然、幸福でも苦でもない感覚(などを)を感じることができます。
比丘のみなさん。それには(触から生じた結果)を感じる動きがあるので、ヴェーダナー(受)と呼ばれます。
受の譬え
比丘のみなさん。雨季の終りに大粒の雨が降ると、当然水溜りができ、水面を弾いて跳ね返ります。(普通に)目の良い人がその水溜りを見ると絶妙の熟慮分析をし、その人が絶妙に熟慮分析して見れば、その水溜りは空虚な物と明らかになり、実体のない物と明らかになります。比丘のみなさん。その水溜りに、どうして実体があるでしょうか。これが譬えです。
比丘のみなさん。同じように過去でも現在でも未来でも、内部でも外部でも、上品でも下品でも、粗悪でも繊細でも、近くにあっても遠くにあっても、何らかの受を感じる比丘は、当然絶妙の熟慮分析をし、その比丘が感じていて、絶妙の熟慮分析をして見ていれば、その受は当然空虚な物と明らかになり、実体のない物と明らかになります。比丘のみなさん。その受に、どうして実体があるでしょうか。
「地下」の本当の意味
比丘のみなさん。聞くことがない凡夫は海の下に地下があると言います。比丘のみなさん。聞くことがある聖人である弟子は海の下に地下はないと言います。
比丘のみなさん。地下という言葉は、この体にある苦受の代名詞です。比丘のみなさん。聞くことがない凡夫が体にある苦受に触れると、当然悲しみ、当然心が苦しく、際限なく嘆き、胸を叩いて泣き、当然サティの昏迷に至ります。比丘のみなさん。聞くことがない凡夫は地下に沈んで、踏んで立つ足場がないと私は言います。
比丘のみなさん。聞くことがある聖人である弟子は、体にある苦受に触れても当然悲しまず、当然心が苦しくなく、嘆かず、胸を叩いて泣く人でないので、当然サティの昏迷に至りません。比丘のみなさん。聞くことがあるこの比丘は地下に沈まないので、踏んで立つ足場があると私は言います。
受の八つの状態
比丘のみなさん。受はこの三種類である、幸受(幸福な感覚)、苦受(苦である感覚)、不苦不幸受(幸福でも苦でもない感覚)があります。私はこれを受と呼びます。
触が生じることで、受が生じ(これが受の集)
欲望は受が生じることに至る道で(これが受の集道諦)
触が消滅することで受が消滅し(これが受の滅)
八正道は受の消滅に至る道です。つまり正しい見解、正しい考え、正しい発言、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディで(これが受の滅至道)、
受に依存して生じるどんな幸福喜びも、これが受の旨味(アッサーダ)で、
受の無常・苦・変化するのが当たり前であることは、受の害(アーディナヴァ)で、
受の欲貪(チャンダラーガ)を取り出してしまうこと、捨ててしまえることが、受から出るニッサラナ(脱出する方便)です。
受に関して特に知るべきこと
ブッダの弟子は心が安定した人で、サティがあり自覚があり、当然受と、受の発生源と、受を終わらせる道と、(受の欲貪が)消滅した物であるダンマをハッキリと知っています。比丘はすべての(受の欲貪)が終わったので、渇きが完全に静まった人です。
幸福でも苦でも、苦でも幸福でもなくても、外部でも内部でも、何らかの受があれば、それらは苦であり、騙すのは当たり前、崩壊も当たり前と知る人は、それを味わう時、終わりがあるのは当たり前と見ます。このようなら当然その受に欲情はありません。
人が幸受(幸福の感覚)を味わう時、その受を良く知らなければ、受の威力から出る道が見えない人に当然貪欲随眠があります。人が苦受を味わう時その受を良く知らなければ、その受の威力から出る出口が見えない人に当然瞋恚随眠があります。ブッダが静まったものと説明している不幸不苦に夢中になっている人も、苦から脱すことはできません。
比丘が煩悩を焼く努力をして自覚を捨てなければ、すべての受を知り尽くした博学者であり、その比丘は受を知り尽しているので、生きているうちに漏のない人になり、体が崩壊するまでダンマを維持する人になり、知ることが終わり、「何々である」と見なすに至りません。
体に生じた死ぬほどの苦受に耐えられない人は当然動揺し、当然泣き嘆いて衰弱し、力尽き、その人は(受の)地下に沈んで、踏んで立つ足場がありません。
一方体に生じた死ぬほどの苦受に耐えられる人は、当然動揺せず、その人は踏みしめる足場があるので地下に沈みません。
幸福(喜び)を苦と見、苦を矢と見、幸福でも苦でもない物を無常と見る人は、その人は正しく見る比丘であり、当然受を知り尽している人です。受を知り尽くすことで生きているうちに漏のない人、体が崩壊するまでダンマを維持している人になり、知ることが終わり、「何々」と見なすに至りません。
受の分類
比丘のみなさん。みなさんに百八の意味のダンマの解説をします。みなさん。このダンマの解説をお聞きなさい。
比丘のみなさん。百八あるダンマの解説はどのようでしょうか。比丘のみなさん。二種類の受も私は説明し、三種類の受も説明し、五種類の受も説明し、六種類の受も説明し、十八種類の受も説明し、三十六種類の受も説明し、百八種類の説明をしました。
比丘のみなさん。二種類の受とはどのようでしょうか。二種類の受とは、体で経過する受と、心で経過する受で、比丘のみなさん。これを受の二種類と言います。
比丘のみなさん。三種類の受はどのようでしょうか。三種類の受とは、幸受(幸福な感覚)、苦受(苦である感覚)、そして不苦不幸受(まだ幸福とも苦とも言えない感覚)で、比丘のみなさん。これらを三種類の受と言います。
比丘のみなさん。五種類の受はどのようでしょうか。五種類の受とは、幸福根・苦根・喜根・憂根・捨根で、比丘のみなさん。これらを五種類の受と言います。
比丘のみなさん。六種類の受はどのようでしょうか。受の六種類とは、目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、そして心の触から生じる受で、丘のみなさん。これらを受の六種類と言います。
比丘のみなさん。十八種類の受とはどのようでしょうか。受の十八種類とは、喜びに集約される心の感覚六種と、憂いに集約される心の感覚六種類と、捨に集約される心の感覚、それぞれ六種類で、比丘のみなさん。これらを十八種類の受と言います。
比丘のみなさん。三十六種類の受はどのようでしょうか。受の三十六種類は、家(五欲)に関わる喜びの受が六種類、家(五欲)から離れることに関わる喜びの受が六種類、家に関わる憂いの受が六種類、家から離れることに関わる憂いの受が六種類、家に関わる捨の受が六種類、家から離れることに関わる捨の受が六種類です。比丘のみなさん。これらを三十六種類の受と言います。
比丘のみなさん。百八種の受とは何でしょうか。百八種の受とは、過去の(前述した)三十六種の受、未来の三十六種の受、そして現在の三十六種の受です。比丘のみなさん。これらを百八種の受と言います。
比丘のみなさん。これらを百八あるダンマの解説と言います。
ダンマ(つまり受)は幾つもの意味に規定できる
(迷って反論させる原因)
比丘のみなさん。私は二つの意味で、三つの意味で、五つの意味で、六つの意味で、十八の意味で、三十六の意味で、百八の意味で受について話しました。
比丘のみなさん。私が説明したこのような意味で、このように説明した時、私が良く述べ、良く話したダンマと同じ理解をせず、同じに知らず、同じに満足しない人は誰でも、このような時、彼らが期待できることは仲違い、ケンカ、仲間割れ、口の槍による刺し合いです。
比丘のみなさん。私が説明したそのような意味で、そのようなダンマの説明をした時、私が良く話したダンマと同じに理解し、同じに知り、同じに満足する人は誰でも、彼らが期待できることは、一つにまとまり、互いに楽しく、仲違せず、乳と水のように溶けあい、愛し合う視線で互いに見ることです。
受が不変でないのは当たり前
アッギヴェッサナさん。受はこの三種類あります。三種類とはどの種類でしょうか。三種類とはスッカヴェーダナー(幸受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、アドゥッカマスッカヴェーダナー(不苦不幸受)です。
アッギヴェッサナさん。幸受を味わっている時はいつでも、その時は苦受と不苦不幸受を味わってなく、その時味わっているのは幸受だけです。
アッギヴェッサナさん。苦受を味わっている時は幸受も不苦不幸受も味わってなく、その時味わっているのは苦受だけです。
アッギヴェッサナさん。不苦不幸受を味わっている時は幸受も苦受も味わってなく、その時味わっているのは不苦不幸受だけです。
アッギヴェッサナさん。幸受は無常であり、縁によって作られ、原因に依存して生じ、終りがあるのも当たり前、衰退するのも当たり前、薄れて行くのも当たり前、消滅するのも当たり前です。
アッギヴェッサナさん。苦受も無常であり、縁によって作られ、原因があって生じ、終りがあるのも当たり前、衰退するのも当たり前、薄れて行くのも当たり前、消滅するのも当たり前です。
アッギヴェッサナさん。不苦不幸受も無常であり、縁によって作られ、原因があって生じ、終りがあるのも当たり前、衰退するのも当たり前、薄れて行くのも当たり前、消滅するのも当たり前です。
受は当たり前に変化する
比丘のみなさん。目の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
比丘のみなさん。耳の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
比丘のみなさん。鼻の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
比丘のみなさん。舌の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
比丘のみなさん。体の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
比丘のみなさん。心の触から生じる受は不変でない物で、変化し、別の物になれます。
受は苦であり、矢であり、不変でないもの
比丘のみなさん。受にはこの三種類あります。どの三種類でしょうか。三種類とは幸受、苦受、そして不苦不幸受です。
比丘のみなさん。幸受は苦と見るべきで、苦受は矢と見るべきで、不苦不幸受は不変でない物と見るべきです。
比丘のみなさん。幸受を比丘が必ず苦と見、苦受を比丘が必ず矢と見、不苦不幸受を比丘が必ず不変でない物と見ていれば、比丘のみなさん。私はその時その比丘を「正しく見る人で、欲望を断つことができた。サンヨージャナ(結)を抜き取ることができた。マーナ(慢)の顔つきを正しく知って苦を終わらせた」と言います。
受はどんな種類も苦と結論する
ある比丘が質問しました。
「猊下。私が静寂な場所に住んでいる時、心の中に『スガタ様は、受は幸受・苦受・不苦不幸受の三種類あるとおっしゃったが、受はどれも苦に集約できるともおっしゃっている』という熟慮が生まれました。どの受も苦に集約できるとはどのような意味でしょうか」。
比丘。そうです、そうです。私は「この三種類の受は幸受、苦受、不苦不幸受であり、そしてどんな受も苦に集約できる」と言いました。それは、すべての行は不変でない物という意味です。そして「すべての行に終わりがあるのは当たり前、衰退があるのは当たり前、薄れるのは当たり前、消滅するのは当たり前、変化するのは当たり前」という意味で、どの受も苦に集約されると言っています。
受は随眠が来る道
比丘のみなさん。目と形に依存して眼識が生じ、耳と音に依存して耳識が生じ、鼻と臭いに依存して鼻識が生じ、舌と味に依存して舌識が生じ、体と接触に依存して身識が生じ、心と概念に依存して意識が生じます。
三つ(目と形と眼識など)の会合を触と言い、触が縁で受が生じ、幸福になったり、苦になったり、幸福でも苦でもなかったりします。その人が幸受に触れると当然夢中になり、当然褒めちぎり、溺れ、貪欲随眠は当然その人の本性の中で眠っています。
苦受に触れた時は当然悲しく、当然苦しく、嘆き、胸を叩いて泣き、呆け状態になり、瞋恚随眠は当然その人の本性の中で眠っています。
苦でも幸福でもない受に触れた時は、当然その受が生じた原因も、その受の消滅も、その受の旨味も、その受の害も、その受から出る方便も真実のままに知らず、無明随眠は当然その人の本性の中で眠っています。
比丘のみなさん。その人はね、まだ幸受ゆえに内部の貪欲随眠を捨てることができず、まだ瞋恚随眠を静めることができず、無明随眠を抜き取ることができず、まだ無明を捨てることができず、そしてまだ無明が生じないようにすること、生きているうちに苦を終わらせることができません。
受の絶佳な味
比丘のみなさん。すべての受の旨味はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲とすべての悪が静まって、当然ヴィタカ・ヴィチャーラ(思惟と考察)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福のある初禅に到達し、そして絶えずその感覚の中にいます。
比丘のみなさん。比丘が愛欲とすべての悪が静まることで、当然遠離から生じたヴィタカ・ヴィチャーラ、喜悦と幸福がある初禅に到達すれば、その時彼は、当然自分を困らせる考えも、当然他人を困らせる考えも、そして自分と他人の両方を困らせる考えもしません。その時その人は、当然誰も困らせない受を味わっています。比丘のみなさん。私はすべての受の旨味は、誰をも困らせないと言います。
比丘のみなさん。まだあります。ヴィタカ・ヴィチャーラ(思惟と考察)が静まることで、当然心の中を明るくする物であり、一つだけの頑丈であるサマーディ(三昧)を生じさせ、思惟と考察はなく、あるのは喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして絶えずその感覚の中にいます。
比丘のみなさん。その比丘が心を明るくする物であり、ヴィタカ・ヴィチャーラが静まることで、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけの二禅に到達し、その感覚の中にいます。
その時その人は当然自分を困らせる考えがなく、当然他人を困らせる考えがなく、そして当然自分と他人の双方を困らせる考えもありません。その時その人は、当然誰も困らせない受を味わっています。比丘のみなさん。私は、すべての受の味は、決して誰も困らせないと言います。
比丘のみなさん。まだあります。喜悦が薄れて比丘がウベカー(捨)にいる人になり、サティと自覚があり、名身で幸福を味わうと、当然聖人のみなさんが「三禅に到達した人は捨にいて、サティがあり、正常な幸福」と言う三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
比丘のみなさん。比丘が喜悦が薄れることで捨にいる人になり、サティと自覚があり、名身で幸福を味わう時はいつでも、その時は当然自分を苦しめる考えがなく、当然他人を苦しめる考えがなく、当然自分と他人の双方を苦しめる考えもありません。その時その人は誰も苦しめない受を味わっています。比丘のみなさん。私はすべての受の旨味は、決して誰もどのようにも苦しめないと言います。
比丘のみなさん。まだあります。比丘が幸福と苦を捨てることができ、過去の喜びと憂いを捨てることができれば、当然喜びも苦もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そして絶えずその感覚の中にいます。
その時彼は、当然自分を困らせる考えがなく、当然他人を困らせる考えがなく、当然自分と他人の双方を困らせる考えもありません。その時その人は、当然誰も困らせない受を味わっています。比丘のみなさん。すべての受の旨味は、決して誰も、どのようにも困らせないと言います。
受は動物の心が行く道
比丘のみなさん。私が「動物の三十六の(心の)行き先を知るべきだ」と言うのは、どの規則に依存して言うのでしょうか。
比丘のみなさん。私は教えに依存して、つまり家に関わる喜び六種類、家を避けることに関わる喜び六種類、家に関わる憂い六種類、家を避けることに関わる憂い六種類、家に関わる捨六種類、家を避けることに関わる捨六種類に依存して言います。
比丘のみなさん。すべての受の中の家に関わる喜びはどのようでしょうか。比丘のみなさん。私たちが欲しくなる可愛い、満足すべき、喜ばしい、目を通じた世界の餌である形を自分の所有物と見れば、あるいは自分がかつて所有していたことがあり、過ぎ去り、消え、変化した形を思っても、喜びが生じます。このような状態があるどんな喜びも、この喜びを家に関わる喜びと言います。
(声、臭い、味、接触、想念の場合も、形と同ように話されています)。
比丘のみなさん。これらが家に関わる喜び六種類です。
比丘のみなさん。すべての受の中の家を避けることに関わる喜び六種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。すべての形の無常を明らかに知り、すべての形の変化、欲情が薄れること、そして消滅、「過去でも現在でも、すべての形は、それらすべては無常であり、苦であり、当然変化する」と正しい智慧で真実のままに見ていれば喜びが生じます。このような状態の喜びは何でも、家を避けることに関わる喜びと言います。
(声、臭い、味、接触、そして想念の場合も、形と同様に話されています)。
比丘のみなさん。これらが家を避けることに関わる喜び六種類です。
比丘のみなさん。すべての受の中の、家に関わる憂いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。目を通した世界の餌に関わる望ましい、愛らしい、満足すべき、楽しい形が得られないことを自分が得られない物と見れば、あるいは自分がかつて一度も得たことがない、そのような形を思い出せば憂いが生じます。このような状態の憂いを、家に関わる憂いと言います。
(声、臭い、味、接触、想念の五種類についても、形と同様に話されています)。
比丘のみなさん。これらが家に関わる憂い六種類です。
比丘のみなさん。すべての受の中で、家を避けることに関わる憂い六種類はどのようでしょうか。比丘のみなさん。
私たちがすべての形の無常、変化すること、欲情の弛緩、そしてすべての形の消滅を明らかに知り、正しい智慧で「すべての形は昔も今も、すべて無常であり、苦であり、当たり前に変化がある」と真実のままに見れば、彼は「聖人のみなさんが入り、そして常にその感覚の中にいる(空無辺処から非想非非想処までの)処に、私が到達するのはいつだろう」と、当然三解脱のすべてに満足します。
このように三解脱のすべてに満足すれば、当然その満足が縁になって憂いが生じます。このような状態の憂いはどれもで、家から離れることに関わる憂いと言います。
(声、臭い、味、接触、想念の五種類についても、形と同様に話されています)。
比丘のみなさん。これらを家から離れることに関わる憂いの六種類と言います。
比丘のみなさん。すべての受の中の家に関わる捨六種類とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。目で形を見ると、幼稚な人、迷っている人、愚かな人、凡夫、まだ煩悩に勝てない人、まだ障害に勝てない人、罪が見えない人、(説法を)聞かない人に捨が生じ、凡夫の捨はどれも、形の範囲を超えることはできません。だから私はその捨を、家に関わる捨と呼びます。
(この場合、声、臭い、味、接触、想念の五種類も、形と同文で話されています)。
比丘のみなさん。これらを家に関わる捨六種類と言います。
比丘のみなさん。すべての受の中の家から離れることに関わる捨六種類とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。私たちがすべての形の無常、変化、欲しがる気持ちが薄れること、そしてすべての形の消滅を、「すべての形は昔も今も、すべての形は無常であり、苦であり、当たり前に変化する」とこのように正しい智慧で真実のままに見えれば、捨が生じます。
このような状態の捨は何でも、形の領域を出ることができません。だから私はその捨を、家を離れることに関わる捨と呼びます。
(この場合声、臭い、味、接触、想念の五種類についても、形と同文で話されています)。
比丘のみなさん。これらを家から離れることに関わる捨六種類と言います。
比丘のみなさん。私は「動物が知るべき行き先三十六種類」という言葉のどれも、これに依存して述べます。
受の発生は苦の発生と同じ
比丘のみなさん。目・耳・鼻・舌・体・心の触から生じる受の発生と維持、極めて発生すること、そして現れれることは、苦が生まれること、各種の突き刺すものがあること、そして老いと死が現れることと同じです。
受の生滅の状態
比丘のみなさん。この三種類の受は触から生じ、根源である触、原因である触、縁である触があります。三種類はどれでしょうか。
三種類とはスッカヴェーダナー(幸福の感覚。幸受)、ドゥッカヴェーダナー(苦の感覚。苦受)アドゥッカマスッカヴェーダナー(まだ苦でも喜びでもない感覚。不苦不幸受)です。
比丘のみなさん。幸受は当然、幸受の基盤である触に依存して生じ、幸受の基盤である触が消滅することで、幸受の基盤である触に依存して生じた受は当然消滅し、当然静まります。
(この場合、苦受と不苦不幸受についても幸受と同じように話されています)。
比丘のみなさん。二本の火点け木を擦ると熱が生じて火が点き、火点け木を離すと熱も消え、火が消えるように、比丘のみなさん。三つの受は触から生じ、根源である触があり、原因である触があり、縁である触があります。触に依存して当然生じ、触が消滅すれば当然消滅します。
受に関した規定
比丘のみなさん。受に依存して生じるどんな喜びも、その喜びは受の旨味です。受は無常であり、苦であり、当たり前に何らかの状態に変化し、その状態が受の害です。その受に満足する威力で生じる欲情を取り出してしまうため、受に満足する威力で生じる欲情を何らかの方便で捨ててしまう、その方便が受から出る(ニッサラナ)道具です。
四聖諦の意味での受蘊
比丘のみなさん。受はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つの受は、目の触から生じる受、耳の触から生じる受、鼻の触から生じる受、舌の触から生じる受、体の触から生じる受、心の触から生じる受です。比丘のみなさん。これをヴェーダナー(受)と言います。
受の発生は触が生じることであり、受の消滅は触が消滅することによってあります。八正道は受の完璧な消滅に至る道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
受に関して知らなければならないこと
「受とはどんなものですか。受はどのように生じ、どのように消滅しますか。受の消滅に至る道はどのようですか。何が受の旨味で、何が受の害で、何が受から出る方便ですか」とプラアーナンダが質問しました。
アーナンダ。受には幸受・苦受・不苦不幸受の三種類があります。アーナンダ。私はこれを受と呼びます。
受の発生は当然触の発生によってあり、受の消滅は当然触の消滅によってあります。すなわち八項目の素晴らしい道、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心が受の消滅に至る道です。
受に依存して生じる喜びは何でも、それが受の旨味です。受は無常であり、苦であり、当たり前に変化します。それが受の害です。その受の欲貪(喜びで貪ること。チャンダラーガ)を無くすこと、捨ててしまうことが、受から出る方便です。
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