誘い懇願する言葉
比丘のみなさん。みなさんがするべきヨーガカンマは、
「これが苦、これが苦を生じさせる原因、
これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るためです。
涅槃はもう説明しました。
涅槃への道も、みなさんに説明しました。
可愛がる教祖が、可愛がることの利益を求めて、
弟子のみなさんにするべきことは何でも、
みなさんにしました。
ほら、木の根本、ほら、空き家。
みなさん、煩悩を燃やす努力をなさい。
油断をしてはいけません。
後で苦しむ人になってはいけません。
これが、私がみなさんに口うるさく教えることです。
四聖諦の解説
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称)は、バラーナシーの都に近いイシパタナマルガダーヤワンで至高の法輪を開示しました。サマナ・バラモン・天人・悪魔・梵天、この世界の誰一人、抵抗して後戻りさせることができないダンマの車輪です。
それは四種類の素晴らしい真実を話し、説明し、規定し、開示し、分類し、簡単に理解させることです。四種類とは何でしょうか。四種類とは、素晴らしい真実である苦、素晴らしい真実である苦を生じさせる原因、素晴らしい真実である滅苦、素晴らしい真実である滅苦に至る道です。
比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである如行は、バラーナシーの都に近いイシパタナマルガダーヤワンで至高の法輪を開示しました。それはサマナ・バラモン・天人・悪魔・梵天、この世界の誰も抵抗して後戻りさせられないダンマの車輪です。それは、この四つの素晴らしい真実の教え、説教し、規定し、公開し、簡単に理解させることです。
苦諦について
苦諦の例示
比丘のみなさん。素晴らしい真実である苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。生は苦、老いは苦、死は苦、愁い、嘆き、体の苦、心の苦、憂いは苦、嫌いなものに会うのは苦、愛している者と離れるのは苦、望んで叶わないのも苦、要するに五取蘊(取の基盤である五蘊)は苦です。
これを素晴らしい真実である苦と言います。
一般原則の苦の種類と症状
生
比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。比丘のみなさん。生まれること、誕生すること、(母の胎内に)降りて行くこと、発生すること、突然生まれること、すべての蘊が発現すること、その生物の分類の動物のいろんな処入があることを生と言います。
老
比丘のみなさん。老いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。老いること、呆けること、歯が抜けること、白髪になり皮膚にしわがよること、その動物の部類の六根が衰え、寿命が衰えること。これを老いと言います。
死
比丘のみなさん。死はどのようでしょうか。比丘のみなさん。死ぬこと、移動すること、崩壊して無くなること、消滅、命が終わること、死ぬこと、すべての蘊の崩壊、その動物の体を捨てること。これを死と言います。
悲しみ
比丘のみなさん。悲しみはどのようでしょうか。比丘のみなさん。悲しみ、憂い、何らかの災難に遭った人の、何らかの苦の衝撃を受けた人の悲しみ、憂悶。これを悲しみと言います。
嘆き
比丘のみなさん。嘆きはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの苦である何らかの災難に遭った人の嘆き悲しみ、愚痴、嘆き悲しむこと、呆けて愚痴を言うこと、嘆き悲しむ人であること、愚痴を言う人であることです。これを嘆きと言います。
体の苦
比丘のみなさん。体の苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。体で経過する耐えがたいこと、体で経過する安楽でない(病気。異常)こと、耐え難いこと、体の刺激から生じる安楽でない感覚。これを体の苦と言います。
心の苦
比丘のみなさん。心の苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。心で経過する耐え難いこと、心で経過する安楽でないこと、耐え難いこと、心の刺激から生じる安楽でない感覚。これを心の苦と言います。
憂い
比丘のみなさん。何らかの苦、何らかの災難に遭遇した人の憂鬱、不満、悶々とした状態、悩みのある状態。これを憂いと言います。
愛していないものと会うこと
比丘のみなさん。嫌いなものと出合うことは苦、とはどのようでしょうか。
比丘のみなさん。その人にある望まない、欲しくない、満足できない形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待しない、支援を期待しない、安寧を願わない、その人との絆の安全を願わない人たち、その感情、あるいはそれらの人と一緒に行かねばならないこと、一緒に来なければならないこと、一緒に暮らさなければならないこと、混じらなければならないこと。これを嫌いなものと一緒にいることは苦と言います。
愛するものと離れること
比丘のみなさん。愛するものと離れることは苦、とは何でしょうか。
比丘のみなさん。その人にとって望ましい、欲しくなる、満足する形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待し、支援を期待し、安寧を願い、その人との絆の安全を願う人たちである、両親や兄弟、友人、相談役、血族などと一緒に行かないこと、一緒にいないこと、一緒に住まないこと、その人あるいはその感情と一緒にいないこと。これを愛するものと離れることは苦と言います。
望んで叶わないこと
比丘のみなさん。望んで叶わないことは苦、とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。生が当たり前にある動物に「ああ、私たちは、当たり前のように生がある人になりたくない。そして生が私たちの所へ来なければなあ」と、当然このような望みが生まれます。これは動物が望んで到達できることではありません。これも望んで叶わないのは苦と言います。
比丘のみなさん。老いが当たり前にある生動物に、当然「ああ、私たちは当たり前に老いのない人になりたい。そして老いが私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは動物が望んで到達できることではありません。これも望んで得られないのは苦と言います。
比丘のみなさん。病気が当たり前にある動物に、当然「ああ、私たちは病気が当たり前にない人になりたいなあ。そして老いが私に来なければなあ」と、このような願いが生じます。これは動物が望んで到達できることではありません。これも何かを望んで得られないのは苦と言います。
比丘のみなさん。死が当たり前にある動物に、当然「ああ、私たちは当たり前に死のない人になりたい。そして死が私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは、動物が望んで到達できることではありません。これも望んで得られないのは苦と言います。
比丘のみなさん。悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みがあるのが当たり前の動物に、当然「ああ私に、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが当たり前にない人になりたい。そして悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが私に訪れなければなあ」という望みが生まれます。これは動物が望んで叶う訳ではありません。これも望んで叶わないのは苦、と言います。
五取蘊
比丘のみなさん。「要するに五取蘊は苦」とはどのようでしょうか。
比丘のみなさん。五取蘊とはこれらです。執着の基盤である蘊とは形。執着の基盤である蘊とは受。執着の基盤である蘊とは想。執着の基盤である蘊とは行。執着の基盤である蘊とは識。これらを「要するに五取蘊は苦」と言います。
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