ブッダヴァチャナによる四聖諦


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四聖諦の種類、あるいは構造




四聖諦の教えは一つでも、説明は多様

 比丘のみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」という素晴らしい真実は、私が規定したものです。しかしその真実は、このような例も本当は苦、このようなのも本当は苦と、纏められないほどたくさんの言葉と表現、そして詳細な分類があります。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、事実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻539頁1696項






四聖諦の大意 (一般の意味)

 比丘のみなさん。これが苦の素晴らしい真実です。つまり生は苦、老いは苦、病は苦、死は苦、嫌いなものに遭遇するのも苦、愛しているものと別れるのも苦、望んで得られないのも苦、簡単に言えば執着のある五蘊は苦です。

 比丘のみなさん。これが苦を生じさせる原因の素晴らしい真実です。つまり陶酔の威力による欲情があり、その感情に極めて夢中にさせるものであり、再び生まれさせるものである欲、すなわち愛欲、有欲、無有欲です。

 比丘のみなさん。これが滅苦の素晴らしい真実です。つまりその欲望が残らず消滅すること、その欲望を振り払うこと、返却すること、手放すこと、住処を無くすことです。

 比丘のみなさん。これが動物を苦の消滅に至らせる実践項目、八項目からなる素晴らしい道である実践項目です。すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。

律蔵マハーヴィタン 4巻18頁14項






四聖諦の大意 (五取蘊での説明)

 比丘のみなさん。素晴らしい真実はこれらの四つがあります。四つはどれでしょうか。四種類とは、苦である素晴らしい真実、苦の原因である素晴らしい真実、苦の消滅である素晴らしい真実、そして苦の消滅に至る道である素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。素晴らしい真実である苦はどのようでしょうか。答えは、執着の基盤である五つの蘊です。五つとは何でしょうか。五つとは執着の基盤である蘊、つまり形・受・想・行・識です。比丘のみなさん。これを私は「苦の素晴らしい真実である苦」と言います。

 比丘のみなさん。素晴らしい真実である苦の原因はどのようでしょうか。再び生まれさせる物である欲望は何でも、陶酔の威力で最高にその感情に夢中にさせます。それは愛欲、所有したい存在したい欲(有欲)、所有したくない、存在したくない欲(無有欲)です。比丘のみなさん。私はこれを「苦を生じさせる原因の素晴らしい真実」と言います。

 比丘のみなさん。苦の消滅の素晴らしい真実はどのようでしょうか。欲望が薄くなって残らず消滅すること、その欲望を振り払うこと、振り捨てること、手放すこと、その欲望に未練を残さないことのいずれかです。比丘のみなさん。私はこれを「滅苦の素晴らしい真実」と言います。

 比丘のみなさん。滅苦に至る道である素晴らしい真実はどのようでしょうか。それは八項目の素晴らしい道である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しい専心です。比丘のみなさん。これを私は「滅苦に至る道である素晴らしい真実」と言います。

 比丘のみなさん。これが四つの素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。だからこの場合は、みなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るために努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻534頁1678項






四聖諦の大意 (六処での説明)

 比丘のみなさん。これらの四つがある聖諦はどの四つでしょうか。四つとは、聖諦である苦、聖諦である苦の原因、聖諦である滅苦、聖諦である滅苦に至る道です。

 比丘のみなさん。苦である聖諦はどのようでしょうか。それは六処と言うべきです。六処とは何でしょうか。目処・耳処・鼻処・舌処・体処・心処です。比丘のみなさん。私はこれを苦諦と呼びます。

 苦の原因である聖諦はどのようでしょうか。再び生まれさせる物であるどんな欲望も陶酔の威力があり、極めてその感情に陶酔させます。つまり愛欲、有欲、無有欲です。私はこれを集諦と言います。

 比丘のみなさん。消滅である聖諦はどのようでしょうか。欲望が薄くなって残らず消えることで、その欲望を振り捨て、払い捨て、返却し、手放し、懐かしまないことです。比丘のみなさん。私はこれを滅諦と言います。

 比丘のみなさん。道諦はどのようでしょうか。八項目ある素晴らしい道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。私はこれを道諦と呼びます。

 比丘のみなさん。これが四聖諦の四つです。

 比丘のみなさん。だからこのことは、みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマがあるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻535頁1684項






四聖諦の順序は固定

 そうです、比丘。そのとおり、そのとおり。ほら、比丘。あなたは私が説いた四聖諦を正しく憶えました。

 私は苦である聖諦を一番に説き、苦を生じさせる原因である聖諦を二項目に説き、滅苦の聖諦を三項目に説き、滅苦に至る道である聖諦を四項目に説きました。さあ、あなたは私が説いた項目で四聖諦を記憶なさい。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻536頁1691項






特殊な形の四聖諦

 比丘のみなさん。この四項のダンマがあります。四つとは何でしょうか。四つとは、最高の智慧で知り尽すべきダンマがあり、最高の智慧で捨てるべきダンマがあり、最高の智慧で発展させるべきダンマがあり、最高の智慧で明らかにするべきダンマがあります。

 比丘のみなさん。最高の智慧で知り尽すべきダンマはどのようでしょうか。これらの五取蘊を、私は「最高の智慧で知り尽すべきダンマ」と言います。

 比丘のみなさん。最高の智慧で捨てるべきダンマはどのようでしょうか。無明と有愛。私はこれを「最高の智慧で捨てるべきダンマ」と言います。

 比丘のみなさん。最高の智慧で励むべきダンマはどのようでしょうか。サマタとヴィパッサナー。私はこれを「最高の智慧で励むべきダンマ」と言います。

 比丘のみなさん。最高の智慧で明らかにするべきダンマはどのようでしょうか。明と滅。私はこれらを「最高の智慧で明らかにするべきダンマ」と言います。

 比丘のみなさん。これらの四つのダンマがあります。

増支部チャトゥカニバータ 21巻333頁254項


 (学習者は、この形の四聖諦は、普通の形と名前も順序も違うことを観察するべきです)。





新しい並び順には理由がない

 ね、比丘。サマナでもバラモンでも、誰かが「ゴータマのサマナが説いた四聖諦は、苦が第一項で、苦の原因が第二項で、滅苦が第三項で、滅苦に至る道が第四項だが、それはあり得ない。私は反論し、別の規定をする」と言うなら、それは根拠である理由のない言葉です。ほら比丘。私が説いた四聖諦を、私が説いたように憶えなさい。

 比丘のみなさん。この場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻538頁1693項






聖諦に関わる義務は四つ

 比丘のみなさん。この四つの素晴らしい真実の、四つとは何でしょうか。四つとは苦、苦の原因、滅苦、そして滅苦に至る道である素晴らしい真実です。比丘のみなさん。これが四つの素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。この四つの素晴らしい真実は、知り尽すべき素晴らしい真実も、捨ててしまうべき素晴らしい真実も、明らかにすべき素晴らしい真実も、増進させるべき素晴らしい真実もあります。

 比丘のみなさん。知り尽すべき素晴らしい真実は苦である素晴らしい真実で、捨てるべき素晴らしい真実は苦の原因である素晴らしい真実で、明らかにするべき素晴らしい真実は苦の消滅である素晴らしい真実で、そして増進させるべき素晴らしい真実は苦の消滅に至る道である素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1709項






四聖諦は三転十二の状態がある

1.比丘のみなさん。①これが苦である素晴らしい真実、②素晴らしい真実である苦はすべて知り尽すべき、③この素晴らしい真実である苦を私は知り尽したと、今まで聞いたことがないダンマに、私の目、ニャーナ(知ること。智)、智慧、明、そして光が生じました。

2.比丘のみなさん。①これが素晴らしい真実である苦を生じさせる原因、②この苦の原因である素晴らしい真実は捨てるべき、③苦の原因である素晴らしい真実を私は捨ててしまったと、今まで聞いたことがないダンマに、私の目、ニャーナ、智慧、明、そして光が生じました。

3.比丘のみなさん。①これが素晴らしい真実である滅苦、②滅苦である素晴らしい真実を明らかにするべき、③滅苦である素晴らしい真実を私は明らかにしたと、今まで聞いたことがないダンマに、私の目、ニャーナ、智慧、明、そして光が生じました。

4.比丘のみなさん。①.これが滅苦に至る道である素晴らしい真実、②滅苦に至る道である素晴らしい真実を増進させるべき、③滅苦に至る道である素晴らしい真実を私は増進させたと、今まで聞いたことがないダンマに、私の目、ニャーナ、智慧、明、そして光が生じました。

 比丘のみなさん。このように三転十二の状態がある四聖諦を真実のままに知る智慧が、まだ純潔で清潔でない間は、私はまだアヌッタラサンマーサンボーディ(無上正等覚)を悟ったと宣言しませんでした。(それらが)純潔で清潔になった時、アヌッタラサンマーサンボーディを悟ったと宣言しました。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻529頁1666項






四聖諦は関連しているので、一つの聖諦しか見えないことはない

 ご年配(敬意を表す言葉であり、必ずしも年齢ではない)のみなさん。私はこの話を世尊から次のように聞きしました。

 「比丘のみなさん。苦が見える人は当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える。

 苦の原因が見える人は当然苦が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える。

 苦の消滅が見える人は当然苦が見え、当然苦の原因が見え、当然苦の消滅に至る道が見える。

 苦の消滅に至る道が見える人は当然苦が見え、当然苦の原因が見え、当然苦の消滅が見える」と、このように。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻546頁1711項


(「ブッダの言葉による」というのは、この場合は「ブッダが本当にそのように言われた」と主張者として述べられたという意味です。)





四聖諦の同義語あるいは代名詞

 比丘のみなさん。最高の智慧で知り尽さなければならないのはどのダンマでしょうか。答えは五取蘊です。つまり取蘊である形、取蘊である受、取蘊である想、取蘊である行、取蘊である識です。

 比丘のみなさん。最高の智慧で捨てるべきダンマはどれでしょうか。答えは無明と有欲です。

 比丘のみなさん。明らかにするべきダンマはどれでしょうか。答えは明と解脱です。

 増進させるべきダンマはどれでしょうか。答えはサマタとヴィパッサナーです。

中部ウパリバンナーサ 14巻524頁829項
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻78頁291項


 取蘊=執着の基盤である蘊。要するに苦諦と、無明と有欲は集諦、明つまり明らかな知識と滅つまり解脱は滅諦、サマタつまり心を静めてサマーディにする方便と、ヴィパッサナーつまりすべてのダンマを洞察する方便は道諦なので、四聖諦の同義語としてここに入れます。編者





四聖諦の同義語 二

 比丘のみなさん。四種類のアンタ(辺)があります。四種類はどれでしょうか。有身辺であるアンタ、有身集であるアンタ、有身滅であるアンタ、有身滅道であるアンタです。

 比丘のみなさん。有身であるアンタとは何でしょうか。それは五取蘊と言うべきです。五種類とは何でしょうか。五種類とは形取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊です。比丘のみなさん。私はこれを、有身であるアンタと言います。

 比丘のみなさん。有身集であるアンタとはどのようでしょうか。再び生まれさせるものである欲望で、陶酔の威力による欲情があり、普通にその感情に夢中にさせます。それらの欲望は愛欲、有欲、無有欲です。私はこれを有身集であるアンタと言います。

 比丘のみなさん。有身滅であるアンタはどのようでしょうか。その欲望の薄れ、緩み、消滅、放棄、返却、手放す、住処を与えないこと。比丘のみなさん。私はそれを有身滅であるアンタと言います。

 比丘のみなさん。有身滅道であるアンタとはどのようでしょうか。それは八項目からなる素晴らしい道である、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。私はこれを有身滅道であるアンタと呼びます。

 比丘のみなさん。アンタの四種類はこれらです。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻192頁274項






四聖諦の同義語 三

 比丘のみなさん。有身、有身集、有身滅、有身滅道をみなさんに説明します。みなさん、これをお聞きなさい。

 比丘のみなさん。有身とは何でしょうか。それは五取蘊と言うべきです。五取蘊とは何でしょうか。五取蘊とは、形取蘊・受取蘊・想取蘊・行取蘊・識取蘊です。比丘のみなさん。私はこれを有身と言います。

 比丘のみなさん。有身集とは何でしょうか。再び生まれさせる欲望であり、普通にその感情に陶酔させる、陶酔の威力による欲望があります。その欲望とは愛欲、有欲、無有欲です。比丘のみなさん。私はそれを有身集と呼びます。

 比丘のみなさん。有身滅とは何でしょうか。欲望の薄れ、緩み、消滅、払い捨て、返却、放置、住処を与えないこと。私はこれを有身滅と言います。

 比丘のみなさん。有身滅道とは何でしょうか。それは八項目からなる素晴らしい道で、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しいサティ、正しい専心です。比丘のみなさん。私はこれを、有身滅道と言います。

相応部カンダヴァーラヴァッガ 17巻193頁284項






四聖諦の同義語 四

 比丘のみなさん。世界は如行(ブッダの一人称。「そのように行った」という意味。中国語では如来)が知り尽したものであり、如行は自分を世界から抜き出しました。

 世界が生じる原因は如行が知り尽したものであり、如行は世界を生じさせる原因を捨てました。

 世界の消滅は如行が知り尽したものであり、如行は世界の消滅を明らかにしました。

小部イティウッタカ 25巻321頁293項



 ね、あなた。識と心がある身丈二メートルばかりの体を、私は世界、世界が生れる原因、世界の消滅、世界の消滅に至る道と規定しました。

小部チャトゥカニバータ 21巻64頁46項






詳細に説かれた四聖諦(一)

 比丘のみなさん。平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり四聖諦を熟慮して見る比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然「これが苦」と真実のままに知り、当然「これが苦の原因」と真実のままに知り、当然「これが苦の消滅」と真実のままに知り、当然「これが苦の消滅に至る道」と真実のままに知ります。


1.苦諦

 比丘のみなさん。聖諦である苦はどのようでしょうか。生も苦、老いも苦、死も苦、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、憂いも苦、嫌いなものと一緒にいるのも苦、愛するものと別れるのも苦、望んで叶わないのも苦、簡単に言えば、執着の基盤である五つの蘊は苦です。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。比丘のみなさん。生まれること、誕生すること、(胎内に)降りて行くこと、発生すること、突然生まれること、すべての蘊が現れる状態、その動物の分類の動物の六処がすべてあること。私はこれを生と言います。

 比丘のみなさん。老いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。年をとること、呆けること、歯が抜けること、白髪頭、皮膚のしわ、その動物のすべての根が古くなること。私はこれを老いと言います。

 比丘のみなさん。死はどのようでしょうか。比丘のみなさん。死ぬこと、移動すること、崩壊して無くなること、消滅、命が終わること、死、蘊の崩壊です。比丘のみなさん。その動物の体を捨てること、根つまり命が切れること。私はこれを死と言います。

 比丘のみなさん。悲しみはどのようでしょうか。比丘のみなさん。悲しみ、悲しむこと、悲しい状況、内面の悲しみ、何らかの破滅がある人の、あるいは何らかの苦の衝撃がある人の内面全般の悲しみ。私はこれを悲しみと言います。

 比丘のみなさん。嘆きはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの破滅のある人、あるいは何らかの苦に遭遇した人の嘆き悲しみ、愚痴、嘆き悲しむこと、ぼんやりと愚痴を言うこと、嘆き悲しむ人の様相、愚痴を言う人の様相です。私はこれを嘆きと言います。

 比丘のみなさん。体の苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。体で経過する耐え難いこと、体で経過する好くない(病気。異常)こと、体の衝撃から生じる耐え難いこと、何らかの体の衝撃から生じる好くない感覚。私はこれを体の苦と言います。

 比丘のみなさん。心の苦はどのようでしょうか。比丘のみなさん。心で経過する耐え難いこと、心で経過する好くない(病気。異常)こと、心の衝撃から生じる耐え難いこと。私はこれを心の苦と呼びます。

 比丘のみなさん。憂いはどのようでしょうか。比丘のみなさん。何らかの破滅、あるいは何らかの苦のある人の憂鬱、不満、悶々とした状態、悩みのある状態。私はこれを悩みと言います。

 比丘のみなさん。「嫌いなものと一緒にいることは苦」とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界の感情、つまりその人が満足して愛欲しない、望ましくない形・音・臭・味・触、あるいは利益や支援を期待しない、安楽を願わない、その人との絆の安全を願わない人たちと、一緒に行くこと、一緒に来ること、一緒に止まること、それらの人々やその感情と一緒にいること。これを、嫌いなものと一緒にいることは苦と言います。

 比丘のみなさん。「愛するものと離れることは苦」とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この世界の感情は、その人が愛し、欲しがり、満足する形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待し、支援を期待し、安楽を期待し、その人との絆の安全を願う人である人たちである、両親や兄弟、友人、相談役、血族などでも、一緒にいられなかったこと、一緒にいないこと、一緒に止まらないこと、あるいはその人たちと感情で交わらないこと。私はこれを、愛するものと離れることは苦と言います。

 比丘のみなさん。「望んで叶わないことは苦」とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。当たり前に生がある動物に「ああ、私たちは当たり前に生がある人になりたくないなあ。生が私たちの所へ来ないでほしいなあ」と、このような望みが生まれるのは当然です。動物が望んで到達できるわけではありません。これも、望んで叶わないのは苦と言われます。

 比丘のみなさん。当たり前に老いがある動物に、「ああ、私たちは当たり前に老いのない人になりたい。そして老いが私に来なければいいなあ」と、このような望みが生じるのは当然です。これも動物が望んでも到達できるわけではありません。これも「望んで得られないのは苦」と言います。

 比丘のみなさん。

 病気が当たり前にある動物群に望みが生まれ云々、

 死が当たり前にある・・・・・・、

 悲しみがある・・・・・

 嘆きがある・・・・・・・

 体の苦・・・・・・・・・・

 心の苦・・・・・・・・・・

 悩みが当たり前にある・・・(生の場合と同文)。これも、動物が望んで得られるわけではありません。これも望んで得られないのは苦、と言います。

 比丘のみなさん。簡単に言えば「執着の基盤である五つすべての蘊は苦」とはどのようでしょうか。

 執着の基盤である蘊は形、執着の基盤である蘊は受、執着の基盤である蘊は想、執着の基盤である蘊は行、執着の基盤である蘊は識。比丘のみなさん。私はこれらを「要するに執着の基盤である蘊は苦」と言います。比丘のみなさん。私はこれを苦諦と言います。


2.苦集諦

 比丘のみなさん。苦を生じさせる原因である聖諦はどのようでしょうか。欲望は何でも、再び生まれさせるのは普通で、陶酔によって欲情になり、その感情に熱中しがちです。これが愛欲、有欲、無有欲です。

 比丘のみなさん。欲望が生じる時は当然どこに生じ、在る時は当然どこにあるのでしょうか。世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物は何でも、欲望が生じる時は当然そこに生じ、欲望がある時は当然そこにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物は何でしょうか。世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目・耳・鼻・舌・体・心(それぞれ)、良く望が生じる時は、当然それに生じ、ある時は当然そこにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があるすべての形、すべての声、すべての臭い、すべての味、すべての接触、すべての考え(それぞれ)、欲望が生じる時は当然これに生じ、欲望がある時は当然そこにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目からの明らかな知識、耳からの明らかな知識、鼻からの明らかな知識、舌からの明らかな知識、体の明らかな知識、心の明らかな知識(それぞれ)に、欲望が生じる時は当然それに生じ、欲望がある時は当然それにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目からの感覚、耳からの感覚、鼻からの感覚、舌からの感覚、体の感覚、心の感覚(それぞれ)に欲望が生じる時は当然それに生じ、ある時は当然それにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目の触から生じる知覚、耳の触から生じる知覚、鼻の触から生じる知覚、舌の触から生じる知覚、体の触から生じる知覚、心の触から生じる知覚(それぞれ)に欲望が生じる時は当然それに生じます。欲望がある時は当然そこにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形の記憶、声の記憶、臭いの記憶、味の記憶、接触の記憶、イメージの記憶(それぞれ)に欲望が生じる時は当然それに生じ、ある時は当然それにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形についての考え、声についての考え、臭いについての考え、味についての考え、触についての考え、想念についての考え(それぞれ)に、欲望が生じる時は当然そこに生じ、ある時は当然そこにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形の望み、声の望み、臭いの望み、味の望み、触の望み、考えの望み(それぞれ)に、欲望が生じる時は当然それに生じ、ある時は当然それにあります。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形についての熟慮、声についての熟慮、臭いについての熟慮、味についての熟慮、触についての熟慮、考えについての熟慮(それぞれ)に、欲望が生じる時は当然それに生じ、ある時は当然それにあります。

 比丘のみなさん。私はこれを、苦の原因、苦集諦と言います。


3.苦滅諦

 比丘のみなさん。聖諦つまり滅苦はどのようでしょうか。その欲望を緩めて返すこと、残らず消滅すること、放棄すること、返却すること、通り過ぎること、未練がないことです。

 比丘のみなさん。その欲望を捨てる時は当然どこで捨てられ、消滅する時は当然どこで消滅するのでしょうか。世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があるものは何でも、その欲望を捨てる時は、当然そこで捨てられ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物とは何でしょうか。目・耳・鼻・舌・体・心(それぞれ)に世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があり、欲望を捨てる時は当然そこで捨てられ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態があるすべての形、すべての声、すべての臭い、すべての味、すべての触、すべての想念、この欲望を捨てられる時は当然そこで捨てられ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目からの明らかな知識、耳からの明らかな知識、鼻からの明らかな知識、舌からの明らかな知識、体からの明らかな知識、心の明らかな知識(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てられ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある目からの触、耳からの触、鼻からの触、舌からの触、体からの触、心の触(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態があり、喜ばしい状態がある目の触から生じる感覚、耳の触から生じる感覚、鼻の触から生じる感覚、舌の触から生じる感覚、体の触から生じる感覚、心の触から生じる感覚(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態がある形の認識、声の認識、臭いの認識、味の認識、触の認識、想念の認識(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形についての思い、声についての思い、臭いについての思い、味についての思い、触についての思い、考えについての思い(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態があり、喜ばしい状態がある形の望み、声の望み、臭いの望み、味の望み、触の望み、考えの望み(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は、当然そこで消滅します。

 世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある形についての熟慮、声についての熟慮、臭いについての熟慮、味についての熟慮、触についての熟慮、考えについての熟慮(それぞれ)、この欲望を捨てる時は当然そこで捨てることができ、消滅する時は当然そこで消滅します。

 比丘のみなさん。私はこれを、苦の消滅である滅諦と言います。


4.道諦

 比丘のみなさん。苦の消滅に至る道である聖諦はどのようでしょうか。素晴らしい八項目がある道です。八項目とは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しいサティ、正しい専心です。

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識はどれでも、私はこれを正しい見方と言います。

 比丘のみなさん。正しい考えとは何でしょうか。正しい考えとは、愛欲から出る考え、復讐しない考え、いじめない考え、これを正しい考え方と言います。

 正しい言葉はどのようでしょうか。比丘のみなさん。嘘を言うことを避け、仲違させる発言を避け、粗暴な言葉を避け、際限なく話すことを避けます。これを正しい言葉と言います。

 比丘のみなさん。正しい業とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。動物を殺すことを避け、所有者が与えていない物を取ることを避け、性的に間違ったすべての振る舞いを避けます。これを正しい業と言います。

 比丘のみなさん。正しい生活とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の聖なる弟子は、間違った生業を捨ててしまい、正しい生活を営みます。これを正しい生活と言います。

 比丘のみなさん。正しい努力とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然まだ生じていない下賤なすべての悪を生じさせないために当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然決意し、当然満足します。

 まだ生じていないすべての善を生じさせるために当然努力し、当然努力を始め、当然心を支え、当然決意し、当然満足します。生じたすべての善が古びないよう永続させるために、成長・発展・完成のために、当然満足し、当然努力し、当然努力に関心を持ち、当然心を支え、当然決意します。比丘のみなさん。これを正しい努力と言います。

 正しい想起とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合は、平素から体の内面を熟慮している人で、罪を燃やす努力があり、全身に行き渡る感覚があり、世界の満足と不満足を取り出してしまえるサティがあります。比丘のみなさん。これを正しい想起と言います。

 比丘のみなさん。正しい専心とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタカ(思惟。尋)ヴィチャーラ(考察。伺)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に達し、常にその感情の中にいます。

 ヴィタカ・ヴィチャーラが鎮まることで、内面に心を明るくするものであり、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディ(専心)から生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして絶えずその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れることで泰然とした人になり、サティがあり、全身に行き渡る感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然すべての聖人が到達した人を称賛して「泰然としている人はサティがあり、全身に行き渡った感覚がある」と言う三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと怒りを捨てることで、幸福も苦もなく、あるのは捨による純潔なサティだけの四禅に達します。これを正しいサマーディと言います。

 比丘のみなさん。私はこれを、苦の消滅に至る道諦と言います。

長部マハヴァッガ 10巻340頁294項






詳細に説いた四聖諦(二)

 比丘のみなさん。私が「これが四つの聖諦」と説いたダンマは、サマナ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らせることができない、非難できない、反論できないダンマです。私がこのように言うのは、何に依存して言うのでしょうか。

 比丘のみなさん。六つのダートゥ(六界)に依存して当然胎内に降りることがあり、胎内に降りることがあれば当然名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があります。比丘のみなさん。受を味わうことができる動物に「これが苦」「これが苦集」「これが苦滅」「これが苦滅道」と、私はこのように規定しました。

 比丘のみなさん。苦諦はどのようでしょうか。生も苦、老いも苦、死も苦、悲しみも嘆きも、すべての憂いも苦、嫌いなものに出合うことも苦、愛しているものと離れることも苦、望んで叶わないのも苦、要するに五蘊すべての執着は苦です。比丘のみなさん。これを苦諦と言います。

 比丘のみなさん。苦集諦はどのようでしょうか。無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老・死、悲しみ、嘆きが揃って生じます。

 苦の山が一斉に生じることは、当然このようにあります。比丘のみなさん。これを苦集諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅諦はどのようでしょうか。

 無明が薄くなって残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅すれば識が消滅し、識が消滅すれば名形が消滅し、名形が消滅すれば六処が消滅し、六処が消滅すれば触が消滅し、触が消滅すれば受が消滅し、受が消滅すれば欲が消滅し、欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば、老、死、愁い、悲しみ、苦、嘆き、憂い一切が消滅します。

 苦の山の消滅はこのようにしてあります。比丘のみなさん。私はこれを苦滅諦と言います。

 比丘のみなさん。苦滅道諦はどのようでしょうか。八項目から成る素晴らしい道で、つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。私はこれを苦滅道諦と言います。

 比丘のみなさん。私が「これが四つの聖諦」と説明したダンマは、サマナ・バラモンの誰も威嚇できない、曇らすことができない、非難できない、反論できないダンマと言ったのは、このような意味です。 

増支部ティカニカーヤ 20巻227頁501項

 


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