ブッダヴァチャナによる四聖諦


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四聖諦の価値




四聖諦は説かれたエカンシカダンマ

 (世尊として不決定の立場で十辺執見を説くのを拒否された後、世尊のダンマヴィナヤの中のエカンシカダンマを次のように説明されました)。

 ポッタパータさん。私がエカンシカダンマ(一方と規定して説くべきダンマ)と規定して説いたダンマは何でしょうか。

 ポッタパータさん。エカンシカダンマと規定して説いたダンマは、「これが苦」「これが苦を生じさせる原因」「これが滅苦」「これが滅苦に至る道」です。

 ポッタパータさん。なぜ私はこれをエカンシカダンマと規定して説いたのでしょうか。ポッタパータさん。これらのダンマは深い意味があり、ダンマがあり、梵行の初めであり、倦怠、欲情の弛緩、消滅、鎮静、最高の知識、知り尽すこと、涅槃になるからです。だからこれらのダンマを、エカンシカダンマと規定して説きます。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻236頁298項






四聖諦を知らずに苦を終わらせることはできない

 比丘のみなさん。「私は四聖諦、つまり苦である聖諦、苦の原因である聖諦、滅苦である聖諦、滅苦に至る道である聖諦を真実のままに知らずに、正しく苦を終わらせることができる」とこのように言うのは、あり得ません。

 比丘のみなさん。このように言うのは、「私は水、あるいは砂糖ヤシの樹液を、カテキュの葉、サラカヤシの葉、あるいはタマリンドの葉で包んで運ぶことができる」と言うようなもので、これはあり得ません。

 比丘のみなさん。同じように「私は特に四聖諦、つまり苦である聖諦、苦が生じる原因である聖諦、滅苦である聖諦、滅苦に至る道である聖諦を真実のままに知らずに、苦を正しく終わらせる」と言うのも、これはあり得ません。

 比丘のみなさん。一方「私は特に四聖諦、つまり苦である聖諦、苦が生じる原因である聖諦、滅苦である聖諦、滅苦に至る道である聖諦を真実のままに知って、そして苦を正しく終わらせる」とこのように言うのは、これはあり得ます。

 比丘のみなさん。「私は蓮の葉、あるいはプラーサの葉、あるいはヤーンサーイの葉で水または砂糖ヤシの樹液を包んで運ぶことができる」と言うのは、これはあり得るように、「私は特に四聖諦、つまり苦である聖諦、苦が生じる原因である聖諦、苦の消滅である聖諦、苦の消滅に至る道である聖諦を知って、そして正しく苦を終わりにする」と言うのは、これはあり得ます。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、このように知るためのヨーガカンマ(目的のために本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻549頁1714項






動物が輪廻しなければならないのは、四聖諦が見えないから

 比丘のみなさん。空へ向かって投げた丸太が、時には元から落ち、時には真中から落ち、時には先端から落ちるように、比丘のみなさん。妨害している無明があり、縛っている欲望がある動物が輪廻するにも、時にはこの世界から他の世界へ駆けて行き、時には他の世界からこの世界に駆けて来ます。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。その人は四聖諦が見えない人だからです。四聖諦とは何でしょうか。四聖諦とは、苦である聖諦、苦を生じさせる原因である聖諦、苦の消滅である聖諦、苦の消滅に至る道である聖諦です。

 比丘のみなさん。だからこれは、みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマ(本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻550頁1716項






頭髪の火を消すより急いで四聖諦を知る

 比丘のみなさん。着衣が燃えている時でも、髪の毛が燃えている時でも、その人は何をするべきでしょうか。

 「猊下。服が燃えている時でも、髪の毛が燃えている時でも、その人が火を消すためにするべきことは(火を消すための)欲如意足、精進如意足、勤勉努力、精励努力、サティ、そして自覚です」。

 比丘のみなさん。(それにしても)智者は着衣の火にも頭髪の火にも気を留めず、頓着しないで、極めてするべきことは、自分がまだ知らない四聖諦を真実のままに知るための欲、精進、勤勉努力、不退転、サティ、そして自覚があることと感じています。

 四聖諦とは何でしょうか。四つとは、苦の聖諦、苦を生じさせる原因である聖諦、滅苦である聖諦、滅苦に至る道である聖諦です。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」、と知る道具であるヨーガカンマ(本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻550頁1717項






四聖諦を知るには、一日三百回
三百年間槍で刺されることも受け入れるべき

 比丘のみなさん。百歳まで寿命がある人が百歳まで寿命がある人に、「発展した方。朝昼晩、百の槍で刺されるのはどうだね。百歳になるまで毎日三百の槍で刺され、そのように百年が過ぎ、百歳になった時、あんたがまだ知らない四聖諦を知るのを受け入れるかね」とこのように言うようなものです。

 比丘のみなさん。利益がある良家の子息は受け入れるべきです。何故でしょうか。

 比丘のみなさん。輪廻には初めと終わりがあるのに、輪廻している人はそれを知ることができないので、槍、刀、木槍、斧による処刑の初めと終わりが現れないからです。

 同じように比丘のみなさん。私は、四聖諦を知ることは苦や悲しみにならず、反対に四聖諦を知ることは、幸福や喜びになると言います。四つの聖諦とは何でしょうか。四つとは苦である聖諦、苦を生じさせる原因である聖諦、滅苦である聖諦、滅苦に至る道である聖諦です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「苦はこのよう、苦を生じさせる原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦に至る道はこのよう」と知るヨーガカンマ(本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻551頁1718項






四聖諦を知らなければ、知識の柱が打てない

 比丘のみなさん。サマナ・バラモンのある人たちは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と明確に知らないので、当然「発展した方。知った時は本当に知ったのですか。見えた時は本当に見えたのですか」と、このように他のサマナ・バラモンの顔を(疑念で)じっと見ます。

 綿毛やカポックの毛のように風に飛ばされる軽い物が平らな地面に置いてある時、東風が吹けば西に飛ばされ、南風が吹けば北に飛ばされます。それは何故でしょうか。比丘のみなさん。綿毛は軽いからです。

 同じように「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知らないサマナ・バラモンは、当然「発展した方。知る時は本当に知るのですか。見える時は本当に見えるのですか」と、他のサマナ・バラモンの顔をじっと見ます。それは何故でしょうか。比丘のみなさん。彼は四聖諦が見えないからです。

 比丘のみなさん。一方「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と明らかに知っているサマナ・バラモンたちは、当然「発展した方。知る時は本当に知るのですか。見える時は本当に見えるのですか」と知るために他のサマナ・バラモンの顔を見ません。

 深い根のある鉄の柱、あるいは国柱(国の門の前にある柱)はしっかり埋めてあるのでぐらぐら揺らがず、激しい風雨が東から西から、北から南から吹いても揺れず、震えず、ぐらぐらしません。それは何故でしょうか。根が深く、しっかり埋めてあるからです。これも同じです。

 比丘のみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と明らかに知るサマナ・バラモンたちは、当然「発展した方、知る時は本当に知るのですか。見える時は本当に見えるのですか」と知るために、他のサマナ・バラモンの顔を見ません。それは何故でしょうか。

 比丘のみなさん。それは、彼は四聖諦が良く見える人がだからです。四聖諦とは何でしょうか。四聖諦とは、聖諦である苦、聖諦である苦が生じる原因、聖諦である滅苦、聖諦である滅苦に至る道です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るためのヨーガカンマ(本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァガ 19巻554頁1722項






地獄の動物群と四聖諦

 比丘のみなさん。男の人が穴が一つしかないエーカ(原註:竹?)を海に投げ込むと、その海の中に、百年に一度浮いて来る盲目の亀がいます。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。その盲目のカメが百年に一回だけ浮き上がって来て首を伸ばして穴が一つしかないエーカに入ることはあり得ると思いますか。

 「猊下。長い歳月が経過すれば、時にはあるかもしれません」。

 比丘のみなさん。盲目のカメが百年に一度浮き上がって来て首を伸ばして穴が一つしかないエーカに入るのは、地獄(罪を受ける所)に生まれたロクデナシの人が、一回人間に生まれて来るより早いです。地獄の動物はダンマの行動がなく、正しい行動がなく、善の行動がなく、徳の行動がなく、互いに喰いつき合うだけだからです。

 比丘のみなさん。弱肉強食は地獄の動物の間では当たり前になります。それは何故でしょうか。比丘のみなさん。それは四聖諦が見えないからです。

 四聖諦とは何でしょうか。四聖諦とは、聖諦である苦、聖諦である苦が生じる原因、聖諦である滅苦、聖諦である滅苦に至る道です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマがあるべきです。

相応部マハーヴァーヴァッガ 19巻568頁1743項






四聖諦を知れば両目が揃う

 比丘のみなさん。この世界には三種類の人がいます。三種類はどのようでしょうか。三種類とは盲人、隻眼の人、両眼の人です。

 比丘のみなさん。盲人はどのようでしょうか。この世界のある人はまだ手に入れてない消費財を手に入れる目、あるいは手に入れた消費財を倍増させる目がなく、善と悪のダンマ(物という意味)、罪と罪がないダンマ、劣悪なダンマと上品なダンマ、白い側のダンマと黒い側のダンマを知る目がありません。これが一つです。比丘のみなさん。これが盲人です。

 比丘のみなさん。隻眼の人とはどのようでしょうか。この世界のある人はまだ手に入れてない消費財を手に入れる目、あるいは手に入れた消費財を増やす目はありますが、善と悪のダンマ、罪と罪がないダンマ、劣悪なダンマと上品なダンマ、白い側のダンマと黒い側のダンマを知る目はありません。比丘のみなさん。これが隻眼の人です。

 比丘のみなさん。両目のある人はどのようでしょうか。この世界のある人はまだ手に入れていない消費財を手に入れる目、あるいは手に入れた消費財を増やす目があり、そして善と悪のダンマ、罪と罪でないダンマ、劣悪なダンマと上品なダンマ、白い側のダンマと黒い側のダンマを知る目もあります。これが両目のある人です。

 比丘のみなさん。完璧な目がある比丘はどのようでしょうか。この場合の比丘は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。これが完璧な目のある比丘です。

増支部ティカニカーヤ 20巻162頁468項






四聖諦を知れば漏の終わりがある

 比丘のみなさん。私は、すべての漏の終わりは、知る人、見える人にだけあり、知らない人、見えない人にはないと言います。比丘のみなさん。この場合の「知る人、見える人」とは、何を知り、何が見える人でしょうか。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」という真実を知る人、見える人です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマ(目的を達成するために本気で体系的にする努力)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻544頁1705項






これらの真実がアリヤ(聖)と呼ばれる理由 一

 比丘のみなさん。これらの素晴らしい真実は四つあります。四つとは苦の素晴らしい真実、苦を生じさせる原因である素晴らしい真実、滅苦の素晴らしい真実、滅苦に至る道である素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。この四つの素晴らしい真実は、タター、つまり「そのようであること」、アヴィタター、つまり「そのようでないことはなく」、アナンニャター、つまり「別のものにならない」ことです。だから私はこれらの真実を「アリヤ(聖)」と言います。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマがあるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻545頁1707項






これらの真実がアリヤと呼ばれる理由 二

 比丘のみなさん。この四つの素晴らしい真実があります。どんな四つでしょうか。四つとは苦の素晴らしい真実、苦を生じさせる原因の素晴らしい真実、滅苦の素晴らしい真実、滅苦に至る道の素晴らしい真実です。

 この真実を述べる人は、天人界と梵天界も含めたこの世界と、サマナ・バラモンと人間と天人を含めた動物群のアリヤ(素晴らしい人=聖人)であるタターガタ(如行。「そのように行く」という意味)です。だから私はこれらの真理をアリヤと言います。

 だからこのことは、みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマ(目的を達成するために本気で体系的にする努力)があるべきです。

増支部マハーヴァーラヴァッガ 19巻545頁1708項






聖人であるための四聖諦

 比丘のみなさん。天人に達した比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まって、ヴィタカ(尋)ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)スッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタカ・ヴィチャーラ(思考)が鎮まることで、心の内部を明るくするものであり、一つだけの感情であるサマーディを生じさせ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に達し、そして絶えずその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れることで、当然捨にいて、サティと自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が「この定を得た人は捨にいる人で、サティがあり幸福だ」と言う三禅に達し、絶えずその感覚の中にいます。

 幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消えることで、苦も幸福もなく、捨ゆえに純粋な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。天人に達した比丘はこのような状況であり得ます。

 比丘のみなさん。梵天に達した比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、慈・悲・喜・捨がある心を、第一、第二、第三、第四の方向へ、上方、下方、投げる方向へ、すべての場所に、世界中同じように広げます。恨みと復讐心のない、慈・悲・喜・捨のある無限に広い心で、常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。梵天であることに達した比丘は、このようにしてあり得ます。

 比丘のみなさん。不動であることに達した比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、すべての形を規定する意味から脱したので、不満で怒る感情を意識することが消滅したので、そして心の中のいろんな状態を意識しないので、心の中を「終わりのない空」にする空無辺処に入り、そして常にその感覚の中にいます。

 空無辺処をすべて通過することで、心の中を「終わりのない識」にする識無辺処に入り、そして常にその感覚の中にいます。識無辺処をすべて通過することで心の中を「無」にする無所有処に入り、常にその感覚の中にいます。無所有処をすべて通過することで非想非非想処に入り、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。不動に達した比丘は、当然このような状況であり得ます。

 比丘のみなさん。アリヤ(聖人)に達した比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然「苦はこのよう」と真実のままに明らかに知り、当然「苦を生じさせる原因はこのよう」と真実のままに明らかに知り、「苦の消滅はこのよう」と真実のままに明らかに知り、「苦を消滅させる実践項目はこのよう」と真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。アリヤに達した比丘は、当然このような状況であり得ます。

増支部チャッカニバータ 21巻249頁190項






四聖諦は誰も反論できないダンマ集の一つ

 比丘のみなさん。智者であるすべてのサマナ・バラモンが抑圧できない、曇らせることができない、非難できない、反論できないダンマは、私が説いたこのダンマです。

 比丘のみなさん。私が説いたダンマはどのように智者であるすべてのサマナ・バラモンが抑圧できず、曇らせることができず、非難できず、反論できないのでしょうか。

  (六ダートゥを説かれ、六処を説かれ、十二心尋察を説かれ・・・)

 比丘のみなさん。「これが四つの聖諦」と私が説いたダンマは、智者であるすべてのサマナ・バラモンが抑圧できず、曇らせることができず、非難できず、反論できないダンマです。

云々

 比丘のみなさん。私が「これが四つの聖諦」と説いたダンマは、智者であるすべてのサマナ・バラモンが抑圧できない、曇らせられない、非難できない、反論できないダンマです。私がそう言うのは、何に依存してでしょうか。

 比丘のみなさん。六つのダートゥに依存すれば、当然胎内に生まれることがあり、胎内に生まれれば当然名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があります。比丘のみなさん。当然私は受を味わうことができる動物に「これが苦」「これが苦集」「これが苦滅」「これが苦滅道」と規定します。

 比丘のみなさん。苦諦はどのようでしょうか。生も苦、老いも苦、死も苦、悲しみ、嘆き、体の苦、憂い、悩みもすべて苦、嫌いなものに遭遇するのも苦、愛しているものと別れるのも苦、何かを望んで得られないのも苦。簡単に言えばすべての取蘊は苦です。比丘のみなさん。私はこれを苦諦と言います。

 比丘のみなさん。集諦は何でしょうか。縁である無明があるからすべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で受があり、受が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で老があり、悲しみ、嘆き、体の苦、憂い、すべての悩みが生じます。

 すべての苦の山の発生は、当然このようにあります。比丘のみなさん。私はこれを集諦と言います。

 比丘のみなさん。滅諦はどのようでしょうか。

 無明が薄れて残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅すれば識が消滅し、識が消滅すれば形が消滅し、形が消滅すれば根が消滅し、根が消滅すれば触が消滅し、触が消滅すれば受が消滅し、受が消滅すれは欲が消滅し、欲が消滅すれば取が消滅し、取が消滅すれば有が消滅し、有が消滅すれば生が消滅し、生が消滅すれば死、悲しみ、嘆き、体の苦、憂い、すべての悩みが消滅します。

 苦の山のすべての消滅は当然このようにあります。比丘のみなさん。私はこれを滅諦と言います。

 比丘のみなさん。道諦はどのようでしょうか。八項目の素晴らしい真実である道です。つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。私はこれを道諦と呼びます。

 比丘のみなさん。私が「これらのダンマは、智者であるサマナ・バラモンのすべてが威嚇できない、曇らせることができない、非難できない、反論できないダンマ」と説いたダンマは、述べたダンマです。

増支部ティカニカーヤ 20巻225頁501項

 


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