ブッダヴァチャナによる四聖諦



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四聖諦を知ることは不可能ではない







過去も未来も現在も、真実のままに四聖諦を公開した

 比丘のみなさん。遠い昔、自分が真実のままに極めて良く知っているダンマを説いたサマナ・バラモンは誰でも、素晴らしい四つの真実を公開しました。

 遠い未来に、自分が真実のままに極めて良く知っているダンマを説くサマナ・バラモンは誰でも、四つの素晴らしい真実を公開します。

 現在でも、自分が真実のままに極めて良く知っているダンマを説くサマナ・バラモンは、当然四つの素晴らしい真実を公開します。

 四つの素晴らしい真実とは何でしょうか。四つとは、素晴らしい真実である苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、苦の消滅に至る道です。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知る努力をするべきです。

相応部、マハーヴァーラヴァッガ 19巻523頁1659項






過去にも未来にも現在にも、出家して四聖諦を知った人がいる

 比丘のみなさん。遠い昔、家を出て出家して家に関わらない人になり、真実のままにすべてを知った良家の子息は、四つの素晴らしい真実を知り尽しました。

 遠い未来に、家を出て出家して家に関わらない人になり、真実のままにすべてを知る良家の子息は、四つの素晴らしい真実を知り尽します。

 そして現代、家を出て出家して家に関わらない人になり、真実のままにすべてを知った良家の子息は、四つの素晴らしい真実を知り尽しています。

 四つの素晴らしい真実とは何でしょうか。四つとは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」である真実です。

 比丘のみなさん。だからこの場合は、みなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻521頁1657項






過去も未来も現在も、四聖諦を知ることはある

 比丘のみなさん。遠い昔、真実のままにすべてを知ったサマナもバラモンも、四つの素晴らしい真実ですべてを知りました。

 比丘のみなさん。遠い未来、真実のままにすべてを知るサマナもバラモンも、四つの素晴らしい真実を知ります。

 比丘のみなさん。現在真実のままにすべてを知るサマナもバラモンも、四つの素晴らしい真実を知ります。

 比丘のみなさん。四つの素晴らしい真実とはどれでしょうか。四つとは苦の素晴らしい真実、苦を生じさせる原因である素晴らしい真実、苦の消滅である素晴らしい真実、苦を消滅させる道に至る素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。だからこのことではみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知るヨーガカンマ(註)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻522頁1658項



註:ヨーガカンマとは目的を達成するために本気で系統的にする努力の行動。ヨーガという言葉は、どの宗教も使う共通の言葉。





隠遁なさい。隠遁すれば四聖諦を知る

 比丘のみなさん。みなさん、隠遁する努力をなさい。隠遁する比丘は、当然真実のままに知ることができます。

 何を真実のままに知るのでしょうか。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」という素晴らしい真実を真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。みなさん隠遁する努力をなさい。隠遁する比丘は当然真実ありのままに知ります。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻520頁1655項






サマーディを増進させれば四聖諦を事実のままに知る

 比丘のみなさん。サマーディに励みなさい。比丘のみなさん。心がサマーディである比丘は、当然真実のままに知ることができます。

 何を真実のままに知るのでしょうか。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」という素晴らしい真実を、真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。みなさんサマーディを増進させなさい。比丘のみなさん。心がサマーディである比丘は、当然真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻520頁1654項






心がサマーディなら、澄んだ水を見るように四聖諦が見える

 心が安定し、純潔で清潔で煩悩がなく、随煩悩がなく、しなやかな自然であり、仕事に熟練して、動揺がなく安定を維持できれば、その人の心はすべての漏をなくすニャーナ(智)に傾いて行きます。彼は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道。これが漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

 その人がこのように知り、このように見れば、心は愛欲である漏、有である漏、無明である漏から脱します。心が脱せば「脱出した」と知るニャーナ(智)が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このような解脱のためにしなければならないことは何もない」と知ります。

 比丘のみなさん。山の中にある澄んだ水の淵は、目のある(盲目でない)人が縁に立って見ると、いろんな貝や小石や石が見え、魚の群れが泳いだり止まっていたりするのが見え、彼は内心で「この淵の水は透明で濁っていない。貝や石や魚の群れが泳いだり止まったりしているのが見える」と感じます。

 比丘のみなさん。これも同じで、その比丘は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道。これがすべての漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と、このように真実のままに明らかに見えます。

 彼がこのように知り、このように見えれば、心は漏である愛欲、漏である有、漏である無明から脱します。心が有から脱せば「脱した」と知るニャーナ(智)が生じ、彼は「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このような解脱のためにするべき仕事は他にない」とこのように明らかに知ります。

中部ムーラバンナーサ 12巻509頁477項






涅槃へ行く正しい行動なら、水に浮く丸太のように快適

 比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)の流れに浮かんでいる大きな丸太を見ましたか。

 「見ました、猊下」。

 比丘のみなさん。その丸太が内の岸、外の岸に引っ掛からず、水に沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に掻き寄せられず、渦に揉まれず、水の中で自然に腐らなければ、その丸太は流れに浮かんで海に突入します。ガンガは海に向かって傾き、海に注いでいるからです。

 比丘のみなさんも同じように、内の岸外の岸に引っ掛からず、水に沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に掻き寄せられず、渦に揉まれず、内部が自然に腐らなければ、みなさんは流れに浮かんで涅槃に至ります。正しい見解は当然涅槃に傾き、涅槃に注ぐからです。

 比丘のみなさん。「内の岸」とは六内処入の代名詞で、「外の岸」とは六外処入の代名詞で、「陸に引っ掛かる」とはアスミマーナ(自分がいるという感覚)の代名詞で、「人間に捕まる」とは、この場合は在家と交わって在家と共に喜び、共に悲しむ比丘で、在家が幸福な時は幸福で、在家が不幸な時は苦で、在家に生じた仕事を自分でします。比丘のみなさん。この比丘を私は、人間に捕まった人と言います。

 「人間に掻き寄せられる」とは、この場合は、この戒で、あるいはこの勤めで、あるいはこの苦行で私は偉大な威力のある天人になるとか、小さな威力の天人になると、このように望んで梵行をする比丘です。私はこの比丘を人間に掻き寄せられた人と言います。「渦に揉まれる」の渦とは五欲の代名詞です。

 「内部が腐った比丘」とは何でしょうか。この場合の比丘は卑賎で不潔な破戒の人で、自分で考えても自分を疑う行動があり、隠しておかなければならない行動があり、サマナではないのにサマナと宣言し、梵行をしていないのに梵行をしていると宣言し、内面がドロドロに腐ってゴミ捨て場のように積み重なった本性があります。私はこの比丘を、内部が腐った人と言います。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻223頁322項






十辺執見を知ることは、四聖諦を知ることや梵行とは無関係

 マールンキャプッタさん。私が託宣しないものは何でしょうか。

 マールンキャプッタさん。世界は不変という見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。世界は不変ではないという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。世界に終わりはあるという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。世界に終わりはないという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。命と体は同じという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。命と体は別という見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。如行が死んだ後、当然まだいるという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。如行が死んだ後、当然もういないという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。如行が死んだ後、当然まだいるのもあり、もういないのもあるという見解は、私が託宣しないものです。

 マールンキャプッタさん。如行が死んだ後、当然まだいることもなく、もういないこともないという見解は、私が託宣しないものです。


 マールンキャプッタさん。なぜ私はそれらを託宣しないのでしょうか。それには利益がなく、梵行の初めでなく、倦怠、愛欲の弛緩、滅、鎮静、最高の知識、知り尽すこと、そして涅槃にならないからです。だから私はそれを託宣しません。


 マールンキャプッタさん。私が託宣するものは何でしょうか。

 マールンキャプッタさん。「これが苦」という真実は、私が託宣するものです。

 マールンキャプッタさん。「これが苦を生じさせる原因」という真実は私が託宣するものです。

 マールンキャプッタさん。「これが滅苦」という真実は私が託宣するものです。

 マールンキャプッタさん。「これが滅苦に至る道」という真実は、私が託宣するものです。


 マールンキャプッタさん。なぜ私はそれを託宣したのでしょうか。それには利益があり、梵行の初めであり、欲情の弛緩、倦怠、消滅、鎮静、最高の知識、知り尽すこと、そして涅槃のためになるからです。だから私は託宣します。


 マールンキャプッタさん。だからこのことは、私が託宣しないものは私は託宣しないと、私が託宣することは私が託宣すると、このように掴んでおきなさい。

 マールンキャプッタさん。「世界は不変だ」という見解があれば梵行の行動にならず、「世界は不変ではない」という見解があっても梵行の行動になりません。

 マールンキャプッタさん。「世界は不変」、あるいは「世界は不変ではない」でもあれば、生きているうちに根絶するよう私が規定した生があり、老があり、死があり、悲しみがあり、嘆きがあり、体の苦があり、憂があり、まだいろんな悩みがあります。

 マールンキャプッタさん。「世界は終わりがある」という見解があれば梵行の行動にならず、「世界には終わりが無い」があっても梵行になりません。マールンキャプッタさん。「世界に終わりがある」あるいは「世界に終わりはない」でもあれば、生きているうちに根絶するよう私が規定した生があり、老があり、死があり、悲しみがあり、嘆きがあり、体の苦があり、憂があり、まだいろんな悩みがあります。

 マールンキャプッタさん。「命と体は同じ」という見解があれば梵行にならず、「命と体は別」という見解があれば、これも梵行になりません。

 マールンキャプッタさん。「命と体は同じ」あるいは「命と体は別」でも、その見解があれば、生きているうちに根絶するよう私が規定した生があり、老があり、死があり、悲しみがあり、嘆きがあり、体の苦があり、憂があり、まだいろんな悩みがあります。

 マールンキャプッタさん。「如行は死んだ後も当然いる」という見解があれば梵行にならず、「如行は死んだ後当然いない」という見解があれば、これも梵行になりません。マールンキャプッタさん。「如行は死んだ後まだいる」でも「如行は死んだ後もういない」でも見解があれば、生きているうちに根絶するよう私が規定した生があり、老があり、死があり、悲しみがあり、嘆きがあり、体の苦があり、憂があり、まだいろんな悩みがあります。

 マールンキャプッタさん。「如行が死んだあと当然いるのもなく、いないのもない」という見解があれば、それは梵行にならず、「如行が死んだ後当然いるもあり得ず、いないもあり得ない」という見解があれば、それも梵行になりません。

 マールンキャプッタさん。「如行が死んだ後当然いるのもなく、いないのもない」でも、「如行が死んだ後当然いるもあり得ず、いないもあり得ない」でも、そういう見解があれば、生きているうちに根絶するよう私が規定した生があり、老があり、死があり、悲しみがあり、嘆きがあり、体の苦があり、憂があり、まだいろんな悩みがあります。

中部マッジマバンナーサ 13巻151頁152項






真理と真理に至る実践規範

 (人間の自然では、それぞれの人が自分の基礎と捉えている「私の真実」と呼ぶものがあり、その人が心に生じさせたもの次第で、変えることは困難です。しかしこの種の真実は、まだ絶対的な真実、最高の真実ではなく、最高の利益になりません。

 だからその真実が本当に有益に使える真実になるまで、ブッダが説かれた方法で調整して、明らかにしなければなりません。つまり初めの真実に執着しないで、実践してその真実を検証する形で育てます。

 長々と引用して紹介するこのブッダバーシタ(仏説)は四つに分ける必要があります。

 つまりまだ本物でなく、原因と縁で変化しなければならない、世界の人が自然に得ることができる真実が一つ。

 その真実を温めておいて、より高い真実を検証する機会を作るのが一つ。

 自分が確実に知りたいと願っている真実を実践している人の真実を探求するのが一つ。

 確実になったら、真実に出合うまでその教えで実践している自分自身は、推測する必要も、考える必要もなく、その後は他人を信じる必要もなく、最終部分である、この場合の真実の心臓部に達したと見なすことができます。

 以下は、世界の人の言葉で経過する真実について述べられたブッダバーシタです)。


イ 世界の人の自然な真実

 バーラヴァーチャさん。以前あなたは(何らかの)信仰に至り、今あなたはそれを「聞いたこと(にすぎない)」と言います。バーラヴァーチャさん。この五つは、今私が見ているように、結果には二つの側面があります。五つとは何でしょうか。

(本当だと)信じること、

(本当だと)喜ぶこと、

(本当だと)伝え聞いたこと、

(本当だと)周辺の理由で思考したこと、そして

(本当だという)他人の見解で凝視に耐える結論。

 これが、私が今見えている、二つに分かれる結果です。

 バーラヴァーチャさん。良いと信じられている物でも、それが空っぽで本物でない偽物もあり、良いと信じられていない物でも、それが反対に本物、本当の物、間違いでない物もあります。

、バーラヴァーチャさん。良いと喜ばれている物でも、それが反対に空っぽで本当でなく本物でない物もあり、良いと喜ばれていない物でも、反対に本当の物、本物、間違っていない物もあります。

 バーラヴァーチャさん。良いと人から聞いた物でも、それが空っぽで本当でなく偽物もあり、良いと人から聞いた物でなくても、それが本当で、本物で、間違っていない物もあります。

 バーラヴァーチャさん。良いと考えた物でも、反対に空っぽで本物でなく偽物もあり、良いと考えない物でも、反対に本当で、本物で、間違いでない物もあります。

 バーラヴァーチャさん。良いと調査した物でも、反対に空っぽで本当でなく偽物もあります。良いと判断しなかった物でも、反対に本当の物、本物、間違いでない物もあります。

 バーラヴァーチャさん。真実を維持する知識者は「これだけが本物、他の物は違う」と一方的に憶測するべきではありません」。


 「ゴータマ様。真実を維持するには、どれほどの行動でできますか。人はどれだけの行動でその真実を維持できますか。真実の維持し方についてゴータマ様にお尋ねします」。

 (次に世尊は、自分が聞いたように、自分の好みで、自分の信仰として執着しないように真実を維持する方法について話されました)。


ロ 真実を維持する方法

 バーラヴァーチャさん。信仰があり、その人が真実を維持して「私はこのように信じている」と言っても、彼は「こういうのが真実。他のは違う」と一方的に推測して冗舌になってはいけません。

 バーラヴァーチャさん。これだけの行動で真実を維持することは当然あります。当然真実を維持すると言われる人は、これだけの行動です。私は、真実を維持するにはこれだけの行動でも、それはまだ真実を知ったことではないと規定します。

 バーラヴァーチャさん。喜びがあり、その人が真実を維持して「私はこのように喜びがあります」と言っても、彼は「こういうのが本当で、他のは違う」と一方的に推測して冗舌になってはいけません。バーラヴァーチャさん。これだけの行動で真実を維持することは当然あります。

 真実を維持する人と呼ばれるのは、これだけの行動によって当然あります。私は、これだけの行動で真実を維持しても、それはまだ真実を知ったことではないと規定します。

 バーラヴァーチャさん。伝え聞いたことがあり、彼は真実を維持でき、「私はこのように伝え聞きました」と言っても、彼は「こういうのだけが真実で、他のは違う」と、一方的に推測して冗舌になってはいけません。バーラヴァーチャさん。これだけの行動で真実を維持することは当然あります。当然真実を維持すると言われる人は、これだけの行動です。これだけの行動で真実を維持しても、私はまだ真実を知ったことではないと規定します。

 バーラヴァーチャさん。環境的理由で思考することがあり、彼が真実を維持して「私はこのような理由で考えていますと言っても、彼は「これだけが本当で、他のは違う」と一方的に推測して冗舌になってはいけません。

 バーラヴァーチャさん。これだけの行動で、真実を維持することは当然あります。真実を維持すると言われる人は、これだけの行動です。真実の維持はこれだけの行動によってでも、私はまだ真実を知ったことではないと規定します。

 バーラヴァーチャさん。その人の見解による凝視に耐える結論があり、彼が真実を維持して「私はこのような考えによる凝視に耐える結論があります」と言っても、彼は「これだけが本当で、他のは違う」と、一方的に憶測で冗舌になってはいけません。

 バーラヴァーチャさん。これだけの行動で、真実を維持することはあります。当然真実を維持する人と呼ばれるのはこれだけの行動です。真実を維持するにはこれだけの行動ですが、私は、それはまだ真実を知ったことではないと規定します。


 「ゴータマ様。真実を維持することは、当然これだけの行動であり、当然真実を維持すると言われる人は、これだけの行動で、更に私もこれだけの行動で真実を維持したいと望みます。ゴータマ様。真実を維持することはこれだけの行動でしょうか。真実を維持する人と言われるのは、これだけの行動でしょうか。真実の知識についてお尋ねします」。

 (次に世尊は、熟慮する真実であるダンマを知るために、ダンマの実践をする人にあるダンマを観察するよう提案して、真実を知る方法を話なさいました)。


ハ 真実を追跡して規定する

 バーラヴァーチャさん。このダンマヴィナヤの比丘が、どこかの村や町へ行って住むと、長者や長者の息子がその比丘に近づき、三つのダンマ、つまりすべての貪りの基盤であるダンマ、憤りの基盤であるダンマ、愚かさの基盤であるダンマについて、

「この方は貪りの基盤であるダンマがあるのかなあ。それが心を支配すれば、知らない時に知ったと言い、見えない時に見たと言う人になる。あるいは他人を苦になるダンマに誘い、永遠にすべての動物の利益や支援にならない」と、このように内心で熟慮して見ます。

 彼がその比丘について熟慮すると、「この方にはその種の貪りの基盤であるダンマはない。更にこの方の正しい行動、正しい言葉は、貪りのない人の状態になっている。更にこの方がどのダンマを説いても、見え難く知り難い深いダンマ、緻密で静めるダンマであり、思考で簡単に洞察できるダンマではない。学者だけが知ることができる精緻なダンマだ。そのダンマは、欲深い人が説明できるダンマではない」とこのように知ります。

 彼がその比丘を熟慮すれば、当然貪りの基盤であるダンマのない純潔な人だと見抜くことでき、彼はそれから、更に怒りの基盤であるすべてのダンマ、痴の基盤であるすべてのダンマで、その比丘を熟慮して見ることができます。……

 (貪りの場合と同じ状態で、明瞭に見ることができ、「彼がその比丘を熟慮すれば、当然痴の基盤であるダンマのない純潔な人と見抜くことができます」まで一字一句違いません)。


 その時彼は

(1)その比丘に信仰が生じ、信仰が生じれば、

(2)当然訪ねて行き、訪ねて行けば、

(3)当然近くに座り、近くに座れば、

(4)当然耳を傾け、耳を傾ければ、

(5)当然ダンマを聞き、ダンマを聞けば、

(6)当然ダンマを保持し、

(7)当然自分が保持しているすべてのダンマの内容を熟慮し、ダンマの内容を熟慮すれば、

(8)すべてのダンマは当然検証に耐え、ダンマが検証に耐えれば、

(9)当然喜びが生じ、喜びのある人は、

(10)当然勤勉努力があり、

(11)当然ダンマの均衡を熟慮し、ダンマに均衡があれば、

(12)当然そのダンマを始めます。


 このように自分を追いやる人は、当然名身で最高の真実を明らかにする行動もし、当然そのダンマを洞察して智慧で見ています。

 バーラヴァーチャさん。真実を知るのはこれだけの行動です。当然真実を知る人と呼ばれるのはこれだけの行動によってです。そして私は、真実を知ることはこれだけの行動によってですが、それはまだ真実に到達していないと規定します。

 「ゴータマ様。真実を知るのは当然これだけの行動によってです。当然真実を知る人と呼ばれるのは、これだけの行動によってです。更に私は、これだけの行動で真実を知ろうと目指します。ゴータマ様。真実に到達するには、どれだけの行動でできますか。当然真実に到達したと言われる人は、どれだけの行動によってですか。ゴータマ様に真実への到達をお尋ねします」。

 (次に世尊は、ロで述べた12項のすべてのダンマを、真実に到達するまで実践行動することで、真実に到達する方法を話されています)。

ニ 真実に到達する

 バーラヴァーチャさん。それらすべてのダンマと付き合って励み、たくさんすることが真実に到達することです。バーラヴァーチャさん。真実への到達は当然これだけの行動であります。当然真実に到達したと言われる人は、これだけの行動によってです。そして私は、これだけの行動で真実に到達すると規定します。

 「ゴータマ様。真実への到達は当然これだけの行動によってで、当然真実に到達したと言われる人は、これだけの行動によってで、更に私は、これだけの行動で真実に到達することを目指します。

 (次に世尊は、カーパディカ青年が、真実への到達に恩恵のあるダンマについて質問すると、次のようにお答えになりました)。


ホ ダンマは真実に到達することに非常に恩恵がある

 バーラヴァーチャさん。ダンマを始めることは真実に到達することにとって非常に恩恵があります。ダンマを始めない人は真実に到達すべくもありませんが、その人がダンマを始めれば真実に到達します。だからダンマを始めることは真実に到達するために非常に恩恵のあるダンマと言います。

 バーラヴァーチャさん。ダンマの均衡について熟慮することは、ダンマを始めることに非常に恩恵のあるダンマです。ダンマの均衡が取れない人はダンマを始めるべくもありませんが、ダンマの均衡を見つければダンマを始めます。だからダンマの均衡を考えることはダンマを始めることにとって非常に恩恵があるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。勤勉努力はダンマの均衡を熟慮することに非常に恩恵があります。勤勉努力がなければその人はダンマの均衡を発見すべくもありませんが、勤勉努力があればダンマの均衡を発見します。だから勤勉努力はダンマのバランスを見つけるために非常に恩恵のあるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。チャンダ(喜び)は勤勉努力に非常に恩恵のあるダンマです。喜びが生じなければ勤勉努力があるべくもありませんが、喜びが生じれば勤勉努力します。たから喜びは勤勉努力に非常に恩恵があるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。すべてのダンマが凝視に耐えることは喜びにとって非常に恩恵があるダンマです。すべてのダンマが凝視に耐えなければ喜びは生じるべくもありませんが、すべてのダンマが凝視に耐えれば喜びが生じます。だからすべてのダンマが凝視に耐えることは喜びにとって非常に恩恵のあるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。要旨を熟慮することはすべてのダンマが凝視に耐えることにとって非常に恩恵があるダンマです。要旨を熟慮しなければすべてのダンマが凝視に耐えるはずはなく、要旨を熟慮すればすべてのダンマが凝視に耐えます。だから要旨を熟慮することはすべてのダンマが凝視に耐えることにとって非常に恩恵があるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。ダンマがあることは要旨を熟慮することに非常に恩恵があります。人はダンマが無ければ要旨を熟慮するべくもありませんが、ダンマがあれば要旨を熟慮します。だからダンマがあることは要旨を熟慮することに非常に恩恵があります。

 バーラヴァーチャさん。ダンマを聞くことはダンマがあることにとって非常に恩恵があるダンマです。人がダンマを聞かなければダンマはありませんが、ダンマを聞けばダンマがあります。だからダンマを聞くことはタfンマがあることにとって非常に恩恵があります。

 バーラヴァーチャさん。耳を傾けることはダンマを聞くことにとって非常に恩恵があります。耳を傾けなければダンマを聞くはずもありませんが、耳を傾ければダンマを聞きます。だから耳を傾けることは、ダンマを聞くことにとって非常に恩恵があります。

 バーラヴァーチャさん。近くに座ることは耳を傾けることに非常に恩恵があるダンマです。近くに座らなければ耳を傾けるべくもありませんが、近くに座れば耳を傾けます。だから近くに座ることは耳を傾けることにとって非常に恩恵があるダンマです。

 バーラヴァーチャさん。訪ねることは近くに座ることにとって非常に恩恵があります。訪ねなければ近くに座るべくもありませんが、訪ねれば近くに座ります。だから訪ねて行くことは近くに座ることにとって非常に恩恵があります。

 バーラヴァーチャさん。信仰は訪ねることにとって非常に恩恵があります。信仰が生じなければ訪ねることはありませんが、信仰が生じれば彼は訪ねて行きます。だから信仰は訪ねることにとって非常に恩恵のあるダンマです。

中部マッジマバンナーサ 13巻601頁655項



 (この経の中の真実という言葉は、四聖諦だけでなく一般の真実を意味しています。しかしすべて四聖諦と呼ばれる真実に使うこともできることを観察していただくために引用しました)。





四聖諦を知ることは不可能でないから聖人はたくさんいる

 ヴァッチャさん。すべての漏が終わって漏が無い心解脱、智慧解脱に到達し、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにした私の弟子である比丘は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、実にたくさんいます。

 ヴァッチャさん。すべての漏が終わって漏が無い心解脱・智慧解脱に到達し、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにした私の弟子である比丘尼は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でもなく、四百人でもなく、五百人でもなく、本当にたくさんいます。

 ヴァッチャさん。白衣をまとった在家で、梵行をしている私の弟子である清信士の中に、サンヨージャナ(訳注:動物を輪廻に結ぶ煩悩。十結)の下の五つがなくなって、次の有で涅槃し、当然戻って来ない不還である人は百人でなく、二百人でもなく、三百人でも、四百人でも、五百人でもなく、本当にたくさんいます。

 ヴァッチャさん。白衣をまとった在家でまだ愛欲を味わっている私の弟子である清信士で、教えで行動する人であり、教えに報いる人の中に、疑念を越え、疑念で「これは何ですか」と言う必要がなく、脅えがなく、他人を信じる必要がなく、教祖の宗教の梵行を行っている清信士は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でも四百人でも五百人でもなく、本当にたくさんいます。

 ヴァッチャさん。白衣をまとった在家で梵行をしている私の弟子である清信女の中で、十結の下の五つがなくなって、次の有で涅槃があり当然戻って来ない不還である人は、百人でなく、二百人でもなく、三百人でも四百人でも五百人でもなく、本当にたくさんいます。

 ヴァッチャさん。白衣をまとった在家で、まだ愛欲を味わっている私の弟子である清信女の中で、教えに従ってする人であり、教えに報いる人であり、疑念を越え、疑念で「これは何ですか」と言う必要がなく、脅えがなく、他人を信じる必要がなく、教祖の宗教の梵行をしている清信女は百人でなく、二百人でもなく、三百人でも四百人でも五百人でもなく、本当にたくさんいます。

中部マッジマバンナーサ 13巻251頁255項

 


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