ブッダヴァチャナによる四聖諦


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ブッダと四聖諦





 ブッダは『道を指さす人』で、

 教えは『本質であり道である四聖諦』があり、

 聖人である弟子たちは『その道を歩む人』です。


 しかし世界の動物は、まだ無明によって瀑流の底の泥に沈められ、

 その道を求めています。


 父を良く理解する子のように、

 彼がブッダを最高に深く知れば、

 その時彼はその道を見つけ、

 そして素晴らしい方々が歩いて行かれた跡を追って歩きます。


 理解が十分一致しないで、

 例えばブッダを神様と見るようなら、

 目的や努力してすることは、最終的に失敗し、

 結果はありません。

 ブッダは、道を指す人にすぎないからです。





ブッダは苦を指さして教える人

 比丘のみなさん。愛らしくうっとりさせる物が原因で男が川を泳いで下っていると、目のある男が岸に立ってその男を見て、「旦那。あなたは惚れ込んだ物のために川を泳いで下っていますが、下流には波や渦のある淵があり、鬼や羅刹がいるので、そこに至れば死ぬか、あるいは死ぬほどの苦を味わわなければなりませんよ」と叫ぶようなものです。

 比丘のみなさん。川を泳いで下っている男はそれを聞いて、両手両足で流れに逆らって、必死で泳いで戻ります。

 比丘のみなさん。この例えは内容を理解させるために私が作りました。これが要旨です。

 「水の流れ」とは欲望の名前で、「愛らしくうっとりさせる物」とは六内処入で、「下流に淵がある」とは五下分結(サンヨージャナの前半)のことで、「波」とは怒りと困窮のことで、「渦」とは五欲で、「鬼や羅刹」とは女性のことで、「波に逆らう」とは出離のことで、「両手両足で努力する」とは努力を始めることで、「目のある男が岸に立っている」とは阿羅漢サンマーサンブッダである如行です。

小部イティウッタカ 24巻316頁289項



 ブッダが苦と滅苦の道を説明できたのは、自分自身で解脱なさるほど良くご存じだったからです。私たちがどっぷり浸かっている低劣な苦、中間の苦、上等な苦も、ブッダは終わりのない世界の苦から完璧に解脱しました。だから次のように話すことができました。





ブッダにはない苦境の一角

 バラモンさん。十六頭の牛がいなくなって六日たっても、まだ見つからないということが私にはないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 畑の胡麻が枯れて葉が二三枚しか残っていないということが私にはないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 ネズミたちが空っぽになった米蔵で小躍りして喜ぶことも私にはないので、バラモンさん、だから私は幸福な人です。

 (暇な時間がないからではなく)七か月放置してある寝台を小動物に引かせることも私にはないので、バラモンさん。だから私は幸福な人です。

 未亡人になった(自分の)娘に一人二人の子供がいるということも私はないので、私は幸福な人です。

 髪が黄色くなり、体中にゴマ粒のある病気もなく、眠っているのに踏んだり蹴ったりして起こされることもないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

 朝早くからやって来て「返せ! 返せ!」と催促する借金取りもいないので、バラモンさん、私は幸福な人です。

相応部サガーダヴァッガ 15巻250頁669項



 ブッダが苦と滅苦のご説明ができるのは、本気で探求されたからです。現れるのを寝て待っていたからでも、夢みただけでも、あるいは浅く雑な学習でもありません。迷って苦を幸福と見て、それに溺れることは、人生のすべての時間を無駄にしてしまうので、うんざりするほど倦怠されました。




探求なさる

 王子。私がまだ悟っていないボーディサッタ(菩薩)だった時、「幸福と呼ばれる物は、誰もが簡単に到達できる物はない」という考えが生じました。また別の時には、まだ若く、髪は真っ黒な十分に成長した若者で、父も母も望まれず涙で顔を濡らして泣かれているその時、私は髪と髭を剃り、渋染の布をまとって家を出て出家し、家に関わらない人になりました。

 このように出家して何が善かを探求し、それ以上の物がない最高に素晴らしい物だけを探しました。

 カーラーマ氏のアーラーラ仙人を訪ね、ラーマプッタ ウダカ仙人も訪ねてそのダンマを勉強し、間もなく、すぐに「このダンマは苦に倦怠し、欲情が緩み、消滅し、静まり、最高の知識、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃にならない。非想非非想有に生まれるだけだ」とういう考えが生じました。私はそのダンマだけで止め、そのダンマに倦怠して去りました。

 ラーマプッタ ウダカの住まいを離れ、何が善かを探求し、それ以上のものがない最高に素晴らしい物だけを探求し続け、マガタ国の幾つもの村を遊行し、ウルヴェーラーセナーニガマに着きました。

 そこに滞在すると快適な場所が見つかったので、「ここは努力をするのに良い場所だ」と考え、納得してそこに滞在しました。

中部マッジマバンナーサ 13巻443頁489項


 次は苦行の実践と苦行について、そしてブッダの伝記で説明されているように、苦行を止め、心の面の努力に転向され、最後に出合ったもの、つまり素晴らしい真実を悟ったことについて話されました。





発見 なさる

 比丘のみなさん。心が安定して純潔で清浄になった時、私は煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然になり、動揺がなくなりました。

 そのようになったので、心をすべての漏の終わりにするニャーナ(智)だけに傾け、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道、これらがすべての漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに知りました。

 このように知り、このように見えた時、「解脱した」と知るニャーナ(智)が生じ、「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このような解脱のためにするべき仕事は他にない」と知りました。

 比丘のみなさん。これが深更に到達した三番目の明です。無明が追放されて明が生じました。闇が追放され、不注意でなく、煩悩を焼く努力があり、追い出した自分があり、常にその感覚の中にいる人に生じる明るさが生じました。

中部ムーラバンナーサ 12巻237頁253項






四聖諦を知らない時は、まだ無上正等菩提智を知ったと言われない

 比丘のみなさん。四聖諦は三転があり、十二の状態があると真実のままに見る智慧(智見)が純潔で清潔でない間は、天人界と悪魔界と梵天界がある世界、サマナ・バラモンと天人と人間がいる動物群に、「私は無上正等菩提智のすべてを悟った人です」と託宣しませんでした。

 比丘のみなさん。しかしこの四聖諦は三転があり、十二の状態があると真実のままに知る智慧がこのように純潔で清潔になった時、その時天人界と悪魔界と梵天界と人間界がある世界、サマナ・バラモンと天人と人間がいる動物に「私は無上正等菩提智をすべてを悟った人です」と宣言しました。

 「私の解脱は衰退することはない。この生は最後の生だ。新たに生じる有はもう二度とない」と、このように知る智慧と見る智慧が私に生じました。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻530頁1670項






四聖諦の意味で五蘊を知らなければ、ブッダだと宣言しない

 比丘のみなさん。この五つの取蘊を四転で真実のままに明らかに知らない間は、私はまだ天人界と悪魔界と梵天界を含めた世界、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、「無上正等菩提智をすべて悟った人です」と宣言しませんでした。

 比丘のみなさん。この五つの取蘊を、四転で真実のままに非常に明らかに知った時、私は天人界と悪魔界と梵天界を含めた世界、サマナ・バラモンと天人と人間を含めた動物群に、「無上正等菩提智を悟った人です」と宣言しました。

 比丘のみなさん。四転はどのようでしょうか。四転とは、

(1)私は形を極めて明白に知り、形の発生を極めて明白に知り、形の消滅を極めて明白に知り、形の消滅に至る道を極めて明白に知りました。

(2)私は受を極めて明白に知り、受の発生を極めて明白に知り、受の消滅を極めて明白に知り、受の消滅に至る道を極めて明白に知りました。

(3)私は想を極めて明白に知り、想の発生を極めて明白に知り、想の消滅を極めて明白に知り、想の消滅に至る道を極めて明白に知りました。

(4)私は行を極めて明白に知り、行の発生を極めて明白に知り、行の消滅を極めて明白に知り、行の消滅に至る道を極めて明白に知りました。

(5)私は識を極めて明白に知り、識の発生を極めて明白に知り、識の消滅を極めて明白に知り、識の消滅に至る道を極めて明白に知りました。

 比丘のみなさん。これらを四転と言います。

相応部ガンダヴァッガ 12巻72頁112項






サンマーサンブッダと呼ばれるのは、四聖諦を悟ったから

 比丘のみなさん。素晴らしい真実はこの四つです。四つとは何でしょうか。四つとは素晴らしい真実である苦、素晴らしい真実である苦を生じさせる原因、素晴らしい真実である苦の消滅、素晴らしい真実である苦の消滅に至る道です。これが四つの素晴らしい真実です。

 比丘のみなさん。これらの素晴らしい真実を真実のままに悟ったので、如行には、知識者が「阿羅漢サンマーサンブッダ」と呼ぶ名前があります。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このように真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻512頁1703項






世界(四聖諦)を知り尽す

 比丘のみなさん。如行は世界(つまり苦)をすべて明らかに知り尽し、世界から自分を抜き出し、世界を生じさせる原因をすべて明らかに知り尽くし、捨てて無くしてしまい、世界の消滅をすべて明らかに知り尽し、明らかにする行動をし、そして世界の消滅に至る道をすべて明らかに知り尽して、道を生じさせました。

 天人界と悪魔界と梵天界が揃っている世界、そしてサマナ・バラモンと天人と人間の動物群の何でも、見て、聞いて、嗅いで、味を見て、触れて、知り、至り、求め、心で追い、それらのすべてを明らかに知り尽したので、タターガタ(そのように行くという意味。漢訳は如来)という言葉があります。

増支部チャトゥカニバータ 21巻30頁23項






獅子吼を轟かせ四聖諦を公開なさる

 比丘のみなさん。獅子という動物の王は、夕方になると棲んでいる巣穴から出て伸びをし、四方を見渡して三回吼え、それから餌を探しに出掛けます。

 獅子吼を聞いたすべての動物は驚愕して心が萎え、穴に棲んでいる動物は穴に、水に棲んでいる動物は水に、森に棲んでいる動物は森に入り、小鳥は一斉に空に飛び立ち、丈夫な綱で繋がれている村や町や都の王の象は一斉に恐怖を感じ、渾身の力で綱を引切って、あちこちに大小便を垂らしながら逃げて行きます。

 比丘のみなさん。獅子という動物の王はこのように他のすべての獣より偉大で神聖で、非常に権威があります。

 比丘のみなさん。同じようにタターガタ(如行)は、明と明に至る実践が完璧な人であり、良く行った人(スガタ)であり、世界を明らかに知る人であり、自分で正しく悟った阿羅漢として世界に現れた時、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する人であり、天人と人間に教える先生であり、目覚めさせる人であり、ダンマを分類して動物に教える人です。

 如行はサッカーヤ(つまり苦)はこのよう、サッカーヤサムダヤ(つまり苦の原因)とはこのよう、サッカーヤニローダ(つまり苦の滅)とはこのよう、サッカーヤニローダカーミニーパティパダー(つまり苦の滅に至る道)とはこのようと説きます。

 楼閣に住んで長寿で肌のツヤが良く、たくさんの幸福を長期間維持している天人たちは、如行が説くダンマを聞くと、ほとんどは驚愕し、心が萎え、「発展なさった方、私たちは不変ではないのに自分は変わらないと理解し、永遠ではないのに自分は永遠だと理解し、安定ではないのに安定していると理解しています。そして私たちすべては変化し、永遠でなく不安定でサッカーヤ(つまり苦)に至ります」と考えることができます。

 比丘のみなさん。如行はこのように世界の動物と天人より偉大で、神聖で、非常に権威があります。

増支部チャトゥカニバータ 21巻42頁33項



訳註: サッカーヤという言葉の意味は有身ですが、ターン・プッタタートは苦という言葉で説明しています。

 上記の経では、有身で獅子吼なさっていますが、別の経(17巻103頁155項)では、天人がそれを聞くと、上記のように、衝撃を受け、動揺する五蘊の三つの状態で、このような状態、このような発生、このような消滅という要旨で獅子吼なさっています。






誰も公開できない至高の法輪を公開なさる

 比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである私如行は、バラーナシーの都に近いイシパタナミガダーヤワンの森で、サマナ・バラモン、あるいは天人、悪魔、梵天、あるいはこの世界の誰も公開できない至高のダンマチャクラ(法輪)を公開しました。

 比丘のみなさん。法輪の公開とは、四つの聖諦(素晴らしい真実)を教え、解説し、規定し、著し、開示し、分類し、そして理解させることです。四種類とは何でしょうか。

 四種類とは、素晴らしい真実である苦、苦を生じさせる原因、苦の消滅、苦の消滅に至る道を教え、解説し、規定し、著し、公開し、分類し、そして理解させることです。比丘のみなさん。阿羅漢サンマーサンブッダである私如行は、このように至高の法輪を開示して回転させました。

中部ウパリバンナーサ 14巻440頁699項






教えないことは、はるかに多い

 世尊がコーサンピーの都に近いシーサパーの森に滞在なさっている時、シーサパーの木の葉を少し掴まれて、「この掴んでいる木の葉と、森中にある木の葉はどちらが多いですか」と比丘たちにお尋ねになりました。比丘たちが「森の木の方が多いです」と答えると、次のように言われました。

 比丘のみなさん。同じように私が最高に知っていてみなさんに教えないことは、もっともっとたくさんあります。

 なぜそれをみなさんに教えないのでしょうか。それには利益がなく、梵行の初めでなく、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、静まること、最高に知ること、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃のためにならないからです。だから私はみなさんに教えません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻548頁1712項






教えるのは滅苦の話だけ

 比丘のみなさん。私がみなさんに教えるものは何でしょうか。私がみなさんに教えるのは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」という素晴らしい真実です。

 なぜこれをみなさんに教えるのでしょうか。これには利益があり、梵行の初めであり、苦に倦怠し、欲情が緩み、消滅し、静まり、最高に知ること、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃のためになるので、私はこれをみなさんに教えます。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻548頁1713項






四聖諦だけを託宣する

 「世界は不変という真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか、猊下」。

ポッタパーダさん。『世界は不変。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「世界は不変ではないという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『世界は不変ではない。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「世界に終わりがあるという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『世界は終わりがある。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「世界には終わりがないという真実だけが真実の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『世界に終わりがない。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「命と体は同じという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『命と体は同じ。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「命と体は同じではないという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『命と体は同じでない。この言葉だけが真実で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「如行は死んだ後も当然まだいるという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『如行は死んだ後もまだいる。これだけが真実の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「如行が死んだ後は、当然もういないという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。『如行が死んだ後は当然もういない。これだけが真実の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「如行が死んだ後、当然いることもあり、もういないのもあるという真実だけが本当の言葉で、他の言葉は無益ですか」。

ポッタパーダさん。「如行が死んだ後、当然まだいることもあり、もういないこともある。これだけが真実の言葉で、他の言葉は無益です」と、私は託宣しません。


 「如行が死んだ後、当然まだいるのでもなく、もういないのでもないという真実だけが真実の言葉で、他の言葉は無益ですか」

ポッタパーダさん。『如行が死んだ後、当然まだいるのでもなく、もういないのでもない。これだけが本当の言葉で、他の言葉は無益です』と、私は託宣しません。


 「なぜそれを託宣なさらないのですか」。

ポッタパーダさん。それには意味がなく、ダンマがなく、梵行の初めにならず、欲情の倦怠、弛緩、消滅、抑制、最高の知識、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃にならないので、だから託宣しません。


 「託宣なさったことには、どんな理由があるのですか」。

ポッタパーダさん。私が託宣するのは、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、このようです。


 「なぜ託宣なさるのですか」。

ポッタパーダさん。それには意味があり、ダンマがあり、梵行の初めであり、愛欲の倦怠、弛緩、消滅、抑制、最高の知識、知り尽くすこと、そして涅槃のためになるので、私は託宣しました。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻232頁292項






誰も依怙贔屓せずに聖諦を規定した

 比丘のみなさん。昔も今も、私は苦と滅苦だけを規定します。

 比丘のみなさん。他の人たちが規定のことで如行に罵詈雑言を言い、頭ごなしに叱り、当て擦り、皮肉を言い、復讐に燃え、怒り狂い、不満を持つことはありません。

 比丘のみなさん。他の人たちが規定のことで如行を尊敬し、信頼し、崇拝し、如行に心酔し、喜び、得意になることもありません。

 比丘のみなさん。他の人たちがこの規定のことで如行を尊敬し、尊重し、信頼し、崇拝するなら、その話に「私がかつて知り尽したことは何でも、当然私は私が知っているように行動する」という感覚が、如行に対して生じます。

中部ムーラバンナーサ 12巻278頁286項






世界の言い回しで話しても、捉えない

 ポッタパーダさん。自我はこの三種類だけです。つまり粗い自我を得ること、心が作った自我を得ること、形のない自我を得ることです。

 ポッタパーダさん。粗い自我を得るとはどのようでしょうか。粗いとは四大種がある形(訳注:体のこと)があり、食事として段食(ご飯の固まり。つまり普通の食事)があります。

 心で作られる自我を得るとはどのようでしょうか。心で作られるとは心で完成し、大小の器官が全部揃っていて、根に欠陥のない形のある自我です。

 形のない自我を得るとはどのようでしょうか。形がないとは識で作られる形がない自我です。

 (次に三つの自我を捨てることと捨てることの功徳について、非常に興味深い形で説明されています。そして同座していたチッタハッディ サーリプッタに話されました)。


 チッタさん。粗い自我がある時はいつでも、心で作られた自我と形のない自我があると見なすに至らず、見なせるのは粗い自我だけです。

 チッタさん。心で作られた自我がある時は、粗い自我と形のない自我があると見なすに至らず、多分見なせるのは心で作られた自我だけです。

 チッタさん。形のない自我がある時は、粗い自我と心で作られた自我があると見なすに至らず、多分(あると)見なせるのは形のない自我だけです。

 チッタさん。生乳、生乳で作ったヨーグルト(酪)、ヨーグルトから作った濃いバター(生酥)、濃いバターから作った透明なバター(熟酥)、透明なバターから作った固いバター(醍醐)も、生乳の時はヨーグルト、濃いバター、透明なバター、固いバターとは見なすに至らず、生乳と見なすだけです。

 ヨーグルトになった時は、生乳、濃いバター、透明なバター、固いバターと見なすに至らず、見なすことができるのは、ヨーグルトだけです。濃いバターになった時は、生乳、ヨーグルト、透明なバター、固いバターと見なすに至らず、濃いバターと見なすだけです。

   透明なバターになった時は、生乳、ヨーグルト、濃いバター、固いバターと見なすに至らず、見なせるのは、透明なバターと見なすだけです。固いバターになった時は、生乳、ヨーグルト、濃いバター、透明なバターと見なすに至らず、固いバターと見なすだけです。

 同じようにチッタさん。これら三種類の自我は世界の呼び名、世界の言葉、世界の言説、世界の規定です。私も世界の人が言っているように言いますが、世界の人のような意味で捉えません。


長部シーラカンダヴァッガ 9巻241頁302項






弟子がブッダと暮らすのは、四聖諦の問題に答えられるから

 ウダジさん。私は時には鉢の縁まで食べることがあり、それ以上のこともあります。私の弟子たちの多くが、私が小食で小食を称賛し小食の弟子を褒めると理解して、小さなしゃもじ一杯だけ、小さなしゃもじ半分だけ、みかんくらい、みかん半分くらい小食の弟子が、そのことで私を尊敬し、信頼し崇拝して一緒に住むのではありません。

 ウダジさん。私は時にはヒョウタンの毛のような糸で織った目が詰まった生地の居士衣をまとうこともあります。私の弟子たちの多くが、私はある衣だけで満足する人と理解して、墓地やゴミ捨て場や市場の店(たな)の下などから糞拭衣や汚れた布、擦り切れた布を見つけてきて外衣を作り、それを理由に私を尊敬し、信仰し、崇拝し、一緒に住むのではありません。

 ウダジさん。時には私は大勢の比丘と大勢の比丘尼と大勢の清信士と大勢の清信女と、大勢の王と王の顧問と大勢の教祖と教祖の弟子たちに囲まれていることもあります。私の弟子たちの多くが、私は静寂な住まいに住む人と理解して、森に住む弟子たちが森の静かな住まいを遵守し、半月毎に一回、パーティモッガの時だけサンガの集会に来て、それを理由に私を尊敬し信頼し崇拝し、一緒に住むのではありません。

 ウダジさん。私の弟子たちが苦に至り、どんな苦でも目の前にあれば私を訪ねて四聖諦について質問し、私も聞かれれば答えます。私は問題に答えることであなた方の心を喜ばせることができます。

 みなさんは私に集諦・滅諦・苦諦を尋ね、私は答えます。私は問題に答えることでみなさんの心を喜ばせることができます。

 ウダジさん。これが、すべての弟子が私を尊敬し敬い信頼し崇拝し、そして私と一緒に住む理由です。

中部マッジマバンナーサ 13巻318頁324項






過去・未来・現在のブッダは、すべて四聖諦を悟る

 比丘のみなさん。遠い昔に真実のままに大悟した阿羅漢サンマーサンブッダは誰でも、それらの方々は、四つの素晴らしい真実を真実のままに大悟しました。比丘のみなさん。遠い未来の阿羅漢サンマーサンブッダは誰でも、それらの方々は、四つの素晴らしい真実を真実のままに大悟します。

 比丘のみなさん。現在、真実のままに悟った阿羅漢サンマーサンブッダも、四つの素晴らしい真実を大悟しました。四つの素晴らしい真実とは何でしょうか。四つとは、素晴らしい真実である苦、素晴らしい真実である苦が生じる原因、素晴らしい真実である苦の消滅、素晴らしい真実である苦の消滅に至る道です。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻543頁1704項






世界にブッダとダンマヴィナヤが必要な理由

 比丘のみなさん。この三つの自然がこの世界になかったら、如行は阿羅漢サンマーサンブッダとしてこの世界に生まれる必要がなく、そして如行が公開したダンマヴィナヤ(教えと律。この場合は宗教という意味)も、世界で繁栄する必要はありません。

 三つの自然とは何でしょうか。それは生・老・死です。比丘のみなさん。この三つの自然が世界に無ければ、如行は阿羅漢サンマーサンブッダとして生まれる必要はなく、そして私が公開したダンマヴィナヤも世界で繁栄する必要はありません。

 比丘のみなさん。この三つの自然が世界にあるので、如行は阿羅漢サンマーサンブッダとしてこの世界に生まれ、そして如行が公開したダンマヴィナヤが繁栄しなければなりません。

増支部ダサカニバータ 24巻154頁76項






四聖諦を教えてくれた人は大恩人

 比丘のみなさん。人にとって最高に恩のある人はこの三種類です。三種類とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。人は誰かに依存して拠り所であるブッダに至り、拠り所である教えに至り、拠り所であるサンガに至ります。比丘のみなさん。この人はその人にとって大恩人と言われます。

 比丘のみなさん。もう一つ人は誰かに依存して「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。その人はこの人にとって大恩人と言われます。

 もう一つ人は誰かに依存して、漏がすべて終わって漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)・パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そしていつもその感覚の中にいます。比丘のみなさん。その人はこの人にとって大恩人と言われます。

 比丘のみなさん。この三種類の人物はその人にとって最高に恩がある人と言われます。比丘のみなさん。その人にとってこの三種類の人以上の恩人はいないと私は言います。

 比丘のみなさん。この三種類の人に拝礼し、立って迎え、合掌や和敬行をし、そして衣や食べ物や住まいや八物などを献上しても、それだけでは、簡単に恩返しはできません。

増支部ティカニカーヤ 20巻155頁463頁


 


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