ブッダヴァチャナによる四聖諦


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人生と四聖諦





ほとんどの人間は間違った拠り所を信じる

 ほとんどすべての人間は恐怖に脅され、当然、山や神聖な木や,神聖な庭や記念の植物を自分の拠り所として信じる。それは安全な拠り所ではなく、最高の拠り所ではない。それらを拠り所と信じる人は、当然すべての苦から脱すことはできない。

 ブッダ・ダンマ(教え)・サンガ(僧)を拠り所にする人は、正しい智慧で四聖諦が見える。つまり苦が見え、苦が生じる原因が見え、苦の消滅が見え、そして素晴らしい八つの道が見える。それは苦の鎮静に至らせる安全な拠り所であり、最高の拠り所である。それを拠り所にする人は、当然すべての苦から本当に解脱する。

小部ダンマパダ 24巻40頁24項






四聖諦を知らない人は、自分のために際限なく苦を作っている

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、そしてこれが苦の消滅に至らせる道」と真実のままに知らない人たちは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いなどになる原因と縁を非常に喜びます。

 その種の物を作る原因と縁を喜ぶ人は、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いなどになる原因と縁を作っています。その人がその原因と縁を作れば、その人は生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いなどの淵に落ちます。私は当然「その人はすべての苦、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いから脱すことができない」と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻560頁1729項






四聖諦を知る人は自分のために苦を作らない

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これが苦の生じる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに正しく知っている人は、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いなどになる原因と縁を喜びません。生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いなどになる原因と縁を喜ばない人は、当然、生・老・死などになる原因と縁を作りません。

 その人がその種の物になる原因と縁を作らなければ、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いの淵に落ちて沈むことはありません。私は「彼は、生や老などがあるすべての苦から脱すことができる」と言います。

 比丘のみなさん。だからこれは、みなさん「これが苦、これが苦の生じる原因、これが苦の絶滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーアラヴァッガ 19巻561頁1730項






動物が悔悟して四聖諦を知るだけ十分大きな苦がある

 比丘のみなさん。このインド半島の草や木や木の枝や木の葉を刈って一か所に集め、それを串にして、串状にしたら海の大きな動物を大きな串に刺し、海の中くらいの動物を中くらいの串に刺し、海の小さな動物を小さな串に刺します。

 比丘のみなさん。海の大きな動物が終わらないうちに、半島の草や木や木の枝や木の葉は終わってしまいます。比丘のみなさん。串に刺すのが大変な小さな海の動物は、木や木の枝や木の葉より遥かに多いです。それは何故でしょうか。比丘のみなさん。体の小さな生き物が多いからです。

 比丘のみなさん。アバヤ(苦界)も同じように広大で、そのように広大な苦界からも解脱できる見具足者がいて、彼は「これが苦、これが苦の生じる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知っています。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん、「これが苦、これが苦の生じる原因、これが滅苦、これが滅苦を生じさせる道」と知るヨーガカンマ(目的を達成するために厳格に系統的にする努力)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻551頁1719項





四聖諦を知れば、苦は爪の先の埃くらいに減る

 比丘のみなさん。これをどう理解しますか。私が爪の先で掬った僅かな埃と、大地(の土)はどちらが多いですか。

 「猊下。大地の(土の)方が多いです。爪の先で掬われた埃はほんの少しで、大地と比べたら勘定するほどもありません。比較になりません」。

 比丘のみなさんこの例えも同じです。特に(正しい)見解が完璧な聖人の苦、その方が終わらせた苦は、当然まだ残っている僅かな苦より多いです。終わった苦、消滅した過去の苦の山と比べると、勘定するほど、比較するほどもありません。

 それがサッタカガットゥパラマ(註1)である預流で、「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と、真実のままに明らかに知る人です。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん、「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至る道はこのよう」と知るヨーガカンマ(目的を達成するために厳格に系統的にする努力)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻572頁1747項



 註1:あと七回生まれなければならない預流=極七返生のこと。預流の分類の中でもっとも初等の聖人ですが、それでも消滅した苦の方が、残っている苦より多いと言います。

 他の経は、緑豆七粒くらいの砂と、高峰ヒマラヤのたとえ(19巻569頁1745項)

 萱の葉先についた水と、幅八百キロの池の水のたとえ(19巻572頁1748項)

 二三滴の水と、五つの川を一つにした川の水のたとえ(19巻573頁1749項)

 七粒の大風子の種と、大地のたとえ(19巻574頁1751項)

 二三滴の水と、すべての海のたとえ(19巻575頁1753項)

 二三粒の菜種と、高峰ヒマラヤのたとえ(19巻572頁1749項)





四聖諦を知らない人は闇に落ちていると言われる

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに知らない人は誰でも、当然生などを全部生じさせる縁であるものを喜び、喜べばその縁を作り、作れば盲目のようにさせる闇の淵に落ちて沈みます。

 闇とは生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いです。比丘のみなさん。「それらの人は、生などの苦から脱すことができない」と私は言います。

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに明らかに知る人たちは誰でも、当然生などを全部生じさせる縁を喜びません。喜ばなければ当然その縁を作らず、作らなければ、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いの盲目の行動をさせる闇の淵に落ちて沈みません。比丘のみなさん。「その人は苦、つまり生などから脱した」と私は言います。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん「苦とはこのよう、苦の原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦に至る道はこのよう」と知る行動をさせるヨーガカンマ(本気で目的のために系統的にする努力)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻567頁1741項






四聖諦を知らない人は「永久に火の穴に落ちている」と言われる

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これは苦が生じる原因、これが苦の消滅、そしてこれが苦の消滅に至る道」と真実のままに知らない人は誰でも、当然生などのためになる縁や変化を喜びます。

 その人が喜べば、それらの縁を(原註:自分のために)作り、作れば生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いが焼き炙るので、焦燥があります。比丘のみなさん。その人たちは苦から、つまり生などから脱出できません。

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも「これが苦、これは苦が生じる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知れば、当然生などにする縁、変化させる縁を喜びません。

 喜ばなければ、(自分のために)縁を作らず、作らなければ、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いに焼き炙られる焦燥がなく、その人は当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・憂いから解脱します。私は「その人はこのように苦から解脱した」と言います。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、滅苦はこのよう、滅苦に至る道はこのよう」と知るヨーガカンマ(本気で目的のために体系的にする努力)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻563頁1733項






人間が首かせから外れる(四聖諦を知る)まで

 (このブッダの言葉は、初めに世界のすべての動物が、どのように世界の首かせに繋がれていて、それからどのように気付くかを説明しています)。


1.普通に愛欲に沈んでいる時

 比丘のみなさん。野菜畑の人は「私たちが育てた野菜を森の中のすべての鹿が食べることができ、長寿で美しい体になるよう、長生きするよう」と考えて作っていません。

 「私たちが作っている野菜を食べに来た鹿が我を忘れて食べ、我を忘れて食べれば迂闊になり、迂闊になれば不注意になり、不注意になれば私たちが好きなようにできる動物になる」と考えて野菜を作っています。

 比丘のみなさん。すべての鹿の中で、野菜畑の主人が作った野菜畑に来た一番の鹿の群れは我を忘れて食べます。我を忘れて食べれば迂闊になり、迂闊になれば不注意になり、不注意になれば野菜畑の主人たちが畑の中で自由にできる動物になります。比丘のみなさん。その一番の鹿の群れは、このように野菜畑の主人の手から逃れられません。

 (世尊は次のように、あるサマナ・バラモンのグループをその鹿の群れに譬えられました)。

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンの中の一番目のサマナ・バラモンたちが、我を忘れて食べさせるために育てている野菜畑のような世界の味に近づいて我を忘れて食べます。我を忘れて食べれば陶酔に至り、陶酔すれば油断し、油断すれば悪魔の野菜畑のような世界の味の中で、悪魔が自由にすべき人になります。

 比丘のみなさん。一番のサマナ・バラモンたちは、このように悪魔の魔力から逃れることができません。比丘のみなさん。私は、これらのサマナ・バラモンは一番の鹿の群れに例えられると言います。

 比丘のみなさん。この例えの「野菜畑」とは五欲の、「野菜畑の主人」とは罪のある悪魔の、「野菜畑の仲間」とは悪魔仲間の、「鹿の群れ」とはすべてのサマナ・バラモンの代名詞と教えるためです。

 (この例えの解説は、経では四番目の鹿の群れの話の途中で話されています。ここでは学習に便利なように、このように初めに引用しました)。


2.二度目に愛欲に沈む時

 (次は二番目のサマナ・バラモンに例えられる二番目の鹿の群れについて話されています)。

 比丘のみなさん。二番目の鹿の群れは(一番の鹿の群れの全面的な破滅を知って)、「私たちは、あらゆる点で危険な食べ物である野菜を食べるのを避け、森の縁へ行こう」と考えます。この鹿の群れは、あらゆる点で危険な食べ物である野菜を食べるのを避けて森の縁へ行きます。

 夏の終わりの水や草が枯れる季節になると、体が非常に衰弱し、体が衰弱すれば気力もなくなり、畑の主人が作っている野菜畑に戻って来て我を忘れて野菜を食べます。我を忘れて食べれば無頓着になり、無頓着になれば油断をし、油断をすれば野菜畑の主人が畑の中で自由にできる動物になります。比丘のみなさん。このような状態で、二番目の鹿の群れも野菜畑の主人の手から逃れられません。

 (二番目の鹿の群れに例えられるサマナ・バラモンを、次のように取り上げられています)。

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンの中の二番目のグループは、(一番のサマナ・バラモンがあらゆる点で破滅したのを知って)「それなら私たちはあらゆる点で世界の餌を食べるのと同じ世界の味を避けよう。危険な食べ物を避け、森の縁へ行って暮らそう」と考えます。これらのサマナ・バラモンは、あらゆる点で世界の餌を食べるのと同じ五欲を避け、危険な食べ物を避けて森の縁へ行って暮らします。

 それらのサマナ・バラモンは野菜を食糧にし、ヒエ、粟、キビなどを食糧にし、ハト麦を食糧にし、樹皮を食糧にし、藻類を食糧にし、ヌカを食糧にし、焦げ飯を食糧にし、菜種を食糧にし、草を食糧にし、牛糞を食糧にし、草の根と森の果物を食糧にして自分を維持し、自然にある物を食べる人です。

 野菜や草や水が枯れる夏の終わりになると、体が非常に衰弱し、体が衰弱すれば力がなくなり、力がなくなればチェトーヴィムッティ(心解脱)も衰え、心解脱が衰えれば再び悪魔が栽培している野菜と同じ世界の味を求めます。

 そのサマナ・バラモンたちは我を忘れて食べ、我を忘れて食べれば陶酔し、陶酔すれば無頓着になり、無頓着になれば油断をし、油断をすれば、悪魔の野菜畑のような世界の味で、悪魔が思いのままにできる人になります。比丘のみなさん。このように二番目のサマナ・バラモンたちも、悪魔の威力から逃れられません。比丘のみなさん。私は「二番目のサマナ・バラモンは、二番目の鹿の群れに例えられる」と言います。


3.「見解」の罠に嵌まる時

 (次は三番目のサマナ・バラモンに例えられる三番目の鹿の群れについて述べられています)。

 比丘のみなさん。三番目の鹿の群れは(一番と二番の鹿の群れがことごとく破滅したのを知って)、「それなら私たちは野菜畑から遠く離れた隠れた場所に住もう。野菜畑から遠く離れた隠れた場所に住めば、我を忘れてその野菜を食べない。我を忘れて食べなければ迂闊にならず、迂闊にならなければ不注意にならず、不注意にならなければその野菜畑で誰かが思いのままにできる動物にはならない」と考えます。

 この鹿の群れは考えたように行動します。比丘のみなさん。野菜畑の主人は「三番目の鹿の群れは、神通力のような策略がある特別な動物に違いない。だから野菜を食べに来られるが、私には奴らが食べに来るのが分からない。それなら、大きな網で周りを囲うべきだ。そうすればこっそり食べに来た三番目の鹿の群れが隠れているのが見えるかもしれない」と考えます。

 その人たちは野菜畑の周辺を大きくて丈夫な網で囲みます。比丘のみなさん。野菜畑の主人と仲間は、こっそり食べに来た三番目の鹿の群れが隠れているのを見つけます。比丘のみなさん。このように三番目の鹿の群れも、野菜畑の主人の手から逃れられません。

 (世尊は三番目のサマナ・バラモンを、三番目の鹿の群れに例えられています)。

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンの中の三番目のサマナ・バラモンは、(一番と二番のサマナ・バラモンがことごとく破滅したのを見て)「それなら私は、悪魔の野菜畑のような世界の味に誘う物から遠く離れた隠れた場所に住もう。隠れた場所に住めば、悪魔の野菜畑のような世界の味を、我を忘れて食べない。

 我を忘れて食べなければ陶酔せず、陶酔しなければ不注意にならず、不注意にならなければ、悪魔の野菜畑のような世界の魅力的な物の中で、悪魔が自由にできる人にはならない」と考えます。

 そのサマナ・バラモンは(考えたように行動しますが)「世界は変わらない」「世界は不変ではない」「世界に終わりがある」「世界に終わりがない」「命と体は同じ」「命と体は違う」「如行が死んだ後当然生まれる」「如行が死んだ後当然生まれない」「如行が死んだ後は、当然生まれることもなく、生まれないこともない」「如行が死んだ後、当然生まれるのはあり得ず、生まれないのもあり得ない」という見解が生まれます。

 比丘のみなさん。このようにして三番目のサマナ・バラモンも悪魔の手から逃れられません。比丘のみなさん。私は「このサマナ・バラモンは三番目の鹿の群れに例えられる」と言います。


4.罠から脱した時

 (次は四番目の鹿の群れと、四番目のサマナ・バラモンの例えについて話されています)。

 比丘のみなさん。四番目の鹿の群れは、(一番と二番と三番の鹿の群れがことごとく破滅したのを見て)「それなら私たちは、野菜畑の主人とその仲間が来られない隠れた場所に住もう。畑の主人と部下が来られない場所に隠れ住めば、彼らが作った野菜を我を忘れて食べず、迂闊になることもない。

 迂闊にならなければ油断をせず、油断をしなければ、誰も自分の思いのままにできる動物にならない」と考えます。その鹿の群れは(考えたように行動します)。

 比丘のみなさん。野菜畑の主人に「四番目の鹿の群れは、神通力のような策略があるに違いない。四番目の鹿の群れは、特別な種類の動物に違いない。だから奴らは私たちが作った野菜を食べに来られるが、私たちは奴らが食べに来るのが分からない。それなら大きな網で周辺を囲うべきだ。そうすれば四番目の鹿の群れが、隠れて食べに来るのが見られるかもしれない」と考えます。

 そして大きな網で畑の周辺を囲みます。比丘のみなさん。畑の主人と仲間は、隠れて食べに来る四番目の鹿の群れを見つけることができません。

 比丘のみなさん。そこで畑の主人に「四番目の鹿の群れを驚かせれば、他の群れもびっくりする。そうすればすべての鹿の群れが、私が育てている野菜畑に近寄らなくなる。それなら四番目の鹿の群れを驚かせる努力をするべきだ」という考えが生まれます。

 比丘のみなさん。畑の主人と部下は、四番目の鹿の群れを驚かせる努力をします。比丘のみなさん。このように四番目の鹿の群れは、野菜畑の主人の手から逃れます。

 (世尊は、四番目のサマナ・バラモンたちを四番目の鹿の群れに例えられています)。

 比丘のみなさん。すべてのサマナ・バラモンたちの中の四番目のサマナ・バラモンは、(一番と二番と三番のサマナ・バラモンがすべて破滅したのを見て)「それなら私たちは悪魔と悪魔の手下が追ってこられない所に隠れ住もう。

 そこに隠れ住めば、悪魔が作っている野菜畑のような、心を世界に引き留める物を我を忘れて食べず、我を忘れて食べなければ陶酔せず、陶酔しなければ不注意にならず、不注意にならなければ、悪魔が作っている野菜畑のような五欲で、誰も思いのままにできない動物になる」と考えます。

 その時そのサマナ・バラモンたちは、(考えたように行動します)。比丘のみなさん。このように四番目のサマナ・バラモンたちは、悪魔の威力から脱します。比丘のみなさん。私はこの四番目のサマナ・バラモンたちは、四番目の鹿の群れに例えられると言います。

 比丘のみなさん。悪魔と悪魔の手下が追いつけないサマナ・バラモンたちは、どのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタカ(訳注:一つのことについて考えること。尋)ヴィチャーラ(訳注:一つのことを調べること。伺)があり、ヴィヴェガ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッガ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 比丘のみなさん。「その比丘は悪魔を手掛かりのない盲人にした。悪魔を目の無いものにした。罪のある悪魔に見えない所へ行った」と私は言います。

 (次は二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の到達について、初禅と同じ内容で、悪魔は追いつけないと話されています。最後に次の想受滅について、)  比丘のみなさん。更に非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に達し、常にその感覚の中にいます。そして智慧で見る(註1)ので、彼のすべての漏は終わります。

 比丘のみなさん。この比丘を私は「悪魔を手掛かりのない盲目にした。悪魔の目を無くしてしまった。罪のある悪魔に見えない所へ行ってしまった。世界の欲望を越えた」と言います

 (註1:ここでの「智慧で見えた」という言葉は、苦と、苦の原因と、滅苦と、滅苦の道が見え、そして漏と、漏の原因と、漏の消滅と、漏の消滅に至る道が見え、「首かせから脱した」と言う、漏が無くなった人になること)。

中部ムーラバンナーサ 12巻298頁301項






愛欲に溺れないで愛欲を嗜む人たちもいる

 比丘のみなさん。これらの愛欲は五つあります。五つはどのようでしょうか。五つは非常に欲しくなる物、可愛いらしくて満足する物、愛らしい状態があり、愛欲の住処であり、欲情の基盤である目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で感じる触です。比丘のみなさん。五欲はこの五つです。

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも五欲の虜になってひれ伏して惑溺している人は誰でも、害の部分が見えず、それらの五欲を味わう苦から出る方便を明らかに知る人ではありません。その人たちは、誰もが「罪のある悪魔が思惑どおりに破滅させられる人」と理解するべきです。

 比丘のみなさん。罠に掛かって、誰でも「何もかも猟師の思惑どおりに破滅する」と理解すべき状態で寝ている鹿は、猟師が近づいて来てもどこへも逃げられないのと同じです。

 比丘のみなさん。サマナでもバラモンでも五欲の虜にならず、ひれ伏して惑溺しない人は誰でも、害の部分が見え、五欲を味わう苦から出る方便を明らかに知る人です。その人たちは罪のある悪魔の思惑どおりに破滅することは何もないと、誰もが理解すべきです。

 罠の上に寝ていても罠に掛からない鹿のように、猟師の思惑どおりに破滅することがなく、猟師が近づいて来たら、どこへでも逃げて行くことができると、誰もが理解すべき動物です。

 比丘のみなさん。(もう一つ)野生の鹿は広い森へ行って歩いていても優雅で、立っていても優雅で、跪いても優雅で、寝ていても優雅なのと同じです。それは何故でしょうか。その鹿はまだ猟師の視界に入っていないからです。

 比丘のみなさん。比丘も同じで、愛欲とすべての悪が静まれば、ヴィタカ(思惟。尋)・ヴィチャーラ(思索。伺)があり、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。私は「悪魔を手掛かりのない盲目にした。悪魔の目を潰し、悪魔に見えない所へ行った」と言います。

 (次に二禅、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の到達について、初禅の場合と同じ順序で話されています。最後に想受滅への到達について次のように話されています)。

 比丘のみなさん。更に非想非非想処をすべて越えた比丘は想受滅に達し、そして常にその感覚の中にいます。更に智慧で見るので、彼のすべての漏は全部終わります。

 比丘のみなさん。私はその比丘を「悪魔を盲目にし、手掛かりをなくした」「悪魔の目を潰し、悪魔に見えない所へ行った」「世俗の欲望を超えた」と言います。その比丘は立っていても優雅で、歩いていても優雅で、座っていても優雅で、寝ていても優雅です。

 それは何故でしょうか。それはその比丘が、罪のある悪魔の威力の濠に来ないからです。

中部ムーラバンナーサ 12巻333頁327項






心の柱として四聖諦を知っている人は、主張を否定されても石の柱のように動揺しない

 比丘のみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに知っている比丘は、論争したくてうずうずしているサマナやバラモンが「その比丘の主張を覆して見せる」と言って、東から西から、北から南から現れても、そのサマナやバラモンがダンマに照らして正しい方法でその比丘を動揺させる、あるいは震撼させることはできません。

 それは何故でしょうか。それは、その比丘は四聖諦が良く見えているからです。  比丘のみなさん。八メートルの石柱の半分を地面に埋めれば、それは埋めてある部分が深くしっかり埋めてあるので、どんなに強い風や風雨が東から西から、北から南から吹いても、その石柱を揺らすこと、あるいは震えさせることができないのと同じです。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦を生じさせる道」と真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻555頁1724項






無明がある人は四つの知識が無い人

 「猊下。猊下は『無明』『無明』とおっしゃいますが、無明とは何ですか。そしてどれほどの理由で無明がある人と言われるのですか」。

 ほら、比丘。苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦に至る道を知らないことのどの無知も、私は無明と呼びます。そして無明に達したと言われる人は、これだけの真実を知らないからです。

 「猊下。猊下は『明(知識)』『明』とおっしゃいますが、明とはどのようですか。そしてどれくらいで、明に達した人と言われるのですか」。
 
 ほら、比丘。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、滅苦の知識、滅苦に至る道の知識のどの知識も、私は明と呼びます。そして「明に到達した」と呼ばれる人は、これだけの真実を知るからです。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これは苦が生じる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と、真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻538頁1694項






世界の事を考えないで四聖諦を考えなさい

 比丘のみなさん。昔の話です。ある男が世界の事を考えようと決意してラーチャガハを出てスマーガダーという蓮池へ行き、池のほとりに座って考えていました。

 すると男は、池のほとりで四隊編成(騎象隊、騎馬隊、戦車隊、歩兵隊)の連隊が蓮の根に入って行くのを見ました。それを見た時「私は狂っている。精神異常だ。世界に無い物を見た」と、自分自身を信じられなくなりました。

 比丘のみなさん。男は都へ戻ると「みなさん、私は狂ってしまいました。精神異常です。世界に無い物を見ました」と、このように大衆に吹聴しました。何を見たのですかと尋ねる声があったので、男が見たとおりにすべて話すと、「そのとおりです。あなたは狂ってしまった。あなたは精神異常です」と認める声がありました。

 比丘のみなさん。しかしその男が見たのは本当にあったことです。事実であり、事実でないことを見たのではありません。

 比丘のみなさん。大昔、天人と阿修羅の間で戦争があり、その時天人が勝者で、阿修羅は敗者でした。阿修羅たちは天人たちを騙して探させるために、密かに蓮の根を通って阿修羅の世界へ逃げました。(世界の話は当然奇妙で、これだけでは終わりません)。

 比丘のみなさん。だからこの場合、みなさんは「世界は不変か、世界は不変ではないか。世界に終わりはあるか、世界に終わりはないか。命と体は同じか、命と体は別のものか。如行が死んだ後も変わらず生きているか、如行が死んだ後はそれまでのようではないか。如行が死んだ後今までと同じこともあり、同じでないこともあるのか。如行が死んだ後、今までのようでもなく、今までと違う訳でもないのか」という内容で世界の事を考えてはいけません。

 なぜ考えるべきでないのでしょうか。比丘のみなさん。その考えには利益が無く、梵行の初めでなく、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、抑制、究極の知識、すべてを知ること、そして涅槃にならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが考える時は「こういうのが苦、こういうのが苦を生じさせる原因、こういうのが苦の消滅、そしてこういうのが苦の消滅に至る道」と考えなさい。なぜそのように考えるべきでしょうか。この考えには当然利益があり、梵行の糸口になり、苦に飽き、欲情が緩み、消滅し、鎮静し、最高の知識、すべてを知ること、そして涅槃になるからです。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻558頁1725項






激しく論争しないで苦から脱す話をしなさい

 比丘のみなさん。みなさんは「あなたはこのダンマヴィナヤ(教えと律。仏教というほどの意味)を良く知らない。私はこのダンマヴィナヤをすべて知っている。あなたがこのダンマヴィナヤをすべて知ることができるはずがない。あなたの実践は間違っている。私の実践は正しい。だからあなたの言葉には利益が無く、私の言葉には利益がある。

あなたが得意だったことは変化してしまった。私はあなたの言葉を奪い、押さえつけた。できるなら、間違った言葉を訂正するために反論して見なさい」と、このように執着して仲違いする言葉を言ってはいけません。

 何故このような言葉を言うべきでないのでしょうか。そう言うことには利益が無く、梵行の初めでなく、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、抑制、最高の知識、すべてを知ること、そして涅槃にならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが話す時は「こういうのが苦、こういうのが苦を生じさせる原因、こういうのが苦の消滅、そしてこういうのが苦の消滅に至る道」と話しなさい。なぜそのように話すべきなのでしょうか。こう話すことには当然利益があり、梵行の初めであり、苦に倦怠し、欲情が緩み、消滅し、鎮静し、最高の知識、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃になるからです。

 比丘のみなさん。だからこの場合は、みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻525頁1662項






利益のないことを話さず、苦から脱す話をしなさい

 比丘のみなさん。畜生談、つまり王様の話、盗賊の話、役人の話、兵隊の話、怖い話、戦争の話、食べ物の話、水の話、服装の話、寝具の話、花の規則の話、香りの話、親戚の話、乗り物の話、村の話、県の話、都の話、田舎の話、女の話、男の話、勇者の話、面白い話、街道の話、港の話、死人の話、いろんな話、世界の話、海の話、夜明けの話、衰退の話など、ダンマの道を妨害する会話に夢中になってはいけません。

 なぜ話すべきでないのでしょうか。その話には利益が無く、梵行の初めでなく、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、鎮静、最高に知ること、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃にならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが話す時は「こういうのが苦、こういうのが苦を生じさせる原因、こういうのが苦の消滅、こういうのが苦の消滅に至る道」と話しなさい。なぜそのように話すべきでしょうか。この話には当然利益があり、梵行の初めであり、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、鎮静、最高の知識、すべてを知り尽くすこと、そして涅槃になるからです。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻526頁1663項






正しく出家した人たちのように、滅苦を知るために出家なさい

 比丘のみなさん。遠い昔の良家の子息は、家を出て出家して正しく家に関わらない人になり、その良家の子息はみな、四つの素晴らしい真実を、真実のままに知るために出家しました。

 比丘のみなさん。遠い未来、良家の子息は家を出て出家して正しく家に関わらない人になり、そのすべての良家の子息は、四つの素晴らしい真実を、真実のままに知るために出家します。

 比丘のみなさん。現在の良家の子息も家を出て出家して正しく家に関わらない人になり、その良家の子息は、四種類の素晴らしい真実を、真実のままに知るために出家します。

 四つとは何でしょうか。四つとは苦の話、苦を生じさせる原因の話、滅苦の話、滅苦に至る道の話です。比丘のみなさん。だからこの場合は、みなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻521頁1656項






四聖諦を知らなければ本当のサマナ・バラモンではない

 比丘のみなさん。「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知らないサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。そのサマナ・バラモンは、サマナの中のサマナ、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人ではありません。

 もう一つ、これらを知らない人はサマナであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることはできません。

 比丘のみなさん。一方「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに明確に知るサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。そのサマナ・バラモンは、サマナの中のサマナ、バラモンの中のバラモンと仮定されるべき人です。

 もう一つ、これらを真実のままに明らかに知る人は、サマナであることの利益、バラモンであることの利益を生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。

 (世尊はこの言葉を述べられて、次のガーター(詩)を詠まれました)。


   苦と、苦の原因と、すべての苦が消滅したものと

   苦の鎮静に至る道のすべてを知らない人は

   心解脱・智慧解脱から脱落し

   苦を終わらせるにふさわしくない

   あるのは生と老いに至ることだけ

  
   苦と、苦の原因と、苦の消滅と

   苦の鎮静に至る道をすべて知る人は

   心解脱・智慧解脱に到達し

   苦を終わらせるにふさわしく

   生と老いに至ることはない」

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻542頁1700項




 比丘のみなさん。サマナ(にする物)とは何でしょうか。それは八正道です。つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。これをサマナ(にする物)と言います。

 比丘のみなさん。サマナであることの利益はどのようでしょうか。比丘のみなさん。貪りの終わり、怒りの終わり、愚かさの終わりです。これをサマナの利益と言います。

相応部マハーワーラヴァッガ 19巻30頁102項

 (バラモンにする物とバラモンであることの利益も、サマナの場合と同様に述べられています)。





必要のないことを知ろうと夢中になっていれば無駄死に

 マールンカヤプッタさん。私はあなたに「私の寺で梵行なさい。私はあなたの十の見解(注)を託宣します」と言ったことがなく、そしてあなたも私に「私は世尊の施設で梵行をします。世尊は私の十の見解を解くと託宣しました」と言っていません。それなら誰が誰に梵行を返上すると言う無益の人でしょうか。

 マールンカヤプッタさん。たとえ誰が「世尊が十の問題に解答するまで、私は世尊の施設で梵行をしない」と言っても、私は十の見解の問題を託宣しません。そしてその人は本当に無駄死にします。

 マールンカヤプッタさん。ある男が猛毒を塗った矢で射られ、顧問や親戚一族が腕の良い外科医を呼んで来ると、その男が「私を射た人は武士かバラモンか、それとも商人か賤民か、何という名で、どこの一族で、弓は矢走りの溝のある弓か、それとも中国式か等々を知らない。それを知るまでは矢を抜きたくない」と言うのと同じです。

 マールンカヤプッタさん。その人は知りたがっていることを知ることができずに、本当に死んでしまいます。この例えも同じです。その人が「世尊が十の問題に解答するまで、私はまだ世尊の施設で梵行をしない」と言い、私がその問題に答えなければ、その人は本当に無駄死にします。

 マールンカヤプッタさん。私が託宣しないことは「託宣しない」と、私が託宣することは「託宣する」と、完璧に理解なさい。私が託宣しないのは何でしょうか。それは「世界は不変だ。世界は不変でない等々」を託宣しません。

 マールンカヤプッタさん。私が託宣することは何でしょうか。それは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」という四聖諦。これは私が託宣することです。

 なぜ私は託宣するのでしょうか。これには当然利益があり、梵行の初めであり、苦の倦怠、欲情の弛緩、消滅、抑制、最高の知識、すべてを知ること、そして涅槃になるからです。

中部マッジマバンナーサ 13巻147頁149項


 註:「世界は不変か。世界は不変ではないか。世界に終わりはあるか。世界に終わりはないか。命と体は同じか。命と体は別のものか」などの問題。





ダンマを強く掌握しないで、道具として使え

 比丘のみなさん。遠くへ旅をして大きな川に遭遇し、こちら側は危険がいっぱいで恐ろしく、向こう側は安全ですが、向こう岸へ渡る船や橋がなければ、彼は状況を熟考して見て、「それなら自分で乾いた草、乾いた木、木の枝、そして木の葉を集めて筏を作ろう。そして手と足で努力すれば安全に渡れるに違いない」と考えます。

 その人がそのようにして安全に渡ると、「この筏は私にとって非常に恩恵がある。それなら頭の上に載せて、あるいは肩に担いで持って行こう」と逡巡します。比丘のみなさん。みなさんはどう考えますか。その男はそうすると思いますか。

 「猊下。それはありません」。

 比丘のみなさん。彼はどうするべきでしょう。それなら筏を陸へ引き上げるべきです。あるいは水に浮かべたままにして、望みどおり離れて行くだけです。

 これも同じです。私が説いたダンマは自分を苦から抜き出すためで、筏と同じように執着するためではありません。比丘のみなさん。筏に例えられる私が説いたダンマを聞いたみなさん。すべてのダンマは捨ててしまうべきです。ダンマでないものについては言うまでもありません。

中部ムーラバンナーサ 12巻270頁280項





四聖諦を学ぶ人を種類の違うネズミに譬える

 比丘のみなさん。ネズミには四つのタイプがあります。穴を掘っても棲まないネズミ、穴は掘らないが棲んでいるネズミ、穴を掘らず棲みもしないネズミ、穴を掘って棲んでいるネズミです。

 四種類のネズミに例えられる人物も同じです。

 家を建てて住まない人、

 住んでいても家を建てない人、

 家を建てず住みもしない人、

 家を建てて住んでいる人。

 この四種類は全部世界にいます。

 比丘のみなさん。家を建てても住まない人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。ある人は経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を学習しますが、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知りません。こういうのを「家を建てても住まない」と言います。私は「穴を掘っても済まないネズミに例えられる」と言います。

 比丘のみなさん。住んでも家を建てない人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。ある人は経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を学習しませんが、「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知っています。こういうのを「住んでも家を建てない」と言います。私は「棲んでいても穴を掘らないネズミに例えられる」と言います。

 比丘のみなさん。家を建てず住みもしない人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。ある人は経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を勉強しません。そして「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知りません。こういうのを「家も建てず、住みもしない」と言います。「穴を掘らず、棲みもしないネズミに例えられる」と私は言います。

 比丘のみなさん。家を建てて住む人とはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。ある人は経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を勉強し、そして「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と真実のままに知ります。こういうのを「家を建て、そして住んでいる」と言います。私は「穴を掘って棲んでいるネズミに例えられる」と言います。

 比丘のみなさん。この四つのタイプの人は、四つのタイプのネズミに例えることができ、どれも世界にいます。

増支部チャトゥカニバータ 21巻144頁107項






四聖諦を教えることで他人を援けなさい

 比丘のみなさん。みなさんが誰かを可愛がっていて、その人もみなさんのことを「聞き従うべき人」と見なしているなら、それが友達でも相談役でも、親戚や肉親でも、それらの人たちが真実のままに知る智慧で四つの素晴らしい真実に出会うよう勧めるべきです。

 四つの素晴らしい真実とは何でしょうか。四つとは素晴らしい真実である苦、素晴らしい真実である苦を生じさせる原因、素晴らしい真実である苦の消滅、素晴らしい真実である苦の消滅に至る道です。

 比丘のみなさん。だからこれは「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道」と教えるヨーガカンマ(目的のために本気で厳格にする努力)がなければなりません。

相応部マハーワーラヴァッガ 19巻544頁1706項


 

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