死と生

 

 

(死と生の複雑な意味より)

 

 1969年8月31日

 本当は、死と生は同じで、事実重要性は同じ話、つまり生にあります。死は反対で、生きていないという意味だからです。存在すれば「生」と言い。存在しなければ「死」と言い、この二つの感覚は、ポジティブとネガティブの対である様々な感覚の根源です。人間は言葉を規定して使う智恵や知識があるので、言葉が生まれます。

 

しかし動物には言葉がないので、言葉を規定しないので感覚だけですが、動物の感覚も同じです。つまりポジティブとネガティブ、得ると得ないで、得るは生で、得ないは死です。動物も生と死を感じることができるので、死を恐れます。重要な、根源的な本能があるからです。つまり生存、まだ居続けたいこと、自分であり続けたいことは、前にお話したように、本能の重要なことのすべてです。

 

 「生存し続けたい」ことについて考えるよう、いつでも繰り返させていただきます。これはすべての問題の最高に重要なことです。私はジークムント・フロイトが、「欲情は何よりも大きな問題であり、すべての根源である」と言うのを支持しません。これは庶民の発言で、心理学者でなくても、普通の人でも言えるからです。欲情より深いヒト語は、自分が生在すること、自分が生きていたいことです。

 

欲情は自分が生在したい気持ちの中に隠れています。だから「自分がいる」話は、欲情の話よりも問題で、欲情より威力があります。梵天たちは他の生き物より生きていたがるので、他の生き物より死を恐れるのと同じです。最高の幸福と快適があるので、他の生き物より生きていたがります。

 

 激しい欲情の感覚も俺に関わる感覚には敵わないと、このように比較して見ることもできます。たとえば「俺、俺のもの」が衝撃を受けると欲情は消えてしまい、恥ずかしさが生じている間は、欲情の感覚は消えてしまい、人が見ている時は、その人が恥を感じるので性の営みはできません。動物は恥に感じないのでできます。しかし人間は知識や考えがあり、ああだこうだ、恥ずかしいことだと規定するので、恥が生じれば、欲情の気持ちは消えてしまいます。

 

 「俺」に関わる感覚は、異性の関係より強烈で、たとえば男女の欲情に関しても、一方が侮辱されれば、特に親兄弟を侮辱されれば、愛や欲情は消えてしまいます。たとえば全身全霊最愛の恋人とか何とか言うものでも、親を軽蔑されただけで、愛、あるいは欲情の感覚は消滅し、その途端に、死ぬほど愛したことのある恋人の頬を叩くかもしれません。自尊心、あるいは自分という感覚は欲情の感覚より強烈です。あるいは死の恐怖が生じただけで、欲情の感覚はどこかへ吹っ飛んでしまいます。

 

 

 

 アショーカ王と、王の弟に関したエピソードがあります。弟の名はヴィータショーカとか何とか言いますが、名前は何でも重要ではありません。重要視しないでください。その人が「出家として生活しているお坊さんは、性の気持ちを捨てられるはずがないと」疑惑を抱きました。自分は森の中でシカなどが交尾しているのを見るだけで発情するので、僧たちが発情に関してどう感じているか、「発情することはない」と言うのを、信じようとしなかったからです。

 

 権力者であるアショーカ王は、その王子を懲らしめ監獄に入れました。その時代には、本堂の壁画で見る地獄のような、懲らしめ監獄がありました。もしかしたら本堂の壁の絵は、この話から来ているのかもしれません。一定期間懲らしめ監獄の中に入れて、罰を与えるようなもので、それから連れ戻して、「どうだった。懲らしめ監獄の中では、あるいはそのような苦を受けている間、欲情の感覚はどうだった」と質問しました。それで弟は、「欲情の感覚は生じない。たとえ裸や何やらがいても、残虐な仕打ちを受けているので、死が首を長くして見ているので、欲情は感じない」と、すべて理解しました。

 

 アショーカ王は、「それだ。この宗教の比丘のように死を明らかに見れば、死の意味を見れば、死の害を明らかに見れば、死が首を長くして見ているのと同じだから、比丘が欲情に支配されることなどない。これが、比丘たちが住んでいる森の中で、シカなどが交尾しているのを見ても、発情しない理由だ」と言いました。

 

 ここで、賢い人のタンマの教え方は口で言うだけではない、と考えなければなりません。王は経験をさせたので、経験すれば自分で分かります。私たちは口で教えるだけなので、このように知ることができません。死に脅されれば、欲情の感覚はどこかに飛散してしまいます。死の意味、あるいは汚れたものと感じれば、性の感覚は消えてしまいます。見えている小さなことも、欲情のことを考えるより、身勝手なことを考える方が多いと感じ、不潔、あるいは病原菌がいると感じれば、欲情は消えます。

 

 恐怖とは、死にたくないという意味なので、死は欲情よりも威力があり、問題があります。だから、「私たちが生きているのは、生きたい、あるいは死にたくないという威力によってであり、欲情を望む威力ではない」と、死というものについてもっと知っていただきたいと思います。それ(欲情)は小さなことです。このように死があることをネガティブと見、生きることは反対なのでポジティブと見、ネガティブとポジティブであるうちは、常に問題があります。だから心は、「生」と「死」の意味より高くになければなりません。そうすれば、苦の終わりと呼ぶことができます。そうでなければ、まだ苦の滅亡でなければ、繰り返すだけです。

 

 

 

 人間はネガティブとポジティブ類の感覚が増えて、強くなったので、この二つの言葉の意味について話し、規定しました。動物は感覚しかないので、問題はそれほど多くありません。人間のような言葉の使い手ではないので、普通の自然の話になります。人間は知性がたくさんあるのでたくさん考え、必要以上に考え、考える人になりました。

 

 考えが間違った方になれば、饒舌になり、考えて死んでは生まれ、死んでは生まれても、苦の終わりには出合いません。だから良く注意してください。考えるのが好きな人や思索家は、考え過ぎないように、あるいは終わりがない状態に、終わりがない方向に流れないように、良く注意してください。

 

 私たちは、考えようとしていること、考える素材、そして考え方を知らなければなりません。そうすれば問題の終わり、苦の終わりに向かいます。私たちは今、欲情の威力下にいるので、何を考えたら良いかを知らないから、何もかも欲情の話になります。あるいは考えようにも正しい方法でないので、苦の終わりに導来ません。私たちが考えるのは、ますますそれらの奴隷になるために「取る」「得る」「なる」方向の考えばかりです。

 

 欲情のことを考えれば欲情の威力下に落ち、そして欲情の話を考え、気付かないうちに、益々欲情の奴隷になるばかりです。これでは終わるはずがありません。その結果欲情の奴隷になり、考えの奴隷になります。

 

「考えの奴隷」という言葉は、もしかしたら現代の学生が普通に話す言葉にはないかもしれませんが、タンマ語、宗教の言葉にはたくさんあります。彼らは良く知っていて、それを恐れます。時間を浪費させ、あるいは無駄死にさせることもあるので、考えの奴隷になることを恐れます。だから考えようとするものを正しく選び、そして正しい方法で考えなければなりません。

 

 聞いたことがない人のために、お話してしまいたいと思います。正しく考えるとは、(1)とは何か、(2)何が原因か、(3)旨味、あるいはそれの餌食であること、人間を騙すものの餌食になる味はどうか、(4)それの害は何か、同じものが原因か、(5)それに勝利する方法は何か。つまりその危害から脱す方法、あるいは私たちがそれに勝つ方法は何か、です。復習すると、とは何か、何が原因か、その美味さは何か、その害は何か、そしてそれに勝つ方法は何か、の合計五つです。

 

 第一項は「とは何か」。最初の項目もほとんど知らず、まだこの問題に正しく答えらません。間違った方法で見るので、そして答が見つからない方向に暴走するから、あるいは幾ら答が見つかっても、何の利益もありません。

 

 第二項は、また、「原因は何か」という問題になりました。これは更に大ごとで、さらに真っ暗な密林の中の得体の知れない問題になるので、正しく考えられません。現代の哲学の考え方では、それは何から来ているか、原因は何かを知ることができず、大変なことになって、終わりが無くなります。たった二項でも終点がなく、正しい答がありません。死ぬまで考えても分からないので、現代の思索家、研究家、科学者、哲学者はここで止まっています。とは何か、何が原因かを見つける代わりに、旨味にする観点、つまり第三項を発見します。

 

 第三項の、「それの味は何か」も、美味しさに迷うだけで、終りがなく、第四項の、「その危害は何か」は、精神的なことすぎるので、見つける必要ありません。第五項は、ここまで来ると「それに勝つ方法」について知らないので、全然見つかりません。それの味に溺れてばかりいるので、出合うのは旨味だけ、美味しさだけです。

 

 物質面の研究はこの系統になり、そしてここに停滞するので終わりません。ここに停滞しているのは、終わったようなもので、美味しい味に留まっています。これを、現代風の物質的研究は、このように物質のことだけを好むので、命について、あるいは苦についてのすべての終わりに出合えないと言います。

 

 

 

 次はタンマを知りたいみなさんたちで、出家したのは、タンマを知りたい、タンマを勉強したい、タンマを実践したい、そしてタンマの最高の結果を得たいからです。これは物質の話と一緒にすることはできないので、独自の手法でなければなりません。だから問題、あるいは考えなければならない題材が違い、私は、考えなければならない問題、題材にするべき話は、「死の話」と「生の話」と見ます。

  

 

 しかし同じで、つまり考えなければなりません。あるいは正しい考え方でなければなりません。そうでなければ、これも暴走して終わりのない話になり、終わりのない話には何の利益もありません。

 

 考えること、あるいは熟慮すること、あるいは見ることも、タンマの学習法には、過剰にしない正しい原則がなければなりません。過剰にしないためには、それだけに限定されている意味、あるいはその言葉の正しい意味を知らなければなりません。みなさんが知ることができないのは、普通の人だからで、普通の人間、普通の庶民は、すべての意味を全部知ることができず、知るのは普通の庶民の観点だけなので、考え初めから混乱します。

 

 みなさんは突然考え始めます。こういうのは問題が多いです。知らないこと、考えたこともないことばかりで、そして考えられる人の考えをアレンジし、その考えに従って違うレベルで考えるからです。みなさんは未熟なので何も知らず、阿羅漢はすべてのものを正しく見て、そしてタンマ語で話しておき、智者の言葉で考え、そして正しく見ます。みなさんたち未熟な庶民、凡人は受け売りで考えるので、今ぴったりしません。

 

 私たちは出発点から考え始めないで、考えられる人の途中の段階、あるいは最後の段階を考えるので、意味が違うのでややこしくなります。だから私は、一語一語の意味の複雑さを知ることは、非常に重要だと見ます。特に反対関係にある言葉、つまりネガティブとポジティブの複雑さは、死と生のように、複雑で困難を極めます。

 

 みなさん、タンマの手法、あるいは仏教のタンマの熟慮の仕方は庶民の思考法と違うと、特に良く見てください。最高に発展した世界の庶民の手法で考えるのは、たとえ現代が最高に発展していても、考えるのは「理論で考え出す」と呼ぶような話で、むしろ外部の物質の話を基準にしています。あるいは最高に良くても仮説を立て、つまりどんな問題があるか仮説を立てる哲学です。仮説、あるいは何と呼んでも、「それはどんなものか」という問題を設定するために仮定したことと知ってください。

 

 死や生の問題を考えようにも、彼らは死や生を知らないので仮説を立て、その上で、理論で考える方法で判断します。これが科学、あるいは現代哲学の方法です。仏教、タンマ、精神の言葉では、考える素材に仮説を使わないで、心の中の本当の感覚を考える素材にしなければなりません。

 

 仮説と言うなら言うこともできますが、それは正しくはありません。理論で推測した仮説ではなく、本当に感じていること、感じたこと、ずっと感じていること、心の中で本当に感じている精神的体験と呼ぶものです。理論で推測した仮説 hypothesisとは別ものなので、考える出発点から違っています。

 

 タンマの方の熟慮は、特に精神的体験を、考える素材や導入部にしなければなりません。そうすれば便利で、上手く行きます。それにたくさん人生を経験した人だけです。だからそういう人たちが出家した本来の方針は、世間を通過して世間に厭き厭きして、それで出家します。そういう人ばかりなので、死や生の問題を考えるにも、熟練や、今まで経験してきて心の中に本当にある感覚で考えます。だからその人は本物、本当の感覚の上で考えることができます。

 

 現代の大学生にこの問題を考えさせるには、彼らの考え方に従って、生とは何か、死とは何か、と仮説を立てなければなりません。それは違う手法の違う話で、出る結果はどちらも真実ですが、方向が違う真実です。もしこの二つを繋ぎ合わせれば、問題が生じ、最初は矛盾や、同じ言葉で意味が違うことによる厄介な混乱です。庶民の言葉と智者のタンマ語には違いがあります。

 

 タンマを知っている人でも庶民の言葉を使う問題もあります。ブッダや阿羅漢の方たちは、智者であり解脱者ですが、話をする時、特別な意味を持つ自分たちの言葉がないので、庶民の言葉を使って話します。だから阿羅漢が話す庶民の言葉は、ヒト語とタンマ語の話の時に説明したように、阿羅漢式の別の意味があります。「ヒト語とタンマ語」をもう一度読むこともできます。タンマを知る人、あるいはタンマに到達した人も、人の言葉を使わなければなりませが、話す目的は違います。

 

 

 

 彼らの理解を難しくしている複雑な大原則を掴むために、次にお話する重要な二つの言葉は、死あるいは生です。普通の人は生まれて、だんだん育って、本能である自然の法則で成長し、そして死とか生とかいう感覚が生じます。ネガティブは死で、ポジティブは生で、私たちにはこういう系統の意味しかありません。死ぬ、あるいは存在しない、あるいは存在がなくなると言うと、死の恐怖でびっくりして震え上がります。

 

 これが問題、つまり死の恐怖です。前に二三回詳しくお話したように、問題は「死の恐怖とは何か」「普通の人の意味の死とは何か」です。生とは死なないことです。これは最初の対で、動物とほとんど同じです。人間と動物の最初の対は死と生です。

 

 その後人間は少し移動して、タンマがないこと、道徳がないことになり、生きていても、体はまだ死んでいなくても、道徳がなければ死と同じです。こういうのは、ブッダが「油断は死。油断する人は死人」と言っているように、死という言葉を違う意味に使いました。どんな言葉が生まれたか、考えて見てください。

 

 油断は死。こういうのは人だけで、動物には使えません。動物は、このような深い意味を聞いても分からないからです。しかし「油断をした時は、死ななければならない可能性がある」と言うことはできるかもしれません。動物が油断して不注意になれば、その時は死ぬこともあるという意味なので、死と同じ価値があります。しかし人間は、油断があるだけで死と同じ、死んだのと同じ価値だという狙いがあります。「死んだ」「油断のある人とは、死んでしまった人」という言葉を使い、これは違うレベルの言葉、別の言葉になります。

 

 「死の前に死んでしまう」、あるいは「死んでいるのと同じように生きる」あるいは「死の前の死」あるいは「初めから死が完了している」と要約できる言葉を見極めてください。これは「俺」や「俺のもの」が無くなるまで意味が深くなります。これは阿羅漢の状態で、「俺、俺の」という感覚なしで暮らします。

 

こういう「死は」、極めて特別な言葉で、つまり「俺」がなく、「俺、俺のもの」がありません。自分たちだけの言葉がないので、「死」「俺の死」と、庶民の言葉を使って話さなければなりません。あるいはそれほど深くないもうちょっと良い言い方をすれば、「からっぽ」で、「俺」が空っぽで、「俺」がありません。「俺がない」と言うと庶民は、いつでも必ず「ターイ(死という言葉だが、びっくりした時に言う)」と叫びます。

 

 このように言葉が錯綜しているので、智者と無知な人は話ができません。庶民は、「さっき『死でなく、生にする』と言ったのに、今度は『生でなく、死にする』と言う」と言うほど混乱します。「俺」の生活も容易でなく、生き地獄なので、俺を死なして、俺がない方がいいです。これも混乱します。なぜなら「滅亡してしまいなさい」「涅槃してしまいなさい」「俺を涅槃させてしまいなさい」は「生」という真実があるからです。

 

 高くなると「何もかも死なせてしまうことが生」になりますが、「俺」がいるのではなく、タンマが居ます。永遠に存在できるものの生は、俺の滅亡で、自分を無くしてしまえば、俺が空(から)になれば生です。こういうのは最高のタンマの言葉と見なします。

 

 庶民が元々の知識や感覚で聞いても、正しい意味は掴めません。それに「涅槃」や「俺がない空」の恐怖で寒気がし、梵天たちは「俺を滅亡させてしまいなさい」と聞くと震撼します。タンマを知りたい人、タンマを理解したい人は、これらの言葉の複雑さに関心を持たなければならず、そうしなければ、理解する道はありません。

 

 タンマを理解するために出家したのなら、この問題を、後で、そして正しい方法で考えなければなりません。考えるだけでは十分ではなく、理屈に依存しなくなるまで熟慮しなければなりません。つまり生や死など、何でも本当に、そして智者がこの言葉で言っているすべての種類を見ます。

 

 

 

 幾つかの宗教の分野には枝葉末節と呼ばれる部分もあります。仏教には、その後考えに俺という概念がまったく残らないように「俺」を絶滅させる話があります。しかしそうでない宗教もあります。本当の自分を探すよう教える宗教もあります。このようにポジティブな観点が生じます。

 

 たとえばヒンドゥー教には本当の自分、アートマンがあり、それを見つけなければなりません。聞くと、ますます訳が分からなくなります。その人が「正しい」と言う考えで、アートマンのある宗教を仏教と一緒くたにして書いている人もいます。良く知らない人が読むと誤解して、仏教の誤解や混乱になります。しかし「私は常に存在するに違いない」という本能の感覚と一致するので、楽観的な宗教は有利です

 

 「私たちには必ず俺、俺のものがなければならない」という説明は、人が簡単に受け入れられるので有利です。本当は「死なない」ことを教えています。この俺は死を知らず、死は服を着替えるようなものです。アートマンは死を知りません。体が死んで、焼いて埋葬すれば「死んだ」と言いますが、アートマンは死なず、俺は死にません。俺は別の世、別の世界へ、新しい体を探しに、新しい服を探しに、新しい家を探しに行きます。

 

 アートマンがある話の方が、聞いて分かり易く、俺は死なないで新しい家を探しに行きます。この家は腐ってしまったからです。彼らの考えでは、いつまでもポジティブな状態があり、ずっと生きていて、俺がいるので、本能で「死にたくない。生きていたい」と感じる一般の人の感覚に叶います。

 

生きたい本能について話す時は、他人を見ないで、自分自身を見てください。この自分が死にたくないので、生きるために何でも掻き寄せ、生きるため、良い暮らしをするために稼いでお金を手に入れ、名誉名声を求めます。下層の人は欲情のためです。動物全般は欲情のためで、ヒンドゥーの人たちのような純粋な自分のためではありません。

 

 

 

 仏教は目的に向かうよう、俺の終わりを目指すよう教え、ヴェータナタ教、あるいはヒンドゥー教は、純粋な本当の自分になって、永遠に生きるよう教えます。同じインドで生まれ教えられても、インドの同じ時代に教えられていても、このように違いがあります。

 

仏教が自分を持たないよう教えるのを、彼らはネガティブと見なします。いつでもネガティブな言葉を使うので、悲観的と見なされ、あっちはいつでもポジティブなので、楽観主義とされます。人は通常、誰でも楽観的な頭をしているので、私たちは不利です。生きていたい、欲しい、手に入れたい、出世したい、金持ちになりたい、綺麗になりたい、などは全部ポジティブです。

 

 本当の仏教はネガティブではなく、ポジティブの愚かさや迷いを無くすよう教える宗教ですが、ポジティブな人たちからネガティブと見なされ、そう規定されます。衆生・普通の人は頭がポジティブで、私があり、私のものがあり、何でもあるので、「いらない」と聞いただけで、全部ネガティブと決めつけてしまいます。「こりゃー俺と反対だよ」。これはまだ正しくありません。そして仏教にとって公正ではありません。

 

 仏教は、ポジティブより上、そしてネガティブより上にいたいと願うので、「空(から)」という言葉を使い、どちらもカラです。しかし「空」と言っても、ポジティブな人たちは空をいつでも「ネガティブ」と決めつけます。仏教に反論する人たちは、すぐにネガティブな面を仏教と見なします。ブッダの時代からそうでした。こういう現代の言葉は使いませんが、彼らはこういう形で、「ナッティ(虚無)」、これらのものが何もない形で話しました。

 

仏教に対して、蛇と魚の判別ができないほど中途半端な関心の西洋人たちが、仏教をネガティブと、虚無の部類と見なし、涅槃はネガティブの極致と見なしました。これは間違いで、間違い以上の間違いなので、仏教を知らず、ポジティブとネガティブを越えたい仏教を理解できません。

 

 忘れそうだったら、精神の娯楽館の玄関ロビーの天井に描いてある円(大極円)を思い出してください。

                              

 一つが白で一つは黒で絡み合っていて、回転する力が生じる、あれがポジティブとネガティブです。もう一つの円は中が空で、色も形も何もなく、それが空で、ネガティブとポジティブは空っぽです。これが、「俺、俺のもの」があることより上に行きたいと望む仏教の目的です。「俺、俺のもの」、あるいはネガティブ−ポジティブという概念はありません。ネガティブな俺も、ポジティブな俺もいりません。

 

 このような教えを掴めれば、混乱は減り、仏教を理解できます。結局生も死も、どちらも遣り切れません。それは正反対の対であり、騙すものであり、「俺、俺もの」「俺が居る」「俺が死ぬ」と騙す症状で、こういうのは、「俺、俺のもの」と理解する感覚に任せた何らかの欺瞞の一つです。「生きたくない」「死にたくない」のどちらも、自分を無くしてしまわなければなりません。ヒンドゥーのように永遠に純潔な自分があり、梵天になるのは受容できません。これがヴェータナタと仏教の相違点です。

 

 ヴェータナタは、バラモン教の頂点です。バラモン教は範囲が非常に広く、幾つもの派があり、最高に良い宗派をヴェータナタと言います。このヴェータナタは、純潔で永遠で、神様と一体の自分になって終わります。一人の普通の俺をアートマンと言い、宇宙の俺全体をパラマートマンと言い、人間は一人一人のindividuality アートマンがあるので、それを純潔で清潔にし、パラマートマンと一体になって、純潔な自分が永遠に存在して終わります。

 

 仏教は、俺という概念を残らず切り取り、そして生より上に、死より上に、生在より上にいたいと望みます。しかしもう一度戻って言えば、それも終わりを知らない類の存在であり、永遠です。俺がないことは、永遠に存在し、俺があることは、ほんの短い時間の話です。他の正反対の宗教は、永遠に存在する純潔な俺がいて、永遠に俺で、私たちの側は、永遠に俺はいません。

 

 俺の消滅である個々のものという意味の涅槃なら、こういう涅槃は永遠で、生と呼ぶのも正しくなく、死と呼ぶのも正しくありませんが、何らかの生、あるいは死と呼ばなければなりません。なぜなら人間は存在したいからです。本当は生存でも死でもありませんが、それはあります。私たちが知ることが出来るものはあります。つまり涅槃は涅槃として存在します。生か死、生か死を繰り返す自分ではありません。

 

 仏教はポジティブだと反論することも、あるいは究極のポジティブ、つまり永久の存在と言うこともできます。変化することなく、誰かを苦しめないので、その方がむしろ真実です。俺があれば、すぐに心を苦しめ、俺がなければ誰も苦しめません。ポジティブの意味は、誰も苦しめないという意味であるべきです。だから仏教で「永遠の存在」、永遠の命、そのような何かと言ったら、これ、つまり涅槃を意図してください。

 

 

 自分を持たないでください。それは間違い、間違い以上の間違いです。純潔なタンマがあることは、「俺、俺のもの」の消滅、つまり涅槃が永遠に存在します。しかし庶民は「これは本当の命だ。永遠の命だ。本当の命がここにある」と言います。命という言葉を、庶民は世界以上に、命以上に至高なものに使い、それは永遠に存在するので、この言葉を使う権利があります。命には、存在という意味があるので、精神面でも、それ以上の何でも、それは本当に存在します。

 

 ブッダは当時のインド語の否定法で、「これはある。しかしこれはそれではない。これはあれではない。それはそれではない。人間が知っているどんなものでもない」と長々と言いました。彼らはブッダが言ったように「それは土ではない。水ではない。火ではない。風ではない。居ることではない。行くことではない。来ることではない。」と否定をしなければなりません。全部を否定します。

 

この世界ではない。他の世界ではない。どの世界でもない。つまり人が知っているすべてを否定します。ネガティブな形で全部を否定しますが、それはそれの状態で存在し、それである状態があります。ブッダはすべての苦のわりである「涅槃」と呼ぶものを狙いましたが、普通の言葉で、「これが苦の終わり」と言いました。

 

 これが生と死という言葉の複雑さです。ポジティブとネガティブという言葉を、タイ語では何と言うのか知りませんが、それはこのようになっています。複雑になるのは、あるいはその複雑さは、このようになっています。

 

 要するに、庶民が「死」あるいは「生」と言うのは、すべて「俺、俺のもの」の庶民の言葉だけで、タンマ語には死も生もありません。あるのは状態だけ、一定の状況だけです。そして庶民の「生」という言葉を借りて「生」と言うこともでき、あるいは「死」という言葉を借りて「死」と言うこともできますが、それは「俺、俺のもの」が死ぬこと、初めから死んでいること、あるいは死の前の死です。つまり涅槃はその状態でもあります。死という言葉を借りてそういう状態に使うこともできます。

 

 死という言葉が嫌いな人は、生という言葉を使って「永遠に生きる」と、これでもいいです。だから選べるように二つあります。どっちが好きか、頭次第で、ネガティブな頭は死という言葉を使い、「俺、俺の」が死滅して、空になるまで消滅する、でもいいです。しかしポジティブな頭の人は、「生きるよ、生きる。未来永劫に生きる」でもいいです。

 

 これがすべての感覚に勝つ道で、ポジティブでいたい人のためのものもあり、ネガティブでいたい人のためのものもあります。しかし真実は、すべてはポジティブとネガティブより上にあります。だから私たちの仏教は、自分があり、純潔なアートマンがあるヒンドゥーに呑みこまれません。

 

 だから教育(学習)は、現代人が正しく学んで正しく理解し、使って話す言葉の複雑さに迷わないようにし、東洋の仏教を勉強して蛇も魚も判別できない仏教の理解で、何もかも一緒くたにしてしまう西洋人が書いた本に騙されないことだけが残っています。

 

 みなさんがその種の本を読むなら、良く注意してください。何も理解できないで、最後には頭痛がします。話しているうちに、また西洋人の話になりました。西洋人は今東洋人を賞賛していますが、私は東洋人の立場から、彼らが東洋の宗教に関わってから、何もかもめちゃくちゃになったと見ています。

 

 西洋人たちが書く『 buddhism 』という題の本は、再生とカンマの話をしています。これは完璧な間違いで、ヒンドゥーと仏教をすっかり混同しています。読むなら良く注意してください。しかし私が説明した教えがあり、混乱していなければ騙されません。あるいはうっかり誤解しません。

 


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