6.どうすれば死に見つからないか







 非常に遠方、あるいは最南端、つまりインドの南部に住んでいる人が、ブッダに会って質問をするために、インドの北部まで歩いて旅をしました。一番有名な話は、十六の問題(ソラサパンハー)です。私たちの三蔵には「質問者は、この経の十六の問題を生じさせた」と明記してあります。インドの南部からゴーダヴァリ川の辺りまで行きました。ゴーダヴァリ川がどこにあるか、インドの地図を開いて見てください。彼らは汽車も何もなく、裸足で歩きました。

 質問をするために、インドの北部のゴーサラ国まで歩いて行きました。非常に長い旅で、少なくてもソンクラーからチエンマイくらい、千マイル以上です。あるいはソンクラー-チエンマイ間より遠いかもしれません。高齢のアーチャンは歩いて行けないので、ブッダに質問することを用意して、賢い弟子十六人に代理でとして行かせたほどの距離です。それぞれが質問したので、十六の問題が生まれました。

 ソラサパンハーとは「十六問の問題」で、十六人に十六の問題が生じたので、十六の問題と言います。そして一番有名なのは、モッガラーチャという名の、十六人の中で一番賢い弟子の問題です。ブッダはこの人の態度が聡明なのを見て、わざと束縛し、わざと時間を延ばして、この人が質問したことにすぐに答えず、最後に近づいた頃になって答えられました。

 ここでちょっと言わせていただきます。ブッダの時代の人が厳格に守っていた習慣、あるいは礼儀にしても、何かを質問する時は、初めに質問する機会を貰って、許可を得てから質問しました。だからこれは、ブッダが束縛して質問させないチャンスでした。こういうのは、質問する機会をもらって許可を得てから質問しなければならない紳士の礼儀で、今はこの種の礼儀はあまりなくなってしまいました。

 質問する機会をもらうのは良い礼儀であるだけでなく、良い方法でもあります。つまりきちんと質問します。きちんとするには、最も良い質問を熟慮して選んでから質問するようになります。今の人がべちゃべちゃとキリもなく質問するのと違います。のべつ幕なし質問して、質問に慣れて癖になり、質問したいだけで聞きたい訳ではありません。小さなことも質問し、立ち止まって考えてから質問したことがありません。

 こういう状態は、今私のお寺にもたくさんあります。何かを聞くにはよく考え、そしてきちんと礼儀を守らなければならなかった彼らと比べて見てください。そうすれば、小さな子供が、答えるのが間に合わないほど質問し続けるように質問するより良い結果になります。大人で、その上出家である人はそうするべきではありません。

 ブッダに会いに行った十六人の青年の話は、初めにブッダに機会をもらい、ブッダは適当な順に質問する機会を与え、そしてこの若い智者をほとんど最後まで待たせました。彼はそれから質問しました。そして最も重要で最も有名な質問は、ガーター(詩文)、つまり『スンヤトー ローガン アヴェーガッス モッガラーチャ サター サトー』という詩の形になっています。これがブッダの答で、この答をモッガラーチャガーターと言います。

 彼は「私たちがどうすれば、死は私たちを見つけることができないでしょうか」と質問しました。

 ブッダは「モッガラーチャよ、サティのある人になり、常に世界を空と見なさい。自分という驕りを無くしてしまえば、閻魔の上にいる人になる。世界をこのように見る時、閻魔大王はあなたが見えない」という詩にしました。能動態にすれば「閻魔大王は、世界をそのように見るあなたを見ることはできない」になります。


 私たちはこういう話に興味がないので、深遠な言い回しが出来るほど精通した理解ができません。「どうすれば私たちは死に出合わないか」という質問は、どれほど気の効いた言い回しか、どれほど普通と違う深い表現か考えて見てください。「どうすれば私たちは死に出合わないか」は、最高の言い回しで、それに美しいです。これが気の効いた言い回しの話です。

 次に質問の初めを見ると、なぜ「死に出合わないためにはどうするか」という形で質問しないのかと言えば、彼は死にたくないので、死は大きな脅威であり、私が昨日お話したように、命の問題のすべてだからです。

 普通の人は世俗的な死、普通の死を知っていて、そして恐怖でいっぱいです。恐れないまでも、心の中には複雑な問題、別の種類の恐怖があり、死を恐れなくても、死を妨害と感じます。この種の問題がない、この種の妨害のない心を望めば、死に勝つ方法を探します。つまり北から南まで探すということです。この人はインドの南部に住んでいたので、その時インドの最北のコーサラに滞在していたブッダに質問しに行きました。

 これは、その時代の智慧のある人は死に関した問題の答を求めて、北から南まで旅したという意味です。タイならスガイコーロクからチエンラーイくらいに違いありません。探求したのが「どうしたら死よりも上にいられるか」という話だけなので、アマタダンマ(不死のもの)を探すと言う、このような話が生まれました。

 出家した人のほとんどは、アマタダンマ、つまり不死の意味の最高の物、あるいは死なない物、あるいは死なないようにする方法を「アマタダンマ」と言い、それを探しました。

 発見できれば死ぬ必要がないので、「本気で死なないようにするために、転げ回って、何でもどこでも探し求めるバカ」と言うほどでした。低劣な考えの人たちは愚かな方法で、自分が死なないために生贄を供え、あるいは布施や供養のようなことをしました。

 揃っていろいろして、大々的に動物を殺し、人を生贄にし、牛、水牛、象、馬などの動物何でも、何百も、権力のある人は何百人もの人を殺して生贄にしました。生贄の話は、その話の中にたくさんあります。すべて自分が死なない望みばかりです。そして、それができる大王や本当に権力のある人だけが、教義の主やアーチャンの提言で人を生贄にしました。これも死にたくないことに関した話です。

 しかしブッダのように知性があり、思慮のある教祖、あるいはそういう施設は動物を殺して生贄にせず、哲学というしゃれた物の、タンマの話を使いました。要するに死より上にいるための精神面の話で、レベルが高いです。

 そして教義になり、純粋な自分、永遠に存在する自分の話になります。ある人たちはそう教え、ブッダの側は自分という感覚を無くしてしまえば、死の上に居られると教えました。探求はこのように方向が違いますが、望みは同じで、不死のためです。

 次に「どうしたら死に出合わないか」と質問した人の言い回しと、「それは世界を空と見ること」と答えた人の言い回しを観察して見ると、一行目は「世界を空の物と見る」で、次の行は「アッターヌディティ、自分という感覚を全部抜き取ってしまいなさい」。これで終わりです。

 「世界を空の物と見る」と、「自分という考えを抜いてしまいなさい」は、同じ話です。自分という考えがあれば、自分があれば世界は空ではなく、自分がいます。世界を空の物という角度で見れば、明らかに自分はいないと見えます。

 以上の理由で、いろんなアッタカター(解説書)にハッキリと規定されています。アッタカターでない物のパーリも、パティサンピターマック(無礙解道)のパーリ、三蔵のパーリの中にも、「空」という言葉の説明が「世界が空なのは、自分が空だから。世界が空なのは自分である物が空だから」とはっきりとあります。これは規定です。「空の世界は、自分が空だから」と規定した経です。

 彼らが「世界を空の物と見、アッターディッティ、自分という考えを抜き出してしまいなさい」と要約しているブッダ自身が言われた言葉は、同時にし、そしていつでもそのようなサティを維持します。「いつでも」と説得する言葉まであるので、いつでも世界を空の物と見ます。そうすればアッターディッティを抜き取ることができ、そして死の上にいる人になります。

 「気の効いた言い回しの使用は時間の無駄」、あるいは「饒舌な人の話」と軽蔑しないようお願いしたいと思います。そうではありません。彼らはこの気の効いた言い回しは印象深くする物にし、知識を維持し、何かを維持する物にしたいと思いました。それより良いことは、考えなければならないことです。

 気の効いた言い回しと言われる物は謎なので、考えなければなりません。その言葉を解けなければ、意味が分かりません。だからその謎、あるいは言い回しを解かなければならず、そうすればそれが何か、そして、どのように死の上にいられるのかが分かります。

 「死の上」、あるいは「死に見つからない」、「死から見えない」、あるいは「死に見えなければ閻魔大王にも見えない」。気の効いた言い回しは次第に擬人的になります。

 つまり死を人物のように、私たちのように擬人化して閻魔大王と呼び、私たちを追いかけます。そして私たちには、閻魔大王が私たちを見つけるけることができないようにする学問があります。物質的、身体的、あるいは擬人的な言い回しになりますが、本当は心の話です。




 今死は、いろんな面で私たちの心を妨害する様々な問題であり、「どうすれば死が私たちの心を妨害しないか」というのは、生存したい survival 生き物に関わるすべての問題の頂点です。なぜ生きるのか、つまり死なないのかという問題の答えはこのようです。このような感覚がなければなりません。

 そうすれば「生きている」、あるいは「死なない」という充実した感覚があります。何が存在するかと言えば、タンマ、あるいは何かが存在します。それ自身の感覚で自分と感じる「俺、俺の物」が存在するのではありません。

 それは愚かさ、あるいは気づいていない間違いです。そして一般の人間は感じることはできないので、それを無明と言います。自分が知らないことに気付かないことです。

 自分が知らない愚かさ、つまり無明は「自分がある」「俺がいる」「欲情のためにいる」「すべての愛す物、喜ばせる物のためにいる」と考えさせます。こういうことのために生きれば、死が問題になり、心を妨害します。この種のアッターヌディッティを抜いてしまえれば、俺という感覚・考え・理解を抜いてしまえれば、「死の基礎を抜く」と言います。

 死は基盤がなく、あるいはその後は妨害する「考える工程」がないので、死の問題は無くなり、死に関わる混乱は無くなり、この外皮が崩壊する最後の瞬間まで、快適に過ごせます。外皮とは身体のことで、それは普通に崩壊しなければなりませんが、死と呼びません。

 無知・無明がある人は、身体が死ぬこと、身体の崩壊を死とするので、非常に問題があります。そして前もって毒があります。自分がないと見てしまえば、死はありません。

 もう一つの死に関した気の効いた言い回しでは、「今から俺を死なしてしまいなさい。破壊でも殺害でも、今から俺という感覚、アッターヌディッティを破壊してしまいなさい。今から俺を殺してしまいなさい」です。これはまた別の方向へ飛躍した言い回しです。

 今から無明・俺が殺され、死なされてしまえば、その後死ぬ物は何もないので、命は純潔に存在し、純潔な五蘊があり、外皮が腐って終わるまで幸福に生きられます。煩悩が無くなれば俺はなく、残るのは純粋な外皮、つまり身体と純潔な心だけです。身体が腐らなければならない時まで、いつでも清々しさを感じる暮らしがあり、苦はありません。

 だからその人たちに死の問題はなく、死を嘲笑い、そして前にお話したように、スイッチを切るように死にます。そのように死ねる人は、死の恐怖がなく、死に勝利しているので、阿羅漢になってもならなくても、その人はそのように死に、この外皮の死であるよう努力します。殻、あるいは身体、あるいはまだ残っている心を、電灯のスイッチを切るように簡単に処理します。

 これは人間の最高の話かどうか、利益があるかどうか、興味を持つべきかどうか、考えて見てください。私としては、心が苦にならない、苦になることを知らない、苦しむことがない、死を知らない類の知識や考えのある人間の、最高に興味がある、最高の話と崇拝することを受け入れます。その後は、残りは、世界の人間のために簡単に平和を築くことができます。すべての人がこう望めば、それだけで世界は途端に平和になります。

 今世界には平和がなく、ますます平和が無くなっているのは、世界の人がこれに興味がなく、そして「俺が死ぬ」死を望まないので、益々欲情の奴隷になり、ますます自分があるようにすることしか望みません。だから彼らは、労働者も資本家も死を恐れ、自分が死なないために、勝つために、労働者と資本家は際限なく闘わなければなりません。

 正しい気の効いた言い回しで、新しい形、別の形で死を見ると、「心は途端に止まる。打倒し合う狂気は止まる」、あるいは「話し合える」でも、自分は方向転換をし、静寂を求めるようになります。今彼らは世界中の愛す物、気に入った物すべてを強引に自分の物、自分たちの物にしようと考え、自分たちがすべてを手に入れるために、世界を支配しようと考えます。

 目標がこうなので、死は世界中で最高に大きくなり、問題は更に拡大します。人間の望みで拡大し、人間の「俺、俺の物」という感覚が大きくなればなるだけ、死は大きくなります。だから大きな問題があり、どう表現したら良いがわからないくらい量も増え、世界は平和に出合えません。




 私たちは「世界を空の物と見る」方法で、何としても死に勝たなければなりません。愛すべき物、欲しがる物、なりたがる物と決別し、人間が身体的に生きられるだけのことをし、そして最高に冷静で穏やかな心でいる方が良いです。そうしなければ俺の基盤である身体に貪欲になり、それも同じだけ死の問題を拡大させるので、「終わりがない」と言われる話になります。苦の問題は最後は終わりがない話になります。

 ブッダが説かれている世界の上にいる方法、死の上にいる方法を知ってください。世界を空の物と見て自分という考えを抜いてしまえば、自然にふさわしい自然で生きられます。自然の話は心が爽快です。心が爽快なら身体も快適で、死には意味や重さがなく、問題もありません。大意としてはこのようです。

 仏教の核心は、このように気の効いた言い回しの形で語られています。この言葉の重要点は「空」、つまり何もないこと、スンニャトーという言葉にあります。空という言葉が最も重要であり、テーラワーダでも大乗でも、仏教の核心です。

 今私が話しているのは、テーラワーダ、私たちの宗派で、テーラワーダの三蔵で、大乗ではありません。この文章、あるいは十六の問題と呼ぶ話は、大乗にはあり得ないこともあります。大乗の三蔵を全部調べていなくても、私は敢えて言います。

 この十六の問題は、本当のテーラワーダの物ですが、大乗の人たちは、テーラワーダのパーリ三蔵を、中国語に翻訳する方針なので、もしかしたら彼らは、大乗の三蔵の棚の中に、溜めてあるかも知れません。このようにある私たちテーラワーダの経典のほとんど、あるいはほとんどすべてが中国語にされて、大乗側の三蔵の中に入っていることもあり得ます。

 十六の問題の話も入っていれば、こういう状態です。大乗が生まれた時代に綴られた本当の大乗の物には、この話はありません。これはブッダ在世時の話で、大乗の経典が綴られたのはほとんど千年後(西暦四八七年頃)だからです。

 テーラワーダ仏教、あるいは元々の物と見なされている仏教の重要点は空の話にあります。空は不死のためです。不死とは、サンカーラ(行)、あるいは苦、あるいは世界の滅亡の基盤である意味の涅槃です。大混乱している物は何でも、「サンカーラ(行)」あるいは「世界」と呼び、涅槃に到達すれば、それらの終りです。

 涅槃はサンカーラの消滅、停止、終わりとして自然に存在します。サンカーラとは作られた物で、作るのは、かならず愚かさが作り、本当のように、あのようにこのように非常に複雑に作るので、その結果ずっと苦があります。

 そして空を知ること、自分がないことを知ることである涅槃に、終わりを発見します。心が自分のない知識に行き着くと、心のいろんな問題は終わり、「俺、俺の物」を作り出して、貪りや怒りや惑溺や、さまざまな煩悩になりません。だから空の話は興味深い話なので、私はこれからも、ふさわしい時に話していきます。

 しかし今、それは深い話をするために深く話した気の効いた言い回しと知ってしまってください。最高に素晴らしい物なので、ふさわしい容器に入れなければなりません。最高に価値のあるダイヤモンドなどは、金や銀などでできたふさわしい容器が必要です。

 仏教の要旨である空の話も容器である「私が死の上にいく」、あるいは「死は私を見つけられない」など、最高に深く話す気の効いた言い回しに入れておきます。「私」はいないので、私たちは「自分」を空にできるので、自分はもういないからです。


 「世界を空の物と見なさい」の「世界を見る」という言葉は、現代の一般の人はすぐに「地球を見る」と理解します。(註 :タイ語、あるいはパーリ語で世界と地球は同じ言葉なので)世界を地球 The globe、あるいは別の世界、つまり月の世界、太陽の世界、火星の世界でも何でも、世界を空の物と見ます。彼らはきっと世界を空と見る智慧がないので興味がなく、二千年以上前のバカみたいな人の古臭い話と見るので、興味がないということもあります。

 「この世界」という言葉にはそういう意味、つまり固い地球、固いコンクリートの大地すべてを意味することもあります。しかし結果、あるいは抽象的、精神的なことである反応も意味します。それが世界に生じている様々な問題です。人間のいる世界、人間の様々な問題のある世界、その問題のすべてを世界と呼ぶこともできます。

 そして人間のすべての問題は「苦」という一語に集約できます。「ドゥッカ」とは苦です。だからブッダの言葉に「世界と苦は同じ」とあります。時には苦と言い、時には世界と言いますが、同義語です。

 聖諦の話をする時、「世界も、世界を生じさせる原因も、世界を消滅させることも、世界を滅亡させる道も、私はまだ生きている身丈二メートルほどの身体の中に規定する」と言われることもあります。西洋人はこれをどう理解するか、考えて見てください。

 すべての世界と、その世界を生じさせる原因と、世界の消滅と、世界を絶滅させる方法が、たった二メートルの体の中にあると言うのは、彼らはきっと、ナンセンスな話、バカらしい話と理解するでしょう。世界は何十億メートルもあります。ここでの世界はすべての問題という意味であり、それらは背丈たった二メートルの人に集約され、苦というもう一つの呼び方をします。

 世界を空の物と見るには、地球全体を見なければなりません。この土地も空、人間世界も空、人も動物も空、そしてすべての命のすべての問題も空、そしてすべての問題の頂点である苦も、苦自体も空、空の物と見なければなりません。

 ずっと前にお話したように、最短の方法、精神的柔道(小さな力で大きな物に一瞬にして勝つ技術という意味)を使えば、煩悩や苦を空の物と見ることができるので、途端に問題は無くなり、苦を空の物にできれば、同時に問題は終わります。

 最も良い闘い方である柔道は苦を空にし、煩悩を空にしてしまいます。あと何千生、何万生か知りませんが、それからゆっくり苦が滅すのを望む人のように、苦や煩悩を滅す儀式を、たくさん長々とする必要はありません。

 これはどれほど愚かな話か、考えて見てください。だから世界は苦という言葉に集約することができます。つまり人間も含めて、人間の苦である物は一語だけです。ブッダにはこのような教え、話し方、気の効いた言い回しがありました。

 次にちょっと面白い話があるので、お話します。前にも話したことがある中国の昔話ですが、まだ聞いたことがない人もいるかもしれません。一人の権力のある皇帝が、国中の学識者や思想家を宮殿に集めて、正しく完璧な人間の歴史を書くよう命じました。

 何百人もの哲学者が集まって何年も会議をしたので、皇帝は「もう終わったか」と尋ねました。まだ終わらないので先に延ばして、「もう終わったか」。まだ終わらずにまた何年も、何年か知りません。そして最後に提出したのは、「人は生まれ、苦しみ、死ぬ」でした。これが人間の永遠の歴史です。これは本当の哲学者と呼ぶことができます。現代人が学んでいる歴史のように、小さなことを一切合財、何千何万ページも書きません。

 みなさんが一抱えもの歴史書を読んでも、書棚全部を読んでも、「人は世界に生まれて、そして死ぬまで苦しむだけ」という要旨を掴むことはできません。どんな種類の歴史を読んでも、石器時代から現代まで、これしかありません。これが人間の精神面の歴史です。

 歴史をこのように知ることが、世界をすぐに平和にする一助になります。今勉強しているように歴史を学べば、頭から溢れる知識で危機を脱すことはできないので、何の利益もありません。この世界を平和にする機会はありません。

 今世界中の大学で教えている歴史は、苦を終わらせないようにし、平和にしません。そして愚かにも「哲学や歴史を学べば世界を平和にする博士になる」と言います。これは最高にバカな話だと思います。この形で哲学や歴史を知っても、道から外れるばかりで、絶対に平和には出合えません。敢えてこう言うことができます。

 中国のこの哲学者集団の歴史を学んでみて、そして「世界は苦、苦は世界」とブッダが言われた一言に集約すれば、問題は終わります。話は終わり、この世界を平和にすることができます。




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